2012年 04月 11日 ( 2 )
家康の子供たち②(徳川将軍15代)
今日は、家康の11人の男子の子供たちの略歴について書いてみます。

長男 信康 
 永禄2年(1559)駿府で生まれ、母は家康の正室築山殿です。
 武勇に優れていましたが、信長から武田氏に内通しているとの疑惑をもたれ天正7年(1579)切腹、20歳でした。

次男 秀康 
c0187004_923778.jpg  天正2年(1574)、浜松で生まれました。母はお万の方。
 豊臣秀吉の養子となり秀康となのり、さらに結城家の養子となり結城秀康と名のりました。
 関ヶ原の戦い後、越前67万石に封じられ越前松平家の祖となりましたが、慶長12年(1607)に34歳でなくなりました。

三男 秀忠
  2代将軍 後に詳しく書きます。

四男 忠吉 
 天正8年(1580)浜松で生まれ、母は西郷局で秀忠の同母弟になります。
 東条松平家を継ぎ三河国東条城、駿河国沼津城を経て、武蔵忍城10万石城主となり関ヶ原の戦い後、尾張清洲城主となりましたが、慶長12年(1607)に28歳で亡くなりました。

五男 信吉 
 天正11年(1583)生まれ、母は甲斐武田氏の関係者と言われる下山殿。
 そのため、武田信玄の次女で穴山梅雪の正室であった見性院が後見人となり、元服して武田七郎信義と名乗りました。
 文禄2年(1593)に下総国佐倉城10万石を与えられた後、関ヶ原の戦いで、佐竹氏が西軍に属し、戦後、佐竹氏は秋田に移封されたため、佐竹氏の領地水戸で25万石に封ぜられ、武田家を再興しました。
 しかし、慶長8年(1603)21歳で死去し、子女もいなかったので、武田家は再び断絶しました。

六男 忠輝 
c0187004_942527.jpg 天正20年に生まれ、母は茶阿局です。
 幼いころは、下野栃木(長沼)城主で3万5千石の大名である皆川広照に預けられて養育されました。
 成長した後、長沢松平氏の家督を相続し、武蔵国深谷1万石を与えられた後、下総国佐倉5万石に転封され、元服して上総介忠輝を名乗りましたが、慶長7年(1602)、信濃国川中島12万石に転封されました。
 慶長15年(1610)には、越後高田藩75万石の藩主となりました。
 大坂の陣が起こると,江戸城留守居に留められ、大坂夏の陣では、戦闘に遅れたこと、将軍秀忠の旗本二人を殺したことから、家康の怒りをかい、元和2年(1616)に改易され、伊勢国(三重県)朝熊に配流されました。その後,飛騨高山、信州諏訪に配流先も移されましたが、92歳の長命を保ち、5代綱吉の時代になくなりました。

七男 松千代 
 文禄3年(1594)に生まれ、母は茶阿局で松平忠輝の同母弟です。
 慶長4年(1599)にわずか5歳でなくなりました。

八男 仙千代 
 文禄4年(1595)に生まれ、母はお亀の方で徳川義直の同母兄になります。
 家康の重臣である平岩親吉の養嗣子になりましたが、慶長5年(1600)になくなりました。わずか4歳でした。

九男義直 
 慶長5年(1600)生まれ、母はお亀の方です。
 慶長8年(1603)に3歳で甲斐25万石藩主となりました。
 慶長11年(1606)に元服し、翌慶長12年に、兄の松平忠吉が死去したため兄の遺領を継いで尾張国清洲藩主になりました。
 御三家尾張徳川家の初代藩主です。

十男 頼宣
 慶長7年(1602)、伏見城にて生まれ、母はお万の方。 
 慶長8年(1603)に2歳で常陸水戸20万石藩主となり、慶超14年(1607)駿河国駿府藩を経て、元和5年、紀伊国和歌山藩の藩主となった。
 御三家紀伊徳川家の初代藩主です。

十一男 頼房
 慶長8年(1603)、伏見城にて生まれ、母はお万の方で頼宣の同母弟。
 慶長11年(1606)3歳にして常陸下妻城10万石を、次いで慶長14年(1609)、実兄頼宣の駿河転封によって、常陸水戸藩25万石の藩主となりました。
 御三家水戸徳川家の初代藩主です。

 右上の写真は名古屋城、右下の写真は和歌山城です。
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by wheatbaku | 2012-04-11 15:35 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
家康の子供たち①(徳川将軍15代)
 先日、家康の子供のうち、秀康と忠吉について書きましたが、これを書いていて、気が付いたことが二つあります。

 第一は、家康が、後継者を秀忠としましたが、これは正しい選択だったということです。
 関ヶ原の戦いの後、家康は後継者にするには、次男秀康、三男秀忠、四男忠吉のうちだれが適切かどうかについて、重臣に諮問しています。
c0187004_961839.jpg そして、その意見を踏まえ家康が熟慮した結果、後継者が秀忠になったと先日書きました。
 秀忠のライバルであった秀康と忠吉は、慶長12年(1607)に亡くなっています。
 もし、秀康、忠吉のいづれかが後継者になっていたら、家康は慶長10年(1605)に将軍の座を譲っていますので、二代目将軍は短命で終わったことになります。
 そして、慶長12年には、競争相手であった秀康と忠吉が同時になくなってしまったので、残る後継者は秀忠しかいないことになり、最終的には秀忠が後継者になり、徳川幕府の基礎を固めたということになるのではないでしょうか。
 こう考えると、家康の選択は、長期政権を維持できる2代目を選ぶという点で、正しかったということになります。
 
 第二は、幕府創世記には、予想外に家康の後継者が少なかったということです。
 家康が天下を取り、それが長く維持できたという理由の一つに後継男子が数多くいたということが挙げられています。
 それは、秀頼一人しかいなかった豊臣秀吉と比較すれば一目瞭然ですので、あたっていると思います。
 しかし、そう言われるほど後継者が盤石ではなかった時期もあったということに気が付きました。
 家康の子供は、男子は11人いました。しかし、秀康と忠吉がなくなった時点では、男の子は既に6人がなくなっており、生存している男子は5人しかいませんでした。(もちろん、5人もいたとも言えますが・・・)

 慶長12年(1607)時点のそれぞれの年齢は次のようになります。
  三男 秀忠 28歳
  六男 忠輝 15歳
  九男 義直  6歳
  十男 頼宣  5歳
  十一男頼房  3歳 となります。

 義直、頼宣、頼房は、まだ幼くて、とても政権を補佐する能力はありません。
 そして忠輝は家康が大変嫌っていました。
 つまり、家康・秀忠は、子供・兄弟という点からみると、慶長12年の時点では、秀忠に代わりうる人物が非常に少なかったということが言えます。
 ですから、家康・秀忠は、後継者や代行者の確保という点では、薄氷を踏む思いで、政権運営をしていたのではないかと思います。

 また、尾張・紀伊・水戸の徳川家は御三家と呼ばれましたが、それぞれの初代は、尾張徳川家は九男の義直、紀伊徳川家は十男の頼宣、水戸徳川家は十一男の頼房ということになります。
 三人とも、家康晩年の子供です。
 なぜ、晩年の子供たちが御三家となったかというと、晩年の子供たちしか生存していなかったという事情があったことがわかります。

 11人もいた家康の子供たちについては、信康・秀康・忠吉についてすでに書きましたが、それ以外の子供たちについてはまだ書いていませんので、明日書きます。
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by wheatbaku | 2012-04-11 09:11 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
  

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