松前城攻略と開陽沈没(箱館戦争史跡めぐり⑧)
箱館と五稜郭を占領した旧幕府軍は、土方歳三を総指揮者とした700名の部隊が、松前城攻撃に向かいました。大鳥圭介は五稜郭に残りました。
土方歳三が率いた部隊は、彰義隊、額兵隊、陸軍隊などでした。
松前城攻撃に向かう部隊に新選組は含まれていません。しかし、攻撃軍の指揮は土方歳三がとりました。
もうすでに、土方歳三は、新選組の指揮者にとどまらず、旧幕府軍の重要な幹部になっていたのです。
11月5日、土方歳三ひきいる旧幕府軍は、松前城を攻撃します。
この攻撃には、海からも回天と蟠龍が砲撃を加えました
両艦の砲撃などにより城内では火災が生じ、その中を旧幕府軍がなだれ込み、松前城は陥落しました。
松前藩兵は、江差にむけて落ちていきました。
この戦いで松前城下では火事が盛んとなり、城下の4分の3が焼失しました。
さらに15日には、旧幕府軍に備えて急造された館城も、松岡四郎次郎率いる一聯隊約200名の攻撃を受けて落城しました。
この戦いでは、左手に俎板、右手に大刀をふりかざして、今弁慶さながら奮戦、戦死した松前法華寺住職の三上超順の名が伝えられています。
五稜郭タワーの歴史回廊にもジオラマで三上超順の門前で奮戦する姿が描かれています。
11月19日、松前藩主松前徳広は、蝦夷地を離れ、津軽まで逃れ、弘前の薬王院に入りました。まもなく、松前徳広は肺結核が悪化し25歳の若さで病死しました。
こうした陸軍の速攻と奮闘によって松前攻略に成功しましたが、旧幕府軍には海で悲劇が起こりました。
陸軍の江差攻撃の応援のため江差沖に碇泊中の開陽が、15日夜暴風雨に襲われて座礁し、数日後に沈没してしまったのです。
開陽はオランダで建造された軍艦で、当時世界でも最新鋭の軍艦で、開陽の進水式はオランダで話題になったほどです。
当然のことながら日本でも最新鋭で、榎本武揚および同行の旧幕府軍全員が最も頼りにしていた軍艦です。
これがあっけなく沈没してしまいました。
しかも開陽の救援に向かった神速丸も座礁し沈没してしまいました。旧幕府軍にとっては大きな痛手でした。
この開陽沈没はあまりにも衝撃的であったため、江差攻略を指揮していた土方歳三が、沈没する開陽を眺めながらそばにある松の木を殴りつけたという逸話が残っています。
下写真は、五稜郭タワーの歴史回廊のジオラマですが、土方歳三がこぶしを松にたたきつけている場面を描いています。
この時の松は、現在も江差町郷土資料館の前に「土方歳三嘆きの松」として現存しているそうです。