今日は、岐阜県養老町にある「大巻薩摩工事役館跡」をご案内します。
この「大巻薩摩工事役館跡」は、宝暦治水工事の総司令部ともいうべき本小屋があった場所です。
江戸時代は大牧村と呼ばれ、「孤愁の岸」でも「大牧村の本小屋」と書かれていますが、明治8年町村合併により大巻村となったため、現在は、「大巻薩摩工事役館跡」と、呼び方が統一されているそうです。
「大巻薩摩工事役館跡」は、住宅が散在するのどかな田園地帯の一画にありました。
養老町のHPには地番がないので探すのに苦労すると思いましたが、カーナビを見ながら行きましたら、運よく、迷わず到着しました。
「大巻薩摩工事役館跡」には、平田靭負の銅像と「薩摩工事役館趾平田靱負翁終焉地」と刻まれた石碑が立っています。
養老町における薩摩義士顕彰は、大正元年頃から活発となり、大正14年に薩摩義士顕彰会が組織され、「大巻薩摩工事役館跡」に昭和3年に記念碑が建立されたそうです。 平田靭負の銅像は、平成元年に養老ライオンズにより建立されたものだそうです。
平田靭負は、宝暦4年に着任し、翌年の5月に工事が完了するまで、ここで総指揮をとりました。
宝暦5年(1755年)5月22 日までには、幕府の検分も無事終わり、最後まで本小屋に残り、残務整理をしていた藩士たちも、それぞれ、江戸や鹿児島に帰ることとなり、副奉行の伊集院十蔵らの江戸に帰る藩士たちは5月25日に、平田靭負たち鹿児島に帰る藩士たちは5月26日に美濃を発つこととなりました。
24日夜には、ささやかな宴が開かれ、その後、平田靭負は、江戸と鹿児島にいる家老たちへの報告書を書き上げます。
こうして、治水工事のすべてが完了し江戸に帰る藩士たちの出発日であった5月25日早朝、ただならぬ叫び声が役館にひびきわたります。
平田靭負が本小屋において自刃し果てたのでした。
「孤愁の岸」には自刃の時の様子が次のように書かれています。
(以下は「孤愁の岸」からの抜書きですが、*部分は私の注意書きです)
足軽が開けかけたものであろう。控えの間の障子が一枚だけ引かれてい、血汐の中に佐田恒弥(*平田靭負の付人)が倒れていた。胸もとをみずからの手で貫き、左脇きを下にし両膝をちぢめた恰好で少年は息絶えている・・・
水屋の棚の上に家扶(*平田家の用人のこと)宮増外記へ宛てた一通が乗せられていたが、それには、「自分はどうする力もなかった。国許出立の時、すでにひそかに『生きて帰る気はない。お前を連れてゆくのは首を拾わせる為だ』と打ち明けられたご主人なのである。冥途までお供するつもりで、自分も実は美濃まで来た。奥様や宮増どのにはお詫びのしようもないが、なにとぞ許していただきたい」
・・・およそ、このような意味の言葉、しっかりした筆つきで綴ってあった。
平田は八畳の居間の床前に、うつぶしたままこと切れていた。麻裃の両肩を刎ね、右手に短刀、左手は面上を支えるように地海の下に敷かれている・・・・。深く腹を裂き、返す刀で頸の動脈を断ったみごとな最期だった。
遺書は無く、床の間に香炉と並んでひとすじ
住みなれし 里も今さら 名残りにて
立ちぞわづらふ 美濃の大牧
しろじろと短冊が残されていたに過ぎない。
「御家老ッ」
左右から平田の屍へ、伊集院(*副奉行)と愛甲(*目付)は取り縋った。男泣きに彼らは泣いた。遺詠の文字は淡々とさりげなく、その故にいっそう読む者の感情をゆすぶり乱した。
長い引用になりましたが、杉本苑子さんの筆力で臨場感あふれる描き方となっていて、私は大変感動しましたので、つい引用させていただきました。お許しください。
「大巻薩摩工事役館跡」に立つ記念碑の脇には、平田靭負の辞世の句も残されています。
また、平田靭負の銅像は、右上の写真でお分かりになると思いますが、正面を向かず、斜めを向いています。
私の推測ですが、正面は東です。平田靭負が向いている方向は南南東です。この方向には、治水工事で最大の難所であった千本松原がありますので、平田靭負は千本松原の方向を向いているのだろうと思います。
下の地図で赤印が「大巻薩摩工事役館跡」です。紫印が千本松原です。
「大巻薩摩工事役館跡」からみてほぼ南南東にあるのがわかると思います。