今日も小塚原回向院の続きです。
吉田松陰のお墓をご案内しましましたが、松陰の墓の前に、桜田門外の変で亡くなった人たちのお墓がありますので、ご案内します。
桜田門外の変で、井伊大老を襲撃した実行犯は18人いました。
明治まで生き残った人は2人(増子金八と海後磋磯之介)で、それ以外の人は、当日斬り込された人(1人)、自害した人(5人)、そして、自首した後死亡した人(3人)のほか、、自首したり逮捕された人7人が斬首されています。
こうした人たちのお墓が回向院にあります。
その中の主な人のお墓を紹介しておきます。
右下写真の右が現場の指揮者であった関鉄之助のお墓で、その隣が井伊大老を殺害した有村次左衛門のお墓です。
関鉄之助
関鉄之助は桜田門外の変での実行部隊の指揮者で、桜田門外の変の後、近畿・四国・中国さらには九州まで各地を逃げ回りましたが、安住の地はなく、水戸藩に戻り袋田にかくまわれていました。
しかし、そこにも危険が迫ったため越後へと逃れていきましたが、最終的に福島県との県境近くの湯沢温泉(現在の岩船郡関川村)で捕らえられ水戸に送られます。
その後、さらに江戸に送られ、文久2年(1862)5月11日に小伝馬町牢屋敷で斬首されました。
有村次左衛門
その隣が、井伊大老の首を上げた有村次左衛門のお墓です。
有村次左衛門は、井伊大老の首を落としたあと、首をもち、日比谷方面に逃げようとした際に、彦根藩士に背中から斬り付けられて重傷を負いました。
現在のパレスホテルの東側まできましたが、もうだめだと観念して自害しました。
金子孫二郎
右写真の左が金子孫二郎のお墓です。
金子孫二郎は、水戸藩の郡奉行を務めました。
桜田門外の変の首謀者です。
井伊大老の襲撃には加わりませんでした。
しかし、井伊大老の襲撃が成功したという連絡を受けて、薩摩藩士の有村雄助(有村次左衛門の兄)とともに京へ上る途中、伊勢四日市にて捕縛され、江戸に送られ斬首されました。