カテゴリ:『幕末』( 159 )
和宮降嫁 (江戸検定今年のお題「幕末」)
  「幕末」の話題を続けます。
 今日2月11日に、皇女和宮と将軍家茂の婚儀が取りおこなわれました。
 文久2年(1862)の2月11日に、二人の婚儀は、遠藤幸威氏の「和宮」によると、大奥の「対面所」で行われたそうです。
 
  皇女降嫁の話は、大老井伊直弼の暗殺後、老中の安藤信正や久世広周らが発案したと思われていますが、元々は、大老井伊直弼が生きていて、安政の大獄を実行している時に既に考え出されていたのです。
 そして、井伊直弼が暗殺された後、老中安藤信正が推進したものでした。

c0187004_10313452.jpg【和 宮】 
 候補者となった和宮は、孝明天皇の異母妹で当時13歳でした。
 孝明天皇は、最初、①和宮には既に有栖川宮家との婚約が成立している。 ②年少の和宮が異人のいる関東へ行くのを嫌がっている ことなどを理由に却下しました。

 しかし、幕府は執拗に降嫁を願い出ました。
 こうした中で、侍従であった岩倉具視は、幕府に攘夷を確約させることができたら、降嫁を認めるという策を建言しました。
 当初拒否していた孝明天皇もついにこの策を採用し、条件付で降嫁を認めることしました。
 しかし、和宮は承知しません。そこで、やむなく孝明天皇は、「まだ生まれたばかりの皇女・寿万宮を代りに降嫁させる。それでだめであれば退位する」とまで決意します。
 ここに至り、和宮はついに降嫁に同意することとなりました。

 上の和宮の銅像は芝増上寺の安国殿に祀られていたものですが、現在、安国殿は建替中であり、銅像自体も修理中ですので、拝観はできません。

c0187004_1013339.jpg【岩倉具視】 
 ここで皇女和宮降嫁に大きな影響を及ぼした岩倉具視について紹介しまししょう。
 岩倉具視は、堀河康親の次男として京都に生まれ、14歳で、天保9年(1838)、岩倉具慶の養子となります。
 岩倉家は久我家の江戸時代の分家であり、下級の公家であり、家計は裕福ではなかったといいます。
 嘉永元年22歳の時に関白・鷹司政通の歌道の入門しましたが、これが下級公家にすぎない岩倉が朝廷首脳に発言する大きな転機となります。
 翌年の安政元年(1854)に孝明天皇の侍従となります。
 こうして、孝明天皇の傍近くに仕えていたことにより、皇女和宮の降嫁について建言できたのです。(右の写真は「国立国会図書館蔵」です)
 また、孝明天皇の女房で、一時降嫁の候補者となった寿万宮の母親堀河紀子は岩倉具視の姉でもありますので、こうしたことも孝明天皇の信頼を得るに影響はあったことは考えられます。
 
 こうして、降嫁が決まった和宮の行列は、文久元年(1861)10月20日に京都を出発し中山道を江戸に向かいました。 岩倉具視も行列に随行して江戸に向かいました。
 そして、11月15日に江戸の清水邸に到着したのでした。それから、12月11日に江戸城大奥に入り、翌年の2月11日の婚儀を迎えたのでした。

 和宮の下向の行列については明日書きます。
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by wheatbaku | 2010-02-11 11:10 | 『幕末』 | Trackback
清河八郎と龍馬・鉄舟 (江戸検定今年のお題「幕末」)
 清河八郎は、尊王攘夷の思想を持って、全国遊説も行っていますので、多くの人と交際があります。
 今日は、その中で、幕末の2人の有名人すなわち「坂本龍馬」と「山岡鉄舟」との関係について書いてみます。
 
【清河八郎と坂本龍馬】 
c0187004_132587.jpg 清河八郎と坂本龍馬は、剣の試合をしたことがあるそうです。
 清河八郎は千葉周作の玄武館、坂本龍馬は千葉周作の弟千葉定吉の桶町道場と剣術を学んだ道場はちがいますが、同じ北辰一刀流を学びました。
 安政5年(1858)のある時期に、親善なのか稽古なのかは定かではありませんが、清河八郎と坂本龍馬が試合をした記録が残っているのだそうです。
 結果は清河八郎が圧勝だそうです。年齢(清河29歳、龍馬24歳)と経験の差はあるものの、一片の隙も無い清河八郎に圧され、龍馬は八郎から1本も取ることが出来なかったそうです。
 龍馬は『虎尾の会』にもその名を連ねているとのことですので、一時は、清河八郎の考えに共鳴していた時もあったのだと思います。
 この話は、本には書かれていませんが、庄内町が作成しているホームページ「回天の魁士清河八郎」の『清河八郎と坂本竜馬』という中に掲載されています。詳しくは、そちらをご覧ください。
 HP管理人のAさんの説明では、前記の話は、「清河八郎記念館」の斎藤館長のお話だそうです。

c0187004_13536100.jpg【清河八郎と山岡鉄舟】 
 清河八郎と関係の深い人物に、山岡鉄舟(鉄太郎)がいます。
 山岡鉄舟は、天保7年(1836)に小野朝右衛門の四男として生まれました。
 幼少時から剣術を学び、20歳の時に、忍心術の槍をよくする旗本山岡静山の弟子となりました。
 山岡静山は27歳で急死したため、静山の実弟・山岡謙三郎(高橋泥舟)らに望まれて山岡家の養子となり、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚しました。
 従って、幕末三舟といわれる勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の三人の中で山岡鉄舟と高橋泥舟は義兄弟ということになります。
 なお、高橋泥舟は山岡家に生まれましたが、母方の高橋家を継いだため高橋姓となっています。
 山岡鉄舟は、清河八郎が主催する「虎尾の会」のメンバーでもあります。
 そして、浪士組が上京する際には、浪士組取締として一緒に上京し、浪士組が江戸に呼び戻された時にも一緒に戻っています。
 さらに、清河八郎が討たれた際には、八郎の首をしばらく自宅に保管するという程、親密な関係でした。

【山岡鉄舟旧居跡】 
c0187004_22122435.jpg  山岡鉄舟の旧宅は、東京メトロ「茗荷谷」駅2番出口から徒歩5分の場所にあります。
 旧居の向かい側は播磨坂の桜並木です。
 写真の奥のマンション2つ並んでいる場所が山岡鉄舟の旧宅でした。
 手前にあるのが文京区教育委員会の説明板です。
 高橋泥舟の旧宅は、鉄舟の旧居の北西隣にありました。

 上記の坂本龍馬および山岡鉄舟像は「国立国会図書館蔵」です。
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by wheatbaku | 2010-02-10 06:25 | 『幕末』 | Trackback
浪士組と清河八郎② (江戸検定今年のお題「幕末」)
 昨日に続いて「浪士組と清河八郎」の続きです。

c0187004_1725224.jpg【浪士組、処静院で結成】
 浪士組が江戸を出発したのは2月8日ですが、浪士組は、それ以前2月4日に、小石川伝通院の塔頭処静院(しょじょういん)において結成されました。
 浪士組の山岡鉄舟と親しかった処静院の住職が結成のための場所を提供したと言われています。 

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 浪士組は、当初は50名を定員としていましたが、清河八郎の仲間の勧誘もあって、最終的には234名の浪士が集まりました。
  鵜殿鳩翁(うどのきゅうおう)が頭取、山岡鉄太郎(鉄舟)ら2人が取締に任ぜられ、清河八郎は黒幕に徹しました。
 処静院は現存せず、文京区教育委員会の設置した説明板があるのみです。これによると、現在の伝通院の西側にあったようです。


c0187004_1824746.jpg【近藤勇、浪士組に参加】
 浪士組の中には、のちに新撰組を結成する芹沢鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司なども入っていました。

 近藤勇は、武州多摩郡上石原村に生まれ、天然理心流宗家近藤周助の養子となり、小石川小日向柳町で、「試衛館」という道場を構え天然理心流剣法を教えていました。
 近藤勇たちは、浪士組は将軍家茂の警護が役目で、さらに幕臣取立ての道も開かれていると聞いて、浪士組への参加を決めたのでした。
←近藤勇像「国立国会図書館蔵」
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【試衛館跡】

 試衛館跡の説明柱が、地下鉄大江戸線「牛込柳町」駅東口から5分のところにあります。
 元は、幕府の棟梁であった甲良屋敷であったそうです。試衛館は、甲良屋敷の一角を借りて構えていました。
 広さ30畳ほどの小さな道場であったようです。

c0187004_1848377.jpg【清河八郎の真の目的】
 さて、江戸を2月8日に出発した後、浪士組が京都に到着したのは2月23日です。
 その夜、清河八郎は浪士たちを壬生の新徳寺に集め本当の目的は将軍警護でなく、尊王攘夷の先鋒にあると当初の目的とは正反対になる目的を述べます。
 そして、朝廷に建白書の受納を願い出て幸運にも受理されました。
 このような浪士組の動静に不安を抱いた幕府は浪士組を江戸へ呼び戻します。
浪士組は3月13日に京をたち江戸に向かいます。

 ←清河八郎像 「清河記念館蔵」

 この時、江戸に戻ることに反対し京都に残ったのが、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三などでした。
 そして、彼らは「新撰組」を24名の隊士で結成することになります。
 近藤勇や新撰組については、また別の機会に紹介しようと思います。

【八郎の最後】
c0187004_2292852.jpg  清河八郎は江戸に戻った後、浪士組を動かし攘夷を実行しようとしますが、京都で完全に幕府と対立したため命を狙われるようになりました。
 文久3年4月13日、上山(かみのやま)藩邸を訪ねた帰り道で、幕府の刺客佐々木只三郎など6名によって麻布一ノ橋で討たれました。
 清河八郎暗殺は、老中板倉勝静(かつきよ)が企んだという説もあります。
 清河八郎の首は、山岡鉄舟の家に保管され、その後、伝通院の塔頭の処静院に葬られたそうです。
 現在、清河八郎の墓は、伝通院の墓地にあります。墓碑銘は、山岡鉄舟の筆によるものとのことです。

 清河八郎が死んだ後、浪士組は新徴組と改名され、庄内藩預かりとなり、幕府瓦解まで続きました。
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by wheatbaku | 2010-02-09 06:19 | 『幕末』 | Trackback
浪士組と清河八郎 (江戸検定今年のお題「幕末」)
 江戸検定今年のお題「幕末」に関係する話題、今月は、文久2年(1862)2月8日の「浪士組江戸を出発」、同じく文久2年(1862)2月11日の「皇女和宮と将軍家茂の結婚」を取り上げたいと思います。

今日2月8日は、清河八郎の建言に基づき結成された「浪士組」が江戸を出発した日です。  

c0187004_21314774.jpg 浪士組は、2月4日に小石川伝通院の塔頭「処静院(しょじょういん)」で結成されました。
 そして、2月8日に、伝通院を出発して京都に向かったのでした。

 伝通院は、家康の母「お大の方」や「千姫」の菩提寺でもあります。
 東京メトロ丸の内線・南北線の「後楽園]4番出口から12分程春日通りを歩いて行くと右手にあります。

c0187004_2041091.jpg【清河八郎は庄内藩出身】 
 さて、浪士組の結成の中心となった清河八郎とはどんな人だったのでしょうか?
 今日は、清河八郎が浪士組を結成するまでの経歴について書いてみよう思います。

 清河八郎は、出羽国庄内藩領の清川村(現・山形県東田川郡庄内町)の郷士の斉藤豪寿(ひでとし)の長男として、文政13年(1830)に生まれました。本名は斉藤正明と言います。清河という姓は出身地清川にちなむものです。
 弘化4年(1847)18歳の時に江戸に出て、それ以降、古学派の東条一堂や安積艮斎や昌平黌で学びました。
(左の清河八郎像は「清河八郎記念館」所蔵です。)


【玄武館で学ぶ】 
 清河八郎は、学問を東条一堂ほかに、そして剣を北辰一刀流の開祖千葉周作の玄武館で磨き中目録免許皆伝となりました。
c0187004_20335137.jpg その後、清河塾を開設し、北辰一刀流と学問を教えました。
 江戸市内で剣術と学問を一人で教える塾は清河塾だけであったそうです。

 清河八郎が修行した「千葉周作先生玄武館跡、東条一堂先生瑤池塾跡の碑」が、都営地下鉄新宿線の岩本町駅A1番出口から徒歩1分の旧千桜小学校跡に設置されています。
 坂本龍馬も、北辰一刀流を、千葉周作の弟千葉定吉の道場で学んでいました。
 大河ドラマ「龍馬伝」の影響でしょうか。多くの人が碑を見に来ていました。

 万延元年(1860年)に起こった桜田門外の変を契機に、清河塾に倒幕、尊王攘夷の思想を持った人たちが集まりだします。
c0187004_20355453.jpg【虎尾の会を結成】 
 そして、清河八郎を盟主とする「虎尾の会」が結成されます。参加者は山岡鉄太郎(鉄舟)他15名でした。
 この「虎尾の会」のメンバーの一部が米国ハリスの通訳ヒュースケンを暗殺し、八郎の清河塾は幕府に監視されます。
 しかも文久元年(1861)には八郎に罵詈雑言を浴びせてきた者を殺害したため、幕府に手配される身となってしまいました。
 そのため、清河八郎は江戸を脱出し各地に潜伏していました。
【急務三策を建言】 
 そうした状況の下でも、文久2年(1862)に、時の幕府政事総裁(従来の大老にあたる役)の松平春嶽に急務三策(① 攘夷の断行、② 大赦の発令、③天下の英材の教育)を建言します。
 尊攘志士に手を焼いていた幕府はこれを採用し浪士組が結成されることになります。そして、清河八郎は罪を許され自由な身となるとともに浪士組の中心メンバーとなります。

 明日も「浪士組と清河八郎」について書きます。

 今回、清河八郎の記事を書くにあたり、庄内町が作成しているホームページ「回天の魁士清河八郎」の記事を参考にさせていただくとともに管理人のAさんにいろいろ教えていただきました。 Aさんありがとうございました。
 また、上記の清河八郎像は「清河八郎記念館」が所蔵しています。
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by wheatbaku | 2010-02-08 08:49 | 『幕末』 | Trackback
寺田屋騒動~龍馬寺田屋で襲撃される (江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日1月23日は、薩長同盟の成立を見届けた坂本龍馬が、伏見の寺田屋で、幕府の捕り手から襲撃された日です、

c0187004_1451420.jpg 坂本龍馬は、京都から定宿としていた伏見の寺田屋に1月23日に帰ってきます。
 坂本龍馬が、寺田屋に入ったことは、密偵の探索により伏見奉行所の知るところとなります。
 そして、伏見奉行所の捕り手が寺田屋に向かい襲撃しました。

 この出来事については、坂本龍馬、寺田屋の女将お登勢、そして後に龍馬の妻となるお竜の証言がそれぞれあります。
 龍馬について書いた多くの本が、襲撃の様子がよくわかるとして、そのまま引用していますので、ここでも手紙等を引用します。

【龍馬の兄あての手紙】 
 まず、龍馬自身が、襲撃の約10ヵ月後の慶応2年12月4日に兄の坂本権平にあてた手紙で、襲撃のことを書いています。
 「上ニ申伏見之難ハ去ル正月23日夜八ツ時半頃なりしが、一人の連れ三吉慎蔵と咄して風呂より揚り、最早寝んと致し候処に、ふしぎなる哉 此時二階居申候 人の足音のしのびしのびに二階下をあるくと思ひしに、六尺棒の音からからと聞ゆ、おり柄兼而御聞に入し婦人 名は龍今妻也。勝手より馳セ来り云様、御用心被成べし不謀敵のおそひ来たりしなり。鑓持たる人数ハ梯の段を登りしなりと、夫より私もたちあがり、はかまを着と思ひしに次の間に置有之ニ付、其儘大小を指し六連炮を取りて、後なる腰掛による。
 連れなる三吉慎蔵ハはかまを着、大小取りはき槍を持ちて是も腰掛にかかる。間もなく,壱人の男 障子細目に明ケ内をうかがふ。見れば大小指込なれバ、何者なるやと問しに、つかつかと入り来れバ、すぐに此方も身がまへ致セバ、又引取りたり。早次ギの間もミシミシ物音すれバ龍女に下知して、次の間又後の間のからかみ取りはづさし見れバ、早拾(10)人斗(ばか)り槍持て立並びたり、又盗賊燈灯二ツ持、又六尺棒持たる物其左右に立ちたり。」

 【お龍の証言】 
 龍馬の妻のお龍は寺田屋の養女です。左の写真は32歳ごろのお龍ですが、典型的な京美人だったそうです。

c0187004_1455614.jpg さて、龍馬襲撃の時お龍は、裸で龍馬に急を知らせたということになっていますが、それは、どうも眉唾のようです。
 当の本人は「千里駒後日譚」で、捕り手が来たときの様子を次のように語っています。
 「お登勢は次の室で小供に添乳をし乍ら眠って居る様子ですから、私は一寸と一杯と風呂に這入って居りました。
 処がコツンコツンと云う音が聞こえるので変だと思って居る間もなく風呂の外から私の肩先へ槍を突出しましたから、私は片手で槍を捕え、態(わざ)と二階へ聞こえる大声で、女が風呂に入って居るに槍で突くなんか誰れだ、誰れだと云うと、静にせい騒ぐと殺すと云うから、お前さん等に殺される私ぢゃないと庭へ飛下りて濡れ肌に袷を一枚引っかけ、帯をする間もないから跣足(はだし)で駆け出すと、陣笠を被って槍を持った男が矢庭に私の胸倉を取て (中略) 裏から二階へ上がれるかと云うから、表から御上がりなさいと云えば、ウム能く教えたとか何とか云って表へバタバタと行きました。
 私は裏の秘密梯子から駆け上がって、捕り手が来ました。ご油断はなりませぬと云うと、よし心得たと三吉さんは起き上がって手早く袴をつけ槍を取って身構へ、龍馬は小松さんが呉れた6連発の短銃を握って待ち構えましたが、敵の奴等は二階梯子の処まで来て、なにやらガヤガヤ云う斗進んでは来ないのです。」
 ここで一寸注釈、龍馬が持っていてピストルについて、お龍は小松帯刀がくれたと言っていますが、高杉晋作がくれたものとも言われています。

【お登勢の龍馬あて手紙】 
 さらにもう一人。寺田屋のお登勢(右の写真)は、勝海舟によれば「寺田屋は龍馬このやどに居ることしばしばなり、此の時の主婦は奇女にて龍馬を能くしれり」と言われた人です。

c0187004_1462167.jpg そのお登勢が龍馬にあてた慶応2年1月下旬推定の手紙では次のように書かれています。
 「その夜八ツ時ごろ風呂からあがって火鉢にあたっていると、ちょっと頼むと表から戸を叩くものがあり、あけてみると、うしろはちまき抜身の槍にて大よそ百人計もならび居り誠に々々びつくり致し居り候へ共、何事にて御座候と尋ね候へば、其方の二階に両人のさむらひが居るよしたしかに聞候。ありていに申すべしと申ゆえ、もはやかくすこともならず真の通り二階においでなされ候と申候へば、どうして居ると尋ね候故、まだねずにお咄しなされ候へば、夫れより捕手の人が大いに心配致し、どうしよこうしよといろいろ恐れ、だれいけかれいけとそのこんざつはいはんかたなく、其女が思ひ候には、こんな人が幾万人捕手にかかるとも其両人の人にはしょせんかなはずという事、心の内に思い、此だん安心致居申候」
 と書いてあるそうです。

【龍馬助かる】 
 3人の証言からすると伏見奉行所の捕吏たちは恐る恐る襲撃に向かったようですね。
 しかし相手は大勢ですので、坂本龍馬と護衛役の長州の槍の使い手三吉慎蔵は、斬り死にするのではなく襲撃から逃れることにして、隣家の庭に飛び降り、隣家を走りぬけ、辛くも逃げることができました。
 二人は貯木場に隠れ、龍馬は負傷していたため、三吉慎蔵が伏見の薩摩屋敷に助けを乞いに走り、伏見屋敷の留守居役大山彦八が龍馬を助けに貯木場に出向き、救出しました。
 京都の薩摩屋敷にいた西郷はみずから救出に出向こうとしたが皆から止められ、京都屋敷の留守居役吉井幸助が銃で武装した歩兵一個小隊を連れて京都の薩摩屋敷に保護しました。

 その後、坂本龍馬とお龍は結婚し、3月に鹿児島に一緒に旅行しています。これが日本の新婚旅行の第一号と呼ばれています。
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by wheatbaku | 2010-01-23 14:26 | 『幕末』 | Trackback
薩長同盟② (江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は薩長同盟の2回目です。薩長同盟締結に至る経緯について今日は書いていきます。

【薩長同盟とは米ソが手を結ぶようなもの】 
  司馬遼太郎は「竜馬がゆく」の中で、薩長同盟がどのような意味を持ち、龍馬の価値がどういうものかについて、次のように書いています。 c0187004_20362646.jpg 
  「この当時、薩長連合というのは、龍馬の独創的構想ではなく、すでに薩長以外の志士たちのあいだでの常識になっていた。薩摩と長州が手をにぎれば幕府は倒れる、というのは、たれしもが思った着想である。(中略)
 しかし、しょせんは机上の空論で、例えば1965年の現在、カトリックと新教諸派が合併すればキリスト教の大勢力ができる、とか、米国とソヴィエト連邦が握手すれば世界平和はきょうにでも成るという議論とやや似ている。
 龍馬という若者は、その難事を最後の段階でただひとりで担当した」
 薩摩と長州は、20世紀における米ソであるという表現はすごくわかりやすいと思いますので、抜書きしました。
  長州は、文久3年(1863)8月18日に公武合体派が尊王攘夷派を追放したいわゆる「8月18日の政変」や「禁門の変」以来、薩摩を不倶戴天の敵と見なしていました。その両藩が同盟するということは、20世紀においてアメリカとソ連を同盟させるに等しい至難の業だったのだと司馬遼太郎書いています。

 
 それでは、その至難な同盟がどのようにして実現したか、簡単に書いていきます。

c0187004_222223100.jpg【薩長同盟の発端は勝海舟】 
 薩長同盟のきっかけとなる方向性を坂本龍馬や西郷吉之助(隆盛)に指し示したのは勝海舟であると言われています。
 勝海舟は、元治元年(1864)9月11日に西郷吉之助にあった時に、もはや幕府には政権を担当する能力がない、これからは薩摩等の雄藩が力を合わせて政治を行う時代だと思い切って西郷吉之助に伝えます。 
 これにより西郷吉之助は深く悟るところがあり、第一次長州征伐の総督参謀を務めることとなった西郷吉之助は、これ以後、意識的に長州に寛大な方針をとるようになりました。
 勝海舟のこの考えが、薩長同盟のきっかけとなったと言ってよいかもしれません。

 ※上の勝海舟の銅像は墨田区役所の「うるおい広場」にあります。


【薩長同盟までの下地づくり】 
c0187004_20432692.jpg しかし、仇敵同士の薩長両藩の接近をはかり、同盟まで進めた立役者は坂本龍馬です。
 坂本龍馬は、勝海舟が神戸に設立した海軍操練所の塾頭になりますが、海軍操練所が閉鎖されると活動のの拠点を失います。
 そこで、薩摩の家老小松帯刀と西郷吉之助は、坂本龍馬を中心とする海軍操練所の人々を大阪の薩摩藩邸に引き取って彼らの航海技術を利用しようと考えました。
 慶応元年(1865)、坂本龍馬は小松帯刀と長崎に行き、「亀山社中」を設立し海運事業を開始しました。
 そして亀山社中の活動として、薩摩の力で購入した小銃等を、武器の購入を欲していた長州に運びました。
 続けて坂本龍馬は、汽船ユニオン号を薩摩名義で購入し、長州に引き渡しました。
 その代金は長州が支払いました。
 一方薩摩の西郷は上京するにあたって下関で米を売ってくれるように長州と交渉するよう坂本龍馬に依頼しました。これに対して長州は快諾しました。
 こうした実績を積み重ねていく中で両藩は次第に接近していったのです。

【薩長同盟成立前日の動き】 
c0187004_20431141.jpg 慶応元年には、いよいよ第2次長州征伐が開始されようとしていました。
 このような時期にふたたび坂本龍馬は、薩摩と長州に同盟を働きかけました。
 龍馬の説得に応じて、桂小五郎は京都に向かいました。
 しかし、龍馬が遅れて、慶応2年(1866)1月20日に京都に入ると、桂は帰り支度をしていました。
 西郷らは桂を歓待するが、同盟の話は一向に口にしないので、桂は帰ろうとしていたのです。
 坂本龍馬はあまり怒号を発したことはなかったそうですが、この時ばかりは非常に怒ったと言われています。。
 坂本龍馬は、桂を説得し、次いで西郷を説いて、薩摩側から同盟の話を持ち出すようにして、1月21日の会談がセットされて、ついに、薩長同盟が結ばれたのでした。

【ほくそ笑む勝海舟】 
 豊田穣の「坂本龍馬」によると、勝海舟は愛弟子である坂本龍馬の成功にほくそ笑んだそうです。
 そして海舟は氷川日記(慶長2年2月1日)に次のように書いているそうです。
 「薩、長と結びたりと言う事。実なるか。坂竜、今長に行きて是等の扱いを成すかと。左(さ)もこれあるべくと思わる」
 勝海舟の喜んでいる姿が目に浮かびます。

 こんな大事をした坂本龍馬に幕府の捕吏の手が近づいていました。明日はそのお話です。

 上記の坂本龍馬、小松帯刀、西郷隆盛の写真は、「国立国会図書館蔵」です。
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by wheatbaku | 2010-01-22 05:50 | 『幕末』 | Trackback
薩長同盟① (江戸検定今年のお題「幕末」)
 江戸文化歴史検定の今年のお題は「幕末」です。そこで、幕末の主要出来事を発生日に書いています。
 今日1月21日は、幕末いや日本史における画期的な出来事である「薩長同盟」が成立した日です。
 「薩長同盟」は慶応2年1月21日に成立しました
 坂本龍馬の業績は数々ありますが、その中で最も大きな業績の一つにといってよいでしょう。
 現在放映されている大河ドラマ「龍馬伝」で必ず出てくると思いますが、龍馬が暗殺される2年前の功績ですので、放映は、多分、秋以降になると思います。

 【薩長同盟締結場所・当事者・概要】 
c0187004_1724994.jpg  さて、薩長同盟締結のための会談は、京都の薩摩藩邸で行われました。(ただし、小松帯刀邸という説もあります。司馬遼太郎の「龍馬がゆく」では小松邸となっています。)
 薩摩の代表は、家老の小松帯刀、西郷吉之助(隆盛)で、長州の代表は桂小五郎(木戸孝允)でした。

 会談内容は文書化されませんでした。(個人的には、同盟内容が当事者同士で文書となっていないことにビックリしました。)
 しかし、翌日つまり1月22日に、桂小五郎が整理してあります。
 それによると6か条あります。
 概略で書くと、第2次長州征伐が、「戦」になったとき(第1条)、それに長州が勝つ場合(第2条)、長州が負ける場合(第3条)、また「不戦」の場合を想定して、それぞれ対応を決めてあります。
 そして、第5条でどうしても長州の復権が実現しないときには、幕府との決戦の覚悟を述べており、最後の第6条では「皇国」の概念を述べています。

 【薩長同盟の盟約内容詳細】 
 江戸検定で出題されるかどうかわかりませんが、江戸検定を意識して、薩長同盟の各条項の内容を書いておきます。
c0187004_1732239.jpg
1、長州が戦争となった時には、薩摩は兵を京阪に送り、京阪を固めること
 [一、戦と相成候時は、直様2千余の兵を急速差登し、只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置、京阪両処相固め候事]
1、戦いが長州藩の勝利になりそうな時は、薩摩は朝廷に申し上げ尽力すること
 [一、戦自然も我勝利と相成 候気鋒これあり候とき其節朝廷へ申上、屹度尽力之次第これあり候との事]
1、万一 敗色であっても1年や半年で壊滅することはないであろうから薩摩はいろいろ尽力すること
 [一、万一戦負色に有之候とも、1年や半年決而(けっして)壊滅致し候と申事は無之に付、その間には必尽力次第屹度有之候との事]
1、幕府の兵が引き上げた場合には、すぐに長州藩の冤罪がとけるように尽力すること
 [一、是なりにて幕兵東帰せしときは、屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力との事]
1、兵士を上京させた上でも、一橋、会津、桑名等が朝廷を擁し、周旋尽力の道をさえぎるような時には、決戦する。
 [一、兵士をも上国の上、橋会桑等も只今のごとき次第にて、勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を拒み、周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これなきとの事]
1、冤罪がとけた場合は、両藩が皇国のために尽力する。
 [一、冤罪も御免の上は、双方誠心を以て相合し、皇国の御為めに砕身尽力仕り候事は申すに及ばず、イツレの道にしても、今日より双方皇国の御為め、皇威相暉 き、御回復に立至り候を目途に、誠心を尽し、屹度尽力致すべきとの事]

 この条文を読むと、半藤一利氏が「幕末史」の中で
 「薩長同盟といえばふつうお互いに攻守同盟を結んだように思われやすいのですが、そうではなく、あくまで長州が攻撃された時には薩摩が全力をあげて助けることを明示すると同時に、両藩が一緒になり、皇国のため、国威を輝かすために全力を尽くすことを約束したのです」
 と書いてある意味がよくわかります。 つまり、薩長同盟は攻守同盟ではないようです。

【龍馬の裏書】 
 さらに、桂は帰国の途中23日に大阪から龍馬に手紙を書いて保証を求めました。
 それに対して、龍馬は朱書きで、手紙の裏に次の文を書いて保証しました。

 c0187004_21424836.jpg「表に御記被成(おしるしなられ)候六条ハ、小(小松帯刀)、西(西郷吉之助)両氏及老兄(桂小五郎)、龍(坂本龍馬)等も御同席ニて談論セシ所ニて、毛(すこし)も相違無之(そういこれなく)候。将来といへども決して変わり候事無之(これなき)ハ、神明の知る所ニ御座候。
丙寅(ひのえとら) 二月五日 坂本龍」

 この裏書は、慶応2年2月に京都から西下した長州藩士村田新八らによって桂にわたされたそうです。


 上記の坂本龍馬と桂小五郎(木戸孝允)の写真は「国立国会図書館蔵」です。
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by wheatbaku | 2010-01-21 06:21 | 『幕末』 | Trackback
ペリー再来航 (江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日1月16日は、安政元年(1854)のペリー再来航の日ですので、それについて書いていきます。

【ペリー提督の略歴】
 まず、ペリーとはどういう人物なのか書いて見ます。
 ペリーは、マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)といい、1794年(寛政6)海軍大佐の三男として、アメリカのロードアイランド州に生れました。
 父や兄と同様に海軍軍人となり、乗艦勤務を経て後、1833年(天保4)ニューヨークのブルックリン海軍工廠(こうしょう)長となりました。
 ここでペリーは、蒸気軍艦の建造や艦船の近代化に貢献し「蒸気海軍の父」と呼ばれるようになりました。
 米西戦争でも活躍した後、1852年(嘉永5)58歳の時に、フィルモア大統領より東インド艦隊の司令長官に任命され、日本遠征を行うことになりました。

【ペリーの遠征航路】
 ペリーは、嘉永5年11月にフィルモア大統領の親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航しました。
喜望峰・シンガポールを経て、嘉永6年2月29日香港に到着しました。
 太平洋を横断する方が日数は短いのですが、当時は太平洋横断航路が開かれてないので、西回りで香港までやってきました。
 そして、上海、琉球、小笠原諸島を経て、嘉永6年6月3日(1853)、浦賀に入港し、6月9日大統領の親書を手渡した。

【再来航まで】
 嘉永6年7月17日にペリー艦隊は江戸湾を出港し、琉球に赴き、琉球政府に強要して貯炭所の建造や産物取引所の設置等を認めさせました。
 さらに南シナ海を遊弋し、冬の日本近海は海が荒れて危険であることを充分承知していましたが、ペリーは嘉永6年12月16日に香港を出港し、ふたたび琉球に戻りました。
 そして、安政元年(1854)正月11日、7隻からからなるアメリカ艦隊は伊豆沖に姿を現し、正月16日には浦賀沖を通り、金沢に出現しました。
 この後、幕府とペリーとの交渉が開始されました。
 幕府は、ぬらりくらり回答をああたえないで、アメリカ艦隊を退去させようとしましたが、ついに安政元年3月3日に日米和親条約が結ばれることになるのです。

【再来航が早まった理由】
 アメリカでは、共和党政府が民主党政府に変わり政策が変わってきました。
 民主党のピアス大統領は、共和党のような積極策をとらず、ペリーの行動を抑えようとする方針をとりました。
 これに対して、ペリーは依然として最初の方針に基づき積極策をとろうとしました。
 また、ペリーはロシア、イギリス、フランスなどの極東にある艦隊や外交官が、アメリカ艦隊の行動に干渉する行動をとったので、一日も早く対日交渉をすることが有利であると判断しました。
 そのため、嘉永6年(1853)に来航した際には、半年後に再来航すると公式に声明したにもかかわらず、時期を早めて、厳冬海面の艦隊行動にはもっとも不利な時期であったが、日本再遠征を決意したのです。


 幕末には、「癸丑(きちゅう)以来」という言葉がよく使われていたそうです。
 癸丑とは嘉永6年のペリー来航のことを指します。
 このようにペリー来航は、日本の歴史の転換点となっているのです。 

久里浜 ペリー上陸記念碑
久里浜 ペリー上陸記念碑 posted by (C)うみかぜ
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by wheatbaku | 2010-01-16 08:01 | 『幕末』 | Trackback
坂下門外の変 ③ (江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、1月15日です。「坂下門外の変」が起きた日です。
 本日で「坂下門外の変」は3回目ですが、今日は「坂下門外の変」の後の安藤信正について書いてみます。

c0187004_20242424.jpg【名前変更】 
 安藤信正は、坂下門外の変で負傷したため、2ヶ月間静養した後、政務に復帰しました。
 そして、3月26日に名を信正に改めます
 それまでの名前は信行、元服の時は信睦でした。
 従って、「坂下門外の変」が起きた時は、安藤信行でしたので、正しくは、安藤信行でしょうが、多くの本が、安藤信正としていますので、このブログでは、安藤信正で統一しています。

【有能な安藤信正】 
 安藤信正は、大変有能な政治家で、評価が高かったようです。
 老中になった後、和宮降下も実現しましたし、幕府の軍制改革も計画しました。
 特に外交面で、次々と起きたヒュースケン暗殺事件、水戸浪士による東禅寺イギリス公使館襲撃事件などの難問を処理しました。
 当時のイギリス公使オールコックもその著書「大君の都」の中で、「安藤対馬守とわたしの関係は、常に友好的でいんぎんなものであった」と書いています。

【安藤信正 失脚】 
 しかし、安藤信正の政務復帰については、幕府内外からの反発がありました。
 安藤信正が背中に傷を受けたことをあげつらって士道がすたると主張する強硬論者もいました。
 また、安藤信正がハリスと贈収賄を行ったとか女性関係を暴露する怪文書が出回るなどしました。
 その結果、4月11日に老中を罷免され、8月16日には隠居・蟄居を命じられ、後は長男の信民が継ぎました。
 さらに、翌年1月20日には所領のうち2万石を減封されることになりました。

【反発の背景】 
 こうした背後には、大目付・目付を中心とした反安藤の動きがありました。
 それは、万延元年(1860)に安藤信正が中心となって出した「五品江戸回送令」以来の全国市場支配方式をめぐる幕府内の対立がありました。大目付・目付を中心とする急進派と勘定所を中心とした慚進派との対立です。
 安藤信正は慚進派を支持し大目付・目付の急進派を排除していました。この急進派の大目付・目付が安藤信正の復権に猛反対しました。
 さらに幕府外から薩摩藩の島津久光らの圧力がありました。久光は改革趣意書を朝廷に提出して、この中で安藤信正の退陣を強く求めました。
c0187004_1417774.jpg
【明治維新の安藤】 
 安藤信正は、明治新政府が立ち上がると、信民を継いだ若年の藩主安藤信勇に代わって、藩政を指揮し、奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦いましたが敗れ、磐城平城は落城し、安藤信正も降伏し、小石川の下屋敷で謹慎を余儀なくされました。
 そして、明治2年(1869)9月10日に永蟄居の処分が解かれた後、明治4年10月8日53才で、その生涯を閉じたのでした。
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by wheatbaku | 2010-01-15 06:19 | 『幕末』 | Trackback
坂下門外の変 ② (江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、「坂下門外の変」の襲撃の様子を書いていきます。

 正月15日は、上元の佳節で諸大名が江戸城に登り将軍に拝謁する日でした。
 この日、安藤信正は、五つ時(現在の午前8時)に西の丸下の藩邸を出発しました。
 安藤信正の行列が坂下門にさしかかると水戸浪士たち6名が行列を襲撃しました。

c0187004_22263461.jpg 【平藩上屋敷は坂下門の目の前】 
磐城平藩は、それまで浜町に上屋敷を持っていましたが、安藤信正の若年寄就任により西の丸下に、役宅を兼ねた上屋敷を拝領しました。
 この屋敷は、それまで老中であった堀田正睦が使用していたものだったそうです。
 安藤信正の屋敷から坂下門までは、100メートル余りの距離で、坂下門の目の前にあるという位置関係にあります。
 右上の図をみていただければ、位置関係がよくわかると思います。
 「坂下門外の変」はこのわずかな距離の中で起きたものでした。

c0187004_22311573.jpg 右の写真は、坂下門の前から安藤信正の屋敷があったと思われる場所を撮ったものです。現在は、皇居外苑の一部です。

【襲撃者たち】 
 安藤信正を襲撃したのは、水戸藩浪士・平山兵介、小田彦三郎、黒沢五郎、高畑総次郎(房次郎とも言われる)、下野の医師・河野顕三、越後の医師・川本杜太郎の6名でした。
 当初予定したメンバーの一人の川辺左次衛門が刻限に遅れたため、浪士たちは6名で襲撃を決行しました。
 浪士たちは、登城口近くで、高畑総次郎が行列の動きを監視、黒沢五郎と小田彦三郎が行列右側、川本杜太郎とリーダーの平山平介が左側に位置し、河野顕三が坂下門付近に待機という布陣で待ち受けました。

【襲撃の様子】 
 安藤信正の行列は上屋敷の北側の表門から斜め前約100メートルの坂下門へ進みました。
 正月15日は、諸大名総登城の日であるため、坂下門前の広場は諸大名の供回りなどで大混乱していました。浪士たちはこの混雑に紛れ安藤信正を狙ったのでした。
 c0187004_22273291.jpg
 まず平山兵介が襲撃趣意書を訴状のように持ち、駕籠近くへ進んでいきました。
 供回りが阻止する中、平山兵介は駕籠に向けてピストルを発射しましたが、平山兵介の銃弾は駕籠をそれました。
 浪士たちは、平山兵介のピストル発射を合図に一斉に抜刀して斬り込んで行きました。
 平山兵介は、この後も駕籠を執拗に狙い、駕籠越しに安藤信正の背に突き傷を負わせましたが、供回りに斬り伏せられ、その他の襲撃者も斬り合いの後、斬り伏せられました。
 駕籠を抜けて、門に逃げ込もうとした安藤信正を、黒沢五郎と河野顕三が追りました。
 しかし、黒沢五郎は進路を遮断されて斬られ、河野顕三は坂下門付近まで安藤信正に肉薄し、その頬に一太刀浴びせましたが斬られました。
 安藤信正は背中に深さ長さが一寸(約3センチ)の傷をうけましたが、一命を取り留めました。
 一方、襲撃した側の浪士はいずれも即死しました。
 また、刻限に遅れた川辺左次衛門は、長州藩邸におもむき斬奸状を提出し切腹して果てました。

 「坂下門外の変」の襲撃は、上の写真のあたりで行われたのではないでしょうか。
 今も皇宮警察の人たちが厳重に警備していました。
 
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by wheatbaku | 2010-01-14 06:23 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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