公議政体派の巻き返し(『幕末』)
今日は、王政復古の大号令が発せられた以降の公議政体派の巻き返しについて書いていきます。
12月9日の王政復古の大号令つまり討幕派の宮中クーデターが成功したからといって、岩倉具視や大久保利通ら討幕派の思惑どおりに進んだわけではありません。
当然、旧幕府側には、大いなる不満がありました。
たびたび引用している『京都守護職始末』によれば、「会津藩士や桑名藩士らも旗下(はたもと)連と和同して、おのおの切歯扼腕し、機会を待ち構えている有様であった」と書いています。
こうした状況を危惧して、12月12日に、徳川慶勝、松平春嶽が二条城にやってきて、速やかに旗下連や会津・桑名勢を大坂城にうつし、禍を未然に防ぐことを勧めたので、徳川慶喜も、これに同意して、大坂城に移りました。
一方、公卿側ですが、クーデターの中心人物の岩倉具視は、孤立し始めていました。
そもそも岩倉具視以外の公卿の議定・参与たとえば中山忠能などは、小御所会議の決定に心から納得していたわけではなかったようです。
また、山内容堂、徳川慶勝、松平春嶽たちは、武力倒幕には断固反対で、徳川慶喜擁護の工作を進めていました。
こうした状況下で、公卿の間でも諸藩の間でも、岩倉や大久保・西郷らの孤立が深まり、岩倉具視も動揺し始め、13日には大久保利通に次の二つの策を示して意見を聞きました。
①土佐と芸州の動向如何にかかわらず、薩長の兵をもって天皇を守り、勅命に従わない 者を討伐し、勝敗を天に任せるか。
②徳川慶勝・松平春嶽のあっせんによって、徳川慶喜がもし辞官・納地を受諾すれば、これを議定に補し、他の公武合体派の公卿・諸侯もまた議定・参与に登用し、既往をとがめず、「氷炭相容レ正邪相合シテ皇国ヲ維持」するか。
大久保利通は西郷隆盛らと相談し、当分は尾張・越前のあっせんのなりゆきを見て、それが成功しないなら断然第一策にでようと答えたといいます。
16日には、徳川慶喜は、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ・プロシア・イタリア6か国の公使を引見しました。
これは、外交権が徳川家にあることを承認させることが目的でしたが、その席で各国は徳川家の正統性を承認しました。
こうした外交面での勝利は、朝廷に対する重要な勝利でした。
18日になると、山内容堂と松平春嶽は、徳川慶喜に、軽装で上洛し、辞官・納地の願を出すように勧めます。
これに対して、21日に徳川慶喜は、軽装上洛はよいが、辞官・納地は部下の反対をおさえられないから朝廷から呼ばれたかたちにして欲しいと要望します。
これについて松平春嶽・山内容堂は、徳川慶喜の希望を了承し、23日の三職会議でもそれを認めさせました。
また、辞官・納地についても、松平春嶽や山内容堂の尽力により、徳川家も他の諸藩と同列に、政府経費を献上することに決定しました。
徳川慶喜は、このことを喜び、老中たちと相談のうえ、上洛することを決定し、28日に朝廷への請け書をだました。
これにより、慶喜が上京参内して辞官の命令を受諾することを正式に回答し、そして、「朝廷経費を石高に応じて全国諸藩に割り当てて欲しい、そうすれば徳川慶喜もよろこんでその割当て額をさしだしたい」と願い出て、朝廷はその願いをいれるとともに、慶喜を議定に任命するということになるはずでした。
そうすれば、朝幕間の全面的な和解が成立し、山内容堂たちが主張する公議政体の名のもとに、天皇を名目的な最高君主とし、その下で慶喜が実権をにぎる体制ができるはずでした。
しかし、歴史はそうなりませんでした。
江戸で、薩摩藩邸の焼討事件がおきたのです。
この報告が28日大坂城に届くと、大阪城内は強硬論で沸騰します。
それに押されて、ついに徳川慶喜も大軍を京都に送り出すことを了承することになりました。
これにより、鳥羽伏見の戦いが始まることになります。
鳥羽伏見の戦いは次回書きます。