そこで、時間を追って、概略を振り返ってみたいと思います。
まず、正月5日には、江戸の高杉晋作は、吉田松陰の遺骨を世田谷若林に改葬する場面がでてきていました。
一昨日、松陰神社の松陰のお墓をお参りしたので、「花燃ゆ」の展開と絶好のタイミングとなりました。 一昨日の散歩でも話題となりましたが、松陰神社と豪徳寺はあまりにも至近距離にあり、距離が離れていない場所に、吉田松陰と井伊直弼が眠っていることに驚く人が多いのです。
この埋葬地を決めたのは高杉晋作だろうと思われますが、はっきりと誰でどのような理由で決めたのか書いた物は私が調べた限りではありませんでした。
この改葬の途中で、上野寛永寺前の忍川に架かっていた三つの橋の中央を押し渡ったというエピソードは大変有名ですが、「花燃ゆ」で冒頭の場面で描かれていました。
三つある橋の中央の橋は、将軍が寛永寺にお参りする際にだけ渡れる橋ですので、その橋を渡るということは、重大なことでした。
ですから、高杉晋作はあえてその暴挙を行ったのでしょうが、幕府がそれを問題にした形跡はないようです。
しかし、長州藩内では、「高杉を江戸に置いておいては何をするかわからん」ということになり、京都に呼び寄せることになり、高杉晋作は、京都に上ります。
ちょうど同じ頃の3月4日、14代将軍家茂が上洛しました。
そして3月11日に、上賀茂神社と下鴨神社へ孝明天皇が行幸し、攘夷祈願を行い、そのお供を家茂にさせました。
この賀茂行幸を画策したのが、久坂玄瑞を中心とした長州藩でした。
この行幸に家茂にお供をさせるということは、天皇の方が将軍よりもえらいのだということを人々に知らせることになります。
また、将軍の移動は駕籠によるのが通常ですから、騎馬姿でお供するというのも異例です。
この行列の最中に、高杉晋作が「いよう、征夷大将軍」と声をかけました。
この行動によって長州藩が進める攘夷実行策に悪い影響があると考えた周布政之助、桂小五郎、久坂玄瑞たちは、高杉晋作を詰問したのです。
その後、突然、高杉晋作が出家して、3月26日に京都を発って萩へ向かいました。
出家の理由はなぜかということはよくはわかっていないようです。
そうして、高杉晋作が出家している中でも、攘夷実行の動きは急速に進み、長州藩では、下関での外国船砲撃の準備を進めます。
4月15日久坂玄瑞は帰国を命じられ、萩から政庁の移っていた山口に行った後、4月26日下関に向かいました。
久坂玄瑞らは、光明寺を屯営として「光明寺党」を名乗ります。
攘夷期限の5月10日、関門海峡にアメリカ商船のベングローブという船がやってきます。
これに、長州藩は砲撃を加えることになります。
もちろん、その中心となったのは久坂玄瑞です。
文久3年から翌年の元治元年まで、下関戦争、8月18日の政変、池田事件、禁門の変、第1次長州征伐と、長州藩を中心に政局が目まぐるしく変わります。 こんな激動の時代を女性の文の立場からどう描けるか脚本家の力量が問われることになりそうです。
先日の世田谷散歩の際にも視聴率も低いそうですねという話もありましたので、これから「花燃ゆ」に是非頑張って欲しいですね。
そういえば、東急世田谷線には「花燃ゆ」電車も走っていました。