幕府は、粥の施行や米価・木材価格の騰貴防止策のほか、大火後の動揺する人心を安定させるため非常に効果のあるお金を被害者に下賜する資金援助を行っています。
今日は、まず、この資金援助についてかいておきます。
幕府の資金援助は幅広くしかもかつ高額でした。
罹災した大名に対しては、銀100 貫目以上の恩貸銀を出し、翌年から10 年間で返済させるようにしました。
一方、旗本・御家人は拝領金を渡し、100 石以下の小禄の者には率を増して与えました。こちらは返済不要です。
扶持米取りの者(給料を米で支給されていた幕臣)には、いわば本給である俸禄米とはべつに1人扶持につき、5俵(約262.5㎏)の割で、特別金を支給しました。
幼少の者や病気で役についていない者にも相応の手当てを支給しました.
こうした措置の結果として、4代将軍家綱の弟松平綱重と松平綱吉には各2万両、松平光長の母の高田殿(2代将軍秀忠の娘)には5千両が下賜されました。
町奉行の神尾元勝と石谷貞清は各1千 両を拝領しました。
資金援助は、武士だけではありませんでした。
江戸町民への援助もありました。
江戸市中への賜金は、銀で1万貫目、金にすると約16 万両の非情な高額でした。
幕閣の間には「それではご金蔵がカラになってしまう」と反対する声もあったようですが、保科正之は「幕府の金蔵に貯えたのは、こういう時に使って民衆を安堵させるためのものではないか。このような時に救済しないならば、貯えない方がましである」と言って説得したと言われています。
支給の割合は、間口1間について金3両1分・銀6匁8分だったといわれているようです。これは、焼失した町屋は片町で800町、間口は6尺を1間として4 万8000 間だったからだそうです。
1万貫のうち、5月11日、半金の5千貫が町奉行に渡さました。
大火で江戸城の御金蔵が焼亡してしまったために、これらの資金は1千石以上の者には大坂で、それ未満の者には駿府で支給されましたが、急がない人には、江戸で支給されました。
そのため、駿府や大坂から江戸に大量の資金が搬送されました。
こうした大名・旗本から江戸の町民まで幕府が下賜した援助金は膨大な額となりました。
こうした施策を実行する一方で、幕府は江戸に住んでいる人たちを減らす策も行っています。
江戸に住んでいる人が多ければ、多くの米などが必要となり、物価高騰の要因にもなります。
そのため、人口抑制のため江戸にいる諸大名を減らす施策を実行しました。。
2月9日には、松平越前守光通など17大名が帰国を許されました。
それ以前には、在国の大名の参勤を免じる命令も出してあります。
これに対し、御三家の徳川頼宣はこのような緊急時こそ人員を多く呼び寄せるべきではないかと異を唱えたが、松平信綱は次のように答えたといます。
人物叢書「松平信綱」からです。
信綱は「このようなことを方々と議すると、何かと長談義に日を費やし無益のことです、後日お咎めあれば信綱一人の落度にしようとの覚悟でこのように計らいました。今度の大災害で諸大名の邸宅も類焼して居所もないので、就封させて江戸を発足すれば、品川・板橋から先は家があり、上より居宅を下されたも同じことです。また府内の米蔵はすべて焼けたので、大名が大勢の人数で在府すれば食物に事欠き、飢民も多くなるでしょう。よって江戸の人口を減少させれば飢民を救う一端となります。万一この機に乗じ逆意の徒があっても、江戸で騒動を起こされるより地方で起こせば防ぐ方策もあろうかとこのように致しました。」と言うと、頼宣は手を打って感嘆したという。
知恵伊豆と言われた松平信綱の面目躍如の回答です。