梅田雲浜が逮捕されたのは、安政5年(1858)9月7日です。
そして、吉田松陰に、野山獄への投獄の命令が下ったのが12月5日、実際の野山獄に入獄したのが12月25日ですので、今回は、3月程度の間の展開です。
安政の大獄の直接のきっかけは、「戊午(ぼご)の密勅」です。
「戊午(ぼご)の密勅」というのは、安政5年8月8日付けで水戸藩に下された勅諚(ちょくじょう)のことです。
戊午というのは安政5年の干支が戊午((つちのえうま、ぼご)であり、通常であれば勅諚というのは幕府に下さされるものですが、前例を破って朝廷から水戸藩に内密に伝えられたので「戊午の密勅」といわれます。
この異例の勅諚は、条約調印をめぐる幕府の対処の仕方を批判し、攘夷の推進を促しています。そして諸藩へ伝達せよという添書が付されていました
この勅諚は、10日に、幕府にも通知され、勅諚の内容および通知の仕方が異常であることについて怒った大老井伊直弼は、戊午の密勅を推進した人々たちの弾圧を決意することになりました。
安政の大獄の狙いは、主に戊午の密勅に関与した人々および一橋慶喜の擁立を計った人々でした。
「花燃ゆ」では、梅田雲浜の逮捕の時に、久坂玄瑞は同席していたように描かれていましたが、久坂玄瑞は直前まで京都に滞在していましたが、安政の大獄が始まる前には京都を去って江戸に戻っていたようです。
右写真は、台東区松が谷の寺町の一画にある海禅寺にある梅田雲浜のお墓です。
この弾圧の陣頭指揮を執るために、江戸から京都に送られてきたのが老中の間部詮勝でした。
10月の末に、尾張、水戸、越前、薩摩の四藩が、井伊大老の襲撃を企てているという情報を得た松陰は、老中間部詮勝の襲撃を計画します。
なぜ、井伊大老でなく間部詮勝なのか少し疑問に思う点ですが、これについて触れた本は、私がみる限りはありません。
昨日の「花燃ゆ」でも、吉田松陰はいきなり老中の間部詮勝を撃つと言っていましたね。
そして、松陰は、塾生の中から同志を募ります、
海原徹氏の「吉田松陰」では17名の同志を得たとなっています。
そして、「花燃ゆ」では、同志が血判を押した建白書を周布政之助に提出したとなっています。
実は、松陰は、「花燃ゆ」で描かれていた建白書以上の物騒なお願い書を藩政府に提出しています。
松陰がお願いしたのは、銃砲と弾薬の借用願いです。これで、間部詮勝を襲撃しようというのです。
この借用願いを受取った藩首脳は大いに驚きました。
この願いに応じるということは、長州藩として幕府要人を襲撃するということであり、幕府に弓を引くことになります。
当時の藩政府には、討幕などという考えは全くありません。
そのため、当然、こうした松陰の願いなど聞きませんし、逆に、長州藩にとって害をなす人物と考えるようになります。
吉田松陰に対して、前々から好意的に対応し、様々な局面で松陰を擁護してしいた周布政之助でさえ、ここまできたら、野山獄に投獄するしかないと判断しました。
「花燃ゆ」では、小田村伊之助が進言したとなっていましたね。
この松陰の野山獄投獄は、長州藩を守るとともに、松陰自身を守るという側面ももちろんありました。
こうして、吉田松陰は、再び、野山獄に入獄することとなります。