八月十八日の政変で、京都を追われた長州藩は失地回復して京都へ再進出を果たそうとします。その中で起きるのが禁門の変です。
今日から数回にわたり禁門の変について書いていきます。
元治元年になると、天皇を再び手中にするため、京都に進出しようという進発論が強くなりました。
この時、強く京都進出を主張したのは、久坂玄瑞、遊撃軍総督来島又兵衛、久留米水天宮神官真木和泉らです。
進発論の主唱者は、三条実美に従った浪士のリーダーである真木和泉で、真木和泉は「出師三策」を書いて、世子毛利定広が軍勢を率いて上京すべきであると主張しました。
しかし、京都進出については、桂小五郎(後の木戸孝允)は反対し、周布政之助や高杉晋作は、慎重論で、長州藩内でも意見対立があり、藩論は一致しませんでした。
元治元年正月24日、高杉晋作は、頑強な進発論を唱える来島又兵衛の説得を命じられましたが、来島は納得しませんでした。
説得に失敗し高杉晋作は、京都に脱走してしまい、帰国すると3月29日に野山獄入りを命じられます。
5月には、高杉晋作が入獄していた野山獄に泥酔した周布政之助が馬で乗り付け抜刀して叫び声をあげて去っていくという事件もありました。
慎重派の周布政之助、高杉晋作の影響力が弱まるなか、福原越後、益田右衛門介、国司信濃の三家老らに率いられた長州藩兵が次々と進発していきます。
福原越後(50)は長州藩の支藩徳山藩の藩主毛利広鎮の六男として生まれ、藩命で永代家老福原家の家督を継ぎ、国家老として、藩主毛利敬親の補佐役を務めていました。
益田右衛門介(32)は、永代家老の益田家に生まれ、安政4年に家老となりました。
国司信濃は、上級家臣団の寄組高州元忠の次男でしたが、寄組国司家を継ぎ、文久3年家老となりました。寄組の国司家は、当人の能力次第で一代家老ともなる家格で、若くして実力で家老職に就き、当時23歳の若さでした。
禁門の変後、この三人は、第一次長州征伐が実施される中で、禁門の変の責任を負い切腹することになります。
6月26日には、国司信濃が山口を出発し、7月6日は益田右衛門介が山口を出発しました。
京に入った長州藩は、三方から京都を包囲しました。
伏見の長州藩藩邸には福原越後が6月24日に兵を率いて入り、6月26日には潜伏していた100名以上の志士たちが嵯峨天龍寺に入り、27日には来島又兵衛の部隊が天龍寺に入り、その後7月には国司信濃も天龍寺に入りました。山崎には久坂玄瑞や真木和泉、前田右衛門介が陣を敷きました。
真木和泉が率いた部隊は「清側義軍」と称しました。福原越後は、清側義軍は、三条実美に近い尊攘激派の集団で藩主の冤罪を晴らすため過激な行動にでるかもしれないので、伏見にいて鎮撫にあたると説明しました。また、天龍寺には、八月十八日の政変後も京都に残った尊攘派の志士たちが天龍寺にたてこもっているから、これを鎮撫すると称して、来島又兵衛の遊撃隊を天竜寺に送り込みました。こうして、京都を三方から包囲する態勢が整いました。
右上の写真最上段が伏見の長州藩邸跡、二段目及び三段目写真が天龍寺と有名な曹源池です。天龍寺はユネスコの世界文化遺産に登録されています。四段目の写真が阪急大山崎の駅から見た天王山です。