覚王院義観の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑭)

覚王院義観の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑭)

 谷中霊園に眠る幕末の有名人の第14回は覚王院義観について書いておきます。

 覚王院義観については、私は「彰義隊」(吉村昭著)でその存在を知りました。

c0187004_15583774.jpg

 この小説は、輪王寺宮公現親王(のちの北白川宮能久親王)が主人公ですが、覚王院義観は、輪王寺宮公現親王のそばに仕えていたため重要な人物として登場しています。

 覚王院義観は、寛永寺の執当でしたが、新政府軍の対応に怒り、彰義隊を支援し、徹底して新政府軍に抵抗した人物でした。

覚王院義観は、現在の埼玉県朝霞市で金子栄蔵の子として生まれました。幼いころから優秀で、10歳になる天保3年(1832)、寛永寺の大慈院住職尭覚の授戒で得度し、尭運という名をもらいました。

 その後、真如院住職義厳の弟子となり、義観の法名を授かりました。

 26歳の時、義厳が凌雲院の住職となったため、覚王院義観が真如院の住職となりました。

 慶応3年3月に輪王寺宮慈性法親王から「覚王院」の院室号を賜り、同時に東叡山寛永寺執当職に任ぜられました。

 この執当職は、寛永寺の座主である輪王寺宮が居住する御本坊に詰め、寛永寺のことはもちろん、全国の天台宗全寺院から、幕府や諸大名等との交渉に至るまで、およそ座主が僧侶として関係する寺務一切を代行する重要な役でした。

 覚王院義観のお墓は、谷中霊園の中にあります。覚王院義観が住職であった真如院の墓地の中にあります。

 お墓の表面には、輪王寺宮公現親王から贈られた「寂静心院」の号が刻まれています。

c0187004_16100578.jpg

慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いに破れ、江戸に逃げ帰った15代将軍徳川慶喜は、恭順の姿勢を示し、東叡山寛永寺の大慈院に入って蟄居謹慎しました。 

東叡山寛永寺の輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)が、覚王院義観、龍王院尭忍の両執当を従えて、慶喜の助命嘆願のため、2月21日に、京都に向かいました。

輪王寺宮の一行は、3月7日に駿府に入り、東征大総督有栖川宮熾仁親王宮に面会し、慶喜の謝罪状を提出し助命を嘆願しました。

しかし、有栖川宮熾仁親王は輪王寺宮からの嘆願をまったくとりあわずすぐに江戸にかえるよう言います。

「彰義隊」では、有栖川宮熾仁親王が非常に冷たい態度で対応したと書いてあります。

こうした有栖川宮熾仁親王と新政府軍の対応に対して覚王院義観は大いに怒りました。

そのため、浅草本願寺に屯集していた彰義隊が、慶喜の護衛を名として寛永寺に入ると、覚王院義観はこれを援助するだけでなく煽動し、東征軍への反抗姿勢を顕にしました。

また、覚王院義観の後援を得た彰義隊は徳川家にとって良い影響を与えないと考えた山岡鉄舟は、覚王院義観を訪ねます(勝海舟の指示で訪問したともいいます)が、覚王院義観は山岡鉄舟の必死の説得にも耳を貸そうとしませんでした。

新政府側は、戦争を避けるために、輪王寺宮の江戸城への登城を要請したり、覚王院義観や龍王院尭忍を召喚しようともしたが、その都度、覚王院義観が拒否したと言われています。

この覚王院義観の態度が、上野戦争を起したとも言われています。

いろいろな策を講じましたが、ついに新政府側は彰義隊の討伐を決断し、5月15日、寛永寺に立て籠もる彰義隊を攻撃しました。

主戦場となった黒門口はお昼過ぎには新政府軍に突破され、彰義隊は一日で敗北しました。

そこで、輪王寺宮公現親王は、谷中口から脱出し、覚王院義観は、輪王寺宮とは別に寛永寺を脱出しました。

輪王寺宮は、谷中から尾久に抜け、さらに浅草の東光院、市谷の自性院に隠れた後、品川沖の「長鯨丸」に乗って、平潟まで渡り、さらに会津若松に至りました。

一方、覚王院義観は、輪王寺宮一行の後を追い、「覚王院義観戊辰日記」という史料によれば、土浦、水戸、棚倉を経て6月2日に会津に入り、6月6日に輪王寺宮一行に合流しました。

その後、輪王寺宮公現親王は、奥羽諸藩の要請により、白石城に入って奥羽越列藩同盟の盟主となりました。

しかし、奥羽越列藩同盟参加の諸藩は新政府軍に降伏していき、ついに9月11日には仙台藩が降伏に決し、9月22日には会津藩が降伏しました。

 そうした情勢のなか、仙台に滞在中の輪王寺宮は、9月24日に鎮撫総督府に謝罪文を提出しました。

覚王院義観はその当時、奥羽列藩同盟の主唱者である米沢藩の降伏の阻止と輪王寺宮の立石寺への移座などのために米沢に出張中でしたが、仙台に戻った時には、すでに執当職を解任され、総督府から蟄居が命じられました。

 輪王寺宮は、東京に護送される時、伊達家に対して、義観と尭忍の庇護を懇請するとともに、義観には「寂静心院」の号を贈りました。

覚王院義観も東京に送られ獄舎に収監された後、本郷壹岐坂上松平美作守の屋敷に預けられました。

そこで、覚王院義観は、明治2年2月26日、亡くなりました。

「彰義隊」(吉村昭著)では、新政府軍への抵抗は、あくまでも覚王院義観の判断であって輪王寺宮はあずかりしらないことと主張し、提供される食事を丁寧に断り、そのまま亡くなったと書いてあります。享年47歳でした。

 覚王院義観のお墓は、寛永寺の墓地の中にある「真如院墓地」の中にあります。

c0187004_19055403.jpg

「真如院墓地」は、谷中霊園の乙8号4側・5側に南側、徳川慶喜の墓所の北側にありますが、少しわかりにくい場所にあります。

 上写真の「真如院谷中墓地」が目印となりますので、この目印を丹念に探してください。








[PR]
# by wheatbaku | 2017-12-14 15:55 | 『幕末』 | Trackback
村田経芳の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑬)

村田経芳の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑬)

 谷中霊園に眠る幕末有名人の13回目は村田経芳のお墓です。

 御存知の方は少ないかもしれませんが、今日は村田経芳について書いていきます。

 村田経芳は、幕末から明治に活躍した薩摩藩出身の軍人で、日本陸軍が初めて採用した国産銃「村田銃」を発明しました。

 村田経芳のお墓は、霊園管理事務所の向かい側の通りを東にみ、通りの南側の乙7号1側にあります。下写真の左側に村田経芳は眠っています。

c0187004_12084282.jpg

薩摩藩士村田蘭斎の長男として生まれました。

村田経芳は、若い頃から小銃の研究に取り組んでいて、安政5年(1858)に藩主島津斉彬のシャープ施条銃の模造に携わりました。

戊辰戦争には小隊長として出征し,鳥羽伏見から東北各地に転戦し、長岡城の攻防戦にも参戦しています。

そして、明治4年、陸軍に入り大尉となりました。

明治維新後の陸軍には、外国から輸入した多種多様な銃が配備されており、これらの補給や訓練に困難が生じていました。

そのため、陸軍は、こうした状況を打開するため小銃の統一と国産化を目指しました。

そこで、戊辰戦争勃発前から小銃研究をしていた経験と豊富な知識、さらに村田経芳は抜群の射撃明神でしたので、その射撃の腕前を見込まれ、小銃の研究に従事しました。

明治政府は、明治8年に、村田経芳に、射撃技術と兵器研究のためのヨーロッパ派遣を命じました。

村田経芳は、約10ヶ月後留学を終えて明治1111月帰国しました。

その時には西南戦争が勃発しており、村田経芳も西南戦争に従軍しました。

こうした西南戦争への従軍の経験とヨーロッパで学んだ知識を活かし手研究を重ね、ついに、明治13年、村田経芳は、フランス製シャスポー銃に改良を加え「村田銃」を発明しました。

村田経芳はその後も銃の改良を重ね、明治18年式が開発され、このモデルから「村田銃」と命名されました。

その後、連発式の明治22年式を開発し、一連の村田銃は、陸軍に配備され日清戦争での主力小銃となりました。

村田経芳は29年陸軍中将となり男爵を授けられ、大正10年83歳でなくなりなしまた。

なお、射撃の名手であった村田経芳は、ヨーロッパに渡った際にもヨーロッパ各地の射的競技に出場して優勝したといわれています。


[PR]
# by wheatbaku | 2017-12-12 12:06 | 『幕末』 | Trackback
「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩⑦」駒込駅編

「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩⑦」駒込駅編

昨日は、毎日文化センターの江戸散歩講座「~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」がありました。

 この江戸散歩は、山手線の各駅をスタート地点として、駅周辺の江戸にゆかりの史跡を訪ね歩くもので、この秋は、第2ステージに入っています。昨日は、駒込駅を出発して染井・西ヶ原まで散歩してきました。

 昨日は、気温は低いものの風もなく快晴のもとでの散歩となり、快適な散歩を受講された皆さんと楽しんできました。ご参加いただいた皆さんお疲れ様でした。

 下写真は、旧古河庭園の洋館ですが、まさに雲一つない快晴でした。

c0187004_13442541.jpg

 昨日は駒込駅に集合し駒込駅に戻る次のようなコースで散歩してきました。

 駒込駅 ⇒ 染井通り ⇒ 旧丹羽家腕木(うでき)門と蔵 ⇒西福寺(伊藤政武の墓、伊達慶邦公墓址記念碑) ⇒ 染井稲荷神社 ⇒ 無量寺(六阿弥陀)⇒  旧古河庭園 ⇒ 平塚神社 ⇒ 城官寺(山川城官の墓、多紀家墓所) ⇒ 妙義神社 ⇒ 駒込駅

主なご案内箇所の紹介をしていきます。

〔旧丹羽家腕木(うでき)門〕

旧丹羽家は染井を代表する植木職人として活躍した家です。

旧丹羽家の門は、言い伝えによれば、染井通りをはさんで向かい側にあった津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したといわれています。

 門は、腕木と呼ばれる梁で屋根を支える腕木門と呼ばれる形式で、簡素な構造ですが、格式の在る門で、豊島区指定有形文化財となっています。

c0187004_13435626.jpg

〔伊藤政武墓〕

伊藤政武は、通称伊藤伊兵衛と呼ばれた染井の有名な園芸家です。

伊藤家は代々伊兵衛を名乗り、近くの伊勢津藩藤堂家の下屋敷に出入りして、庭の世話をしているうちに植木屋となり、江戸第一の植木屋となりました。

伊藤政武は、伊藤伊兵衛の4代目で、将軍家の御用植木師となり江戸城にも出入りして江戸城内の植木も管理していて、徳川実紀には8代将軍吉宗の世子家重の御成りの記録も残されています。

政武は号を樹仙といい、墓標には「樹仙浄観信士」と刻まれています。

c0187004_13434568.jpg

〔無量寺〕

無量寺の御本尊様はお不動様ですが、本堂中央に、阿弥陀如来坐像が安置されていて、江戸六阿弥陀三番目として知られています。

江戸六阿弥陀詣というのは、行基菩薩が彫ったとされる六ヶ寺の阿弥陀様をお参りするもので、江戸っ子は春と秋の彼岸に極楽往生を願い、花見や紅葉狩りを楽しみながら各所の阿弥陀如来を巡拝していました。

門前に「六阿弥陀三番目」と書かれた石柱がたっています。

下写真は、門前の石柱の前で説明を聞く参加者の皆さんです。

c0187004_13433310.jpg

〔旧古河庭園〕

旧古河庭園は、元々は明治時代に外務大臣を勤めた陸奥宗光の別邸があったところです。陸奥宗光の次男潤吉が古河財閥の創業者である古河市兵衛の養子となったことから古河家の所有となりました。

潤吉の死後、跡を継いで3代目当主となった市兵衛虎之助により、大正6年、現在まで残る洋館と庭園が造られました。

最上段写真の洋館と洋風庭園はジョサイア・コンドルの設計によります。

西洋庭園より一段と低い場所にある日本庭園は京都の著名な庭師小川治兵衛によって作庭されましたものです。

旧古河庭園は、洋館が大変有名ですが、下写真のように日本庭園も大変見ごたえがあります。

c0187004_13441148.jpg

〔平塚神社〕

平塚神社の創建は平安後期といわれています。

八幡太郎源義家が奥州征伐(後三年の役)の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島近義に鎧一領を下賜し、豊島近義は拝領した鎧を地中に埋め塚を築き自分の城の鎮守とし

さらに豊島近義は社殿を建てて源義家・義綱・義光の三兄弟を平塚明神として祀り一族の繁栄を願いました。

甲冑を埋めた塚は高さがないために平塚ともよばれ、それが平塚の名前の由来となりました。

平塚神社の銀杏は、まだ黄葉まっさかりで見事でした。

c0187004_13431686.jpg

ご参加いただいた皆さん、お疲れ様でした。


[PR]
# by wheatbaku | 2017-12-10 12:50 | ~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩 | Trackback
古屋佐久左衛門のお墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑫)

古屋佐久左衛門(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑫)

 谷中霊園に眠る幕末の有名人の12回は古屋佐久左衛門です。

 古屋佐久左衛門は、前回書いた高松凌雲の実兄です。

古屋佐久左衛門は、天保4年(1833)、筑後国御原郡古飯村(現・福岡県小郡市)の庄屋高松与吉の次男として生まれました。
 高松凌雲は天保7年に生まれていますので、3歳年上ということになります。

古屋佐久左衛門のお墓は、高松凌雲のお墓のすぐ近く乙2号10側にあります。

c0187004_22410540.jpg
 

墓誌には、「是性院釋㚖法城 明治2年6月14日」と書かれています。


c0187004_22405975.jpg

古屋佐久左衛門について書いたものはあまり多くありませんが、『五稜郭の兄弟』(高橋義夫著)が、高松凌雲と古屋佐久左衛門を主人公とした小説が、五稜郭落城までの二人の生涯を描いています。

c0187004_22465254.jpg

嘉永4年(1851)に家を出奔した古屋佐久左衛門は、長崎と大坂で医学を修め、江戸に移り洋学や剣術を学びました。

そうした中で、御家人の古屋家の養子となりました。

 万延元年、神奈川奉行所の運上所の定役となりました。この時、ヘボンや長老派宣教師に英語や洋学を学びました。

 その努力が認められ、文久2年には、神奈川奉行所通訳となりました。

通訳をする中で、横浜に駐屯していたイギリスの軍隊に用兵術を学び、英語の兵書を翻訳し『英国歩兵操典』『歩兵操練図解』を著しました。

この兵書を翻訳したことにより、古屋佐久左衛門は、西洋兵術の一人者と認められるようになり、フランスからの軍事顧問団を招き訓練を行うため建設されることになった太田陣屋の伝習所の普請を行いました。

慶応2年には、歩兵差図役に任じられ、伝習隊が江戸に移り、越中島などで幕府陸軍の訓練しました。

戊辰戦争開戦時は幕府陸軍で歩兵差図役頭取でした。

鳥羽・伏見の戦いで第11連隊の指揮官佐久間信久と第12連隊の指揮官窪田鎮幸が戦死したため、江戸に戻った兵隊が、北関東に脱走しました。

そこで、古屋佐久左衛門は、勝海舟の許可を得て、元京都見廻組の今井信郎らと共に脱走兵取締のために江戸を出発し、脱走兵を説得し帰順させ、それらを忍藩に預けて江戸に戻りました。

江戸に戻ると、歩兵頭並に任じられて、信濃鎮撫の命令を受け、羽生に向かい、先に帰順した兵とともに、梁田宿に入りました。ここで、新政府軍から攻撃を受けて敗北しました。

そこで、一旦会津に向かうことにし、藤原を経て、会津に入り藩主の松平容保にも謁見しました。

その後、会津若松を発った際に部隊の名前を衝鋒隊としました。

衝鋒隊は水原、新潟を経て、高田に入り、飯山城下へ向かった後、新政府軍の松代藩・尾張藩から攻撃を受けました。

この時に、味方と思っていた飯山藩から攻撃をうけ、敗北しました。

さらに、越後へ退却すると、高田藩からも攻撃され、衝鋒隊は、ここでも敗北しました。

その後、長岡を中心に展開した北越戦争で、衝鋒隊は、各地を転戦して戦いましたが、長岡城が陥落した後、奥羽越列藩同盟の諸藩は、それぞれ、米沢藩や会津藩に帰藩しました。

そこで、衝鋒隊は会津方面に撤退しましたが、会津藩は、新政府軍の総攻撃を受けて、会津若松城に入城することができず、城外で戦いました。しかし、会津藩が降伏する情勢となったため、福島を経て、仙台に着きました。

 仙台藩も降伏したため、石巻から榎本艦隊に合流し、さらに北の箱館に向かいました。

古屋佐久左衛門は、箱館でも、衝鋒隊を率いて戦い、蝦夷政権では歩兵頭に任命されました。

明治2年5月12日に、新政府軍は箱館を総攻撃を開始し、箱館湾から軍艦による艦砲射撃により、五稜郭も砲撃を受け、古屋佐久左衛門は、砲撃により重傷を負い、4日後の16日に死去しました。享年37歳でした。


[PR]
# by wheatbaku | 2017-12-07 22:33 | 『幕末』 | Trackback
高松凌雲のお墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑪)

高松凌雲のお墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑪)

 谷中霊園に眠る幕末の有名人の11回目は高松凌雲について書きます。 

 箱館戦争を勉強した人は高松凌雲を知っていると思いますが、高松凌雲はあまり有名ではないように思います。
 高松凌雲は、榎本武揚とともに蝦夷地にわたり、箱館戦争の際に、箱館病院の頭取を務め、敵味方なく、戦傷者を治療したこと、そして、榎本武揚に降伏を進める新政府軍との仲介を勤めたことで有名です。

 

 高松凌雲のお墓は、徳川慶喜の墓所の西側にあたる谷中霊園乙52側にあります。

c0187004_19340084.jpg

 高松凌雲は、天保7年に、筑後国御原郡古飯村の庄屋高松家の三男として生まれました。幼名権平,のち荘三郎といいました。3歳のうえの兄に古屋佐久左衛門がいます。

高松凌雲は、24才の時にて医学の道を志します。江戸で蘭方医石川桜所のもとで医学の修行をした後、大阪の緒方洪庵の適塾に入門しました。

慶応元年(1865)一橋家に仕官し、この時に高松凌雲と改名しています。

慶応2年、徳川慶喜が将軍になったことから将軍徳川慶喜の奥詰医師を命ぜられました。

慶応3年に、パリ万博に派遣された徳川昭武(慶喜の実弟)に随行してフランスに渡り、パリ万博終了後、そのままパリにとどまり、医術の研究を続けました。

しかし、翌年、戊辰戦争勃発の報せを受け、急遽帰国の途につきます。

帰国後は榎本武揚と一緒に蝦夷地に向かいました。

 高松凌雲について書いた小説に「夜明けの雷鳴―医師 高松凌雲」があります。
非常に丁寧に高松凌雲について書いてあります。
 特に箱館戦争の際の高松凌雲の活躍が劇的に書かれていますので、関心のある方はご一読されるのをお勧めします。

c0187004_19335058.jpg


 
 高松凌雲の箱館戦争ですの主な功績は、①敵味方の別なく治療に従事したこと、②新政府軍の病院への侵入および患者の殺害を防いだこと、③榎本武揚に降伏を勧める手紙を送ったことだと思います。以上箱館戦争での出来事は、「夜明けの雷鳴―医師 高松凌雲」に基づいて書いてみます。

蝦夷地についた高松凌雲は榎本武揚から箱館病院の頭取を依頼され、全権を一任されることを条件に受け入れました。

頭取就任早々に、新政府軍の6人の負傷者が運ばれてきました。

この時、敵の負傷者が運ばれてきたため、病院内は騒然としましたが、高松凌雲は直ちに負傷者を病院に収容し治療を施し、傷病の癒えた箱館府の6人を清水谷の逃亡先・青森に送っています。

これは、高松凌雲がパリで見た負傷して戦闘力のない者は敵味方の区別なく治療するという見聞に基づいた対処でした。

明治2年5月11日、新政府軍は箱館総攻撃を行いました。その際に新政府軍が病院にも押し寄せてきました。その際、高松凌雲は、負傷者は敵対するものではないので、助命して欲しいと訴えました。この訴えを聞いたのが薩摩藩の隊長山下喜次郎でした。

山下喜次郎は病院を離れる際、門前に大きな「薩州隊改め箱館病院」の木札を掲げることを認め、これで、箱館病院への新政府軍の攻撃から守られました。

しかし、髙龍寺に設けられていた分院には、松前藩が押し入り、入院していた負傷者たちが殺害されるという最悪の事態となってしまいました。

数日後、五稜郭と弁天砲台に和平の勧告を仲介してもらうため、薩摩藩軍監村橋直衛と藩士池田治郎兵衛が箱館病院にやってきました。

高松凌雲は、最初、村松の依頼を断りましたが、繰り返し強い要請があり、高松凌雲は、その要請を受けて、榎本武揚に降伏を勧める手紙を書きました。

この手紙に対して、榎本武揚は、拒絶してきましたが、その手紙をともに送ってきたのが有名な「海律全書」です。

五稜郭開城後、高松凌雲は阿波藩預けとなりますが、翌年には罪を赦されます。
 そして、徳川慶喜の意向を踏まえて、パリに随行した徳川昭武が水戸藩主となっていたことから、水戸藩に出仕します。しかし、水戸藩は、高松凌雲を拘束することなく、時々、藩邸に出張すればよいという扱いであったので、東京浅草に医院を開きます。

しばらくして、新政府の兵部省に出仕して軍医頭となっていた松本良順から新政府への出仕も勧められますが、その要請を断りました。
 その後も、土佐県や福山県、さらに博愛社を設立した佐野常民からの要請も断わり、民間での治療を選び、明治12年、同愛社を設立して貧民救療事業に専念したいます。

同愛社は民間社会福祉事業の先駆とされています。

そして、高松凌雲は、大正5年東京の自邸で81才の生涯を閉じました。


[PR]
# by wheatbaku | 2017-12-04 19:37 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
佐藤泰然②(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑩)

佐藤泰然②(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑩)

先日、佐藤泰然について書きましたが、今日は佐藤泰然について補足説明させていただきます。

私個人としては、佐藤泰然について、下記のようないくつかの疑問点がありました。

①佐藤泰然は、佐藤藤佐の子供です。この佐藤藤佐は、『天保暴れ奉行 気骨の幕臣 矢部定謙』(中村彰彦著)の中では、天保11年(1840111日 に起きた三方領知替えを阻止する上で、重要な役割を果たしたとされているが、それは事実なのか?

c0187004_11143220.jpg

②佐藤泰然が、薬研堀の和田塾を養子の林洞海に任せて佐倉に行っているが、佐倉への移住には特別の事情があるのか?

③佐藤泰然には、実子惣三郎(長男)・順(次男、後の松本良順)・董(五男、後の林董)がいるにもかかわらず、なぜ養子に家督を譲ったのか?

 こうした疑問について、説明してある本を見つけました。

『伝記叢書139 蘭医佐藤泰然 その生涯とその一族門流―』(村上一郎著、大空社刊)です。

 今日は、この本に基づいて、前記の疑問点の答えを書いておきます。

 佐藤藤佐は、庄内藩遊佐郡升川村の郷士出身で、若くして江戸に出て、苦労した後、公事師(いまの弁護士のような仕事)のようなことをやっていましたが、それが縁となり、川崎の田辺家の養女ふぢと結婚しました。結婚後、江戸に出府し、水野若狭守、伊奈遠江守に仕え、さらに矢部駿河守と知り合うことになりました。

 佐藤泰然が薬研堀に和田塾を開いていた時期に、庄内藩酒井家を長岡に、長岡藩牧野家を川越藩へ、川越藩松平家を庄内藩に転封させる三方領知替えが起き、庄内藩の農民たちが反対運動を起しました。

 農民たちは、老中たちに駕籠訴を繰り返しました。そのため、佐藤藤佐は、息子の佐藤泰然、弟の佐藤然僕とともに南町奉行所に呼ばれ尋問を受けました。
 当時の南町奉行は、佐藤藤佐がよくしっている矢部定謙でした。尋問の場で、佐藤藤佐は、三方領知替えを強行しようという水野忠邦の政治姿勢を批判しました。

 この尋問を行った矢部定謙は、天保12年7月4日、水野忠邦も出席する老中列座の席で、尋問内容をそのまま、朗読しました。

 その内容を聞いて幕閣は、佐藤藤佐の尋問を停止したうえで、水野忠邦の登城を遠慮させました。

そして、7月12日、将軍徳川家慶の意向により三方領知替えを取りやめると発表されました。

 こうして、三方領知替えは中止となりました。

 しかし、佐藤藤佐や佐藤泰然は大喜びするわけにはいきませんでした。

 水野忠邦の怒りを呼び復讐されるおそれがあったためです。

 現に佐藤藤佐の尋問内容をよみあげ、結果として水野忠邦を批判した矢部定謙は、桑名藩松平家にお預けとなり、矢部定謙は食を絶って命を落としました。

 佐藤藤佐と佐藤泰然は、三方領知替えを撤回させた功労者ということになりますので、当然、水野忠邦の怒りの矛先が佐藤父子にも向かうと予想されました。

 そこで、佐藤泰然は、父と共に江戸を去る決断をします。移住先に佐倉が選ばれたのは次のような理由からです。

 ①佐倉藩主堀田正睦と家老渡辺弥一兵衛が蘭学を好み蘭学を奨励していたこと

 ②佐倉藩主堀田正睦は、水野忠邦と不和であり、庄内藩転封に批判的であったこと

 ③佐藤泰然が佐倉藩家老渡辺弥一兵衛と親しかったこと。

 こうして、薬研堀の和田塾を養子の林洞海に譲り、佐倉に転居することにしたのです。佐倉への移住は天保14年のことでした。

 佐藤泰然には、5人の男子がありました。そのうち、2人は幼くして亡くなり、成長したのは3人です。すなわち長男が惣三郎、次男が良順、五男が董です。

 この実子3人は、全員、他家に養子に行っています。
 長男の惣三郎は山村家へ、良順は松本良甫の養子となり、五男董は林洞海の養子となっています。

 一方で、佐藤泰然は、林洞海と山口舜海を養子に迎えています。

 林洞海は、長女つると結婚し薬研堀の和田塾を引き継いでいます。

 山口舜海は、前回紹介した、佐藤尚中です。

 このように、実子がいながら、養子を迎えたのは、佐藤泰然が「実子は未熟なものが多いので、腕の優れた人物を養子として家業を継がせる」という考えをもっていたためのようです。

 

 次男の松本良順は、幼名順之助といい、前述のとおり松本良甫の養子となりました。

 その松本良甫のお墓も佐藤泰然の墓所内にあります。

 佐藤泰然のお墓の手前右手にあります。(下写真)表面の文字が一部判読が難しくなっていますが、「前侍醫法眼松本戴」と刻まれています。

c0187004_11142648.jpg

 佐藤泰然は松本良甫と非常に親しく死後も離れない約束をしていたため、佐藤泰然がなくなった際に、佐藤泰然の遺骸は松本良順によって王子の松本家の墓に埋葬されました。そして、松本良甫が明治14年に亡くなった際に、佐藤泰然と並んで埋葬されました。

 その後、佐藤泰然のお墓が佐藤家が所有していた谷中霊園に改葬された際に松本家の墓も改葬されため、佐藤泰然と松本良甫のお墓が同じ墓所内にあることになりました。



[PR]
# by wheatbaku | 2017-12-01 10:51 | 『幕末』 | Trackback
佐藤尚中の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑨)

佐藤尚中の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑨)

谷中霊園に眠る幕末の有名人の第9回は、佐藤尚中(たかなか)です。

 前回佐藤泰然についてかきましたが、佐藤尚中は、佐藤泰然の養子で、東京の順天堂(現在の順天堂大学)の創設者です。

佐藤尚中のお墓は、谷中霊園の甲9号1側にあります。駐在所わきの十字路を西に入った場所です。

c0187004_14214055.jpg

佐藤尚中は、「しょうちゅう」とも呼ばれますが、正式には「たかなか」です。号は舜海または笠翁と言いました。

谷中霊園には、お墓のほかに、顕彰碑が、駐在所の南側に建てられています。

有栖川宮熾仁親王が書いた篆額には「故大学大博士佐藤尚中の碑」と刻まれています。

c0187004_14214710.jpg

佐藤尚中は下総国小見川藩医山口甫僊(ほせん)の次男として生まれ、16歳で江戸に出て儒学を「江戸繁昌記」で有名な寺門静軒に学び、医学は安藤文澤に入門しました。

しかし、安藤文澤の勧めで佐藤泰然に弟子入りしました。

たまたま喧嘩をして大けがした人がいて、安藤文澤に治療を頼んだが運悪く文澤が留守でした。そこで佐藤尚中(当時は山口舜海)は、裁縫用の針で傷口を24針縫い合わせましたが、大変落ち着いて処置したことを聞いた文澤が、我が門下においておくには惜しいと考え佐藤泰然の下で学ぶことを勧めたと言われています。

こうした佐藤尚中ですから、佐藤泰然のもとで学ぶなかで、たちまち頭角を現しました。

嘉永6年(1853)、泰然の養子となって佐藤姓に改め、佐倉藩医にもなりました。

長崎に行っていた佐藤泰然の実子松本良順からポンペの情報を得て万延元年(1860)に長崎に遊学し、ポンペに学んで、文久2(1862)に佐倉藩に帰りました。

慶応2年、佐倉に佐倉養生所を開設しましたが、これは、松本良順が長崎で開設した長崎養生所(現在の長崎大学医学部)を身近で見ていた経験が活かされています。

しかし明治2(1869)、佐倉藩の医学改革を進めている最中、明治新政府から医学教育の改革のため大学東校(現在の東大医学部)の大学大博士になることを要請されて上京しました。

明治5年に私立病院博愛舎を日本橋に開設し、明治6年いっさいの官職を辞して東京順天堂を下谷練塀町に開設しました。

練塀町の医院は狭くて大勢の患者を収容できないため、明治8年に湯島(現在の順天堂大学付属順天堂医院の所在地)に移転しました。

しかし開院直後に結核に冒され、ドイツ留学中の養子佐藤進を呼び返して順天堂の運営を任せ、佐藤尚中は根岸の自宅で病気療養し、病が落ちつくと順天堂医院で診療をしていましたが、明治15年7月23日、ついに病にかてず56歳の若さで亡くなりました。

 順天堂大学の付属病院は、多くの人が順天堂病院と呼びますが、現在も正式には「順天堂医院」と名乗っています。 下写真をご覧ください。

c0187004_14215353.jpg



[PR]
# by wheatbaku | 2017-11-29 14:20 | 『幕末』 | Trackback
佐藤泰然の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑧)

佐藤泰然の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑧)

谷中霊園に眠る有名人の8回目は佐藤泰然です。

佐藤泰然は、順天堂(現在の順天堂大学)の創始者です。
 佐藤泰然のお墓は、谷中霊園の最北部にあります。日暮里駅北口からお参りするのが便利です。

c0187004_08095359.jpg

佐藤泰然は、出羽国遊佐の郷士の佐藤藤佐(とうすけ)の子として武蔵国稲毛(川崎市)に生まれ、江戸で育ちました。

幼いころの名前は田辺昇太郎。長じて旗本伊奈家に仕えて庄右衛門と改めました。本名は信圭(のぶかど)と言いました。
 谷中霊園のお墓には、佐藤泰然ではなく、本名の佐藤信佳が刻まれています。

c0187004_08100098.jpg

天保元年(1830)27歳で蘭学を志し、蘭方医足立長雋(ちょうしゅん)に学び、高野長英にも学びました。


天保6(1835)年、長崎に遊学、末永甚左衛門に寄宿して、楢林栄建や大石良逸などに学びました。長崎へ留学する際に、姓を和田(母方の姓)、名を泰然と改称しています。
 天保9年江戸に戻って、日本橋の薬研堀で医者を開業し和田塾と名付けました。

天保14年、和田塾を女婿となった林洞海に任せ、下総国佐倉藩藩主堀田正睦に招かれ佐倉に移り、医院と学塾を設けて順天堂と称しました。この佐倉に移住する際に姓を和田から佐藤(父方の姓)に改めました。

嘉永2(1849)年に、佐倉藩内での種痘の実施を指導し。その後、佐倉藩の藩医にもなりました。

嘉永年間(184854)に順天堂で行った治療の記録は『順天堂実験』(関寛斎記録)にあるとのことで、帝王切開、卵巣腫瘍摘出、乳癌切除などのさまざまな手術が行われました。

安政6(1859)に家督を養子の佐藤尚中に譲った後、しばらく江戸の林洞海のもとに滞在した後、佐藤泰然は横浜に住み、ヘボンなどと交際しました。

明治元年に起きた箱館戦争では、五男の林董、甥の山内堤雲など佐藤泰然の関係者が官軍と戦いました。また、榎本武揚は、佐藤泰然の孫娘と結婚しています。

箱館戦争も終了し、榎本武揚も赦されたのを見届け、佐藤泰然は明治5年4月10日に肺炎で亡くなりました。69歳でした。

佐藤泰然が設立した佐倉の順天堂はのちに順天堂医院となり、現在は順天堂大学に発展しています。



[PR]
# by wheatbaku | 2017-11-27 08:11 | 『幕末』 | Trackback
獏塾散歩(浜離宮・浅草寺散歩)開催されました。
獏塾散歩(浜離宮・浅草寺散歩)開催されました。

昨日は、獏塾の皆さんと浜離宮と浅草寺を散歩してきました。

獏塾は江戸検1級合格をめざすグループですが、11月3日の江戸検が終わりましたので、みんな頑張ったご褒美として獏塾散歩が企画されました。

 昨日は、午前中はかなりの雨がふっていましたが、散歩はじめるころには雨もすっかりあがり、浜離宮では、すっかり秋晴れとなった青空のもと心地よい散歩となりました。

(下写真は、浜離宮で説明を受ける参加者の皆さんですが、背景の空は雲一つない青空でした。)

c0187004_12045441.jpg

参加された皆さんは、合格された方が多かったせいもありますが、皆さん、一息ついたという感じでのんびりと秋の散歩を楽しんでいました。 ご参加いただいた皆さんお疲れ様でした。 

今回の案内は、バードタイムさん、小金井三社祭さん、幕張の静山さんの三人が案内役でしたので、私ものんびりと説明をききながら散歩を楽しませてもらいました。

 バードタイムさん、小金井三社祭さん、幕張の静山さん、ありがとうございました。

 下写真は、集合場所の旧新橋停車場前で、本日の予定を聞く参加者の皆さんです。

c0187004_12050127.jpg

昨日の主な散歩ポイントをご紹介しておきます。

浜離宮に入るとまもなく三百年の松と呼ばれる大きな松があります。

この松は、宝永6年(1709)に徳川家宣が6代将軍となった年に植えられたと伝えられていて、植えられてからおよそ300年たつため「三百年の松」と呼ばれれています。都内では最大級の黒松です。案内は幕張の静山さん

c0187004_12050701.jpg

浜離宮には、 新銭座鴨場と庚申堂鴨場という二つの鴨場があります。

庚申堂鴨場は10代将軍家治が作ったもので、安永7年(1778)に作られました。新銭座鴨場は寛政3年(1791)に11代将軍家斉がつくりました。

11代将軍家斉は、鷹狩が大好きでしたので、ここを大いに活用しました。浜離宮には248回も来園し、そのほとんどが鷹狩りのためだったそうです。

下写真は庚申堂鴨場です。庚申堂鴨場というの、この鴨場の北東側に庚申堂があったことに由来します。案内は幕張の静山さん

c0187004_12051202.jpg

 将軍が浜離宮に来た際に上陸する場所がお挙がり場です。
 14代将軍家茂は、3回上洛していますが、3回とも京都から江戸に帰るのは船を利用しました。その際に、このお上がり場を利用しました。

また、15代将軍慶喜が、鳥羽伏見の戦いで敗れて江戸に戻った際にも、ここから上陸しています。案内はバードタイムさん

c0187004_12051834.jpg

浜離宮を楽しんだ後、水上バスを利用して隅田川を遡り、周辺の景色を楽しみながら浅草に向かいました。

吾妻橋のたもとでの参加者全員の集合写真です。

c0187004_12052505.jpg

浅草寺の二天門は、もともとは浅草にあった東照宮の随身門でしたが、明治以降四天王のうちの二天がお祀りされたため、二天門と呼ばれるようになりました。

国の重要文化財に指定されています。案内はバードタイムさん

c0187004_12053233.jpg

浅草神社には、浅草の観音様をお祀りした土師中知、檜前浜成・武成兄弟がご祭神です。その後、徳川家康もお祀りされたため、江戸時代には三社権現と呼ばれました。

そのため、浅草神社のお祭りが三社祭と称されます。案内はバードタイムさん

c0187004_12053843.jpg

本堂の西側には、淡島堂があります。紀州の淡島明神を勧請したもので、毎年2月8日には針供養が行なわれます。また、太平洋戦争中に浅草の観音様を戦火から守った天水桶も残されています。案内は小金井三社祭さん

c0187004_12054461.jpg

秋の空はつるべ落としを言われますが、4時半を過ぎると、もう薄暗くなります。

その中で、小金井三社祭さんが案内しているのは、本堂前にある「迷い子のみちしるべ」です。

c0187004_12054968.jpg

散歩の後は、恒例の懇親会です。

天候にも恵まれた心地よい散歩の後、そして、江戸検が終わった後の解放感で、今回も大いに盛り上がりました。

気がつけば8時30分過ぎ、3時間を超える宴会となりました。

そこで、最後に記念写真をパシャ! そして御開きです。

c0187004_12055658.jpg

ご参加の皆さん、お疲れ様でした。



[PR]
# by wheatbaku | 2017-11-24 12:01 | Trackback
雲井龍雄の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑦)

雲井龍雄の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑦)

 谷中霊園に眠る幕末の有名人の第7回は雲井龍雄のお墓です。

 雲井龍雄は、知る人ぞ知るというレベルの人物であったと思っていましたが、今年の江戸検のお題テキスト「疾走!幕末・維新」の中で取り上げられましたので、江戸検を受検された方は、その名前を覚えたことだろうと思います。

雲井龍雄は米沢藩士で本名は小島守善といい、雲井龍雄は変名ですが、本名より変名の雲井龍雄の方が有名です。

雲井龍雄のお墓は、谷中霊園の中央を通る桜通り沿いの天王寺五重塔跡と霊園管理事務所のちょうど中間あたりにあり、上部に「龍雄雲井君之墓」と刻まれています。(下写真)

c0187004_10122494.jpg

雲井龍雄は、弘化元年(1844)米沢藩士中島総右衛門の次男として生まれ、文久元年(1861)に小島家の養子となりました。

慶応元年(1865)には、江戸に遊学して安井息軒の三計塾に学びました。三計塾は江戸で有名な塾でした。土佐藩の谷干城、紀州藩の陸奥宗光、長州藩の品川弥二郎などが学んだことがあります。雲井龍雄はそこで塾頭を勤めています。

慶応3年(1867)探索方として京都に出張し、薩長土諸藩の動向を探索しました。この中で、薩摩藩への憤激を強めていったようです。

王政復古の大号令の後、明治新政府が慶応4年に定めた貢士にもなっています。

 慶応4 年、新政府軍の会津征討の動きに憤激して米沢に帰ったが、米沢藩は越後で新政府軍と戦っていたため、「討薩ノ檄」を作成して奥羽越列藩同盟の奮起を促しました。

しかし、米沢藩が降伏したため、抗戦派であった雲井龍雄は米沢に謹慎を命じられました。

明治2年に謹慎が赦された後に、東京に出て集議院の寄宿生となりますが、すぐに辞任し、「帰順部曲点検所」を組織し、戊辰戦争で敗れた人々の救済を行いつつ新政府に嘆願を続けます。

しかし、「帰順部曲点検所」は、不平士族との溜り場となり、政府転覆を企てていると疑われたため、雲井龍雄は謹慎を命じられ米沢に護送されました。

雲井龍雄は、謹慎中も自分の考えを訴え続けたため、東京に護送され明治2年12月28日に梟首刑となり、小塚原の回向院に埋葬されました。

その後、明治16年に、谷中天王寺に改葬されました。谷中霊園にあるお墓は供養塔ではなく本当のお墓のようです。

雲井龍雄を主人公とした藤沢周平の「雲奔る」という小説があります。

c0187004_10123101.jpg

藤沢周平は山形県出身であり、藤沢のあとがきには、「私の郷里から、明治維新・・・に、志士として積極的にかかわった人が二人いる。一人は清河八郎であり、一人が雲井龍雄である。(中略)龍雄に対する長い間の一種の気がかりのようなもの、それがこの小説を書かせたことになろうか」と書いてあります。

雲井龍雄の生き様が克明かつ淡々と描かれた小説です。


[PR]
# by wheatbaku | 2017-11-22 10:02 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
by 夢見る獏(バク)
プロフィールを見る
画像一覧
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
以前の記事
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
ブログパーツ
最新のコメント
ツユクサさん 江戸城散..
by wheatbaku at 12:53
獏様 江戸城散策、お疲..
by ツユクサ at 08:26
宮越さん コメントあり..
by wheatbaku at 11:42
今回のブログで、霊厳寺が..
by 宮越重遠 at 10:51
やぶひびさん 本妙寺は..
by wheatbaku at 13:05
「江戸から東京へ1」を図..
by やぶひび at 09:30
ツユクサさん 土曜日は..
by wheatbaku at 21:00
獏さん 案内お疲れ様で..
by ツユクサ at 11:10
小ツルさん 「むさしあ..
by wheatbaku at 09:50
バクさま、加州そうせい公..
by 鶴ヶ島の小ツル at 16:57
加州そうせい公様 私も..
by wheatbaku at 07:34
バクさん 昨日の江戸楽..
by 加州そうせい公 at 17:31
mikawaさん 先日..
by wheatbaku at 12:55
宮越さん コメントあり..
by wheatbaku at 09:03
宮越さんからコメントをい..
by wheatbaku at 09:00
mikawaです。先日は..
by mikawa ケンイチ at 08:17
ツルさん 名古屋に住ん..
by wheatbaku at 16:18
獏さま ははあ、あの石..
by 鶴ヶ島の小ツル at 15:20
やぶひびさん NHKB..
by wheatbaku at 17:54
今夜3/3.20:00~..
by やぶひび at 12:49
最新のトラックバック
再出発が始まる
from 哲学はなぜ間違うのか
穴八幡宮
from Coffee, Cigare..
風景印  28.4.30..
from としちゃんの風景印・郵趣日誌
山王日枝神社@溜池山王
from たび☆めし☆うま BLOG
浮世絵の誕生・浮世絵の歴..
from dezire_photo &..
小網神社@人形町
from たび☆めし☆うま BLOG
二つの感応寺
from Madam'Blog
江戸検講座「江戸の祭礼と..
from Madam'Blog
浅草寺本尊示現会
from Madam'Blog
江戸料理 八百善
from お気楽マダムの奮闘記
お気に入りブログ
江戸・東京ときどきロンドン
ファン
ブログジャンル
歴史