カテゴリ:『幕末』( 179 )
吉田松陰密航① (江戸検定今年のお題「幕末」)
 いよいよ吉田松陰の密航について書いていきます。
 吉田松陰が密航を企てたのは、嘉永7年(1854)3月28日のことでした。旗艦ポーハタンに乗り込むことができましたが、結局は、ペリーに拒絶され、密航は失敗に終わります。

【3月5日に江戸を出発】
 ペリーが再来航したのは1月16日ですが、吉田松陰が密航のため、江戸をたったのは、再来航後しばらくたった3月5日です。
 この日、京橋の酒楼で、宮部鼎蔵(ていぞう)たち仲間に密航の計画を打ち明けます。
 仲間は最初反対しますが、松陰の覚悟を聞いて最後は賛成してくれます。
 松陰は、同行の金子重輔とは赤羽根橋で待ちあわせ、江戸を出発します。
 そして、保土ヶ谷まで行き、しばらく保土ヶ谷や横浜で、黒船に乗れる機会をさぐっています。
 そうこうするうちに、3月13日に黒船は下田に向かって離れていったため、保土ヶ谷を出発します。そして3月18日に下田に到着しています。
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 3月25日には、舟を盗んで沖へ漕ぎ出しましたが、この日は波が荒く、漕いでも漕いでも黒船に近づくことができず遂にあきらめて引き返します。
 そして、柿崎弁天島に上陸し弁天社で一夜を過ごします。
 翌日朝、お参りに来た村人に驚き、山越えで反対側の海岸に避難します。そして、夜遅く戻ってきました。

 3月27日には、柿崎海岸で、アメリカ人にあい、国禁を犯してまでも外国で学びたいという旨を書いた「投夷書」を手渡します。

【3月28日に密航】
 そして3月28日の午前2時ごろに漁船を見つけて乗り込みます。
 しかし、櫓を固定する杭がなく、ふんどしで櫓を縛り付けて漕ぎ出します。
 しかし、ふんどしではすぐゆるんだため、次に帯を解き櫓に縛り付けて漕いでいきました。
 最初に漕ぎついた船は、ミシシッピでした。
 ミシシッピには日本語はもちろんのこと漢文も読める人がいないので、旗艦のポーハタンに行くよう言われてやむなく100メートルほど離れたポーハタンに行きました。

【密航を拒絶される】
 荒波に翻弄されながらポーハタンにたどり着くことができましたが、その際に接舷を拒否する水兵と争いながら身一つで飛び移ったため、乗ってきた舟が流されてしまいました。
 刀や荷物などすべての所持品を残したままであり、これが後に動かぬ証拠となりました。
 ポーハタンの中には、中国語通訳のウィリアムスがいたため筆談しながら何とか通じたようです。
 松蔭らの考えに一応の理解は示しましたがアメリカ行きははっきりと拒絶されました。
 国交を結んだ相手国の法律を破ってまで密航者をアメリカに連れていくわけにはいかないことやペリー艦隊は3ヶ月間は滞在する予定であるからその間に許可をとるべきであるといったことが拒絶の理由であったようです。

 そして、結局、二人はボートで送り返されます。
 送り返された二人は所持品一切を乗せた船を捜しますが見つからず、最終的に柿崎村の名主に自首しました。

 上の吉田松陰の写真は「国立国会図書館蔵」です。
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by wheatbaku | 2010-04-01 06:15 | 『幕末』 | Trackback
日米文化交流 (日米和親条約 ③ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 日米和親条約の調印に至る間、日米間の交渉は、単に政治交渉だけが行われた訳ではありませんでした。
 文化交流も行われました。饗応や贈り物を通じた文化交流もかなり盛んに行われました。
 今日は、日米の饗応の様子を書いてみます。

【アメリカ側の饗応】 
 アメリカ側では、3月27日に交渉団を旗艦ポーハタン号の上でパーティーを開催し接待しました。
 牛肉、羊肉、鶏肉の料理が準備され、スープやシチューが用意され、ハムも出され、お酒はワイン、シャンパン、リキュールなどが出されたようです。

 「ペリー艦隊日本遠征記」には次のように書かれています。
 また、右の写真のように日本側を招待しての黒船艦上での接待の図も掲載されています。(下田「了仙寺」蔵)
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 甲板の日本人一行は、各艦船から集まった大勢の士官に歓待され、シャンペン酒、マディラ酒、パンチを浴びるほど振舞われて、すっかりにぎやかになった。彼らはこれらの酒が大いに気に入ったようだった。日本人たちは率先して健康を祝う乾杯の音頭をとり、斗酒なお辞せず飲み干した。彼らの張り上げる声のかたたましさたるや、勇壮で軽快な曲を奏で続けて宴を盛り上げている軍楽隊の音楽もかき消してしまうほどだった。要するに、それはいぎやかな歓楽の光景であり、お客に大いに楽しんでもらえたということだ。

 非常ににぎやかに宴会が進み、交渉団が大いに楽しんだ様子がよくわかります。
 どうやらドンチャン騒ぎになったような気もします。 
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 最後には、日本人はご馳走の残り物をふところにいれて持って帰り、酔っ払ってペリーに抱きついた人もいたことも記録されています。

【日本側の饗応】 
 これに対して、日本側は、刺身、焼き魚、野菜の煮物、ご飯、吸い物といった純和風料理で接待したそうで、そのレベルは、将軍が食べる料理のレベルだったようです。
 それを今忠実に再現すると一人当たり30万円以上はかかるような御馳走だったそうです。

 右写真は、天狗のような容貌から「天狗ペリー」と呼ばれているペリー像です。(下田「了仙寺」蔵)
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by wheatbaku | 2010-03-30 05:49 | 『幕末』 | Trackback
日米和親条約② (江戸検定今年のお題「幕末」)
 日米和親条約について今日も書いていきたいと思います。
 ペリーと日本全権交渉団の交渉が1ヶ月間にわたり行われた後、日米和親条約は嘉永7年(1854)3月3日に調印されました。

【和親条約の内容】  
c0187004_816368.jpg 日米和親条約は、全体で12条からなっています。
 その主な内容は
 ①下田と函館への寄港を認める。
 ②船員と漂流民を保護する。
 ③下田に領事の駐在を認める。
 ④治外法権を認める。
 ⑤最恵国待遇を認める 
というもので、不平等条約でした。
 
 右写真は、ペリー艦隊の旗艦ポーハタン号です。「下田了仙寺蔵」


【日米和親条約は、4ヶ国語で書かれている】 
c0187004_8162333.jpg 日米和親条約の原本は日本では焼失してしまっていますが、アメリカ側の原本は、ワシントンの国立公文書館に残っているそうです。
 それによると、条約文書は、日本語、英語、オランダ語、中国語で書かれている4種類のものがあるそうです。
 そして、英語の文書には、ペリーだけのサインで、林大学頭の署名はなく、日本語の文書には、林大学頭の署名だけで、ペリーのサインはないそうです。
 それは、林大学頭が、外国語で書かれたものには署名できないと頑強に主張したため英語の文書に林大学頭の署名はないんだそうです。

 このことについて、ペリー艦隊日本遠征記においても、次のように書かれています。
 1854年3月31日、金曜日、提督はいつもの随員を伴って条約館に赴き、到着するやさっそく英語で書かれた条約の写し3通に署名し、それを合衆国の通訳ウィリアムズ氏とポートマン氏が認証したオランダ語、中国語の訳文の写し3通とともに、委員たちに手交した。同時に日本委員は、同国政府を代表して、それぞれ日本語、中国語、オランダ語で書いた条約の写し3通を提督に手交した。そこには皇帝がそのためにとくに選んだ4人の委員の署名が入っていた。
 (日本側が署名をして渡した条約の写しに英語のものが入っていないとことに注目してください)
 上の写真は西郷隆盛に似ているところから「西郷ペリー」と呼ばれているペリー像です。「下田了仙寺蔵」

 【和親条約の全条文】 
 さて、最後に、江戸文化歴史検定1級を受験しようとしている人など関心のある方のために、日米和親条約の全条文を、万来舎の「ペリー艦隊日本遠征記」から記載しておきます。
 時間のある時にお読みください。
 
 次にあげるのが承認された条約である。
 アメリカ合衆国と日本帝国とは、両国民間に確固として永続する誠実な親睦を確立することを願い、条約または一般的な和親協約をもって、今後両国が交際する際に相互に守るべき規定を明確に定めることを決定した。このきわめて望ましい目的のため、合衆国大統領は、その委員として遣日特命大使マシュー・カルブレイス・ペリーに全権を与え、日本の偉大なる君主は、その委員として林大学頭、井戸対馬守、伊沢美作守、鵜殿民部少輔に同じく全権を与えた。
 また、上記の委員らは、その全権を取り交わし、適切に前述の諸事項を考究したのち、次の諸事項を取り決めた。

第1条 アメリカ合衆国と日本帝国、および両国民の間には、人格または場所の例外なく、完全かつ永久なる普遍的平和と誠実かつ懇篤なる和親とが存するものとする。
第2条 伊豆国の下田港と松前領の箱館港は、アメリカ船舶の受け入れ港として、日本人に許容されるものとする。この2港においては、日本人がそれを有する限り、薪水、食料、石炭、その他の必要な物資の供給を受けることができる。下田港は本条約調印のうえ即時開港し、箱館港は日本暦の明年同日以後、即時開かれるものとする。
ただし、提供すべき物品の値段表は日本役人から渡され、その支払いは金貨または銀貨をもって行われるものとする。
第3条 合衆国の船舶が日本の沿岸において座礁または難破した場合、日本船はその船舶を救援し、その乗組員を下田または箱館に護送し、身柄の受け取りに任じられた同国人に引き渡すものとする。同様に避難者の所有する物品はすべて返還されるものとし、両国いずれかの海岸に打ち上げられたアメリカ人および日本人の救助と扶養の際に生じた出費は弁済するには及ばない。
第4条 合衆国の遭難者およびその他の市民は、他の国におけると同様自由であり、監禁されてはならないが、公正な法律には従うものとする。
第5条 下田および箱館に一時的に居留する合衆国の遭難者および他の市民は、長崎におけるオランダ人および中国人のように拘束および監禁に服することなく、ここに添付された付図に描かれている、下田港内の一小島より日本里程で7マイル(里)の範囲内では、随意の場所に赴く自由を有するものとする。同様に箱館においても、合衆国艦隊が同地を訪問したのちに定められる範囲内では、随意の場所に赴く自由を有するものとする。
第6条 ほかに必要とする物品、または取り決めを要するなんらかの業務があれば、その事項を決定するため、両当事国間で慎重に審議するものとする。
第7条 開港された港に寄港する合衆国の船舶は、金、銀貨および物品と他の物品との交換を、日本政府がこの目的のために暫定的に定めた規則に従い行うことができる。ただし、合衆国の船舶は、日本人が交換を欲しない物品はすべて持ち帰ることができるものとする。
第8条 薪水、食料、石炭および必要な物品は、この目的のために任命された日本役人の周旋によってのみ調達することとし、他の方法によってはならない。
第9条 他日、日本政府がこの条約において合衆国およびその市民に許容していない特権と便益を、他の一国民または諸国民に許容する場合には、なんらの協議も遅滞もなく、合衆国およびその市民にも同じ特権および便益を許容することを取り決める。
第10条 遭難した場合、または荒天に強いられた場合を除き、合衆国の船舶が下田および箱館以外の日本の港に渡来することを許可しないこととする。
第11条 もし両国政府のいずれかが、その取り決めを必要とみなす場合には、本条約調印の日より18ヶ月を経たのちに、合衆国政府はいつでも下田に駐在する領事または代理官を任命することができる。
第12条 この約定を取り決め、しかるべく調印されたうえは、アメリカ合衆国および日本、ならびに両国の市民および臣民は義務として、忠実にそれを遵守するものとする。また上院の協議と同意を得たうえは、合衆国大統領によって批准認可され、また日本の尊厳なる主権者によって批准認可されるものとする。その批准は調印の日より18ヶ月以内、または可能ならばさらに早期に交換されるものとする。

 主イエス・キリストの1854年3月31日、嘉永7年3月3日、神奈川にて。
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by wheatbaku | 2010-03-29 06:20 | 『幕末』 | Trackback
日米和親条約 (江戸検定今年のお題「幕末」)
 嘉永7年(1754)3月28日に、吉田松陰が密航しようと黒船に乗り込んだものの失敗した事件が起きました。
 そこで、この話を中心に幕末の記事について書きますが、吉田松陰の密航事件のまえに、嘉永7年(1854)3月3日に日米和親条約が締結されましたので、日米和親条約の話を先にします。
 嘉永7年(1854)1月16日に再来航したペリーとは、約1ヵ月後の安政元年2月10日に条約交渉が始まりました。
c0187004_153736.jpg【交渉団のメンバー】
 日本側の委員は、林大学頭(林復斎)が交渉団の筆頭、そして北町奉行の井戸対馬守(井戸覚弘いどさとひろ)、浦賀奉行の伊沢美作守(伊沢政義)、目付の鵜殿民部小輔(鵜殿長鋭うどのながとし)、そして儒者の松崎満太郎でした。
 そして通訳として森山栄之助、堀達之助というオランダ通詞が参加しました。
 アメリカ側の交渉団は、ペリー提督が全権 アダムズ参謀長、中国語通訳のウィリアムス、オランダ語通訳のポートマン、さらに秘書でペリー提督の息子のO・H・ぺりーでした。
左の写真はペリー艦隊の従軍画家ハイネによるペリーの肖像画です。最も本物に近いペリー像と言われているそうです。下田の了仙寺さんの所蔵です。


【「ペリー艦隊日本遠征記」に書かれた人物像】
 日本側の委員たちについて、「ペリー艦隊日本遠征記」には次のように書かれています。
c0187004_21583233.jpg 
 林大学頭が首席委員であることは間違いなかった。重要事項はすべて彼に委託されたからである。この人物は55歳くらいで、立派な風采をそなえ、やさしげな容貌ときわめて丁重な物腰とは裏腹に顔の表情は重々しくむしろむっつりしていた。

 井戸対馬守はおよそ50歳くらいの、太った背の高い人物だった。彼は年長者の林にくらべれば、多少は快活な表情をしていた。

 三番目のいちばん若い諸侯が伊沢美作守で、40歳さほど超えていないようで、3人のうちでとびぬけて美男だった。彼はまったく陽気な人物で、冗談やお祭り騒ぎが好きで、道楽者との評判だった。

 鵜殿は、(中略)背が高くまずますの容貌だが、顔立ちがきわめて特徴的で、いかにもモンゴル系らしかった。
 松崎満太郎についても書かれてありますが略します。

【複雑な通訳手順】
 この交渉団では、日本語から英語、英語から日本語に通訳できる人は一人もいませんでした。
 そのため、ペリーの要求は、英語からオランダ語に訳され、ポートマンが日本側に伝えます。
 それを聞いた日本側のオランダ通詞が日本語に約して、林大学頭に伝えます。
 そして、林大学頭の回答は、また逆の手順を通ってペリーに伝えられるという非常に厄介な手順をとらざるを得ませんでした。

【ジョン万次郎交渉団に参加できず】
  実は、日本には英語が理解できる人がいました。有名なジョン万次郎です。ジョン万次郎が通訳に参加していれば、こんな複雑な手順は不要でした。
 しかし、水戸斉昭が、万次郎はアメリカから恩を受けているので寝返る可能性があるから交渉団に参加させないほうがよいと言う意見を具申したため、ジョン万次郎は交渉団に参加できませんでした。
 万次郎にとっては大変残念だたのではないでしょうか!
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by wheatbaku | 2010-03-26 06:16 | 『幕末』 | Trackback
井伊直弼の評価 (桜田門外の変 江戸検定今年のお題「幕末」)

 「井伊直弼と桜田門外の変」の最後に、井伊直弼ついての評価が書かれた文を紹介して、このシリーズを終わります。
 本からの紹介ですので、ちょっと読むのが大変かもしれませんがお付き合いください。

 まず、最初は、江戸文化・風俗の研究家として有名な三田村鳶魚の「井伊大老の家族」の中から紹介します。
c0187004_14333498.jpg これは中公文庫の「鳶魚江戸文庫16 大名生活の内秘」の中に載っています。

【水戸・彦根両側からみる必要がある】
 「(井伊直弼については)今日でも、水戸の天狗連の系統に属する文書を資料として、薩長諸家の主張を解説にする。それと反対の資料、反対の解説を聴いたら、何となる。また、両端を叩けばどんな音がするか、何人も考慮したほうがよい

 と書いて、後段に次のようなエピソードを紹介しています。

「質素な生活を忘れられない中将(井伊直弼)は、顕栄な地位につかれての後も、手ずから柚子味噌を拵(こしら)えることがあった。それへ『御礼之儀は申上置候』という書付を添えて、度々臣下に与えられた。
 いささかの物でも、君公からの拝領といえば、家来の栄誉でもあり、主従の礼として、一々お礼言上に出なければならない。ここを察して、御礼済の書付を添えて下さる。それで別段お礼に出なくても済んだ。
 一通(側近の三井孫太夫のこと)はお手製の柚子味噌を頂戴することから思い付いて、八月朔日の式日出仕に、自分の畑の大カボチャを、縄からげで奥へ提(ささ)げ込み、手作りのカボチャというので献上した。
 中将はすぐに『八朔や もろたかぼちゃの 礼をさき』と書いて与えられた。式日の御礼口上よりも先へ、この方からカボチャの礼をいうぞ、という心持ちで、親しくもあり、いかにも気軽な様子がよく現われている。
 こうしたこぼれ話によって、大老在職中、忙しく険しい間にも、豪も鋭いところがなかったのが知れよう。」


 最後に、東京大学名誉教授小西四郎氏の井伊直弼評を書いておきます。
 小西四郎氏は、中公文庫「日本の歴史19  開国と攘夷」の中で、次のように述べています。

c0187004_15371636.jpg 【吉田松陰斬首が悪評の原因】
 「井伊直弼を、外国に屈して違勅調印をおこない、安政の大獄を起こして勤皇の志士を殺した悪逆無道の人間であるというような批判攻撃はどうであろうか。

 あるいはそれほど強い表現ではないにしても、井伊直弼に対する非難の声は高い。
 しかし、わたくしは、そうは思わない。当時の志士は、たしかに井伊を悪逆無道の人間と考えたであろう。だが現在のわたくしたちは、もっと客観的に人物を観てゆかなければならないのではなかろうか。

 遺勅調印にしても、天皇の意思を絶対視する考えのうえからの発想であり、王政復古史観・皇国史観の立場からいえば、そのような批判も生まれてくるであろう。勤皇志士の弾圧も同様である。
 とくに吉田松陰を殺したことが、井伊直弼批判の声を大きくさせていると思う。
 その教育を受けたものが、明治天皇制下の元勲となり、長州藩閥が形成されたとき、恩師松陰を殺した井伊直弼は、極悪人ときめつけられ、それに対する反論は封ぜられた。

 わたくしをして言わしむれば、吉田松蔭を殺したことで、直弼はどんなに損をしたかしれない、遠島ぐらいにしておけば、それほど非難はされなかったのではないだろうかと。

 最後までお読みいいただきありがとうございました。
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by wheatbaku | 2010-03-17 06:19 | 『幕末』 | Trackback
直弼の覚悟(桜田門外の変④ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 12回にわたり、「井伊直弼」および「桜田門外の変」について書いてきましたが、 今日は、「井伊直弼は襲撃されることを事前に承知していて、襲われることを覚悟していた」という話をしたいと思います。

c0187004_21211977.jpg【友人の忠告を無視】 
 井伊直弼は、桜田門外で非業の死を遂げましたが、意外に知られていませんが、その死は直弼自身があらかじめ覚悟していたものだったとも考えられています。
 井伊直弼は。事件の数日前、友人の矢田藩主松平信和(のぶやす)を始めとした何人かから忠告を受けていたのです。
 信和(のぶやす)の意見は、水戸を脱藩した浪士たちの不穏な動きを警戒しなければならない。事態が落ち着くまで大老を辞してはどうかというものでした。
c0187004_2114155.jpg  これに対して直弼は、国家の危機の一身の保全を図る事などできないとし、その友情に感謝の意を示しつつ申し出を断っています。
 それでもなお彼の身を案じる信和は身辺の警護を厚くするように強く薦めました。
 しかし直弼はこの進言すら受け入れなかったそうです。
 諸侯の従士の数は幕府により定められているもので、大老の自分がそれを破ることはできないというのです。
直弼は自分の身よりもあくまでも幕府の権威を再度確立させることを第一に考えていたからです。

 左上の写真は、井伊家の菩提寺である世田谷豪徳寺の山門です。ここに直弼もねむっています。


c0187004_2194410.jpg【襲撃の投げ文も無視】 
  3月3日の事件当日、直弼が屋敷を出た直後に、側役の宇津木左近が直弼の部屋で封の切られた書を発見しています。
 この日の早朝に何者かが投じたもので、密かに覗き見ると、水戸浪士に注意するよう忠告した封書でした。
 直弼は書を読み自らの危険を知りながら誰にも知らせることなく出発した後でした。
 宇津木はびっくり仰天し同僚に告げ、対策を講じようとした矢先に飛び込んできたのが直弼遭難の知らせでした。
 井伊直弼は、投げ込まれた投書を確実に見ていたに違いありませんが、側近にも告げず、屋敷を出発したのでした。
 井伊直弼、覚悟のうえでの遭難であったのだろうと言われています。

  以上のことは余り知られていませんが、これが事実であれば、井伊直弼に対する見方も変わっていいように思います。

 右上の写真は井伊家上屋敷表門外西にあった「桜の井」の跡です。井伊直弼もこの脇を通り登城していました。
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by wheatbaku | 2010-03-16 06:17 | 『幕末』 | Trackback
幕府の対応(桜田門外の変③ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 井伊大老の暗殺は、幕府にも衝撃を与えました。
 今日は、桜田門外の変の後の幕府の対応について書いてみます。 
 
c0187004_2225299.jpg【直弼は生きていることに】
 井伊大老が、桜田門外で襲撃されたとの報は、すぐに幕府にも伝わりました。
 緊急に4人の老中たちが招集されて事件について協議しました。
  集まったのは、内藤信思(のぶこと)、松平乗全(のりやす)、脇坂安宅(やすのり)、安藤信睦(のぶゆき)の4人でした。
 藩主が生前に跡目相続をせずに死んだ場合は、家名断絶となるのが掟であり、今回の直弼の死はこれに相当することになります。
 しかし、今回、井伊家を取り潰せば、井伊家は水戸藩に対して報復手段を取ることは明らかです。
 また、喧嘩両成敗の定めに従えば、幕府は御三家の一つ水戸徳川家も取り潰さなくてはなりません。
 そうすれば過激な水戸藩士が黙っているわけがありません。
 そこで幕府は彦根藩の安泰を図り、水戸藩に対しても存亡にかかわるような制裁を加えないことが最善策だと判断しました。
 彦根藩に当分の間直弼の死を隠し、負傷したように装い、折をみて死亡を公表し、直弼の子供の愛麿(のちの直憲)に跡目相続するように指示したのです。

c0187004_22252277.jpg【幕府、彦根藩を慰撫】
 幕府の指示を受けて、彦根藩から幕府に、直弼遭難の届出が出されました。
 即日、幕府から彦根藩での動揺がないようにとの論旨がありました。
 そして、将軍家茂は4日に使いを井伊家に遣わし朝鮮人参を賜りました。
 5日には、改めて幕府から井伊家に「動揺しないようにとの達しが出されました。
 さらに7日には将軍家茂が若年寄酒井忠眦( ただます)を遣わして氷砂糖と鮮魚を賜りました。 
 このように幕府は彦根藩が暴発しないように盛んに慰撫しています。
 それは、藩主を暗殺された彦根藩では、江戸だけでなく彦根でも激昂は大きかったからです。

 彦根に桜田門外の変を伝えたのは先日紹介した埋木舎の所有者で武蔵野学院大学副学長の大久保治男氏の先祖の大久保小膳です。
 大久保小膳は3日夜に江戸を立ち8日早くに彦根に着いているそうです。
 こうした江戸からの報告を受けて激昂する藩士が多く、水戸藩とは一触即発の状況にあったからです。
 
 彦根藩士の怒りは、水戸藩だけでなく、行列にいながら逃げ帰った藩士にも向けられました。
 彦根藩では、即死者は4名、藩邸で死亡したもの4名いましたが、その他、軽傷の人や無傷の人もいました。
 これらの人々は、強く非難され、とりあえず謹慎処分にされました。 そして2年後には斬首などの処分がされたそうです。
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by wheatbaku | 2010-03-15 06:53 | 『幕末』 | Trackback
襲撃後の水戸浪士 (桜田門外の変② 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、桜田門外で井伊直弼を襲撃した人たちのその後を書いていきます。 

 襲撃に加わった18人のうち、現場で死亡したのは、稲田重蔵のみでした。
 その他の人たちは、現場から脱出しました。
 しかし、残る17名中4名がまもなく自刃し、8名が老中邸などに自訴し、残る5名が現場を脱出し各地に逃亡しました。

【天童藩上屋敷前で2人自刃】 
c0187004_20482669.jpg 自刃したものは4名いますが、そのうち、山口辰之助と鯉淵要人は、傷が深く、伊勢長島藩増山家上屋敷の角を右にまがり、ようやく天童藩織田家上屋敷前にたどりつき、そこで自刃しました。
 天童藩織田家は、織田信長の次男織田信雄の系統で、上屋敷は、現在の丸の内の三菱ビルヂングや丸の内二丁目ビルディングがある場所にありました。ここは、丸ビルの南側になります。

【竜野藩上屋敷に4人自訴】 
 襲撃した水戸浪士たちは、襲撃が終わった後、月番老中の村上藩主内藤信思(のぶこと)の屋敷に自訴する計画でした。 c0187004_20484810.jpg 
 しかし、馬場先門が通行できなかったため、村上藩に自訴するのをあきらめ、竜野藩上屋敷に自訴しました。竜野藩藩主脇坂安宅(やすのり)が老中であったためです。
 ここに自訴したのは。斉藤監物、佐野竹之介、黒沢忠三郎、蓮田市五郎の4人でした。
 4人は満身創痍で、特に佐野竹之介は重傷で、その日のうちになくなりました。
 竜野藩上屋敷は、現在の東京海上日動ビル(写真左のビル)や新丸ビル(写真の右のビル)の建っている地区にありました。
 竜野藩が拝領する前は、福山藩阿部家上屋敷として老中阿部正弘が拝領していました。 

【熊本藩上屋敷に4人自訴】 c0187004_20583669.jpg
 水戸浪士のうち4名が肥後熊本藩細川家上屋敷に自訴しています。
 自訴したのは、森五六郎、大関和七郎、杉山弥一郎、森山繁之の4人です。
 竜野藩に自訴した人たちが重傷であったのに比べ、熊本藩に自訴した人たちは軽傷だったそうです。
 熊本藩上屋敷は、東京駅丸の内北口を出た場所で、現在、日本生命東京本部(写真の左部分)や丸の内オアゾ(写真の右部分)がある場所にありました。

【三上藩上屋敷前で有村自刃】 
 有村が自刃したのは三上藩上屋敷前でした。 c0187004_20491133.jpg井伊直弼の首をあげた有村次左衛門は勝鬨をあげ、刀の切先に直弼の首級を突きたてて引き上げにかかりましたが、昏倒していた井伊家の小河原秀之丞が鬨の声を聞いて蘇生し、主君の首を奪い返そうと有村に追いすがって後頭部に切りつけました。
 小河原は広岡子之次郎らによって斬り倒されたが、有村も重傷を負いました。
 有村は、しばらく歩いていたもののついに歩行困難となり辰ノ口の三上藩遠藤家上屋敷の門前で自決しました。この時の三上藩藩主遠藤胤統(たねのり)は、当時、若年寄でもありました。
 三上藩上屋敷は、パレスホテルやAIGビルのある場所にありました。
 現在パレスホテルは建て替え中で、写真正面はAIGビルです。 

 この時まで有村が持っていた直弼の首は、一旦、三上藩遠藤家に引き取られた後、井伊家から人が出向き、供方騎馬徒士の加田九郎太の首と称して取り戻しました。

【姫路藩上屋敷前で広岡自刃】 c0187004_20585067.jpg
 自刃者はもう一人います。広岡子之次郎は、大手門前の姫路藩酒井家上屋敷前で自刃しました。
 この自刃の様子を姫路藩士が見ていて、広岡の最後を「いさぎよい死ぬぶり」と書いているそうです。
 姫路藩酒井家上屋敷は、現在は、りそな銀行(写真)、三菱東京UFJ銀行などになっています。

【関鉄之助も斬首される】 
 その他の関鉄之助、岡部三十郎、海後蹉磯之助、広木松之介、増子金八の5人は大老の首をあげるのを見届け、現場を脱出しました。
 そして、襲撃の指揮者・関鉄之介は各地を逃亡した後、越後湯沢温泉で捕らえられ江戸で斬首されました。
 自訴した人たちや逃亡した後捕えられた人は斬罪に処せられ、後まで生存したのは、増子金八と海後蹉磯之助の2人でした。
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by wheatbaku | 2010-03-12 05:36 | 『幕末』 | Trackback
桜田門外の変(江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、いよいよ桜田門外の変です。
 
 3月3日は五節句の一つである上巳の節句であり、大名の登城日でした。
 安政7年の3月3日に桜田門外の変が起きました。 この日は、大雪でした。新暦でいうと3月24日ですので、春には珍しい大雪ということになります。 

【土蔵相模で訣別の宴】 
3月1日の決定を受けて、水戸浪士たち18人の実行部隊は、決行の前日の3月2日夕刻、品川の土蔵相模に集合し訣別の宴を開きました。c0187004_16564875.jpg 
 「土蔵相模」とは、食売(めしもり)旅籠の「相模屋」のことで、外壁が土蔵のような海鼠壁(なまこかべ)でしたので、「土蔵相模」と呼ばれました。
 桜田烈士の決別の宴のほか、高杉晋作たちの英国公使館焼き討ち事件の密議の場所にもなった「土蔵相模」は、惜しくも昭和52年に壊されて、現在はマンションが建っていて一階がコンビニエンスストアーになっています。 コンビニの前の通りが、旧東海道です。

c0187004_2161878.jpg【愛宕神社に集合】 
 3月3日早朝、土蔵相模を出た実行の人々は、愛宕山の愛宕神社に集合します。
 現在、愛宕神社の社殿前には、「桜田烈士の碑」が建てられています。
 桜田烈士とは次の18人の人々です。
 水戸浪士17人
  関鉄之介(現場総指揮 戦闘不参加)、岡部三十郎(検視見届役 戦闘不参加)、斎藤監物(神官、戦闘不参加の予定だったが戦闘に参加) 、稲田重蔵、山口辰之介、鯉淵要人(神官)、広岡子之次郎、黒澤忠三郎、佐野竹之助、大関和七郎、森五六郎、蓮田市五郎、森山繁之介、海後磋磯之介(神職)、杉山孫一郎、広木松之介、増子金八
 そして唯一の薩摩藩士 有村次左衛門

c0187004_21101242.jpg【襲撃の体制】 
 18人は、「武鑑」を手にして大名の登城を見物しているふりをして桜田門外で待ちました。
 桜田門近くには、森、
 お濠側に佐野、大関、広岡、稲田、森山、海後の6人が立ち、
 杵築(きづき)藩松平家上屋敷(現在は警視庁になっています)側に、黒沢、山口、杉山、増子、蓮田、鯉淵、広木、有村の8人が立っていました。
 以上15人が実際の戦闘要員で、現場の総指揮者の関鉄之助、それに岡部と斉藤は少し離れた場所に立っていました。
 上の写真は、桜田門前から見た警視庁です。桜田門外の変当時は豊後杵築藩上屋敷があり、屋敷前で桜田門外の変が起きました。 

【暗殺まで数分間の出来事】 
 井伊直弼の一行は午前9時に上屋敷を出ました。
 直弼の行列が桜田門外の杵築藩上屋敷前に近づいた時、森が訴状を手にして駕籠訴するような格好で駕籠に近づきました。井伊家供頭の日下部三郎が近づくと、いきなり切り付けられ深傷を受けて倒れました。 c0187004_21111573.jpg
 これと同時に銃声がなり、待機していた水戸浪士たち、お濠側からは佐野たち、杵築藩松平家上屋敷の塀側からは黒沢たちが、一斉に直弼の行列に切り込みました。
 井伊側も必死に防戦しますが、雪を防ぐための柄袋や合羽に自由を奪われ斬り立てられてしまいます。
 そして、直弼の乗った駕籠だけが残りました。薩摩藩士有村次左衛門が、駕籠に何回も突きつけ、そして、直弼を駕籠から引き出し、その首を落としたのです。
 直弼は、発射された弾丸によって、腰部から太腿にかけて銃創を負い、動けなくなってしまっていたため、居合い術の達人でありながら、その居合いを活かすこともできませんでした。

 襲撃開始から直弼殺害まで、わずか数分の出来事だったといいいます。
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by wheatbaku | 2010-03-11 06:30 | 『幕末』 | Trackback
桜田門外の変前章(井伊直弼⑨ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 桜田門外の変は、水戸浪士17人と薩摩藩士1人が実行しました。
 実行した人々の大部分が水戸藩の関係者であったのには、理由があります。
 今日はその話をしたいと思います。

【幕府、勅錠返納するよう水戸藩へ圧力かける】 
 安政の大獄は、水戸藩への戊午の密勅(ぼごのみっちょく)が下されたことが大きなきっかけとなっており、断罪された人たちも圧倒的に水戸藩関係者でした。
 安政の大獄の処罰が一段落した後も、幕府は、問題の勅諚を返納させるために、水戸藩に圧力をかけてきます。
 まず、幕府は水戸藩から勅錠を返納させるために、関白九条尚忠を動かして返納を命じる勅錠を出させ、安政6年(1859)12月10日に京都所司代が受け取りました。
c0187004_11115543.jpg そして、12月15日、井伊直弼は、江戸城内で徳川慶篤に対して勅錠を返納するよう伝えました。
 さらに、翌日、若年寄安藤信睦(のちの老中安藤信正)は、小石川の水戸藩邸に赴き勅錠を朝廷に返納させるべく水戸藩に圧力をかけました。
 しかし、水戸藩では、勅錠は水戸の祖廟に納めてあったので、即時に返納することはできませんでした。
 そこで、徳川慶篤は水戸にいる斉昭に状況を伝え勅錠を取り寄せ返納することとしました。
 水戸藩では、鎮派とよばれた人たちは、勅諚を返納しようと考えますが、激派と呼ばれる人たちは、返納に反対します。

【返納反対派は長岡に頓集】 
 12月25日には、水戸藩が勅錠の返納を決定し、藩内に布告しました。
 これに対して返納に反対する激派は、勅諚が鎮派によって密に持ち出されるのを防止しようと、江戸に通じる水戸街道の長岡宿(茨城県東茨城郡茨城町)に集まり、往来する人々を改めるという挙に出ました。
 水戸藩は長岡勢を鎮定しなければ勅錠の返納もおぼつかないと考え、斉昭も長岡勢を鎮圧することを決意し2月15日には諭書を下しました。
 2月18日には、水戸藩が長岡の激派の首領である高橋多一郎関鉄之介を召還しようとしますが、既に藩を脱走していました。
 2月20日に、長岡の激派は解散しますが、一部は江戸に出奔し、金子孫二郎関鉄之介も江戸に潜入します。

 そして、3月1日に金子孫二郎関鉄之介たちが、日本橋の料亭に会合し、3月3日に桜田門外において井伊大老の登城時に襲撃することを決定しました。

 そしてこの人たちが、3月3日に、桜田門外で井伊直弼を襲うことになります。

c0187004_11135351.jpg 【左近の桜】 
 今日は記事にあう適切な写真がありませんでした。
 そこで、水戸偕楽園の左近の桜をお見せします。左近の桜の後ろに見えるのが好文亭です。
 左近の桜は、斉昭夫人登美宮(有栖川宮織仁親王の九女)が降嫁する時、時の仁孝天皇から下賜されましたが枯死してしまい、現在の桜は、京都紫宸殿の左近の桜の根分けのもので、昭和38年3月宮内庁より頒布されたものを植えたのだそうです。
 左近の桜は山桜の一種で、花より先に葉が出ます。
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by wheatbaku | 2010-03-10 12:21 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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