雑司ケ谷霊園に眠る有名人の4回目は、小栗上野介忠順です。
小栗上野介忠順のお墓は、1-4B-5 にあります。
管理事務所の北側の一画です。
小栗上野介忠順の遺骨が埋葬されたお墓は、群馬県高崎市倉渕町権田の東禅寺にあります。(最下段写真が東禅寺の小栗上野介のお墓です。)
雑司ケ谷霊園にあるお墓は「小栗家累代之墓」とされています。
台石に大正元年九月小栗貞夫建之刻まれています(実際は右から左に刻まれています。右写真参照)
小栗貞夫は、小栗上野介が斬首された後に生まれた一人娘国子の夫です、つまり小栗上野介の養子ということになります。
小栗上野介について、東禅寺住職の村上泰賢氏が書かれた『小栗上野介 忘れられた悲劇の幕臣』や『小栗忠順のすべて』などを参考に書いてみます。
小栗上野介は、父がなくなった29歳の時に跡目相続をした3年後の安政7年に目付となり
日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国しました。
その直後、外国奉行に就任した後、勘定奉行、町奉行など、旗本が勤めることのできる要職をほとんど経験し、幕府の財政再建や横須賀造船所の建設などの業績を上げています。
小栗上野介は、対薩長に対しては、一貫して強硬姿勢をとっていました。(右下写真は東禅寺にある小栗上野介の銅像)
そのため。鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れた後、薩長への主戦論を唱えましたが、徳川慶喜は、恭順姿勢を崩さず、徹底抗戦を唱える小栗上野介は勘定奉行を罷免されます。
そのため、小栗上野介は、領地である上野国群馬郡権田村に引きこもります。
慶応4年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、慶応4年閏4月6日、斬首されました。
幕府の要人だった人物が新政府軍に斬首されたという例はあまり多くないように思います。小栗上野介のほかには近藤勇が有名です。
近藤勇は、坂本龍馬が新撰組に暗殺されたと思っていた土佐藩が強硬に斬首を主張したという説があり、当時としては、相応の斬首理由があったものと思われます。
しかし、小栗上野介の斬首の理由は、しっかりした根拠はないと言われています。
星亮一は、『小栗上野介』で「この理不尽な行為は、薩長最高幹部が背後で糸を引いたことは間違いなかった。誰が誰とは断定できないが闇の刺客の手で忠順は抹殺されたのである」と書いています。
そのため、小栗上野介が斬首された権田村の川原に建立されている石碑には「罪なくして此処に斬らる」と刻まれています。
(過去の記事 「小栗上野介終焉の地を訪ねる」 をご参照ください)
小栗上野介の首は首実検のため高崎に送られ、遺体だけが東禅寺に運ばれ埋葬されました。
その後、首も権田村の村人たちの手で高崎のお寺から取り戻され東禅寺に埋葬されました。(右写真参照)
小栗上野介の墓の隣には、小栗上野介の養子又一のお墓もあります。
小栗又一は、小栗上野介が斬首された翌日の閏4月7日に、出頭していた高崎藩で斬首されました。
小栗上野介が斬首された時、妻の小栗通子は、妊娠8カ月の身重でした。
小栗上野介から会津に逃げるよう指示されていた通子は、無事、会津へ逃げ延び、会津で一子を生みます。
その子が、国子です。成長した国子の夫が小栗家の墓を建立した小栗貞夫です。
小栗上野介の遺族の逃避行等については次回書きます。