錦の御旗の作成は極秘に行われた(鳥羽伏見の戦い④)
鳥羽伏見の戦いで、戦いの勝敗に決定的ともいえる重要な役割を果たしたのが「錦の御旗」です。
そこで、今日から2回にわたり、「錦の御旗」について書いてみます。
錦の御旗は、朝敵を征伐する官軍であることをあらわす旗です。
錦の御旗が最初に使用されたのは、承久3年(1221)に起きた承久の乱の際に、後鳥羽上皇が賜ったのが最初とされています。
次に使用されたのが、鎌倉時代末期で、後醍醐天皇が、鎌倉幕府を討とうとして兵を挙げた時には使用され、南北朝時代には、しばしば使用されたようです。
それ以降、室町時代になると、朝敵追討の際には、必ず将軍から奏請して官軍の大将に錦の御旗を賜ったようで、永享10年(1438)6代将軍足利義教が鎌倉公方足利持氏を討伐した際、康正元年(1455)足利成氏討伐の際などに錦の御旗が押し立てられています。
その後、江戸時代の長い平和の中で、錦の御旗が使用されることはありませんでした。
それが、鳥羽伏見の戦いで、突然、戦場に翻ることになり、新政府軍側の戦意を高め、旧幕府軍側の戦意をくじくことになりました。
この錦の御旗の利用を考え出したのは、岩倉具視です。そして、それを準備したのが大久保利通、品川弥二郎です。
この錦の御旗がどのように製作されたかを「大久保利通日記」や「岩倉公実紀」などを引用しながら書いていきます。
慶応3年10月6日に、洛北岩倉村の謹慎していた岩倉具視を大久保利通と品川弥二郎が訪ねます。
ここで、錦の御旗の制作が二人に岩倉から託されます。
『大久保利通日記』の慶応3年10月6日の条には次のように書かれています。
原文は候文ですので、私なりにわかりやすく書き替えておきました。
品川(弥二郎)を同道して、岩倉具視公の別荘に参上。岩倉具視公と中御門経之公に拝謁し薩摩藩と長州藩の国情を申上げた。その際、秘中の話を伺った。
このなかの「秘中の話」とだけ書いてあることが錦の御旗の事ですが、これでは、何が話されたのか全くわかりません。
しかし、『岩倉公実記』を読むと次のように具体的に書かれています。
なお、原文はカタカナ書きですが、少し読みやすくするため、ひらがなに変えてあります。
(岩倉)具硯また玉松操が作る所の錦旗の図をー蔵(大久保利通)弥二郎(品川弥二郎)に示し之を製作せんことを託す。一蔵、その寓居に帰るに及んで大和錦ならびに紅白の緞子(どんす)若干巻を購買す。弥二郎、之を携帯して長門に還り。諸隊会議所において日月章に錦旗を各2旒、菊花章の紅自旗各10旒を製作す。その半分を山口城に密蔵し、その半分を京師の薩摩藩邸に密蔵す。人敢て之を知る者なし
私なりに現代語訳すると次のようになります。
つまり、岩倉具視は、腹心の玉松操が作成した錦旗の図を大久保利通と品川弥二郎に見せて、これを製作するよう指示しました。大久保利通は、自分の住まいに帰り、大和錦と紅白の緞子(どんす)をいくつか購入しました。品川弥二郎はこれを長州に持ち帰り、諸隊会議所で、日輪と月輪の錦の御旗をそれぞれ2本ずつ、菊花章の紅白の旗を各10本製作しました。そして、半分は山口城に保管し、残りの半分は京都の薩摩藩邸に隠しておきました。このことを知る人はいませんでした。
大久保利通の住まいは、当時、京都御所の東にある石薬師御門の東に住んでいました。
現在は、普通の住宅となっていますが、「大久保利通旧邸」と刻まれた旧居を示す石柱が立てられています
大久保利通に頼まれて、錦の御旗の生地を購入したのは、大久保利通の妾のおゆうさんんです。中公文庫『大久保利通』(佐々木克編)には次のように書かれています。
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おゆうさんは一力亭の娘さんでした。よほど注意して買わないといけないというので、おゆうさんはなんだかんだを作るのだと言って買いにゆかれたのだそうです。買った生地は、おゆうさんが品川弥二郎が潜んでいる住まいに持っていったそうです。
生地を受け取った品川弥二郎は、それを長州に持ち帰り、錦の御旗に作り上げました。