鴻池善右衛門幸富(幕末・維新を乗り切った商人たち⑤)
鴻池家の始祖は、戦国大名の尼子氏の忠臣であった山中鹿之助幸盛の長男新六直文であると言われています。
新六は、慶長年間に摂津国鴻池村(現在の宝塚市)で酒造業を始めました。
鴻池村を本拠としたことから鴻池と名のったと言われています。
新六が改良したとされる酒は「諸白(もろはく)」と言われる清酒ですが、これは、新六の店の手代が叱責された腹いせに灰を投げ込んだことで、はじめてその製法が発見されたものであるとの言い伝えもあります。
やがて、新六は大坂市内の久宝寺町に店舗を設けて醸造・販売を営むようになりました。その後、海運業や両替商にも進出しました。
そして、鴻池村の本家と醸造事業は、新六の七男の新右衛門元英が継ぎました。
また、大坂の醸造・海運事業は、八男の善右衛門正成が引き継ぎ、それ以降代々の当主は善右衛門を名のりました。
3代目善右衛門宗利の時に、醸造業や海運業から手を引き、両替商に重点を移しています。
幕末・維新期の鴻池の当主は10代目の鴻池善右衛門幸富です。
鴻池善右衛門幸富は、天保12年(1841)、鴻池一族の山中又七郎家の長男に生まれ、弘化3年(1846)、本家鴻池善右衛門家の養子となりますが、9代善右衛門幸実が早く没したため、嘉永4年(1851)、11歳で家督相続しました。
当時、鴻池家は、幕末維新の動乱期で、大名への貸付金の回収がままならないうえ、幕府からの御用金の要請が多額となるなど、経営困難に直面していました。
その中で、鴻池善右衛門幸富は、家業の維持に懸命に努力しました。
そうした中で、文久3年に結成された新選組を財政面で支えたのが鴻池であるとも言われています。
「新選組全史」(中村彰彦著)によれば、制服を作る金のなかった新選組は、文久3年7月4日 に、芹沢鴨らが鴻池善右衛門幸富を訪ね200両の借用を申し入れ無理やり借りてきました。この際に鴻池善右衛門幸富みずからが応待して200両を用立てたともいいます。
この話を聞いた会津藩は芹沢鴨を呼びつけ、すぐに借金を返すよう命じたため、この借金は、すぐに鴻池に返済されました。
(なお、お題テキスト「疾走!幕末・維新」には500両を鴻池から借りたと書いてあります。)
この件が縁になって、鴻池と新選組は親しくなり、元治元年(1864)正月、鴻池の屋敷に賊が押し入った際に、近藤勇の指示により土方歳三らが駆けつけ、その謝礼に近藤勇が銘刀・虎徹を鴻池から贈られたという話もあるそうです。(もっとも近藤勇の虎徹については諸説がありますので、これが事実かどうかは不確かのようです。)
それからも鴻池と新選組の友好関係は続きます。
箱館戦争で戦死した土方歳三の供養碑が函館市内の称名寺に供養碑を建立されていいますが、この供養碑は、鴻池の箱館支店の手代大和屋友次郎が中心となって建立されたとされています。
この供養碑は、称名寺が明治になって3回の大火にあっているため、当時のものはありませんが、昭和48年に再建されたものが、箱館山中腹の称名寺現存して、8月に函館に行った際に訪ねてきました。(下写真参照)
明治になると、大名貸の破綻により、鴻池は一気に経営危機に陥ります。しかし、鴻池善右衛門幸富は、外部から優秀な人物を招へいするなどして、経営危機を脱します。
そして、第十三国立銀行の設立、日本生命の設立に参加するなど、家業の再生に努めました。
鴻池善右衛門が設立した第十三国立銀行は、鴻池銀行となり、さらに、鴻池銀行・三十四銀行・山口銀行の3行が合併し、三和銀行が創立されました。三和銀行は、UFJ銀行を経て、現在は三菱東京UFJ銀行となっています。