淀城(鳥羽伏見の戦い③)
今日は、鳥羽伏見の戦いに関連して淀城のお話します。
鳥羽で敗北し伏見でも敗北した旧幕府軍は、1月5日、本営を淀城に入れて、其処を拠点にして、新政府軍に反撃しようと考えました。
しかし、旧幕府軍にとって、思いがけないことに、入城を拒否されます。
淀藩の当時の藩主は稲葉正邦で幕府老中でした。(ただし、稲葉正邦は、当時は江戸にいましたが・・。)これには、旧幕府軍も驚いたことだろうと思います。
なぜ、淀藩が入城を拒否したかは後で書くことにして、淀城について書きます。
淀城は、京坂本線淀駅の西南の方向にあります。淀駅から線路沿いに約3分歩くと淀城の表門になります。駅からあっという間です。下は淀駅前にあった案内図を撮影したものですが、右下の緑の部分が淀城です。駅からすぐそばだということがわかると思います。ちなみに右が南、下が西です。
淀城は、伏見城の廃城に伴い、元和9年(1623)、2代将軍徳川秀忠が、松平定綱に築城を命じ、寛永2年(1625)に完成しました。
淀城は伏見城が廃城とされた後、京都を守護するために築かれました。
淀は桂川・宇治川・木津川が合流する水陸の要所でもあったので、この地が選ばれたのだと思います。
淀城が築かれた場所は、桂川・宇治川と木津川に挟まれた川中島でした。
城内に立てられた説明板の地図をみると、淀城と城下町の様子がわかります。ちょっと見にくい写真で申し訳ありませんが、まさに水に囲まれていた城であることがわかると思います。
淀城は、川中島に造られた城ですので、周囲は川に囲まれていました。
城の北側を流れる宇治川にかかる橋が淀小橋で北岸の納所と繋がっていました。
城の南側には木津川が流れ、淀大橋が架けられていました。
城の東側に大手門があり、城下町は東側に広がり、城下町を京街道が貫通していました。
淀城は、初代の松平定綱以降、城主は譜代大名が続きました、
そして、享保8年(1723)稲葉正知が城主となり、それ以降、幕末まで稲葉家が続いていました。
稲葉家は、初代が稲葉正成で、正成の奥さんが有名な春日局です。
稲葉家が長いこと淀城主であった縁で、現在も城跡には、稲葉家初代の稲葉正成を祭神とする稲葉神社が鎮座しています。(下写真)
このような要衝にあり、鳥羽伏見の戦いの際には、現職老中が城主ですので、旧幕府軍が、淀城を拠点にして反撃しようとするのは当然です。
しかし、淀城は旧幕府軍の入場を拒否しました。
実は、1月4日、尾張徳川家の徳川慶勝から「中立を守るように」という意向が伝えられます。また、三条実美からの出頭命令もあったようです。
このように新政府軍からの圧力があり、ついに入城を拒むという決断をしました。
当時、藩主の稲葉正邦は、江戸にいましたので、国許の家老が決断をしたことになります。
入城を断られて旧幕府軍は、淀小橋や淀大橋を焼いて、新政府軍の進軍を防ぎました。
淀城の城下町にも火が放されました。その日は西風が強かったたため、城下町は、武家屋敷も町家の多くが焼失しました。
追撃する新政府軍は、淀小橋が焼け落ちているため、船に分乗して、淀城に押し寄せました。
淀城側では、すんなり入城を認めたので、薩摩藩側では逆に何か策略があるのではないかと疑ったほどだったそうです。
下写真は、淀城の西南方向から見た淀城の石垣です。以前に訪ねた時のものです。