昨日は、東都歳事記の7月15日には、「お盆」についてはあまり書かれていないことを書きました。
そこで、守貞謾稿を見てみると『守貞謾稿』には「お盆」について次のように書いてありました。
七月十五日を中元日と云う。
今日盂蘭盆会を設く故に或は上略して盆と云ふ。
盂蘭盆の始は斉明天皇三年、始めて盂蘭盆会を設く。
『公事根源(書物の名前)』に云う。天平五年七月初て盂蘭盆を大膳職に備ふとあり。
盂蘭盆と云うは、梵語なり。以下略
守貞謾稿には、盆は「盂蘭盆」の略、梵語に由来し、日本での始まりは天平五年であると書いてあります。
そして、盆棚の祭り方についても次のように書いています。
今世江戸にては大略仏壇中に祭るを略とし、専ら下図の如き棚を造り、四隅に青竹を立て、菰縄を張り、下には真菰筵を敷き、棚の周りには、青杉葉にて造りたる籬(まがき)と云うをもって、欄(てすり)のごとくにす。この棚上に、常には仏壇に置る位牌を取出し祭る。
私が知っている限りでは、仏壇とは別に精霊棚を設ける家が多いように思いましたが、
仏壇の中に祭るのが略とかいてありますから、江戸時代には、仏壇に祭ることも行われていたのでしょう。
菊池貴一郎の「絵本江戸風俗往来」には
133日に魂棚をしつらえ、自家の先祖代々より有縁無縁の亡魂を祭り、出来秋の野菜果物の初物を供え、また、菩提寺より僧来りて看経を勤む。これを棚経という。棚経僧の出づる寺は小刹のみにして、大寺院よりは棚経に出づることなし。この魂棚のある中は、魚鳥の肉を食せず。勿論双親存在せる子等は精進に及ばず、俗に「盆知らず」といいたり。市中すべて魚鳥の肉を商うもの盆中は休業に同じ。16日より商いを始む。
お盆のことを調べていて、祖先をお祭りするのは、現在では、お盆となっていますが、祖先を祭るのは、別に盆に限ったものではなかったということを知りました。
守貞謾稿には、次のように書かれています。
『世事談(書物の名前)』に曰く、精霊(しょうりょう)を祭る事、昔は十二月晦日にも祭れり。
『徒然草』に、こと年の名残も心細けれ。亡き人の来る夜とて玉祭る業は此頃都にはなきを、吾嬬(東)の方には、なおすることにてありしこそ、云々。
守貞云う。今は東の方にも十二月の魄祭(たままつり)は行れず、いづれの頃廃せしか古きことなるべし。
守貞謾稿によれば、昔は、大晦日にも祖先を祭ったといいます。
しかし、『徒然草』には、都ではすたれてしまい、東国には残っていると書いてあるようです。
それも、守貞謾稿が書かれた江戸時代後期には、大晦日に祖先を祭る習俗は廃れてしまったようです。