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カテゴリ:『幕末』( 123 )
第1回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験

1回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験


 江戸検今年のお題「幕末・維新を駆け抜けた人びと」は、幕末・維新が対象ですが、幕末・維新は難しいという声があります。


 そこで、幕末・維新に関する基礎的な知識に関する模擬試験問題を、これから月1回程度、10問ずつ、合計100問をブログにアップしていこうと思います。

 出題する問題のレベルは「これは基礎的知識ですので覚えてください」というレベルです。

 江戸検を受ける方は、こうした知識をベースにさらに深めていってください。

 模擬試験が、「幕末・維新」の勉強にお役に立てば幸いです。


 第1回は、文久2年に起きた出来事に関する模擬試験を出題します。

 お題の出題範囲は新選組結成から戊辰戦争終結までとなっていますので、文久3年から明治2年までということになりますが、文久2年のできごとを理解していないと新選組結成の背景がわからないと私は思っています。

 ですから、できれば文久2年から勉強したほうとよいと考えるからです。



1、文久2年正月に老中安藤信正が尊攘派の水戸浪士たち6名に襲われ負傷した場所はどこでしょう?


①桜田門外  ②坂下門外  ③桔梗門外  ④西の丸大手門外  


2、文久22月、流罪中であった西郷隆盛が赦免されて鹿児島へ帰ってきました。

 西郷隆盛は、それまで、どこに流されていたでしょう?


①奄美大島  ②徳之島  ③沖永良部島  ④喜界島


3、島津久光の上洛にあわせて、尊王攘夷派の志士たちが倒幕のため兵を挙げようと計画しました。これに対して島津久光は、家臣を説得に向かわせましたが、説得に応じない志士たちを殺害しました。

この事件が起きた宿の名前は次のうちどれでしょう?


①近江屋  ②池田屋  ③寺田屋  ④天満屋



4、島津久光は上洛した後、勅使大原重徳とともに江戸に下り、幕府に幕政改革を迫った結果、一橋慶喜が将軍後見職、松平春嶽が政治総裁職となりました。

 それでは、松平春嶽が就任した政治総裁職は新設された役職ですが、それは次の役職のうちどれにあたるものでしょう?


①大老  ②老中  ③京都所司代  ④若年寄 
 


5、京都守護職は京都の治安維持を目的に設置された役職ですが、文久2年閏8月に京都守護職に就任した松平容保はどこの藩主だったでしょう?


①尾張藩  ②会津藩  ③桑名藩  ④高須藩


6、新選組の前身となる浪士組は江戸の浪士たちを集めて京都で乱暴を働く浪士たちを鎮圧するため結成されました。それでは、このことを幕府に献策したのは誰でしょう?


①松平上総介  ②鵜殿鳩翁  ③山岡鉄舟  ④清河八郎  



7、新選組局長として有名な近藤勇は調布の百姓の三男でしたが、天然理心流の近藤周助の養子となり近藤姓を名乗りました。それでは、近藤勇が道場主であった江戸の道場の名前は何というでしょうか? 


①玄武館  ②練兵館  ③士学館  ④試衛館 



8、イギリス公使館が置かれたため、二度にわたって攘夷派の人々に襲撃された高輪の寺院は次のうちどれでしょうか?



①善福寺  ②東禅寺  ③済海寺(さいかいじ) ④西応寺  



9、品川の御殿山に幕府は、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの四か国の公使館を建設する計画を立て、イギリス公使館が最初に着工され、文久2年12月にはほぼ完成しました。

 この完成間近のイギリス公使館を襲撃したのは、次のうち、どの藩の藩士でしょう?


①水戸藩  ②薩摩藩  ③長州藩  ④土佐藩  



10、文久2年4月に土佐では藩政を握っていた吉田東洋が暗殺されました。

 暗殺したのは尊攘派の土佐勤皇党だと言われています。
 それでは、土佐勤皇党の中心人物は次のうち誰でしょう?


①武瑞山  ②後藤象二郎  ③板垣退助  ④岩崎弥太郎


正解と解説は、次回アップします。

以 上




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by wheatbaku | 2017-02-20 10:16 | 『幕末』 | Trackback
龍馬暗殺の日は雨だった
 ついに大河ドラマ「龍馬伝」も最終回を迎えましたね。
 最終回は、龍馬が暗殺されてしまいました。
 
 「龍馬を暗殺した実行犯が誰か?」また「龍馬暗殺の黒幕は誰か?」については諸説があります。
c0187004_15345995.jpg 最終回では、暗殺実行犯は「京都見廻組」でした。最も有力な説ですので妥当なところだと思います。
 しかし黒幕は誰かについては明らかにせず、龍馬を恨んでいる人として、「幕府」「薩摩藩」「土佐藩」「紀州藩」などを挙げて、黒幕を匂わせていました。
 そして「中岡慎太郎」も殺す要素をもっていたかのように描くなど、諸説あることを踏まえた内容になっていました。

 龍馬暗殺の実行犯が誰で黒幕は誰かについては、既に11月3日の「龍馬暗殺は誰の仕業か」から7回にわたって書いてきましたので、詳しくはそちらをご覧下さい。

 ところで、今日は、龍馬が暗殺された時の天候は、どんな状況だったかについて書いてみます。

 私は、暗殺実行時の天候は、曇りか晴れだとばっかり思っていました。
 大正15年に、岩崎鏡川が書いた「坂本龍馬関係文書」によると、「『空うち曇り時雨を誘う』ような天候」だったと書かれているそうです。

 しかし、「龍馬伝」では、雨の中で龍馬暗殺が実行されたとして描かれていました。
 龍馬が暗殺された日の天候はどうだったのでしょうか? 

 「人斬り半次郎」と言われた薩摩藩の中村半次郎(のちの桐野利秋)の在京中の日記「京材日記」には、「同(十一)月十五日 雨」と書かれているそうです。
 また、公家の嵯峨実愛(さねなる)の日記「続愚林記」には、「十五日甲子 雨降り、辰半後雨休み、午後晴雨交じり 雲南行」とかかれているそうです。
 朝から降っていた雨が、午前9時ごろには止み、午後は降ったり止んだりの天気になったということだと思います。

 つまり、龍馬暗殺の日は雨模様だったようです。
 そうしますと、大河ドラマ「龍馬伝」の描いたとおり、雨が降る中で龍馬暗殺が実行されたと考えてもよいと思います。


 
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by wheatbaku | 2010-11-30 06:15 | 『幕末』 | Trackback
龍馬暗殺についての諸説 (龍馬暗殺犯は誰⑦)
 龍馬暗殺についての実行犯と黒幕については、これまで紹介した「京都見回組実行説」「新鮮組実行説」のほかいろいろな説があります。
 今日は、それらの説をまとめて紹介します。

【薩摩藩黒幕説】 
 まず薩摩藩が暗殺の黒幕であるという説があります。
c0187004_15331270.jpg 龍馬の味方のはずの薩摩藩ですが、断固、武力による討幕を主張していた薩摩藩にとって、大政奉還を実現させ、さらに新政権に慶喜を擁立しようという龍馬は、急速に目障りになってきました。
 そこで、龍馬暗殺を企てたというものです。
 京都見廻組の実行と自供した今井信郎がわずか1年半で赦免されたのは、西郷隆盛(左写真、「国立国会図書館蔵」)の働きかけがあったからだとも言います。

 黒幕は薩摩藩ですが、実行犯としては、中村半次郎や伊東甲子太郎率いる高台寺党や京都見廻組などさまざまな説があります。

c0187004_15333237.jpg【後藤象二郎黒幕説】 
 土佐の後藤象二郎が黒幕であるという説もあります。 
 龍馬の「船中八策」を山内容堂に提案し、大きな功績を挙げた後藤象二郎(右写真、「国立国会図書館蔵」)が、龍馬がいなければ手柄を独り占めできると考え暗殺を企てたとする説。
 また、いろは丸事件で勝ち取った7万両を独占するために龍馬を暗殺したいう説もあります。

【中岡慎太郎無理心中説】 
 さらに中岡慎太郎が無理心中したのだという説まであります。
 中岡慎太郎は、龍馬とともに薩長同盟の実現のために奔走しました。
 しかし、次第に意見が食い違うようになってきました。
 龍馬は、平和的に政権を移行させようとしますが、中岡はあくまでも武力倒幕をめざしていました。
 龍馬の考えどおりに事が進むと、中岡がめざす政権が実現しないと考えた中岡が龍馬を殺し、自らも責任をとって自害したという説です。

 このように、龍馬暗殺についてはさまざまな説が出されています。龍馬が梅毒にかかっていて自殺したというような現実的にはありえないとおもわれるようなものまであります。
 現在、実行犯は京都見廻組であるという説が最有力ですが、その黒幕は誰かということとなると、有力説はなく、真相は闇の中といった状況にあります。

 大河ドラマ「龍馬伝」では、今井信郎役は市川亀治郎さんが演じるとのことですので注目しています。
 これで7回にわたって書いてきた「龍馬暗殺」については一区切りといたします。
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by wheatbaku | 2010-11-11 21:58 | 『幕末』 | Trackback
新撰組実行説 (龍馬暗殺犯は誰⑥)
 今日は、 龍馬を暗殺したの新撰組であるという説 について紹介します。

 龍馬を暗殺したのは新撰組であるという説は当初、もっとも有力視された説です。

c0187004_1515146.jpg 【「こなくそ」は伊予弁】 
 中岡慎太郎は、谷干城が駆けつけた時にはまだ意識がはっきりしていて襲撃の様子を語りました。
 その中で、中岡慎太郎が襲撃を受けた際、その刺客が 「こなくそ」 と叫んだと言います。
 この言葉は四国の言葉であるが、土佐とはちがうということでした。
 この言葉は伊予弁だということから伊予出身の人間が疑われました。

【現場に残された鞘と下駄】 
 また現場に刀の鞘が一本残されていました。この鞘について調査したところ、新撰組脱退者で薩摩藩邸にかくまわれていた高台寺党(御陵衛士)の人々が、新撰組の原田佐之助のものだと断言しました。
 また、現場に残された「瓢(ひさご)亭」の焼印がある下駄がも残されていました。
 これを瓢亭に問い合わせると前夜に新撰組に貸したという回答でした。

 これら3つの理由により、龍馬暗殺は新撰組の仕業と思われました。
 しかも、「こなくそ」というのは伊予の方言であるから。実行犯は伊予出身の原田佐之助ということになりました。

【新撰組を強く恨む土佐藩】 
 このため、土佐藩は新撰組に対して強い恨みをもつようになります。天満屋襲撃事件も龍馬暗殺は新撰組によるものとの考えが基になっています。
 さらに、慶応4年に近藤勇(上の写真、「国立国会図書館蔵」)が下総流山で新政府軍に捕まった際、武士の最後として切腹させようとした薩摩藩に対し、土佐藩は龍馬・慎太郎の暗殺犯に対して、そんな温情は必要なし、と強硬に反対しました。その結果、近藤勇は罪人として板橋で斬首されました。

 しかし、新撰組には全員アリバイがあり、局長の近藤勇は完全否定したようです。
 また、物証が数多くあることも不自然と思われています。

 このような状況の上、昨日紹介したように、明治3年になって京都見廻組にいた今井信郎の自供があったことから、最近では新撰組実行説より京都見廻組実行説の方が有力になっています。
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by wheatbaku | 2010-11-10 05:37 | 『幕末』 | Trackback
京都見廻組とは (龍馬暗殺犯は誰⑤)
 今日は、龍馬暗殺の実行犯と最有力視されている 「京都見廻組」 とはどういう組織で、 佐々木只三郎と今井信郎 はどういう人物かについて書いてみます。

【京都見廻組】
 元治元年(1864年)、幕府は京都守護職の会津藩主松平容保の配下として、京都の治安維持のために蒔田(まいた)廣孝と松平康正を京都見廻役に任命しました。
 見廻役は大番頭に次ぐ格式で、譜代大名もしくは上級の旗本が二人任命されました。
 蒔田廣孝は備中浅尾藩1万石の藩主で松平康正は6千石の交代寄合でした。
 後に飯田藩主堀親義や小笠原矢よ八郎などが勤めました。
 京都見廻組は、二人の見廻役の下に組織され、定員400人で京都に詰めていました。
 見廻組には、見廻役の下に、与頭(くみがしら)4名、与頭勤方4名が幹部として旗本が任じられました。
 組士は、御家人から剣術・槍術で実力のあるものを募集しました。しかし、選考基準が厳しくなかなか集まらず元治元年には定員に達しなかったようです。

【見廻組の役割】
 見廻組は新撰組と共に京都市内の治安維持と将軍警護を任務としました。
 見廻組は純然たる幕臣の集団で浪士・藩士は一人もいなかったのに対して、新撰組は、農民・浪士・町人と出身はさまざまでした。
 見廻組と新撰組の任務は同じでしたが、幕臣と浪士では幕府の信頼度が全然違うため、幕臣中心の見廻組が結成されました。
 任務の市中警備は地域を分けて昼夜行われましたが、見廻組と新撰組では担当地域が異なっていました。
 見廻組と新撰組とは仲がよくなかったといわれますが、新撰組が京都守護職預かりになる際には、後に見廻組与頭となった佐々木只三郎の協力があったと言われています。
 京都見廻組は禁門の変や天狗党の討伐にも出動したそうですが、鳥羽伏見の戦いで壊滅しました。

【佐々木只三郎】
 佐々木 只三郎は会津藩士佐々木源八の子供で、親戚の旗本佐々木矢太夫の養子となりました。神道精武流を学び「小太刀日本一」と称されました。
c0187004_15303652.jpg 文久2年(1862年)、清河八郎の浪士組結成に伴い京都へ上ります。
 佐々木只三郎は、京都残留を決めた近藤勇らを京都守護職の支配下に置くように取り計らったといわれています。
 また、文久3年(1863)には江戸へ戻り、麻布一の橋(右写真)で浪士組の清河八郎を暗殺しました。
 その後、元治元年(1864)の京都見廻組結成に伴い、上洛し京都警備にあたりました。そして、禁門の変にも出動したと言われています。
 龍馬・中岡の暗殺は、今井信郎の証言では、佐々木只三郎の指示によるものとされています。
 佐々木只三郎は鳥羽・伏見の戦いに重傷を負い、和歌山で死去しました。

【今井信郎(いまいのぶお)】
 今井信郎は、幕臣中間の家に生まれ、18歳で直心影流小谷精一郎の門人で講武所指南役の榊原健吉の門下に入り、20歳で免許皆伝となります。
c0187004_15384247.jpg 慶応3年に見廻組を命じられ10月に上洛し佐々木只三郎の組に加わり、龍馬・中岡の暗殺の際にも参加します。
 鳥羽伏見の戦いを生き抜き、戊辰戦争を箱館まで戦い抜きました。
 明治3年(1870年)、箱館で降伏し、囚われの身となっていた今井信郎は、近江屋事件について坂本龍馬暗殺に関わったと自供し、裁判により禁固刑となりましたが、明治5年、特赦により釈放されました。
 その後は静岡県榛原郡初倉村(現在の静岡県島田市)で帰農し、初倉村村長を勤めました。
 龍馬暗殺については、多くを語ることはなかったようです。
楽天ブックス: 坂本龍馬を斬った男 - 幕臣今井信郎の証言 - 今井幸彦 : 本の表紙を飾る今井信郎。
 この本の著者今井幸彦氏は今井信郎のお孫さんです。
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by wheatbaku | 2010-11-09 05:55 | 『幕末』 | Trackback
京都見廻組暗殺説 (龍馬暗殺犯は誰⑤)
 今日からは、龍馬暗殺の実行犯は誰で、黒幕は誰かという幕末の最大のミステリーについての諸説の紹介をしていきます。

 現在での最も有力な説は 「京都見廻組」 が実行したという説ですので、この説について紹介します。
 当初、龍馬暗殺は、近藤勇が率いる新撰組が実行したと思われていました。
 しかし、元京都見廻組の今井信郎(いまいのぶお)が龍馬暗殺を自供しました。


【今井信郎が自供する】 
 今井信郎は、函館戦争で敗れ明治3年2月に東京に送られてきました。
 この今井信郎が、取調べの中で龍馬暗殺を自供したのでした。
 今井信郎の自供によると、近江屋に向かったのは、京都見廻組組頭の佐々木只三郎、そして部下の今井信郎ら合計7名でした。
 襲撃メンバーのほとんどは鳥羽・伏見に始まる戊辰戦争で死んでしまいました。
 しかし、箱館で降伏した今井信郎が兵部省および刑部省の取調べで自供し、ようやく真相が明らかとなったのでした。

【今井信郎の自供内容】 
 その今井信郎の自供は、佐々木只三郎が率いる京都見廻組が近江屋に赴き龍馬と中岡を斬ったというものでした。
 明治3年の供述では、
 佐々木只三郎は十津川郷士の名刺を渡し、階段で待機した。
 2階に上がって暗殺を「実行」したのは、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助の3名で、今井信郎、土肥仲蔵、桜井大三郎の3名は表口、裏口および住人脅迫の見張り役だった。
というものです。
 つまり今井信郎の役割は実際に龍馬を殺害したというものではありませんでした。
 自供を受けて今井信郎に課せられた刑は、静岡藩預かりの禁錮という軽いものでした。しかも明治5年には恩赦によって赦免されています。
 こうした軽い刑に対しては疑問がだされています。

 しかし、後には、今井信郎も2階に上がって、渡辺吉太郎、桂隼之助とともに龍馬を斬ったという風に変わりました。
 
 証言の変化がありますが、今井の自供内容はとても詳細であるため、「京都見廻組」の説が現在では最も有力視されています。しかし、関係者の証言とも食い違いがあることから確実なことは分からず、現在でもいろいろな説があります。
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by wheatbaku | 2010-11-08 05:33 | 『幕末』 | Trackback
天満屋事件 (龍馬暗殺犯は誰 ④)
 今日は、龍馬暗殺の4回目です。
 今日は、龍馬暗殺についての岩倉具視、松平春嶽のコメントと天満屋事件について書いてみます。

【龍馬、霊山に埋葬される】  
 龍馬ら3人の葬儀は11月18日に行われたという記録があるそうですが、実際は17日の夜に行われたようです。
 葬儀は近江屋で行われ、葬列には海援隊・陸援隊、土佐藩士、薩摩藩士らが参列し、霊山に埋葬されました。

c0187004_2031076.jpg【岩倉・春嶽のコメント】 
 龍馬が暗殺されるという報を聞いて、岩倉具視は、「臣(岩倉)も実に遺憾切歯之至リ、何卒真先ニ復讐致シ度キものニ候」と薩摩の大久保利通に書いているそうです。
 また、松平春嶽(右写真、国立国会図書館蔵)は、国許の藩主茂昭に次のような手紙を書いています。
 「昨15日夜、土藩才谷梅太郎(坂本龍馬の変名)他一人(中岡慎太郎)殺害されたり。殺人者分り居り候趣ながら藤次(福岡孝弟)も聞きもうさず候。段々藤次の咄承り候処、此度土藩尽力により芋藩(薩摩藩)の姦策已(すで)に破れたる形勢なり」
 文面を読むと春嶽は龍馬暗殺は薩摩藩の仕業ではないかと考えているようです。

【天満屋事件】 
 龍馬と中岡を殺された海援隊と陸援隊の隊員は、暗殺者は「新撰組」であり、その黒幕は紀州藩の用人三浦休太郎だと考えます。
c0187004_20312541.jpg それは、いろは丸事件で、紀州藩は8万両もの賠償金を払うことになったため、その恨みを晴らすために龍馬を暗殺したと考えました。 
 そして12月7日夜、三浦休太郎が泊まっていた油小路花屋町下ルにある「天満屋」を襲撃します。
 襲撃に参加したのは16名です。
 正面組は陸奥陽之助ら7名、側面からは沢村惣之丞ら7名、裏口は3名として襲う計画でした。
 陸奥陽之助は、後の外務大臣陸奥宗光です。(左写真、国立国会図書館蔵)
 しかし、不穏な動きを察知していた紀州藩は、会津藩を通して新選組に三浦休太郎の警護を依頼していました。
 そのため、待ち受けていた斉藤一以下の10数名の新撰組隊士と斬りあいになり、中井庄五郎が討ち死に、竹中与三郎が重傷、竹野寅太が軽傷を負いました。
 一方新撰組では、宮川信吉が即死、舟津釜太郎が死亡、梅戸勝之進が重傷を負いました。即死した宮川信吉は近藤勇の従弟です。

 しかし、三浦休太郎は軽傷ですみました。
 明治維新後、三浦休太郎は明治政府に出仕し、元老院議官、貴族院議員を経て、第13代の東京府知事となったそうです。
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by wheatbaku | 2010-11-06 21:41 | 『幕末』 | Trackback
同志駆けつける (龍馬暗殺犯は誰③)
 龍馬が襲撃されるとの報を聞いて同志が集まります。今日は、衝撃後の動きについて書いていきます。

【龍馬絶命、中岡重傷】 
 龍馬襲撃を土佐藩邸に告げたのは、近江屋の主人新助でした。
 新助は、2階の物音に土佐藩邸に異変を告げようとして表に飛び出しますが、表に見張りがいたため、裏に回り、土佐藩邸に駆け込みました。
 土佐藩邸からは、横目付の嶋田庄作が近江屋に向かいました。
 近江屋に到着すると軍鶏を買ってきた峰吉が帰ってきたので、家の中に入りました。
c0187004_15541342.jpg 2階では、6畳間に藤吉が倒れており、8畳間には龍馬がうつぶせに倒れており、中岡慎太郎は北隣の道具商井筒屋の屋根に横たわっていたそうです。
 その時には、龍馬は絶命していました。

【谷干城(たにたてき)・田中光顕ら駆けつける】 
 やがて、急を聞いた谷干城(右写真「国立国会図書館蔵」)や田中光顕が駆けつけてきました。

 中岡の意識はしっかりしていて、谷干城たち同志に事件の模様を語りました。
 近江屋の表に訪問者がきて、藤吉が応対した。十津川の郷士といったので、取次ぎの藤吉が名刺をもってきた。
 床を背にした龍馬と入口近くに座っていた中岡が名刺を見ようと行灯の灯りに向いたところ、2人の暗殺者が「こなくそ!」といって斬りかかってきた。はっと思った瞬間、龍馬が床の刀に手を伸ばしたところまで覚えているが、その後は、自分の応戦で精一杯で覚えていない。中岡は、左右の手足を斬られ、深手を負い気絶した。暗殺者は「もうよい。もうよい」といって引き上げた。
 これが中岡の言うあらましだったそうです。
 そして、「手馴れた戦いぶりは新撰組だろう。刺客の言った言葉に「こなくそ!」という言葉は四国の者のよくいう言葉である。だから刺客は四国のものに違いない」と言ったそうです。
 
 田中光顕は白川の陸援隊にいましたが、峰吉が急を告げたので、すぐに飛び出し、途中で二本松の薩摩藩邸により、吉井幸輔に知らせて、近江屋に駆けつけました。 
 田中光顕は「井上聞太を見よ、あれほどの大疵さえ生きた。貴様は決して案ずることはない」と中岡に声をかけたといいます。
 
 しかし、翌日には、藤吉が息を引き取り、翌々日には中岡慎太郎も息を引き取りました。
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by wheatbaku | 2010-11-05 21:46 | 『幕末』 | Trackback
龍馬襲撃 (龍馬暗殺犯は誰②) 
 大河ドラマ「龍馬伝」では、「龍馬暗殺」は、最終回の11月28日の「龍の魂」で放映される予定です。
 それより早く「龍馬暗殺」について書いていきますが、今日は、龍馬暗殺の2回目で、坂本龍馬襲撃の様子を書いていきます。

【風邪のため母屋2階に移る】 
 坂本龍馬は、近江屋で中庭にある土蔵に身を潜めていましたが、暗殺される2日ほど前から風邪気味の龍馬は、土蔵から母屋2階の奥座敷に移っていました。
 
 近江屋の2階には、4つの部屋がありました。階段を上がった部屋が6畳、左つまり東側で河原町通りに面した部屋が8畳、右(つまり西側)が仏間の6畳、その奥が床の間の8畳でした。
 坂本龍馬は、その奥の8畳間にいました。
龍馬と中岡が暗殺された部屋の古写真が 京都大学電子図書館内の維新資料画像データベース「坂本竜馬、中岡慎太郎横死ノ間」で見られます。

【龍馬と中岡が残る】 
c0187004_22403892.jpg 午後6時ごろ、その龍馬を中岡慎太郎(左写真)が訪ねてきました。
 午後7時ごろには、土佐藩同志岡本健三郎が来訪し、さらに中岡がかつて下宿していた「菊屋」の息子の峰吉がやってきて、火鉢を囲んで談笑しました。
 午後8時ごろ、龍馬は、腹が減ったので、峰吉に軍鶏(しゃも)を買いに行かせました。
 ちなみに、龍馬は軍鶏鍋が大好きだったそうです。
 そのとき、岡本健三郎も、他に用事があるため、買い物に出かける峰吉とともに、近江屋を出ました。
 この時点で、近江屋にいた人は、2階の奥の間に坂本龍馬と中岡慎太郎、階下にかつて「雲井龍」の四股名で相撲をとっていた山田藤吉、そして1階に近江屋の主人一家がいました。
c0187004_2035321.jpg☆右写真は軍鶏鍋です。
 霊山護国神社で毎年開かれる龍馬際では軍鶏鍋がふらまわれるそうです。

【暗殺者は7名】 
 岡本と峰吉が出かけた直後、暗殺犯たちが近江屋を訪れます。
 応対に出た藤吉に十津川郷士の名が書かれた名刺を渡します。それを持って藤吉は龍馬たちに取次に2階にあがります。
 その間に暗殺犯たちは、配置につきます。 暗殺犯は7人というのが有力説です。
 7人説によると、この7人は、階段を上がった所に指揮者が1人、2階の龍馬たちがいる8畳間の隣の仏間に実行犯3人、1階の奥の部屋に主人一家の抑え役1人、入口に見張り役1人、外に伝令役1人という配置だったそうです。

 3人が取次ぎをした藤吉のあとをつけて2階に上がりました。そして、藤吉が部屋を出たところを待ち構えて襲いかかりました。(取り次ぐ前に斬りかかったという説もあります。)
 その藤吉が斬られる物音を聞いた龍馬は、藤吉がふざけていると勘違いして、「ほたえなや(騒ぐな)」と声をかけたといいます。これにより、龍馬がいることを暗殺者たちに知らせてしまいます。

【龍馬 絶命】 
 その部屋に暗殺犯が襲いかかりました。
 暗殺犯の一太刀目は、龍馬の額を切り裂きました。この一太刀目で龍馬は致命傷を負います。
 さらに、床の間の刀を取ろうと振り向いた龍馬は背後から斬りつけられました。そして、三太刀目は鞘のまま受け止めましたが、この時にまた額を傷つけられます。
 中岡慎太郎も、最初に後頭部を斬られた後、小刀で応戦しますが、十数か所の傷を受けて倒れてしまいます。
 暗殺者たちは、「もうよい、もうよい」と言葉を残して立ち去りました。
 瀕死の龍馬は、傷の具合を見て、「脳をやられたからもうダメだ」と言って事切れたと言われています。
 中岡慎太郎も痛みに耐えて家人を呼びますが応答はなく、物干し台から隣の屋根にはいだしますが、ついに意識を失ってしまいました。

 これの後については、明日書きます。
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by wheatbaku | 2010-11-04 22:49 | 『幕末』 | Trackback
龍馬暗殺犯は誰①
 大河ドラマ「龍馬伝」も佳境に入ってきて、身を乗り出してみてしまいます。
 最近は、毎回、最後に「龍馬暗殺まで何ヶ月のことであった」というナレーションが入っています。
 その龍馬が暗殺された日は慶応3年11月15日です。それはいみじくも龍馬33回目の誕生日でした。
 月でいえば今月の出来事ですので、今日から、 「龍馬暗殺」 について書いきたいと思います。

c0187004_21213360.jpg 坂本龍馬が暗殺されたのは、醤油屋の近江屋の2階でした。
 龍馬暗殺は、幕末最大のミステリーの一つとされています。
 特に、誰が暗殺者で誰が黒幕かということが話題になっています。 

【近江屋は土佐藩邸の真向かいにあり】  
 大政奉還を実現させた龍馬を狙う人は多くいたため、龍馬は「才谷梅太郎」などの変名を使い、姿を変え、宿を変えていました。 
 宿は木屋町にある材木商「酢屋」にいましたが、暗殺される1カ月ほど前に「近江屋」に変えていました。
 近江屋は京都河原通り蛸薬師下ルにある土佐藩の御用商人で真向かいは土佐藩邸でした。
いざという時には、土佐藩邸に逃げ込むことができました。
 そして、近江屋は中庭に土蔵があり、裏側は「称名寺」というお寺で、襲われた時には境内を抜けて脱出することも可能でした。
 龍馬は、薩摩藩邸や土佐藩邸に入ることもできましたが、それらには入らず近江屋を隠れ家としていました。
 それについて龍馬は「二本松(薩摩藩邸)ニ身をひろめ候ハ、実にいやみで候バ、万一の時もこれあり候時ハ、主従共ニ此処ニ一戦の上、屋舗(土佐藩邸)に引取申すべしと決心仕りおり申し候」と書いています。

 c0187004_20383062.jpg 【龍馬のピストル】 
 さらにピストルで武装していました。
 高杉晋作から贈られたというピストル(写真の上、スミス&ウエッソン社製の32口径6連式ピストル)は寺田屋で襲撃された時に紛失していまいました。
 そして次に薩摩藩から贈られたというスミス&ウエッソン社製の22口径5連式ピストル(写真下)で武装していました。

 龍馬には周囲から身の危険をつげる情報がいろいろ入っていたそうです。
 襲撃される前には、元新撰組の伊東甲子太郎から忠告があったと言います。しかし、龍馬はその忠告に従わず、伊東甲子太郎は残念がったそうです。
 また、襲撃の前日の11月14日には、寺田屋の女将のお登世も噂を聞きつけて、龍馬に危険を知らせました。しかし、やはり龍馬は動きませんでした。

 さて明日は、龍馬襲撃の様子を書きます。
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by wheatbaku | 2010-11-03 21:25 | 『幕末』 | Trackback
  

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