今日は、明暦の大火の出火原因について書いてみたいと思います。
明暦の大火は、江戸最大の火事であったことから、その出火原因については諸説があります。今日の記事は長いのですが、ちょっとおつきあいください。
1、振袖供養から出火説
出火原因が諸説ある中で、最も広く信じられているのが本妙寺の振袖供養の火から出火したという話です。
これが広く信じられていたということは、明暦の大火は、俗に「振袖火事」とも呼ばれていることでわかります。
それでは、振袖供養とはどういうお話だったについて、矢田挿雲が中公文庫新版 「江戸から東京へ〈1〉麹町・神田・日本橋・京橋・本郷・下谷 」 の中に詳しく書いていますので、それに基づいて書いてみます。
明暦の大火の4年前の承応3年(1654)春3月、麻布の質商遠州屋彦右衛門の一人娘梅野が、母に連れられて、菩提寺の本妙寺に参詣したついでに、浅草観音にまわるつもりで、上野山下まで来たところ、上野山内に姿を消した寺小姓風の美少年に一目ぼれしたのが発端です。
美少年は、紫縮緬(むらさきちりめん)の畝織(うねおり)へ荒磯と菊の模様を染めて、桔梗の紋をつけた 振袖を着ていましたので、梅野は母親にねだって寺小姓が来ていた通りの振袖を縫ってもらい、梅野は、枕に鬘(かつら)をつけて、それを振袖で包んで夫婦遊びをしていました。
両親は八方へ手分けをして、その美少年を探しますが見つかりませんでした。
そして、梅野は恋わずらいにより翌年の承応4年(1655)1月16日、17歳でなくなってしまいました。
遠州屋では、梅野の棺を振袖で蔽(おお)って、葬式をすませ、振袖は本妙寺に納めました。
本妙寺では葬儀が済むと、古着屋へ振袖を売り払いました。
《昔は、葬儀には亡くなった人が生前一番愛用していた衣類を棺に掛けて行われるのが慣例で、埋葬の後にはその衣類が古着屋に売られ、墓の穴掘り人足の浄めの酒代にされたそうです。》
その振袖が、翌年の梅野が亡くなった同じ日に行われた、上野の紙商大松屋又蔵の娘きの(17歳)の葬式に、再び本妙寺に納まりました。そして本妙寺では、それをまた売り飛ばされました。
すると翌年の同月同日に、今度は本郷元町の麹商喜右衛門娘いく(17歳)の葬式に三度本妙寺に戻ってきました。
三度も同じことが重なったため、さすが、住職もこわくなって、今度は振袖を古着屋の手へ渡すことを思いとどまり、娘三人の親が施主となって、明暦3年1月18日、本妙寺内で大施餓鬼を行い、振袖を火に投じて焼くことにしました。
この日、振袖を火に投じると一陣の竜巻が、北の空から舞いさがり、火のついた振袖がさながら人間の立った姿で、80尺の本堂真上に吹き上げたため、火の粉は雨のように降りそそぎ、たちまち本堂から出火し、これが近隣に燃え広がっていったといいます。
以上が「振袖火事」の伝説ですが、「明暦の大火」研究の第一人者黒木喬氏は、この説に否定的です。
黒木氏著の「明暦の大火」によると、この話は真実ではないそうです。だいいち振袖伝説がいつごろどのようにつくられたのかもはっきりしていないそうです。
ただ、明暦の大火の25年後の天和2年(1682)に起きたいわゆる「八百屋お七の大火」の事件が影響を及ぼしていると書いています。
つまり、「八百屋お七の大火」より明暦の大火ははるかに被害が大きいのだから、なにか変わった因縁話があったにちがいない。いやないほうがおかしい。おそらくこのような心理が民衆に働いたのではなかろうかと書いています。
2、本妙寺火元引受説
本妙寺が火元だと信じられています。
しかし、本妙寺は実際の火元ではなくて、火元を引き受けたのだと言っています。
本妙寺のHPには以前次のように書かれていました。(現在のHPには掲載されていません)
しかし、本妙寺は火元ではない。幕府の要請により火元の汚名をかぶったのである。
真相は、本妙寺に隣接して風上にあった阿部家が火元である。
老中の屋敷が火元とあっては幕府の威信失墜、江戸復興政策への支障をきたすため、幕府の要請により本妙寺が火元の汚名を引受けたのである。
こう考える理由は、当時、江戸は火事が多く、幕府は火元に対しては厳罰をもって対処してきたが、本妙寺に対しては一切お咎めなしであった。
それだけでなく、大火から三年後には客殿、庫裡を、六年後には本堂を復興し、十年後には当山が日蓮門下、勝劣派の触頭に任ぜられている。これはむしろ異例な厚遇である。
さらに、当山に隣接して風上にあった老中の阿部忠秋家から毎年当山へ明暦の大火の供養料が大正十二年の関東大震災にいたるまで260年余にわたり奉納されていた。
この事実からして、これは一般に伝わる本妙寺火元説を覆すものである。
3、放火説
明暦の大火が発生した当時、もっとも広く信じられていたのは不逞浪人による「放火説」のようです。
明暦の大火が起きたのは明暦3年(1657)正月ですが、その6年前の慶安4年(1651年)7月に「由比正雪の乱」が起きています。
この残党が放火したのでないかという説です。
「玉露叢」という本に書かれているそうです。
また、幕府の石工棟梁の亀岡宗山が書いた「後見草」に、丸橋忠弥や由比正雪の残党が火をつけたのではないかという説が書かれています。
さらに「幕府が江戸の都市改造を実行するために放火したとする幕府放火説」もあると書いている本もあります。
このように諸説がありますが、実際の原因については明確になっていないということのようです。