カテゴリ:『幕末』( 191 )
海舟の修行時代 (勝海舟② 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、勝海舟の2回目で、海舟の青年時代までの修行の様子を書いていきます。

 
c0187004_22185731.jpg【貧乏の経験が後に役立つ】
 海舟の幼少時、勝家は非常に貧乏でした。
 そのため、勝海舟は、最下層の武士の生活を経験しました。また、町人たちと付き合う呼吸を侠気無頼の父小吉を通じてつかみました。
 こうした経験があったため、下級武士出身の薩長の指導者を向こうに回しても、勝海舟は一歩もひけを取らなかったようです。
 
【一橋慶昌の遊び相手となる】
 そんな貧乏生活の中でも、出世のチャンスがありました。
 海舟は、文政12年(1829)の7歳の時に、男谷の親類の阿茶の局の紹介で、11代将軍家斉に気に入られ、孫の初之丞(徳川家慶の五男)の遊び相手として江戸城へ召されています。
 その初之丞が一橋家を継いで一橋慶昌となったため、一橋家の家臣として出世する可能性もありましたが、慶昌が早世したため、その望みは消えてしましました。

c0187004_2159215.jpg【小吉、能勢妙見堂に日参】
 9歳の時、海舟が、野良犬に急所を咬まれ大怪我をするという事件が起きました。
 この時に、父親の小吉は、能勢妙見堂に日参し、回復を祈願しました。その甲斐があり、無事回復しました。
 能勢妙見堂は、現在も墨田区本所4-6にあり、そこには、勝海舟の銅像が建てられています。
 右写真は、能勢妙見堂の山門です。能勢妙見堂については、こちらをご覧ください。

【剣術修行】
海舟は、若い頃、剣術と蘭学の修行に力をいれました。
 剣術については、よく知られているように、父親の小吉の本家で従兄弟(と多くの本が書いていますが、これについては異説があります)の男谷精一郎の道場で学びました。c0187004_2281313.jpg 
 男谷精一郎は、団野源四郎に剣を学び、弟子に島田虎之助、榊原健吉、天野八郎などがおり、後に講武所頭取並となった幕末有数の剣客です。
 その後に精一郎の高弟である島田虎之助の道場で習い、21歳のときに直心影流の免許皆伝となります。
 剣の修行は、向島の牛島神社で行ったそうです。海舟は王子権現といっているため、王子の王子神社と考える人もいるそうですが、正しくは向島の牛島神社です。
 また、師匠の島田虎之助の勧めにより、向島の弘福寺で禅も学びました。
 牛島神社については、こちらで紹介しています。また弘福寺もこちらで紹介してあります。

【蘭学修行】
 一方、蘭学にも力を入れました。
 蘭学は、箕作阮甫(みのつくりげんぽ)に弟子入りを願い出ましたが断られたので、赤坂溜池の福岡藩黒田家の屋敷内に住む永井青崖(せいがい)に弟子入りしました。
 弘化3年(1846年)には、本所入江町から、永井青崖の塾近くの赤坂田町に住居も移しました。
 この蘭学修行中に、海舟は日蘭辞書『ドゥーフ・ハルマ』を1年かけて2部筆写したそうです。
 1部は自分が使用するために筆写し、もう1部は、それを売って、借り賃と生活費を工面するためでした。
 海舟が筆写した『ドゥーフ・ハルマ』は、現在も残っているそうです。
 
c0187004_1135334.jpg【高野長英が来訪】
 永井青崖の勧めもあり西洋兵学も修めました。
 そして、赤坂田町に蘭学と兵法学の私塾を開きました。
 海舟が開いた塾に、嘉永3年9月、高野長英が、勝海舟を訪ねてきました。
 大いに時事について話をした後に匿ってもらいたいと頼まれますが、「余は幕臣なり、義、足下の請を容るる能わず」と海舟が断ったそうです。
 また、高野長英は、帰るときに、自分で筆写して跋文(ばつぶん)を付した荻生徂徠の「軍法不審」を置いていったそうです。
 右の高野長英の肖像画写真は、岩手県奥州市にある高野長英記念館が所蔵している「高野長英画像」です
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by wheatbaku | 2010-05-13 05:39 | 『幕末』 | Trackback
勝海舟 (江戸検定今年のお題「幕末」)
 5月15日は、彰義隊と新政府軍との戦いである上野戦争があった日です。 
上野戦争の概要は、別途、書こうと思いますが、勝海舟は上野戦争でも重要な役割を果たしました。
 そこで、今日から、しばらく江戸検定今年のお題の「幕末」に関係する記事として「勝海舟」 について書いていきたいと思います そして、最後に上野戦争についてもみてみたいと思います。

c0187004_21214812.jpg 左の写真は、隅田区役所に建っている勝海舟の銅像です。
 桜が満開の中の凛凛しい姿に、思わず撮影しました。後ろの建物は隅田区役所、さらにその後ろが東京スカイツリーです。

 勝海舟は旗本勝左衛門太郎小吉の長男として、文政6年(1823)に江戸で生まれました。
 名を義邦、通称麟太郎といいます。

 海舟は号で、佐久間象山からもらった額の「海舟書屋」からとったものです。 勝海舟の妹の順がに佐久間象山に嫁いだので、勝海舟は佐久間象山の義兄になります。
 また、勝海舟は、山岡鉄舟、高橋泥舟と並んで「幕末の三舟」と呼ばれます。
 下の写真は、「国立国会図書館」所蔵の勝海舟です。

【曽祖父は男谷検校】 
c0187004_15112628.jpg  海舟の父方の曽祖父の銀一(ろういち)は、越後国三島郡長鳥村(現在の柏崎市とも小千谷市とも言われています)の貧農の家に生まれた盲人でした。
 江戸へ出て高利貸しで成功し巨万の富を得、検校の位を買い、男谷検校(または米山検校)を名乗りました。
 そして、旗本男谷(おだに)家の株を買い取り、銀一の末子の平蔵に、男谷家を継がせました。

【父小吉が勝家の養子となる】 
 また、男谷平蔵の三男の小吉を男谷家から勝家に養子に出しました。勝小吉が海舟の父です。
 勝家は小普請組という無役で小身の旗本です。
 勝家は、近江国勝村の出と言われ、天正3年(1575)以来の御家人であり、系譜上海舟の高祖父に当たる命雅(のぶまさ)が宝暦2年(1752年)に累進して旗本になったようです。

【勝海舟生誕之碑】 
c0187004_21173634.jpg 勝海舟は文政6年(1823年)、江戸本所亀沢町に生まれました。
 小吉の実家の男谷家に小吉夫婦が同居していたため、男谷家で誕生しました。
 小吉は乱暴者であったため、3年間男谷家の座敷牢に入れられていたと言います。その2年目に麟太郎が生まれたのでした。
 男谷家の跡は現在両国公園となっていて、そこに「勝海舟生誕之碑」が建っています。

【勝海舟揺籃之地】 
c0187004_21181031.jpg 麟太郎が生まれてしばらくした後、勝小吉は、男谷家を出て、南割下水の天野右京、次いで山口鉄五郎の敷地に移った後、本所入江町の旗本岡野孫一郎の敷地に移りました。
 本所での生活では、この入江町が一番長く、天保元年(1830)頃から弘化3年(1846)まで住み、地主の岡野とは深いつきあいになり、のちに海舟が妻をもらう時に、一度岡野の養女にしてから結婚しています。
  ちなみに海舟は、23歳の時、弘化2年(1845)に結婚しています。妻の名は民子と言い、2歳年上で、深川の芸者だったそうです。そこで岡野孫一郎の娘ということにして結婚しました。

 海舟が育った場所近くの坂田建設(墨田区緑4-21)の建物入り口に「勝海舟揺籃(ようらん)之地」の碑があります。
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by wheatbaku | 2010-05-12 05:57 | 『幕末』 | Trackback
乃木将軍と松陰 (松陰⑧ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 しばらく、吉田松陰について書いてきましたが、今日で最後になります。
 今日は、吉田松陰と乃木希典との関係を書いていきます。

 吉田松陰と日露戦争の英雄乃木将軍は、叔父の玉木家を介して親戚関係にありました。
 玉木文之進の養子に、乃木希典の弟がなっているからです。
 それだけでなく、乃木将軍も、玉木文之進の弟子でしたので、松陰と乃木将軍は相弟子(あいでし)でもあります。 

【希典 文之進の塾に入塾】 
c0187004_88197.jpg   吉田松陰は、幼少の頃、叔父の玉木文之進に厳しく教えこまれました。
 その玉木文之進の塾に、萩藩の支藩である長府藩から、元治元年(1864)に15歳の乃木希典がやってきます。乃木希典は、父親の許しもないまま家出同然のように来たようです。

 玉木家の先祖は、乃木家から分かれたといわれていて、もともと、乃木家と玉木家は本家、分家の関係にあったこともあり、また玉木文之進が希典の父の乃木希次と親しかったということもあるようです。

 家出同然であったため、最初、玉木文之進は入塾を認めませんでしたが、後に許すことになります。そして翌年の秋まで学んだ後、萩明倫館に入りました。
 そして希典の弟の真人も一緒に学ぶようになりました。
  ※上の乃木希典の写真は「国立国会図書館蔵」、下の写真は、萩の玉木文之進の旧宅

【正誼 文之進の養子となる】 
c0187004_15452251.jpg  この時期、玉木文之進の子供彦介は、元治2年の正月に長州藩の内訌戦で戦死してしまいます。
 そこで、養子として迎えたのが、真人です。その後、真人は、正誼(まさよし)と改名します。
 正誼は、明治になってから再開した玉木文之進主宰の松下村塾の中心的人物として、文之進を助けます。
 明治7年頃になると、松下村塾は、前原一誠に同調する不平士族の幹部養成学校のようになり、玉木文之進や正誼も中心人物として動きます。
 そして、明治9年の萩の乱で、正誼は戦死し、文之進は、萩の乱に正誼や多くの弟子が参加したことから、玉木家の墓前で切腹してしまいます。
 この頃、乃木希典は、熊本歩兵第14連隊長心得として小倉に勤務していましたが、二人に同調することはしませんでした。

【松陰 希典に影響を及ぼす(?)】 
 吉田松陰は、乃木希典が11歳の時、幕府に捕らわれ処刑されています。そのため、乃木希典は直接的には、吉田松陰の教えを受けていません。
 しかし、次のことから、乃木希典に吉田松陰が大きな影響を与えたように思えてなりません。
 ①吉田松陰を厳しく教えた玉木文之進の塾に、15歳で家出同然で入塾を目指していること
 ②玉木文之進が再三、松陰を引き合いに出して教授していること
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by wheatbaku | 2010-04-28 06:11 | 『幕末』 | Trackback
松陰埋葬 (松陰⑦ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、吉田松陰の埋葬の様子について書いてみます。 

 吉田松陰は、安政6年(1859)10月27日に処刑されました。
 そして、松陰は一旦小塚原回向院に埋葬されますが、門下生たちは、必死になって、松陰を忠烈の士として埋葬しようとしました。
 そしてついに、世田谷若林の大夫山(現在の松陰神社)に埋葬することができました。

【尾寺、飯田 小伝馬町へ行く】c0187004_2295796.jpg
 処刑の前日の26日の夜、長州藩執政周布政之助が、尾寺新之丞を藩邸に呼んで、明朝評定所で松蔭の断獄があることを告げましたので、尾寺は27日早朝、飯田正伯を伴って、評定所に向かいました。
 門前の露店で、先刻、重罪人を伝馬町に護送したことを聞いて、小伝馬町の獄卒金六を訪ね、初めて松陰は4ツ時すでに処刑されたことを知りました。
 若干の金を金六にわたし、遺骸を下げ渡してもらえるようはかりました。金六は金を獄吏に賄いましたが獄吏は容易に許さなかったので、尾寺と飯田は屍を渡さないようにお願いしておいて、さらに28日再び金六の手を経て努力しましたが許されませんでした。
 29日飯田自ら獄吏を訪ね懇願したので「獄中死屍の処分に苦しむ」を建前として、午後に小塚原回向院で亡骸を引き渡すことを約束します。
飯田正伯  文政8年(1825年)長州藩医の子として生まれる。
  安政5年(1858年)に松下村塾に入り、主に兵学を学ぶ。
  万延元年(1860年)軍用金調達を名目にして浦賀の富豪を襲って金品を強奪。
  そのため、罪人として幕府に捕縛され、獄中において文久2年(1862年)に病死。
尾寺新之丞  天保4年(1833)大組士尾寺儀右衛門の長男として古萩町に生まれる。
  25歳の時村塾に入門。 松陰が江戸で処刑されたとき、ちょうど藩命で遊学中。
  維新後は司法省や教部省に勤め、明治13年(1880)に伊勢神宮の神官に任命される。

 上の写真は、小伝馬町牢屋敷の処刑場の跡に建つ「延命地蔵」です。

【桂、伊藤、飯田、尾寺の四人で、小塚原回向院に埋葬】 
 二人は桜田藩邸に戻り、桂小五郎および伊藤利助(博文)に告げてから、大甕と巨石を買って回向院に行きましたが、木戸・伊藤はすでにそこに着いていました。
 幕吏が来て、回向院の西北にある刀剣試験場のそばの藁小屋から一つの四斗樽をとってきて、これが松陰の亡骸であるといいました。
 四人が蓋をあけたところ、顔色はなお生けるが如く、髪乱れて顔に被り、血流れてかつ身体には着衣はないという状態でした。
 四人はその惨状を見て憤恨の情を禁ずることができませんでした。
 そこで飯田は髪を束ね、桂、尾寺は水をそそいで血を洗い、そして首と身体を接しようとしましたが、幕吏はこれを制して、「重刑人の屍は他日検屍があるかもしれぬ。接首等が発見されれば余等の罪は軽くない。幸いに推察を請う」と頼みましたので、飯田は、黒羽二重の下衣を、桂は襦袢を脱いで身体にまとい、伊藤は帯を解いて結び、首をその上に置いて甕に納め、橋本左内の墓の左方に葬り巨石を覆いました。
 数日を過ぎて、飯田・尾寺は碑を建てて、その中央の正面に「松陰二十一回猛士」と彫り、左側に「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂」の歌を刻みました。
 しかし、幕府はすぐに墓碑を壊させました。

【若林の大夫山に改葬】 
c0187004_22105391.jpg 文久2年(1862)に恩赦があったため、久坂玄随らが再び碑を松陰の墓に建て直しました。
 しかし、「小塚原は刑死者を埋める穢(けがれ)た地であって、忠烈の士の骨を安んずべき所ではない」と、高杉晋作らが熱心に改葬を主張し、ついに幕府の許可を得て、長州藩の別邸のあった荏原(えばら)郡若林村の大夫山(だいぶやま)に改葬することになりました。
 文久3年(1863)の1月5日、 高杉晋作、伊藤利助(博文)、山尾庸三、白井小助、赤彌武人らが中心となって改葬が行われました。
 山尾、白井は前夜小塚原に向かい、高杉たちは、翌日、馬に乗った高杉を中心に小塚原に向かい、墓を掘り遺骨を新しい棺に納めました。そして、夕刻に大夫山に葬ることができました。

 松陰の墓の傍には、明治15年(1882)、松陰を祀る神社として松陰神社が、門人を中心に創建されました(上の写真)。
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by wheatbaku | 2010-04-27 06:20 | 『幕末』 | Trackback
留魂録② (松陰⑦ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日も吉田松陰の遺書の 「留魂録」  について書いてみます。
 その前に、留魂録がどういう経緯で届けられたか書いてみます。

c0187004_2241248.jpg【牢名主の協力により届けられる】 
 「留魂録」は、松陰が処刑される前日の安政6年(1859)10月26日に書かれました。 そして、松陰から、牢名主の沼崎吉五郎に託されたものです。牢名主の吉崎吉五郎は、牢内で松陰の「孫子」「孟子」などの講義を聴くなど松陰を尊敬していたようです。
 松陰処刑後、遺品ともに牢名主の沼崎吉五郎から、松陰の門下生の飯田正伯らに渡されました。
 そして、飯田正伯から、萩の高杉晋作、久保清太郎、久坂玄随あてに送られたのです。
 
 受け取った高杉晋作は、松陰の弟子ととしてきっとこの仇は討たずにはおかないと、周布政之助に手紙で書いているそうです。

 上の写真は、小伝馬町牢屋敷跡の大安楽寺に建てられている「江戸伝馬町処刑場跡」の碑です。

 さて、次の部分が、死について書いてある「留魂録」の中でもっとも重要な部分です。
 死に臨んで、松陰が死というものをどうとらえているよくわかる部分です。
 現在でも通用する考えが書かれていると言われています。
 量が多いのですが、ぜひ読んでみてください。

【松陰の死生観】 
 「今日、私が死を目前にして、平安な心境でいられるのは、春夏秋冬の四季の循環ということを考えたからである。
c0187004_22423469.gif   つまり農事を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈りとり、冬にそれを貯蔵する。秋・冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ちあふれるのだ。この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるということを聞いたことがない。
 
 私は30歳で生を終わろうとしている。いまだ一つも成し遂げることがなく、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず実をつけなかったことに似ているから惜しむべきかもしれない。だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのである。
 
 なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が必ず四季をめぐっていとなまれるようなものではないのだ。しかしながら、人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬ者には、その十歳の中におのずから四季がある。二十歳にはおのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季が、五十、百歳にもおのずからの四季がある。
 十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとすることで、いずれも天寿に達することにはならない。

 私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なるモミガラなのか、成熟した栗の実であるかは私の知るところではない。もし同士の諸君の仲に、私のささやかな真心を憐み、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。同志よ、このことをよく考えてほしい。」 
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by wheatbaku | 2010-04-26 06:23 | 『幕末』 | Trackback
留魂録 (松陰⑥ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、吉田松陰の遺書ともいうべき 「留魂録」について書いてみます。

 松陰の辞世は二つあります。
 家族向けに  「親思ふ こころにまさる 親ごころ けふの音づれ 何ときくらん」
 これは、10月20日に書かれた「永訣書」に書かれています。

 これのほか、
  「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」 
 があります。 

c0187004_23202231.jpg この辞世が書かれているのが「留魂録」です。
 「留魂録」は、昨日も書いたように、死刑に処せられることを覚悟した松陰が、処刑される2日前から書き始め、前日の10月26日に書き上げたものです。
 これは、門下生あてに書いて遺書です。
門下生たちは、「留魂録」を回覧し書き写しました。
 そして、松陰の遺志を実現しようと決意したに違いありません。

 写真は、小伝馬町牢屋敷跡に造られて「十思公園」にある吉田松陰終焉の地の碑です。
 上記の辞世の歌が刻まれています。

 【留魂録】    c0187004_136239.gif
 「留魂録」はすべてで16章に分かれていますが、前半の評定所の尋問の様子、真ん中の死についての覚悟の部分、そして後半の小伝馬町牢屋敷で知り合った友人の様子の部分とに分かれています。 
 すべては書けませんので、主なところだけを書いてみますが、今日は尋問の様子について書いてある部分を紹介します。
 以下オレンジ部分が、「留魂録」の現代語訳(古川薫氏訳)です。

 まず、 松陰がなぜ呼び出されたについて書かれています。

 「7月9日、初めて評定所から呼び出があった
 三奉行が出座し、次の2点について私を尋問をした。
 その一つは、梅田雲浜が長州に行ったとき面会したというが、いかなる密議をしたか?いま一つは御所内に落文があったが、その筆跡がお前のによく似ていると雲浜その他は言っているが、覚えがあるかということだった。
 梅田雲浜という人物は、元来奸智にたけており、共に志を語りたくないと思っていた私が、何で彼を密議をかわすことがあろうか。また私は公明正大に行動することを信条 としている。落文などという陰に隠れた言論活動はけっしてしない。
 右二点を明らかにしたのみ、私は6年間にわたる幽囚生活の間、あれこれと苦心したことを陳述し、ついに大原公の西下をさそい、間部(老中の間部詮勝)要撃を計画したことなどを自供してしまった。この間部要撃計画の自首によって、私は獄に投じられることになったのである。」


 幕府が「間部要撃計画」について知らなかったことも、松陰みずからが語っています。

 「7月9日、一通り大原公のこと、間部要撃策のことなど申し立てた。これらは幕府においてすでに探知しているであろうから、こちらから明白に申しておくほうがよかろうと初めのうち私は思ったのである。そこで逐一そのことを自供したのだが、幕府は何もしっていないようだった。
 幕府が知らないことを強いて申し立て、多くの人々に災厄を及ぼし、無関係の人を傷つけるのでは、毛を吹きわけて傷口を見つける譬(たとえ)にもひとしいと思いなおした。(中略) 果たして幕府の裁決は、私一人を罰して、他には一人も波及しなかった。実に喜ぶべきことだと思っている。」

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by wheatbaku | 2010-04-23 06:25 | 『幕末』 | Trackback
安政の大獄(松陰⑤ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日も吉田松陰について書いていきます。
 今日は吉田松陰が 安政の大獄により処刑される までを書きます。

【間部詮勝の暗殺を計画】 
 安政5年(1858)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結し、その後、将軍継嗣を紀州藩主徳川慶福とし、さらに安政の大獄を開始したことを知って激怒し、老中首座である間部詮勝の暗殺を計画します。
 間部詮勝は、井伊大老の指示のもと、京都へ上り、反幕府の公家や浪士たちの弾圧の先頭にたっていました。
 松陰は、長州藩政府に、暗殺に必要な武器を藩政府で整えてもらいたいという願書を提出します。

【野山獄に再入獄】 
c0187004_15183992.jpg  藩政府が、このような願書を受けるはずがなく、藩政府は、松蔭の野山獄への入獄と松下村塾の閉鎖を命じます。
 そして、12月26日に、野山獄に再入獄します。
 また、高杉晋作や久坂玄瑞も時期尚早であり自重すべきであるとの考えでした。
 やがて、4月になると、幕府から松蔭の江戸召還が長州藩に命じられ、安政6年(1859)5月25日早朝、松陰は野山獄から江戸に向かいました。

写真は、松陰が江戸に送られるとき「かえらじと思いさだめし旅なれば、一入(ひとしほ)ぬるる涙松かな」と詠んだといわれる涙松の跡の碑です。

【評定所での尋問】 
 松陰が江戸に送られた理由は、安政の大獄で獄死した梅田雲浜が萩で松陰に会った事を話したためでした。
 松蔭が幕府評定所に呼び出されたのは7月9日でした。
 大目付久貝因幡守正典、勘定奉行兼町奉行池田播磨守頼方、町奉行石谷因幡守穆清(いしがやあつきよ)等による尋問がおこなわれました。
 江戸の評定所が松陰に問いただしたのは、梅田雲浜との関係と、京都御所に落文をしたのではないかという2点でしたが、松陰の説明は簡単に済み、疑いも簡単に晴れました。
 そこで、松陰はこの機会を利用し幕府に自分の意見を言おうと考えて、「間部詮勝要撃計画」をも告白してしまいます。
 松蔭は、計画を幕府側が探知している思ったゆえの告白でしたが、奉行たちは予想もしなかった老中暗殺計画に非常に驚きました。
 即日、松陰は小伝馬町に入牢を命じられてしまいます。
                 ※下の写真は、小伝馬町牢屋敷跡に創建された大安楽寺

【松陰、処刑される】 
c0187004_21545651.jpg  その後9月5日、10月5日に3回目の取調べが行われましたが、いずれも取り調べる奉行たちの態度は穏やかであったため、松蔭は、処分は、死罪も遠島もなく、重くても他家お預けと楽観的に考えていたようです。
 しかし、頼三樹三郎、橋本佐内さらに飯泉喜内が死罪がなると、最悪の事態を予想するようになります。
 10月16日の取り調べは厳しく行われ、死罪を免れがたいことを感じたようです。
 死罪の免れがたいことを知った松陰は、10月20日に家族宛の別れの手紙を書き、10月25日には、遺書となる 「留魂録」 を書き始め26日に書き終わります。
 そして、安政6年(1859)10月27日に、評定所から「死罪」が言い渡され、即日、小伝馬町牢屋敷にて処刑が行なわれました。吉田松陰30歳という若さでした。

 吉田松陰を斬刑にしたのは、7代目山田浅右衛門です。山田浅右衛門は、後に、松陰の最後は大変見事であったと語ったそうです。
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by wheatbaku | 2010-04-22 06:20 | 『幕末』 | Trackback
松下村塾(松陰④ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 さて、今日は、有名な松下村塾について書いていきます。
 松陰が松下村塾で塾生たちの指導に当たった期間は、野山獄を出獄した安政3年(1856年)8月から、野山獄に再入獄する安政5年(1858年)12月までのわずか2年余りに過ぎません。
 しかし、ここから幕末期に志士として活躍した者や明治維新で新政府に関わる者など、幕末・明治において大きな役割を果たす人物が育っていきました。

【松下村塾はもともとは玉木文之進の塾】 c0187004_1451853.jpg  
 松下村塾は、もともと、天保13年に、松陰の叔父の玉木文之進が、萩城下松本村の自宅の一隅にはじめたものです。
 松下村塾という名の由来は、村名の松本を松下に置き換えただけの、ごく単純なもののようです。
 これは、玉木文之進が無役の時代に始めたもので、文之進が役につくとともに自然消滅していました。
 それが嘉永年間には松蔭の叔父の久保五郎左衛門が名前を引き継いでいました。
 今も、玉木文之進の旧宅(上の写真)の前には、「 松下村塾発祥之所」という石碑がたっているそうです。

【松下村塾で教育開始】 
 野山獄に松陰が投獄されてから1年2か月後の安政2年(1855)12月15日に、野山獄を出た松陰は藩から自宅謹慎を命じられ、実家の杉家に「幽囚」の身として戻ります。
c0187004_14515189.jpg 出獄後の安政3年3月ごろ、松陰は自宅に設けられた幽囚室で、父や兄の勧めもあって、親族・近隣の者を相手に、野山獄で行っていた「孟子」の講義を再開します。
 幽囚室での講義は評判となり、その評判はしだいに萩城下に広がっていきました。
 当初は3畳という僅かな幽囚室で行なわれていたものの、受講するものが増え、その後8畳に増築しました。

 さらに安政5年3月に増築された松下村塾は、8畳一間、4畳半一間、3畳二間を加えた計18畳半に一坪強の土間がついたものでした。
 松下村塾の塾生の数は、諸説あり一定していませんが、、京都大学名誉教授の海原徹氏によると92名だそうです。その内訳は、士分53名、卒分10名、陪臣10名、地下医4名、僧侶3名、町人3名、他国人1名、不明8名で、身分に関係なく、広く門戸が開放されていました。 
 松下村塾で指導を受けた主な人は、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一(以上が四天王)、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などです。
 改めてそうそうたる人々だと思います。

【松下村塾での教育内容】 
 松下村塾で、どのような教育が行われたか海原徹氏の「吉田松陰」に基づいて書いてみます。
c0187004_14521131.jpg 松下村塾では、身分、年齢などを問わないで教育がおこなわれたそうです。そのため、上に書いたように士分だけでなく、卒分の人もいれば、医者や僧侶もいました。
 そして、松下村塾に新しく来た人は、必ず勉学の目的について聞かれ、読書人でなく実践家たることを強く求められたそうです。
 また、松陰は、さまざまな個人的差異をあるがままに認めたうえで、それをしっかり踏まえた教育、すなわち各人の個性や能力にふさわさしい、その特徴を生かした教育を行ったたようです。
 そのため、塾生が何を学ぶか、どのような教科書を選ぶかは塾生各人によって異なっていたそうです。

 こうした教育の元で多くの人が松下村塾から育っていきました。
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by wheatbaku | 2010-04-21 06:25 | 『幕末』 | Trackback
野山獄(松陰③ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、吉田松陰が「下田踏海」に失敗し、自首し逮捕された後、国許に送還され野山獄に入獄するまで について書きます。
 吉田松陰は、ペリー提督に海外渡航を拒否され、ボートにより浜に送り返された後、黒船に乗る込むために利用した小舟が流されてしまったため、乗り捨てた小舟から密航のことがわかるだろうと考え柿崎村の名主に自首します。

【小伝馬町牢屋敷に入る】 
 そして下田番所で取調べを受けた後、小伝馬町の牢屋敷に送られました。
 小伝馬町では、吉田松陰は、揚屋に入り、金子は無宿牢に入れられました。
 この密航事件に連座して師匠の佐久間象山も捕らえられました。
 佐久間象山は東奥揚屋、松蔭は東口揚屋に入ったというから壁一つ隔てた隣り合わせの牢に入ったことになります。
 入牢後6ヶ月経った9月になって、帰国して蟄居するむねの判決が出ました。
 佐久間象山も松代藩に引き渡して蟄居という判決でした。

c0187004_1704012.jpg【野山獄に入る】 
 松陰は安政元年12月、萩に戻され松蔭は野山獄、金子重輔は岩倉獄に投獄されました。
 野山獄は士分を収容する牢で、岩倉獄は百姓を収容する牢で、野山獄から道を隔てた向かい側にありました。
 金子重輔は、小伝馬町の牢で病気になり、牢でも、帰国途中でも看護らしい看護は一切なく、岩倉獄に入獄した後、約3か月後に獄死します。
 幕府の判決は、国許在所で蟄居となっていましたが、幕府への遠慮から長州藩は松蔭と金子を入獄させたようです。 
 
 上の写真は、現在の野山獄跡です。

【野山獄の日々】 
 松陰が野山獄に入った時、すでに11人の囚人がいました。
 松蔭は野山獄には約1年2ヶ月投獄されていましたが、獄中では、読書と著作の日々でした。
 「野山獄読書記」によれば、安政元年(1854)10月24日から翌年の12月15日まで618冊の本を読んだそうです。毎月44冊のペースで、倫理哲学、歴史伝記、地理紀行、兵学、詩文など様々な分野の本を読んでいるそうです。
 また、同じ獄に投獄されている他の人に呼びかけ、俳句や漢詩、書道などそれぞれの得意分野を皆に教える勉強会を開きました。
 松陰もまた、皆に論語や孟子などを教えました。そういった勉強会を開くうち投獄されていた他の人も生きる希望を見出し獄の中は次第に明るい雰囲気になっていったそうです。
 そして、松陰は、在獄中から獄に入っている人たちの釈放運動に積極的に取り組んでいます。
 その活動により、松蔭を入れた在獄中12名のうち7名が出獄したそうです。

c0187004_14434390.jpg そうした人たちの中に富永有隣もいます。
 富永有隣は松蔭出獄1年後の安政4年(1859年)に出獄し、出獄後は松陰の松下村塾で講師を務めました。
 この富永有隣が国木田独歩の小説「富岡先生」の主人公のモデルです。
 松陰の唯一の女性との交流といわれる高洲久子との交流は、この野山獄時代の出来事です。
 松陰と久子については、 「『おうち』と『ほととぎす』 (吉田松陰の恋)」で書いてありますので、ご覧ください。

 上の写真は、松下村塾の隣にある松陰の幽囚室がある杉家の旧宅です。
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by wheatbaku | 2010-04-19 05:54 | 『幕末』 | Trackback
東北遊学(松陰② 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日も吉田松陰について書いてみます。今日は東北遊学から海外密航実施直前までの期間について書いてみます。

【江戸へ遊学】 
 嘉永4年(1851) 松陰が22歳の時、九州遊学の旅から帰り、わずか3ヶ月後に藩主の参勤交代に同行して江戸に遊学しました。c0187004_13393089.jpg 
 九州遊学のなかで、情報を得るには江戸が一番ということを知ったためです。 
 江戸では、儒学を安積艮斎から学び、兵学を山鹿素水から学びました。
 そして、その後松陰の生き方に大きな影響を与えた佐久間象山にも入門しました。
 また、松陰は天下の有志と盛んに交流を持ちました。
 なお、松陰は友人たちと名所旧跡も訪ねていて、向島百花園、両国、神田まつり、泉岳寺、目黒不動、池上本門寺などに出かけていたようです。
  ※右の吉田松陰の写真は「国立国会図書館蔵」

【脱藩までして東北巡歴】 
 その過程で熊本藩の宮部鼎蔵と「水戸学」や「海防」などの勉強を目的とした東北の旅を計画しました。
 松陰の希望は藩で認められましたが、運悪く藩主が江戸不在で、過書(他国を旅行する時に必要な手形、身分証明書)を得ることが出来ませんでした。
 しかし、12月の約束の出発日が来ると、約束を違えるのは恥と考え、松陰は過書を持たないままに出発してしまいました。
 過書もなく無断で旅立つことはすなわち脱藩ということになります。
 脱藩した松陰は、宮部鼎蔵らと水戸、会津を訪ね佐渡にも渡り、その後弘前、盛岡、仙台などを訪れ見聞を広めています。
 そして前年12月に出発してからの140日間の大旅行を終えて嘉永5年4月に江戸に戻ります。

【脱藩により処分を受ける】 
 東北巡歴から江戸に戻った松陰は、萩藩邸に自首しました。
 その結果、脱藩の罪により、松陰は萩に送還されることとなり、藩士の身分を失い、父の杉百合之助の保護下におかれることとなりました。
 しかし、松陰の才を惜しんだ藩主から10年間の国内遊学の許可が出ます。
 そして、嘉永6年(1853年)正月に2度目の江戸遊学へ出発し、また佐久間象山に師事します。

【ペリー来航の影響で海外渡航を決意】 
 江戸での遊学中の嘉永6年6月、ペリー提督率いるアメリカの東インド艦隊が浦賀に来航します。
 浦賀に出かけ黒船を観察した松陰は大きな衝撃を受け、幕府の国防に対する不備を強く認識するとともに、多くの志士たちが感じたように危機感を覚えます。
 こうした中で佐久間象山の外国と世界を熟知するために有能な人材が海外に渡航することが最高の対策という考えに大きな影響を受けます。
 それにより、松蔭みずからの海外渡航を決心しました。

 c0187004_2136337.jpgペリーが去ってから1ヶ月後の嘉永6年7月に、プチャーチン率いるロシア艦隊4隻が長崎に入港したという知らせが届き、松陰はロシア船に乗り込む密航計画を立て長崎に向かいました。
 しかし、松蔭が江戸を出発したのは、ロシア軍艦が長崎に来航してから2ヵ月後であったし、京都で梁川星厳をたずねたりしていたため、長崎に着いた10月27日は、艦隊は出航した3日後でした。

 落胆した松蔭は再び江戸にもどってきますが、松陰はそれでも密航をあきらめません。
 ちょうど、嘉永7年(1854年)1月、ペリーが再来航し、密航計画を知り松陰に強く願い出た長州藩足軽・金子重之助とともに3月28日に密航を再度企てることになりました。

 松陰の海外渡航の計画を「下田踏海」といいます。
 「下田踏海」については、既に書きましたので、こちら⇒「吉田松陰密航」をお読みください。
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by wheatbaku | 2010-04-16 05:40 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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