「明暦の大火」について書いてきてもう相当の回数となります。
今日は、大火後の都市再生について書いていきます。
まず、「両国橋の架橋」について書きます。
幕府は、隅田川は江戸を護る外堀と位置付けていました。そのため、隅田川には、千住大橋より下流には橋は架けられていませんでした
そのため、明暦の大火では、隅田川の川べりまで逃れてきた人々も川を越えるすべがなく、生き延びることができませんでした。
こうした事態を受けて、幕府は隅田川に橋を架けることを決断しました。
橋が架けられた年については2説あって、万治2年(1659)または寛文元年(1661)に架かられたといわれています。
長さ171メートル、幅7.3メートの橋でした。
名称は当初「大橋」と呼ばれていました。
しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから両国橋と呼ばれるようになりました。
右写真は、現在の両国橋ですが、江戸時代の両国橋は、現在の位置よりも少し下流にありました。
両国橋が架けられてことにより、下町町民の避難路が確保されたことになります。
さらに、この架橋により本所・深川方面の発展に大きく寄与することになりました。
また、幕府は、火事の際に非常に重要な避難路になる橋が燃え落ちないように幕府は橋のたもとは広場をしました。
両国橋も例外でなく、橋のたもとは広小路とされました。
これが有名は両国広小路です。
後に、ここに見世物小屋や芝居小屋が集まり、江戸随一の盛り場として栄えることになります。
幕府は両国広小路のほか日本橋川南岸の四日市広小路、筋違門火除地など各所に広小路や火除地をつくりました。
また、神田の新銀町火消から柳原までの約1091メートル、そして日本橋から江戸橋までの272.5メートルの間に、それぞれ防火堤を築きました。
さらに、幕府は武家屋敷の移動も行いました。
吹上と北の丸には、明暦の大火以前には武家屋敷が立ち並んでいました。
主なところで、吹上には、尾張・紀伊・水戸の御三家の屋敷がありました。
「明暦の大火」(黒木喬著)によればれ、紀伊家は麹町5丁目、水戸家は小石川、尾張家は麹町十丁目に移転し、江戸城内にあった家綱の弟の徳川綱重と徳川綱吉の屋敷もそれぞれ大手門前の辰の口に移転しました。