カテゴリ:『幕末』( 213 )
大政奉還論 (松平春嶽⑩ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 松平春嶽は、政治総裁職の頃から大政奉還の考えをもっていました。
 今日は、その大政奉還論について書いていきます。

c0187004_17265565.jpg【大政奉還論は文久の改革のころから】 
 春嶽が政治総裁職に任命された時、幕臣として春嶽をささえたたのは大久保忠寛(一翁)でした。
 その大久保忠寛が大政奉還を最初に主張したのだと言われています。
 攘夷実行督促の勅使を迎えて大久保忠寛は、天皇への攘夷の約束は果たせないと正直に申し上げて許しがなければ大政奉還し駿河・遠江・三河三国の大名に戻ろうという案でした。
 春嶽はこの案を理解しました。
 この文久2年の段階での大政奉還論はできない攘夷約束を繰り返すのを止めようとというところに力点がありました。
 これに対して、一橋慶喜はその発想を受け付けませんでした。
 慶喜は当時将軍後見職にありました。後見職としては自分の責任で将軍位を失わせることになる大政奉還論に同意するわけにいかないという事情があったものと言われています。
 春嶽と慶喜は対立し、将軍後見職慶喜が攘夷奉承で押し切りました。大政奉還論を唱えた大久保忠寛は御側御用取次の地位を追われ、隠居に追い込まれました。
☆右の大久保忠寛の写真は国立図書館蔵です。

【長州再征停戦の際にも建言】 
 政治総裁職を辞職した春嶽は福井へ帰ります。
 福井に戻った春嶽は京都の動向に注目しますが機会はなかなかありませんでした。
 そうした中、文久3年に参預会議が設置され、春嶽、徳川慶喜、山内豊信、宇和島藩前藩主伊達宗城、松平容保、島津久光が任命され上京します。
 しかし、慶喜が中川宮の前で、春嶽・久光・宗城を名指して「天下の愚物・奸物」と罵倒したことにより参預会議が崩壊します。
 その後2年間、春嶽は福井で過ごし、慶応2年6月に長州再征の際上京します。
 そして、長州再征を諦められた慶喜が春嶽に協力を求めました。
 その際に、春嶽は、「天下之大政一切朝廷へ返上相成候事」と書いて政権を返上するよう慶喜に建言します。
 慶喜はこの案を了承し春嶽の協力を得ます。そして春嶽の助言により勝海舟を起用し長州との停戦交渉にあたらせます。
 海舟は慶喜が政治を一新するという見通しを長州に伝え停戦交渉をまとめあげました。
 しかし、慶喜は約束を守りませんでした。
 そのため、慶喜に利用された考えた春嶽は福井へ引き上げました。そして勝も江戸に帰りました。

c0187004_17242797.jpg【慶応3年の大政奉還】 
 大政奉還に消極的であった慶喜が慶応3年10月に大政奉還をします。
 大政奉還については、良く知られているように、坂本龍馬の船中八策に影響をうけた後藤象二郎の建策を山内容堂(左の写真は国立図書館蔵)が採用しました。
 そして土佐藩は10月3日に老中板倉勝静に建白書を提出しました。
 この建白書を受けた徳川慶喜が政権返上を決断し、10月14日に大政奉還しました。

 慶応2年8月には春嶽の提案を受け入れるふりをして実際は拒否した慶喜が、翌年10月の土佐藩の提案はそのまま受け入れました。
 越前藩と土佐藩を差別したわけではなく幕府を取り巻く情勢が大きく変化したのでした。

 大政奉還というとまず山内容堂の手柄と思いますが、それ以前に春嶽や大久保忠寛・勝海舟ら大政奉還論を唱えた人たちがいたことに注目したいものです。
 しかし、春嶽は、大政奉還の建白書が提出され、老中板倉勝静から意見を求められた時に、警戒感を表していて、その後の政局を積極的にリードしきれませんでした。
 そのため、春嶽の大政奉還論は知名度が低いのかもしれません。

 
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by wheatbaku | 2010-08-15 22:56 | 『幕末』 | Trackback
文久の改革 (松平春嶽⑨ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 政治総裁職の松平春嶽と将軍後見職の一橋慶喜が行った政治は、「文久の改革」  と呼ばれています。
 というより、文久の改革とは春嶽と慶喜の行った政治だということを今回知りました。
 今日は、その「文久の改革」について書いていきます。

 政治総裁職となった春嶽を中心として幕府改革の政策が実行されていきます。
 春嶽と慶喜の連立政権は、譜代大名出身の幕閣の成しえない空前の改革を次々に断行しました。

c0187004_15295469.jpg1、参勤交代の緩和 
 それまで隔年交代制であった大名の参勤交代を三年に一度に改め、江戸在留期間も100日としました。
 また人質として江戸に置かれていた大名の妻子についても帰国を許可することとなりました。
 これは、幕府にとって、重要な大名統制策を変えることになり、大きな政策変更でした。 
☆この緩和策は第一次長州征伐後の慶応元年(1865)正月に元に戻されました。
2、京都守護職の設置 
 文久2年閏8月に京都守護職の制度が設けられ、会津藩の松平容保が任命されました。
 京都守護職は、京都所司代の上に位置し、無法地帯となっている京都の治安と警備を強化するためです。
 春嶽は松平容保を適任者として、再三の要請により就任を決意させたのです。
 要請を受けた松平容保が何回も固辞した後悲壮な決意をもって就任したことはすでに書いていますので、こちらの「京都守護職」をご覧ください。
3、軍制の改革 
 陸軍については、軍制改革を行い、歩兵、騎兵、砲兵の三兵を置くことにしました。
 陸軍の役職も整えられ、歩兵・砲兵・騎兵の三兵の奉行がおかれ、それを統括する役職として陸軍奉行が設置されました。
 されにその上位に陸軍総裁が設置され、阿波藩主の蜂須賀斉裕(はちすかなりひろ)が任命されました。
 陸軍奉行は下野黒羽藩大関増裕が任命され、歩兵奉行は小栗忠順が初代奉行となりました。
4、朝廷政策の変更 
 その他、朝廷に関することでは、関白・大臣などの任命前に幕府の同意を求めることをやめました。さらに武家伝奏を任用する際に、誓詞を幕府に提出するのもやめました。

 このような改革を行った松平春嶽政権について「従来松平春嶽・一橋慶喜を中心とする新政権について、朝廷や薩摩藩によって成立を強要されたもので、幕府内の隠然たる反発が強くさしたる成果もあげられなかったとされてきた。しかし、幕政を転換させるうえでこの政権が果たした役割を過小評価することはできない」と大妻女子短期大学の高木不二教授は「横井小楠と松平春嶽」のなかで書いています。

 文久の改革を主導していた春嶽は、文久3年(1863)2月には、将軍上洛に先立ち京都に入り公武合体運動を推進しました。
 しかし朝廷からは攘夷期日の決定を迫られるなどして、三月9日に総裁職の辞表を提出し、無断で帰国しました。
 その後、3月25日になって政治総裁職を罷免され、逼塞に処せられました。
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by wheatbaku | 2010-08-13 15:37 | 『幕末』 | Trackback
政治総裁職就任 (松平春嶽⑧ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は春嶽の話に戻ります。 
 約5年間謹慎していた松平春嶽が活躍する場がまたできました。
 政治総裁職に就任したのでした。

 【久光、春嶽の大老就任要請】 
 安政の大獄を行った井伊大老は、安政7年3月3日に桜田門外の変で暗殺されます。
c0187004_1619786.jpg その後にできた久世広周と安藤信正による公武合体政策が進められていきます。しかし、その中心であった安藤信正が坂下門外の変で失脚します。
 そうした頃、薩摩の島津久光が、1000人の藩兵と率いて上京します。そして、改革趣意書9箇条を朝廷に提出し、松平春嶽の政治総裁就任、一橋慶喜の将軍後見職を含む朝廷による一連の幕政改革を建議したのです。
 久光は、基本的には公武合体的思想の持ち主で、兄斉彬の遺志を承継して、雄藩連合で幕府を動かすのが妥当と考え、朝廷を利用してその方向に幕府政治を動かそうと考えて動き出したのです。したがって、幕府そのものを倒そうなどとは考えていませんでした。
右の島津久光の写真は国立国会図書館所蔵です。

【御威勢大老職よりも超越せり】 
 朝廷では大原重徳(しげとみ)を勅使に任命し、久光にその警護を命じました。そのため、島津久光も勅使とともに東海道を下りました。
 勅使大原と島津久光は6月7日に江戸に到着し、10日に将軍家茂に面会し、①将軍の上洛、②一橋慶喜を将軍後継職に、松平春嶽を大老に、それぞれ就任させることなどを求めました。 幕府側には反発はあったものの受け入れざるをえず、、7月6日に一橋慶喜に改めて一橋家を相続させた上で将軍家後見職としました。 そして、翌7月9日に春嶽は政治総裁職に就任します。
 春嶽が大老にならず、新たに政治総裁という職を作ったのは、大老という職は井伊家など家臣の家柄の者が就任する役職であり、春嶽は将軍家の一門であったため大老職に就くのは不都合がああたため、政治総裁職というポストを新たに創り、それに就任することにしました。
 春嶽のあつかいは格別でした。
 「御登城往来は是までの通り、御玄関にて殿中御徒目付御先払い、御城内および見付け見付け惣下座往来留にて御威勢大老職よりも超越せり」と中根雪江が書いています。
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by wheatbaku | 2010-08-12 16:15 | 『幕末』 | Trackback
西郷が尊敬した左内(松平春嶽⑦ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 松平春嶽の話をするとどうしても橋本左内の話が必要になるので、2回ほど左内について書き、昨日は安政の大獄で死刑に処せられたことを書きました。

 橋本左内について調べていて、西郷隆盛が大変尊敬していたということが書かれていましたので、今日はそのことを紹介します。

【西郷隆盛が尊敬した橋本左内】】 
 明治10年9月24日、西郷隆盛は郷里鹿児島の城山で、その一生を終わりました。
c0187004_17183612.jpg その直後、官軍が捜索すると西郷がいつも携帯していた軍用鞄の中に、一通の手紙が入っていました。
それは、左内と西郷が「将軍継嗣問題」に奔走していた時期の安政4年12月14日付に左内から西郷に宛てられたものでした。
☆吉川弘文館「西郷隆盛」によると文書は「一橋公行状記」とのこと (22.8.18追記)
 西郷は、20年前の左内の手紙を亡くなるその瞬間まで肌身離さず持っていたのです。
 西郷にとって橋本左内という人物は、一生忘れることの出来ない同志であり、永遠の友人でもあったのです。
 また、西郷は、奄美大島に島流しになっている時に、大久保利通が諸藩で信頼できる人物を問い合わせた返事として安政6年正月2日付けの手紙の中で、水戸の武田耕雲斎・安島帯刀、越前の橋本左内・中根雪江、長州の益田右衛門介、肥後の長岡監物などをあげているそうです。
 ほとんどが家老級の人物です。その中の一人として橋本左内をあげているのです。
 そして、諸藩はそれぞれ勝手に行動せず、お互いに必ず十分打ち合わせて動くことが大事であり、事前に越前に連絡をとりその指図を受けるのが重要だとも書いているそうです。
 この越前とは橋本左内を指しているとのことです。
 これらの話は、講談社学術文庫「啓発録」に載っている金沢工業大学平泉洸教授の講演によるものです。

【「景岳橋本君碑」に見る左内の偉大さ】  
 小塚原の回向院の橋本左内の墓の前に「景岳橋本君碑」があります。
 「景岳」とは、橋本左内の号です。
  碑は非常に大きなもので、石が割れているのか金属で補強されています。
c0187004_21171573.jpg  碑文は非常に長文ですし一部が欠けたりしています。
 そこで、中公文庫「啓発録」の金沢工業大学平泉洸教授の講演の中で要約されていますので、それに基づいて書いてみます。
 それによると、当時の偉人傑物が左内を高く評価していることがわかります。 
 ①西郷隆盛は、「若い頃江戸で四方の賢人豪傑と交わったが、常に曰く、吾れ先輩においては藤田東湖に服し、同輩においては橋本景岳を推す。この両人は、我輩がまねようとしても、まねられるものではない。」と言って感嘆していた。
 ②川路聖謨は、「昨夜橋本に初めてあったが、その議論は実に深刻切実であって、自分は半身は斬りとられたような感じがした。一生の間、多くの人にあったが、これほど卓越した人物は未だ見たことがない」と舌を巻いて語った。
 ③武田耕雲斎は、「一見して百年の知己にあったように喜び、東湖は死んでしまったが、第二の東湖が生きていた」と言った。
 
 以上の撰文は重野安繹博士が書いています。
 重野安繹は西郷隆盛と同じ時期に奄美大島で島流しになっています。そうしたことから左内の話を西郷から直接聞いたことがあります。ですから重野博士の撰文は西郷から直接聞いたことを元に出来たものであると今泉洸教授は語っています。

 なお、藤田東湖に、春嶽の側近の鈴木主税(側向頭取)が「福井には人物がいなにので困ります」と言ったところ、東湖は「何をおっしゃる橋本左内がいるではありませんか」と言われ、驚いた鈴木主税が中根雪江と相談して左内を御書院番に推挙したそうです。
 藤田東湖からも、そして西郷隆盛からも若くして「人物」と認められて橋本左内は相当の人物だったのだろうと思います。
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by wheatbaku | 2010-08-10 15:00 | 『幕末』 | Trackback
安政大獄における橋本左内  (松平春嶽⑦  江戸検定今年のお題「幕末」)
 井伊直弼は、安政5年7月5日の松平春嶽や御三家に対する処罰を皮切りに、一橋派や水戸家へに対する弾圧をはじめました。いわゆる安政の大獄です。
 この中で、橋本左内も逮捕され最後は斬首されました。
 今日は、この経緯について書いていきたいと思います。
 
 一橋慶喜擁立運動を熱心に行いましたが、幕府に対して反逆の意思のまったくなかった橋本左内に対しても、幕府の追及が行われました。
 井伊大老は、一橋派が井伊大老に対抗する有力な勢力であり、その中心に松平春嶽がいたため、そのブレーンたる橋本左内を見逃すわけにはいかなかったのです。

【逮捕尋問は意外・心外】 
 安政5年10月22日に北町奉行の捕吏が、常盤橋の越前藩上屋敷の左内邸に来て書類を押収しました。
c0187004_21245948.jpg そして、翌日左内は江戸町奉行石谷穆清(いしがや あつきよ)の尋問を受け屋敷内の滝勘蔵方にお預け謹慎となりました。

 この日の突然の逮捕は左内にとってはもちろんのこと越前藩にとっても意外で心外なことでした。
 左内の逮捕の理由や糾問の内容についても納得がいきませんでした。
 しかし、それが京都に周旋したことにかかわったものだろうということは推測されたようです。そのため、そのことであれば左内は懸念することはなく春嶽の免罪に好都合だと考えていたようです。
 従って、左内の逮捕について、左内自身も周囲も憂慮することなく、横井小楠は5月下旬になっても「是は遠からず無事に相成り申すべく候」と書いているように大事になることはないと楽観していました。
 左内は10月22日、11月8日、11月10日と町奉行所で取調べをうけ、翌6年正月8日、2月13日、3月4日、7月3日、9月10日と評定所に呼び出されて尋問をうけました。
 この間は左内は屋敷内の滝勘蔵にお預けのまま謹慎していました。 
 そして、左内はほとんど事実そのままを役人に申し立てて、役人を感心させたほどでした。
 左内は数回の尋問にも自分の行動が公明正大であることを主張しました。

【死刑は予想もしなかった】 
c0187004_20562590.jpg 左内自身も藩関係者も問題をさして重要視していなかったと考えられ、まして死刑に処されようとは思っていませんでした。
 しかし、安政6年10月2日に最後の尋問を受けた後、突然小伝馬町牢屋敷に入獄が命じられました。
 橋本左内も10月3日揚屋入りを命じられて大変驚いていると手紙にかいています。
  
  ☆右写真は小伝馬町牢屋敷跡に建つ「大安楽寺」です。

 左内は南紀派とははげしく対立しましたが、幕藩秩序を破壊する考えはなく、この点では倒幕を考えていた梅田雲浜たちや老中間部詮勝暗殺を計画していた吉田松陰とは全く異なる立場でした。
 左内の真意が反幕府の立場でなかったものの、左内が軽輩の身でありながら将軍継嗣推挙という重大事にかかわり、本来は主君をいさめるべきところ、それをせずに、主君の命ずるままに朝廷・公卿を説得しようとしたことは許すべきことではないと幕府は考えたのです。 

 また左内は自分の行動はすべて主命から出たもので、私心からでたものではないことを明言していました。
 水戸藩士たちの多くが藩主をかばって何事も自分の意思でおこなったものと罪をひきうけようとした態度に対して、左内の態度は罪を藩主にかぶせようとしていると思われ評定所で悪い印象を持たれたようです。

【10月7日に処刑される】 
 10月2日に最後の尋問ご行われた後、小伝馬町朗屋敷への入牢が命じられ、そして5日後の10月7日には断罪の申し渡しが行われました。 c0187004_1012826.jpg
 7日朝揚屋から引き出される左内に対して、牢名主は
 「貴様は若年と申し秀才惜しき事」と涙をぬぐい「貴殿の一命に代わり候事出来候はば代わり度もの也」と言ったそうです。 
 牢屋敷から評定所に向かう途中、常盤橋にある上屋敷を通過する際に、左内は駕籠の中で平伏して別れを告げたといいます。
 そして、評定所での申し渡しの後、小伝馬町牢屋敷で同じ日の午前11時に斬首されました。
 享年26歳という若さでした。
  右写真は小塚原回向院にある橋本左内の墓です。りっぱな套堂(さやどう)がつくられていて、その中にお墓があります。

【同獄の吉田松陰と交流】 
 左内が入獄した時に、吉田松陰も小伝馬町牢屋敷に入獄していました。松陰は西奥の揚屋に入牢しており、左内は東奥の揚屋に入牢したため、面談は叶いませんでした。
 左内は、松陰が入牢していることを知り、松陰に漢詩を2つ贈っています。
 松陰は、その遺書の「留魂録」の中で、「左内と半面なきを嘆ず」と会って話が出来なかったことを嘆いています。
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by wheatbaku | 2010-08-09 22:07 | 『幕末』 | Trackback
春嶽の隠居 (松平春嶽 ⑥ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、不時登城後の一橋派に下された処罰についてです。

 井伊直弼が、安政5年(1858)6月25日に紀州藩の慶福の将軍継嗣決定を発表した後、6月24日に不時登城をした松平春嶽たち一橋派の大名に対する厳しい処罰をが7月5日に突然課されました。

【処罰の内容】  
 春嶽に下された処罰は、「隠居・急度慎(きっとつつしみ)」という厳しい処断でした。
c0187004_20543481.jpg 水戸の徳川斉昭には、江戸駒込屋敷に謹慎でした。
 尾張藩主徳川慶恕には隠居が命じられました。
 そして、水戸藩主慶篤と一橋慶喜には当分の間登城禁止が申し渡たされました。
 右写真は、越前藩常盤橋上屋敷があった場所で、現在はNTTコミュニケーションズとなっています。

【親戚大名を呼び出し通知】 
 越前藩では、7月5日に、親戚の熊本藩主徳川斉護(なりもり)、福山藩主阿部正教(まさのり)、支藩の糸魚川藩主松平直廉(なおきよ)、越前松平家の一族の出雲広瀬藩主松平直諒(なおよし)を登城させた上で、7月6日早朝に細川斉護・阿部正教と大目付山口直信が越前半上屋敷に来邸し、まず中根雪江が呼び出され内話があった後、家老狛山城が申し渡し書を受け取りました。
 大名への処罰は、事前に親戚大名を呼び出して知らせているんですね。

【隠居後の藩主は糸魚川藩主直廉(なおきよ)】 
 隠居とは、江戸時代に武家と公家に課せられる刑罰で、官職を退き家督の座を親族に譲ることで、大名の場合には、藩主の座を去ることであり、切腹に次ぐ重い刑罰でした。
 春嶽は、この時まだ31歳でまだこれからという時に藩主の座を追われることになりました。
 慶永隠居後の藩主には、越前松平家の支藩越後糸魚川藩主(一万石)の松平直廉が、幕命によって17代藩主に就任し、茂昭と改名しました。
 この頃は、春嶽にはまだ実子がいませんでした。

【謹んで受ける春嶽】 
 これに対して、春嶽は、終始一貫して幕府につくした以上は、今回の処罰を厭うところではないと明言し、越前藩は家門であるという重みを説いて、家臣の動揺を抑えました。
 また、側近の中根雪江や橋本左内は、責任をとって自決を考えましたが、春嶽の「愕然の余り 卒爾(そつじ= 自決を意味する)の義 これあるに於いては我を見捨て候也」との言葉によりようやく自決を思いとどまりました。

 春嶽はこれ以後表向きの活動はできなくなり、霊巌島の中屋敷で文久2年(1862)4月まで4年にわたり、一切の政治活動を封殺された謹慎幽閉の生活を送ることとなりました。
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by wheatbaku | 2010-08-08 21:27 | 『幕末』 | Trackback
不時登城 (松平春嶽⑤ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は違勅調印に対する 松平春嶽たちの不時登城 のお話です。

 安政5年6月19日、直弼は勅許を経ぬまま日米修好通商条約の調印を強行し、そのことを宿次奉書で朝廷に報告しました。
 そして、21日には老中堀田正睦・松平忠固を罷免、代わって間部詮勝、太田資始、松平乗全を新しく老中に任命しました。この幕閣改造は、違勅調印の責任を堀田正睦に、宿次奉書による朝廷への報告の責任を松平忠固に負わせたものです。しかしそれだけでなく、内実は一橋派に理解を示す正睦と忠固を追放し、幕権擁護派によって老中の体制を固めたものでした。

【慶喜、直弼を面詰】 
 この無断調印に怒った一橋慶喜は、6月23日、登城し直弼と初めて面談し、違勅調印と宿次奉書について直弼を責め立てました。
 これに対して直弼は柔軟な態度で「恐れ入りました」とひたすら平身低頭を繰り返して、慶喜の追及を老獪にはずしました。
 直弼が将軍継嗣について、紀伊の慶福に内定したといったのに対して、慶喜はフフンとすげない返答をして会談は終わりました。

【春嶽は、井伊邸で直弼を面詰】 
 24日朝に春嶽は井伊邸を訪問し直弼と面談しました。春嶽が遺勅と宿次奉書について詰問すると、直弼はいずれ自分が上京して朝廷に対して弁疎する旨を答えました。
c0187004_1023370.jpg また、将軍継嗣問題については平行線でした。直弼は将軍継嗣のことはすでに朝廷にはお伺い済みで、明日25日に発表の予定であるといいました。
 春嶽は、継嗣の発表を何としてでも延期させようとして、京都に名指ししてお伺いしてないのであれば、慶福の継嗣の発表は意外に思うし無断調印が問題になっているこの時期に継嗣の発表を同時に行えば朝廷の意向に背くことになる。条約の件が決着をしたところで、継嗣の発表を行うべきであると詰め寄りました。
 これに対して直弼は既に明日発表すると決定しているのでいまさら変更できないと反論します。
 そして、もう登城の時刻なので今日はこれまでと断って座をたとうとするので、春嶽は直弼の袴の裾をつかんで、登城の時刻といっても今話したことは明日に迫ったことであるので、自分も登城して、お城で討論したいと言ったところ直弼はそれはご自由にどうぞ、今は議論できないといって振り払って部屋を出ていってしましました。
 右上の写真は、憲政記念館脇の庭にある「この地の由来」碑です。

【斉昭・慶篤・慶恕は、不時登城で直弼を面詰】 
 同じ日、水戸の徳川斉昭・慶篤親子は、水戸邸に斉昭を訪ねてきた尾張藩主徳川慶恕と共に押しかけ登城しました。なお、春嶽は井伊邸での面談のあと登城しました。
c0187004_9271754.jpg   本来の登城日でもないのに登城することは当時は異例のことでした。これを当時の言葉で「不時登城」といいました。
斉昭たちは5時間も待たされ昼食も提供されませんでした。
 この間、御三家は大廊下下の部屋で、「今日は直弼に腹を切らさなくては退出しない」と大声でののしっていました。
 間部詮勝が自分たち老中が斉昭らに面会するので井伊直弼はお会いなさらないようにといったが、直弼は大老の重責にあるものが責任を回避するわけにはいかないととして自ら進んで老中たちと面接しました。
 直弼は周到に準備して無断調印せざるをえない事情を説明し斉昭たちの批判を受け入れませんでした。
 これに対して斉昭は春嶽を同席するよう要求しますが、直弼は越前家の格式をたてに同席を拒否します。
 上の春嶽の写真は国立国会図書館蔵です。

 こうして松平春嶽、徳川斉昭、徳川慶恕、徳川慶篤らの不時登城は、直弼等の老獪な応対の前に何の成果も得られませんでした。
 そして、翌6月25日、直弼は一橋派の機先を制して、紀伊慶福の将軍継嗣決定を発表しました。
 6年間にわたる春嶽の将軍継嗣への慶喜擁立運動は水泡に帰してしまいました。

 その後、まもなく、定例日以外の日に突如登城し、大老や老中を面詰して江戸城内を騒がせた不始末を問われる結果を招くことになります。
 そのお話は次回です。
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by wheatbaku | 2010-08-06 06:28 | 『幕末』 | Trackback(1)
橋本左内登場 (松平春嶽④ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、松平春嶽を助けて、一橋慶喜擁立に尽力した後、若くして安政の大獄で斬首された 橋本左内 について書いていきます。

【左内は最適の補佐役】 
 春嶽は、継嗣問題を好転させるために橋本左内を越前から急いで出府させました。
 橋本左内は、先祖代々25石5人扶持の藩医の長男として生まれ、名は綱紀(つなのり)、号は景岳、黎園(れいえん)と言います。左内は通称です。
c0187004_15595178.jpg 18歳の時に、大阪に遊学し緒方洪庵に蘭学・西洋医学を学びました。
 安政元年江戸に赴いて英語・ドイツ語のほか物理・化学の知識も吸収しています。
 この時に藤田東湖や西郷隆盛らとも交際し内外情勢への識見を深めています。
 安政2年には藩医を免じられて御書院番に登用され、藩校明道館学監に任じられて洋学習学所を設置するなどの成果を挙げていました。
 その橋本左内が、春嶽を補佐するもっとも適任者とされたのでした。

 そこで、同年江戸に呼ばれて藩主松平慶永の侍読兼内用掛となり、一橋慶喜を擁する将軍継嗣運動に携わりました。
 右の橋本左内の写真は国立国会図書館蔵です。

【左内は春嶽のブレーン】 
 橋本左内の重要なことは、一橋慶喜擁立についての理論構築を担ったことでした。
 橋本左内は、名目上の将軍のもと、一部の譜代大名出身の老中が独占する古い政治を大きく変えて、これまで圏外に置かれていた親藩・外様の名君たちを中央の政治に参加させて、英知を結集して外圧の危機に対応するとともに、開国後の日本の針路を定めようと考えました。
 そして、その改革を行う前提として、新体制の頂点に万機を親裁できる将軍を位置づけることが不可欠であり、そこに英明の慶喜を将軍継嗣として座ることにより、徳川の天下を再強化することを通しながら現状打開の道をさぐろうと考えました。
 また、積極的に開国してロシアと攻守同盟を結び、外国貿易を盛んにして富国強兵を実現しようとも考えていました。この時代に、ロシアとの同盟を考えるなど非常に先進的な考えを持っていました

【左内は京都でも活躍】 
 この頃、条約勅許問題も重大な局面を迎えていました。
 アメリカ領事ハリスとの通商交渉に対応していた堀田正睦は、将軍に謁見したハリスとの会談により通商条約締結を決意し、諸大名に諮問を行うとともに、通商条約の勅許によって諸大名の反対を抑えようとしました。 正睦は上洛し条約勅許を得ようとしますが、朝廷の態度は固く、勅許は得られず、事態は暗礁に乗り上げてしまいました。
 そうした時期に、春嶽は橋本左内を上京させました。その任務は、堀田正睦を側面から援助するとともに朝廷側に慶喜継嗣の急務を説いて、慶喜を望む旨の天皇の内勅を幕府に下させるようにすることにありました。

 そして、京都における活動の結果、慶喜を名指しした内勅が降下されるような状況までこぎつけました。
 しかし、長野主膳の運動により、最終的には、慶喜の名前もなく、さらに「英傑・人望・年長」の三要件も削除された勅書になってしまいました。
 ここに、春嶽・左内の目的は完敗という結果に終わってしまいます。

 さらに、井伊直弼の大老就任により、一橋派が破れ、慶喜擁立に関わった人たちが安政の大獄で処罰されるなかで、橋本左内も安政5年に捕らえられ、翌年10月7日小伝馬町牢屋敷で斬首されることになります。
 その話は後日改めて書いてみたいと思います。
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by wheatbaku | 2010-08-05 06:05 | 『幕末』 | Trackback
将軍継嗣問題 (松平春嶽③ 江戸検定今年のお題「幕末」)
  今日は、松平春嶽の3回目ですが、将軍継嗣問題で、春嶽自らが積極的に一橋慶喜擁立を実行したことについて書いていきます。

 松平春嶽は、将軍継嗣問題において、一橋派の中心人物というより総帥として、一橋慶喜擁立運動を主導して推進し、幕府内や有志大名の間、さらには朝廷に対して強力な働きかけを行いました。 

【将軍継嗣問題の解決は自分の使命と考えた】 
 13代将軍家定は、虚弱で凡庸で癇癖が強く、政務遂行能力がなく、子供もいなかったことから、家定が嘉永6年に将軍になるや、早くも世継ぎ選定の議が幕府内外に起こりました。
  越前家はご家門として、事あれば徳川将軍家の支持・擁護に全力を尽くす立場にありました。 
 御三家・御三卿の当主は、将軍継嗣の候補の当事者であるため、擁立工作に加わることは好ましくありません。
 そのため、御三家・御三卿を除いて、将軍家にもっとも近い家門第一の名門越前松平家の当主すなわち春嶽が、将軍継嗣問題を解決すべき使命があると春嶽は考えていました。
 
【御三家・御三卿の状況】 
 将軍家定の継嗣は、当然御三家・御三卿から求めなければなりません。
 安政4年の御三家・御三卿の藩主・当主を見てみると次のような状況でした。
①尾張家は尾張藩の支藩高須家生まれの慶恕(よしくみ)が入って藩主となりましたが、将軍家とは血脈が遠く、年齢も34歳で将軍家定と同じ年齢でした。 
②紀伊藩主の慶福は、将軍家定と従兄弟で血縁は一番近いのですが、年齢は8歳でした。
③水戸藩主慶篤は人格・才幹についてとかくの批判がありました。
④田安家の当主慶頼にも政治家として問題がありました。
⑤清水家には当主がいません。
⑥一橋家当主の慶喜は水戸家出身ですが、英明の誉れが高く人望がありました。

【一橋慶喜擁立に動く】 
 こうして比較すると、一橋慶喜が将軍継嗣として最もふさわしいということになります。
c0187004_9243223.jpg  また、春嶽の生家田安家と一橋家との間には数代にわたっての緊密な関係がありました。
 そこで、春嶽は、嘉永6年に、老中阿部正弘に対して働きかけを始めています。
 また、薩摩藩主島津斉彬とも相談しており、島津斉彬は春嶽と同じ立場でした。
 安政3年(1856)11月に篤姫が第13代将軍・徳川家定の正室となったのは将軍継嗣問題で慶喜擁立を家定に直接働きかけるねらいがあったということは有名な話しです。
 そして、春嶽は安政4年初秋には、老中久世広周・堀田正睦・松平忠固に対して所信をのべて協力を求め、安政4年10月には、蜂須賀斉祐と連署して慶喜擁立の建議書を提出しています。
 右の徳川慶喜の写真は国立国会図書館蔵です。

  一橋慶喜擁立の総帥は春嶽です。そして阿部正弘、島津斉彬、山内容堂、伊達宗城らの雄藩連合派の大名が支持しました。また、幕府の役人では、川路聖謨( としあきら)、土岐頼旨、永井尚志(なおむね)、鵜殿長鋭(ながとし)、岩瀬忠震(ただなり)、堀利煕(としひろ)、水野忠篤らの開明的な俊秀が賛同しました。
 
 このように、春嶽は、一橋慶喜擁立のために誰からか働きかけられたわけではなく、自ら一橋派の中心となって動いています。 
 しかしながら、同志の阿部正弘や島津斉彬がなくなり、守旧的な幕府内部の雰囲気や大奥の水戸嫌いの空気が強い中で、なかなか思うとおりに進みませんでした。
  そうした中で、春嶽を支えたのが、橋本左内です。
  明日は、橋本左内について書いていきます。
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by wheatbaku | 2010-08-04 06:21 | 『幕末』 | Trackback
越前松平家 (松平春嶽 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、春嶽が継いだ、越前松平家について書いていきます。

【藩祖は結城秀康】 
 越前松平家の藩祖は、結城秀康です。
 秀康は家康の次男で、2代将軍となった秀忠の兄ですが、はじめ豊臣秀吉の養子となって徳川家を離れ、のちに結城氏を継いでいたこともあって、徳川家の家督および将軍職を継ぐことはできませんでした。
 慶長6年(1601)に関ヶ原の戦いの後、秀康は越前一国68万石を与えられ、柴田勝家の築いた北ノ庄城を修復し居城としました。
 福井城本丸跡・南西側
福井城本丸跡・南西側 posted by (C)ふるさと福井ビデオレター
 
【多難な歴史を持つ越前藩】 
 しかし、秀康の長男の2代藩主忠直は、不行跡の理由で、元和9年(1623)に豊後に配流されました。
 そして、翌年の寛永元年(1624)、忠直の嫡男松平光長は越後高田藩26万石に移されます。この系統が、津山松平家になります。
 入れ替わりに越後高田藩で25万9千石を与えられていた秀康の次男の松平忠昌が50万石で越前藩領を継承します。
 しかし、貞享3年(1686)第6代藩主綱昌は発狂を理由に領地没収され、前藩主昌親が領地が25万石に半減された上で越前藩領の継承が認められました。
 以後、10代藩主宗矩まで忠昌の子孫が続きましたが、11代重昌が一橋家から迎えられようやく32万石となります。それ以降14代まで、一橋家からの養子の系統がつづきました。
 そして、春嶽の養父となった15代藩主斉善(なりさわ)は、将軍家斉の二十二男で、将軍家から越前松平家に養子として入っていたのです。
 そして、斉善にも嗣子がいなかったため、春嶽が養子となったのです。

 【越前松平家は八家ある】 
 越前松平家は分家が多く、越前松平家系の大名は秀康の子供6人のうち、早世した4男吉松丸を除く5人の子供が、それぞれ津山松平家、福井松平家、松江松平家、前橋松平家、明石松平家を起こしています。
 さらに福井藩から糸魚川藩が別れ、松江藩からは広瀬藩・母里藩が分かれ、合計で八家となります。
 この8家を総称して越前松平家といわれます。

 越前松平家を個別に書くと次のようになります。
 ①津山松平家(津山藩10万石)  …  秀康の長男松平忠直の子孫
 ②福井松平家(福井藩32万石)  …  秀康の次男松平忠昌の子孫
 ③松江松平家(松江藩18.6万石) …  秀康の三男松平直政の子孫
 ④前橋松平家(前橋藩17万石)  …  秀康の五男松平直基の子孫
 ⑤明石松平家(明石藩6万石)   …  秀康の六男松平直良の子孫
 ⑥糸井川松平家(糸魚川藩1万石)  … 福井藩の支藩。秀康の曾孫・松平直堅が起こした藩。
 ⑦広瀬松平家(出雲広瀬藩3万石)  … 松江藩の支藩。松江藩初代藩主・直政の2男・近栄が立藩
 ⑧母里(もり)松平家(出雲母里藩1万石) … 松江藩の支藩。松江藩の初代藩主・松平直政の3男・隆政が立藩
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by wheatbaku | 2010-08-03 06:14 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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