カテゴリ:『幕末』( 206 )
橋本左内登場 (松平春嶽④ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、松平春嶽を助けて、一橋慶喜擁立に尽力した後、若くして安政の大獄で斬首された 橋本左内 について書いていきます。

【左内は最適の補佐役】 
 春嶽は、継嗣問題を好転させるために橋本左内を越前から急いで出府させました。
 橋本左内は、先祖代々25石5人扶持の藩医の長男として生まれ、名は綱紀(つなのり)、号は景岳、黎園(れいえん)と言います。左内は通称です。
c0187004_15595178.jpg 18歳の時に、大阪に遊学し緒方洪庵に蘭学・西洋医学を学びました。
 安政元年江戸に赴いて英語・ドイツ語のほか物理・化学の知識も吸収しています。
 この時に藤田東湖や西郷隆盛らとも交際し内外情勢への識見を深めています。
 安政2年には藩医を免じられて御書院番に登用され、藩校明道館学監に任じられて洋学習学所を設置するなどの成果を挙げていました。
 その橋本左内が、春嶽を補佐するもっとも適任者とされたのでした。

 そこで、同年江戸に呼ばれて藩主松平慶永の侍読兼内用掛となり、一橋慶喜を擁する将軍継嗣運動に携わりました。
 右の橋本左内の写真は国立国会図書館蔵です。

【左内は春嶽のブレーン】 
 橋本左内の重要なことは、一橋慶喜擁立についての理論構築を担ったことでした。
 橋本左内は、名目上の将軍のもと、一部の譜代大名出身の老中が独占する古い政治を大きく変えて、これまで圏外に置かれていた親藩・外様の名君たちを中央の政治に参加させて、英知を結集して外圧の危機に対応するとともに、開国後の日本の針路を定めようと考えました。
 そして、その改革を行う前提として、新体制の頂点に万機を親裁できる将軍を位置づけることが不可欠であり、そこに英明の慶喜を将軍継嗣として座ることにより、徳川の天下を再強化することを通しながら現状打開の道をさぐろうと考えました。
 また、積極的に開国してロシアと攻守同盟を結び、外国貿易を盛んにして富国強兵を実現しようとも考えていました。この時代に、ロシアとの同盟を考えるなど非常に先進的な考えを持っていました

【左内は京都でも活躍】 
 この頃、条約勅許問題も重大な局面を迎えていました。
 アメリカ領事ハリスとの通商交渉に対応していた堀田正睦は、将軍に謁見したハリスとの会談により通商条約締結を決意し、諸大名に諮問を行うとともに、通商条約の勅許によって諸大名の反対を抑えようとしました。 正睦は上洛し条約勅許を得ようとしますが、朝廷の態度は固く、勅許は得られず、事態は暗礁に乗り上げてしまいました。
 そうした時期に、春嶽は橋本左内を上京させました。その任務は、堀田正睦を側面から援助するとともに朝廷側に慶喜継嗣の急務を説いて、慶喜を望む旨の天皇の内勅を幕府に下させるようにすることにありました。

 そして、京都における活動の結果、慶喜を名指しした内勅が降下されるような状況までこぎつけました。
 しかし、長野主膳の運動により、最終的には、慶喜の名前もなく、さらに「英傑・人望・年長」の三要件も削除された勅書になってしまいました。
 ここに、春嶽・左内の目的は完敗という結果に終わってしまいます。

 さらに、井伊直弼の大老就任により、一橋派が破れ、慶喜擁立に関わった人たちが安政の大獄で処罰されるなかで、橋本左内も安政5年に捕らえられ、翌年10月7日小伝馬町牢屋敷で斬首されることになります。
 その話は後日改めて書いてみたいと思います。
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by wheatbaku | 2010-08-05 06:05 | 『幕末』 | Trackback
将軍継嗣問題 (松平春嶽③ 江戸検定今年のお題「幕末」)
  今日は、松平春嶽の3回目ですが、将軍継嗣問題で、春嶽自らが積極的に一橋慶喜擁立を実行したことについて書いていきます。

 松平春嶽は、将軍継嗣問題において、一橋派の中心人物というより総帥として、一橋慶喜擁立運動を主導して推進し、幕府内や有志大名の間、さらには朝廷に対して強力な働きかけを行いました。 

【将軍継嗣問題の解決は自分の使命と考えた】 
 13代将軍家定は、虚弱で凡庸で癇癖が強く、政務遂行能力がなく、子供もいなかったことから、家定が嘉永6年に将軍になるや、早くも世継ぎ選定の議が幕府内外に起こりました。
  越前家はご家門として、事あれば徳川将軍家の支持・擁護に全力を尽くす立場にありました。 
 御三家・御三卿の当主は、将軍継嗣の候補の当事者であるため、擁立工作に加わることは好ましくありません。
 そのため、御三家・御三卿を除いて、将軍家にもっとも近い家門第一の名門越前松平家の当主すなわち春嶽が、将軍継嗣問題を解決すべき使命があると春嶽は考えていました。
 
【御三家・御三卿の状況】 
 将軍家定の継嗣は、当然御三家・御三卿から求めなければなりません。
 安政4年の御三家・御三卿の藩主・当主を見てみると次のような状況でした。
①尾張家は尾張藩の支藩高須家生まれの慶恕(よしくみ)が入って藩主となりましたが、将軍家とは血脈が遠く、年齢も34歳で将軍家定と同じ年齢でした。 
②紀伊藩主の慶福は、将軍家定と従兄弟で血縁は一番近いのですが、年齢は8歳でした。
③水戸藩主慶篤は人格・才幹についてとかくの批判がありました。
④田安家の当主慶頼にも政治家として問題がありました。
⑤清水家には当主がいません。
⑥一橋家当主の慶喜は水戸家出身ですが、英明の誉れが高く人望がありました。

【一橋慶喜擁立に動く】 
 こうして比較すると、一橋慶喜が将軍継嗣として最もふさわしいということになります。
c0187004_9243223.jpg  また、春嶽の生家田安家と一橋家との間には数代にわたっての緊密な関係がありました。
 そこで、春嶽は、嘉永6年に、老中阿部正弘に対して働きかけを始めています。
 また、薩摩藩主島津斉彬とも相談しており、島津斉彬は春嶽と同じ立場でした。
 安政3年(1856)11月に篤姫が第13代将軍・徳川家定の正室となったのは将軍継嗣問題で慶喜擁立を家定に直接働きかけるねらいがあったということは有名な話しです。
 そして、春嶽は安政4年初秋には、老中久世広周・堀田正睦・松平忠固に対して所信をのべて協力を求め、安政4年10月には、蜂須賀斉祐と連署して慶喜擁立の建議書を提出しています。
 右の徳川慶喜の写真は国立国会図書館蔵です。

  一橋慶喜擁立の総帥は春嶽です。そして阿部正弘、島津斉彬、山内容堂、伊達宗城らの雄藩連合派の大名が支持しました。また、幕府の役人では、川路聖謨( としあきら)、土岐頼旨、永井尚志(なおむね)、鵜殿長鋭(ながとし)、岩瀬忠震(ただなり)、堀利煕(としひろ)、水野忠篤らの開明的な俊秀が賛同しました。
 
 このように、春嶽は、一橋慶喜擁立のために誰からか働きかけられたわけではなく、自ら一橋派の中心となって動いています。 
 しかしながら、同志の阿部正弘や島津斉彬がなくなり、守旧的な幕府内部の雰囲気や大奥の水戸嫌いの空気が強い中で、なかなか思うとおりに進みませんでした。
  そうした中で、春嶽を支えたのが、橋本左内です。
  明日は、橋本左内について書いていきます。
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by wheatbaku | 2010-08-04 06:21 | 『幕末』 | Trackback
越前松平家 (松平春嶽 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、春嶽が継いだ、越前松平家について書いていきます。

【藩祖は結城秀康】 
 越前松平家の藩祖は、結城秀康です。
 秀康は家康の次男で、2代将軍となった秀忠の兄ですが、はじめ豊臣秀吉の養子となって徳川家を離れ、のちに結城氏を継いでいたこともあって、徳川家の家督および将軍職を継ぐことはできませんでした。
 慶長6年(1601)に関ヶ原の戦いの後、秀康は越前一国68万石を与えられ、柴田勝家の築いた北ノ庄城を修復し居城としました。
 福井城本丸跡・南西側
福井城本丸跡・南西側 posted by (C)ふるさと福井ビデオレター
 
【多難な歴史を持つ越前藩】 
 しかし、秀康の長男の2代藩主忠直は、不行跡の理由で、元和9年(1623)に豊後に配流されました。
 そして、翌年の寛永元年(1624)、忠直の嫡男松平光長は越後高田藩26万石に移されます。この系統が、津山松平家になります。
 入れ替わりに越後高田藩で25万9千石を与えられていた秀康の次男の松平忠昌が50万石で越前藩領を継承します。
 しかし、貞享3年(1686)第6代藩主綱昌は発狂を理由に領地没収され、前藩主昌親が領地が25万石に半減された上で越前藩領の継承が認められました。
 以後、10代藩主宗矩まで忠昌の子孫が続きましたが、11代重昌が一橋家から迎えられようやく32万石となります。それ以降14代まで、一橋家からの養子の系統がつづきました。
 そして、春嶽の養父となった15代藩主斉善(なりさわ)は、将軍家斉の二十二男で、将軍家から越前松平家に養子として入っていたのです。
 そして、斉善にも嗣子がいなかったため、春嶽が養子となったのです。

 【越前松平家は八家ある】 
 越前松平家は分家が多く、越前松平家系の大名は秀康の子供6人のうち、早世した4男吉松丸を除く5人の子供が、それぞれ津山松平家、福井松平家、松江松平家、前橋松平家、明石松平家を起こしています。
 さらに福井藩から糸魚川藩が別れ、松江藩からは広瀬藩・母里藩が分かれ、合計で八家となります。
 この8家を総称して越前松平家といわれます。

 越前松平家を個別に書くと次のようになります。
 ①津山松平家(津山藩10万石)  …  秀康の長男松平忠直の子孫
 ②福井松平家(福井藩32万石)  …  秀康の次男松平忠昌の子孫
 ③松江松平家(松江藩18.6万石) …  秀康の三男松平直政の子孫
 ④前橋松平家(前橋藩17万石)  …  秀康の五男松平直基の子孫
 ⑤明石松平家(明石藩6万石)   …  秀康の六男松平直良の子孫
 ⑥糸井川松平家(糸魚川藩1万石)  … 福井藩の支藩。秀康の曾孫・松平直堅が起こした藩。
 ⑦広瀬松平家(出雲広瀬藩3万石)  … 松江藩の支藩。松江藩初代藩主・直政の2男・近栄が立藩
 ⑧母里(もり)松平家(出雲母里藩1万石) … 松江藩の支藩。松江藩の初代藩主・松平直政の3男・隆政が立藩
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by wheatbaku | 2010-08-03 06:14 | 『幕末』 | Trackback
松平春嶽  (江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日から、 松平春嶽(慶永) について、書いていきます。
 松平春嶽(慶永)は、文政11(1828) 御三卿田安家に生まれました。
 春嶽は号で、慶永(よしなが)が本名です。他に礫川、鴎渚などの号を用いたそうですが、生涯通して春嶽の号を最も愛用しました。

 【春嶽は田安家出身】 
c0187004_8202629.jpg 春嶽は、田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男です。
 田安家は、8代将軍吉宗の次男宗武が起こした家です。
 初代が宗武で、2代治察が病弱で早世しました。このとき、治察の弟定信は既に白河藩の久松松平家への養子行きが決められており、3代目を相続することが認められなかったため、田安家は、しばらく当主がいませんでした。
 そこで、天明7年(1787)に、一橋家から一橋徳川家2代当主徳川治済の五男の徳川斉匡が入り3代当主となりました。徳川斉匡は11代将軍家斉の弟になります。
 右写真は国立国会図書館蔵です。

 【将軍家慶は従兄弟】 
 この斉匡が春嶽の父です。従って、春嶽からみて11代将軍家斉は叔父になり、12代将軍家慶は従兄弟になります。
 春嶽の男の兄弟は10人いましたが、主な兄弟としては、一橋徳川家の5代当主となった四男の斉位(なりくら)、一橋徳川家の7代当主となった五男慶壽(よしひさ)、田安徳川家の第5代当主である慶頼(よしより)は9男、尾張藩第13代藩主となった慶臧(よしつぐ)が十男でした。
 松平春嶽は10歳の天保9年(1838)に越前藩15代藩主松平斉喜(なりさわ)の養嗣子となります。そして翌年11歳の時に、斉喜の死去によって16代藩主に就任しました。

 【中根雪江が補佐役】 
 そして、当時、大名は17歳まで帰国を許されない決まりでしたが、春嶽は16歳で帰国し、藩政の改革に取り組みました。
 春嶽の補佐には有名な中根雪江(せっこう)がつきました。
 中根家は代々700石を知行する上級藩士の家です。中根雪江は通称は靱負(ゆきえ)と言います。靱負を雪江とも書き、さらに「せっこう」と音読みしました。
 雪江は平田篤胤から国学を学んでいました。天保9年(1838年)に春嶽が藩主に就任すると側用人見習いとなり、春嶽に近侍しました。

 【名君との交わり】 
 春嶽が人間形成の上で大きな影響を受けたのが、徳川斉昭、阿部正弘、島津斉彬です。
 また、大変親しい友人に山内容堂がいます。
 徳川斉昭には、福井入国する前に、小石川藩邸を訪れて、初対面の挨拶したのち、藩主としての心得9か条の質問書を出して教えを請うています。
 28歳年長のため、初めは師父として教えをこい、その後は同士として藩政改革と海防に協力しました。
 阿部正弘は春嶽より9歳年長で、正室も越前家出身であり親戚関係にありました。
 春嶽が攘夷不可能を知り積極開国論に転向したのは阿部正弘の影響によるものです。
 島津斉彬との交流は、斉彬37歳、春嶽18歳の時に始まります。春嶽は斉彬を師父と仰ぎ、もっとも懇意であったと書いています。また、斉彬も、久光への遺言として、諸侯中穏健誠実の第一の人物は春嶽であるから国事周旋にはその協力を仰ぐよう言い残しています。
 山内容堂は盟友ともいうべき関係です。春嶽は容堂を常に熟友といっていました。容堂は春嶽より一歳年下で肝胆相照らし切磋琢磨する仲で、幕府崩壊まで公武合体の主流としてともに活動しました。



 
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by wheatbaku | 2010-08-02 06:22 | 『幕末』 | Trackback
鳥羽伏見の戦い (松平容保⑧ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日まで8回にわたり松平容保について書いてきましたが、今日でとりあえず最後とします。
 今日は、鳥羽伏見の戦いで敗れて江戸に帰ってくるまでを書きます。 
 それまで、会津藩は京都で非常に苦労してきましたが、江戸帰還後、更なる苦労が降りかかることとなりますが、そのことは、別の機会に書くこととしたいと思います。

 【大政奉還】  
 慶応2年12月(1867年1月)に、公武合体派の孝明天皇が崩御すると、薩摩藩、長州藩を中心とした倒幕の動きが急速に進みます。
c0187004_16175562.jpg こうした中で土佐藩から提出された大政奉還の建白書を受けた徳川慶喜は、慶応3年(1867)10月14日、二条城(右写真)にて大政奉還をおこないました。
 この時期、岩倉具視らの動きにより討幕の密勅が下されようとしていた時でした。慶喜は彼らの先手を打って大政を奉還することで、討幕の口実を失わせることとなりました。

 【王政復古】  
 大政奉還により、倒幕の口実を失ったものの、あくまでも倒幕をめざす岩倉具視や薩摩・長州藩は、慶応3年12月9日に倒幕のためのクーデターを起こし、「王政復古の大号令」を発令しました。
 その内容は、 「幕府および.摂政・関白を廃止し、.新たに総裁、議定、参与の三職をおく。 」というものでした。
 これにより京都守護職や京都所司代も廃止されました。
 これに対して、5年にわたる長い間京都守護職として苦労してきた会津藩や容保の弟松平定敬が京都所司代として任命されていた桑名藩は激怒し、薩摩・長州と戦うべしという主戦論が強まります。
c0187004_16181827.jpg そこで、慶喜は、それらの意見を押さえるため、二条城から大坂城に入り、戦争を回避しました。
 しかし、江戸の薩摩藩邸焼き討ちに触発された幕府軍は、翌年1月3日に、巻き返しを図るため京都に進軍を開始し、鳥羽・伏見の戦いが始まります。
 鳥羽伏見の戦いでは、会津藩は、伏見街道で幕府軍の先鋒として戦いますが、幕府側は新政府軍に敗北します。

 【江戸に脱出】  
 敗北の報が伝わると、大阪城にいた慶喜は、反攻を宣言しながら、夜間に大阪城を抜け出し、幕府軍艦開陽丸に乗って江戸に脱出してしまいます。
 慶喜に従ったものは、松平容保、松平定敬、老中の板倉勝静、酒井忠惇など数名でした。
 この経緯について、慶喜は、明治になって、「昔夢会筆記」に
 「大坂を出る時に会津藩の松平容保と桑名藩の松平定敬を一緒に連れて帰ったのは、彼らを大坂に残しておけば、戦争が始まるからである」と述べています。
 会津や桑名の主戦派により鳥羽伏見の戦いが始まったことを悔いた慶喜は、神保修理の「速やかに東帰して前後の策をめぐらすべし」という建言にもとづき江戸に帰ることを決意したといいます。
 なお、神保修理は会津藩家老神保内蔵助の子で当時軍事奉行添役で、若手の俊英といわれていました。

 結果的に、会津藩兵を見捨てる形となった容保は、彼らからの非難を受けて、 「公(将軍慶喜)に随行して東下すれば、臣下に義を失い、臣下に対して義をたてんとすれば、公に義を失う」。両立することはできないので、「遂に公に従って密かに発航した」と苦しい心情を吐露しているそうです。
 そして、東帰を進言したといわれる神保修理に切腹を命ずるとともに、容保自身も家督を養子の慶徳に譲って隠居することにしました。
 こうして恭順の意を表しますが、時すでにおそく容保は新政府の追討の対象となり、悲劇の戦争に突入することになるのです。
 
 戊辰戦争における会津の戦いは、またの機会に書くこととして、ひとまず松平容保についての記事は一区切りつけたいと思います。
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by wheatbaku | 2010-07-16 05:40 | 『幕末』 | Trackback
孝明天皇崩御(松平容保⑦ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 孝明天皇は、松平容保を深く信頼して、容保も孝明天皇を大変敬愛していました。
その孝明天皇が、突然、崩御されました。今日の松平容保は、この孝明天皇崩御について書いていきます。

 【公武合体派の天皇は倒幕に反対】 
 孝明天皇は、攘夷主義者でしたが、朝廷と幕府がともに協力しあうべきであるとする公武合体論の立場から、深く幕府を信頼し、倒幕の考えはまったくありませんでした。
c0187004_864451.jpg しかし、朝廷では、第2次長州征伐が幕府軍の敗北に終わったのをきっかけに、尊攘派公家を朝廷に復帰させるべきであるという声が大きくなってきました。
 こうした中で、追放されている公家の復帰・朝政の改革など国事につき建言するため、大原重徳を中心とした公家22名が朝廷に押しかける騒擾事件である廷臣二十二卿列参事件(ていしんにじゅうにきょう れっさんじけん)が発生します。
 しかし、天皇はこれを退け、逆に22名に対して謹慎等の処分を下し、変わらぬ信頼を幕府に寄せました。

【孝明天皇崩御】 
 こうした中で、孝明天皇が、突然、慶応2年(1867)12月25日、在位21年にして崩御されました。
 享年35歳でした。死因は天然痘と診断されました。
c0187004_872386.jpg 慶応2年(1867)12月11日、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、翌12日に発熱し、投薬したが、翌日になっても病状が好転しませんでした。
 12月16日、改めて診察した結果、天皇が痘瘡(天然痘)にかかっている可能性が高くなりました。
 松平容保は、すぐ御所にかけつけお見舞いを申し上げました。
 17日には武家伝奏などへ天皇が痘瘡に罹ったことを正式に発表しました。
 それ以後、24時間体制での治療により、順調に回復しているかに見えました。
 しかし、12月25日になって、天皇が痰がひどくなり、医師たちも御所に昼夜詰めきりでしたが、25日午後11時過ぎに崩御されました。
 天皇の崩御が公にされたのは29日になってからのことでした。
 右の写真は、 「長崎大学附属図書館所蔵」の幕末もしくは明治の京都御所です。

【会津藩の悲運】 
 孝明天皇崩御により、容保は頼るべきところを失い、茫然自失となり、10日ほど床につきました。
 慶応3年 正月27日、孝明天皇の大葬が執り行われ、容保は、病をおして参列しました。
 大葬が終わり、容保は虚脱状態になりました。
 容保は、今度こそ辞職すると、辞意を重ねて表明しました。
 ここで辞意が認められれば、戊辰戦争の会津藩の悲劇はなかったかもしれません。
 それに対して、今回も、引きとめ工作が盛んにおこなわれました。
 だが、容保の辞意は固く、今度こそ帰るという意思でした。
 しかし、朝廷からの参議昇任の沙汰や「幼帝の意思」が伝えられました。そして、最後は、慶喜から「宗家とともに盛衰をともにし、留まってほしい」といわれ京都に留まることとなります。
 容保と会津藩は、またも藩祖保科正之の遺訓に立ち戻ることとなったのでした。
 会津藩の悲運は、この時に決まったことになるかもしれません。
 容保と会津藩士は複雑な思いをもって、京都に留まることになります。

【孝明天皇暗殺説】 
 孝明天皇は、大変壮健でした。その天皇が35歳の若さであえなく崩御してしまったことから、崩御直後からその死因に対する疑問がだされ、暗殺説が消えていません。
 佐伯理一郎やねずまさしによるヒ素による毒殺説が有力です。両氏は岩倉具視首謀・堀河紀子(岩倉具視の妹)実行説を唱えています。
 しかし、これに反対する原口清氏の病死説もかなり有力のようです。
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by wheatbaku | 2010-07-14 06:07 | 『幕末』 | Trackback
禁門の変 (松平容保⑥ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、 「禁門の変」 について書いていきます。
 八月十八日の政変で京都を追放された長州藩では、尊皇攘夷派の多くは長州に帰国しました。

【長州藩、進発論強まる】 
  しかし、元治元年(1864)に入ると、孝明天皇を再び長州藩の手中にとりもどすため、京都に乗り込もうとする進発論が盛んになりました。
 この時、進発論を積極的に説いたのが、来島又兵衛、久坂玄瑞でした。一方桂小五郎は反対し、高杉晋作は慎重派でした。
 来島や久坂は、古い攘夷論のままでしたが、桂や高杉は、小攘夷を捨てて、長州藩の富国強兵をはかり、対外貿易も行おうと考えるようになっていました。

【長州勢、京都に滞陣】  
 そうした、長州藩情勢の中で、6月5日の池田屋事件が起こりました。
c0187004_22322360.jpg 池田屋で新選組に藩士が殺されたという変報が長州にもたらされると、福原越後や益田右衛門介、国司信濃の三家老等の積極派は、慎重派の周布政之助・高杉晋作を振り切って上京しました。
 真木和泉や久坂玄随らも京都に向けて出発しました。
 益田、久坂玄瑞らは山崎天王山に、国司、来島又兵衛らは嵯峨天龍寺(右写真)に、福原越後は伏見長州屋敷に兵を集めて陣営を構えました。
 この動きに対して、孝明天皇は都を守護するため、禁裏守衛総督の一橋慶喜と容保に長州軍の上京を阻止する権限を与えました。
 その時、容保は、病気のため床にふせっていましたが、病を押して参内し、厳戒態勢を取りました。

 【禁門の変】  
 幕府や朝廷からの再三の撤兵勧告もかかわらず、長州藩は兵を増強しつづけ、ついに7月18日に禁門の変が始まりました。
c0187004_822561.jpg 長州藩の攻撃目標は会津藩でした。「国賊肥後守を討ち取る」といって進軍しました。
 この時、会津藩は2陣8隊1500人の戦力でした。1陣4隊が竹田街道に布陣し、残り1陣のうち3隊が御所、1隊が黒谷を守りました。
 各地で戦闘が始まる中、容保は病気を押して参内し孝明天皇の傍に控え、宮中の動揺を抑えるよう努力しました。
 会津藩が守る蛤御門付近で長州藩兵と会津藩兵とが衝突し、一時、会津藩が厳しい状況に陥りましたが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して、長州勢は敗退しました。
 禁裏内で来島又兵衛は戦死し、久坂玄瑞は自刃しました。

 この後、幕府は、長州藩兵が内裏や禁裏に向けて発砲した事等を理由に長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行うこととなります。

 蛤御門は、正式には新在家門といわれ、常に閉ざされていました。
 天明8年(1788)に起きた天明の大火の際、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、「焼けて口開く蛤」にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになったといわれています。
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by wheatbaku | 2010-07-13 05:45 | 『幕末』 | Trackback
八・一八の政変 (松平容保⑤  江戸検定今年のお題「幕末」)
 先週土曜日は、友人たちを日本橋散策に案内しました。その準備の関係で、ブログをちょっとお休みしてしましました。
 今日も松平容保について書いていきます。今日は 「八・一八の政変」 を中心に書いていきます。

【守護職屋敷】 
c0187004_185335.jpg 松平容保は、文久2年(1862)12月24日、京都守護職として入洛したが、屋敷は急ごしらえもできず、金戒光明寺を本陣と定めて、京都市中取締りの指揮を執りました。
 その後、文久3年末に、京都守護職の役宅は,釜座通りの東西1町、南北2町にわたり、約68,000坪の広大な面積を誇り、建物は7,000坪の大きな屋敷が新築されました。
 隣には京都所司代千本屋敷が在り、東には御所があると言う正しく京都守護の要衝でした。
 守護職屋敷は現在の京都府庁周辺にあたり、京都府庁には「京都守護職屋敷跡の碑」が建っています。

 【八・一八の政変】 
 文久3年(1863)8月18日、京都で俗に「八・一八の政変」と呼ばれるクーデターが起こりました。
 当時朝廷は三条実美らの攘夷急進派が主導権を握っていました。これに対して、公武合体派が巻き返しをおこない、尊王攘夷派を京都から一掃し、政局の主導権を奪取したのです。
 孝明天皇は、過激な攘夷主義者でしたが、倒幕などはまったく考えておらず、朝廷と幕府が協調して攘夷は あくまでも幕府が中心となって実施していこうという公武合体派でした。
 8月13日、突然薩摩藩の高崎佐太郎が会津藩士の秋月悌次郎を訪ねてきました。
そして、宮中から尊王攘夷派の公家を排除することをもちかけました。

c0187004_9282051.jpg 容保は公武合体派の中川宮や近衛忠熈父子、二条斉敬なりゆき)の協力を取り付けるとともに、ちょうど交替時期で京都を離れていた会津藩兵1000名を呼び戻して準備しました。

 8月18日深夜1時に中川宮は急遽参内し、次いで近衛忠熈父子、二条斉敬(、京都守護職松平容保、京都所司代稲葉正邦らが密かに参内しました。
 ただちに、御所の門は全て固く閉じられて会津藩・薩摩藩らの兵によって厳重に警護されました。そして召命のないものはたとえ関白でも入門させないとの厳命がくだりました。

 そして、その中、御前会議が開かれ、攘夷親征のための行幸延期、尊皇攘夷急進派の公家の参内停止と謹慎、長州藩の堺町門警衛解任などが議決されました。
 異変に気づいた三条実美らが駆けつけますが中に入ることはできず、長州兵もいそぎ堺町門へ行きますが会津藩・薩摩藩の兵と対峙したままで、入門することはできませんでした。
 その長州藩に対して、対峙の場から退去すべきとの勅命が下りました。
攘夷急進派はやむを得ずいったん東山の大仏妙法院へ退去して軍行いました。その結果いったん長州へ退いて再起を期すことにします。
 そして19日、三条実美、三条西季知、沢宣嘉、東久世通禧(みちとみ)、壬生基修(もとなが)、四条隆詞(たかうた)、錦小路頼徳(よりのり)七人の公家が長州へと下っていきました。これが名高い七卿都落ちです。

【御宸翰と御製】 
 孝明天皇は、容保の主導により、8月18日の政変(クーデター)が成功し尊王攘夷派が退けられたことに大変満足でした。
c0187004_8183612.jpg そこで、クーデターの中心となった容保に対して、10月9日、孝明天皇より御宸翰(非公式の手紙)と御製(天皇が作った歌)を賜わりました。
 これは「8月18日の政変(クーデター)」が成功したことを喜んだ孝明天皇が、その働きをたたえて下した褒状です。
【御宸翰】
 堂上以下、暴論を疎ね、不正の処置増長につき、痛心に耐え難く、内命を下せしところ、すみやかに領掌し憂患掃攘、朕の存念貫徹の段、まったくその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱これを遣わすもの也。
 文久三年十月九日
【御製】
 たやすからざる世に、武士(もののふ)の忠誠のこころをよろこびてよめる
  和(やわ)らくもたけき心も相生の まつの落葉のあらす栄え舞
  武士とこころあはしていはほをも つらぬきてまし世々の思ひて

 孝明天皇の容保への信任は非常に高かったのです。そして、容保は、上の国立国会図書館蔵の写真のように美男子であり、彼が参内すると宮中の女官たちはそわそわするほど、宮中で人気がたかったそうです。
 御宸翰と御製を賜った容保は感激し生涯忠誠を尽くすことを決意したそうです。
 そして、これらを写真の左下の錦の筒に納めて、終生、この御宸翰と御製を肌身離さず持っていたそうです。
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by wheatbaku | 2010-07-12 06:19 | 『幕末』 | Trackback
京都守護職 (松平容保④ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、松平容保が、京都守護職に就任するまでの経緯について書きます。
 容保は、大変苦悩したうえで、京都守護職に就任しています。そのことについて書いていきます。

【京都守護職は新設ポスト】 
 まず、京都守護職ですが、文久2年の幕政改革の一環として設置された新設のポストです。
 当時、京都は、尊攘派の活動が活発であり、テロも頻繁に起きました。
 しかし、京都所司代や町奉行所ではこれを押さえきれず、幕府の威厳は失墜していました。
 そこで、京都市中の治安維持及び御所・二条城の警護などを担う役割として設置したものです。

【容保、就任を断る】 
c0187004_8384197.jpg 当初は、越前藩主松平春嶽も有力候補でしたが、春嶽が政治総裁職についたため、 会津藩の松平容保に白羽の矢があたりました。
 家門であり、門閥に不足はなく、兵力も十分に保持していたためです。
 そのため、松平春嶽(右写真は、「国立国会図書館蔵」)は、松平容保を推薦し説得しました。
 要請があったとき、再三、容保は固辞しています。そして重臣も断ることに賛成でした。
 それは、容保自身が、健康でなかったことや藩の財政が厳しかったことがあります。
 容保は浅才であり大任を果たす自身がないということや万一、失策のあった場合には、徳川宗家に累が及ぶのと同じだとも言って断っています。

【説得の切り札は会津藩家訓】 
 しかし、松平春嶽はあきらめません。 書を出したり、重臣を呼んだりして説得を続けます。
 そして最後のとどめが「会津藩家訓」でした。
 次の手紙は、保科正之が定めた「会津藩家訓」を十分踏まえた説得の言葉です。
 「台徳院(2代将軍秀忠のこと)の御血脈の公方様、土津様(保科正之のこと)御末裔の貴兄に候えば、御情において御同然と存じ奉り候。
 徳川氏の信不信の相立ち、公武御合体の有無は貴兄の断、不断にあり。
 小生泣いて申し上げ候も、方今台徳院様、土津公あらせられ候わば、必ず御受け相成り申すべくと存じ奉り候。」

【家臣ともども悲壮な覚悟で受諾】 
 会津藩藩祖や家訓まで持ち出され、こうまで言われて、容保は観念しました。c0187004_8343678.jpg 
 就任の方向との知らせを聞いた国家老の西郷頼母(たのも)、田中土佐は、駕籠を飛ばして江戸に駆けつけました。 西郷と田中は、色をなして諌めました。
 「いまこの至難の任にあたるのは、まるで薪を背負って火を救わんとするもので、労多くして、その功は少ない」
 しかし、容保は「私が固辞していることを一身の安全を図っているという人がいるそうだが、会津藩には藩祖の家訓がある。いやしく安きむさぼるといわれては決心する他はない」といいました。
 重臣たちもこの容保の決意にうたれ、「総力を挙げて大任にあたり、君臣もろともに京師の地を死場所としよう」と、悲壮な覚悟を固めたといいいます。

【容保父子の歌】 
 この時の容保の心境をよく表したのが、実父義建に贈った次の歌です。
  行くも憂し 止まるもつらし 如何にせん 君と父と 思うこころ
 これに対して、実父の義建は、次の歌を返しました。
  父の名は よし立てずとも 君がため 勲(いさを)あらわせ 九重のうち

 容保は、ついに 京都守護職を受諾しました。
 そして、容保は会津藩兵を連れて、京都に向かったのでした。
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by wheatbaku | 2010-07-08 08:21 | 『幕末』 | Trackback
会津藩家訓(かきん) (松平容保③ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、保科正之が定めた「会津藩家訓(かきん)15ヶ条」  のお話です。

 「会津藩家訓(かきん)15ヶ条」 は、名君と言われた保科正之が、自分の子孫や家老たちに戒めとして定めたものです。
 正之が推敲に推敲を重ね、さらに山崎闇斎にも意見を聞いて定めたと言われています。
 その各条文は最下段に書きましたので後でお読みください。

【徳川家への忠義が最も大切】 
 その中で、特に目をひくものが第一条です。第一条は次のように書かれています。
 一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
   若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。

 意味は、次のようなものです。
 「徳川将軍家については、一心に忠義に励むべきで、他の諸藩と同じ程度の忠義で満足していてはならない。もし徳川将軍家に対して逆意を抱くような会津藩主があらわれたならば、そんな者は我が子孫ではないから、家臣は決して従ってはならない」
 まさに、徳川将軍家に対する忠義一途の思いです。

【会津藩の規範】 
 この家訓が会津藩の藩是として、江戸時代を通じて、会津藩と会津藩士の行動を決める重要な規範となりました。
 会津藩では、家老に登用されたものは、その末尾に記名血判したという説もあります。
 そればかりでなく、年頭には、家訓が奉読され、藩主も家来ともども平伏して拝聴するということが行われていたそうです。 
 家訓は、会津藩にとって大変重要なもので、「その文僅々15条と雖も我藩の憲法にして磐石よりも重かりしなり」(会津藩教育考)というものでした。

【容保も徹底的に教え込まれる】  c0187004_842347.jpg
 弘化3年(1846)に会津藩主松平容敬(かたたか)の養子となった松平容保は、この家訓を養父容敬から徹底的に教え込まれました。
 この家訓が、幕末に容保が何回も固辞し京都守護職を最終的には受諾する大きな要因となりました。
 その話は明日します。

 それでは、最後に、「会津藩家訓(かきん)15ヶ条」全文を書きます。
本来は、漢文だそうですが、書き下し文で書きます。
一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
  若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。
一、武備はおこたるべからず。士を選ぶを本とすべし 上下の分を乱るべからず
一、兄をうやまい、弟を愛すべし
一、婦人女子の言 一切聞くべからず
一、主をおもんじ、法を畏るべし
一、家中は風儀をはげむべし
一、賄(まかない)をおこない 媚(こび)を もとむべからず
一、面々 依怙贔屓(えこひいいき)すべからず
一、士をえらぶには便辟便侫(こびへつらって人の機嫌をとるもの
  口先がうまくて誠意がない)の者をとるべからず
一、賞罰は 家老のほか これに参加すべからず
  もし位を出ずる者あらば これを厳格にすべし。
一、近侍の もの をして 人の善悪を 告げしむ べからず。
一、政事は利害を持って道理をまぐるべからず。
  評議は私意をはさみ人言を拒ぐべらず。
  思うところを蔵せずもってこれを争うそうべし 
  はなはだ相争うといえども我意を介すべからず
一、法を犯すものは ゆるす べからず
一、社倉は民のためにこれをおく永利のためのものなり 
  歳餓えればすなわち発出してこれを救うべしこれを他用すべからず
一、若しその志をうしない 
  遊楽をこのみ 馳奢をいたし 土民をしてその所を失わしめば
  すなわち何の面目あって封印を戴き土地を領せんや必ず上表蟄居すべし

  右15件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり
  寛文8年戊申4月11日

 25年1月24日に「会津藩家訓」の第4条について補足説明しました。
 こちらご覧ください。 
 ⇒  「媛姫(はるひめ)毒殺事件(「八重の桜」余談)」
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by wheatbaku | 2010-07-07 05:43 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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