開陽丸沈没後の最強軍艦「甲鉄艦」
昨日の「開陽丸」に続いて、今日は「甲鉄艦」について書きます。
「甲鉄艦」の前名は、「ストーンウォール」と呼ばれました。
このストーンウォールの前半生は数奇な運命をたどりました。
ストーンウォールは、もともとは、アメリカの南北戦争当時、南軍がフランスに発注したもので、フランスのボルドーで建造された軍艦です。
しかし、フランス政府は、南軍への引き渡しを許しませんでした。
そこで、一旦スェーデンに売り渡され、その後、さらにデンマークに売却されまました。それから、南軍に渡されることになりました。そして、コペンハーゲンで南軍に渡されたた際に、「ストーンウォール」と名付けられました。
これは、南軍の猛将ジャクソン将軍のニックネームがストーンウォールであり、それにちなんでなづけられた名前でした。
その後、キューバを経てアメリカに到着したのは、南北戦争が終了した後でした。
その頃、幕府は、軍艦を購入するため、小野友五郎を正使とした使節団をアメリカに派遣していました。
小野友五郎(*小野友五郎については、江戸検お題テキスト『疾走!幕末・維新』でも触れられています)は、ワシントンの海軍工廠で、ストーンウォールを見つけ、これを購入したいとアメリカに要請します。
ストーンウォールをアメリカ海軍にとって不要であると判断したアメリカは、ストーンウォールを徳川幕府に売却することにしました。
こうして、ストーンウォールが日本にやってくることになりました。
しかし、ストーンウォールが、慶応4年4月2日に横浜に到着した時には、戊辰戦争が始まっていました。
この時、アメリカは局外中立を宣言し幕府への引き渡しを拒否しました。
一方、海軍力に劣る新政府側も、甲鉄艦の引き渡しを要求しましたが、アメリカはこの要求も拒み、甲鉄艦は横浜にしばらく繋留されたままとなっていました。
甲鉄艦(ストーンウォール)は、木造の船ですが、重要な部分は5.6インチの厚い鉄板で装甲していました。また、13インチのアームストロング砲も装備していました。
その上、船首の水中に長さ6mの「ラム」と呼ばれる衝角(しょうかく:艦船の船首の水中部分に取り付けられる体当たり用の武装)を持った軍艦でした。
当時は、ほとんどの軍艦も木造船であったため、水面下にある衝角による体当たり攻撃で、相手の船腹に大穴を開けて沈没させることができました。
また、装甲されているため、船体が重く、喫水線上が舷側が1.5メートルほどしかありませんでした。このため、後述する宮古湾海戦において回天から甲鉄艦に移乗する際に大きな高低差が生じて、回天からの移乗を困難にさせました。
ストーンウォールが新政府の手に引き渡されたのは、明治元年12月28日にアメリカが局外中立を解除した後の明治2年2月3日のことでした。
明治新政府に引き渡されたときに、ストーンウォールは「甲鉄艦」と名付けられました。「甲鉄」という名前は、装甲艦を意味した名前です。
甲鉄艦が日本に引き渡された際には、すでに開陽丸が沈没していたため、当時、国内最強の軍艦でした。
甲鉄艦は、新政府海軍の旗艦となり、箱館に向かいました。
開陽丸を失い海軍力が一気に落ちた榎本武揚率いる旧幕府軍に対して、甲鉄艦を入手した新政府軍は一気に海軍力が高くなりました。
劣勢にたった旧幕府軍は、この形勢を挽回するために、甲鉄艦の奪取を計画しました。こうして起きたのが「宮古湾海戦」です。
旧幕府軍は、回天丸、蟠龍丸、高雄丸の三艦を軍艦を派遣し、アボルダージュ作戦と呼ばれる軍艦乗り移り戦法で、甲鉄艦を奪い取ろうとしました。
しかし、旧幕府海軍は再び悪天候に見舞われ、2艦が離散してしまい、回天のみで突入しましたが、失敗に終わりました。この宮古湾海戦については、お題テキスト『疾走!幕末・維新』に詳しく書かれています。
その後、甲鉄艦は青森に入港した後、箱館戦争に参加し、海上から新政府軍を支援するとともに、箱館総攻撃の際には、箱館湾から五稜郭を砲撃しました。
その威力はすさまじいものだったようです。この砲撃により、旧幕府軍の古屋作左衛門が重傷を負った後亡くなっています。
箱館戦争終了後、甲鉄艦は、明治4年に「東(あずま)」と改名し、明治21年まで、沿岸警備艦として活躍しました。