近藤勇、狙撃される(墨染の難)
油小路の変で、伊東甲子太郎を暗殺し高台寺党の3人を殺害した新選組ですが、逆に高台寺党の生き残りメンバーから、局長の近藤勇が、狙撃されるという事件がおきました。
今日は、その近藤勇が狙撃された「墨染の難」について書きます。
油小路での新選組の襲撃を逃れた高台寺党の鈴木三樹三郎たちは、京都烏丸の薩摩藩邸に保護され、11月21日に伏見の薩摩藩邸に移りました。
12月9日の王政復古の大号令により、辞官納地を命じられた徳川慶喜は、幕臣や会津藩の強い怒りにより戦いが起こることを懸念し、12月12日に大坂に下ることにしました。
その時に、新選組も、京都を離れることになりました。
本来であれば、大坂まで下るところですが、伏見奉行所に駐屯を命じられました。
以後、伏見奉行所が新選組の屯所となりました。
そして18日、近藤勇は若年寄永井尚志らと軍議のため二条城に入りました。
軍議を終えて二条城を出た近藤勇は十数人の隊士を連れて屯所に向かいました。
その途中、伏見街道を馬に乗って南下していた近藤勇一行が、現在の墨染(すみぞめ)付近にさしかかったところ、突然、空家の中から狙撃されました。
時刻は午後4時ごろとも7時ともいわれています。
近藤勇が狙撃されたと言われている場所近くに藤森神社があります。(下写真)
狙撃したのは、高台寺党の生き残りの富山弥兵衛でした。
近藤勇は右肩を撃たれましたが、なんとか、馬からの転落を食い止めました。
そして、高台寺党の3人が、新選組に斬りこみをかけたので、近藤の馬のそばにいた隊士が、馬の尻をたたき、近藤を避難させました。
近藤の乗った馬は、少し離れた伏見奉行所に飛び込みました。こうして、近藤は命拾いをしました。
襲撃した高台寺党は、少人数でしたが、無事に逃げ切り、薩摩藩邸に逃げ込みました。
近藤勇は、命は助かったものの、傷の治療のため、大坂に下ることになり、以後の新選組の指揮は土方歳三がとりました。
そのため、近藤勇は鳥羽伏見の戦いでは戦っておらず、新選組は土方歳三の指揮下で戦いました。
近藤勇が襲撃されたのは、伊東甲子太郎の暗殺からちょうどひと月たった日でした。
伏見の薩摩藩邸に身を寄せて復讐の機会をじっとうかがっていた高台寺党の残党の執念の前に、さすがの近藤勇も痛い目にあうことになりました。