伊東甲子太郎暗殺
慶応3年11月15日、宿泊先の近江屋で襲撃された坂本龍馬は即死し、中岡慎太郎は重傷を負いましたが、翌々日17日に亡くなりました。
二人の葬儀は、海援隊士、陸援隊士、土佐藩士、薩摩藩士等が大勢参列し18日に行われ、二人は京都東山霊山に埋葬されたといわれています。下記写真は、霊山の坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓です。
当初、二人の暗殺者と強く疑われたのは新選組ですが、坂本龍馬と中岡慎太郎の葬儀が行われた18日に、かつての同志伊東甲子太郎を暗殺しています。
伊東甲子太郎は、元治元年、同じ北辰一刀流の藤堂平助の仲介で新選組に加盟しましたが、慶応3年3月19日に、孝明天皇陵の御陵衛士を拝命し新選組から独立しました。伊東甲子太郎は、仲間と共に高台寺月真院に拠点を移し高台寺党と呼ばれていました。下記写真は御陵衛士が屯所を置いた高台寺月真院です。門前に御陵衛士屯所跡と石碑に刻まれています。
この伊東甲子太郎を11月18日、近藤勇は資金の用立て・国事の相談があるとの口実で七条の醒ヶ井木津屋橋上るの妾宅に伊東を招きました。
そこで、近藤勇のほか、土方歳三たちもいて、一緒になって宴会が開かれました。
酒好きの伊東甲子太郎はついつい酒を呑んでいきます。
そして、午後10時過ぎに、近藤勇の妾宅を出て、木津屋橋を東に入った通りで、新選組隊士の大石鍬次郎が待ち伏せて槍を突き出して伊東甲子太郎を刺しましました。
伊東甲子太郎は深手を負いましたが、よろよろと近くの尼寺本光寺までたどりつきましたが、本光寺前で絶命したといいます。
本光寺は、京都駅からそれほど遠くないところにあります。
以前訪ねた時には、本光寺は無住のお寺となっていて、近くの床屋さんがカギを管理されていて、お願いしたら、中に入れてくださいました。
山門を入るとすぐに右手に「南妙法蓮華経」と刻まれた石碑があります。
伊東甲子太郎は、新選組に襲われ致命傷を負った際に、この石碑に腰かけたと言われています。
この石碑は、当時は、門前にありましたが、その後、お寺の敷地を拡げたので門の内側に置かれることになったようです。
この伊東甲子太郎ですが、中村彰彦氏は『新選組全史 戊辰箱館編』で、坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃される前の11月13日に、坂本龍馬と中岡慎太郎を藤堂平助とともにわざわざ近江屋を訪ねて「新選組と見廻組がおふたりをねらっているらしい。このような町屋にいては危険きわまりないから、至急土佐藩邸に移って身を守ってくだされ」と言ったが、中岡慎太郎は「親切な注意はありがたい」といったものの坂本りょうまは何も言わなかったと書いています。
大変興味を覚えましたので付記しておきます。
赤印が、本光寺です。