カテゴリ:『幕末』( 206 )
藩祖保科正之 (松平容保② 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、松平容保の2回目ですが、会津藩の藩祖の保科正之について書いていきます。

 会津藩は御家門の名門にあたります。
 藩祖は、保科正之です。

【秀忠の隠し子】 
 保科正之は、慶長16年(1611)、第2代将軍・徳川秀忠の四男として生まれました。
 幼名は幸松(幸松丸とも)といいました。生母は秀忠の側室のお静です。
c0187004_2355920.jpg 恐妻家であったといわれる秀忠は、お静の妊娠を知り、お江(崇源院)に知られないように、見性院(武田信玄の次女、穴山信君正室)にお静を預け、そこで生まれた幸松は見性院に養育されました。
 元和3年(1617)、見性院の縁で、幸松は信濃国高遠藩主保科正光の養子となり、名も正之と名のりました。
 父秀忠と初めて面会したのは、秀忠の御台所お江が死んだ後の寛永6年(1629)、正之が18歳の時でした。
 寛永8年(1631)には、正光の跡を継ぎ高遠藩3万石の藩主となり、肥後守となります。
 この頃、3代将軍家光が正之の存在を知ったそうです。家光は、律儀な異母弟正之をかいわいがりました。
  寛永13年(1636)には出羽国山形藩20万石となり、さらに、寛永20年(1643)、会津藩23万石の大名に引き立てられました。
 御三家の水戸藩に並ぶ石高を与えられるほど、家光の正之に対する信頼が厚かったということでしょう。

【託孤(たっこ)の遺命】 
 慶安4年(1651)の家光の臨終の歳に、正之は家光からただ一人呼ばれ、自分亡き後、家綱のことは正之に託すと言われます。
 これが「託孤(たっこ)の遺命」と呼ばれているものです。
 以後、正之は全身全霊「託孤(たっこ)の遺命」を守るよう幼少な将軍家綱を補佐しました。
 正之が指導力を発揮した事件、政策は数多くあります。
 大きな事件としては、慶安事件、明暦の大火があり、それぞれ的確に対処し、将軍は幼少でしたが、幕府はゆるぐようなことはありませんでした。
 現在、江戸城には天守台だけがあります。明暦の大火で江戸城の天守閣は炎上しましたが、その再建を取りやめを進言したのは、保科正之でした。
 これは、天守閣は遠くを見る程度の役割しかない。このようなものに財力を費やす時期ではないので取りやめるべきだという考えに基づくものでした。
 このほか、正之の主導で実施した政策には玉川上水の開削もあります。
 さらに、家綱政権の三大美事といわれる末期養子の緩和、殉死の禁止、大名証人の廃止も保科正之が関わっています。

【松平姓を固辞】 
 保科正之は、最後まで、「保科」姓を名乗り続けました。
 家光は、「松平」姓を名乗り、葵の家紋を使用することも許したそうですが、しかし、正之は、それを固辞、「保科」姓を名乗り続けました。
 それは、正之が小さい頃に育ててくれた保科正光に対して恩義を感じていたためだそうです。
 ここにも、正之の律儀な人柄があわられていると思います。
 会津藩主が、松平姓を名乗るようになったのは、3代藩主正容( まさかた)からです。

【「会津藩家訓(あいずはんかきん」制定】 
 寛文8年(1668)に、正之は「会津藩家訓(かきん)」15ヶ条を定めました。
 自ら推敲に推敲を重ね、山崎闇斎にも添削してもらい作成したものです。
 この「家訓」が幕末の会津藩に大きな影響を与えれることになります。
 その家訓の詳しい話は明日。
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by wheatbaku | 2010-07-06 12:46 | 『幕末』 | Trackback
高須松平家 (松平容保① 江戸検定今年のお題「幕末」)
 江戸検定一級合格者との四谷・新宿散策では、「津の守弁財天」も案内しました。
 ここは、幕末の京都守護職を務めた松平容保が生まれた場所でした。
 松平容保は、美濃高須藩主義建(よしたつ)の六男として天保6年(1835)に、四谷にあった高須藩上屋敷で生まれたのです。

 そこで、今日からしばらく松平容保(かたもり)について書いていきます。

 【高須藩】 
 c0187004_23165959.jpg 津の守弁財天は、四谷三丁目駅4番出口から5分のところにあります。
ここに江戸時代、美濃高須藩松平家の上屋敷がありました。
 高須藩は、尾張藩第2代藩主・徳川光友の次男松平義行が起こした藩です。
 高須藩は、宗家に嗣子が絶えたときこれを相続し、尾張藩を輔弼する役割を果たす支藩として機能しました。
 尾張藩7代藩主宗春は、享保の改革に対抗して奢侈な政策を実施したため、8代将軍吉宗により隠居謹慎させられます。
 その後の尾張藩の8代藩主徳川宗勝は、高須藩第3代藩主松平義淳が宗家を継いで尾張藩主となったものです。

【高須四兄弟】 
 松平 容保(かたもり)は、美濃国高須藩主・松平義建(よしたつ)の六男でした。
c0187004_9274138.jpg 義建(よしたつ)は子沢山で8人の男子がいました。そのうち6人が成人しそれぞれ藩主となっています。
 長男は夭逝し、次男の慶勝は尾張藩主、三男の武成は石見浜田藩主、五男茂徳(もちなが)は慶勝が安政の大獄で隠居謹慎を受けた後の尾張藩主となり、さらにその後一橋家を継いで茂栄(もとはる)を名乗ります。 四男が夭逝し、六男が容保です。七男定敬は桑名藩主、八男の義勇(しげたけ)が高須藩を継ぎます。
 このように兄弟が徳川家の親藩や家門の藩主となっていますが、特に、慶勝、茂徳(もちなが)、容保、定敬は、高須四兄弟と呼ばれています。
 右写真は、4人がそろった写真です。右側たっているのが慶勝、前列右側で座っているのが茂徳(もちなが)、後列で立っているのが容保、左側で座っているのが定敬です。

【高須藩は水戸系】 
  容保の祖父になる9代藩主松平義和(よしなり)は、水戸藩主徳川治保の次男ですので、幕末には、尾張藩や高須藩は水戸系の子孫でした。
 松平容保は、公か3年(1846)に、11歳で、会津8代藩主・容敬(かたたか)の養子となり、嘉永5年(1852)に会津藩を継ぎました。 養父となった容敬高須松平家出身で実の叔父(義和の四男)に当たります。

 明日は、容保が継いだ会津藩の藩祖・保科正之について書きます。

 ところで、津の守弁財天の「津の守」は「摂津守」を略した名称なので、「つのもり」でなく「つのかみ」と読みます。
 代々、摂津守を名乗った高須藩の上屋敷にあったため、「津の守弁財天」の名前がついています。近くにある「津之守坂」という地名も高須藩の摂津守に由来するものです。
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by wheatbaku | 2010-07-05 06:05 | 『幕末』 | Trackback
山岡鉄舟 (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
 幕末の剣豪の追加で、今日は勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される「山岡鉄舟」について書いていきます。
 
【飛騨で育つ】 
c0187004_8111254.jpg 山岡 鉄舟は、天保7年(1836)江戸本所で旗本小野朝右衛門の四男として生まれまれました。
 父が飛騨郡代になったため、幼ない時期を飛騨高山で過ごしました。
 そして、弘法大師流入木道(じゅぼくどう)の書を学ぶとともに、父が招いた井上清虎より剣術を学びました。
 17歳の時に、父が死んだため江戸へ帰りました。この後、生活に窮して「ボロ鉄」などと呼ばれました。
 安政2年(1855)に講武所に入り、千葉周作らに剣術を学びました。
 この頃には、腕が上達し、「鬼鉄」と呼ばれるようになったそうです。

【山岡静山の妹と結婚し山岡家を継ぐ】 
 その頃、当時日本一の槍の名人といわれていた山岡静山に槍術を学びました。
c0187004_2149692.jpg しかし、山岡静山が急死したため、静山の実弟でもあった高橋謙三郎(後の高橋泥舟)らに望まれて山岡家の養子となり、静山の妹の英子(ふさこ)と結婚しました。
 この時、高橋泥舟は、既に、山岡家から母方の高橋家の養子となっていたため、山岡家を継ぐことができなかったので、鉄舟に養子となるようお願いしたようです。
  右の写真は、小石川播磨坂の桜並木の向かい側の山岡の旧居跡です。高橋泥舟の屋敷と隣り合っていました。
  安政4年(1857年)、清河八郎らと尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成しています。
 文久3年(1863年)には、清河の建議により結成された浪士組の取締役となり浪士234人を連れて、将軍徳川家茂の先供として中山道を通り上洛しますが、間もなく清河八郎の動きを警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰ります。そして、清河八郎が暗殺された後は謹慎処分を受けます。
 この頃、中西派一刀流の浅利又七郎義明と試合をするがとても勝てず、浅利に弟子入りし、明治になって免許皆伝を受けます。

【西郷と交渉する】 
 慶応4年(1868年)、江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、勝海舟の指示のもと、益満休之助とともに3月9日官軍の駐留する駿府に辿り着き、西郷隆盛と面会し、江戸開城の5つの条件の提示を受けます。この中の一つ慶喜を備前藩に預けるについては断固反論し、西郷に認めさせることに成功しました。

 【明治天皇の侍従となる】 
 明治維新後は、徳川家達に従い、駿府に居住します。
 明治4年(1871)、廃藩置県に伴い新政府に出仕し、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任しました。
 そして、明治5年には、西郷のたっての依頼により、10年間の約束で侍従として宮中に出仕し明治天皇に仕えました。そして10年たった明治15年には、西郷との約束どおり致仕しました。
 明治21年胃がんのため、皇居に向かって、白装束で座禅を組んだまま絶命しました。享年53歳でした。

 【あんぱん大好き】 
 身長188センチ、体重105キロと大柄な体格でした。
 アンパンは、明治初年に木村屋総本店の木村安兵衛が考案したものですが、山岡鉄舟はアンパンが大好きで、アンパンを明治天皇に献上されるよう取り計らっています。
 また、山岡は書は頼まれるとほとんど断ることはなかったそうです。そのため、相当の書が残っています。
 木村屋総本店の看板の字も山岡の字です。
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by wheatbaku | 2010-06-24 05:26 | 『幕末』 | Trackback
榊原健吉(幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
 幕末の剣豪の最後は、「最後の剣客」と呼ばれた「榊原鍵吉」 を取り上げます。

【兜割りの妙技】 
 榊原鍵吉は、明治20年11月11日に伏見宮邸で行われた明治天皇の行幸のもとの剣技披露の席にて、兜割りを行ったことで知られています。時に57歳でした。c0187004_1653888.jpg 
 兜割りに挑戦したのは3人でした。
 一人は、鏡心明智流桃井春蔵門下の名人であり、警視庁の撃剣師範を務めていた逸見(へんみ)宗助でした。失敗でした。
 もう一人は、逸見と同じ桃井道場門下であり、その兄弟子にあたる上田馬之助でした。
 彼は桃井道場随一の俊才として名高く、竹刀の突きで道場の四分板を破ったという逸話の持ち主でした。
 しかし、やはり兜は割れませんでした。
 そして、最後に榊原鍵吉が挑戦しました。鍵吉は同田貫で見事に三寸五分切り込みました。
 これをご覧になった明治天皇は、大変賞賛したそうです。

【男谷精一郎に薫陶を受ける】 
  榊原鍵吉は、文政13年(1830)、御家人榊原益太郎友直の長男として生まれました。
 そして、13歳の時、麻布狸穴(まみあな)にあった男谷精一郎信友の門下となりました。
 剣聖と呼ばれた男谷精一郎は、鍵吉に対してもやさしい人でした。
 鍵吉の父が転居し、道場に通うのに不便になっても、鍵吉は男谷の道場に通いつづけました。
 それを見かねて、精一郎は、通うのに便利な近い道場に変わってもよいと言いました。それでも、鍵吉は精一郎の道場に通いつづけました。
 鍵吉は、進歩がめざましく非常に上達しましたが、貧しい彼は、免許状の申請をしませんでした。
 当時は、免許皆伝のお礼として、師匠にお礼を贈り、さらに披露の宴を開いて師匠や先輩をもてなすのが、慣習でした。健吉はその費用が工面できないので固辞していたのです。
 それを見かねた精一郎は、自ら費用その他の面倒を一切みて、固辞する鍵吉に対して、鍵吉の免許皆伝を許したのでした。
 鍵吉が、安政3年(1857)27歳の時に講武所教授方に就任しました。これも、精一郎の推薦があったからです。 
 
【高橋泥舟を破る】 
 徳川家茂が第14代将軍となると、鍵吉は講武所の教授方から師範役に昇格し、将軍に近侍するようになりました。
 c0187004_22464075.jpg そして、安政7年(1860)、鍵吉は家茂の御前試合で高橋泥舟と試合をし、泥舟を破っています。
 高橋泥舟は、勝海舟、山岡鉄舟とならんで幕末三舟の一人で、日本第一の槍の名人といわれました。
 高橋泥舟は、山岡鉄舟の義理の兄でもあります。
 ところが、家茂は慶応2年に、第二次長州征伐の途中、大阪城内で病死してしまい、鍵吉は官職を辞しました。 鍵吉は、家茂の後を継いで将軍となった徳川慶喜には仕える気が起きなかったのだそうです。。
 上野戦争では、彰義隊から再三入隊の誘いがありましたが参加しませんでした。
 しかし、この戦いの中で輪王寺宮公現法親王を、戦火の中から救い出しました。

【維新後の榊原】 
 維新後は、徳川家達に従って駿府に赴きました。
 しかし、廃藩置県により、駿府七十万石の存続も危なくなると、迷惑をかけぬよう、早々に辞職しました。
c0187004_2248714.jpg 明治5年に、廃刀令が出ると、剣の代わりに杖を腰に差し、明治6年には、窮乏する道場の資金稼ぎとして、撃剣興行を始め、維新後衰退した剣術の再興と普及に取り組みました。
 これは大変好評で、これを真似る見世物が氾濫しましたが、剣術を見世物にすることに耐えられなかった鍵吉は興行は止めてしまいます。

 このように剣術で生きていくのが難しくなる時代に、明治20年に明治天皇行幸の席で、鍵吉の晴れ姿を見せることができたのでした。
 榊原鍵吉は、明治27年9月11日に亡くなりました。65歳でした。
 鍵吉は死ぬまで髷を解かなかったそうです。
 鍵吉の墓は、四谷西応寺にあります。

 明治になって、坂本龍馬暗殺の犯人であると証言した今井信郎( のぶお)は榊原鍵吉の弟子です。
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by wheatbaku | 2010-06-22 05:34 | 『幕末』 | Trackback
男谷精一郎 (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
 幕末の剣豪で最も有名な三大道場については、先週書きましたが、幕末の剣豪をあと二人紹介したいと思います。
 その中で、今日は「剣聖」と呼ばれた 「男谷精一郎信友」 について書いていきます。

【勝海舟の義理の従兄弟】  
c0187004_18224838.jpg 男谷信精一郎友は、寛政10年(1798)、男谷信連の子として生まれました。
 20歳の時に同族の男谷彦四郎の婿養子となります。
 彦四郎の父は男谷平蔵で、平蔵の長男が彦四郎で、三男が小吉すなわち勝海舟の父です。
 従って、男谷精一郎と勝海舟は義理の従兄弟ということになります。
 ただし、勝海舟が生まれたときに、男谷精一郎は25歳ですので、だいぶ年の差がある従兄弟ということになります。
 勝海舟も剣術の指導を精一郎から受けています。
 右の勝海舟の写真は国立国会図書館蔵

【他流試合を拒まない】  
 文化2年(1805)、8歳のときに本所亀沢町、直心影流剣術12代の団野源之進(真帆斎)に入門し、さらに、平山行蔵に兵法を師事、他に宝蔵院流槍術も熟達した。
c0187004_17154211.jpg 文政6年(1824)に麻布狸穴に道場を開き、31歳の時に直心影流13代を継承しました。
 文政12年(1830)、男谷彦四郎の養子となりました。
他の流派の多くは、他流試合を禁じていましたが、男谷精一郎は積極的に他流試合を行いました。
 精一郎は、申し込まれた試合は一度も拒まず、江戸府内に立ち合わなかった者はいないといわれるほどでした。
 そして、試合では、どんな相手でも三本のうち一本をとらせ、相手に花を持たせました。
 その性格はきわめて温厚であり、門弟や女中達にも平等に、穏やかに接する人物でもあったそうです。
 また、実力もすごく、作家の直木三十五は、史上最強の剣豪に新陰流の祖である上泉伊勢守をあげ、第二位に男谷精一郎が挙げています。
  こうした人間性と実力の高さと合わせて「幕末の剣聖」と呼ばれました。
  作家の中里介山や心母澤寛も、幕末の剣客の第一人者は男谷精一郎であると言っているそうです。
  右写真は男谷家があったと言われている「両国公園」です。

【講武所で活躍】  
 安政2年(1855)、講武所が開設されました。講武所の開設は、水野忠邦の時代から、精一郎が度々建議をしてきたものでした。 精一郎は講武所頭取並となり、剣術師範役を兼務しました。
 文久2年(1862)には、下総守に叙任、講武所奉行となって禄高3000石を与えられ、文久3年(1863)の将軍徳川家茂の上洛に際して旗奉行を兼ねました。
そして、その翌年元治元年(1864)67歳でなくなりました。
 
【有名な弟子たち】  
 精一郎の門弟には、勝海舟の剣の師匠となる島田虎之助、兜割りで有名な榊原鍵吉、彰義隊の中心人物となる天野八郎などがいました、
 
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by wheatbaku | 2010-06-21 05:39 | 『幕末』 | Trackback
桃井春蔵 (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
今日は、江戸三大道場の最後に、鏡新明智流「士学館」の桃井春蔵について書きます。

【春蔵は4人いる】 
 三大道場の中で、最も早く開設されたのは、桃井春蔵の「士学館」でした。 
 桃井春蔵というのは、鏡新明智流の初代から4代まで4人います。
 鏡新明智流は初代桃井春蔵直由(なおよし)が創始した流派です。初め鏡心明智流と書いたそうです。
 直由は大和郡山藩柳沢家の臣でしたが、浪人となり諸国をまわり、戸田流居合術、一刀流、柳生流、堀内流の4流を修め、戸田流の秘太刀を基本に、槍術山本無辺流の長所を加えて一流を編み出したといいます。
 安永2年(1773)江戸へ出て、日本橋南茅場町に道場「士学館」を開きました。
c0187004_1775520.jpg  そして、芝神明社への掲額事件で評判をとりました。
 2代目春蔵は、初代の門人で養子となった春蔵直一(なおかず)で、直一が寛政年間に「士学館」を築地蜊(あさり)河岸に移しました。
 3代春蔵直雄(なおかつ)は2代目直一の実子です。3代目の時代には、道場もますます盛況を示しました。
 
【4代目春蔵が有名】 
 そして、4代目春蔵が「位は桃井。技は千葉。力は斎藤」と評された直正です。
 4代目春蔵直正は、駿河沼津藩士・田中十左衛門の次男として生まれました。
 天保9年(1838)、江戸に出て3代目桃井春蔵直雄に入門し、鏡新明智流を学びました。
 直正は剣術の才能を師匠に見込まれ、天保12年(1841)、17歳で養子となりました。
 嘉永元年(1848)には免許皆伝の腕を持つようになり、25歳で4代目桃井春蔵を襲名しました。
 文久元年(1861)に、は講武所の教授方に登用されています。

【新撰組も恐れをなす】 
 この頃、春蔵は、新撰組も恐れをなしたと言われています。
 慶応元年ごろ、春蔵は弟子を連れて京都を歩いていると、新撰組の隊員に出くわし、「道を譲れ。譲らぬと斬るぞ」と難癖をつけられ、相手は抜刀しました。
 このとき、春蔵は「わしは剣で腕を鳴らした桃井春蔵だ。お望みなら相手になるぞ」と告げました。
 すると、新撰組隊士は、慌てて謝罪し、退散したと言われていうことです。

【晩年は大坂で過ごす】 
 c0187004_8452691.jpg 慶応3年(1867)には遊撃隊頭取並に任じられ、春蔵は将軍慶喜と共に大坂入りしています。
 しかし、薩長軍との戦闘に反対し辞職しました。
 その後、大坂に残り、大阪府羽曳野市にある誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)の宮司となりました。
 誉田八幡宮(右写真)は応神天皇陵のすぐ近くにあり、日本最古の八幡宮といわれているそうです。
 明治18年、コレラにより死去しました。61歳でした。

【門弟は土佐藩関係者が多い】 
 玄武館は水戸藩との関係が深く、練兵館は長州藩と関係が深いのですが、士学館は土佐藩との関係が深いようです。c0187004_2015343.jpg 
 安政4年頃には、龍馬伝に出てくる武市半平太が塾頭を勤めています。
 また、後に「人斬り以蔵」と呼ばれる土佐藩の岡田以蔵も士学館で修行しました。
 その他の門弟としては、四天王の一人浜松藩の上田馬之助もいました.
 さらに、期間は短いのですが佐倉藩出身で明治になって上田馬之介とともに警視庁の撃剣世話掛となった逸見宗助も士学館に入門した一人です。

 写真は、武市半平太や坂本龍馬が暮らした土佐藩中屋敷があった跡に現在たっている中央区役所です。
 ここからは蜊(あさり)河岸までは、5分程度の近距離にあります。
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by wheatbaku | 2010-06-18 08:23 | 『幕末』 | Trackback
斎藤弥九郎② (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、斉藤弥九郎の2回目です。

 斉藤弥九郎は、剣術だけでなく、政治などにも深くかかわります。
 これは、岡田十松の弟子に、伊豆の江川英龍、水戸藩の藤田東湖、田原藩の渡辺崋山等の名士がいて、かれらと交際していたことが大きな影響を及ぼしていると思います。

【江川英龍と強い関係】 
 その中でも、特に江川太郎左衛門英龍と深い交際関係を築いています。
c0187004_15142119.jpg 江川英龍は18歳の時に「撃剣館」に入門し、その時江川より3歳年上の21歳であった弥九郎から指導を受けます。そして、2年後には免許皆伝を受けています。
 弥九郎が俎板橋に「練兵館」を開く際に、江川はそれに対して資金援助をしています。
 弥九郎は、江川が天保6年(1835年)伊豆国韮山の代官となると、江戸詰書役として仕えました。
 天保9年(1838)には、江川は老中水野忠邦の命令により江戸湾の測量の実施に鳥居耀蔵とともに任命されました。
 この時に、弥九郎は渡辺崋山と相談して、測量の専門家の推薦を高野長英の弟子の内田孫太郎を江川に推薦しています。また、この測量に弥九郎自身も江川の手代として参加したといわれています。
 なお、この測量の際の江川と鳥居の対立が、後に「蛮社の獄」のきっかけになっています。

【お台場築造にも関与】 
 嘉永5年にぺりーが来航したことを受けて、江川は、江戸湾防備のために品川台場の築造を建議しました。
c0187004_1514025.jpg  そして、建議した江川が台場の築造を命じられます。この時も、弥九郎はその実地測量や現場監督を行ったとされます。
 品川台場は、わずか8か月で完成します。しかし、当初は11基の予定であった台場は、まず第1~3、次いで第5~6、さらに陸続きの御殿山下台場と、合計6基だけが竣工し、残りは築造が中止されました。
 安政2年(1855年)に江川英龍が死去しても、弥九郎は後継の江川英敏からも引き続き助力を要請されました。
 同じ年の10月には安政の大地震で藤田東湖が水戸藩邸内の自邸で圧死しました。
 『斎藤弥九郎伝』によると、この時弥九郎は東湖の遺骸を自分の長持に納めて水戸へ送り届けたとあるそうです。

【明治新政府にも出仕】 
 安政3年(1856)長男の新太郎が2代目弥九郎となり、練兵館を継ぎました。弥九郎自らは斎藤篤信斎と名乗り隠居しました。
 新太郎も腕がたちましたが、その弟の歓之助も突きを得意として鬼歓とよばれるほど強く、大村藩の指南役として迎えられています。
 弥九郎は、文久3年(1863)には、長州藩の依頼を受け、門人の中から十数名を選抜し、勇士組と称して長州へ派遣したりしています。
 明治になってからは、明治政府に出仕し会計官権判事となって大坂に赴任し、明治3年、造幣寮が火事になった折りに猛火の中に飛び込み、大火傷を負いながらも重要書類を運び出しました。
 そして、その時の火傷がもとで、明治4年10月に死去しました。74歳でした。
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by wheatbaku | 2010-06-17 05:46 | 『幕末』 | Trackback
斉藤弥九郎① (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
 千葉周作に続いて神道無念流「練兵館」の「斎藤 弥九郎」について書いてみます。
 
 斎藤弥九郎は、寛政10年(1798年)に越中国射水郡仏生寺村(現在の氷見市)で農民の子供として生まれました。
 小さい頃、高岡で油屋の丁稚や薬屋の小僧となりましたが、思うようにならなかったので、一度帰郷した後、銀一分をもって江戸に出ました。

【岡田十松に弟子入り】 
 江戸で、旗本能勢祐之丞(のせすけのじょう)の家僕として働きながら、19歳の頃、神道無念流の岡田十松吉利に入門しました。
 岡田十松は神田猿楽町で「撃剣館」という道場を開いていました。
 岡田十松の弟子には、伊豆の代官の江川英龍、水戸藩の藤田東湖、田原藩の渡辺崋山、新撰組局長の芹沢鴨ら有名人が大勢いました。
 弥九郎は剣の腕をあげ、28歳の時、師範代となり、十松の没後には、その後継の岡田利貞を後見しました。

【練兵館を設立】 
c0187004_15145166.jpg そして、文政9年(1826)には独立し、江戸九段坂下の俎橋(まないたばし)近くに「練兵館」を開きました。この時、江川英龍が資金援助をしています。
 この練兵館は火災にあったため、その後天保9年(1838)三番町に移転しました。
  ☆現在、靖国神社の南門脇に、千代田区設置の史跡説明板があります。
 しばらくすると、2代目十松岡田利貞が、「撃剣会」を3代目十松岡田利章に引継ぎ、自分は練兵館にやってきて師範代として斉藤を助けることになりました。

【練兵館には長州人が多い】 
 弥九郎の門人も大勢いますが、特に長州藩士の門人が多くいます。
c0187004_1517989.jpg これは、弥九郎の長男の新太郎が、嘉永2年(1849)と嘉永5年(1852)に長州藩を訪れていることが大きく影響しています。
 吉田松陰も、江戸遊学中の嘉永4年10月に斉藤弥九郎と新太郎を訪問しているそうです。
 また 嘉永5年の訪問のあと、長州藩は練兵館に、5名の藩士を藩費で修行のため送っています。
 その時、桂小五郎(木戸孝允、写真は「国立国会図書館蔵」)は私費で江戸へ留学することとなり、練兵館に入門しています。
 桂小五郎は、翌年には、早くも塾頭となり、以後数年間にわたり練兵館の塾頭を務めました。

 その他、長州藩の門下生として、高杉晋作・品川弥二郎・井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)らがいます。
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by wheatbaku | 2010-06-16 06:12 | 『幕末』 | Trackback
千葉周作② (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、千葉周作の2回目です。
 千葉周作は、北辰一刀流を創始した後、千葉周作は、武者修業の旅にでます。
  関東一円から甲斐・駿河、三河などを巡って他流試合を行い腕を磨きました。

【馬庭念流との騒動】 
 廻国修行中、上州で伊香保神社に奉納額を掲げることを企画しましたが、地元の馬庭念流がこれを阻止しようとする騒動が発生し、最終的に掲額を断念しました。
 この話は曲亭馬琴が、「兎園小説」の中で、「伊香保の算額」と題して書いて有名となりました。 この騒動で、掲額はできませんでしたが、周作自身は名を挙げました。

【玄武館を創始】 
c0187004_2142367.jpg 周作は江戸に帰り、文政5年(1822)秋、日本橋品川町に道場「玄武館」を開きました。
 その後に神田於玉ヶ池に移転し、多数の門人を育てました。
 これが有名な「お玉が池の千葉道場」です。
 玄武館の隣は、儒学者東条一堂の揺池塾(ようちじゅく)であり、玄武館の塾生が儒学を学び、揺池塾の塾生が剣術を学ぶことができ、剣術と儒学が同時に学べると評判でした。
 東条一堂が亡くなった後、玄武館は、揺池塾の敷地もあわせたので、玄武館道場は一町四方の敷地面積になったそうです。
 写真は、玄武館道場跡を示す「右文尚武(ゆうぶんしょうぶ)」の石碑です。神田の千桜小学校跡にあります。

【北辰一刀流の特徴】 
 北辰一刀流は精神論に偏らず合理的な剣術であったため人気を得ました。
 それまでの中西派一刀流は、習得までの段階が8段階あり費用も時間も多くかかりました。
 しかし、北辰一刀流は、初目録、中目録免許、大目録皆伝の3段階と簡素化しました。
 また、北辰一刀流の基本的な構えとして「鶺鴒の尾」があります。
 下段の構えで、刀の先をセキレイの尾のように動かす特徴的な動きがあります。
 これは、剣先が凝り固まらないようにするため、行動に移すのを早くするため、動作の始まりを相手に気づかれないようにするためだそうです。

【大勢の門弟】 
 玄武館には、多くの門弟が集まり、門弟の数は、浅草観音に奉納した額には3千600人の名前があったそうです。
 門弟は全部では6千人を超えるとも言われています。
 千葉周作の有名な門下生は、浪士組幹部の清河八郎、山岡鉄舟、新撰組幹部の山南敬助などが挙げられます。
 弟の定吉は、当初は兄の周作を手伝っていましたが、京橋桶町に道場を持って桶町千葉と称されました。
 定吉の弟子で最も有名なのが坂本龍馬です。
 
c0187004_2144508.jpg【水戸徳川家に仕える】 
 周作は、天保3年(1835)に水戸藩前藩主の徳川斉昭の招きを受けて、剣術師範とされ、馬廻役として100石の扶持を受けました。
 千葉周作には4人の男子があり、長男奇蘇太郎(きそたろう)、次男栄次郎、三男道三郎、四男多門四郎のいずれも資質に恵まれましたが、とくに栄次郎はすばらしい腕前の持ち主で、千葉の小天狗と称されました。そして、次男の栄次郎成之と三男の道三郎はそれぞれ水戸藩の馬廻役となっています。
 千葉周作は、 安政2年(1855)になくなり、豊島区巣鴨の本妙寺に眠っています。

 
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by wheatbaku | 2010-06-15 06:20 | 『幕末』 | Trackback
千葉周作① (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
 幕末は、激動の時代だということもあって多くの剣豪がでてきました。
 大河ドラマをにぎわしている坂本龍馬、武市半平太、桂小五郎は剣豪でもあります。
 そこで、今日からは、幕末の剣豪について、書いていきます。
 幕末には、江戸三大道場といわれた「玄武館の千葉周作」、「練兵館の斎藤弥九郎」・「士学館の桃井春蔵」が最も有名ですので、これら三大道場から書いていきます。

 まず、「千葉周作」です。
 
c0187004_2184074.jpg【浅利又七郎のもとで修行】 
 千葉周作は、出生地は岩手県陸前高田市と言われています。
 また、宮城県栗原市花山とも言われています。
 神田の玄武館道場跡にある碑では、栗原市としています。
 写真は剣豪・千葉周作の才能を見いだしたと言われる佐藤重太郎の邸宅です。
 宮城県栗原市花山にあり、孤雲屋敷と呼ばれています。
 千葉氏は上総の名族千葉常胤の子孫と言われています。周作の父は幸右衛門と言い、祖父は、吉之丞といい北辰夢想流を始めたと言われています。
 父幸右衛門は、文化6年(1809)周作が16歳の時、江戸に近い松戸に移り、医者を開業しました。
 この頃、千葉周作は、中西派一刀流の浅利又七郎義信に入門しました。
 浅利は松戸出身で、小野派一刀流の中西道場に学び、突きの名手といわれました。
 後に、山岡鉄舟も弟子入りして指導も受けています。
 浅利の元で腕を磨いた周作をさらに上達させるため、浅利は、師匠の中西子正(つぐまさ)について学ばせました。

 c0187004_2171090.jpg【音無しの構え】 
 中西道場には、「中西道場の三羽烏」と呼ばれた寺田宗有、高柳又四郎、白井亨など錚錚(そうそう)たる人がいました。
 その中の一人、高柳又四郎は、「音無しの構え」で有名でした。
 中里介山の「大菩薩峠」に出てくる机竜之介のいわゆる「音無しの構え」は、この高柳又七郎の「音無しの構え」からヒントを得たといわれています。
 高柳又七郎は、どんな人と試合をしても、音をたてたことなかったと言います。
 二三寸剣先をはなしておき、相手が踏み込んできた時に、こちらから、一気に踏み込んで、一度も相手に竹刀に触れさせないのです。「後の先をとる」と言われるそうです。
 そこから「音なしの構え」と呼ばれていました。
 周作は、その高柳又七郎と試合をし、竹刀の音をたてさせたということで有名になりました。

 こういう強豪ぞろいの中で、周作は、腕を磨き、一時は浅利義信の婿となって後を継ぐことを期待されました。
 しかし、後に組太刀の改変について浅利義信と意見が対立したため、浅利の養女であった妻を連れて独立しました。
 そして祖父の起こした「北辰夢想流」と「中西派一刀流」を発展させて、新たに「北辰一刀流」を創始したのです。

 明日は、千葉周作のその後について書きます。
 
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by wheatbaku | 2010-06-14 06:03 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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