禁門の変で最も活躍したのは会津藩です。
しかし、前回までは、会津藩にはあまり触れていませんでした。そこで、今日は、『京都守護職始末』に基づき、会津藩の動きを追ってみます。
『京都守護職始末』は詳しく書かれていますが、ここでは要約して書いていきます。
長州の福原越後たちが6月24日に伏見藩邸に入ったことから、会津藩は九条河原に軍を敷きました。
当時、松平容保は病床にありましたが、6月27日、兵を率いて病気を押して参内します。孝明天皇は大変喜んで、天皇の近くで守護するようにとの詔があって、御所近くの凝華洞(ぎょうかどう)を兵営とするようにとお言葉がありました。
凝華洞は、江戸時代に後西天皇が退位後の仙洞御所とした場所と伝えられています。元仙洞御所であった場所を仮の宿舎としたのですから、孝明天皇は病気の松平容保を気づかうとともに大変信頼していたことということだと思います。 現在、京都御苑には、凝華洞があった場所が小高い丘となっており、そこに凝華洞跡を示す標柱と説明板が建てられています。 下写真の左手奥に写っているのが、京都御所の建礼門です。
下写真の右の大きな松が目印です。松の根本付近に右上の説明板があります。しかし、どれだけの人が気が付くことでしょうか。
7月6日、禁裏守衛総督の一橋慶喜は諸藩の人々を集めて対応を協議したものの、一橋慶喜の態度もはっきりせす、断固追討すべしと主張したのは、会津藩と桑名藩だけという状況でした。
しかし、7月11日になり、薩摩藩兵数百人、京都に到着したのを受けて、西郷隆盛は、諸藩の重臣を集めて、「諸藩が長州に対して寛大な処分に賛成するのであれば、わが薩摩藩はたとえ一藩であっても、長州にあたる」と意気軒高に述べたので、諸藩も長州追討に同意しました。
こうした状況でも一橋慶喜は長州藩京都留守居役乃実織江に撤兵するよう諭しました。7月18日のことでした。
しかし、長州藩は、君側の奸松平容保を討つとの文書を提出してきました。
当時、京都に駐留していた会津藩の軍勢は1500人ほどでした。その半分を伏見の長州勢に備えて、竹田街道の九条河原に配置しました。
残りの軍勢の半分で蛤御門を守らせました。
蛤御門を守っていた会津藩は、長州藩が蛤御門の外から攻撃してくるものと考え大砲を門外に出して備えていました。しかし、長州勢は、蛤御門の南にある公卿の邸の塀を乗り越え、北側に向かって攻めてきました。
そこで、会津藩は急遽大砲を南に向けて砲撃を開始しました。
長州勢からの砲撃も激しく多くの死傷者がでました。
しかし、桑名藩も加わり攻撃したため、来島又兵衛を倒された長州勢は瓦解し敗走しました。
実は、この蛤御門での戦いに薩摩藩から応援があったことは『京都守護職始末』にはふれられていません。
長州藩の久坂玄瑞たちが鷹司邸を固守していました。そこで、会津藩が凝華洞に持っていた15ドエム砲で鷹司邸の塀を打ち崩し、鷹司邸へ攻め込みました。
ここで、久坂玄瑞、寺島忠三郎は、自刃したが、邸内にいた真木和泉は負傷しながらも残兵を率いて逃れ出ました。