今町の戦い(北越戦争レポート⑫)
今日は、北越戦争のうちの「今町の戦い」について書きます。
今町は、長岡市の北側の見附市にあります。6月に長岡を旅行した時には時間がなくて行くことができませんでした。
慶応4年5月19日に長岡城が落城しました。
しかし、長岡藩と河井継之助(つぎのすけ)は、そのまま敗北したわけではありません。
河井継之助(つぎのすけ)は、一旦、栃尾に退却しました。
新政府軍は、追撃するほどの余力はありませんでした。
長岡城陥落しましたが、榎峠や朝日山を死守してした部隊は損害はありませんでした。
しかし、挟撃される恐れがあるため、榎峠や朝日山の部隊も栃尾に退却しました。
河井継之助(つぎのすけ)は、栃尾に集結した長岡藩兵をまとめて、栃尾に橋頭保を築きました。
一方新政府軍の山県有朋は、少人数で一気に長岡藩勢や同盟軍を叩き潰す作戦はとらず、慎重な作戦をとりました。
そのため、与板から長岡まで長い距離に軍勢を配置し、長岡藩と同盟軍に対置させました。
そこで、河井継之助(つぎのすけ)は、栃尾から賀茂に軍勢を移動させました。
河井継之助(つぎのすけ)にとって、長岡城は焼失していることから、大きな防衛拠点とはなりませんが、長岡城を奪還すれば、長岡藩勢ばかりでなく奥羽越列藩同盟全体の士気もあがることから、長岡城奪還を大きな目標としました。
そのために、長岡城に近づくことが重要であり、賀茂から長岡城下にいたる途中にあり、新政府軍が重要な前進補給基地と位置づけていた今町を攻撃する作戦を立案します。
河井継之助は、隊を3つに分けて今町をめざす戦術をとりました。
6月2日、河井継之助(つぎのすけ)は、今町の新政府軍への攻撃を開始します。
中央は、家老の山本帯刀が率いる部隊が進みます。この部隊は新政府軍を牽制する役割を果たしました。そして河井継之助(つぎのすけ)は、右翼から進む主力部隊の指揮を自ら取りました。さらに、左翼は、米沢藩の別働隊が進みました。
今町にいる長州の三好軍太郎率いる高田・尾張藩兵を中心とする軍勢は、中央から攻める牽制隊を主力部隊と錯覚し、この部隊を攻撃しました。
敵兵の注意が牽制隊に向けられている隙に、河井継之助(つぎのすけ)が指揮をとる主力部隊が新政府軍を攻撃しました。
兵力の点では圧倒的に劣る同盟軍でしたが、敵陣を3方から取り囲み攻撃をかけるという河井継之助(つぎのすけ)の作戦が見事に成功し、新政府軍を敗走させ、軍監三好軍太郎も負傷しました。
この今町の戦いでの勝利を踏まえて、いよいよ、北越戦争では最も名高い「八丁沖渡渉作戦」が実施されることになります。
「八丁沖渡渉作戦」については次回書きます。