王政復古の大号令と小御所会議(『幕末』)

今日からは、京都に残る鳥羽伏見の戦いの史跡を訪ねていきますが、今日は、鳥羽伏見の戦いの前段階ともいうべき王政復古の大号令について書いていきます。

王政復古の大号令は、慶応3年12月9日に発せられました。

これは討幕派の仕かけた宮廷内クーデターです。

これを考えたのは岩倉具視と大久保利通、さらに西郷隆盛だと言われています。

大久保らは当初、12月8日に決行する予定でした。しかし事前に計画を打ち明けていた土佐の後藤象二郎から山内容堂が上京中なので、10日に延期してほしいと要請され、やむなく1日延期して9日に決行することとしました。

その前夜、岩倉具視は自邸に薩摩・土佐・安芸・尾張・越前5藩の重臣を招いて、王政復古の断行を告げて協力を求めました。

こうして五藩兵は御所各門の警備にあたりました。

 12月8日夕方から開催された朝議は、夜を徹して翌朝にかけて行われ、長州藩主毛利敬親・定広父子の官位を元に戻し入京を許可すること、岩倉具視や前関白九条尚忠らの蟄居を解くことと還俗が命じられ、九州にある三条実美ら五卿の官位の復位と入京を許すことなどが決められました。

 こうして8日から夜を徹して行われた朝議が終わった後、薩摩藩兵3千人はじめ諸藩が御所の各門を固めました。そして、参内を許された者以外の参内が禁止されました。二条摂政や中川宮は参内禁止されました。

 そうした中、赦免されたばかりの岩倉具視が参内して王政復古の断行を上奏しました。

 その後、王政復古の大号令が発せられました。

 その内容は次のとおりです。

1、将軍職辞職を勅許。

2、摂政・関白の廃止。

3、幕府の廃止。

4、総裁・議定・参与の新設。

5、京都守護職・京都所司代の廃止。

任命された人々は次の人々です。

総裁:有栖川宮熾仁親王

議定:公卿から仁和寺宮嘉彰親王・山階宮晃親王・中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之、大名から松平春嶽・徳川慶勝・浅野茂勲・山内容堂・島津忠義

参与:公卿から岩倉具視・大原重徳・万里小路博房・長谷信篤・橋本実梁、

武家からは、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通ら3名、土佐藩の後藤象二郎・福岡孝弟ら3名、さらに越前藩と尾張藩と芸州藩の藩士3名

 王政復古の大号令が出された場所ですが。中公文庫『開国・攘夷』(小西四郎著)、中公新書『幕末史』(佐々木克著)、岩波新書『西郷隆盛』(猪飼隆明著)では、「小御所」と書かれています。
 しかし、中公文庫『明治維新』(井上清著)では、「学問所」と書かれています。
 京都御所では、王政復古の大号令は、「学問所(がくもんじょ)」で発せられたとしています。

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「学問所」は、京都御所で小御所の北側にあります。(右写真参照) 

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「学問所」の前にある説明板(右下写真)では、ここで王政復古の大号令が発せられたと次のように書かれています。

 慶長18年に清涼殿から独立した御殿で、御読書始や和歌の会などの学芸のほか、対面にも用いられた。慶応3年、ここで明治天皇が親王・諸臣を引見され勅諭を下して王政復古の大号令を発せられた。上段・中断・下段を含む6室からなる総疂式の建物である。

 


王政復古の大号令が発せられた129日の午後6時頃から、小御所で新政府最初の会議である三職会議が開かれました。

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 小御所会議が開かれた当時の小御所は、昭和29年鴨川の花火によって焼失してしまい。昭和33年に再建されたものです。
 小御所は、江戸時代は武家との対面や儀式の場と使用された建物です。
 内部は、上段・中段・下段の3室があり、そのまわりに広い板敷(廂)がついていました。

 小御所会議の様子については、中公文庫『明治維新』(井上清著)に詳しく書かれています


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 小御所は、上段・中段・下段の3室に分かれていて、上段の間には明治天皇がすわり、中段の間の東最上位に有栖川宮親王が座り、以下に議定と参予の公卿たちが座り、中段の間の西側に5人の義定の大名が座りました。

さらに下段には薩摩藩の大久保利通・岩下方平、土佐藩の後藤象二郎ら参予に任命される予定の五藩の藩士たちが座りました。なお、この会議には西郷隆盛は参加していませんでした。

 この会議の場で、山内容堂は、徳川慶喜の出席が許されていないことを非難しました。山内容堂は少し酒気を帯びていたと書いてあるものもあります。

これに対し岩倉具視が反論し激論が交わされました。

この議論の最中、山内容堂が「二、三の公卿が幼沖なる天子を擁して権力を私するものではないか」と発言し、すかさず、岩倉具視が「今日のことはすべて天皇の意思から出ていることで、幼い天子とは不敬であろう」と失言を責めたといわれています。

この会議での議題は徳川慶喜の辞官納地でした。

辞官納地とは、徳川慶喜が内大臣を辞任し徳川家の400万石の領地を朝廷に返納することです。

山内容堂や松平春嶽は、辞官納地に強く反対し、両者譲らず、大激論が続いたため、遂に中山忠能が休憩を宣言しました。

この休憩中に、薩摩藩の岩下方平は、会議に参加していなかった西郷隆盛に相談しました。

すると、西郷隆盛は、「短刀一本あれば片がつくことではないか、このことを岩倉具視と大久保利通に伝えてくれ」といいました。これは「いざとなれば、山内容堂を刺せ!」という意味でした。

その旨、岩倉具視に伝えると、岩倉具視は、まだ山内容堂が反対するのであれば刺し殺す覚悟を固めます。

この岩倉の覚悟は芸州の浅野茂勲を介して土佐藩の後藤象二郎に伝えられ、さらに山内容堂にまで伝えられました。

再開された会議では山内容堂は反対論を控えたため反対する者がなく、徳川慶喜に辞官納地を命じることが決定されました。

翌10日、徳川慶勝と松平春嶽が二条城に向かい、小御所会議の決定を徳川慶喜に伝えました。

徳川慶喜は、決定をすべて承諾しましたが、二条城内の旗本や会津藩の強硬派は激昂して全員が今にも討って出そうな勢いでした。

このままでは、戦闘が開始されることを危惧した徳川慶喜は。12日に旧幕府軍を引き連れて大坂城に下りました。



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by wheatbaku | 2017-05-08 14:10 | 『幕末』 | Trackback
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