カテゴリ:『幕末』( 149 )
安政の大獄(井伊直弼⑧ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日はいよいよ有名な 「安政の大獄」 について書きます。
 この安政の大獄が結果として井伊直弼の命を奪うことになります。

【朝廷内で強まる攘夷意見】 
 条約調印に対して、孝明天皇も激怒して、6月28日には譲位の意向を示しました。
 そして8月8日には、いわゆる「戊午(ぼご)の密勅」が水戸藩に下されました。
c0187004_15224867.jpg さらに、朝廷内部でも佐幕派公卿と尊攘派公卿とが対立し、9月には関白九条尚忠が辞任申し出をするという事態になります。
 これらの動きの背景には、尊攘派の梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎らの働きかけがありました。
 右の写真の人物が梅田雲浜です。国立国会図書館が所蔵しています。

【戊午の密勅がきっかけ】 
 大獄のきっかけとなった、戊午の密勅(ぼごのみっちょく)は安政5年(1858)8月に孝明天皇が水戸藩に勅諚を下賜した事件です。
「戊午」とは安政5年の干支が戊午(つちのえうま)であったことに由来します。
 密勅は水戸藩京都留守居役鵜飼吉左衛門に下り、吉左衛門の子 鵜飼幸吉の手によって水戸藩家老安島(あじま)帯刀を介して水戸藩主徳川慶篤に伝えられました。
 幕府には数日後に禁裏付の大久保忠寛を通じて伝えられましたが、江戸より先に水戸に届くことを計った時期に伝えられました。
 水戸藩以外の御三家、御三卿などには秘匿されていたが、写しは関白以外の公卿を通じて縁のある大名に送付されました。
 水戸藩に勅諚が下がったことは、先例を破る異例の出来事でした。
 こうした事態は、幕藩体制の秩序を破壊することですので、井伊直弼は、秩序を維持するために、勅諚を下すために動いた公卿や水戸藩士などの密勅に関係した人々の弾圧に踏み切りました。
 これが安政の大獄です。

c0187004_1523121.jpg【安政の大獄で処罰された人々】 
 安政の大獄では多くの人が処罰されています。 
 公家では、右大臣鷹司輔煕(すけひろ)、左大臣近衛忠煕(このえただひろ)を辞官落飾、前関白鷹司政通、前内大臣三条実万(さねつむ)を落飾させ、青蓮院宮、中山忠能(ただやす)らを慎に処しました。
 大名では、斉昭を水戸で永蟄居、一橋慶喜を隠居・慎に処するなど命じました。
 志士以下の処罰者の中で斬罪となった人は次の人たちです。
 •橋本左内………越前藩士、斬罪  (右写真、国立国会図書館蔵)
 •頼三樹三郎……京都儒者、斬罪
•吉田松陰………長州藩士、斬罪
 •安島帶刀(あじまたてわき)………水戸藩家老、切腹
 •鵜飼吉左衛門…水戸藩京都留守居、斬罪
 •鵜飼幸吉………水戸藩家臣(吉左衛門の子供)、獄門
 •茅根(ちのね)伊豫之介…水戸藩右筆頭取、斬罪
 •飯泉(いいずみ)喜内… 元土浦藩藩士、斬罪
 

 大獄の目標は水戸藩にあったので、水戸藩関係者が多くかつ厳しい処罰となっています。

 この他、元小浜藩士の梅田雲浜は、9月7日に最初の逮捕者として逮捕され、獄中で死亡しました。
 また、このとき梁川星厳も逮捕されるはずでしたが、数日前にコレラで死亡していました。

【苛酷かどうかはむずかしい問題】 
 こうした安政の大獄を実行したことで、井伊直弼は苛酷な弾圧者であるという評価があります。
 しかし、これについて、小西四郎氏は、中公文庫「日本の歴史 開国と攘夷」の中で次のように書いています。
 大老井伊直弼個人の心境としては、この程度の断罪を、そう過酷のものとは思っていなかったであろう。かれはいやしくも幕府の大老である。徳川家の独裁権力を維持するのが念願であり、公卿や外様大名が幕政に口をはさむことは我慢のならないことであった。そのような上層支配者ならばともかく、軽々たる陪臣や浪士・儒者などが、大将軍家の継嗣や政治向きについて発言するなどはもってのほかの僭上の沙汰と考えた。
 多くの人々は、断罪の苛酷さを井伊直弼を攻撃する一材料とする。しかし、それを苛酷であるとするかどうかはむずかしい問題である。わたくし自身としては、この措置をそう苛酷のものとは思わない。

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by wheatbaku | 2010-03-09 16:16 | 『幕末』 | Trackback
一橋派の詰問(井伊直弼⑦ 江戸文化歴史検定今年のお題「幕末」)
  日米修好通商条約が6月19日に勅許なしに調印されたことにより、将軍継嗣問題とからんで一橋派の攻撃が強まり、井伊大老との抗争が激しくなりました。
 今日は、直弼と一橋慶喜、松平慶永(春嶽)、徳川斉昭らの一橋派とのやりとりを中心に書いていきます。

  まず、条約調印後まもなくの6月23日に老中堀田正睦と松平忠固が罷免されました。
 堀田正睦は一橋派になったことと条約調印の責任をとらされて、松平忠固は井伊大老と権勢を争うようになったため罷免されたといわれています。
堀田正睦の替わりに老中首座は越前鯖江藩主間部詮勝がなりました。間部詮勝は後に安政の大獄の中心人物の一人となります。

c0187004_2131387.jpg【慶喜と直弼の会談】 
 6月23日には、徳川慶喜と井伊直弼が初めて会いました。
 御三卿は本来は将軍家の家族であり政治には無縁の存在なのですが、一橋慶喜は井伊直弼の違勅を責めました。
 慶喜は直弼が勅許を得ずに調印したことと朝廷への報告を手紙で済ませたことに対して天皇への軽蔑であるとして非難しました。
 それに対して、直弼は一言も反論せず両手をつき頭を下げたまま「恐れ入りたてまつります」とだけ繰り返しました。
 直弼は言質をとられないように、弁舌が優れていたといわれる慶喜がいくら非難しても「恐れ入り奉ります」とのみ繰り返しました。
 慶喜は得るものを得られず下城せざるをえませんでした。
(慶喜の写真は国会図書館蔵)

c0187004_2132746.jpg【慶永と直弼の会談】 
 また松平春嶽も6月24日、井伊大老を屋敷に訪ね、違勅の件を詰問するとともに将軍継嗣の発表を延期するよう申し入れます。
 しかし、議論の結論が出ないうちに直弼が登城する時間となり、直弼は慶永を振り切り登城をします。
 慶永はやむえず井伊邸を出て、直弼の後を追い登城しました。
 (松平慶永の写真は国会図書館蔵)

【御三家の不時登城】 
 一方、24日に徳川斉昭も尾張徳川慶恕(よしたみ)と水戸の徳川慶篤とともに登城日でないのに登城しました。いわゆる不時登城です。
c0187004_2134091.jpg  江戸城への登城は大名により日にちが決まっていて臨時に登城する場合には許可が必要ですが、斉昭らは許可なく登城しました。
 これは、表向きは井伊大老の勅許をえずに条約を調印したことに対する非難のためでした。
 しかし、本当の狙いは、徳川慶福が将軍継嗣となることを阻止するため、継嗣発表の延期や変更という狙いがあったとも言われています。
 両者の間で論戦が始まると、斉昭たちの主張は直弼や老中たちに論破されてしまいます。
 そこで、斉昭は松平慶永を呼べと言いますが、慶永は家格が違うことから同席することができず、斉昭らは最後は退出するしかありませんでした。

 このように一橋派の攻撃ををかわした井伊直弼は、その翌日の6月25日に将軍継嗣は徳川慶福であることを正式に発表しました。
 そして、不時登城した人々を処分しました。
 すなわち斉昭は急度慎と書信往復の禁止、慶篤は登城停止、慶永には隠居と急度慎、一橋慶喜に登城禁止という厳しい処分が下されました。
 
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by wheatbaku | 2010-03-08 06:25 | 『幕末』 | Trackback
悲壮な覚悟で調印(井伊直弼⑥ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 ついに井伊直弼は、勅許なしに日米修好通商条約の調印を行います。
 これについては、井伊直弼も相当の覚悟をもって調印したと思われます。

 その事情について、駒沢大学教授であった吉田直吉氏は、「人物叢書 井伊直弼」の中で次のように書いています。c0187004_2274936.jpg 

 直弼には、あえて違勅の罪を犯してまで条約の調印をしたのには、それだけの信念があった。
 それは海外諸蕃の形勢を考察し、いわんや英仏艦隊数十隻来航して条約の締結を迫るという非常事態に際して、これを拒絶して国体を辱めるか、勅許を待たないで条約に調印して国体を全うするか、二者その中の一つを選ぶべき場におかれた時、為政者としてとるべき道はおのずから明らかであろう。

 海防・軍備の充分でない現在、しばらく彼の願意を取捨して、害のない方を選ぶことに直弼は決心したのである。
 直弼にこのような一大決心をさせた背後には、大政は幕府に委任されているから、政治をとる者は臨機応変の手段がなくてはならぬとする、幕府政治の基本的な考えがあったことを知るべきであろう。

c0187004_2281465.jpg そして直弼も勅許を待たない調印には反対であったが、あえてこれを侵す重罪は一身で甘受するといっており、この悲壮な覚悟のうちに、やむなく無断調印せざるをえなかったのである。

 
 以上が吉田氏の考えです。
 井伊直弼に対する評価は、違勅の臣としての厳しい評価がされることが多いのですが、吉田氏のこうした考えも踏まえて評価してみる必要を感じます。
 こうした思いが出てきたのは、先日お話をうかがった「埋木舎」の所有者の大久保治男氏の影響かもしれません。
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by wheatbaku | 2010-03-07 00:47 | 『幕末』 | Trackback
条約勅許問題 (井伊直弼⑤ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 
 井伊直弼が大老に就任した時期、将軍継嗣問題のほか条約勅許問題も重大な問題でした。
 今日は、その条約勅許問題について触れていきます。

 米国総領事として赴任したタウンゼント・ハリスは、赴任当初から通商条約の締結を強硬に主張してきたため、通商条約調印やむを得ずと考えた老中堀田正睦は孝明天皇の勅許を得て世論を納得させた上で通商条約締結をしようと考えました。

【堀田正睦、勅許に失敗】 c0187004_2262561.jpg 
 そのため、堀田正睦は自ら京都へ向かい条約勅許に尽力しました。
正睦は比較的簡単に勅許が得られるものと考えていました。
 しかし、孝明天皇が極端な攘夷論者であるうえに公卿も多くが排外主義者であり、さらに梅田雲浜などが攘夷思想を吹き込でいたため、勅許獲得は失敗に終わり、再度御三家以下の諸大名の意見を聞いたうえで願い出るようにとの勅錠が出されました。
 そして、失意の堀田正睦が江戸に戻った3日後の4月23日に、井伊直弼が大老に就任しました。

【諸大名の意見を聞く】  
 井伊直弼は、4月25日に諸大名を登城させ再び意見を求めることとしました。
 一方、ハリスには条約調印の時期を延期するよう折衝させ調印期日を7月27日としました。
 調印時期を延期したため、諸大名からの意見答申を集める期間を稼ぐことができ、6月はじめには諸大名からこの際やむをえないという意見が多く寄せられましたが、水戸藩や尾張名古屋藩の意見は調印反対という意見でした。

c0187004_16145373.jpg【ハリス、調印を急ぐ】
 そうした情勢の時、当初7月27日調印を了解していたハリスが急遽、横浜小柴沖(八景島周辺)に現われ調印を急ぐよう要求してきました。
 これはハリスが、中国においてアロー号事件をきっかけに清と戦争中のイギリスとフランスが大勝したという情報を手に入れたためであり、ハリスはイギリスやフランスが過大な要求をする可能性を指摘してそれを防ぐにはアメリカと通商条約を結ぶほかないと交渉を急ぎました。

【直弼、やむえず調印許可】 
 井伊直弼は、当初は勅許を得ずして条約を調印することに反対しましたが、堀田正睦や松平忠固は即時調印の考えで他の老中は調印延期の考えでした。
 そこで、直弼は調印の延期を交渉するよう指示しますが、「是非におよばない節には調印してもよいか」と交渉担当の下田奉行井上清直から問われたため、井伊直弼は「その節は致し方ない。調印してもよい」との内諾を交渉担当の井上清直と目付の岩瀬忠震に与え、孝明天皇の勅許がないままの条約調印に踏み切りました。
 調印は横浜小柴沖のポーハタン号上で行われました。日本側代表は井上清直と岩瀬忠震で、アメリカ側の全権はハリスでした。
 こうして、安政5年(1858年)6月19日、大老井伊直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約を締結したのです。
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by wheatbaku | 2010-03-05 08:09 | 『幕末』 | Trackback
将軍継嗣問題 (井伊直弼④ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日3月3日は桜田門外の変が起きた日です。
 安政7年3月3日に桜田門外で大老井伊直弼が暗殺されました。今日、桜田門外の変のことを書くのが良いのですが、今日は井伊直弼が取り組まなければならなかった二大問題のうちの将軍継嗣問題について触れてみます。 桜田門外の変の当日の動きは後日書きます。

【幕府の二大問題】 
 井伊直弼が大老に就任した頃の徳川幕府は、内外に二つの大きな問題を抱えていました。
それは、内に将軍継嗣問題であり、外にはアメリカ合衆国のハリスによる通商条約の締結という問題です。
 井伊直弼は、大老としてこの二大問題に取り組まざるをえませんでした。
 今日は二大問題のうちの将軍継嗣問題について書いてみます。

 将軍継嗣問題とは、13代将軍家定は実子がいなかったうえ、その体力が不安視されていたため、後継者の確定が急がれた問題です。

c0187004_14454482.jpg【後継候補は慶福と慶喜】 
 将軍の後継者の候補は2人いました。一人は紀伊藩主徳川慶福(後の徳川家茂)で、もう一人は水戸の徳川斉昭の七男で御三卿の一橋家を相続していた一橋慶喜です。
 徳川慶福は、11代将軍家斉の孫になります。
 13代将軍家定も家斉の孫になりますので、慶福は家定の従兄弟になります。血統の近さでは慶福になります。ただ年齢が10歳にも達しなかったので幼すぎるという弱点がありました。
 一方、一橋慶喜は17歳で英明との評判が高く、12代将軍家慶も一時後継者にと考えたことがあると言われています。
 血縁的には8 歳ながら将軍家定の従弟の慶福、能力や年齢を考慮すれば17歳の慶喜ということになります。
 右写真は徳川慶喜(国立国会図書館蔵)

c0187004_144684.jpg 【南紀派、一橋派】 
 徳川慶福を推す人々を南紀派、一橋慶喜を推す派を一橋派と呼びました。
 慶福を押すのは、溜間詰を中心にした譜代大名であり、井伊直弼を筆頭としていました。また、大奥も水戸の徳川斉昭を嫌っていたことから、実子である一橋慶喜が後継になることを喜びませんでした。
 一橋慶喜を押すのは、家門の松平慶永や外様雄藩の島津斉彬、伊達宗城、山内豊信(容堂)などでした。 そして慶喜の実父の水戸斉昭も当然一橋派です。
 一昨年の大河ドラマの主人公天璋院篤姫が家定に輿入れしたのも、慶喜を将軍後継者にしようという密命を帯びたものだったという説もあります。
 写真は松平慶永(国立国会図書館蔵)

【後継は慶福(のちの家茂)】 
 一橋派は朝廷にも働きかけ、将軍継嗣は英傑・人望・年長の三条件を揃えた人物が望ましいとする朝廷の内意を受けるところまで行きました。

 しかし、井伊直弼が大老に就任したことによって急速に徳川慶福に決定する動きとなります。
 井伊直弼が大老に就任(4月23日)してまもなくの5月1日に、大老や老中は将軍家定から紀州徳川慶福を後継とすることに決意した旨を申し渡されました。
 こうして、将軍の継嗣は徳川慶福にする内定しましたが、直弼は直ちに発表するのは避けました。
 正式に発表されたのは、朝廷の返書が届いた後の6月25日でした。
 こうして将軍の後継は徳川慶福(のち家茂)に決したのでした。
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by wheatbaku | 2010-03-03 06:13 | 『幕末』 | Trackback
直弼大老に就任(井伊直弼③ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 埋木舎(うもれぎのや)で部屋住みでいた井伊直弼が一挙に脚光をあびることになります。
 今日は、直弼が世子となり、藩主となり、さらに大老に就任するまでを書いていきます。

【直弼、藩主になる】 
 井伊直弼は、直亮の世子である直元が弘化3年(1846)に病死したため、部屋住みから一躍世子となりました。
c0187004_1347371.jpg そして嘉永3年(1850)には、兄である藩主直亮がなくなったため、13代彦根藩藩主となりました。
 藩主となった直弼は、藩校の弘道館の改革に取り組み領内の巡視も熱心におこないました。
 また、ペリー来航後の政局の中で、溜間詰筆頭として積極的に発言をしていきました。

【直弼、大老に就任】 
 そして、安政5年(1858年)4月松平忠固(ただかた)や水野忠央(紀州藩付家老)ら南紀派の政治工作により直弼は幕府の大老に就任します。

 この大老就任にあたっては将軍家定の意向が強く働いていると言われています。
 堀田正睦は通商条約の締結にあたり、条約締結の反対者をおさえるために朝廷の勅許を得れば良いとして、京都に上って朝廷に対して裏工作を行いますが失敗します。
 この為、江戸に戻って将軍家定に不首尾を報告し辞任するにあたり、越前藩主松平春嶽へ大老を仰せ付けるよう将軍に伺ったところ、将軍家定は「家柄といい、人物といい彦根を差し置き越前を大老にする筋のものではない。井伊掃部頭に大老を仰せ付けるように」と言ったと記録されています。

 家定がそう言った背景には老中松平忠固(ただかた)が紀州藩の家老水野忠央(ただなか)と気脈を通じて家定の実母本寿院などの大奥へ対して行った工作があると言われています。
 これは紀州徳川家の慶福(よしとみ)を将軍家定の継嗣にするためには、南紀派の井伊直弼を大老にするしか方法がないと考えてのことと言われています。

c0187004_1356264.jpg 【直弼は実力派大老】 
 井伊直弼は、将軍家定から大老職を命ぜられます。しかし、老中首座の堀田正睦に大老職を御免こうむりたいと申し出ます。しかし、堀田正睦と松平忠固が就任するよう勧めました。しかし、それでも直弼は固辞しましたが、再度の上意があり、就任することになったとも記録されています。

 大老は幕府最高の職であり、非常時に老中の上に置かれる職で、通常は日常的な政務には関与しない職でした。
 しかし、条約勅許と将軍継嗣という難問に直面していた幕府では、井伊直弼は日常的な政務にかかわらざるを得ませんでした。
 また、前述した就任の経緯から、井伊直弼は、形ばかりの大老ではなく、幕末の政局を左右する力を持つことになりました。

 このため、井伊直弼は、将軍継嗣と条約勅許という二大問題に自ら取り組むこととなります。
 明日から、この二大問題について取り上げます。
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by wheatbaku | 2010-03-02 06:29 | 『幕末』 | Trackback
埋木舎 (井伊直弼② 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日も、井伊直弼のお話を続けます。
 井伊直弼が13代彦根藩主となるまでの不遇の時期の17歳から32歳までの15年を過ごした屋敷が有名な「埋木舎(うもれぎのや)」 です。
 今日は「埋木舎(うもれぎのや)」 について書いていきます。

c0187004_22532588.jpg【埋木舎】
 埋木舎(うもれぎのや)は、彦根城佐和口御門に近い中堀に面した武家屋敷です。
 埋木舎は元々尾末町屋敷とよばれていました。屋敷といっても中流以下の藩士の住宅にも等しい建物で、部屋数は20数間だったようです。
 この屋敷が創建されたのは宝暦9年(1759年)頃と見られています。
 この屋敷で、井伊直弼は、藩から300俵の宛行扶持を与えられ、世捨て人のように暮らしました。 

c0187004_2254334.jpg【埋木舎は大久保氏所有】
 この埋木舎の表玄関には「大久保」の表札が掲げられています。
 これは、直弼の側近であった大久保小膳が、直弼の子供で最後の彦根藩主である直憲の養育を行い、明治維新に際し焼却するよう命令された藩文書を極秘に保存したことや彦根城天守閣の保存運動に功績があったため、埋木舎が大久保小膳に明治4年に与えられたことによります。
 埋木舎は、現在も大久保小膳のご子孫大久保治男氏の個人所有の屋敷です。

 大久保治男氏は現在東京にお住まいで、武蔵野学院大学の副学長をされています。
 駒澤大学法学部長も勤められて駒澤大学名誉教授でもあります。ご専門は日本法制史です。
 その大久保氏から、貴重なお話をうかがうことができましたのでご紹介します。

c0187004_22541855.jpg【大久保小膳の活躍】
 まず、大久保氏の先祖について教えていただきました。
 大久保氏のご先祖は、小田原城主の大久保忠世や大久保彦左衛門と呼ばれて有名な大久保忠教の従兄弟に当たる大久保忠正です。
 大久保忠正は、徳川四天王の一人井伊直政を2歳から養育した縁で、家康の命により井伊家に仕え、代々家老や御側役等重職ををつとめてきました。
 井伊直弼の時代には大久保小膳員好が直弼の御側役として仕えました。直弼の名代として、江戸、大坂、京都へ数多く訪れた側近中の側近でした。
 そして、桜田門外の変の時には、正使として早駕籠で4日間で彦根に急を告げるとともに激昂する藩内の意見を抑え水戸藩との抗争を回避しました。
 直弼の死後、大久保小膳は、直弼執政中の藩公文書を秘密裏に保存したり、廃藩後の彦根城天守閣の保存運動に尽力するなどの種々の功績があり、最後の彦根藩主である直憲から「埋木舎」を贈られました。
 現在の大久保治男氏は大久保小膳から数えて5代目のご当主だそうです。

c0187004_22555089.jpg【井伊直弼は文化人、あだ名は「チャカポン」】
 大久保氏は、井伊直弼については次のように仰っていました。
 井伊直弼は、明治政府により悪人にされているが、実は文化人であり平和主義者であったことが知られていないですね。
 直弼は埋木舎で文武両面の修養に力をそそいでいたのです。
 兵学・剣術・槍術・居合術などの武術をはじめ国学・禅・茶道・能・和歌など学問や芸術面にも精通していました。
 お茶は最初石州流を学び、一派をたてるまでになりました。和歌では、自作の和歌集を編纂したほどでした。
 能は、槻(けやき)御殿時代から学んでいて、「筑摩江」という能を作成しましたし、井伊家のお抱えであった茂山千五郎家に与えた狂言「鬼ヶ宿」もあり、現在でも上演されます。
 そこから、「チャカポン(茶・歌・鼓)」とあだ名されるほどでした。
 直弼はこのような高い教養をもった人物であり、こうした面が取り上げられないの非常に残念です。
 また、日米修好通商条約を結び開国したのは、戦争を回避するためであり、平和主義者、国際協調主義者であったのです。
 それにもかかわらず、安政の大獄や違勅のことが取り上げられて悪い評価だけされているのは大変残念です。
 このように仰っていました。

【埋木舎と井伊直弼】 c0187004_22543668.jpg
 大久保様から思いがけずこのような大変有意義なお話を聞くことができました。
 大久保様大変ありがとうございました。
 私たちも、安政の大獄や桜田門外の変だけで井伊直弼をとらえるのではなく、幅広くとらえてみる必要があると感じました。
 なお、大久保氏は「埋木舎と井伊直弼」という本をサンライズ出版社から出されています。
 埋木舎の歴史と井伊直弼が文化人であることがわかりやすく書かれていました。
 井伊直弼に関心のある方に一読されるようお薦めします。
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by wheatbaku | 2010-03-01 06:11 | 『幕末』 | Trackback
桜田門外の変 ①(江戸検定今年のお題「幕末」)
 江戸文化歴史検定今年のお題「幕末」の記事ですが、3月は安政7年(1860)3月3日の桜田門の変と嘉永7年(1854)3月3日の日米和親条約締結について取り上げたいと思います。

 まずは桜田門外の変から取り上げます。 
 安政7年(安政7年3月18日に万延に改元)3月3日に、桜田門外の変が起きました。
 水戸浪士17名と薩摩藩士1名の合計18名により時の大老井伊直弼が暗殺されたのです。
 そこで、今日から数回にわたって井伊直弼について書いていきます。
 今日は、井伊直弼の彦根藩藩主になるまでの青年時代について書いていきたいと思います。
【14男で父50歳の時の子供】
c0187004_1454224.jpg 左の井伊直弼銅像は、彦根市の玄宮園に隣接する金亀児童公園にあるものです。
 井伊直弼は、文化12年(1815)、彦根藩第11代藩主・井伊直中の14男として、彦根場内の「槻(けやき)御殿」生まれました。幼名は鉄之介、後に通称は鉄三郎といいました。
 父の直中は歴代の藩主の中で名君の一人に数えられた人物です。
 直弼が生まれたときには、父の直中は50歳で、すでに家督を長兄の直亮(なおあき)に譲っていました。

【槻(けやき)御殿】
 直弼が生まれた槻御殿は4代の直興が、藩主の家族が生活する下屋敷として延宝5年(1677)に建てたものです。
c0187004_1442222.jpg 現在は建物部分が楽々園、庭園部分が玄宮園と呼び分けられています。
 建物には、当時としては珍しい耐震構造の「地震の間」と呼ばれている部屋があります。

 直弼は、父がここで隠居していたため、ここで生まれたのです。
 直弼は、ここでいろいろな学問・技芸をみにつけていたが、17歳のときに、父直中がなくなったため、この御殿を出て、尾末町屋敷に住むことになり、「部屋住み」生活が始まりました。

【直弼だけが部屋住み】
 井伊家の家風では、嫡子以外の子は、他の大名家を継ぐか家臣の家を継ぎ、そうならない者は部屋住みとして、わずかな宛行扶持(あてがいぶち)で生活するのが通例でした。
 直弼の兄弟で言うと、直中には15人の男子がいましたが、3男の直亮が藩主となり11男の直元が世子となっていました。
 そして、7男直教が豊後岡藩、8男直福が三河挙母藩、9男勝権下総多古藩、8男直福の跡を継いだ13男直与がそれぞれ大名家を継ぎました。その他、6男、10男、12男が家老家を継ぎました。長男、次男、4男、5男は若くしてなくなっています。
 このため、直中が死んだ時点で、残されたのは14男の直弼と15男の直恭だけでした。
 その4年後の天保5年(1835)、弟の直恭が、日向延岡藩の養子となるの及んで、部屋住みとして残されたのは直弼ただ一人でした。

 そこで、直弼は一生を埋木で朽ち果てることを覚悟し、住まいを「埋木舎(うもれぎのや)」と名づけます。
 そして、17歳から32歳まで15年間「埋木舎(うもれぎのや)」で暮らすことになります。
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by wheatbaku | 2010-02-26 06:13 | 『幕末』 | Trackback
桶川・板橋 (和宮降嫁③ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 京都を10月20日に出発した和宮一行は11月15 日に江戸に入りました。
 今日は、和宮が1月13日に泊まった桶川宿と翌14日に泊まった板橋宿について書きます。 

c0187004_2241878.jpg 桶川旧本陣
 桶川は中山道第6番目の宿場です。ここに文久元年11月13日に和宮が宿泊しています。
 和宮が宿泊した桶川の旧本陣は現在も残っています。
 写真は、中山道から撮った現在の旧本陣の門です。
 門の奥に、旧本陣が残されているそうです。 

c0187004_14564942.jpg【桶川宿旧本陣上段の間】
 旧本陣は埼玉県の有形文化財に指定されていて、和宮が泊まった上段の間も残っています。
 しかし、旧本陣は現在個人の所有となっていますので公開されていません。
 そこで、桶川中山道商店会のHPから上段の間の写真を転載させてもらいました。
 写真でみると8畳程の部屋のように思います。
 上段の間では、毎年秋「桶川本陣・かがり火狂言会」を開催しているそうです。


c0187004_1581869.jpg【桶川市民まつり】
 桶川では、11月3日の市民まつりの際に、和宮行列が行われるようです。
 中山道宿場館という案内所の壁に、昨年の市民祭りのポスターが貼ってありました。
 この写真は桶川市観光協会からの転載ですが、和宮は輿で行列しています。
 実際の行列は輿であったのか駕籠であったのか、はたまた牛車であったのかいろいろ説があるようです。通過する場所や天候によって乗り物は変わったのだとは思います。

 次の日は、桶川を出発した後、上尾・大宮で小休止し、浦和で昼食をとりました。
 さらに、蕨で小休止して、戸田の渡船場を通り、縁切榎をさけるためにつくられた迂回路を通って板橋に入りました。

c0187004_2255152.jpg【縁切榎】
 板橋の板橋宿のはずれ、「縁切榎」(現.板橋区本町)と呼ばれる木が立っていました。
 縁起が悪いということで、和宮下向の際には、縁切榎をさけるための迂回路がつくられています。
そのルートは、中山道が現在の環状7号線と交差する辺りから練馬道、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿 上宿へ至る約1キロメートルの道のりでした。
 この時に榎を菰(こも)で覆ったとする伝承もありますが、それは、下向の際に出された不浄なものを筵で覆うことを命じた触書の内容が伝わったものと考えられています。

c0187004_2252832.jpg【板橋宿の脇本陣】
 和宮は板橋宿の脇本陣の飯田宇兵衛家に宿泊しました。
 脇本陣の飯田宇兵衛家は、宝永元年(1704)に本陣を飯田新左衛門に譲っていますが、飯田家の総本家であり、江戸時代を通じて名主、問屋、脇本陣を努めました。
 和宮下向の際には、この飯田宇兵衛家が本陣役を勤め、宿所を提供しています。
 飯田家の屋敷は門構え、玄関つきの建坪190坪という大きなものでした。
 現在は、マンションとなっていて、板橋区教育委員会の説明板と石柱が設置していることがかろうじてその跡であることがわかります。


 翌日は、和宮は風邪気味のため午前11時ごろに本陣を立ち江戸に向かい午後4時ごろに江戸城内の清水邸に着きました。
 清水邸は御三卿の一つで、清水門内にありました。
 現在でいうと、北の丸公園・日本武道館付近にあたります。
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by wheatbaku | 2010-02-15 07:58 | 『幕末』 | Trackback
和宮降嫁 ② (江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は和宮降嫁の2回目ですが、和宮下向の様子を書きたいと思います。

 和宮の降嫁の行列は、文久元年(1861)10月20日に京都御所北にあった桂宮邸を出発し、中山道を25日間かけて江戸に向かいました。c0187004_1513981.jpg 出発の日は晴天であったそうです。
 孝明天皇は猿が辻の築地の小さな門で和宮の行列を見送ったそうです。
 中山道を利用したのは、東海道は浜名湖の東にある今切関所の「今切れる」や薩埵峠の「去った」という縁起の悪い地を避けたからだという説もあります。
 しかし、宮家や公卿の息女が将軍家に輿入れする際、過去の例ではほとんど中山道を利用しています。
 本当の理由は、東海道は大きな河川が多く、そのの増水による川留めを避けることや桑名から宮までと新居から舞阪までの海路を避けたということのようです。

【和宮降嫁行列の宿泊地】 
 和宮の行列は中山道を25日かけて江戸に到着しました。
 その宿泊場所を挙げると次のようになります。
  10月20日~21日 大津  10月22日     守山
  10月23日    愛知川   10月24日     柏原  
  10月25日     赤坂   10月26日     加納  
  10月27日     太田    10月28日    大久手 
  10月29日    中津川   11月 1日    三留野 
  11月 2日     上松   11月 3日     薮原  
  11月 4日     本山   11月 5日    下諏訪 
  11月 6日     和田   11月 7日     八幡
  11月 8日     沓掛   11月 9日     坂本  
  11月10日     板鼻   11月11日     本庄  
  11月12日     熊谷   11月13日     桶川  
  11月14日     板橋   11月15日   江戸到着

c0187004_19411017.jpg【行列の構成】 
 行列の構成は、2万人とも3万人とも言います。
 多くの本が、京方1万人、江戸方1万5000人が随行したと書いています。
 さらに人足もいますので、行列は相当の人数になったようです。 

 大行列でしたので、行列は次のように4日間にわけて移動しました。
   第1日目 前々日  菊亭中納言、千種中将など
   第2日目 前日   中山大納言 小倉侍従など
   第3日目 当日   和宮、勧行院、橋本中将など
   第4日目 翌日   坊城中納言、岩倉少将など

c0187004_11564926.jpg【和田宿】 
 難所である和田峠は一日がかりで越えました。
 11月5日に和田峠の前の下諏訪に宿泊し、11月6日に和田峠を越えて和田宿に泊まりました。
 和田峠越えの総人数は、京都方は1万人、江戸方は1万5千人、下諏訪宿から和田宿までの沿道警備に高島藩があたり、本山宿から和田宿までの随行警護に上田・高遠藩があたりました。
 写真は、明治期頃と思われる和田宿の様子です。この宿場町を2万5000人以上の人が通行するのですから大変だったろうと思います。
 この写真は、「長崎大学附属図書館所蔵」の写真です。
 長崎大学付属図書館のご厚意により「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」から画像を転載させていただいています
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by wheatbaku | 2010-02-12 05:44 | 『幕末』 | Trackback
  

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