カテゴリ:『幕末』( 207 )
雲井龍雄の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑦)

雲井龍雄の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑦)

 谷中霊園に眠る幕末の有名人の第7回は雲井龍雄のお墓です。

 雲井龍雄は、知る人ぞ知るというレベルの人物であったと思っていましたが、今年の江戸検のお題テキスト「疾走!幕末・維新」の中で取り上げられましたので、江戸検を受検された方は、その名前を覚えたことだろうと思います。

雲井龍雄は米沢藩士で本名は小島守善といい、雲井龍雄は変名ですが、本名より変名の雲井龍雄の方が有名です。

雲井龍雄のお墓は、谷中霊園の中央を通る桜通り沿いの天王寺五重塔跡と霊園管理事務所のちょうど中間あたりにあり、上部に「龍雄雲井君之墓」と刻まれています。(下写真)

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雲井龍雄は、弘化元年(1844)米沢藩士中島総右衛門の次男として生まれ、文久元年(1861)に小島家の養子となりました。

慶応元年(1865)には、江戸に遊学して安井息軒の三計塾に学びました。三計塾は江戸で有名な塾でした。土佐藩の谷干城、紀州藩の陸奥宗光、長州藩の品川弥二郎などが学んだことがあります。雲井龍雄はそこで塾頭を勤めています。

慶応3年(1867)探索方として京都に出張し、薩長土諸藩の動向を探索しました。この中で、薩摩藩への憤激を強めていったようです。

王政復古の大号令の後、明治新政府が慶応4年に定めた貢士にもなっています。

 慶応4 年、新政府軍の会津征討の動きに憤激して米沢に帰ったが、米沢藩は越後で新政府軍と戦っていたため、「討薩ノ檄」を作成して奥羽越列藩同盟の奮起を促しました。

しかし、米沢藩が降伏したため、抗戦派であった雲井龍雄は米沢に謹慎を命じられました。

明治2年に謹慎が赦された後に、東京に出て集議院の寄宿生となりますが、すぐに辞任し、「帰順部曲点検所」を組織し、戊辰戦争で敗れた人々の救済を行いつつ新政府に嘆願を続けます。

しかし、「帰順部曲点検所」は、不平士族との溜り場となり、政府転覆を企てていると疑われたため、雲井龍雄は謹慎を命じられ米沢に護送されました。

雲井龍雄は、謹慎中も自分の考えを訴え続けたため、東京に護送され明治2年12月28日に梟首刑となり、小塚原の回向院に埋葬されました。

その後、明治16年に、谷中天王寺に改葬されました。谷中霊園にあるお墓は供養塔ではなく本当のお墓のようです。

雲井龍雄を主人公とした藤沢周平の「雲奔る」という小説があります。

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藤沢周平は山形県出身であり、藤沢のあとがきには、「私の郷里から、明治維新・・・に、志士として積極的にかかわった人が二人いる。一人は清河八郎であり、一人が雲井龍雄である。(中略)龍雄に対する長い間の一種の気がかりのようなもの、それがこの小説を書かせたことになろうか」と書いてあります。

雲井龍雄の生き様が克明かつ淡々と描かれた小説です。


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by wheatbaku | 2017-11-22 10:02 | 『幕末』 | Trackback
大原重徳の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑥)

大原重徳の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑥)

しばらく、江戸検関係の記事を書いてきたため、谷中霊園に眠る有名人が阿部正弘で中断していましたが、今日から、続きを書いていきます。

今日は、大原重徳(しげとみ)のお墓について書いていきます。

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大原重徳のお墓は、徳川慶喜の墓地の西側にあります。

大変大きなお墓ですし、墓所の入口(南側)には、台東区教育委員会の説明板が設置されています。(下写真)

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大原重徳は、享和元年(1801)10月16日、大原重尹の五男として生まれました。

孝明天皇から重用され、安政元年(1854)4月勅命により、内裏炎上後の造営を差配しました。

安政5年(1858)2月5日、時の老中堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を求めて上洛しました。これに対して条約に反対する88人の公卿が3月12日突如参内しました。これが八十八卿列参奏上と言われるものですが、この八十八卿列参奏上に大原重徳も参加していました。

文久2年(1862)朝廷が島津久光の公武合体の建言をいれ、幕府に勅使を派遣することになった際に、大原重徳が勅使に任ぜられ、島津久光とともに江戸に赴き幕府に徳川慶喜を将軍後見職、松平慶永を政治総裁職に就任させるよう要求し、7月に徳川慶喜が将軍後見職、9月に松平春嶽が政治総裁職に就任ました。

 勅使として江戸にいる際に、長州藩世子毛利定広が持参した勅書の中に島津久光を批判する文字があったため、薩長の対立を避けるためこれを削除し、勅書を改文しました。

このことにより、のちに処罰されることになります。

大原重徳は、8月帰京復命し、12月には、新設の国事御用掛に任命されましたが、翌年、勅書を改文した罪により辞官落飾しました。

元治元年(1864) 1月許されて、還俗して出仕しました。

第2次長州征伐戦後の慶応2年(1866)8月、親幕派の関白二条斉敬,朝彦親王の追放するため、中御門経之とともに二十二卿列参奏上を主導しましたが失敗しまたも閉門とされました。

慶応3年(1867)12月の王政復古の大号令で、新政府の参与に任命されました。

それ以降、笠松裁判所総督、刑法官知事、議定(ぎじょう)、上局議長、集議院長官などを歴任し、維新の功により賞典禄1000石を永世下賜されました。

明治3年に退官し、麝香間祗候(じゃこうのましこう)となりました。

麝香の間祗候というのは、維新に功労のあった人などに与えられた資格で、麝香間に祗候し、天皇の相手などをした名誉職です。

明治12年4月1日、79歳で死去しました。


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by wheatbaku | 2017-11-20 09:25 | 『幕末』 | Trackback
宇田川榕庵(津山藩の洋学③)

宇田川榕庵(津山藩の洋学③)

今日は、津山藩の洋学の3回目で、宇田川榕庵について書きます。

この宇田川榕庵が、今回の江戸検で出題された人物です.
宇田川榕庵の「榕庵」は、「榕菴」とも書き、「榕菴」の割合が多いようにも思いますが、江戸検の問題では「宇田川榕庵」となっていますので、ここでは「宇田川榕庵」として書いていきます。

宇田川榕庵は、大垣藩医江沢養樹の子供として生まれました。

14歳で宇田川玄真の養子となり、文化14年(1817)津山藩医となりました。

江戸のマルチ学者ともいわれる宇田川榕庵の著述書は、数多くありますので、代表的なものだけを紹介していきます

『哥非乙(こうひい)説』 

この本は、文化13年(1816)つまり、宇田川榕庵が津山藩医になる前年に書いたコーヒーの産地、効用を説いたものです。宇田川榕庵はわずか19歳のときでした。

Coffeeの日本語表記である「珈琲」は、宇田川榕菴が考案し蘭和対訳辞典で使用したのが最初であると言われています。この辞書は、現在早稲田大学の図書館に「博物語彙」という資料名で所蔵されているそうです。

『西説菩多尼訶経(ぼたにかきょう)』と『植物啓原』 

宇田川榕庵はショメルの百科事典を読んで、西洋には実用的な本草学とは別に、植物自体の構造や生理を探求する植物学があることを知り、日本初の植物学書『西説菩多尼訶経(ぼたにかきょう)』(経文形式)を文政5年(1822)に出版しました。

「菩多尼訶(ぼたにか)」というのは、ラテン語で植物学を意味するbotanica からとったものです。「経」となっているのは、お経のように折り本形式となっていることからつけた名前です。

そして天保5年(1834)に本格的な植物学書『植学啓原』を出版しました。

こうした植物学についての書物の中で、現在も使われている雌花、雄花、花柱、葯、柱頭などの訳語が作られています。

『舎密開宗(せいみかいそう)』

天保5年(1834)に、宇田川榕庵は、宇田川玄真を手伝って薬学書『遠西医方名物考』の補巻を刊行します。

『遠西医方名物考補遺』巻79は「元素編」には元素のことが書かれています。

この「元素」も榕菴の作った言葉で、そのほかに、酸素、窒素、水素、炭素、分析、気化、酸化、酸、アルカリ、中和、塩、酸化物など今日も使われている化学の基礎的用語が宇田川榕庵によって作られました。

 その3年後の天保8年(1837)からは、日本で最初の本格的な化学書『舎密開宗』の出版を始めました。「舎密」とはオランダ語の「セーミ」に当て字をしたもので、セーミとは化学のことです。『開宗』とは「ひらく」という意味です。

 『舎密開宗』は初篇から六篇18巻を刊行した後、外篇3巻まで刊行されます。

この『舎密開宗』の刊行は、榕菴が亡くなったために途中で中断してしまいますが、宇田川榕庵によって日本の近代化学が始まっているのです。

以上が代表的な書物ですが、こうした実績のほか、宇田川榕庵は、文政8年(1825)に養父宇田川玄真とともに日本ではじめて現在の化粧せっけんに近い品石鹸を製造しています。

宇田川玄真と宇田川榕庵が作った石鹸は、薬用と使用されたようです。

また、宇田川榕庵はシーボルトとも親交がありました。

シーボルトが、文政9年(1826)にオランダ商館長の江戸参府に従って江戸に滞在した際に、宇田川榕庵は、本石町の長崎屋を訪ね、シーボルトと交流しました。

シーボルトが贈った顕微鏡が、現在も早稲田大学図書館に残されているようです。

宇田川榕庵には実子はなく、大垣藩医飯沼慾斎(よくさい)の子興斎を養子に迎え、弘化3年(1846 622日に49歳の若さで亡くなりました。

宇田川玄真の弟子で江戸で蘭学塾を開いて緒方洪庵や川本幸民などを育てた坪井信道は、緒方洪庵に「残念千万」と、その死を悼んでいます。



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by wheatbaku | 2017-11-15 11:36 | 『幕末』 | Trackback
宇田川玄真(津山藩の洋学②)

 宇田川玄真(津山藩の洋学②)

 今日は、津山藩の洋学の2回目として宇田川玄真について書きます。

 宇田川玄真は、伊勢の安岡家に生まれ、江戸で、大槻玄沢・宇田川玄随・桂川甫周などについて蘭学を学びました。

杉田玄白からはその才能を見込まれ婿養子になります。

しかし、放蕩をくりかえし身を持ち崩したために杉田玄白から勘当され離縁されます。

この苦境の宇田川玄真を救ったのが稲村三伯です。

宇田川玄真は、稲村三伯が編纂していた日本初の蘭日辞書『ハルマ和解』にも従事し、『ハルマ和解』の完成に貢献しました。

寛政9(1797)に宇田川玄随が亡くなりましたが、跡継ぎがなかったため、宇田川家の家名断絶が危惧されました。そこで、大槻玄沢らの斡旋により宇田川家を継ぐことになり、榛斎と号しました。

宇田川家を継いだ宇田川玄真は、宇田川玄随の「西説内科撰要」を完成させました。

そして、宇田川玄真は、日本の解剖学の基礎を築いた『医範提綱』を刊行しました。これは、解剖学の基礎を書いたもので、図が銅版画がきれいなものでした。

また、日本初の西洋薬学書『和蘭薬鏡』を著して、西洋薬物の製法・処方を初めて明らかにしたものです。このほか、最初の西洋小児科学書「小児諸病鋻法治療全書」、最初の西洋眼科書「泰西眼科全書」を刊行しました。

宇田川玄真は、幕府天文方の蕃書和解御用にも出仕し、幕府によるフランス人ショメルの「日用百科全書」を和訳した『厚生新編』の翻訳作業に従事しました。

 宇田川玄真は、のちに宇田川玄真の養子となる宇田川榕庵、坪井信道、箕作阮甫、緒方洪庵など多くの蘭学者を直接育成しました。


 膵臓(すいぞう)の「膵」やリンパ腺の「腺」という和製漢字をつくったことでも知られています。

「膵」という字は,江戸時代に宇田川玄真によって造られた和製漢字で,『医範提綱』に初めて載せられたものだそうです。

東洋医学には「膵臓」という概念はなくて、いわゆる五臓六腑に入っていませんでした。そこで、宇田川玄真は、原語のpancreas(pankreas)から、「膵」という字を考案しました。萃は「集まる」という意味で,月(にくづき)と合わせて「膵」は「肉の集合したもの」という意味を表し、原語と同じように,「すべてが肉からなる」ということを表したものだそうです。

 こうした功績から宇田川玄真は「蘭学中期の大立者」とも「江戸蘭学界中興の祖」とも称されました。

 宇田川玄随からの津山藩の洋学の伝統は「御家光之御筋」と「草創之著述」ですが、宇田川玄真も「草創之著述」をなして、「御家光之御筋」をたてたのでした。


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by wheatbaku | 2017-11-13 11:46 | 『幕末』 | Trackback
宇田川玄真(津山藩の洋学②)

 宇田川玄真(津山藩の洋学②)

 今日は、津山藩の洋学の2回目として宇田川玄真について書きます。

 宇田川玄真は、伊勢の安岡家に生まれ、江戸で、大槻玄沢・宇田川玄随・桂川甫周などについて蘭学を学びました。

杉田玄白からはその才能を見込まれ婿養子になります。

しかし、放蕩をくりかえし身を持ち崩したために杉田玄白から勘当され離縁されます。

この苦境の宇田川玄真を救ったのが稲村三伯です。

宇田川玄真は、稲村三伯が編纂していた日本初の蘭日辞書『ハルマ和解』にも従事し、『ハルマ和解』の完成に貢献しました。

寛政9(1797)に宇田川玄随が亡くなりましたが、跡継ぎがなかったため、宇田川家の家名断絶が危惧されました。そこで、大槻玄沢らの斡旋により宇田川を継ぐことになりました。榛斎と号しました。

宇田川家を継いだ宇田川玄真は、宇田川玄随の「西説内科撰要」を完成させました。

そして、宇田川玄真は、日本の解剖学の基礎を築いた『医範提綱』を刊行しました。

これは、解剖学の基礎を書いたもので、図が銅版画がきれいなものでした。

また、日本初の西洋薬学書『和蘭薬鏡』を著して、西洋薬物の製法・処方を初めて明らかにしたものです。

このほか、最初の西洋小児科学書「小児諸病鋻法治療全書」、最初の西洋眼科書「泰西眼科全書」を刊行しました。

また、宇田川玄真は、幕府天文方の蕃書和解御用にも出仕し、幕府によるフランス人ショメルの「日用百科全書」を和訳した『厚生新編』の翻訳作業に従事しました。

 また、宇田川玄真は、のちに宇田川玄真の養子となる宇田川榕庵、坪井信道、箕作阮甫・緒方洪庵など多くの蘭学者を直接育成しました。

そのため、「蘭学中期の大立者」とも「江戸蘭学界中興の祖」とも称されました。

 膵臓(すいぞう)の「膵」やリンパ腺の「腺」という和製漢字をつくったことでも知られています。

「膵」という字は,江戸時代に宇田川玄真によって造られた和製漢字で,『医範提綱』に初めて載せられたものだそうです。

東洋医学には「膵臓」という概念はなくて、いわゆる五臓六腑に入っていませんでした。そこで、宇田川玄真は、原語のpancreas(pankreas)から、「膵」という字を考案しました。萃は「集まる」という意味で,月(にくづき)と合わせて「膵」は「肉の集合したもの」という意味を表し、原語と同じように,「すべてが肉からなる」ということを表したものだそうです。

 宇田川玄随からの津山藩の洋学の伝統は「御家光之御筋」と「草創之著述」ですが、宇田川玄真も「草創之著述」をなして、「御家光之御筋」をたてたのでした。


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by wheatbaku | 2017-11-13 11:46 | 『幕末』 | Trackback
宇田川玄随(津山藩の洋学①)

 宇田川玄随(津山藩の洋学①)


 今回の江戸検では、宇田川榕庵についての出題がありましたね。

 博覧強記には、宇田川榕庵の名前はありますが、酸素などの造語をしたり「珈琲」という語句を考えたことは書いていないので、この問題を少し難しいと感じた人もいるかもしれません。
 この宇田川榕庵は、津山藩の藩士です。


 慶応4年4月の江戸城開城後、徳川宗家の後見人になった松平確堂は津山藩の藩主でした。松平確堂を調べる中で、実は、津山藩は、「洋学の津山藩」もしくは「津山藩の洋学」と言われるほど洋学が盛んな土地柄ということを知りました。


 現在でも、津山市には、「津山洋学資料館」という博物館があるほどです。

 津山藩では、それほど、多くの洋学者を輩出しています。

その筆頭が宇田川三代、つまり宇田川玄随、宇田川玄真、宇田川榕庵の親子3代です。

宇田川家は代々漢方医の家系でしたが、宇田川玄随のとき蘭方医に転向しました。

玄随は西洋内科学を日本に紹介し、洋学は養子の玄真、榕庵へと受け継がれ、医学から自然科学へと宇田川家の家学を完成させていったのです。この三代を特に「宇田川三代」といいます。

その宇田川三代の基礎を築いたのが宇田川玄随です。

今日は、宇田川玄随について書きます。


宇田川玄随は、宇田川家蘭学の初代として、桂川甫周、前野良沢、杉田玄白、大槻玄沢らと共に江戸蘭学勃興期に活躍しました。

津山藩医道紀(どうき)の長子として江戸に生まれる。父の没時に幼少だったため叔父玄叔が家督を相継、その養嗣子となって玄叔の没後に家督を継ぎました。


宇田川家は代々漢方医の家系でしたが、25歳のとき、西洋医学の学説に感服して学び始め、杉田玄白、前野良沢、桂川甫周に入門し蘭学を学びました。

特に桂川甫周はその才を愛し、ゴルテルの内科書の翻訳を勧めました。

宇田川玄随は刻苦10年して、わが国最初の西洋内科書刊本『西説内科撰要』全18巻を刊行しました。

ただし、江戸で刊行している途中で宇田川玄随が死んだことから大坂に移されて続刊され、養子宇田川玄真によって完結しています。


本書により本格的な内科学の原型が生まれ、その後の発展を促進しました。

また、内科系に強い宇田川家の学風を形成する基盤をつりました。

杉田玄白は回想録『蘭学事始』の中で、「(玄随は)漢学に厚く博覧強記の人」「鉄根の人ゆえ、その業大いに進み」と玄随のことを述べています。


寛政5年、『西説内科撰要』18巻のうち3巻が刊行された時点で、宇田玄随は、津山藩主松平康哉から「草創之著述」「御家光之御筋」として称賛され、御手当金15両が下賜されました。

これ以降、津山藩の学者たちにとって「御家光之御筋」のために「草創之著述」をなすことが大事とされ、それが求められるようになりました。

これ以降、新しい著作を仕上げて津山藩松平家の家名をあげることが、津山藩の蘭学者のモチベーションとなり、これ以降津山藩で蘭学・洋学が盛んになっていきます。

そうした中で宇田川玄真が活躍します。次回は、宇田川玄真について書きます。








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by wheatbaku | 2017-11-08 20:25 | 『幕末』 | Trackback
箱館戦争を戦ったフランス人

 箱館戦争を戦ったフランス人

 江戸検が終わりましたが、受検された皆さん、よい結果であるといいと思います。

 今年は、過去問から出題が非常に多かったので、過去問も勉強していた方は、良い成績が取れて、合格できた方もいるのではないでしょうか。

今日は、江戸検前に書こうと思っていましたが、時間がなくてアップできていなかった箱館戦争に参加したフランス人10人について書きます。

 

 今回の江戸検1級の問題に、フランス軍人ジュール・ブリュネについての問題が出題されました。

 ブリュネについては、お題テキスト「疾走!幕末・維新」に書いてあるので、正解できた人が多いと思います。

 箱館戦争で旧幕府軍に参加して戦ったフランス人は10人と言われています。

 しかし、10人全員が最初からブリュネと行動したわけではなく、江戸から一緒に行動したのが1人、仙台で合流した人たちが3人、そして箱館で合流したのが5人でした。

 箱館戦争で戦った人たちのリーダーが、ジュール・ブリュネです。

ジュール・ブリュネは、フランスの砲兵大尉で、慶応3年、幕府のフランス軍事顧問団の副団長として来日し、幕府の伝習隊に対して訓練を行っていましたが、翌年戊辰戦争が始まるとフランス政府からの命令を無視して、榎本武揚率いる旧幕府軍に参加します。

 このブリュネと一緒に江戸から箱館まで行動したのが、カズヌーヴです。

カズヌーブは、ナポレオン三世から徳川慶喜に送られたアラブ馬を持ってきたフランス王室付の馬丁でしたが、軍隊経験もあったようです。

 この二人が仙台まで行ったところで、横浜から船に乗って、フランス軍人3人が追いかけてきました。

 3人とは、③ジャン・マルラン、④ルテュール・フォルタン、⑤フランソワ・ブッフィエでした。

 3人は、軍事顧問団のメンバーとして来日し、ブリュネの指揮下にあった下士官でした。

 彼らが、ブリュネの命令で合流したのか、自主的に参加したのかは、はっきりしていないようです。

 蝦夷地を占領した後、ブリュネは旧幕府軍の顧問となり、軍事的な指導を行いました。

ブリュネは、旧幕府軍の陸軍を4つの連隊に分け、「レジマン」と名付けました。「レジマン」とは「連隊」を意味するフランス語です。

この4つの「レジマン」に、カズヌーヴと仙台で合流した3人を配属し、連隊の指揮のサポートさせました。

この5人に加えて、さらに5人のフランス人が参加しました。

この5人は、軍人でなく、民間人でした。

その5人とは、⑥ニコール、⑦コラシュ、⑧クラトー、⑨ブラディエ、⑩トリボーです。

彼らは、箱館にやってきた時は民間人でしたが、それぞれ、もと軍人であったようです。

この5人のうち⑥ニコール、⑦コラシュ、⑧クラトーは、海軍出身者であったため、それぞれ、榎本艦隊の「回天」「高雄」「蟠竜」に乗り組みました。

旧幕府軍は、新政府軍の「甲鉄艦」を奪取するため、宮古湾海戦を企画しましたが、この海戦の作戦を立てたのは⑥ニコールでした。そして、3人は、回天」「高雄」「蟠竜」に乗り込み宮古湾海戦を戦っています。

旧幕府軍のために戦った10人のフランス人たちは、五稜郭が陥落する直前にフランス艦「コエトゴロシ」で箱館から脱出しました。

 ブリュネはその後フランスに帰り、取り調べを受けました、「寛大な処置が」がとられ、罪に問われることはなく、しばらくして、軍に復帰し、普仏戦争で参加等で活躍し、その後、順調に出世しました。



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by wheatbaku | 2017-11-06 14:39 | 『幕末』 | Trackback
尊攘派志士を助けた女性「松尾多勢子」「中西君尾」

尊攘派志士を助けた女性「松尾多勢子」「中西君尾」

明日は、江戸検の本番ですね。
私も会場入り口で皆さんの応援をするつもりですが、
江戸検を受検される皆さんの奮闘をお祈りしています。 

お題テキスト「疾走!幕末・維新」には、「幕末の女性たち」の中で、尊攘派の志士を支えた女性たちが取り上げられています。

 ここに書かれた女性たちは有名な人物ですので、江戸検を受検される皆さんは、すでにしっかり勉強されていると思います。

 今日は、お題テキストに載っていないものの、幕末の女性を取り扱った本には必ず書かれているといってもよい「松尾多勢子」と「中西君尾」について、応援の気持ちを込めて書いていきます。

【松尾多勢子】

松尾多勢子は、尊王攘夷師派の志士の中で、「信州からきた歌詠み婆さん」として、探索,連絡の役を上手に果たした女性で、特に岩倉具視の暗殺計画を中止させたことが最も大きな手柄とされています。

松尾多勢子は信濃国下伊那郡山本村の庄屋、竹村常盈の長女として生まれました。

19歳のとき、伊那谷伴野村の豪農、松尾家の長男、左次右衛門と結婚し、6男4女をもうけました。

主婦・母として30余年を過ごし和歌を学ぶ中で、とりわけ飯田の歌人・国学者岩崎長世の説く尊王攘夷論に感化され、51歳で平田派の門下となりました。

文久2年、隠居の身であった多勢子は52歳で上洛し多くの公卿や志士たちと交わりました。

その当時、公武合体運動の中心として活躍した岩倉具視は佐幕派とみられていて、尊王攘夷派の間には岩倉具視を暗殺しようという動きがありました。

その際に、松尾多勢子は、岩倉具視に「信州からきた歌詠み婆さん」として近づき探索活動を行いました。

その結果、岩倉具視は実は勤王派であることを探り出し、岩倉具視を天誅のリストから外させました。

岩倉具視にとって松尾多勢子は命の恩人となったのです。

翌年2月、平田派の関係した京都等持院足利三代木像梟首事件の際に、嫌疑をかけられ捕縛されそうになり、捕縛直前に長州藩邸にかくまわれ難を逃れています。

その後、故郷に帰り、水戸天狗党が伊那谷を通過する際には、長男を派遣し協力しています。

 明治維新後は、岩倉具視に請われて岩倉家の家政を取り仕切るとともに子供の教育も任され、「岩倉家の女参事」とか「岩倉の周旋老媼(しゅうせんばばあ)」とも呼ばれました。

明治27年84歳でなくなりました。

【中西君尾】

中西君尾は、祇園の芸者でした。

多くの長州藩士と交流したなかで、特に井上聞多、品川弥二郎とのつながりが有名です。

 中西君尾は京都府船井郡八木町に生まれました。

19歳で祇園の置屋、島村屋から芸妓となり、高杉晋作を介して、多くの徴収藩士と交流しました。

長州藩士の中でも井上聞多(井上馨)と親密な間柄となりました。

元治元年、井上馨が長州藩内で敵対する俗論党に襲われ、止めの刃を胸に受けたとき、懐の鏡に切っ先があたり死を免れました。

この鏡は、文久3年に井上馨がロンドンに密航して留学した際に、井上馨が自分の小柄と交換した君尾の鏡でした。

井上馨がずっと肌身離さず持っていた君尾の鏡が命を救ったのでした。

 また、品川弥二郎とは、井上馨がロンドンに留学した後に、恋仲になりました。

 慶応4年に、新政府軍が江戸に向かう際に歌った「宮さん、宮さん、・・・」の「風流トコトンヤレ節」は品川の作詞といわれています。

 そして、作曲は大村益次郎とする説が有名ですが、曲をつけたのは君尾だとする説もあります。

また、錦の御旗の生地を品川弥二郎が君尾に買わせたという説もあります。

中西君尾は、品川との間に一子をもうけましたが、維新後も祇園で芸妓を続け大正7年に75歳でなくなっています。



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by wheatbaku | 2017-11-02 12:10 | 『幕末』 | Trackback
開陽丸沈没後の最強軍艦「甲鉄艦」

開陽丸沈没後の最強軍艦「甲鉄艦」

  昨日の「開陽丸」に続いて、今日は「甲鉄艦」について書きます。

「甲鉄艦」の前名は、「ストーンウォール」と呼ばれました。

このストーンウォールの前半生は数奇な運命をたどりました。

 ストーンウォールは、もともとは、アメリカの南北戦争当時、南軍がフランスに発注したもので、フランスのボルドーで建造された軍艦です。

しかし、フランス政府は、南軍への引き渡しを許しませんでした。

そこで、一旦スェーデンに売り渡され、その後、さらにデンマークに売却されまました。それから、南軍に渡されることになりました。そして、コペンハーゲンで南軍に渡されたた際に、「ストーンウォール」と名付けられました。

これは、南軍の猛将ジャクソン将軍のニックネームがストーンウォールであり、それにちなんでなづけられた名前でした。

その後、キューバを経てアメリカに到着したのは、南北戦争が終了した後でした。
 その頃、幕府は、軍艦を購入するため、小野友五郎を正使とした使節団をアメリカに派遣していました。
 小野友五郎(*小野友五郎については、江戸検お題テキスト『疾走!幕末・維新』でも触れられています)は、ワシントンの海軍工廠で、ストーンウォールを見つけ、これを購入したいとアメリカに要請します。

ストーンウォールをアメリカ海軍にとって不要であると判断したアメリカは、ストーンウォールを徳川幕府に売却することにしました。

 こうして、ストーンウォールが日本にやってくることになりました。

 しかし、ストーンウォールが、慶応4年4月2日に横浜に到着した時には、戊辰戦争が始まっていました。

この時、アメリカは局外中立を宣言し幕府への引き渡しを拒否しました。

一方、海軍力に劣る新政府側も、甲鉄艦の引き渡しを要求しましたが、アメリカはこの要求も拒み、甲鉄艦は横浜にしばらく繋留されたままとなっていました。

 甲鉄艦(ストーンウォール)は、木造の船ですが、重要な部分は5.6インチの厚い鉄板で装甲していました。また、13インチのアームストロング砲も装備していました。

その上、船首の水中に長さ6mの「ラム」と呼ばれる衝角(しょうかく:艦船の船首の水中部分に取り付けられる体当たり用の武装)を持った軍艦でした。

当時は、ほとんどの軍艦も木造船であったため、水面下にある衝角による体当たり攻撃で、相手の船腹に大穴を開けて沈没させることができました。
 また、装甲されているため、船体が重く、喫水線上が舷側が1.5メートルほどしかありませんでした。このため、後述する宮古湾海戦において回天から甲鉄艦に移乗する際に大きな高低差が生じて、回天からの移乗を困難にさせました。

 

ストーンウォールが新政府の手に引き渡されたのは、明治元年12月28日にアメリカが局外中立を解除した後の明治2年2月3日のことでした。

明治新政府に引き渡されたときに、ストーンウォールは「甲鉄艦」と名付けられました。「甲鉄」という名前は、装甲艦を意味した名前です。
 甲鉄艦が日本に引き渡された際には、すでに開陽丸が沈没していたため、当時、国内最強の軍艦でした。

甲鉄艦は、新政府海軍の旗艦となり、箱館に向かいました。

開陽丸を失い海軍力が一気に落ちた榎本武揚率いる旧幕府軍に対して、甲鉄艦を入手した新政府軍は一気に海軍力が高くなりました。

劣勢にたった旧幕府軍は、この形勢を挽回するために、甲鉄艦の奪取を計画しました。こうして起きたのが「宮古湾海戦」です。

旧幕府軍は、回天丸、蟠龍丸、高雄丸の三艦を軍艦を派遣し、アボルダージュ作戦と呼ばれる軍艦乗り移り戦法で、甲鉄艦を奪い取ろうとしました。

しかし、旧幕府海軍は再び悪天候に見舞われ、2艦が離散してしまい、回天のみで突入しましたが、失敗に終わりました。この宮古湾海戦については、お題テキスト『疾走!幕末・維新』に詳しく書かれています。

その後、甲鉄艦は青森に入港した後、箱館戦争に参加し、海上から新政府軍を支援するとともに、箱館総攻撃の際には、箱館湾から五稜郭を砲撃しました。

その威力はすさまじいものだったようです。この砲撃により、旧幕府軍の古屋作左衛門が重傷を負った後亡くなっています。

箱館戦争終了後、甲鉄艦は、明治4年に「東(あずま)」と改名し、明治21年まで、沿岸警備艦として活躍しました。


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by wheatbaku | 2017-11-01 17:04 | 『幕末』 | Trackback
最新鋭艦「開陽丸」

最新鋭艦「開陽丸」

 昨日まで『幕末・維新』を乗り切った商人について書いてきました。まだ書きたい人がいるのですが、幕末・維新の軍艦「開陽丸」と「甲鉄艦」についても江戸検前に書いておきたいので、今日は「開陽丸」について書きます。

 開陽丸は、当時、最新鋭の軍艦で、幕府海軍の旗艦として、新政府軍に無言の圧力をかけていましたが、蝦夷地江差沖で座礁沈没するという悲劇的な最期を遂げます。下記写真は、函館市立博物館に展示されていた開陽丸の模型です。

c0187004_18125338.jpg

幕府は、海軍力を強化するため、アメリカに2隻の軍艦を注文しました。しかし、アメリカで南北戦争が勃発したため、アメリカでの建造が困難になりました。

そこで、文久2年にオランダに軍艦1隻を注文することにしました。

その際に、造船技術の研究と軍艦建造の監督のため、留学生を一緒に送ることにしました。その留学生に選ばれたのが、榎本武揚、沢太郎左衛門、赤松大三郎などでした。

 この発注により建造された軍艦が開陽丸です。「開陽」とは「夜明け」という意味です。

 幕府からの注文は、最新鋭の軍艦を建造してほしいというものでした。

 完成した開陽丸は、400馬力、砲26門を装備した当時最強の新鋭艦でした。

 オランダで開陽丸の建造を指揮した海軍大臣は、長崎伝習所で榎本武揚たちを指導したことのあるカッテンディーケでした。そのため、慶応元年9月に行われた開陽丸の進水式も、オランダを挙げて盛大に行われました。

 完成した開陽丸には、榎本武揚ら9名の留学生が乗り組み、慶応2年12月にオランダを出発し、大西洋、アフリカ南端を通り、インド洋を経て、慶応3年4月に横浜に回航されてきました。

 この開陽丸が加わったことにより、幕府海軍は、諸藩に抜き出た強力な海軍となりました。

 この時、開陽丸の艦長に、榎本武揚、副長に沢太郎左衛門が任命されました。

 開陽丸は、鳥羽・伏見の戦いが勃発した際に、1月4日に阿波沖で、薩摩藩の「春日」と戦っています。これが日本における初めての洋式軍艦同士の海戦でした。
 そして、1月7日、艦長の榎本武揚が上陸している間に、徳川慶喜が、開陽丸に乗りこんできて、江戸に帰るよう指示されました。

しかし、副長の沢太郎左衛門は、榎本武揚の命令がないと出発できないと抗弁し、1日ほど、大坂湾内を航行して、榎本武揚の帰りを待ちましたが、いらだつ徳川慶喜が、沢を艦長に任命し出発を命じ、正月11日に品川に帰還しました。

 

 その後、4月11日の江戸城開城の際、榎本武揚は、開陽丸をはじめとする幕府海軍の引き渡しを拒み房総沖に脱走したものの、勝海舟の説得もあって、古い軍艦だけを新政府軍に引き渡し、開陽丸をはじめとした新鋭艦を保有し続けました。

 そして、8月19日に、榎本艦隊は、品川を発って北に向かいました。

 しかし、出航直後に暴風雨に襲われ、開陽丸も舵を壊され、8月26日にようやく仙台領に到着しました。

 9月15日仙台藩が降伏したため、榎本武揚は、さらに北上し蝦夷地をめざしました。

 明治元年10月20日に蝦夷地鷲ノ木に投錨し、翌日陸軍を上陸させ、開陽丸は、舵の修理を行った後、箱館港に入港します。

 旧幕府軍は松前城を奪取した後、江差へ進軍を開始し、その援護のために榎本武揚自らが開陽丸に乗船し、箱館を出港して江差沖へ向かい、1114日に江差沖に到着し、江差占領を支援しました。

しかし、翌15日夜、天候が急変し、開陽丸は座礁し、数日後に沈没してしました。

中公新書「大鳥圭介」(星亮一著)には、「開陽丸は本来であれば大事に扱うべきであったが、陸軍の大勝利につられて海軍も出動し、榎本武揚が動くほどのこともなかったにもかかわらず、不用意に自ら開陽丸丸に乗り出航させたことが、悲劇を招いた」と厳しい口調で書かれています。

 開陽丸の生涯は、当時、最新鋭の軍艦でしたが、日本に回航されてきて、わずか1年6か月ほどで沈没するという短いものでした。



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by wheatbaku | 2017-10-31 18:04 | 『幕末』 | Trackback
  

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