土曜日は、毎日文化センター主催の「盛り場散歩」で深川を受講生の皆さんと一緒に散歩してきました。
天気は曇り空でかえって紫外線を気にする必要もなく暑すぎることもなく快適な散歩でした。
ご参加いただいた皆さんお疲れ様でした。
散歩コースは次の通り木場駅から門前仲町駅までの散歩です。
木場駅 ⇒ 洲崎神社 ⇒ 繁栄稲荷神社 ⇒ 平久橋 ⇒ 深川三十三間堂跡 ⇒ 富岡八幡宮 ⇒伊勢屋⇒ 永代寺 ⇒ 深川不動堂 ⇒ 伊能忠敬住居跡 ⇒門前仲町駅
洲崎神社(右最上段写真)は、護持院隆光が、桂昌院が信仰していた江戸城の紅葉山の弁財天を移して元禄13年(1700)に創建したもので、江戸時代は、洲崎弁財天社と呼ばれていました。
江戸時代は、海辺にあって、景色が大変よくて多くの行楽客が遊ぶ場所でした。
しかし、寛政3年(1791)9月4日10時頃、洲崎・木場一帯に高潮がおしよせ大きな被害を受けたため、幕府は、洲崎弁天社から西のあたり一帯を買い上げて空き地としこれより海側に人が住むことを禁じました。
そして、空地の東北地点に建てられた波除碑が「津波警告の碑」として残されています。
右上写真は、その説明板を読む参加者の皆さんです。
繫栄稲荷神社は、大丸の守り神です。
由緒書きによれば、この神社は、宝暦7年(1757)、深川木場に、貯木場を備えた別邸を建築し、その一廓に社殿を造り伏見稲荷大社を勧請し繁栄稲荷と称したのだそうです。
明治になって、明治43年大丸東京店(昔の江戸店)を閉じ木場の別邸をなくした時、社殿は根津嘉一郎の青山に屋敷に移って、根津家の嘉栄稲荷の社殿となりました。
昭和35年、社殿が繁栄稲荷のものであったことがわかり、根津家の厚意で大丸へ返えしてもらい、現在地(大丸松坂屋百貨店本社脇地)にお祀りすることになりました。
江戸の三十三間堂は、京都の三十三間堂を模して、寛永19年(1642)に浅草に建立されました。
この浅草の三十三間堂が元禄11年の火事により焼失してしまい、元禄14年(1701)に深川に移されました。
深川における三十三間堂は、南北66間(約118.8m)・東西4間(約7.2m)の建物で、本尊は千手観音でした。
江戸に三十三間堂が作られたのは、京都の三十三間堂での通し矢が盛んに行われた影響だそうです。
江戸の三十三間堂も、京都と同じように南北に長い建物で、その西側の回廊で、通し矢が行なわれました。
深川三十三間堂は、明治5年に解体されてしまいました。
富岡八幡宮は寛永4年(1627)、長盛法印というお坊さんが当時永代島と呼ばれていた現在地に創建しました。
周辺の砂州一帯を埋め立て、合計で60508坪もの土地を境内としました。
御祭神は応神天皇です。「江戸最大の八幡様」で、「深川の八幡様」と親しまれています。
富岡八幡宮は江戸勧進相撲発祥の地として有名です。
そうしたことから相撲関係の石碑が数多くあります。
横綱力士碑は、明治33年、江戸時代の最後の横綱である第12代横綱陣幕久五郎を発起人に建立されたものです。
当初は、本殿の裏手に建てられていましたが、関東大震災後、現在地に移されました。
その大きさは高さ3.5m、幅3m、重量は20トンに及び、横綱を顕彰するにふさわしい堂々たる石碑です。
この碑には初代明石志賀之助から71代鶴竜までの四股名が刻まれています。
伊能忠敬の銅像は、平成13年(2001)に建立されました。
富岡八幡宮の鳥居の側に伊能忠敬の銅像があります。
伊能忠敬の測量開始は寛政12年、西暦でいうとちょうど1800年です。
伊能忠敬像は測量開始200年にあたり広く一般から浄財を公募して建立されました。
伊能忠敬は、深川黒江町(現・門前仲町1丁目)に住んでいて、測量に出発する時富岡八幡宮を参拝していたことから、ここに銅像が建てられました。
永代寺は寛永4年(1627)に富岡八幡宮別当永代寺として、長盛上人によって永代島に創建されました。
永代寺は、現在の富岡八幡宮、深川不動堂、深川公園すべてが、江戸時代には、永代寺の寺域でした。江戸時代の永代寺は非常に大きなお寺であったことがわかると思います。
江戸時代には、出開帳の会場、3月の山開き、そして、江戸六地蔵の一つがあることで大勢の参拝客でにぎわいました。
しかし、明治元年(1868)の神仏分離令を契機に行なわれた廃仏毀釈により廃寺となってしまいました。
明治29年(1869)に、永代寺の塔頭(たっちゅう:大きなお寺の中にある小さなお寺)であった吉祥院が永代寺の名称を継いで現在に至っています。
深川と成田不動尊とは深い関係があり、成田不動尊の12回の出開帳のうち深川永代寺で11回行われています。
第1回の出開帳と同時期に、市川団十郎は「成田山分身不動」という芝居を森田座で上演しました。
明治元年(1868)に神仏分離令とそれにもとづく廃仏運動のなかで、深川の信徒講社は御旅所の深川移転説を主張し、成田山当局にも熱心に働きかけました。
その結果、旧来しばしば出開帳を行ったゆかりの地である現在地に、不動明王が正式に遷座されました。そして、明治14年に「深川不動堂」が完成しました。
伊能忠敬住居跡は、伊能忠敬が50歳で隠居して、翌年寛政7年(1795)佐原から江戸に出てきて住んだ場所です。
伊能忠敬は19年間、ここに住み、文化11年(1814)に八丁堀亀島町に転居し、そこで、文政元年(1818)74歳の生涯を終わっています。
地図はまだ完成していなかったため、忠敬の死は隠され、地図の作成作業は進められ、忠敬の死の3年後の文政4年(1821)に、『大日本沿海輿地全図』と名付けられた地図が完成し、地図の完成後に忠敬の死が発表されました。
最後は、恒例の飲み会です。
「盛り場散歩」シリーズは、今回で終わり、秋からは、「気ままに江戸散歩」の装いを一新して、新シリーズで始める予定です。
そのため、思い出話、新しい散歩のイメージなどの話もでて、あっと言う間の2時間半でした。
最後までご参加いただいた皆さんお疲れ様でした。