カテゴリ:『幕末』( 213 )
覚王院義観の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑭)

覚王院義観の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑭)

 谷中霊園に眠る幕末の有名人の第14回は覚王院義観について書いておきます。

 覚王院義観については、私は「彰義隊」(吉村昭著)でその存在を知りました。

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 この小説は、輪王寺宮公現親王(のちの北白川宮能久親王)が主人公ですが、覚王院義観は、輪王寺宮公現親王のそばに仕えていたため重要な人物として登場しています。

 覚王院義観は、寛永寺の執当でしたが、新政府軍の対応に怒り、彰義隊を支援し、徹底して新政府軍に抵抗した人物でした。

覚王院義観は、現在の埼玉県朝霞市で金子栄蔵の子として生まれました。幼いころから優秀で、10歳になる天保3年(1832)、寛永寺の大慈院住職尭覚の授戒で得度し、尭運という名をもらいました。

 その後、真如院住職義厳の弟子となり、義観の法名を授かりました。

 26歳の時、義厳が凌雲院の住職となったため、覚王院義観が真如院の住職となりました。

 慶応3年3月に輪王寺宮慈性法親王から「覚王院」の院室号を賜り、同時に東叡山寛永寺執当職に任ぜられました。

 この執当職は、寛永寺の座主である輪王寺宮が居住する御本坊に詰め、寛永寺のことはもちろん、全国の天台宗全寺院から、幕府や諸大名等との交渉に至るまで、およそ座主が僧侶として関係する寺務一切を代行する重要な役でした。

 覚王院義観のお墓は、谷中霊園の中にあります。覚王院義観が住職であった真如院の墓地の中にあります。

 お墓の表面には、輪王寺宮公現親王から贈られた「寂静心院」の号が刻まれています。

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慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いに破れ、江戸に逃げ帰った15代将軍徳川慶喜は、恭順の姿勢を示し、東叡山寛永寺の大慈院に入って蟄居謹慎しました。 

東叡山寛永寺の輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)が、覚王院義観、龍王院尭忍の両執当を従えて、慶喜の助命嘆願のため、2月21日に、京都に向かいました。

輪王寺宮の一行は、3月7日に駿府に入り、東征大総督有栖川宮熾仁親王宮に面会し、慶喜の謝罪状を提出し助命を嘆願しました。

しかし、有栖川宮熾仁親王は輪王寺宮からの嘆願をまったくとりあわずすぐに江戸にかえるよう言います。

「彰義隊」では、有栖川宮熾仁親王が非常に冷たい態度で対応したと書いてあります。

こうした有栖川宮熾仁親王と新政府軍の対応に対して覚王院義観は大いに怒りました。

そのため、浅草本願寺に屯集していた彰義隊が、慶喜の護衛を名として寛永寺に入ると、覚王院義観はこれを援助するだけでなく煽動し、東征軍への反抗姿勢を顕にしました。

また、覚王院義観の後援を得た彰義隊は徳川家にとって良い影響を与えないと考えた山岡鉄舟は、覚王院義観を訪ねます(勝海舟の指示で訪問したともいいます)が、覚王院義観は山岡鉄舟の必死の説得にも耳を貸そうとしませんでした。

新政府側は、戦争を避けるために、輪王寺宮の江戸城への登城を要請したり、覚王院義観や龍王院尭忍を召喚しようともしたが、その都度、覚王院義観が拒否したと言われています。

この覚王院義観の態度が、上野戦争を起したとも言われています。

いろいろな策を講じましたが、ついに新政府側は彰義隊の討伐を決断し、5月15日、寛永寺に立て籠もる彰義隊を攻撃しました。

主戦場となった黒門口はお昼過ぎには新政府軍に突破され、彰義隊は一日で敗北しました。

そこで、輪王寺宮公現親王は、谷中口から脱出し、覚王院義観は、輪王寺宮とは別に寛永寺を脱出しました。

輪王寺宮は、谷中から尾久に抜け、さらに浅草の東光院、市谷の自性院に隠れた後、品川沖の「長鯨丸」に乗って、平潟まで渡り、さらに会津若松に至りました。

一方、覚王院義観は、輪王寺宮一行の後を追い、「覚王院義観戊辰日記」という史料によれば、土浦、水戸、棚倉を経て6月2日に会津に入り、6月6日に輪王寺宮一行に合流しました。

その後、輪王寺宮公現親王は、奥羽諸藩の要請により、白石城に入って奥羽越列藩同盟の盟主となりました。

しかし、奥羽越列藩同盟参加の諸藩は新政府軍に降伏していき、ついに9月11日には仙台藩が降伏に決し、9月22日には会津藩が降伏しました。

 そうした情勢のなか、仙台に滞在中の輪王寺宮は、9月24日に鎮撫総督府に謝罪文を提出しました。

覚王院義観はその当時、奥羽列藩同盟の主唱者である米沢藩の降伏の阻止と輪王寺宮の立石寺への移座などのために米沢に出張中でしたが、仙台に戻った時には、すでに執当職を解任され、総督府から蟄居が命じられました。

 輪王寺宮は、東京に護送される時、伊達家に対して、義観と尭忍の庇護を懇請するとともに、義観には「寂静心院」の号を贈りました。

覚王院義観も東京に送られ獄舎に収監された後、本郷壹岐坂上松平美作守の屋敷に預けられました。

そこで、覚王院義観は、明治2年2月26日、亡くなりました。

「彰義隊」(吉村昭著)では、新政府軍への抵抗は、あくまでも覚王院義観の判断であって輪王寺宮はあずかりしらないことと主張し、提供される食事を丁寧に断り、そのまま亡くなったと書いてあります。享年47歳でした。

 覚王院義観のお墓は、寛永寺の墓地の中にある「真如院墓地」の中にあります。

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「真如院墓地」は、谷中霊園の乙8号4側・5側に南側、徳川慶喜の墓所の北側にありますが、少しわかりにくい場所にあります。

 上写真の「真如院谷中墓地」が目印となりますので、この目印を丹念に探してください。

「 谷中霊園に眠る幕末の有名人」は、今回の覚王院義観で、一区切りとさせていただきます。








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by wheatbaku | 2017-12-14 15:55 | 『幕末』 | Trackback
村田経芳の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑬)

村田経芳の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑬)

 谷中霊園に眠る幕末有名人の13回目は村田経芳のお墓です。

 御存知の方は少ないかもしれませんが、今日は村田経芳について書いていきます。

 村田経芳は、幕末から明治に活躍した薩摩藩出身の軍人で、日本陸軍が初めて採用した国産銃「村田銃」を発明しました。

 村田経芳のお墓は、霊園管理事務所の向かい側の通りを東にみ、通りの南側の乙7号1側にあります。下写真の左側に村田経芳は眠っています。

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薩摩藩士村田蘭斎の長男として生まれました。

村田経芳は、若い頃から小銃の研究に取り組んでいて、安政5年(1858)に藩主島津斉彬のシャープ施条銃の模造に携わりました。

戊辰戦争には小隊長として出征し,鳥羽伏見から東北各地に転戦し、長岡城の攻防戦にも参戦しています。

そして、明治4年、陸軍に入り大尉となりました。

明治維新後の陸軍には、外国から輸入した多種多様な銃が配備されており、これらの補給や訓練に困難が生じていました。

そのため、陸軍は、こうした状況を打開するため小銃の統一と国産化を目指しました。

そこで、戊辰戦争勃発前から小銃研究をしていた経験と豊富な知識、さらに村田経芳は抜群の射撃明神でしたので、その射撃の腕前を見込まれ、小銃の研究に従事しました。

明治政府は、明治8年に、村田経芳に、射撃技術と兵器研究のためのヨーロッパ派遣を命じました。

村田経芳は、約10ヶ月後留学を終えて明治1111月帰国しました。

その時には西南戦争が勃発しており、村田経芳も西南戦争に従軍しました。

こうした西南戦争への従軍の経験とヨーロッパで学んだ知識を活かし手研究を重ね、ついに、明治13年、村田経芳は、フランス製シャスポー銃に改良を加え「村田銃」を発明しました。

村田経芳はその後も銃の改良を重ね、明治18年式が開発され、このモデルから「村田銃」と命名されました。

その後、連発式の明治22年式を開発し、一連の村田銃は、陸軍に配備され日清戦争での主力小銃となりました。

村田経芳は29年陸軍中将となり男爵を授けられ、大正10年83歳でなくなりなしまた。

なお、射撃の名手であった村田経芳は、ヨーロッパに渡った際にもヨーロッパ各地の射的競技に出場して優勝したといわれています。


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by wheatbaku | 2017-12-12 12:06 | 『幕末』 | Trackback
古屋佐久左衛門のお墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑫)

古屋佐久左衛門(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑫)

 谷中霊園に眠る幕末の有名人の12回は古屋佐久左衛門です。

 古屋佐久左衛門は、前回書いた高松凌雲の実兄です。

古屋佐久左衛門は、天保4年(1833)、筑後国御原郡古飯村(現・福岡県小郡市)の庄屋高松与吉の次男として生まれました。
 高松凌雲は天保7年に生まれていますので、3歳年上ということになります。

古屋佐久左衛門のお墓は、高松凌雲のお墓のすぐ近く乙2号10側にあります。

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墓誌には、「是性院釋㚖法城 明治2年6月14日」と書かれています。


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古屋佐久左衛門について書いたものはあまり多くありませんが、『五稜郭の兄弟』(高橋義夫著)が、高松凌雲と古屋佐久左衛門を主人公とした小説が、五稜郭落城までの二人の生涯を描いています。

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嘉永4年(1851)に家を出奔した古屋佐久左衛門は、長崎と大坂で医学を修め、江戸に移り洋学や剣術を学びました。

そうした中で、御家人の古屋家の養子となりました。

 万延元年、神奈川奉行所の運上所の定役となりました。この時、ヘボンや長老派宣教師に英語や洋学を学びました。

 その努力が認められ、文久2年には、神奈川奉行所通訳となりました。

通訳をする中で、横浜に駐屯していたイギリスの軍隊に用兵術を学び、英語の兵書を翻訳し『英国歩兵操典』『歩兵操練図解』を著しました。

この兵書を翻訳したことにより、古屋佐久左衛門は、西洋兵術の一人者と認められるようになり、フランスからの軍事顧問団を招き訓練を行うため建設されることになった太田陣屋の伝習所の普請を行いました。

慶応2年には、歩兵差図役に任じられ、伝習隊が江戸に移り、越中島などで幕府陸軍の訓練しました。

戊辰戦争開戦時は幕府陸軍で歩兵差図役頭取でした。

鳥羽・伏見の戦いで第11連隊の指揮官佐久間信久と第12連隊の指揮官窪田鎮幸が戦死したため、江戸に戻った兵隊が、北関東に脱走しました。

そこで、古屋佐久左衛門は、勝海舟の許可を得て、元京都見廻組の今井信郎らと共に脱走兵取締のために江戸を出発し、脱走兵を説得し帰順させ、それらを忍藩に預けて江戸に戻りました。

江戸に戻ると、歩兵頭並に任じられて、信濃鎮撫の命令を受け、羽生に向かい、先に帰順した兵とともに、梁田宿に入りました。ここで、新政府軍から攻撃を受けて敗北しました。

そこで、一旦会津に向かうことにし、藤原を経て、会津に入り藩主の松平容保にも謁見しました。

その後、会津若松を発った際に部隊の名前を衝鋒隊としました。

衝鋒隊は水原、新潟を経て、高田に入り、飯山城下へ向かった後、新政府軍の松代藩・尾張藩から攻撃を受けました。

この時に、味方と思っていた飯山藩から攻撃をうけ、敗北しました。

さらに、越後へ退却すると、高田藩からも攻撃され、衝鋒隊は、ここでも敗北しました。

その後、長岡を中心に展開した北越戦争で、衝鋒隊は、各地を転戦して戦いましたが、長岡城が陥落した後、奥羽越列藩同盟の諸藩は、それぞれ、米沢藩や会津藩に帰藩しました。

そこで、衝鋒隊は会津方面に撤退しましたが、会津藩は、新政府軍の総攻撃を受けて、会津若松城に入城することができず、城外で戦いました。しかし、会津藩が降伏する情勢となったため、福島を経て、仙台に着きました。

 仙台藩も降伏したため、石巻から榎本艦隊に合流し、さらに北の箱館に向かいました。

古屋佐久左衛門は、箱館でも、衝鋒隊を率いて戦い、蝦夷政権では歩兵頭に任命されました。

明治2年5月12日に、新政府軍は箱館を総攻撃を開始し、箱館湾から軍艦による艦砲射撃により、五稜郭も砲撃を受け、古屋佐久左衛門は、砲撃により重傷を負い、4日後の16日に死去しました。享年37歳でした。


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by wheatbaku | 2017-12-07 22:33 | 『幕末』 | Trackback
佐藤泰然②(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑩)

佐藤泰然②(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑩)

先日、佐藤泰然について書きましたが、今日は佐藤泰然について補足説明させていただきます。

私個人としては、佐藤泰然について、下記のようないくつかの疑問点がありました。

①佐藤泰然は、佐藤藤佐の子供です。この佐藤藤佐は、『天保暴れ奉行 気骨の幕臣 矢部定謙』(中村彰彦著)の中では、天保11年(1840111日 に起きた三方領知替えを阻止する上で、重要な役割を果たしたとされているが、それは事実なのか?

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②佐藤泰然が、薬研堀の和田塾を養子の林洞海に任せて佐倉に行っているが、佐倉への移住には特別の事情があるのか?

③佐藤泰然には、実子惣三郎(長男)・順(次男、後の松本良順)・董(五男、後の林董)がいるにもかかわらず、なぜ養子に家督を譲ったのか?

 こうした疑問について、説明してある本を見つけました。

『伝記叢書139 蘭医佐藤泰然 その生涯とその一族門流―』(村上一郎著、大空社刊)です。

 今日は、この本に基づいて、前記の疑問点の答えを書いておきます。

 佐藤藤佐は、庄内藩遊佐郡升川村の郷士出身で、若くして江戸に出て、苦労した後、公事師(いまの弁護士のような仕事)のようなことをやっていましたが、それが縁となり、川崎の田辺家の養女ふぢと結婚しました。結婚後、江戸に出府し、水野若狭守、伊奈遠江守に仕え、さらに矢部駿河守と知り合うことになりました。

 佐藤泰然が薬研堀に和田塾を開いていた時期に、庄内藩酒井家を長岡に、長岡藩牧野家を川越藩へ、川越藩松平家を庄内藩に転封させる三方領知替えが起き、庄内藩の農民たちが反対運動を起しました。

 農民たちは、老中たちに駕籠訴を繰り返しました。そのため、佐藤藤佐は、息子の佐藤泰然、弟の佐藤然僕とともに南町奉行所に呼ばれ尋問を受けました。
 当時の南町奉行は、佐藤藤佐がよくしっている矢部定謙でした。尋問の場で、佐藤藤佐は、三方領知替えを強行しようという水野忠邦の政治姿勢を批判しました。

 この尋問を行った矢部定謙は、天保12年7月4日、水野忠邦も出席する老中列座の席で、尋問内容をそのまま、朗読しました。

 その内容を聞いて幕閣は、佐藤藤佐の尋問を停止したうえで、水野忠邦の登城を遠慮させました。

そして、7月12日、将軍徳川家慶の意向により三方領知替えを取りやめると発表されました。

 こうして、三方領知替えは中止となりました。

 しかし、佐藤藤佐や佐藤泰然は大喜びするわけにはいきませんでした。

 水野忠邦の怒りを呼び復讐されるおそれがあったためです。

 現に佐藤藤佐の尋問内容をよみあげ、結果として水野忠邦を批判した矢部定謙は、桑名藩松平家にお預けとなり、矢部定謙は食を絶って命を落としました。

 佐藤藤佐と佐藤泰然は、三方領知替えを撤回させた功労者ということになりますので、当然、水野忠邦の怒りの矛先が佐藤父子にも向かうと予想されました。

 そこで、佐藤泰然は、父と共に江戸を去る決断をします。移住先に佐倉が選ばれたのは次のような理由からです。

 ①佐倉藩主堀田正睦と家老渡辺弥一兵衛が蘭学を好み蘭学を奨励していたこと

 ②佐倉藩主堀田正睦は、水野忠邦と不和であり、庄内藩転封に批判的であったこと

 ③佐藤泰然が佐倉藩家老渡辺弥一兵衛と親しかったこと。

 こうして、薬研堀の和田塾を養子の林洞海に譲り、佐倉に転居することにしたのです。佐倉への移住は天保14年のことでした。

 佐藤泰然には、5人の男子がありました。そのうち、2人は幼くして亡くなり、成長したのは3人です。すなわち長男が惣三郎、次男が良順、五男が董です。

 この実子3人は、全員、他家に養子に行っています。
 長男の惣三郎は山村家へ、良順は松本良甫の養子となり、五男董は林洞海の養子となっています。

 一方で、佐藤泰然は、林洞海と山口舜海を養子に迎えています。

 林洞海は、長女つると結婚し薬研堀の和田塾を引き継いでいます。

 山口舜海は、前回紹介した、佐藤尚中です。

 このように、実子がいながら、養子を迎えたのは、佐藤泰然が「実子は未熟なものが多いので、腕の優れた人物を養子として家業を継がせる」という考えをもっていたためのようです。

 

 次男の松本良順は、幼名順之助といい、前述のとおり松本良甫の養子となりました。

 その松本良甫のお墓も佐藤泰然の墓所内にあります。

 佐藤泰然のお墓の手前右手にあります。(下写真)表面の文字が一部判読が難しくなっていますが、「前侍醫法眼松本戴」と刻まれています。

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 佐藤泰然は松本良甫と非常に親しく死後も離れない約束をしていたため、佐藤泰然がなくなった際に、佐藤泰然の遺骸は松本良順によって王子の松本家の墓に埋葬されました。そして、松本良甫が明治14年に亡くなった際に、佐藤泰然と並んで埋葬されました。

 その後、佐藤泰然のお墓が佐藤家が所有していた谷中霊園に改葬された際に松本家の墓も改葬されため、佐藤泰然と松本良甫のお墓が同じ墓所内にあることになりました。



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by wheatbaku | 2017-12-01 10:51 | 『幕末』 | Trackback
佐藤尚中の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑨)

佐藤尚中の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑨)

谷中霊園に眠る幕末の有名人の第9回は、佐藤尚中(たかなか)です。

 前回佐藤泰然についてかきましたが、佐藤尚中は、佐藤泰然の養子で、東京の順天堂(現在の順天堂大学)の創設者です。

佐藤尚中のお墓は、谷中霊園の甲9号1側にあります。駐在所わきの十字路を西に入った場所です。

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佐藤尚中は、「しょうちゅう」とも呼ばれますが、正式には「たかなか」です。号は舜海または笠翁と言いました。

谷中霊園には、お墓のほかに、顕彰碑が、駐在所の南側に建てられています。

有栖川宮熾仁親王が書いた篆額には「故大学大博士佐藤尚中の碑」と刻まれています。

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佐藤尚中は下総国小見川藩医山口甫僊(ほせん)の次男として生まれ、16歳で江戸に出て儒学を「江戸繁昌記」で有名な寺門静軒に学び、医学は安藤文澤に入門しました。

しかし、安藤文澤の勧めで佐藤泰然に弟子入りしました。

たまたま喧嘩をして大けがした人がいて、安藤文澤に治療を頼んだが運悪く文澤が留守でした。そこで佐藤尚中(当時は山口舜海)は、裁縫用の針で傷口を24針縫い合わせましたが、大変落ち着いて処置したことを聞いた文澤が、我が門下においておくには惜しいと考え佐藤泰然の下で学ぶことを勧めたと言われています。

こうした佐藤尚中ですから、佐藤泰然のもとで学ぶなかで、たちまち頭角を現しました。

嘉永6年(1853)、泰然の養子となって佐藤姓に改め、佐倉藩医にもなりました。

長崎に行っていた佐藤泰然の実子松本良順からポンペの情報を得て万延元年(1860)に長崎に遊学し、ポンペに学んで、文久2(1862)に佐倉藩に帰りました。

慶応2年、佐倉に佐倉養生所を開設しましたが、これは、松本良順が長崎で開設した長崎養生所(現在の長崎大学医学部)を身近で見ていた経験が活かされています。

しかし明治2(1869)、佐倉藩の医学改革を進めている最中、明治新政府から医学教育の改革のため大学東校(現在の東大医学部)の大学大博士になることを要請されて上京しました。

明治5年に私立病院博愛舎を日本橋に開設し、明治6年いっさいの官職を辞して東京順天堂を下谷練塀町に開設しました。

練塀町の医院は狭くて大勢の患者を収容できないため、明治8年に湯島(現在の順天堂大学付属順天堂医院の所在地)に移転しました。

しかし開院直後に結核に冒され、ドイツ留学中の養子佐藤進を呼び返して順天堂の運営を任せ、佐藤尚中は根岸の自宅で病気療養し、病が落ちつくと順天堂医院で診療をしていましたが、明治15年7月23日、ついに病にかてず56歳の若さで亡くなりました。

 順天堂大学の付属病院は、多くの人が順天堂病院と呼びますが、現在も正式には「順天堂医院」と名乗っています。 下写真をご覧ください。

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by wheatbaku | 2017-11-29 14:20 | 『幕末』 | Trackback
佐藤泰然の墓①(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑧)

佐藤泰然の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑧)

谷中霊園に眠る有名人の8回目は佐藤泰然です。

佐藤泰然は、順天堂(現在の順天堂大学)の創始者です。
 佐藤泰然のお墓は、谷中霊園の最北部にあります。日暮里駅北口からお参りするのが便利です。

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佐藤泰然は、出羽国遊佐の郷士の佐藤藤佐(とうすけ)の子として武蔵国稲毛(川崎市)に生まれ、江戸で育ちました。

幼いころの名前は田辺昇太郎。長じて旗本伊奈家に仕えて庄右衛門と改めました。本名は信圭(のぶかど)と言いました。
 谷中霊園のお墓には、佐藤泰然ではなく、本名の佐藤信圭が刻まれています。

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天保元年(1830)27歳で蘭学を志し、蘭方医足立長雋(ちょうしゅん)に学び、高野長英にも学びました。


天保6(1835)年、長崎に遊学、末永甚左衛門に寄宿して、楢林栄建や大石良逸などに学びました。長崎へ留学する際に、姓を和田(母方の姓)、名を泰然と改称しています。
 天保9年江戸に戻って、日本橋の薬研堀で医者を開業し和田塾と名付けました。

天保14年、和田塾を女婿となった林洞海に任せ、下総国佐倉藩藩主堀田正睦に招かれ佐倉に移り、医院と学塾を設けて順天堂と称しました。この佐倉に移住する際に姓を和田から佐藤(父方の姓)に改めました。

嘉永2(1849)年に、佐倉藩内での種痘の実施を指導し。その後、佐倉藩の藩医にもなりました。

嘉永年間(184854)に順天堂で行った治療の記録は『順天堂実験』(関寛斎記録)にあるとのことで、帝王切開、卵巣腫瘍摘出、乳癌切除などのさまざまな手術が行われました。

安政6(1859)に家督を養子の佐藤尚中に譲った後、しばらく江戸の林洞海のもとに滞在した後、佐藤泰然は横浜に住み、ヘボンなどと交際しました。

明治元年に起きた箱館戦争では、五男の林董、甥の山内堤雲など佐藤泰然の関係者が官軍と戦いました。また、榎本武揚は、佐藤泰然の孫娘と結婚しています。

箱館戦争も終了し、榎本武揚も赦されたのを見届け、佐藤泰然は明治5年4月10日に肺炎で亡くなりました。69歳でした。

佐藤泰然が設立した佐倉の順天堂はのちに順天堂医院となり、現在は順天堂大学に発展しています。



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by wheatbaku | 2017-11-27 08:11 | 『幕末』 | Trackback
雲井龍雄の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑦)

雲井龍雄の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑦)

 谷中霊園に眠る幕末の有名人の第7回は雲井龍雄のお墓です。

 雲井龍雄は、知る人ぞ知るというレベルの人物であったと思っていましたが、今年の江戸検のお題テキスト「疾走!幕末・維新」の中で取り上げられましたので、江戸検を受検された方は、その名前を覚えたことだろうと思います。

雲井龍雄は米沢藩士で本名は小島守善といい、雲井龍雄は変名ですが、本名より変名の雲井龍雄の方が有名です。

雲井龍雄のお墓は、谷中霊園の中央を通る桜通り沿いの天王寺五重塔跡と霊園管理事務所のちょうど中間あたりにあり、上部に「龍雄雲井君之墓」と刻まれています。(下写真)

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雲井龍雄は、弘化元年(1844)米沢藩士中島総右衛門の次男として生まれ、文久元年(1861)に小島家の養子となりました。

慶応元年(1865)には、江戸に遊学して安井息軒の三計塾に学びました。三計塾は江戸で有名な塾でした。土佐藩の谷干城、紀州藩の陸奥宗光、長州藩の品川弥二郎などが学んだことがあります。雲井龍雄はそこで塾頭を勤めています。

慶応3年(1867)探索方として京都に出張し、薩長土諸藩の動向を探索しました。この中で、薩摩藩への憤激を強めていったようです。

王政復古の大号令の後、明治新政府が慶応4年に定めた貢士にもなっています。

 慶応4 年、新政府軍の会津征討の動きに憤激して米沢に帰ったが、米沢藩は越後で新政府軍と戦っていたため、「討薩ノ檄」を作成して奥羽越列藩同盟の奮起を促しました。

しかし、米沢藩が降伏したため、抗戦派であった雲井龍雄は米沢に謹慎を命じられました。

明治2年に謹慎が赦された後に、東京に出て集議院の寄宿生となりますが、すぐに辞任し、「帰順部曲点検所」を組織し、戊辰戦争で敗れた人々の救済を行いつつ新政府に嘆願を続けます。

しかし、「帰順部曲点検所」は、不平士族との溜り場となり、政府転覆を企てていると疑われたため、雲井龍雄は謹慎を命じられ米沢に護送されました。

雲井龍雄は、謹慎中も自分の考えを訴え続けたため、東京に護送され明治2年12月28日に梟首刑となり、小塚原の回向院に埋葬されました。

その後、明治16年に、谷中天王寺に改葬されました。谷中霊園にあるお墓は供養塔ではなく本当のお墓のようです。

雲井龍雄を主人公とした藤沢周平の「雲奔る」という小説があります。

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藤沢周平は山形県出身であり、藤沢のあとがきには、「私の郷里から、明治維新・・・に、志士として積極的にかかわった人が二人いる。一人は清河八郎であり、一人が雲井龍雄である。(中略)龍雄に対する長い間の一種の気がかりのようなもの、それがこの小説を書かせたことになろうか」と書いてあります。

雲井龍雄の生き様が克明かつ淡々と描かれた小説です。


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by wheatbaku | 2017-11-22 10:02 | 『幕末』 | Trackback
大原重徳の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑥)

大原重徳の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑥)

しばらく、江戸検関係の記事を書いてきたため、谷中霊園に眠る有名人が阿部正弘で中断していましたが、今日から、続きを書いていきます。

今日は、大原重徳(しげとみ)のお墓について書いていきます。

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大原重徳のお墓は、徳川慶喜の墓地の西側にあります。

大変大きなお墓ですし、墓所の入口(南側)には、台東区教育委員会の説明板が設置されています。(下写真)

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大原重徳は、享和元年(1801)10月16日、大原重尹の五男として生まれました。

孝明天皇から重用され、安政元年(1854)4月勅命により、内裏炎上後の造営を差配しました。

安政5年(1858)2月5日、時の老中堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を求めて上洛しました。これに対して条約に反対する88人の公卿が3月12日突如参内しました。これが八十八卿列参奏上と言われるものですが、この八十八卿列参奏上に大原重徳も参加していました。

文久2年(1862)朝廷が島津久光の公武合体の建言をいれ、幕府に勅使を派遣することになった際に、大原重徳が勅使に任ぜられ、島津久光とともに江戸に赴き幕府に徳川慶喜を将軍後見職、松平慶永を政治総裁職に就任させるよう要求し、7月に徳川慶喜が将軍後見職、9月に松平春嶽が政治総裁職に就任ました。

 勅使として江戸にいる際に、長州藩世子毛利定広が持参した勅書の中に島津久光を批判する文字があったため、薩長の対立を避けるためこれを削除し、勅書を改文しました。

このことにより、のちに処罰されることになります。

大原重徳は、8月帰京復命し、12月には、新設の国事御用掛に任命されましたが、翌年、勅書を改文した罪により辞官落飾しました。

元治元年(1864) 1月許されて、還俗して出仕しました。

第2次長州征伐戦後の慶応2年(1866)8月、親幕派の関白二条斉敬,朝彦親王の追放するため、中御門経之とともに二十二卿列参奏上を主導しましたが失敗しまたも閉門とされました。

慶応3年(1867)12月の王政復古の大号令で、新政府の参与に任命されました。

それ以降、笠松裁判所総督、刑法官知事、議定(ぎじょう)、上局議長、集議院長官などを歴任し、維新の功により賞典禄1000石を永世下賜されました。

明治3年に退官し、麝香間祗候(じゃこうのましこう)となりました。

麝香の間祗候というのは、維新に功労のあった人などに与えられた資格で、麝香間に祗候し、天皇の相手などをした名誉職です。

明治12年4月1日、79歳で死去しました。


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by wheatbaku | 2017-11-20 09:25 | 『幕末』 | Trackback
宇田川榕庵(津山藩の洋学③)

宇田川榕庵(津山藩の洋学③)

今日は、津山藩の洋学の3回目で、宇田川榕庵について書きます。

この宇田川榕庵が、今回の江戸検で出題された人物です.
宇田川榕庵の「榕庵」は、「榕菴」とも書き、「榕菴」の割合が多いようにも思いますが、江戸検の問題では「宇田川榕庵」となっていますので、ここでは「宇田川榕庵」として書いていきます。

宇田川榕庵は、大垣藩医江沢養樹の子供として生まれました。

14歳で宇田川玄真の養子となり、文化14年(1817)津山藩医となりました。

江戸のマルチ学者ともいわれる宇田川榕庵の著述書は、数多くありますので、代表的なものだけを紹介していきます

『哥非乙(こうひい)説』 

この本は、文化13年(1816)つまり、宇田川榕庵が津山藩医になる前年に書いたコーヒーの産地、効用を説いたものです。宇田川榕庵はわずか19歳のときでした。

Coffeeの日本語表記である「珈琲」は、宇田川榕菴が考案し蘭和対訳辞典で使用したのが最初であると言われています。この辞書は、現在早稲田大学の図書館に「博物語彙」という資料名で所蔵されているそうです。

『西説菩多尼訶経(ぼたにかきょう)』と『植物啓原』 

宇田川榕庵はショメルの百科事典を読んで、西洋には実用的な本草学とは別に、植物自体の構造や生理を探求する植物学があることを知り、日本初の植物学書『西説菩多尼訶経(ぼたにかきょう)』(経文形式)を文政5年(1822)に出版しました。

「菩多尼訶(ぼたにか)」というのは、ラテン語で植物学を意味するbotanica からとったものです。「経」となっているのは、お経のように折り本形式となっていることからつけた名前です。

そして天保5年(1834)に本格的な植物学書『植学啓原』を出版しました。

こうした植物学についての書物の中で、現在も使われている雌花、雄花、花柱、葯、柱頭などの訳語が作られています。

『舎密開宗(せいみかいそう)』

天保5年(1834)に、宇田川榕庵は、宇田川玄真を手伝って薬学書『遠西医方名物考』の補巻を刊行します。

『遠西医方名物考補遺』巻79は「元素編」には元素のことが書かれています。

この「元素」も榕菴の作った言葉で、そのほかに、酸素、窒素、水素、炭素、分析、気化、酸化、酸、アルカリ、中和、塩、酸化物など今日も使われている化学の基礎的用語が宇田川榕庵によって作られました。

 その3年後の天保8年(1837)からは、日本で最初の本格的な化学書『舎密開宗』の出版を始めました。「舎密」とはオランダ語の「セーミ」に当て字をしたもので、セーミとは化学のことです。『開宗』とは「ひらく」という意味です。

 『舎密開宗』は初篇から六篇18巻を刊行した後、外篇3巻まで刊行されます。

この『舎密開宗』の刊行は、榕菴が亡くなったために途中で中断してしまいますが、宇田川榕庵によって日本の近代化学が始まっているのです。

以上が代表的な書物ですが、こうした実績のほか、宇田川榕庵は、文政8年(1825)に養父宇田川玄真とともに日本ではじめて現在の化粧せっけんに近い品石鹸を製造しています。

宇田川玄真と宇田川榕庵が作った石鹸は、薬用と使用されたようです。

また、宇田川榕庵はシーボルトとも親交がありました。

シーボルトが、文政9年(1826)にオランダ商館長の江戸参府に従って江戸に滞在した際に、宇田川榕庵は、本石町の長崎屋を訪ね、シーボルトと交流しました。

シーボルトが贈った顕微鏡が、現在も早稲田大学図書館に残されているようです。

宇田川榕庵には実子はなく、大垣藩医飯沼慾斎(よくさい)の子興斎を養子に迎え、弘化3年(1846 622日に49歳の若さで亡くなりました。

宇田川玄真の弟子で江戸で蘭学塾を開いて緒方洪庵や川本幸民などを育てた坪井信道は、緒方洪庵に「残念千万」と、その死を悼んでいます。



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by wheatbaku | 2017-11-15 11:36 | 『幕末』 | Trackback
宇田川玄真(津山藩の洋学②)

 宇田川玄真(津山藩の洋学②)

 今日は、津山藩の洋学の2回目として宇田川玄真について書きます。

 宇田川玄真は、伊勢の安岡家に生まれ、江戸で、大槻玄沢・宇田川玄随・桂川甫周などについて蘭学を学びました。

杉田玄白からはその才能を見込まれ婿養子になります。

しかし、放蕩をくりかえし身を持ち崩したために杉田玄白から勘当され離縁されます。

この苦境の宇田川玄真を救ったのが稲村三伯です。

宇田川玄真は、稲村三伯が編纂していた日本初の蘭日辞書『ハルマ和解』にも従事し、『ハルマ和解』の完成に貢献しました。

寛政9(1797)に宇田川玄随が亡くなりましたが、跡継ぎがなかったため、宇田川家の家名断絶が危惧されました。そこで、大槻玄沢らの斡旋により宇田川家を継ぐことになり、榛斎と号しました。

宇田川家を継いだ宇田川玄真は、宇田川玄随の「西説内科撰要」を完成させました。

そして、宇田川玄真は、日本の解剖学の基礎を築いた『医範提綱』を刊行しました。これは、解剖学の基礎を書いたもので、図が銅版画がきれいなものでした。

また、日本初の西洋薬学書『和蘭薬鏡』を著して、西洋薬物の製法・処方を初めて明らかにしたものです。このほか、最初の西洋小児科学書「小児諸病鋻法治療全書」、最初の西洋眼科書「泰西眼科全書」を刊行しました。

宇田川玄真は、幕府天文方の蕃書和解御用にも出仕し、幕府によるフランス人ショメルの「日用百科全書」を和訳した『厚生新編』の翻訳作業に従事しました。

 宇田川玄真は、のちに宇田川玄真の養子となる宇田川榕庵、坪井信道、箕作阮甫、緒方洪庵など多くの蘭学者を直接育成しました。


 膵臓(すいぞう)の「膵」やリンパ腺の「腺」という和製漢字をつくったことでも知られています。

「膵」という字は,江戸時代に宇田川玄真によって造られた和製漢字で,『医範提綱』に初めて載せられたものだそうです。

東洋医学には「膵臓」という概念はなくて、いわゆる五臓六腑に入っていませんでした。そこで、宇田川玄真は、原語のpancreas(pankreas)から、「膵」という字を考案しました。萃は「集まる」という意味で,月(にくづき)と合わせて「膵」は「肉の集合したもの」という意味を表し、原語と同じように,「すべてが肉からなる」ということを表したものだそうです。

 こうした功績から宇田川玄真は「蘭学中期の大立者」とも「江戸蘭学界中興の祖」とも称されました。

 宇田川玄随からの津山藩の洋学の伝統は「御家光之御筋」と「草創之著述」ですが、宇田川玄真も「草創之著述」をなして、「御家光之御筋」をたてたのでした。


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by wheatbaku | 2017-11-13 11:46 | 『幕末』 | Trackback
  

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