今日からは、いよいよ本格的に町火消について書いていきます。
享保3年の町火消組織化は消防効率が悪いため、大岡越前守忠相は享保5年再編に着手しました。
そして、隅田川より西の町々をおおよそ20町ごとに四十七の小組に分けて、いろは四十七文字を組の名前にあてました。
そして本所・深川は十六組に分けられました。
ところで、いろは四十七組といいますが、現在の私たちは、いろは四十七文字を正確に言うのは難しいと思います。
そこで、いろは四十七文字を書いておきます。
いろは四十七文字は次の47文字です。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
これを覚えやすいよう四十七文字のかなをすべて1度ずつ用いてつくられた七五調の歌がいろは歌です。
私は、いろはがわからなくなった場合には、いろは歌で思い出しています。
色は匂(にほ)へど 散りぬるを
我世誰(わがよたれ)ぞ 常ならむ
有為(うゐ)の奥山 今日(けふ)越えて
浅き夢見じ 酔(ゑ)ひもせず
上記のいろは47文字と比較するとピッタリ読み込まれていることがわかると思います。
それでは、四十七組の名前は、どのようにつけられたのでしょうか?
これについて説明したものは私が読んだ参考図書には書いてありませんでした。
しかし、『江戸三火消図鑑』(岩崎美術社刊)に掲載されている嘉永4年の「町火消配置図」を見ると、私なりに名前の付け方が想像できましたので、私の推測を書いてみます。
いろは四十七組のスタートは、江戸の中心、日本橋の北地区を担当する組が「い組」、日本橋の南地区を担当する組が「ろ組」、つまり日本橋が起点となっています。
次いで、「は組」は、日本橋の東北にあたる大伝馬町・小伝馬町を担当する組の名前としてつけられていて、さらにその先の横山町・馬喰町を担当する組の名前が「に組」、浅草橋を超えた地区を担当する組が「ほ組」、「へ組」がなくて、さらに駒形が「と組」、浅草が「ち組」というように奥州街道に沿って北上します。
そして、今戸を担当する「り組」まで行くと、今戸の西方にある三ノ輪から東神田まで御成道に沿って南下してきます。
東神田からは、中山道に沿ってまた北西に北上していきます。
このようにして、江戸城を中心に、左まわりに順に組の名前が付けられているように思います。
「町火消配置図」に書かれている町名を基準に各組の担当地区を代表する町名を書くと次のようになります。
い―本町・室町 ろ―日本橋通り は―大伝馬町・人形町
に―横山町・馬喰町 ほ―蔵前 へ―無 と―田原町・駒形
ち―浅草寺周辺 り―今戸 ぬ―三ノ輪 る―上野・寛永寺周辺
を―浅草寺町
わ―下谷・湯島天神周辺 か―外神田
よ―東神田 た―本郷 れ―根津・千駄木 そ―駒込
つ―染井 ね―巣鴨 な―小石川 ら―無 む―伝通院周辺
う―小日向 ゐ―神楽坂 の―早稲田 お―市ヶ谷
く―四谷 や―麹町 ま―赤坂 け―鮫ヶ橋 ふ―青山
こ―渋谷 えー麻布竜土町 て―白金
あ―古川 さ―伊皿子 き―白金猿町 ゆ―高輪 め―芝
み―金杉 し―六本木 ゑ―西久保 ひ―無 も―銀座
せ―中橋 す―木挽町・築地
そして、組名として、「へ」「ら」「ひ」の替りに「百」「千」「万」が用いられたとされています。
百組の担当地区は「八丁堀」、千組は中橋(現在の八重洲)、万組は元飯田町(現在の飯田橋・九段)が担当地区となっています。
これをみると、「へ」「ら」「ひ」という組名を使用しないようにして、44カ所の担当地区と組名を決めた後、「百」「千」「万」を最後に付け加えたということのように思われます。