佐藤尚中の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑨)
谷中霊園に眠る幕末の有名人の第9回は、佐藤尚中(たかなか)です。
前回佐藤泰然についてかきましたが、佐藤尚中は、佐藤泰然の養子で、東京の順天堂(現在の順天堂大学)の創設者です。
佐藤尚中のお墓は、谷中霊園の甲9号1側にあります。駐在所わきの十字路を西に入った場所です。
佐藤尚中は、「しょうちゅう」とも呼ばれますが、正式には「たかなか」です。号は舜海または笠翁と言いました。
谷中霊園には、お墓のほかに、顕彰碑が、駐在所の南側に建てられています。
有栖川宮熾仁親王が書いた篆額には「故大学大博士佐藤尚中の碑」と刻まれています。
佐藤尚中は下総国小見川藩医山口甫僊(ほせん)の次男として生まれ、16歳で江戸に出て儒学を「江戸繁昌記」で有名な寺門静軒に学び、医学は安藤文澤に入門しました。
しかし、安藤文澤の勧めで佐藤泰然に弟子入りしました。
たまたま喧嘩をして大けがした人がいて、安藤文澤に治療を頼んだが運悪く文澤が留守でした。そこで佐藤尚中(当時は山口舜海)は、裁縫用の針で傷口を24針縫い合わせましたが、大変落ち着いて処置したことを聞いた文澤が、我が門下においておくには惜しいと考え佐藤泰然の下で学ぶことを勧めたと言われています。
こうした佐藤尚中ですから、佐藤泰然のもとで学ぶなかで、たちまち頭角を現しました。
嘉永6年(1853)、泰然の養子となって佐藤姓に改め、佐倉藩医にもなりました。
長崎に行っていた佐藤泰然の実子松本良順からポンペの情報を得て万延元年(1860)に長崎に遊学し、ポンペに学んで、文久2年(1862)に佐倉藩に帰りました。
慶応2年、佐倉に佐倉養生所を開設しましたが、これは、松本良順が長崎で開設した長崎養生所(現在の長崎大学医学部)を身近で見ていた経験が活かされています。
しかし明治2年(1869)、佐倉藩の医学改革を進めている最中、明治新政府から医学教育の改革のため大学東校(現在の東大医学部)の大学大博士になることを要請されて上京しました。
明治5年に私立病院博愛舎を日本橋に開設し、明治6年いっさいの官職を辞して東京順天堂を下谷練塀町に開設しました。
練塀町の医院は狭くて大勢の患者を収容できないため、明治8年に湯島(現在の順天堂大学付属順天堂医院の所在地)に移転しました。
しかし開院直後に結核に冒され、ドイツ留学中の養子佐藤進を呼び返して順天堂の運営を任せ、佐藤尚中は根岸の自宅で病気療養し、病が落ちつくと順天堂医院で診療をしていましたが、明治15年7月23日、ついに病にかてず56歳の若さで亡くなりました。
順天堂大学の付属病院は、多くの人が順天堂病院と呼びますが、現在も正式には「順天堂医院」と名乗っています。 下写真をご覧ください。