伏見の戦い(鳥羽伏見の戦い②)
今日は、鳥羽伏見の戦いの2回目ですが、伏見での戦いについて書きます。
淀を本営とした旧幕府軍は、正月3日、鳥羽街道と伏見街道とに分かれて入京しようとしました。
京坂淀駅を降りて、線路に沿って南に行くと淀城が見えてきます。
線路を背にして西に向かうと納所交差点があります。
淀小橋を淀城側から渡り、真っ直ぐ進むと鳥羽街道です。淀小橋を渡って右折し北上すると伏見にいきます。
伏見奉行所は、北側には道路を隔てて御香宮があり、南は堀川の水路を経て宇治川に接しています。
正面は西側にあり、北向きに大きな門が、東側に裏門がついていたようです。
団地入り口に石柱が立てられているだけです。
しかし、西南角の石垣をみると江戸時代の奉行所の名残りかなという印象をもちました。
旧幕府軍に対して、新政府軍は御香宮を拠点としていました。
御香宮は、平安時代に、この境内から「香」の良い水が湧き出たので、清和天皇よりその奇瑞によって「御香宮」の名を賜ったという歴史をもつ古い神社ですが、伏見奉行所とは、わずかな門前町を挟んで北側にありました。
新政府軍は薩摩藩兵を主力として、南の伏見奉行所に向けて砲列を並べていました。
こう書いておくと、非常に平面的ですが、実際に現地を訪ねてみると、御香宮のほうが高くなっているのがわかります。
この高低差は、薩摩藩側からは、駆け降りることになり、大砲を撃ちおろすことになりますから実戦の際に、薩摩藩側に有利に働いたと思います。
旧幕府軍は指揮者は竹中重固(しげかた)です。竹中のご先祖は、かの有名な竹中半兵衛でした。この時、竹中重固は陸軍奉行でした。
新政府軍は、伏見街道に急増の竹矢来の軍門を敷いて、旧幕府軍の進軍を妨げていました。
これに対して、旧幕府軍は、嘆願のため京に向かっているので、通してほしいと要求しましたが、新政府軍は、朝廷の許可がないということで、通過されませんでした。
新政府軍はのらりくらりの対応に業をにやしていた時、鳥羽方面から砲声が聞こえてきました。「鳥羽の一発の砲声」です。
これをきっかけに、旧幕府軍は、奉行所の門を開いて押し出します。これに対して、薩摩藩の大砲と鉄砲が一気に火を放ちます。
銃火器で劣る旧幕府軍は、劣勢を強いられます。
新選組の隊士たちも剣技を発揮できずに押し戻されてしまいます。
激しい砲撃と銃撃が続くなかで、銃をもたない新選組は、その実力を発揮できませんでした。
そうした中、土方歳三の決断で、永倉新八に斬りこみを命じます。
永倉新八以下の新選組が、奉行所の塀を乗り越えて、薩摩側に攻撃しますが、銃撃にあい、奉行所内に引き返さざるをえませんでした。
会津藩は、伏見の東本願寺にも陣を構えました。
こちらに対峙した新政府軍は長州藩でした。
会津藩軍勢は、佐川官兵衛が率いました。勇猛な佐川官兵衛が会津藩別選隊を率いて突撃しますが、こちらでも長州藩の銃火の前に死傷者を重ねるばかりでした。
伏見での戦いは午後5時ごろに始まりましたが、夜半になり、薩摩藩の砲撃が、奉行所の弾薬庫に命中し、大爆発を起します。
鳥羽伏見の戦いの際に残されて弾痕が、伏見の有名料亭「魚三楼(うおさぶろう)」の玄関脇の格子に残されています。
右上写真が、魚三楼(うおさぶろう)」全体の写真で、右写真が弾痕です。
はっきり残っていてびっくりしました。