カテゴリ:『幕末』( 213 )
榊原健吉(幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
 幕末の剣豪の最後は、「最後の剣客」と呼ばれた「榊原鍵吉」 を取り上げます。

【兜割りの妙技】 
 榊原鍵吉は、明治20年11月11日に伏見宮邸で行われた明治天皇の行幸のもとの剣技披露の席にて、兜割りを行ったことで知られています。時に57歳でした。c0187004_1653888.jpg 
 兜割りに挑戦したのは3人でした。
 一人は、鏡心明智流桃井春蔵門下の名人であり、警視庁の撃剣師範を務めていた逸見(へんみ)宗助でした。失敗でした。
 もう一人は、逸見と同じ桃井道場門下であり、その兄弟子にあたる上田馬之助でした。
 彼は桃井道場随一の俊才として名高く、竹刀の突きで道場の四分板を破ったという逸話の持ち主でした。
 しかし、やはり兜は割れませんでした。
 そして、最後に榊原鍵吉が挑戦しました。鍵吉は同田貫で見事に三寸五分切り込みました。
 これをご覧になった明治天皇は、大変賞賛したそうです。

【男谷精一郎に薫陶を受ける】 
  榊原鍵吉は、文政13年(1830)、御家人榊原益太郎友直の長男として生まれました。
 そして、13歳の時、麻布狸穴(まみあな)にあった男谷精一郎信友の門下となりました。
 剣聖と呼ばれた男谷精一郎は、鍵吉に対してもやさしい人でした。
 鍵吉の父が転居し、道場に通うのに不便になっても、鍵吉は男谷の道場に通いつづけました。
 それを見かねて、精一郎は、通うのに便利な近い道場に変わってもよいと言いました。それでも、鍵吉は精一郎の道場に通いつづけました。
 鍵吉は、進歩がめざましく非常に上達しましたが、貧しい彼は、免許状の申請をしませんでした。
 当時は、免許皆伝のお礼として、師匠にお礼を贈り、さらに披露の宴を開いて師匠や先輩をもてなすのが、慣習でした。健吉はその費用が工面できないので固辞していたのです。
 それを見かねた精一郎は、自ら費用その他の面倒を一切みて、固辞する鍵吉に対して、鍵吉の免許皆伝を許したのでした。
 鍵吉が、安政3年(1857)27歳の時に講武所教授方に就任しました。これも、精一郎の推薦があったからです。 
 
【高橋泥舟を破る】 
 徳川家茂が第14代将軍となると、鍵吉は講武所の教授方から師範役に昇格し、将軍に近侍するようになりました。
 c0187004_22464075.jpg そして、安政7年(1860)、鍵吉は家茂の御前試合で高橋泥舟と試合をし、泥舟を破っています。
 高橋泥舟は、勝海舟、山岡鉄舟とならんで幕末三舟の一人で、日本第一の槍の名人といわれました。
 高橋泥舟は、山岡鉄舟の義理の兄でもあります。
 ところが、家茂は慶応2年に、第二次長州征伐の途中、大阪城内で病死してしまい、鍵吉は官職を辞しました。 鍵吉は、家茂の後を継いで将軍となった徳川慶喜には仕える気が起きなかったのだそうです。。
 上野戦争では、彰義隊から再三入隊の誘いがありましたが参加しませんでした。
 しかし、この戦いの中で輪王寺宮公現法親王を、戦火の中から救い出しました。

【維新後の榊原】 
 維新後は、徳川家達に従って駿府に赴きました。
 しかし、廃藩置県により、駿府七十万石の存続も危なくなると、迷惑をかけぬよう、早々に辞職しました。
c0187004_2248714.jpg 明治5年に、廃刀令が出ると、剣の代わりに杖を腰に差し、明治6年には、窮乏する道場の資金稼ぎとして、撃剣興行を始め、維新後衰退した剣術の再興と普及に取り組みました。
 これは大変好評で、これを真似る見世物が氾濫しましたが、剣術を見世物にすることに耐えられなかった鍵吉は興行は止めてしまいます。

 このように剣術で生きていくのが難しくなる時代に、明治20年に明治天皇行幸の席で、鍵吉の晴れ姿を見せることができたのでした。
 榊原鍵吉は、明治27年9月11日に亡くなりました。65歳でした。
 鍵吉は死ぬまで髷を解かなかったそうです。
 鍵吉の墓は、四谷西応寺にあります。

 明治になって、坂本龍馬暗殺の犯人であると証言した今井信郎( のぶお)は榊原鍵吉の弟子です。
[PR]
by wheatbaku | 2010-06-22 05:34 | 『幕末』 | Trackback
男谷精一郎 (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
 幕末の剣豪で最も有名な三大道場については、先週書きましたが、幕末の剣豪をあと二人紹介したいと思います。
 その中で、今日は「剣聖」と呼ばれた 「男谷精一郎信友」 について書いていきます。

【勝海舟の義理の従兄弟】  
c0187004_18224838.jpg 男谷信精一郎友は、寛政10年(1798)、男谷信連の子として生まれました。
 20歳の時に同族の男谷彦四郎の婿養子となります。
 彦四郎の父は男谷平蔵で、平蔵の長男が彦四郎で、三男が小吉すなわち勝海舟の父です。
 従って、男谷精一郎と勝海舟は義理の従兄弟ということになります。
 ただし、勝海舟が生まれたときに、男谷精一郎は25歳ですので、だいぶ年の差がある従兄弟ということになります。
 勝海舟も剣術の指導を精一郎から受けています。
 右の勝海舟の写真は国立国会図書館蔵

【他流試合を拒まない】  
 文化2年(1805)、8歳のときに本所亀沢町、直心影流剣術12代の団野源之進(真帆斎)に入門し、さらに、平山行蔵に兵法を師事、他に宝蔵院流槍術も熟達した。
c0187004_17154211.jpg 文政6年(1824)に麻布狸穴に道場を開き、31歳の時に直心影流13代を継承しました。
 文政12年(1830)、男谷彦四郎の養子となりました。
他の流派の多くは、他流試合を禁じていましたが、男谷精一郎は積極的に他流試合を行いました。
 精一郎は、申し込まれた試合は一度も拒まず、江戸府内に立ち合わなかった者はいないといわれるほどでした。
 そして、試合では、どんな相手でも三本のうち一本をとらせ、相手に花を持たせました。
 その性格はきわめて温厚であり、門弟や女中達にも平等に、穏やかに接する人物でもあったそうです。
 また、実力もすごく、作家の直木三十五は、史上最強の剣豪に新陰流の祖である上泉伊勢守をあげ、第二位に男谷精一郎が挙げています。
  こうした人間性と実力の高さと合わせて「幕末の剣聖」と呼ばれました。
  作家の中里介山や心母澤寛も、幕末の剣客の第一人者は男谷精一郎であると言っているそうです。
  右写真は男谷家があったと言われている「両国公園」です。

【講武所で活躍】  
 安政2年(1855)、講武所が開設されました。講武所の開設は、水野忠邦の時代から、精一郎が度々建議をしてきたものでした。 精一郎は講武所頭取並となり、剣術師範役を兼務しました。
 文久2年(1862)には、下総守に叙任、講武所奉行となって禄高3000石を与えられ、文久3年(1863)の将軍徳川家茂の上洛に際して旗奉行を兼ねました。
そして、その翌年元治元年(1864)67歳でなくなりました。
 
【有名な弟子たち】  
 精一郎の門弟には、勝海舟の剣の師匠となる島田虎之助、兜割りで有名な榊原鍵吉、彰義隊の中心人物となる天野八郎などがいました、
 
[PR]
by wheatbaku | 2010-06-21 05:39 | 『幕末』 | Trackback
桃井春蔵 (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
今日は、江戸三大道場の最後に、鏡新明智流「士学館」の桃井春蔵について書きます。

【春蔵は4人いる】 
 三大道場の中で、最も早く開設されたのは、桃井春蔵の「士学館」でした。 
 桃井春蔵というのは、鏡新明智流の初代から4代まで4人います。
 鏡新明智流は初代桃井春蔵直由(なおよし)が創始した流派です。初め鏡心明智流と書いたそうです。
 直由は大和郡山藩柳沢家の臣でしたが、浪人となり諸国をまわり、戸田流居合術、一刀流、柳生流、堀内流の4流を修め、戸田流の秘太刀を基本に、槍術山本無辺流の長所を加えて一流を編み出したといいます。
 安永2年(1773)江戸へ出て、日本橋南茅場町に道場「士学館」を開きました。
c0187004_1775520.jpg  そして、芝神明社への掲額事件で評判をとりました。
 2代目春蔵は、初代の門人で養子となった春蔵直一(なおかず)で、直一が寛政年間に「士学館」を築地蜊(あさり)河岸に移しました。
 3代春蔵直雄(なおかつ)は2代目直一の実子です。3代目の時代には、道場もますます盛況を示しました。
 
【4代目春蔵が有名】 
 そして、4代目春蔵が「位は桃井。技は千葉。力は斎藤」と評された直正です。
 4代目春蔵直正は、駿河沼津藩士・田中十左衛門の次男として生まれました。
 天保9年(1838)、江戸に出て3代目桃井春蔵直雄に入門し、鏡新明智流を学びました。
 直正は剣術の才能を師匠に見込まれ、天保12年(1841)、17歳で養子となりました。
 嘉永元年(1848)には免許皆伝の腕を持つようになり、25歳で4代目桃井春蔵を襲名しました。
 文久元年(1861)に、は講武所の教授方に登用されています。

【新撰組も恐れをなす】 
 この頃、春蔵は、新撰組も恐れをなしたと言われています。
 慶応元年ごろ、春蔵は弟子を連れて京都を歩いていると、新撰組の隊員に出くわし、「道を譲れ。譲らぬと斬るぞ」と難癖をつけられ、相手は抜刀しました。
 このとき、春蔵は「わしは剣で腕を鳴らした桃井春蔵だ。お望みなら相手になるぞ」と告げました。
 すると、新撰組隊士は、慌てて謝罪し、退散したと言われていうことです。

【晩年は大坂で過ごす】 
 c0187004_8452691.jpg 慶応3年(1867)には遊撃隊頭取並に任じられ、春蔵は将軍慶喜と共に大坂入りしています。
 しかし、薩長軍との戦闘に反対し辞職しました。
 その後、大坂に残り、大阪府羽曳野市にある誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)の宮司となりました。
 誉田八幡宮(右写真)は応神天皇陵のすぐ近くにあり、日本最古の八幡宮といわれているそうです。
 明治18年、コレラにより死去しました。61歳でした。

【門弟は土佐藩関係者が多い】 
 玄武館は水戸藩との関係が深く、練兵館は長州藩と関係が深いのですが、士学館は土佐藩との関係が深いようです。c0187004_2015343.jpg 
 安政4年頃には、龍馬伝に出てくる武市半平太が塾頭を勤めています。
 また、後に「人斬り以蔵」と呼ばれる土佐藩の岡田以蔵も士学館で修行しました。
 その他の門弟としては、四天王の一人浜松藩の上田馬之助もいました.
 さらに、期間は短いのですが佐倉藩出身で明治になって上田馬之介とともに警視庁の撃剣世話掛となった逸見宗助も士学館に入門した一人です。

 写真は、武市半平太や坂本龍馬が暮らした土佐藩中屋敷があった跡に現在たっている中央区役所です。
 ここからは蜊(あさり)河岸までは、5分程度の近距離にあります。
[PR]
by wheatbaku | 2010-06-18 08:23 | 『幕末』 | Trackback
斎藤弥九郎② (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、斉藤弥九郎の2回目です。

 斉藤弥九郎は、剣術だけでなく、政治などにも深くかかわります。
 これは、岡田十松の弟子に、伊豆の江川英龍、水戸藩の藤田東湖、田原藩の渡辺崋山等の名士がいて、かれらと交際していたことが大きな影響を及ぼしていると思います。

【江川英龍と強い関係】 
 その中でも、特に江川太郎左衛門英龍と深い交際関係を築いています。
c0187004_15142119.jpg 江川英龍は18歳の時に「撃剣館」に入門し、その時江川より3歳年上の21歳であった弥九郎から指導を受けます。そして、2年後には免許皆伝を受けています。
 弥九郎が俎板橋に「練兵館」を開く際に、江川はそれに対して資金援助をしています。
 弥九郎は、江川が天保6年(1835年)伊豆国韮山の代官となると、江戸詰書役として仕えました。
 天保9年(1838)には、江川は老中水野忠邦の命令により江戸湾の測量の実施に鳥居耀蔵とともに任命されました。
 この時に、弥九郎は渡辺崋山と相談して、測量の専門家の推薦を高野長英の弟子の内田孫太郎を江川に推薦しています。また、この測量に弥九郎自身も江川の手代として参加したといわれています。
 なお、この測量の際の江川と鳥居の対立が、後に「蛮社の獄」のきっかけになっています。

【お台場築造にも関与】 
 嘉永5年にぺりーが来航したことを受けて、江川は、江戸湾防備のために品川台場の築造を建議しました。
c0187004_1514025.jpg  そして、建議した江川が台場の築造を命じられます。この時も、弥九郎はその実地測量や現場監督を行ったとされます。
 品川台場は、わずか8か月で完成します。しかし、当初は11基の予定であった台場は、まず第1~3、次いで第5~6、さらに陸続きの御殿山下台場と、合計6基だけが竣工し、残りは築造が中止されました。
 安政2年(1855年)に江川英龍が死去しても、弥九郎は後継の江川英敏からも引き続き助力を要請されました。
 同じ年の10月には安政の大地震で藤田東湖が水戸藩邸内の自邸で圧死しました。
 『斎藤弥九郎伝』によると、この時弥九郎は東湖の遺骸を自分の長持に納めて水戸へ送り届けたとあるそうです。

【明治新政府にも出仕】 
 安政3年(1856)長男の新太郎が2代目弥九郎となり、練兵館を継ぎました。弥九郎自らは斎藤篤信斎と名乗り隠居しました。
 新太郎も腕がたちましたが、その弟の歓之助も突きを得意として鬼歓とよばれるほど強く、大村藩の指南役として迎えられています。
 弥九郎は、文久3年(1863)には、長州藩の依頼を受け、門人の中から十数名を選抜し、勇士組と称して長州へ派遣したりしています。
 明治になってからは、明治政府に出仕し会計官権判事となって大坂に赴任し、明治3年、造幣寮が火事になった折りに猛火の中に飛び込み、大火傷を負いながらも重要書類を運び出しました。
 そして、その時の火傷がもとで、明治4年10月に死去しました。74歳でした。
[PR]
by wheatbaku | 2010-06-17 05:46 | 『幕末』 | Trackback
斉藤弥九郎① (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
 千葉周作に続いて神道無念流「練兵館」の「斎藤 弥九郎」について書いてみます。
 
 斎藤弥九郎は、寛政10年(1798年)に越中国射水郡仏生寺村(現在の氷見市)で農民の子供として生まれました。
 小さい頃、高岡で油屋の丁稚や薬屋の小僧となりましたが、思うようにならなかったので、一度帰郷した後、銀一分をもって江戸に出ました。

【岡田十松に弟子入り】 
 江戸で、旗本能勢祐之丞(のせすけのじょう)の家僕として働きながら、19歳の頃、神道無念流の岡田十松吉利に入門しました。
 岡田十松は神田猿楽町で「撃剣館」という道場を開いていました。
 岡田十松の弟子には、伊豆の代官の江川英龍、水戸藩の藤田東湖、田原藩の渡辺崋山、新撰組局長の芹沢鴨ら有名人が大勢いました。
 弥九郎は剣の腕をあげ、28歳の時、師範代となり、十松の没後には、その後継の岡田利貞を後見しました。

【練兵館を設立】 
c0187004_15145166.jpg そして、文政9年(1826)には独立し、江戸九段坂下の俎橋(まないたばし)近くに「練兵館」を開きました。この時、江川英龍が資金援助をしています。
 この練兵館は火災にあったため、その後天保9年(1838)三番町に移転しました。
  ☆現在、靖国神社の南門脇に、千代田区設置の史跡説明板があります。
 しばらくすると、2代目十松岡田利貞が、「撃剣会」を3代目十松岡田利章に引継ぎ、自分は練兵館にやってきて師範代として斉藤を助けることになりました。

【練兵館には長州人が多い】 
 弥九郎の門人も大勢いますが、特に長州藩士の門人が多くいます。
c0187004_1517989.jpg これは、弥九郎の長男の新太郎が、嘉永2年(1849)と嘉永5年(1852)に長州藩を訪れていることが大きく影響しています。
 吉田松陰も、江戸遊学中の嘉永4年10月に斉藤弥九郎と新太郎を訪問しているそうです。
 また 嘉永5年の訪問のあと、長州藩は練兵館に、5名の藩士を藩費で修行のため送っています。
 その時、桂小五郎(木戸孝允、写真は「国立国会図書館蔵」)は私費で江戸へ留学することとなり、練兵館に入門しています。
 桂小五郎は、翌年には、早くも塾頭となり、以後数年間にわたり練兵館の塾頭を務めました。

 その他、長州藩の門下生として、高杉晋作・品川弥二郎・井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)らがいます。
[PR]
by wheatbaku | 2010-06-16 06:12 | 『幕末』 | Trackback
千葉周作② (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、千葉周作の2回目です。
 千葉周作は、北辰一刀流を創始した後、千葉周作は、武者修業の旅にでます。
  関東一円から甲斐・駿河、三河などを巡って他流試合を行い腕を磨きました。

【馬庭念流との騒動】 
 廻国修行中、上州で伊香保神社に奉納額を掲げることを企画しましたが、地元の馬庭念流がこれを阻止しようとする騒動が発生し、最終的に掲額を断念しました。
 この話は曲亭馬琴が、「兎園小説」の中で、「伊香保の算額」と題して書いて有名となりました。 この騒動で、掲額はできませんでしたが、周作自身は名を挙げました。

【玄武館を創始】 
c0187004_2142367.jpg 周作は江戸に帰り、文政5年(1822)秋、日本橋品川町に道場「玄武館」を開きました。
 その後に神田於玉ヶ池に移転し、多数の門人を育てました。
 これが有名な「お玉が池の千葉道場」です。
 玄武館の隣は、儒学者東条一堂の揺池塾(ようちじゅく)であり、玄武館の塾生が儒学を学び、揺池塾の塾生が剣術を学ぶことができ、剣術と儒学が同時に学べると評判でした。
 東条一堂が亡くなった後、玄武館は、揺池塾の敷地もあわせたので、玄武館道場は一町四方の敷地面積になったそうです。
 写真は、玄武館道場跡を示す「右文尚武(ゆうぶんしょうぶ)」の石碑です。神田の千桜小学校跡にあります。

【北辰一刀流の特徴】 
 北辰一刀流は精神論に偏らず合理的な剣術であったため人気を得ました。
 それまでの中西派一刀流は、習得までの段階が8段階あり費用も時間も多くかかりました。
 しかし、北辰一刀流は、初目録、中目録免許、大目録皆伝の3段階と簡素化しました。
 また、北辰一刀流の基本的な構えとして「鶺鴒の尾」があります。
 下段の構えで、刀の先をセキレイの尾のように動かす特徴的な動きがあります。
 これは、剣先が凝り固まらないようにするため、行動に移すのを早くするため、動作の始まりを相手に気づかれないようにするためだそうです。

【大勢の門弟】 
 玄武館には、多くの門弟が集まり、門弟の数は、浅草観音に奉納した額には3千600人の名前があったそうです。
 門弟は全部では6千人を超えるとも言われています。
 千葉周作の有名な門下生は、浪士組幹部の清河八郎、山岡鉄舟、新撰組幹部の山南敬助などが挙げられます。
 弟の定吉は、当初は兄の周作を手伝っていましたが、京橋桶町に道場を持って桶町千葉と称されました。
 定吉の弟子で最も有名なのが坂本龍馬です。
 
c0187004_2144508.jpg【水戸徳川家に仕える】 
 周作は、天保3年(1835)に水戸藩前藩主の徳川斉昭の招きを受けて、剣術師範とされ、馬廻役として100石の扶持を受けました。
 千葉周作には4人の男子があり、長男奇蘇太郎(きそたろう)、次男栄次郎、三男道三郎、四男多門四郎のいずれも資質に恵まれましたが、とくに栄次郎はすばらしい腕前の持ち主で、千葉の小天狗と称されました。そして、次男の栄次郎成之と三男の道三郎はそれぞれ水戸藩の馬廻役となっています。
 千葉周作は、 安政2年(1855)になくなり、豊島区巣鴨の本妙寺に眠っています。

 
[PR]
by wheatbaku | 2010-06-15 06:20 | 『幕末』 | Trackback
千葉周作① (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
 幕末は、激動の時代だということもあって多くの剣豪がでてきました。
 大河ドラマをにぎわしている坂本龍馬、武市半平太、桂小五郎は剣豪でもあります。
 そこで、今日からは、幕末の剣豪について、書いていきます。
 幕末には、江戸三大道場といわれた「玄武館の千葉周作」、「練兵館の斎藤弥九郎」・「士学館の桃井春蔵」が最も有名ですので、これら三大道場から書いていきます。

 まず、「千葉周作」です。
 
c0187004_2184074.jpg【浅利又七郎のもとで修行】 
 千葉周作は、出生地は岩手県陸前高田市と言われています。
 また、宮城県栗原市花山とも言われています。
 神田の玄武館道場跡にある碑では、栗原市としています。
 写真は剣豪・千葉周作の才能を見いだしたと言われる佐藤重太郎の邸宅です。
 宮城県栗原市花山にあり、孤雲屋敷と呼ばれています。
 千葉氏は上総の名族千葉常胤の子孫と言われています。周作の父は幸右衛門と言い、祖父は、吉之丞といい北辰夢想流を始めたと言われています。
 父幸右衛門は、文化6年(1809)周作が16歳の時、江戸に近い松戸に移り、医者を開業しました。
 この頃、千葉周作は、中西派一刀流の浅利又七郎義信に入門しました。
 浅利は松戸出身で、小野派一刀流の中西道場に学び、突きの名手といわれました。
 後に、山岡鉄舟も弟子入りして指導も受けています。
 浅利の元で腕を磨いた周作をさらに上達させるため、浅利は、師匠の中西子正(つぐまさ)について学ばせました。

 c0187004_2171090.jpg【音無しの構え】 
 中西道場には、「中西道場の三羽烏」と呼ばれた寺田宗有、高柳又四郎、白井亨など錚錚(そうそう)たる人がいました。
 その中の一人、高柳又四郎は、「音無しの構え」で有名でした。
 中里介山の「大菩薩峠」に出てくる机竜之介のいわゆる「音無しの構え」は、この高柳又七郎の「音無しの構え」からヒントを得たといわれています。
 高柳又七郎は、どんな人と試合をしても、音をたてたことなかったと言います。
 二三寸剣先をはなしておき、相手が踏み込んできた時に、こちらから、一気に踏み込んで、一度も相手に竹刀に触れさせないのです。「後の先をとる」と言われるそうです。
 そこから「音なしの構え」と呼ばれていました。
 周作は、その高柳又七郎と試合をし、竹刀の音をたてさせたということで有名になりました。

 こういう強豪ぞろいの中で、周作は、腕を磨き、一時は浅利義信の婿となって後を継ぐことを期待されました。
 しかし、後に組太刀の改変について浅利義信と意見が対立したため、浅利の養女であった妻を連れて独立しました。
 そして祖父の起こした「北辰夢想流」と「中西派一刀流」を発展させて、新たに「北辰一刀流」を創始したのです。

 明日は、千葉周作のその後について書きます。
 
[PR]
by wheatbaku | 2010-06-14 06:03 | 『幕末』 | Trackback
靖国神社 (大村益次郎④ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 大村益次郎についてのお話は今日が最終日になります。

【不平士族に襲撃される】 
 長州藩で、抜群の軍政能力を発揮した大村益次郎は、新政府の軍務局に勤めます。
 そして、新政府の強硬意見により、軍防事務局判事として江戸に下ります。
 江戸では、西郷や海江田などの融和意見を抑え、彰義隊隊を討伐することとし、上野戦争で勝利を収めます。この経緯は、 「上野の攻防」 に書きましたので、そちらをご覧ください。
 その後、越後や東北での戊辰戦争の指揮を江戸でとります。そして、函館戦争の勝利で戊辰戦争は終結します。
 大村は、新政府では、国民皆兵制をめざします。
 しかし、それは、士族の特権を奪うもので士族の反感を買います。そのため、大村の政策に反対する長州等の不平分子により、明治2年9月、京都で襲撃されます。
 それが元で、襲撃されて約2ヵ月後の11月5日に大坂で死去します。
 大村の最後の言葉は、楠本イネにオランダ語でいった「さようなら」だったそうです。

【靖国神社】 
c0187004_2103641.jpg 九段の靖国神社には、大村益次郎の銅像があります。
 この銅像は、大村が彰義隊を討伐するときの姿をモデルにしているそうで、陣羽織を着て左手に双眼鏡を持って東北の方向を見ています。
 靖国神社は明治2年(1869)に、国内外での戦争などで戦没した軍人などを祀るための神社として創建されました。初めは東京招魂社と呼ばれました。
 この東京招魂社の建設にも、大村益次郎が関わっていて、九段の場所を提案したのが、大村益次郎だそうです。ちなみに、社地は旧幕府歩兵屯所跡です。
 東京招魂社は、明治12年(1879)に靖国神社と改称されました。
 「靖国」という社号は、明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
 大村の銅像は、明治26年(1893)、日本最初の西洋式銅像として建てられました。
 製作者は大熊氏廣です。

【彰義隊士の墓】 
 一方、賊軍とされた彰義隊の戦死者の墓は、上野公園の西郷隆盛銅像の後ろにあります。
c0187004_2111460.jpg  彰義隊士の遺体は、戦争直後は、上野山内に放置されていました。そこで、三ノ輪円通寺の住職仏磨らによって、上野で茶毘に付されました。
 その荼毘をした場所に建てられているのが、彰義隊の墓です。
 彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府府をはばかって彰義隊の文字はありませんが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」と刻まれています。
 正面の小墓石は、明治2年(1869)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものですが、後に堀り出され、現在の場所に設置されました。
 大きな墓石は、明治14年(1881)に元彰義隊士小川興郷らによって建立されました。

【不平士族の暴発を予測】 
 最後に、大熊益次郎は、不平士族の反乱は、西国で起きると予言していたという話があります。
c0187004_14221526.jpg 新政府に対する反対は、戊辰戦争の終結で、一応収まりました。
 しかし、新政府の首脳は不穏は動きを怖れていました。それに対して、大村は、「東北は、あと10年や20年は立ち直れないだろう。何かあるとすれば、それは西の方である」と言ったといいます。
 「このことは、子爵曽我裕準の自叙伝に書かれている」と中公新書絲屋寿雄著「大村益次郎」に書かれています。また、「 一説によると、大村は、薩摩と西郷の動きを注視していた」とも書かれています。
 大村は、大坂と熊本に鎮台を置き、大坂に造兵廠、宇治に火薬製造所を設置しました。
 これらは、西国の不平士族の暴発に備えたものだそうです。
 明治の不平士族の反乱はすべて西国で起きています。その最大のものが、西南戦争です。
 西郷軍の東上を防いだのは、熊本鎮台の頑張りと言われていますが、これを見ると、大村の予言は的中していたと言えると思います。
 写真は、熊本鎮台が置かれた熊本城です。
[PR]
by wheatbaku | 2010-06-04 10:57 | 『幕末』 | Trackback
長州征伐(大村益次郎③ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、大村益次郎の3回目です。
 今日は、長州藩における兵制改革や長州征伐での戦いで大村の活躍について書いていきます。

 【長州藩の兵制改革に取り組む】 
c0187004_1732942.jpg 長州藩では元治元年(1864)の第一次長州征伐の結果、幕府へ恭順する俗論派が政権を握りました。
 しかし、その年の12月から翌慶応元年(1865)正月にかけて、高杉晋作らが馬関で挙兵して俗論派を打倒、藩論を倒幕でまとめました。
 但馬に潜伏していた桂小五郎も帰藩します。そして、桂・高杉により、大村は抜擢され兵制改革に着手します。

 ☆写真は、萩にある高杉晋作の生家です。 

 c0187004_1735295.jpg まず、大村は、2月に密かに上海に渡り、藩の軍艦を売却したお金で最新式銃を購入しています。
 また、6月に長州藩の兵制改革を命じられた大村は、銃隊を編成して、軍装を洋服に切り替え、火縄銃に替えて新式のミニエー銃を採用しました。さらに、すべての兵を藩の直轄軍としました。
 大村は、閏5月には馬廻士となり100石取りとなり、12月には藩命により、村田蔵六から大村益次郎と改名しました。改名の経緯などははっきりしていないようです。
 ☆写真は、萩にある桂小五郎(木戸孝允)の生家です。


 【第2次長州征伐はじまる】
 
 慶応2年(11866)6月幕府の第2次長州征伐が開始されました。
 第2次長州征伐は、まず7日に幕府艦隊の周防大島への砲撃が始まり、13日には芸州口、16日には石州口、17日には小倉口でそれぞれ戦闘が開始されました。
 大島口では、幕府陸軍の洋式歩兵隊と松山藩の兵が、大島に上陸し占領しました。
 幕府海軍と高杉率いる艦隊が戦い、奇襲戦法により幕府海軍は敗走しまし、その後長州軍が大島の奪還を果たします。
 芸州口には、幕府軍の主力が配備され、彦根・高田・紀州・大垣・宮津の諸藩兵が、総督紀州藩主徳川茂承(もちつぐ)の下に配備されました。ここでは、戦線が膠着状況に陥りました。
 小倉口では、老中小笠原長行が指揮する九州諸藩と高杉晋作、山縣有朋ら指揮する長州藩との戦闘行われ、奇兵隊以下の諸隊の活躍がめざましく、7月末には、老中小笠原長行(ながみち)も退却し、小倉藩は8月1日に小倉城に火を放って退却しました。

 【石州口で総指揮をとる】  
 大村は1000人の兵を率いて石州口方面の戦闘指揮を担当します。
 この戦いの中で、大村は、その才能は遺憾なく発揮し、優れた戦術により幕府側を撃破します。
c0187004_1741181.jpg  洋式軍制をしいて、兵士に最新式の銃器を装備していた長州軍に対して、中立的立場を取った津和野藩は戦わず長州軍を通過させます。
  ☆右の写真は、津和野藩藩校であった「養老館」です。
 そして、長州軍は浜田藩に進みます。浜田藩主は徳川慶喜の実弟・松平武聰(たけあきら)が藩主でしたが、武聰は浜田城を放棄し松江城に逃れました。
 浜田城跡にある「浜田藩追懐の碑」に司馬遼太郎はつぎのように書いています。
 「長州軍は時のいきおいを得、また火力と軍制を一新させ、各地で幕軍を破った。
 ついには浜田城下に押し寄せた。浜田藩は和戦についての祝儀がまとまらず、さらには25歳の藩主松平武聰は病臥中でもあって、曲折のすえ、みずから城を焼いてしりぞいた。明治維新に先立つ2年前の慶応2年(1866)のことである。」
 

 長州藩が、各戦線で優勢に戦いを進めている最中に、大坂にいた将軍家茂が死去します。
 この報を受けた老中小笠原長行も戦線を離脱し、第2次長州征伐は、事実上、幕府軍の全面敗北に終わりました。

 この停戦交渉を命じられたのが、勝海舟です。このことは、以前、「長州征伐停戦交渉」に書きましたのでご覧ください。
[PR]
by wheatbaku | 2010-06-03 06:20 | 『幕末』 | Trackback
長州藩出仕 (大村益次郎② 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、大村益次郎の2回目です。
 今日は、長州藩に出仕した大村の活躍について書いていきます。

【桂の要請により長州藩に出仕】 
 万延元年(1860)に、大村は、長州藩の要請により江戸在住のまま長州藩士となります。
c0187004_10421698.jpg これには、桂小五郎(のちの木戸孝允)の働きかけが大きかったようです。
 召抱えられる前に、大村は安政6年(1859)に長州に帰国しており、この時、桂小五郎とじっくり話をして、意気投合したようです。
 その後、鬱陵島の開拓案の意見書を共同で作って幕府に提出するなどして親密さをましていきました。
 そうした中で、桂は、大村を高く評価し、大村を長州に呼び戻すために、長州藩邸で行われている蘭学研究会に大村を呼んだり、宇和島藩との交渉を行うなどして、長州への招聘を実現しました。
 一方、大村は、文久2年(1862)、幕府から委託されて教えていたアメリカ人宣教師ヘボンのもとで英語、数学を学んでいます。
 この時期に、英語に目をつけている大村の先見性に驚かされます。

【博習堂で兵学を講義】 
 文久元年(1861)、萩へ帰国し、藩の洋式兵学校である「博習堂」で西洋兵学の講義を行いました。
 いままでは、原書での講義が主流でしたが、翻訳書による講義を導入して、短期間で学習できるようにしました。
 これは、当時としては画期的なことでした。
 また、「博習堂」の規則を定めて、授業内容を、兵学、航海、砲術に分けて、さらに細かい科目も定めました。
 ここで学んだ藩士は、後の下関戦争や長州征伐の時に大いに活躍しました。
  
【伊藤・井上の海外留学を助ける】 
c0187004_10431023.jpg 長州藩では、攘夷実行のためには、相手を知らないといけないと、藩士の海外派遣を密かに計画しました。
 選ばれたのは伊藤博文や井上聞多(後に馨)等5人です。
 しかし、渡航費一人当たり1000両かかるため、それが工面できず、困っている時に、大村が資金調達の手助けをしました。藩の御用商人大黒屋から5000両の資金を調達したのでした。
 これにより、5人は無事渡航できることになりました。
 こうして、壌夷に沸き返っていた文久3年5月に5人が密かに外国船に乗り込んでイギリスに留学しました。
 そして、留学した彼らは、すぐに攘夷の無謀なことを認識するのでした。
 
【福澤諭吉と喧嘩】  
 大村益次郎と福澤諭吉は、ともに適塾の塾頭をつとめた秀才です。 
 文久3年(1863)、緒方洪庵がなくなり、その通夜の席で、大村と福澤が会い、福澤が、長州藩の下関での外国船砲撃を批判したところ、大村は、すごい剣幕でまくしたてたそうです。
 大村は、日頃攘夷を批判していましたが、福沢が長州を狂人扱いするのが許せなかったようです。
 大村は福澤を嫌っていたようで、その後二人はついにめぐりあうことはなかったそうです。

 桂小五郎 (木戸孝允)と伊藤博文の写真は、国立国会図書館蔵です。
[PR]
by wheatbaku | 2010-06-02 05:36 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
by 夢見る獏(バク)
プロフィールを見る
画像一覧
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
以前の記事
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
ブログパーツ
最新のコメント
ツユクサさん 江戸城散..
by wheatbaku at 12:53
獏様 江戸城散策、お疲..
by ツユクサ at 08:26
宮越さん コメントあり..
by wheatbaku at 11:42
今回のブログで、霊厳寺が..
by 宮越重遠 at 10:51
やぶひびさん 本妙寺は..
by wheatbaku at 13:05
「江戸から東京へ1」を図..
by やぶひび at 09:30
ツユクサさん 土曜日は..
by wheatbaku at 21:00
獏さん 案内お疲れ様で..
by ツユクサ at 11:10
小ツルさん 「むさしあ..
by wheatbaku at 09:50
バクさま、加州そうせい公..
by 鶴ヶ島の小ツル at 16:57
加州そうせい公様 私も..
by wheatbaku at 07:34
バクさん 昨日の江戸楽..
by 加州そうせい公 at 17:31
mikawaさん 先日..
by wheatbaku at 12:55
宮越さん コメントあり..
by wheatbaku at 09:03
宮越さんからコメントをい..
by wheatbaku at 09:00
mikawaです。先日は..
by mikawa ケンイチ at 08:17
ツルさん 名古屋に住ん..
by wheatbaku at 16:18
獏さま ははあ、あの石..
by 鶴ヶ島の小ツル at 15:20
やぶひびさん NHKB..
by wheatbaku at 17:54
今夜3/3.20:00~..
by やぶひび at 12:49
最新のトラックバック
再出発が始まる
from 哲学はなぜ間違うのか
穴八幡宮
from Coffee, Cigare..
風景印  28.4.30..
from としちゃんの風景印・郵趣日誌
山王日枝神社@溜池山王
from たび☆めし☆うま BLOG
浮世絵の誕生・浮世絵の歴..
from dezire_photo &..
小網神社@人形町
from たび☆めし☆うま BLOG
二つの感応寺
from Madam'Blog
江戸検講座「江戸の祭礼と..
from Madam'Blog
浅草寺本尊示現会
from Madam'Blog
江戸料理 八百善
from お気楽マダムの奮闘記
お気に入りブログ
江戸・東京ときどきロンドン
ファン
ブログジャンル
歴史