判決の申渡は、刑事事件の場合には「落着(らくちゃく)」と言いました。
よく、時代劇で、遠山の金さんが「これにて一件落着」と言いますね。その「落着」です。
この「落着」がどこで行われたかが今日の話題です。
「遠山の金さん」では、金さんが「市中引き回しの上、磔獄門」、そして「これにて一件落着」と言って物語が終わりとなります。
このため、判決の申渡し(落着)は、奉行所で町奉行がやっているように思われがちです。
しかし、江戸時代の判決の申渡しは、二つに区分されていました。
つまり、奉行が、御白州に出座して、判決を申渡す場合と、奉行の命令を受けた与力が牢屋敷内で判決を申渡す場合です。
奉行が、直接、判決を申渡す場合は、遠島以下の刑の場合でした。
そして、死刑の場合、つまり、下手人、死罪、獄門、磔、鋸挽、火罪の場合には、町奉行所の与力が牢屋敷に出向いて牢屋敷の中の改番所という所で判決を申渡していました。
つまり、「遠山の金さん」のようにお奉行様が「市中引廻の上、磔・獄門」というような判決の申渡しはなかったということになります。
なお、昨日書いたように磔と獄門は、異なる刑罰ですので、磔と獄門が同時に科せられるということはありませんでした。
次いで、「市中引廻」についても書いておきます。
引廻とは、罪人を馬に乗せて、人目に触れやすい場所を、引廻すことです。
江戸時代の刑罰に対する基本的な考え方に「見懲(こ)らし」という考え方があります。
「見懲らし」というのは、「見て懲らしめる」ということで、罪の犯した場合にはこのように罰せられるということを人々に見せて、罪を犯さないようにさせることをいいます。
獄門や磔と同じように、引廻も「見懲らし」の要素をもったものです。
引廻は、下の絵のように裸馬の上に菰(こも)を一枚乗せて、その上に罪人を乗せました。
そして、与力2騎は馬に乗り同心が徒歩で従い、非人20人程が付き添って行列を組みました。
引廻は、「町中引廻」と「五か所引廻」とがありました。
「町中引廻」は、日本橋を中心とした江戸の繁華街を引廻すもので、「五か所引廻」は芝や赤坂まで引廻すもので、江戸市中を大きく引廻しました。
「御定書百箇條と刑罰手続」によると、「町中引廻」は、小伝馬町の牢屋敷の裏門をでて、本石町、室町、日本橋、四日市広小路、江戸橋、荒和布橋、小舟町、大伝馬町を経て、牢屋敷裏門にまで戻ってくるコースを引廻しました。
そして、江戸で犯罪を犯した者は、上記のコースを基本にした上で犯罪地と居所も引廻すことがあったようです。
五箇所引廻は、牢屋敷から鈴ヶ森・小塚原の刑場まで送られる際に、罪人の名前・居所・年齢・罪を書いた捨札を 、日本橋、両国橋、 筋違橋 、四谷御門、赤坂御門に立てつつ、引廻されました。