カテゴリ:江戸の歳時記( 22 )
雑煮(江戸の歳時記)
 今日は、雑煮のお話です。
 皆さん、お雑煮は食べられましたか。我が家では、昨日も今日もお雑煮食べました。

 江戸時代は、正月三日間はお雑煮を食べました。
 東都歳事記には、元日の項に
 「今日より三日まで貴賎雑煮餅を食し、・・・・ 」 と書いてあります。
 雑煮は、年越しの夜に神を迎えた祭りの直会(なおらい)の式中の食事として、神撰物をおろして、それを一緒に調理したものだそうです。
 c0187004_11483240.jpg東都歳事記の注意書きには
 「雑煮の称は、中世における信仰の衰退から、この不穏当なる称が許され、雑然たつ集め汁の呼称に変わった」と書かれています。
 同じく注意書きには、徳川家の雑煮について書かれています。
 「徳川家の雑煮は、餅、大根、牛蒡、焼豆腐、芋、くしこ、昆布、くしあわび、結び蕨であった」
 と書かれています。
 「くしこ」とは腸を取り除いたナマコをゆでて串にさして干したものです。

 「絵本江戸風俗往来」には雑煮のことがより詳しく書かれています。
c0187004_13381243.jpg 「絵本江戸風俗往来」は、4代歌川広重を称した菊池貴一郎が嘉永以後より慶応の初めにいたる時代の江戸の有様を書いたものです。
  菊池貴一郎は、嘉永元年((1848)に生まれ大正14年(1925)になくなっています。
 「絵本江戸風俗往来」は、明治38年に発行されました。
 「絵本江戸風俗往来」では、「屠蘇を汲み雑煮を祝う」というタイトルで雑煮について次のように書いています。

 江戸中家々あるとあらゆる如何なる貧苦の者にても、正月元日・二日・三日の三朝屠蘇は汲まざるも、雑煮の調えなきものはなし。
(中略)
 屠蘇は平生出入りせる医師より参らするものを用ゆ。重詰の品は、田作(ごまめ)・数の子・座禅豆の三種なり。併し家々の式により一定せざるども、この三種通常用ゆる所なりとす。
 雑煮は、餅に添えて、小松菜・大根・里芋を通常とす。つゆは味噌汁を用ゆる所もあり。餅も焼きて用ゆるあり。湯に煮て使うあり。箸は雑煮箸とて、別製に大き柳箸を白紙に包み、紅白の水引にて結び、田作(ごまめ)を二つ水引きに差すなり。


 上の写真は、我が家で作った雑煮です。菊池貴一郎が書いている食材、餅、小松菜、大根、里芋で作ったものです。

「守貞謾稿」には、江戸と大坂の雑煮について次のように書かれています。
 江戸は切餅を焼き、小松菜を加え、鰹節を用ひし醤油の煮だしなり。塩鯛、裡白等のことなし。
 大坂の雑煮は味噌仕立なり。五文取りばかりの丸餅を焼き、これを加ふ。小芋、焼豆腐、大根、乾鮑、大略この5種を味噌汁にて製す。


 江戸では、切餅で醤油仕立てが中心ですが、大坂では、丸餅で味噌仕立てになっていたようです。
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by wheatbaku | 2012-01-02 12:00 | 江戸の歳時記 | Trackback
七草粥 (江戸の歳時記)
 今日は、1月7日は 「七草粥」 の日です。多くの方が「七草粥」を食べられたことと思います。
 最近は、スーパーで「七草セット」なるものを売っているので、手軽に「七草」が入手できるようになりました。

 さて、江戸でも、正月7日は、七草粥を食べていましたが、それについて、「守貞謾稿」に詳しく書かれていますので、それを引用します。(なお、適宜、現代かなづかいに変えています。)

c0187004_22505591.jpg 「正月7日
 今朝、三都とも七種(ななくさ)の粥を食す。
 七草の歌に曰く 『せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ これぞ七草』 
 以上を七草と云うなり。
 しかれども、今世、民間には、1、2種加えるのみ」

 6日から、貧しい町民や農民が、市中でなずなを売りました。
  「三都とも、6日に困民・小農ら市中に出て、これを売る。
 京阪にては売詞に曰く、『吉慶のなずな、祝いて一貫が買うておくれ』と云う。一貫は、一銭を云う戯言なり。
  江戸にては『なずな、なずな』と呼び行くのみ。」

 「なずな打ち」または「七草たたき」と呼ばれる風習もありました。

c0187004_1371671.jpg 「三都とも6日これを買い、同夜と7日暁と再度これをはやす。
 はやすと云うは、俎になずなを置き、その傍らに、薪・包丁・火箸・すりこ木・杓子・銅杓子・菜箸等七具を添え、歳徳神(としとくじん)の方に向かい、まず包丁を取りて、俎を拍ち囃子(はやし)て曰く、『唐土の鳥が、日本の土地へ、渡らぬさきに、なずな七種、はやしてほとほと』と云う。
 江戸にて『唐土云々渡らぬさきに、七種なずな』と云う。残り六具を、次第にこれを取り、この語をくり返し唱えはやす。」

 右の写真2枚は、なずなの花です。なずなはペンペングサとも呼ばれています。 

c0187004_1552754.jpg  江戸では、七草粥といっても、なずなと小松菜を入れて、「七草粥」を作っていたようです。
 正月7日は真冬ですので、七草をすべてそろえるのは難しかったのではないでしょうか。


「京阪は、このなずなにかぶら菜を加え粥に煮る。江戸にても、小松と云う村より出る菜を加え煮る。」

  また、「七草爪」という風習もありました。
 「なずなをわずかに加え煮て、余るなずなを茶碗にいれ、水にひたして、男女これに指をひたし爪をきるを、七草爪と云う。今日、専ら爪の斬り初めをなすなり。京阪には、この行をきかず。」

 「なずな打ち」は、7つの道具でそれぞれ7回叩いていたようです。 
 「ある書に曰く、七草は、七づつ七度、併せて四十九叩くを本とす。」
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by wheatbaku | 2010-01-07 08:19 | 江戸の歳時記 | Trackback
恵比寿・大黒天 (七福神の神々 ③江戸の歳時記)
 七福神のプロフィールの最後は、「恵比寿」「大黒天」です。

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恵 比 寿 
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 七福神の中で、ただ一人の日本の神様です。
 恵比寿の出自は、いくつかの説があります。
 その第一は、イザナギとイザナミの子供の「蛭子(ひるこ)」に由来するという説です。
 「蛭子(ひるこ)」はイザナギとイザナミの子供ですが、葦舟に乗せられて海に流されます。そして、流れ着いたのが西宮と言われています。
 この伝説を持つ西宮神社は、えびす宮の総本社とされています。
 次に、大国主神(おおくにぬしのかみ)の子供の「事代主神(ことしろぬしのかみ)」に由来するという説があります。
 「事代主神(ことしろぬしのかみ)」は、大国主神が国譲りを迫られた際に、国譲りを承諾し、姿を消してしまいます。
 国譲り神話において釣りをしていたことから釣り好きとされています。
 「事代主神(ことしろぬしのかみ)」を恵比寿として祀っているのが、島根県の美保神社や大阪の今宮戎神社です。
 さらに、「少彦名命(すくなひこなのみこと)」という説もあります。
 「少彦名命(すくなひこなのみこと)」は、一寸法師の原形とも言われ、大国主神とともに国を治めました。
 神田神社が、「少彦名命(すくなひこなのみこと)」を恵比寿として祀っています。

 恵比寿は、めでたい「鯛」と、福を釣るという「釣り竿」を手に持っています。
 釣竿については、「釣りして網せず」ということで暴利をむさぼらない清い心を象徴しているとも言われています。
 最初、漁業の神様でしたが、やがて商売繁盛の神様となりました。
 1月10日のお祭りは「十日えびす」と呼ばれ、西宮神社の場合は、9日から11日の3日間で100万人の参拝客があるそうです。

大 黒 天 
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 大黒天はもともと、インドのシヴァ神で、サンスクリット語で、マハーカーラと呼ばれる神様です。 
 マハーは「大きい」、「カーラ」は「黒」という意味です。
 「大黒」とは、「マハーカーラ」を意訳した言葉です。
 また、「大黒」は、大国主神(おおくにぬしのかみ)の「大国」と「だいこく」という音で通ずるところかとから、二つの神様はしだいに一体視されるようになりました。
 この中で、憤怒の形相から満面笑みを浮かべた優しい顔をして、大きな袋を担ぎ、打出の小槌をもった大黒天になりました。
 大黒天が大きな袋を背負っているのは、大国主神が因幡の白兎の説話において、兄神たちの荷物を入れた袋を持っていたためです。
 打ち出の小槌の「槌」は「土」、すなわち様々のもの生み出す「大地」を意味するのだとも言われています。

 大黒天の、頭につけた頭巾は「上を見ない」という謙虚さ、二つの米俵は「二表で満足する」という欲張らない清廉な心を示しているという説もあります。
 また、大黒天の神使はネズミです。
 これは、大国主神が危機に陥った時にネズミが助けたからだとか米俵とネズミは関係が深いからだとか言われています。
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by wheatbaku | 2010-01-06 06:10 | 江戸の歳時記 | Trackback
寿老人・福禄寿・布袋 (七福神の神々② 江戸の歳時記)
今日の七福神のプロフィールは、「寿老人」「福禄寿」と「布袋」です。
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寿 老 人
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 竜骨座の中に、「カノープス」という一等星があります。大犬座の「シリウス」に次いで全天で2番目に明るい星ですが、地平線ぎりぎりに見えるため日本ではあまり知られていません。
 中国では、この星は「寿星」または「南極老人星」と呼ばれていました。
 寿老人とは、この星を人格化したものです。
 昔の中国の人たちは、この星を世の中が平和の時にだけ出現するめでたい星と信じ、また、皇帝の寿命を支配する星と信じていました。
 この「寿星(南極老人星)」が、唐の時代になると、黒い頭巾をかぶって杖をつく老人の姿で描かれるようになりました。
 これが寿老人です。
 寿老人は、一般的には、杖を手にしています。そして、杖には人間の寿命が記されている巻物が吊るされています。
 寿老人の神使は鹿ですので、鹿が一緒にいることもあります。

福 禄 寿
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 宋の時代以降には、「寿星(南極老人星)」が、頭が非常に長く、白いひげをした背の低い老人として描かれるようになりました。
 これが福禄寿です。
 従って、寿老人と福禄寿は同一人物であるという説もあります。
 また、「福禄寿」は道教で理想とされる「福(幸運と子孫に恵まれること)」「禄(金銭・財産に恵まれること)」「寿(健康を伴う長寿)」をあらわしたものだという説もあります。
 福禄寿は、杖を持ち、時には鶴や亀を従えていることもあるようです。

 なお、寿老人と福禄寿が同一とみなされたために、寿老人に替えて「吉祥天(きちじょうてん)」や「猩々(しょうじょう)」を入れた七福神が考えられたこともありました。

布 袋
 布袋は、七福神の中で唯一、実在の人がモデルとなっている神様です。
 モデルと言われる人は数人いるようですが、いずれも中国の人です。
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 代表的な人は、唐代末期の契此(かいし)と呼ばれる禅僧です。
 契此(かいし)は、大きな太鼓腹で、いつも半裸でいました。
 そして、大きな袋を持っていました。
 布袋の名は、契此がいつも持ち歩いた大きな袋が布製であることから、布袋と名がついたようです。
 元の時代の布袋和尚もモデルの一人とされることがあります。
 この布袋和尚は、不思議な力を持っていました。
 雪の中に臥しても身体が濡れなかったとか、人に吉凶を示すと必ずあたったとか、天気の晴雨を予知できたなどと言われています。

 こうした布袋が七福神に加えられた理由は、大きな布の袋とふくよかな笑顔が大黒天と結びついたうえに悠々自適で楽天的な布袋和尚の生き方が当時の人たちに「至福」の象徴として受け入れられたという説があります。
 また、布袋を弥勒菩薩の化身として信仰したとの説もあるようです。
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by wheatbaku | 2010-01-05 06:14 | 江戸の歳時記 | Trackback
弁財天・毘沙門天 (七福神の神々① 江戸の歳時記)
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 お正月には七福神巡りをされる方もいらっしゃることと思います。
 私は、昨年の七福神参りは、浅草名所(などころ)七福神柴又七福神元祖山手七福神
を巡りました。
 今年は、「亀戸七福神」と「下谷七福神」を巡りたいと思っています。

 七福神の神様は、現在では、恵比寿、大黒天、弁財天、毘沙門天、福禄寿、寿老人、布袋の七つの神様を指します。
 七福神の神様のプロフィールを順に書いていきますが、今日は、弁財天と毘沙門天についてです。


【弁財天】 
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 弁財天は一般に弁天様と呼ばれる七福神の中の唯一の女神です。
 弁財天はもともとは、インドの水を司る神様で、サンスクリット語で、「サラスヴァティー」と呼ばれていました。サラスヴァティーとは水を持つものという意味だそうです。
 水の流れる音から、音楽の神様、弁舌の神様としても信仰されました。

 日本では、日本固有の神様である宗像神社や厳島神社に祀られている市杵島姫(イチキシマヒメ)と同一視された結果、琵琶を抱く色白の美女の姿で表されることが一般的になりました。
 
 わが国では、最初、技芸の神様とされていましたが、江戸時代には、財宝の神様として信仰され、本来は「弁才天」ですが、「才」が「財」の音に通じることから、「弁財天」と表記されるようになりました。
 江ノ島、竹生島、宮島に祀られる弁財天は 三弁財天と呼ばれています

【毘沙門天】
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 ふくよかな七福神の中で毘沙門天だけが鎧兜で武装した厳しい姿をしています。
 毘沙門天は、もとはインドの財宝福徳を司る神様で、サンスクリット語で、 ヴァイシュラヴェナと呼ばれていました。
 
 仏教に取り入れられてからは、仏法を守護する四天王の一人として北方守護の任を負い、四天王中最強の力を誇るとされました。

 我が国では、「毘沙門天」とともに「多聞天」の名でも呼ばれます。
 毘沙門天はヴァイシュラヴェナを音訳した名前です。
 一方、多聞天とは、ヴァイシュラヴェナを意訳した名前で、ヴァイとは「広く」とか「多く」を意味し、「シュラヴァ」は「聞く人」という意味です。
 単独で信仰されるときは「毘沙門天」、四天王の一人として信仰される時は「多聞天」と呼ばれることが多いようです。

 上杉謙信は、毘沙門天を深く信仰し、毘沙門天の一字「毘」を旗印としていたことは、大変有名です。
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by wheatbaku | 2010-01-04 06:52 | 江戸の歳時記 | Trackback
七福神 (江戸の歳時記)
  初夢は、今日2日の晩見る夢ですので、吉夢が見られると良いですね。
 さて、今日の話題は、吉夢を見るための宝船に乗っている、 「七福神」 についてです。

 七福神は、室町時代末期に成立し、七福神詣では江戸時代後期に盛んになりました。

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【七福神の由来】 
 「七福」という言葉は、「仁王護国般若波羅密経」というお経の中にある「七難即滅、七福即生 (七つの災難が即座に消滅し、七つの福徳が即座に生まれる) 」という言葉に由来すると言われています。
 また、七人の神様を集めたのは、中国の「竹林の七賢人」を下敷きにしているということです。

 そもそも、なぜ「七」かということですが、
 仏教では、「七」のつく言葉は非常に多く、「七仏」、「七宝」等があり、「七」は特別な数だそうです。
 また、中国でも「七」は「七曜」など特別な数で、さらに、日本でも「七」は古代から特別な数字だったそうです。
 「七」にこだわるのは、このように、「七」を聖数と見る東アジアの風潮によっているというのが通説のようです。

【成立は室町時代末期の京都】 
 七福神は、室町時代末期に京都の町衆文化の中で成立したそうです。
 当時、上方では、西宮の恵比寿、比叡山の三面大黒、鞍馬の毘沙門天、竹生島の弁才天が、篤く信仰されていました。
 また、寿老人、福禄寿、布袋も画題として好まれていたそうです
 こうした中で、恵比寿・大黒を軸に、毘沙門天、弁才天、福禄寿、寿老人、布袋らが加わって、七福神の原型ができました。

【江戸における七福神参り】 
 江戸では、11代将軍家斉の時代の享和年間(1801~1803)以降、七福神巡拝が盛んに行われるようになりました。
 七福神巡りの最初は、谷中七福神といわれています。

 享和雑記という本に次のように書かれていてます。
 「近ごろ正月初出に、七福神参りといふこと始まりて、遊人多く参詣することなれり。
 不忍の弁財天、谷中感王寺の毘沙門、同所長安寺の寿老人、日暮の里青雲寺の恵比寿・大黒・布袋、田畑西行庵の福禄神なり。近ごろ年々にて福神詣でする人多くなれり」c0187004_22172955.jpg

 天保9年の東都歳時記には、
 「正月 日不定、七福神参 
 大黒神、愛比寿 神田社地 或は上野清水堂の傍、
 弁天 不忍池中、
 毘沙門 谷中天王寺、
 寿老人 同所裏門前長安禅寺、
 布袋 日暮里、
 福禄寿 山畑西行庵 
 或は寿老人を除きて、上野大仏の前 吉祥天祠へ参るあり」 と書かれています。

 その後に山の手七福神参りについても
 「山の手七福神参り 毘沙門 二本榎細川侯御やしきの前、 布袋 白金興聖寺天王殿、  寿老人・福禄寿 白金妙円寺妙見堂の内、 弁天 目黒蟠竜寺前、 恵比寿・大黒 目黒不動尊境内」 と書かれています。 
 現在は、「元祖山手七福神巡り」と名づけらています。こちらは昨年お参りしています。その時の様子はこちらです。

 また、天保以前の文化・文政頃、向島にも、大田蜀山人、谷文晁、酒井抱一らによって七福神が置かれました。
 これが、現在の隅田川七福神です。
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by wheatbaku | 2010-01-02 09:35 | 江戸の歳時記 | Trackback
宝船 (江戸の歳時記)
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   今年もどうぞよろしくおねがいします


 新年が明けて初めて見る(江戸後期は2日の夜)夢を初夢といいます。 
 吉夢を見るために宝船の絵を枕の下に敷いて眠るのを慣例としていました。
 その絵を売るために、正月の元旦そうそうに、宝船売り が江戸の町を廻りました。
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 宝船売りが売る絵は一艘の帆掛け舟に宝物を満載し、七福神が乗っている絵です。
 さらに、その絵には、 「なかきよのとおのねふりのみなめさめ なみのりふねのおとのよきかな」 という回文(上から読んでも下から読んでも同じ文を回文といいます)が書かれていました。
 わかりやすいように漢字交じりで書くと「長き夜の遠の眠りの皆目覚め、波乗り船の音の良きかな」となります。

c0187004_11571349.jpg 守貞謾稿では、宝船の絵について、「江戸は、今も専ら元旦2日の宵に、これを売り巡る。 宝船の印紙に道中双六の印紙を兼ね売る。」と書かれていて、道中双六と一緒に売っていたようです。
 またその売り声も、「道中双六、おたからおたから」というものだったと守貞謾稿に書かれています。

 宝船売りは、元旦二日の商売だったので、
  山の手を 船の走るも 春二日 や
  草双紙より 買初めは 宝船  という川柳ができ、

 門松の立ち並ぶ中を売り歩くので、
  たから船 並木の中を よんて行き という川柳もあります。

 また道中双六と一緒に売られたため、
  道中と 宝を売ると のどかなり という川柳もあります。

 
 ところで、初夢とは、いつ見る夢のことなのでしょうか?
 「大晦日の夜」「元旦の夜」「二日の夜」という3つの説があるようです。
 今では、「二日の夜」に見る夢が初夢とされているようです。
 曲亭馬琴の書いた「俳諧歳時記栞草」には、「大晦日より元日に至る夢を初夢と称す。されど、今俗二日の夜に宝船をしく也」と書いてあります。
 初夢は本来は元日の暁に見る夢だったものが、曲亭馬琴の活躍した江戸後期には、二日に見る夢が初夢といわれるようになっていたようです。
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by wheatbaku | 2010-01-01 08:02 | 江戸の歳時記 | Trackback
装束榎の大晦日の狐火 (江戸の歳時記)
 いよいよ、平成21年も明日が大晦日になってしまいました。
 この一年間ブログ」を読んでいただきありがとうございました。
 一年前は、よちよち歩きのブログでしたが、今では、大勢の人が読んでくれるようになり、多くの人から声援をいただけるようになりました。
 来年もどうぞよろしくお願いします。
 さて、今日は大晦日の一日前ですが、大晦日の話題として、「装束榎の狐火」のお話です。 

c0187004_2134730.jpg【王子装束えの木 大晦日の狐火】
 これは広重の名所江戸百景「王子装束えの木 大晦日の狐火」です。
 絵の左側真ん中にある大きな木が「装束榎」と呼ばれた榎です。
 大晦日に、関東一円の狐が集まってきて、装束を改めて、右手遠くの森にある王子稲荷神社に向かいました。
 東都歳時記にも、「大晦日 今夜 王子稲荷のかたわら、装束榎の木へ狐多く集まる」と書かれていて、「関八州の命婦ここに集まり、官位を定めるよしにて、狐火おびただし。その狐火、山路をつたい、川辺をつたう様を見て、明年の豊凶を占うとぞ」と書かれています。
 また、江戸名所図会にも
 「装束畠 衣装榎 毎歳12月晦日の夜、諸方の狐 おびただしくここに集まり来ること恒例にして、いまにしかり。そのともせる火影にて、土民明くる年の豊凶をうらなうとぞ、このこと宵にあり、また暁にありて、時刻定まることなし」  と書かれています。 

c0187004_2004191.jpg【装束榎のあった地の現在の様子】 
 装束榎は、王子駅近くの北本通りのこの交差点の真ん中あたりにあったとのことです。
 昭和4年に装束榎は道路拡張のため切倒されてしまいました。
 この写真は、北本通りの北側から、王子稲荷の方向をとったものです。
 広重の絵とのギャップの大きさに驚かされます。

c0187004_200484.jpg【装束稲荷神社】 
 装束榎が切り倒された跡、装束榎の碑が、もとあった場所から北西に60mのところに移されました。
 その後、装束稲荷社が設けられたそうです。
 平成5年からは、王子「狐の行列」が始められました。
 毎年大晦日に、装束稲荷から王子稲荷まで、狐のお面をかぶった人々が練り歩るきます。
 「王子・狐の行列の会」の公式ホームページ「王子・狐の行列【2009】」では行列の時間や行列順路等がわかります。

c0187004_200253.jpg【王子稲荷神社】 
 こちらは王子稲荷神社です。
 稲荷神社の関東総社と言われています。
 創建の時代ははっきりしませんが、社伝では源頼義が信仰したと伝えているそうです。
 現在の社殿は、文化5年(1808)に建てられたものです。
 正面から撮りにくかったので、脇から撮ってあります。


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by wheatbaku | 2009-12-30 13:35 | 江戸の歳時記 | Trackback
十五夜② (江戸の歳時記)
 明日が十五夜なので、昨日に続いて今日も、 「十五夜」 のお話です。
 天気予報では、明日の東京地方は曇りとなっているので、十五夜は見られそうにないですね。 そこで、満月の写真を再びのせます。

c0187004_114101.jpg 【守貞謾稿】
 江戸時代の十五夜の様子について、「守貞謾稿」が書いています。

 『三都とも、今夜月に団子を供す。しかれども、京阪と江戸と大同小異あり。
 江戸にては、図(下の写真)のごとく、机上中央に三方に団子数々を盛り、また花瓶に必ず芒を挟して、これを供す。
 京阪にても、机上三方に団子を供すこと、江戸に似たりといへども、その団子の形、小芋の形に尖らすなり。しかも豆粉に砂糖を加へ、これを衣とし、また醤油煮の小芋とともに三方に盛ること、各12個。閏月ある年には、13個を盛るを普通とす。』
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 また、図の中の説明に
 『芒に千日紅等を添ふるなり。
 江戸の団子は図のごとく正丸にて素なり。
 京阪にては芒および諸花ともに供せず。』
と書いてあります。

 このことから、江戸では芒(ススキ)を供えましたけれど京や大阪では供えなかったことがわかります。
 また、団子の形が、江戸ではまん丸ですが京・大阪では小芋の形をしていて、形が違っていたこともわかりますね。

 
【片見月】
 旧暦9月13日に月を鑑賞することを「十三夜」と呼びます。十五夜の月を鑑賞する習慣は中国から伝わりましたが、十三夜の月見は日本独特の風習であり、平安時代に貴族たちが集まって、月を見て詩歌を詠んだのが始まりといわれます。
 どちらか一方の月見だけをすることは、「片見月」として嫌われたことが、守貞謾稿にも書かれています
c0187004_8221219.jpg『江戸の俗、今日もし他に行きて酒食を饗さるるか、あるひは宿すことあれば、必ず9月13日に再び行きて、今日のごとく宿すか、あるひは酒食を饗さるることとする人あり。
 これをなさざるを片見月と云ひて、忌むこととす。俗諺のはなはだしきなり。
 片付身と云ふことを忌むなるべし。この故に大略、今日は他家に宿らざることとす。』


 片見月になるのがいやだから、江戸時代、ほとんどの人は、出かけなかったようですね。なるほど!

【「栗名月」「豆名月」】
十三夜の月は、栗や豆を供えることが多いため「栗名月」又は「豆名月」とも呼ばれます。
十五夜は、「芋名月」と言われたのでしたね。ちゃんと使い分けていますね。
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by wheatbaku | 2009-10-02 06:15 | 江戸の歳時記 | Trackback
十五夜  (江戸の歳時記)
 今年の十五夜は、今週の土曜日10月3日です。そこで、今日は十五夜についてのお話です。

c0187004_14301013.jpg 「十五夜」は、旧暦の8月15日のことを呼びます。

 月見の風習は、平安時代の頃に中国から日本へ伝わり、秋の澄んだ空に昇る満月が、一年で最も明るく美しく見えるといわれる旧暦の8月15日に月見をする習慣ができました。

 【「中秋」か「仲秋」か】  
 十五夜の月は「中秋の名月」とも呼ばれます。
 「中秋の名月」と「仲秋の名月」とはよく混同されますが、実は、十五夜は「中秋の名月」と書くほうがいいようです。
 「中秋」と「仲秋」それぞれにちゃんと意味があります。
 諸橋轍次著の『大漢和辞典』には次のように書いてあります。
  [中秋] ①秋を三分したなかの秋。仲秋。 ②秋のまんなか。陰暦8月15日。
  [仲秋] ①秋三箇月の中の月。即ち陰暦八月。なかのあき。
         8月15日を指す中秋は、これとは別の語。

 これによると、旧暦8月15日に見える月の場合は「中秋の名月」ということになります。

 【十五夜は満月とは限らない】  
 十五夜は必ずしも満月にならないことご存知ですか。
 どうして、十五夜と満月の日付が違うのでしょうか?
 「十五夜」は、旧暦の8月15日の夜をさすため、旧暦に基づいて決まってしまいます
c0187004_1654092.jpg しかし、新月から満月になる日数は14.7日です。
 その差があるために、十五夜は満月とは限らないことになります。
 2009年の場合、10月3日が十五夜で中秋の名月ですが、満月は10月4日となり、満月は十五夜の翌日になります。
 今年の十五夜の月は、よく見ると、ほんのわずかに欠けていることになります。 
 ただし、関東地方は、曇り一時雨の予想ですので、十五夜の月ががみえるのは難しいそうですね。
 そこで、満月の写真を載せました。

 【芋名月】 
 十五夜の月は「芋名月」とも呼ばれます。この芋とは、サツマイモではなく、里芋のことを言います。
 旧暦8月はちょうど里芋が獲れる時期でしたので、里芋の収穫に感謝し、里芋を供えることが多かったため、「芋名月」とも呼ばれるようになりました。
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by wheatbaku | 2009-10-01 05:45 | 江戸の歳時記 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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