8月の獏塾ゼミが開催されました。

8月の獏塾ゼミが開催されました。

日曜日に 獏塾ゼミが開催されました。

獏塾ゼミは、江戸検1級合格をめざして勉強しているグループ「獏塾」で、塾生同志で勉強しましょうということで開催していますが、4月から6月までは『江戸博覧強記』について勉強し、7月と8月は今年のお題の「幕末・維新」について勉強しました。

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先日の獏塾ゼミは、今年の最後のゼミですが、蝦夷っ子さん(下写真)を講師にして「幕末・維新」の2回目で「徳川慶喜の将軍就任から戊辰戦争終了まで」について勉強しました。

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蝦夷っ子さんは、お題のテキストからの重要項目をピックアップした資料のほか、独自に作成した年表や地図を資料として懇切に説明してくれました。

いつもの通り、わかりやすい説明で、よかったです。

それは私だけの感想でなく、参加者の皆さんもそう感じたようです。2回の講義で「幕末・維新」について理解がふかまったと大変好評でした。

 中嶋さん、豊富な資料の作成と講義ありがとうございました。

 続いて、本郷の主殿さん(下写真)担当の模擬試験出題と解説です。

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 今回の模擬試験は、「幕末・維新」関連が半分、過去問が半分でした。

 「幕末・維新」では太田垣蓮月について出題され、多くの参加者が苦心したようです。

しかし、主殿さんの解説で理解が深まったようで、帰りがけに大分話題となっていました。

 また、過去問を題材に、書き誤りやすい漢字や難読文字などの記述問題についても解説してもらいました。

 問題を解くうえで大変参考になるお話しでした。

 本郷の主殿さん、注意すべき点の指摘、ありがとうございました。

 ゼミの最後は、キネマっ子さん(下写真)の合格体験談です。

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 キネマっ子さんは、一点深堀の名人で、あることに注目すると徹底して究明するので、日頃からおもしろい話題を提供してくれるのですが、合格体験談もユニークで面白かったです。

 六弥太格子のハンカチを利用したり、歴史上の人物の系図を作成したり、独自の履歴書を作成するなどというのはユニークな勉強方法を紹介してくれました。

 しかし、最後の2カ月間は、『江戸博覧強記』などの受検勉強まっしぐらだったということが付け加えられて、さすが合格者だと思いました。

 キネマっ子さん、おもしろいお話し一杯ありがとうございました。

 この後、懇親会がいつもどおり開催されました。私は、ちょっと事情があって懇親会は出席できませんでしたが、いつもどおり大変盛り上がったようです。

 獏塾ゼミにご参加の皆さん、大変お疲れ様でした。


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# by wheatbaku | 2017-08-22 10:55 | Trackback
榎本艦隊、蝦夷地上陸(箱館戦争史跡めぐり⑥)

榎本艦隊、蝦夷地上陸(箱館戦争史跡めぐり⑥)

 箱館戦争史跡めぐりですが、今までは史跡を順に紹介してきましたし、これからも史跡を紹介していく予定です。 

しかし、箱館戦争の経緯を先に書いておいたほうがよいと思いました。

そこで、これからは何回かに分けて箱館戦争の経緯を書いていきます。

 箱館戦争は、榎本艦隊が、明治元年10月に蝦夷地に上陸したことから始まります。

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 榎本武揚は開陽、回天、蟠龍、千代田形の4隻の軍艦と美嘉保や咸臨など4隻の運送船、総計8隻で、慶応4年8月19日、品川沖を出港しました。

 この時、若年寄永井尚志、陸軍奉行並松平太郎らの要人が同乗しました。

そのほか彰義隊から分かれて振武軍を結成した渋沢成一郎、遊撃隊の伊庭八郎、さらに高田藩の神木隊も同乗していました。

 しかし、出航直後の暴風雨に遭遇し、美嘉保丸は銚子沖の暗礁に乗りあげ破船しました。この船に乗っていた伊庭八郎は上陸した後箱館に向かいました。

また、破損した咸臨丸は清水港に入港して新政府軍に拿捕されています。

旗艦開陽も梶を失って3日間漂流後26日仙台についています。

しかし、9月15日に仙台藩が降伏しました。

そのため、仙台に集まっていた老中板倉勝静と小笠原長行、京都所司代松平定敬などの要職経験者、土方歳三が率いる新選組、彰義隊、さらに仙台藩の額兵隊なども榎本武揚艦隊に合流しました。

そのため、榎本軍は総勢で3千名近くになりました。

榎本艦隊は、10月12日に石巻を出航しました。

途中宮古湾を経由したあと、10月20日に蝦夷地鷲ノ木の沖に到着しました。

榎本艦隊が直接箱館港に向かわなかったのは、一つには箱館港は開港されていて外国船も入港してところで戦闘が起こるのを避けたこと、さらに箱館港入口には弁天岬台場があり、そこからの砲撃を避けたためと言われています。

10月21日には、全軍は蝦夷地に上陸しました。

五稜郭タワーには、「五稜郭歴史回廊」というコーナーがあり、箱館戦争を中心として箱館の歴史がわかるようにジオラマが展示されています。

榎本軍が蝦夷地に上陸した様子も表現されています。

最上段の写真と下の写真は、そのジオラマを撮影したものです。

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# by wheatbaku | 2017-08-18 21:55 | Trackback
千代ケ岡陣屋(箱館戦争史跡めぐり⑤)

 千代ケ岡陣屋(箱館戦争史跡めぐり⑤)

 箱館戦争史跡めぐりの5回目は「千代ケ岡陣屋跡」を紹介します。

 函館駅から五稜郭にむかう市電の「「千代台(ちよがだい)」電停の近くにある千代台公園の陸上競技場近くに説明板が設置されています。(下写真参照)

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 昔は鶴が飛来する岡だったので、江戸中期に八代松前藩主の室自正院文子が「千世の岡」と名づけた所とされ、「干代ヶ岡」や「千代ヶ台」と呼ばれましたが、「千代ヶ岱(ちよがたい)」とも呼ばれたそうです。

 現在の説明板では、上記の写真でお分かりになると思いますが、「千代ケ岡陣屋跡」となっています。

千代ヶ岡陣屋は、幕府直轄時代の文化5年に蝦夷地出兵を命じられた仙台藩が陣屋を設営したのが最初になります。

その後、蝦夷地が再び幕府直轄となった安政2年に津軽藩が陣屋を設営しました。そのために津軽陣屋ともいわれたようです。

周囲には約3.6mの土塁が築かれ、その周りには約12メートルの堀が掘られていてき、そのなかに本陣や兵舎など建物がありました。

五稜郭を占領した榎本武揚軍は大砲を備えて陣営とし、中島三郎助らが守り、そして、ここで最期を遂げました。

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中島三郎助は、浦賀奉行所与力でした。嘉永6年、浦賀沖に突如現れた黒船に最初に乗り込みアメリカ側と交渉した経歴があります。その後、長崎海軍伝習所の第一期生となり、3年後には軍艦操練所教授方となりました。

江戸城無血開城後、榎本武揚と共に蝦夷地にやってきました。

そして、中島三郎助は箱館奉行並として千代ヶ岡陣屋の守備につきました。

明治2年5月11日の新政府軍の総攻撃により箱館市内の大部分が制圧されると、新政府軍は、中島三郎助に降伏勧告をしましたが、中島はそれを拒絶して戦闘を続け、516日に長男恒太郎や次男英次郎と共に戦死しました。

「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」という辞世の句を残しています。

 陸上競技場近くの函館税務署の入口の緑地帯には、中島三郎助父子最後之地の石碑が建てられています。

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 毎年5月の箱館五稜郭祭では碑前祭が行われるそうです。

千代台公園の隣は中島町という町名で、中島小学校という小学校もありますが、これは中島三郎助に由来する町名です。

中島小学校のある場所が千代ケ岡陣屋の本陣があった場所だそうです。

明治時代には陣屋付近一帯が函館重砲兵連隊の陣地となり、第二次世界大戦後まで兵営所でしたが、戦後、競技場や野球場のある運動公園となったそうです。

町名も干代ヶ岱町だったが昭和43年千代台となったため、市電の電停も「千代台」となっています。



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# by wheatbaku | 2017-08-16 20:20 | 『幕末』 | Trackback
弁天岬台場(弁天台場)  (箱館戦争史跡めぐり④)

弁天岬台場(弁天台場)  (箱館戦争史跡めぐり④)

箱館戦争史跡めぐりの4回目には、弁天岬台場(もしくは弁天台場ともいうようです)について書いていきます。

 弁天岬台場は、現在の函館ドックの場所にありましたが、明治29年に港湾改良工事のため解体されました。

そのため、弁天岬台場そのものは残されていません。

函館市電「函館どつく前」電停のすぐそばの児童公園に「弁天岬台場跡」の説明板が設置されています。(下写真参照)

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 箱館奉行は安政元年12月9日、外国船に備える砲台などが整っていないとして、矢不来、押付、山背泊、弁天岬、立待岬、築島、沖の口番所の七か所をあげて、台場の修築ないし新築の必要を老中へ上申しました。

しかし、幕府は一挙に取りかかるのは無理と判断し、最も重要と思われる弁天岬、築島から築造することになりましたが、実際に着工できたのは弁天岬台場だけでした。

 弁天岬は港内第一の要地であるため、海岸の暗礁の上に、三方面に対応した台場を造れば、函館港と市中の防衛になると考えられました。

 台場の設計は五稜郭と同じ武田斐三郎が担当し、台場の建設費用は10万両の計画で、安政3年から工事が始まり、土や石は箱館山のものを使い、重要部分は備前御影石を大坂から運んで、文久3年に完成しました。

台場の形状は不等辺六角形をしていて、周囲は390間余(約710メートル)あり、高さ約37尺(約11.2メートル)ありました。

台場には、15個の大砲が据え付けられ、山背泊からと合わせて十字射撃できるという構想でした。大砲のうち数門はロシアのディアナ号に備えつけられた大砲を贈られたものでした。

 箱館戦争では、榎本武揚艦隊は、明治元年10月20日に蝦夷地鷲ノ木に錨をおろし、翌日上陸しますが、直接、箱館に向かわなかった大きな理由の一つに箱館港には弁天岬台場があり、そこからの砲撃を避けることがあったようです。

 榎本武揚軍が五稜郭に入城してからは、新選組など守備しました。

新政府軍が総攻撃をかけてきた明治2年5月15日に弁天岬台場は海上と箱館山側から攻撃されて台場に立て籠もっていた新選組さらに箱館奉行であった永井尚志らは降伏しました。

 このため、新選組にとって最後の拠点でした。そこで近くの児童公園の弁天台場の説明板の脇には「新選組最期の地」と書かれた標柱が建てられていました。(下写真参照)

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弁天台場には、明治20年まで陸軍省函館砲隊が入り、明治29年港湾改良で壊され、跡地に函館ドックができました。

この時の港湾改良を記念した石碑「函館港改良工事記念碑」が防波堤そばに設置されています。石碑の石は、弁天台場の土塁石垣に使用されていた備前産の御影石を再利用したものです。(写真右手が記念碑です)

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# by wheatbaku | 2017-08-14 19:00 | 『幕末』 | Trackback
箱館奉行所(箱館戦争史跡めぐり③)

 箱館奉行所(箱館戦争史跡めぐり③)

前回、五稜郭は箱館奉行所を守るための堡塁だとかきました。

 今日は、五稜郭が守っている箱館奉行所についてご案内します。

 下写真が、箱館奉行所です。

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 箱館奉行所は、実は二度にわたって設置されています。

 まず、最初は、ロシアが南下政策をとるなかで、ロシア船が蝦夷地近海に頻繁に表れるようになりました。

 そのした中で、幕府は、寛政11年(1799)に松前藩が統治していた東蝦夷地を直轄地にしました。

そして、享和2年(1802)には蝦夷奉行(同じ年に箱館奉行と改称)を設置しました。

さらに、享和3年には箱館の港を見おろす現在の元町公園に奉行所が建てられました。

元町公園には、元箱館奉行所跡と書かれた標柱が建てられています。(下記写真参照)

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 その後、ロシアとの関係が落ち着いたことから、蝦夷地の直轄管理体制が解かれ、箱館奉行所も廃止されました。

 しかし、安政元年の日米和親条約により、安政2年に箱館が開港されることになり、箱館奉行所が再び設置されました。

 その際の箱館奉行所は、元の箱館奉行所の設置場所、現在の元町公園がある場所に設置されました。

奉行所からは、箱館の港と町を一望できましたが、箱館港に出入りする外国の軍艦からは、格好の標的になる不用心な場所に奉行所は建っていました。

そこで、安全な場所へ箱館奉行所を移転することとなり、亀田村に移転することになりました。

亀田村は、箱館港から約3km離れていて、当時の大砲の射程距離から外れていました。また、亀田川から水を引くことができました。

ここが、現在の五稜郭のある場所です。

五稜郭が万延元年年(1860)にできあがり、翌元治元年(1861)に箱館奉行所も完成し、当時の箱館奉行小出秀実が移転しました。

現在の箱館奉行所には奉行の執務室である表座敷が復元されていて、床の間には掛け軸は最後の箱館奉行杉浦兵庫頭誠の書が架かられていました。(下写真)

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 その後、箱館戦争の際には、旧幕府軍の榎本政権の本拠地となりました。

 その箱館戦争が明治2年に終了した後、開拓使が設置され、新政府による北海道の統治が始まりましたが、五稜郭を役所として利用することはありませんでした。

そして、明治4年には、札幌に新築する開拓使本庁舎の材料とするために、旧箱館奉行所と付属建物の大部分が解体されました。

そして、その後、箱館奉行所の姿はありませんでしたが、平成22年に、元の姿に忠実に復元されました。

ただ、旧奉行所が元の大きさのままに復元された訳ではなく、奉行所の主要部分を中心として、元の奉行所の3分の一の大きさで復元されています。

 復元された奉行所には大広間や奉行の執務室であった表座敷が再現されています。

 大広間は72畳もの広さがあるそうです。

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# by wheatbaku | 2017-08-12 15:41 | 『幕末』 | Trackback
五稜郭(箱館戦争史跡めぐり②)

 五稜郭(箱館戦争史跡めぐり②)

 今日から、箱館戦争史跡めぐりについて書いていきます。

 まず、最初は「五稜郭」です。

 五稜郭は、星型をした西洋式城郭として大変有名です。

 城郭というイメージが強いですが、天守はありませんでした。

 中央にあるのは箱館奉行所でした。

 五稜郭は、箱館奉行を防御するために造られたのです。

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 安政元年(1854)3月3日に締結された日米和親条約によって、下田と箱館が開港されることになり、下田は即日開港され、箱館は翌年の安政2年3月から開港されることになりました。

安政元年6月に幕府は松前藩から箱館とその周辺の地を上知させ、箱館奉行をおきました。

箱館奉行には竹内保徳そして堀利煕を任命しました。

 安政元年12月、箱館奉行から、奉行所を箱館より北の亀田村に奉行所を移転しそれを守る土塁を建築したいとの伺書が出され、移転することが決定しました。

 それから、約1年を経て、奉行所を守る土塁は西洋式土塁とすることとなりました。

 これにより、五角形の星型をした五稜郭が築城されることになりました。

 亀田村が選ばれたのは、海から3キロあまり離れていて、設計当初は艦砲射撃の対象にならなかったことと亀田川があり水利の便が良かったことが主な理由です。

 建設工事は、安政4年(1856)に掘割工事が始まり、建物の建築は文久元年(1861)に始まり、完成したのは元治元年(1864)のことです。その後も、付帯工事が行なわれ、すべての工事が完成したのは、慶応2年(1866)です。

 五稜郭は、星型をしていますが、正面入口に一つ、三角形の部分があります。

 下写真の手前部分です。赤い屋根の建物が見える地点一帯です。

 これは、半月堡と呼ばれています。当初の設計図では、星型の外側5か所に設置する計画だったそうですが、費用の面で、正面入口にだけ築造されたそうです。

 当初の設計図どおりであれば、五稜郭は、星形の外に5つの突起部分があるという一層複雑な形となったはずです。

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 この五稜郭を設計したのは、武田菱三郎です。

武田菱三郎は、伊予国大洲藩士の次男として生まれました。18歳の時に大坂の緒方洪庵の適塾に入門しました。その後、江戸に出て佐久間象山のもとで砲術をまなび、象山の推挙で幕府に出仕しました。

安政元年には、堀利熙に従って蝦夷地巡察旅行に加わりました。樺太まで渡りました。

この時に、箱館奉行所が設置され、旅行が終わるとともに箱館詰となります。

安政3年には,箱館港防備のための弁天崎台場,安政4年からは箱館奉行所としての五稜郭の設計や監督を行いました

その一方で、安政3年に語学,航海,築城などを教える諸術調所が開かれると諸術調所教授となり、製鉄。造兵、築城、航海、捕鯨などという多方面の分野にわたって指導しました。

ここでは、幕臣とか陪臣とかの身分を問わずに教育する方針でしたので、希望者が各地から集まって来ました。

御用船亀田丸を指揮してロシアのニコラエフスクまで交易に出掛けるなど実践を重んじた教育を行ない、前島密、井上勝、山尾庸三など明治になってから活躍する人々を育てあげました。

そして、元治元年(1864)開成所教授となり、箱館を去りました。

五稜郭の正面入り口を入ると、武田菱三郎の顕彰碑が建てられています。

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# by wheatbaku | 2017-08-10 11:56 | 『幕末』 | Trackback
箱館戦争史跡を訪ねてきました。(箱館戦争史跡めぐり①)

箱館戦争史跡を訪ねてきました。(箱館戦争史跡めぐり①)

 先週は、箱館戦争の史跡を訪ねて、1泊2日で函館に行ってきました。

 私は埼玉県に住んでいるため、函館まで飛行機で行く方法のほか、北海道新幹線を利用する方法もあります。旅行会社に聞いたら、新幹線のほうがよいでしょうということなので、北海道新幹線で行ってきました。

 大宮を7時前に出発して函館駅には11時30分に到着しました。(下記写真が函館駅です)

 青函トンネルは25分で通過しました。函館は本当に近いと実感しました。

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 函館でも、箱館戦争関連の史跡を訪ねてきましましたので、これから順にレポートしていきますが、今日は最初ですので、どんなところを訪ねたのか概略をご案内します。

五稜郭

 五稜郭は、箱館戦争を語る際にははずことができませんので、まず、最初に訪ねたのが五稜郭です。

 五稜郭は、星型の西洋式城郭として有名ですが、五稜郭のそばにたっている五稜郭タワーの展望台からは、五稜郭が一望に眺められます。まさに五角形であることが一目瞭然です。

 下写真は展望台から写した五稜郭です。

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箱館奉行所

 五稜郭は、箱館奉行所を防御するために築造されたもののようです。

 箱館戦争の際には、ここが榎本政権の本拠地となった場所です。

 箱館奉行所は、明治になって取り壊されてしまいましたが、平成22年に再建されました。

 念密な検討を加えて昔の姿を復元しているそうです。

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弁天台場跡

 弁天台場は弁天岬台場とも呼ばれて、箱館港を守るために築造されました。

 箱館戦争の際には、ここに永井尚志や新選組が籠城して新政府軍と交戦しました。

 現在は、埋め立てられていて、面影はまったく残っていませんが、近くの児童公園に弁天岬台場の説明板が設置されていました。

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千代ケ岡陣屋跡

 千代ケ岡陣屋は幕末には津軽藩の陣屋として使用されていました。

 箱館戦争の際には、中島三郎助たちが立てこもり、ここを守備しました。

 新政府軍からの最後の攻撃の際に、降伏を勧められましたが、中島三郎助はそれを拒否して、ここで息子たちとともに討死しました。

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一本木関門

 箱館戦争の花形スターは、榎本武揚の外、土方歳三でしょう。

 その土方歳三が亡くなったとされているのが、一本木関門です。

 現在は、総合福祉センターの中庭に「土方歳三最期之地」と刻まれた石碑が建てられています。その脇には一本木関門の模型が作られています。

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碧血碑(へっけつひ)

箱館戦争で亡くなった新政府軍の兵士たちは、護国神社に祀られました。

しかし、旧幕府軍の兵士は、新政府軍の命令により、放置されましたし、その後も、護国神社に祀られることはありませんでした。

 そこで、榎本武揚を筆頭に箱館戦争生き残りの人たちの協賛をえて、箱館戦争で亡くなった人たちを慰霊するために建てられたのが「碧血碑(へっけつひ)」です。

 箱館山の山中にあるため、訪ねるのが一苦労でしたが、苦労した甲斐がありました。

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 その他に訪ねた史跡もありますが、これから順にご案内していきます。



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# by wheatbaku | 2017-08-06 17:29 | 『幕末』 | Trackback
司馬遼太郎「峠」文学碑(北越戦争レポート⑮)

司馬遼太郎「峠」文学碑(北越戦争レポート⑮)

 今日で、北越戦争レポートを終了させてもらいますが、最後は、司馬遼太郎の「峠」文学碑について書きます。

 河井継之助(つぎのすけ)が全国的に有名になったのは、司馬遼太郎が「峠」を書いたからでしょう。

 その「峠」文学碑は、榎峠を望める「越の大橋」の西詰に設置されています。(下写真)

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 長岡駅からも小千谷駅からも遠い距離にあるので、車を使用していくしかないと思います。

越の大橋は、信濃川に設置されている妙見堰に沿って平成五年に架橋されました

「峠」文学碑は、榎峠や朝日山に対峙して設置されています。

「峠」文学碑をみて、ふりかえると榎峠や朝日山が眺められます。

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「峠」文学碑の表面には、次のよう「峠」のなかの一文が刻まれています。

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   峠

               司馬遼太郎

  

 主力は十日町を発し、六日市、妙見を経て

榎峠の坂をのぼった。坂の右手は、大地が信

濃川に落ちこんでいる。

 川をへだてて対岸に三仏生村がある。そこ

には薩長の兵が駐屯している。その兵が山

腹をのぼる長岡兵をめざとくみつけ、砲弾

飛ばしてきた。この川越えの砲弾が、この

方面の戦争の第一弾になった。 

 これは、ごくありふれた文学碑の形式です。

 しかし、「峠」文学碑の裏側には、この文学碑のために司馬遼太郎が書いた一文があるのが特徴です。(下写真)

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 司馬さんは、文学碑建設の話が小千谷市から依頼があった際、即座に快諾したそうです。そして、文学碑のために新たに一文を寄せてそうです。

 それが文学碑の裏面の一文です。全文がつぎのように刻まれています。

「峠」のこと

 江戸封建制は、世界史の同じ制度のなかでも、きわだ

て精巧なものだった。

 17世紀から270年、日本史はこの制度のもとに

あって、学問や芸術、商工業、農業を発展させた。この

島国のひとびとすべての才能と心が、ここで養われた

のである。

 その終末期に越後長岡藩に河井継之助があらわれた。

 かれは、藩を、幕府とは離れた一個の文化的、経済的な独

立組織と考え、ヨーロッパの公国のように仕立てかえよ

うとした。継之助は独自な近代的な発想と実行者という

点で、きわどいほどに先覚的だった。

 ただこまったことは、時代のほうが急変してしまった

のである。にわかに薩長が新時代の旗手になり、西日本

の諸藩の力を背景に、長岡藩に屈従をせまった。

 その勢力が小千谷まできた。

かれらは、時の勢いに乗っていた。長岡藩に対し、ひ

たすらな屈服を強い、かつ軍資金の献上を命じた。

 継之助は小千谷本営に出むき、猶予を請うたが、容れ

られなかった。

といって屈従は倫理として出来ることではなかった。

となれば、せっかく築いたあたらしい長岡藩の建設をみ

ずからくだかざるをえない。かなわぬまでも、戦うとい

う、美的表現をとらざるをえなかったのである。

 かれは商人や工人の感覚で藩の近代化をはかったが、

最後は武士であることにのみ終始した。

武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみ

ごとに表現しきった集団はいない。運命の負を甘受し、そ

のことによって歴史にむかって語りつづける道をえらん

だ。

「峠」という表題は、そのことを小千谷の峠という

地形によって象徴したつもりである。書き終えたとき、

悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴

るのを聞いた。

 

平成5年11月             司馬遼太郎

 

 私は、この一文を読む前は、「峠」は当然のことながら「榎峠」という具体的な峠を指しながらも、江戸から明治にかわるという時代の「峠」を意味させているのだろうと思っていました。

しかし、司馬さんは、もっと深いところまで考えていたということだけはわかりましたが、全部は・・・・ う~ん、難しい。

ただ、この文学碑に寄せた司馬さんの文章を読んで、「峠」のあとがきに河井継之助(つぎのすけ)がなくなった後、従僕松蔵が骨拾いをする場面が描かれている理由がなんとなくわかった気がします。

「峠」のあとがきは、河井継之助が亡くなった時のエピソードをわざわざ入れるという不思議なおわりかたをしています。
 少し長くなりますが、あとがきの最後の部分を書き上げておきます。

継之助は、つねに完全なものをのぞむ性格であったらしい。

かれは死に、その死体は、かれの下僕松蔵の手で焼かれた。その遺体を焼いているときはすでに津川口が敗れ、官軍が接近しているときであり、見まもるひとびとは気が気ではなかったが、松蔵は灰のなかからたんねんに骨をひろいあげた。松蔵はそのとき泣きながらいった。[あのような旦那さまでございますもの。もし骨のひろい方が足りないで、これ松蔵や、貴様のそこつのためにおれの骨が一本足りぬ、などとあの世に行ってから叱られては松蔵は立つ瀬がございませぬ」といったという。

 書き終えて、筆者もまた松蔵の怖れを自分の怖れとして多少感じている。いくらかの骨を灰の中にわすれてきてしまっているかもしれないのである。


 司馬さんは、「峠」を書き終わっても、河井継之助(つぎのすけ)の悲しみを書き終わっていないという忸怩たる思いが残ったつまり文学碑に寄せた文章の中にある書き終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴るのを聞いた」 のであとがきに松蔵の骨拾いのエピソードをいれたんのではないだろうかと私は思い当りました。


長岡を訪ね河井継之助(つぎのすけ)ゆかりの地を訪ねたこと、そして北越戦争のことを、約1か月にわたって長々とかいてきました。

この間、鶴ヶ島小ツルさんはじめ数多くメールで感想をいただきました。

これらが、大変、レポートを書いていくうえで、励みとなりました。

誌上を借りてお礼申し上げます。

明後日からは、最後の戊辰戦争「箱館戦争」ゆかりの地函館に取材旅行に行ってきます。

函館でも、榎本武揚や土方歳三たちについて新たな発見があるだろうと楽しみにしています。



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# by wheatbaku | 2017-07-31 15:46 | 『幕末』 | Trackback
河井継之助(つぎのすけ)死す(北越戦争レポート⑭)

河井継之助死す(北越戦争レポート⑭)

 

今日は、河井継之助(つぎのすけ)の負傷死について書きます。
 下写真が、河井継之助(つぎのすけ)のお墓です。

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 慶応4年7月25日、河井継之助(つぎのすけ)は、八丁沖渡渉作戦を成功させて、長岡城を見事に奪還しました。

 長岡城内にいた新政府軍は、信濃川の西岸に退却していきましたが、長岡城北方には薩摩藩を中心とした新政府軍がいました。この部隊は、長岡藩はじめ同盟軍を総攻撃する準備を整えていたため、八丁沖渡渉の奇襲で一瞬ひるんだもののすぐに態勢を整えて反撃にでて、長岡藩兵と激戦を繰り広げました。

この時の戦いで、河井継之助(つぎのすけ)は、流れ弾に左膝の下あたりを撃ち抜かれ、重傷を負ってしまいました。

河井継之助(つぎのすけ)が負傷した日については、7月25日の戦いの中で負傷したと書いてあるものと7月26日の新町の戦いで負傷したと書いたものがあり、どちらが正確か不明です。

この負傷により、これ以降、河井継之助(つぎのすけ)は前線での指揮が不可能となりました。

 河井継之助(つぎのすけ)自身は、怪我の治療を拒否するとともに、負傷したことは全軍に秘密にしました。

一方、信濃川西岸の関原に集結した新政府側の諸隊をまとめた山県有朋は、薩摩・長州・を中心に部隊を再編成し、7月29日の早朝、長岡城総攻撃を開始しました。

 指揮官河井継之助(つぎのすけ)が負傷したことは、少しずつ長岡藩兵の間にひろがり士気はさがる一方、河井継之助(つぎのすけ)のかわりに全軍を統率できる指揮官がなく、新政府軍の攻撃に耐えられす、栃尾、見附方面に退却しました。

治療も拒ばみ見附において戦況を見定めていた河井継之助は、いよいよ同盟軍が会津を指して退却する段になると、8月2日に見附を立ち、担架に乗って八十里越に差しかかりました。

峠を越える時に「八十里こしぬけ武士の越す峠」と自嘲気味の句を詠んだといいます。

「こしぬけ」とは、「腰抜け」と「越(越後)を抜ける」がかけられています。

 河井継之助(つぎのすけ)は、八十里越を経て8月12日、塩沢(福島県南会津郡只見町塩沢)に到着しましたが、容態が悪化し、16日の午後8時ごろ、静かに息を引き取りました。

河井継之助(つぎのすけ)の遺骸は、塩沢で荼毘にふされました。

遺骨は、従僕松蔵によって、会津若松に運ばれ、藩主父子が滞在している建福寺に仮埋葬されました。

 福島県只見町塩沢の医王寺には、残された細骨を集めて埋葬されたお墓が建てられているそうです。

 建福寺に仮埋葬された河井継之助(つぎのすけ)は、明治3年に河井家の菩提寺である長岡の栄凉寺に埋葬されました。

 栄凉寺は、藩主牧野家の菩提寺でもあります。(下写真)

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 河井継之助(つぎのすけ)の墓は、かつては、河井継之助(つぎのすけ)を恨む人々により破壊されたことがあるそうで、墓の隅が欠けていました。(下写真)

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 河井継之助(つぎのすけ)が傷ついた身体を担架にのせて運ばれた八十里越えは、余りにも急峻な峠であるため、一里が十里にも感じられることからその名前がついたといわれています。

 この八十里越えは、現在は国道289号線となっていますが、現在でも、人も通行できない部分があるほどの状態で、当然車も通行できません。そこで、現在国土交通省が開通をめざして改築工事中です。



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# by wheatbaku | 2017-07-28 20:13 | 『幕末』 | Trackback
八丁沖渡渉作戦(北越戦争レポート⑬)

八丁沖渡渉作戦(北越戦争レポート⑬)

 今日は北越戦争のハイライト、八丁沖渡渉作戦について書きます。

 八丁沖というのは江戸時代に長岡城の北東方向にある南北約5キロ東西約3キロの大沼沢地です。

 明治以降の干拓工事により、現在は、広大な水田地帯となっていますが、現在でも大雨が降ると水を被ることがよくある地域だそうです。

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今町陥落は、新政府軍に大きな衝撃を与えました。

 参謀山県有朋は、防衛ラインを今町から南に後退させ、現在の長岡市北郊の田園地帯に新たな防衛ラインを構築しました。

 一方、河井継之助は、今町の攻略以降、同盟軍との関係もあり大きな攻撃をしかることはできませんでした。

 そのため、6月2日の今町攻略戦以後、北越戦線は膠着状態が続きました。

 こうした中で、河井継之助、山県有朋はともに、膠着状態を打破する作戦を立案しました。

 数に勝る山県有朋は、7月24日を期して長岡藩および奥羽越列藩同盟軍に対して総攻撃をかけようとしました。

 一方、河井継之助(つぎのすけ)は、八丁沖の中央を縦断して新政府軍陣地のある富島に上陸し、一気に長岡城を奪還するという奇襲作戦を立案しました。

 八丁沖渡渉作戦の上陸地である富島は「八丁沖古戦場パーク」として整備されて、そこに「八丁沖古戦場の碑」(最上段写真)が建てられています。

 石碑の向こう側には、今は水田となった八丁沖が広々と広がっていました。(下記写真参照)

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長岡藩士の鬼頭熊次郎は、下級武士だったことから生活が苦しく、八丁沖で魚を捕獲して生計の足しとしていました。そのため、河井継之助(つぎのすけ)は、八丁沖の隅々まで知り抜いている鬼頭を呼んで、八町沖を偵察し、強行渡河の際は先導するよう命じました。

鬼頭熊次郎は、縦断は可能と進言し、先導の者は、鬼頭熊次郎ら士分5名と足軽5名計10名が選ばれました。

 この人たちを先導として、長岡藩兵は、武器弾薬や食料を携行しながら膝上まで泥で沈みときには匍匐して泥の上をはい、八丁沖を渡っていきました。敵に察知されれば、奇襲計画は頓挫してしまうため、物音を立てないように細心の注意を払い前進しました。

作戦当日の天気は雨ではなかったため、月が雲間から姿を表せば、全軍が沼地に身を伏せて月が隠れるのを待ったそうです。

 こうして、先頭部隊は25日の午前2時頃には富島村から数十メートル手前の地点に到着しました。しかし、長岡藩兵は、ほとんど一列縦隊での前進したため、先頭部隊は沼地に伏せた状態で後続部隊の到着を待ちました。長岡藩の600名もの兵士が八丁沖をわたりきるのに6時問前後をかかったそうです。

 こうして、新政府軍に気づかれずに八丁沖を渡った長岡藩勢は、午前4時、富島の新政府軍を攻撃しました。

 この時、先導を勤めた鬼頭熊次郎は上陸時の戦いで命を落とします。

 「八丁沖古戦場パーク」近くの日光社の境内には「鬼頭熊次郎顕彰碑」が建てられています。(下写真)

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新政府軍は八丁沖の中央を縦断してくるとは全く予想していませんでした。それは当然だと思います。当時の八丁沖は葦の生い茂る沼地で、しかも例年より降雨量が多かったため、沼地も深くなっていたと思われます。
 そのため、富島村の新政府軍部隊は、完全に不意を衝かれ、また、寝込みを襲われた守備隊は、ほとんど抵抗することもなく退却していきました。

新政府軍の抵抗がないなか、長岡藩兵は、夜が明けるころには長岡城下に突入し、長岡城奪還にも成功しました。

奇襲を受けた新政府軍の西園寺公望、山県有朋らの驚きはひと通りではなく、錦旗を守るのが精一杯で、信濃川西岸の関原方面へ退却していきました。

長岡藩の将兵は、長岡の町民だちとともに戦勝を祝しましたが、長岡藩側の勝利は一時的なものでした。

 すぐに新政府軍の逆襲が始まったのです。

 それについては、次回、書きます。


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# by wheatbaku | 2017-07-26 21:57 | 『幕末』 | Trackback
  

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