明暦の大火の際に、小伝馬町牢屋敷の囚人の切放(きりはなし=解放)が行われました。
今日は、この切放(きりはなし=解放)について書いていきます。
明暦の大火の第1の出火場所である本郷本妙寺から出火した火事は西北の風にあおられて南に進み、湯島天神、神田明神、そして当時は神田にあった東本願寺も焼失しました。
さらに、神田・日本橋に延びていきました。
日本橋の長崎屋には、オランダ商館長のザカリア=ワゲナールが滞在していて、ワゲナールは明暦の大火に遭遇しています。
日本橋を焼いた火事は、市村座・中村座のある堺町、さらに吉原の遊郭を全焼させました。
そして、火事は小伝馬町の牢屋敷にまで近づいてきました。
小伝馬町牢屋敷は、天正年間(1573~92)に常盤橋外にできた牢屋が慶長年間(1596~1615)に小伝馬町に移されたとされています。
明治8年(1875年)に市ヶ谷監獄が設置されるまで、江戸時代を通して小伝馬町に設置されていました。
下写真は、小伝馬町牢屋敷があった十思公園です。
小伝馬町牢屋敷は、約2600坪の面積があり、囚人を収容する牢屋のほか、囚獄つまり牢屋奉行の役宅もありました。
右写真は、小伝馬町牢屋敷の模型で、十思公園西側の十思スクエァ玄関に展示されています。
牢屋奉行は、小出帯刀が世襲で勤めました。
石出帯刀は、もと本多図書常政という大番の武士だったといいます。
天正年間に徳川家康に仕え大坂の陣にも出陣しましたが、後に牢屋奉行を命じられ、世襲となりました。
明暦の大火当時の牢屋奉行は、石出帯刀吉深といいました。
この石出帯刀は、囚人たちが焼死するのは「ふびんである」と考え、火事が牢屋敷に近づくと、切放(きりはなし=解放)を行いました。
牢屋奉行とは、町奉行の配下で与力格の役職でしたので、囚人解放などの重要事項を決定する権限はありませんでした。
囚人解放は石出帯刀が独断で行ったのでした。
石出帯刀は、戻った者は罪一等を減じ、逃げたものは雲の果てまで追いかけさがしだす。浅草の善慶寺に3日後に集まるようにといって数百人の囚人を解放しました。
黒木喬著「明暦の大火」によると
「石出勘助の書上」という記録では、解放された囚人は120から130人で、指示通り19日に全員が善慶寺に戻ったと書かれているそうです。
しかし、黒木喬氏は、解放された囚人は「むさしあぶみ」に書かれているように数百人で、何人かは戻らなかったのではないかとも書いています。
また、囚人が集合するように指示されたお寺として「むさしあぶみ」に書かれている「下谷のれんけい寺」という寺は存在しないので、浅草の善慶寺だろうと黒木氏は書いています。
右写真は、現在の善慶寺です。
いずれにしても、石出帯刀の処置は、事後、上司から高く評価されたそうです。
この制度は、その後、正式に取り入れられて、切放後3日以内に北町・南町奉行所または本所回向院に戻れば、罪一等を減じ、戻らなければ、遠島ということになったようです。
切り放しは、江戸時代、公式的には12回(もしくは14回)行われています。
さらに、この石出帯刀が初めて行った切放(きりはなし=解放)は、現代の法律(刑事収容施設法)でも、制度として残っています。
以下刑事収容施設法215条に「災害時の避難及び解放」として定められた切放の条文です。
第二百十五条 留置業務管理者は、地震、火災その他の災害に際し、留置施設内において避難の方法がないときは、被留置者を適当な場所に護送しなければならない。
2 前項の場合において、被留置者を護送することができないときは、留置業務管理者は、その者を留置施設から解放することができる。地震、火災その他の災害に際し、留置施設の外にある被留置者を避難させるため適当な場所に護送することができない場合も、同様とする。
3 前項の規定により解放された者は、避難を必要とする状況がなくなった後速やかに、留置施設又は留置業務管理者が指定した場所に出頭しなければならない。
まさに石出帯刀が実行し指示した通りのことが現代の法律でも定められています。
350年前の小伝馬町牢屋敷の牢屋奉行石出帯刀がとった措置が、現在も踏襲されていて、当時の石出帯刀の判断が現在も高く評価されていることになります。