錦の御旗、戦場に翻る(鳥羽伏見の戦い⑤)
今日は、錦の御旗の2回目です。
長州に帰った品川は、故郷萩の生地近くに住んでいた有職家の岡吉春という人物を呼出して、錦の御旗の製作を命じました。
岡吉春が記した『錦旗調製一件』なる文書が現存していて、それには次のように書かれているとのことです。
「吉春其調製の命を承け、弟子鬼童丸重助一人を倶し山口に到り、諸隊会議所の楼上に於て他人の出入を禁じ、励精調製に従ひ、約三十日間にして完成せり。而して之を調製するに方り其製式の拠るべき所なきに苦心せしが、終に大江匡房の『皇旗考』(毛利の蔵書にして世に公刊せられたるものにあらず)に拠り考究の末、其式を按出し正副二度を製作せり」
つまり、平安後期の貴族で儀式典礼に通じた大江匡房の『皇旗考』を参考に、山口にある諸隊会議所(奇兵隊その他各隊からの常置委員の詰所)の土蔵の二階で、他人の出入りを禁止し、30日間をかけて完成したと書いてあります。
現在、山口市一の坂川の「一つ橋(ひとつばし)」のたもとに、「錦の御旗製作所跡」の石碑が立っているそうです。
出来上がった錦旗は、その半分を山口に保管し、半分を京都相国寺林光院の薩摩藩邸内に密蔵し、12月9日、王政復古の大号令の際、岩倉具視の手を経て朝廷に納められました。
この錦の御旗が、慶応4年の正月4日に、鳥羽伏見の戦場に翻ります。
征討大将軍仁和寺宮嘉彰親王は寒風に日月の錦旗二旅を翻して出陣、本営の東寺に入り、5日、仁和寺宮は最前線近くまで錦旗を進めて淀の激戦を巡視しました。下記写真は東寺の五重塔です。
錦の御旗を見た新政府軍は奮い立ち、旧幕府軍は青天の下にあがった錦旗を遠望し闘う気力を失い敗走を開始したといいいます。
岩倉公実紀には次のように書いてあります。
「4日仁和寺宮嘉彰親王をして征討大将軍となし錦旗節刀を授く。参与四條隆語と参与助役五條為栄を錦旗奉行となし薩摩長門安芸三藩の兵をして之に衛従せしむ。午後親王陛辞して出づ東寺に次す。5日、官軍、鳥羽宇治二道より淀城を進撃す。賊軍峻拒し官軍戦闘頗る苦しむ。親王即ち巡視す。諸隊錦旗を望見し鋭気頓に倍す。賊軍支ふる能ずして走る。」
また『東伏見宮家記』には次のように書かれているそうです。
「淀堤辺御巡濯のところ、先刻苦戦の官軍、淀川づつみ上に在って、大将軍並びに錦旗を拝し、踊躍喜悦の声、天にひびき地にとどろく。官軍の勝利、未曽聞のところなり」
錦の御旗の威力は絶大のものがあったようです。
考案した岩倉具視のこれまでの威力があるとは予想しなかっただろうと書いてある本もあります。