午前中は曇り空でしたが、散歩を始める頃には、すっかり雲も取れて春の日差しが照りつけてきて暑いくらいでした。 この講座も2回目なので、お互いの顔もわかり、初回に比べて、和気あいあいの雰囲気のなかで散歩することができました。
散歩にご参加いただいた皆さんお疲れ様でした。
楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。
昨日のコースは、 駅でいえば、東京メトロの秋葉原駅から小伝馬町駅までの一区間ですので、歩いても15分で歩けるところを4時間かけて史跡をじっくり観ながら散歩しました。
主な所を、スナップ写真とともにご紹介します。
最初にご案内したのは、柳原土手跡です。
柳原土手は、神田川を掘削した際に、堀った土は盛りあげられ、土手とし、その土手に柳の木が植えられたことから、柳原土手(やなぎはらどて)と言われました。
この土手の下には、古着屋が立ち並び、江戸の古着屋の町として大変有名でした。
そして、その伝統は、昭和まで続き、この辺りは、「既製服問屋街発祥の地」とされてています。
右写真は「既製服問屋街発祥の地」についての千代田区教育員会の説明板を読む参加者の皆さんです。
玄武館跡は、現在、千代田区が区営住宅を建設中のため、右写真の工事現場の搬入路となっている場所に設置されてあった石碑が撤去されてしまっています。
そして、工事終了後に再度設置する旨の説明書きがされています。
千葉周作が開いた北辰一刀流の玄武館ですので、石碑はなくても話すことは一杯ありましたが、馬庭念流のとの抗争事件を中心にお話させていただきました。
お玉が池というのは、千葉周作の玄武館があるところとして、大変名前がしれています。 昔は、不忍池よりも大きかったそうですが、現在は、池は姿を消しています。
お玉が池の唯一の名残りが、「繁栄お玉稲荷」です。
お玉が池というのは、池の近くに住んでいた娘さんの故事に由来する名前です。
池がまったくなくなっていることに、参加者の皆さん驚いていました。
お玉が池には、幕末に、「お玉が池種痘所」が開設されました。
これは、天然痘の予防および治療を行う医療施設ですが、江戸の蘭方医82名がお金を拠出して設立したものです。
お玉が池種痘所がお玉が池にあったのは、わずか半年ですが、このお玉が池種痘所は東大医学部の源流となっています。
そのため、昭和36年に「お玉が池種痘所記念碑」が東大医学部によって建設されています。
右写真中央にある記念碑を参加者の皆さんが熱心に見ています。
また、お玉が池種痘所は、手塚治虫の「陽だまりの樹」にも出てきます。 手塚治虫の高祖父の手塚良仙が、種痘所の建設に多大な尽力をしたからです。
「お玉が池種痘所跡」の石碑が「陽だまりの樹」の中に出てくることを説明したら、参加者の皆さんは大変驚いていました。
写真左手が「お玉が池種痘所跡」を示す石碑と説明板です。
今日のメインイベントは、小伝馬町牢屋敷のご案内でした。
その模型を観ながら丁寧に説明しましたが、長時間にもかかわらず、参加者の皆さんは熱心にきいていただけました。
そして、ご質問も一杯いただきました。
小伝馬町牢屋敷があった十思公園には、「吉田松陰先生終焉の地」と刻まれた石碑があり、吉田松陰の辞世の次の歌も刻まれています。 「身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」
この歌は松陰の遺書といわれる「留魂録」の冒頭に書かれている和歌ですので、「留魂録」が現在にまで残された経緯についてお話させていただきました。
この後、宝田恵比寿神社(右写真最上段)と「馬込勘解由屋敷跡」をご案内して史跡散歩を終了しましたが、散歩終了の後は、恒例の懇親会です。
昨日は、気温が高かったせいもあり、喉が渇いたらしく、お酒の飲みっぷりが一段とよかったように思います。
楽しくワイワイ騒いで2時間30分があっというまに過ぎました。
そこで、いつもの記念撮影です。
懇親会が終わった後、飲み足りない人たちに誘われて二次会まで行きました。
二次会も、一次会同様の大変な盛り上がりでした。
最後におまけのハプニングです。
三州赤坂に赴任する予定の浜之悪代官様が、今回も最後まで特別にご参加いただきました。
そして、東京メトロに乗る段になって、携帯電話が見当たらないと言い出しました。
そのため、加州そうせい公様が、電車に一本乗り遅れてしまいました。
そして、「これでは、金沢まで帰れない」と大変なご立腹でした
しかし、間もなく、見つからないと大騒ぎした携帯電話も無事見つかって、浜之悪代官様が加州そうせい公様に謝ってまるく収まりました。
こんなハプニングも笑いとばして、今日もみんな笑顔で解散でした。
最後までおつきあいいただいた皆さんお疲れ様でした。