明暦の大火では、浅草御門で多数の死亡者が出ましたが、霊厳寺や京橋でも多数の焼死者が出ました。
霊厳寺は、現在は江東区にありますが、明暦の大火以前は、隅田川の手前(現在の東京都中央区新川)にありました。
霊厳寺は、寛永元年(1624)に、雄誉霊巌上人が霊巌島に霊厳寺を創建したのが始まりです。
その当時、霊巌島の辺りは湿地帯で、そこを埋め立てて霊巌寺を建てました。
霊厳寺の広さは、東西109メートル、南北218メートルもある関東18壇林に数えられる大きなお寺でした。
そのため、霊厳寺の建てられた埋立地は霊厳島と呼ばれるようになり、現在も「霊岸島」という交差点の名前として残っています。
本妙寺から出火し日本橋まで達した火事により、人々は東もしくは南に逃げていきましたが、霊厳寺の東側は隅田川であり川を渡ることができないため、霊厳寺の周辺に群がっていました。
そうした状態で、霊厳寺の本堂など堂塔伽藍が燃え上がり、霊厳寺にいた人々が焼死しました。
霊厳寺でなくなった人は、「むささあぶみ」によれば9600人余りとされています。
明暦の大火で焼失した霊厳寺は、現在の深川の地に移転しました。
現在の霊厳寺(最上段は本堂)には、松平定信のお墓(右写真2段目)や江戸六地蔵(右写真3段目)などあります。
また19日に小石川伝通院表門下新鷹匠町から出火した第2の火事により、江戸城の天守・本丸・二ノ丸を焼失してしましました。
その火事は、さらに大手門前の福井藩や加賀藩の屋敷を焼失させた後、中橋や京橋に向かいました。
避難民は、南に逃げて行きましたが、京橋にも火が付き焼け落ちてしまいました。
逃げ場を失った多くの人々が京橋周辺でなくなり、死者は「むさしあぶみ」には2万6千人と書かれていて、浅草御門での死者を上回る最多の死者となりました。
現在、京橋川が埋め立てられたため、京橋は地名としてのみ残されています。
京橋のあった場所には親柱だけが残されています。(右写真)