昨日は、「東都歳事記」に書かれた「山王祭」についてアップしました。
今日は「近世風俗志(守貞謾稿)」から「山王祭」について書いてある部分を書き上げますが、こちらは、東都歳事記よりボリュームがありますので、書き上げだけでも大変でした。
本当は、コメントを書きたいのですが、書き上げだけでご容赦ください。
六月十五日 江戸山王社祭礼 神幸あり
けだし寛永十一年、祭祀の礼備はり、始めて大祭礼となる(当社と神田明神と隔年祭礼なり)
天保府命前は、年々大行となり、出しと名付くる楽車のほかに踊り屋台および地走りと号(なづ)くる物を出すこと、四年に一回なりしが、府命ありて、両社とも氏地の中、三所づつこれを出すことになりたれば、以後は、およそ三十余年に一回、踊りやたい・じばしりを出すこととなる。この三所を年番と云ふなり。年を順に輪番するが故なり。
当社氏地の出しという楽車は、五十七輌あり。これは、隔年、祭礼ごとにこれを出すなり。
天保前は、町費にて出す。ほかに店祭りと云ひて、巨戸よりは一戸の費用にて、踊り屋体あるひは地走り、花駕(籠)と云うを出すことありしなり。
踊り屋台と云うは、九月神田祭礼の条に云へるごとく、破風屋根、あるひは雨障子屋根に四柱、廻りに欄あり。四面に篗(わく)を組み、肩舁(かたかき)なり、正面に踊り子と云ひて、女子を芝居の扮に仕立て、腰を掛け、上覧場その他、しかるべき所にて狂言す。
囃子は、別に底ぬけ屋躰と云ひて、四柱に屋根は造り花などにて、これは手舁(てかき)なり、その中に浄瑠璃かたり・唄うたひ・三絃・鼓、皆対の衣服にて歩行なり。
地走りと云うは、屋台なし。歩行にて、踊り子は赤紋付の傘を差しかけ往く。常の長柄傘よりは小形なり。囃子は同前、底抜けやたいなり。
踊り屋躰・地走りともに、踊り子は芸者を専(もっぱ)らとし、稀には商家等の処女も出る。囃子方は常に生業にする者なり。囃子方・芸者ともに雇いなり。
花駕籠と云うは、造り花をもって駕のやねをふき、蒲団・毛せん等に美を尽くし、男童にても女児にても、美粧して乗するなり。天保後はこの物なし。
年番に当る町人は、盛夏なれども、袷(あわせ)の美服を五枚重ね着す。年番にあらざる所の警固人も、あるひは袷を重ね、または夏服のままの者もあり。年番にあらざる町は、多く家主役のみ出る。年番の所は、毎家出る。あるいは袴を付け、あるひはまた着流しもあり。その他雇夫に至るまで、皆新調の服にて、古服を用いることいささかもこれなし。麹町は古服にても出る。
手棍(てこ)と云いて、その所の鳶人足大勢、これも対の浴衣にて、出しの前に木遣を唄い往く。諸稽固人以下、手棍前・雇夫に至るまで、また必ず造り花付けたる笠をかむるなり。
天保前は御用祭と云いて、氏地にあらざる所に、府命ありて、屋躰および地走りなど出すことありしが、これも天保後はこれなし。
当社、神田ともに、氏地の中、四、五町あるいは七、八町に出し車一輌とす。その四、五町あるひは六、七町、費を合せ、毎祭、出しを出し、また年番もこれを勤むるなり。
大伝馬町は鶏に羯鼓(かっこ)、南伝馬町は猿が烏帽子・狩衣姿なり。これを俗に申酉と云いて、すなわち一番、二番なり。この二輌は、毎年、両社祭祀に出し、この二車を首(はじめ)とし、氏地の三番以下を渡すことなり。
江戸は祭祀前日・当日とも、毎戸丸提灯を掛くる。棗(なつめ)形稀なり。
山王、神田、その他牛頭天王、神幸並に獅子頭一対、行列の第一に行く。木綿染にて躰に形どる物は、帖(たたみ)て頭の下にしき、一鳶夫これを肩にし二人並び、衆鳶夫とともに、木遣の唱歌を唄い、叫び行く。獅子頭の形は、太神楽の条にあり。合せ見るべし。 山王の獅子頭は家光公の反古(ほご)にて製する所と云い伝え、観者は惣下坐なり。
ここに図する(右の挿絵のことです)を武蔵野の出しと云い、月に芒(すすき)の造り物なり。上段の岩形、および三重の浪形、および四方に垂れたる浪も、ともに紙張りに胡粉をぬり、墨と藍にて画き、二重の幕は茜染、その他とも木綿製なり。日覆いも木綿なり。四面に垂るる浪形、今三、四を画くは略なり。実は十余もあるべし。
先年はこの形多かりしが、近年やうやくに、左図(右の挿絵です)のごとく上に人形を建て、幕その他ともに美製の物多く、この形少数になりたり。
上の木偶種々あり。柱および欄干等、唐木あるいは黒塗、幕は羅紗・猩々緋の無地、あるひは繍(ぬい)あるもあり、または唐織を用ふもあり。この形の出しは、一輪分新調の価金およそ四、五百両なり。
車は、芝の牛町より雇ふ。轅内に一牛、轅前に綱を付け、一牛一輪、ニ牛をもってこれを牽くなり。ニ牛の雇銭、十四、五両日にて金一両。
書き上げるだけで疲れました。
でも、書き上げるだけでは理解は進みません。また熟読します。
江戸検を受ける方もできればよく読んでください。