今日は、京都守護職と京都所司代との関係について書いていきます。
会津藩主松平容保は、文久2年(1862)閏8月1日に就任して以来、一貫して京都守護職に就任していて、京都守護職は松平容保ただ一人が就任していたように思う方が多いと思います。
しかし、厳密にいうと、京都守護職に松平春嶽も就任していたことがあります。
元治元年(1864)2月11日、松平容保は陸軍総裁(のちに2月15日に軍事総裁と改められる)に任命されました。
これは前年の文久3年(1863)の8月18日の政変により長州藩が追放され、元治元年に長州藩を処罰する方針が決定されたための人事と言われています。
松平容保の後任として、京都守護職には松平春嶽が任命されました。
しかし、2か月後の4月7日には京都守護職に復職しています。
これ以降、王政復古の大号令が出され、京都守護職が廃止されるまで、松平容保が京都守護職に就任していました。
さて、今日は、よく見ると幕末政治に大いに関係する人たちが京都所司代となっていますので、京都守護職の下にあった京都所司代についてみておきます。
京都所司代は、江戸幕府の西国支配の中心的役割を果たす重要な職制です。
その役割は、朝廷の守護、公家・門跡の監察、京都市中の法制・裁判、五畿内および近江、丹波、播磨の8か国の公事・訴訟の管掌していました。(『国史大辞典』より)
幕藩体制確立期に大きな地積を残したのは、板倉勝重・重宗父子でした。
しかし、幕末になると、京都所司代だけでは、京都の治安を維持するのが難しい情勢となり、武力をもった京都守護職が設置されました。
京都守護職が設置されると、京都所司代は京都守護職の下部組織となりました。
京都所司代上屋敷は、二条城の真北、元の待賢(たいけん)小学校の場所にありました。
右上の写真2枚は、5年前に訪ねた時の写真です。
それでは、松平容保が京都守護職に就任していた際の京都所司代の顔ぶれをみていきます。3人が京都所司代でした。
牧野忠恭(ただゆき)、稲葉正邦、松平定敬の3人です。
文久2年閏8月1日に松平容保が京都守護職を拝命した時の京都所司代は、丹後宮津藩主本庄宗秀でした。
しかし、本庄宗秀は、文久2年6月30日に任命されましたが、就任反対意見が強く実際には着任できませんでした。
その本庄宗秀の替りに、文久2年8月24日に京都所司代となったのが、越後長岡藩主牧野忠恭です。
越後長岡藩といえば、戊辰戦争で、河井継之助をリーダーとして新政府軍と戦った藩です。
松平容保が京都守護職として京都に入京した際の京都所司代は牧野忠恭でした。
牧野忠恭が京都所司代の時、河井継之助も京都に来ていました。
司馬遼太郎の『峠』では、藩の外交を担当する公用方に任じられていて、会津藩との情報交換も担当していたと書かれています。
その河井継之助は、長岡藩主が長く京都所司代を勤めていても、長岡藩にメリットはないと考え、牧野忠恭に辞任するよう建言し、牧野忠恭は文久3年6月11日に辞任しています。約10カ月の在任期間です。
『峠』では、河井継之助が所司代辞任を老中に願い出たと描かれています。
この後任が、淀藩藩主稲葉正邦です。
鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍の入場を拒んだことで有名な淀藩の藩主です。
稲葉家は、春日局の夫稲葉正成を藩祖とする家柄で、譜代の名門です。
淀城には、稲葉正成を祭神とする稲葉神社があります。 右写真は先日訪ねて時の写真です。
淀は、桂川・宇治川・木津川が合流する交通上・軍事上の重要地点です。
ですから、譜代名門の稲葉家が藩主を任されていたわけです。
淀から京都は目の先ですので、家柄・距離等を考慮しての人選なのでしょう。
この稲葉正邦は、元治元年4月11日に、老中となり転任しています。
稲葉正邦も約10カ月に在任期間でした。
稲葉正邦の後任として元治元年4月11日に京都所司代に任命されたのが、桑名藩主の松平定敬です。
桑名藩松平家は、老中松平定信を出した譜代の名門です。定信の子供定永の代に奥州白河から桑名に転封となっています。
桑名城跡には、松平定信を祭神とする護国守国神社(*1)が鎮座しています。
*1:松平定信が守国公と呼ばれ、藩祖松平定綱が護国公と呼ばれ、護国守国神社にはこの2人が祭神です。
そして、松平定敬は、高須藩主松平義建の8男で、松平容保の実弟でもあり、桑名藩の養子となっていました。
つまり、実兄の松平容保との関係を重視した人選であったようです。
よく見ると、4日前の4月7日には、実兄の松平容保が京都守護職に再任されていますので、この人事と一帯の人事だったようです。
先日訪ねた桑名博物館発行の「京都所司代松平定敬」展示図録(平成20年10月発行)に掲載されている『幕末政局と桑名藩-松平定敬の京都所司代就任の政治背景-』(奈良勝司氏著)には、桑名藩では、松平定敬の京都所司代就任を予期していなくて、主君の任官に困惑していたそうです。
また、この人事は次の2点から特異だったそうです。
①京都所司代は通常は雁間詰か帝鑑間詰の譜代大名がなるが、定敬はより上位の溜間詰であり、また任命の際には、決して辞退すべからず、兄の松平容保と協力して職務にあたるべしとの内命を受けていたこと。
②京都所司代は、通常は大阪城代か寺社奉行を経験した後に任命されるが、松平定敬は、大阪城代や寺社奉行の経験もしていない中での抜擢であった。
この桑名藩主松平定敬の任命により、いわゆる「一会桑政権」(*2)が誕生することになります。
*2:「一会桑」という言葉は『孝明天皇と「一会桑」』P85を読むと家近先生が命名した言葉のようですね。