島津斉彬の藩主就任(大河ドラマ『西郷どん』⑥)
日曜日の『西郷どん』第4回「新しき藩主」では、いよいよ島津斉彬が新藩主となりました。
『西郷どん』では、島津斉彬が新藩主になるにあたり、島津斉興との勝負にロシアンルーレットが利用されています。こんなやり取りがあったのかどうかわかりませんが、ドラマとしては、おもしろい場面でした。
しかし、多くの本では、島津斉彬が新藩主になるにあたっては、福岡藩主黒田斉溥の支援があったと書いてあります。
そこで、大河ドラマの展開とは少し異なりますが、お由羅騒動で、斉彬派の藩士が多く罰せられるなかで、どのように斉彬は巻き返していき新藩主となれたのかについて、『島津斉彬』(芳即正著)を参考に書いていきます。
「お由羅騒動」は、「高崎崩れ」や「近藤崩れ」とも呼ばれます。処罰された斉彬派の藩士の中心人物が船奉行高崎五郎右衛門や町奉行近藤隆左衛門であったためです。
嘉永2年(1849)12月3日に、船奉行高崎五郎右衛門や町奉行近藤隆左衛門が藩の評定所からの呼び出しを受けた際に、鹿児島城下の諏訪神社の神官井上正徳に、福岡藩主黒田斉溥に訴えて善後策を立てるよう依頼しました。
黒田斉溥は、島津重豪の十三男として生まれ、福岡藩主黒田斉清の養子となり、天保5年(1834)に福岡藩主になっていました。
島津斉彬にとっては大叔父ということですが、斉彬より2歳年下でしたので、兄弟同様な仲であったといいます。
嘉永2年12月4日に脱藩し福岡に亡命した井上正徳ら4人は、福岡に到着早々、藩主黒田斉溥宛に嘆願書を提出しました。
嘆願書を見た黒田斉溥は、島津斉彬に連絡するとともに井上を保護しました。
その後も、薩摩藩士が脱藩して福岡に亡命してきたため、それを保護するとともに老中阿部正弘にも事情を報告しました。
その一方で、翌嘉永3年(1850)5月1日に江戸にいる宇和島藩主伊達宗城に、事件の処理を依頼しました。
伊達宗城の夫人の母親は、斉彬の母周子の姉でしたので、伊達宗城は島津斉彬とは義理の従兄ということになります。
これを受けて伊達宗城は6月2日と11日に阿部正弘と対談し、薩摩藩の状況を報告しています。
こうした報告を受けて、阿部正弘は、島津斉興は隠居しなければならないと思うと述べてようです。
8月には、中津藩主奥平昌高や八戸藩主南部信順ら親族大名が集まり協議しますが、島津斉興に引導を渡せる適当な人物がおらず隠居勧告できず、10月に出府してきた島津斉興に対して、ようやく「、11月、南部信順を通じて、阿阿部正弘が隠居勧告の意向を伝え、12月3日に、江戸城に登城した際に、将軍から赤衣肩衝(あけのころもかたつき)という茶入を下賜されました。
これは表向きは「ご苦労様」という賞賛ですが、武将に茶器を下賜するのは「引退しろ」という謎かけでした。
しかし、島津斉興は、従三位昇進の願いがダメになることを怖れて、すぐには隠居願いを出しませんでした。
翌嘉永4年(1851)年正月になって、隠居後も従三位に昇進した例があるとの連絡が京都からあり、やっと島津斉興は隠居願いが出されました。
高崎崩れが起きてから1年以上たって、ようやく島津斉彬は藩主となりました。