カテゴリ:『幕末』( 213 )
野山獄(松陰③ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、吉田松陰が「下田踏海」に失敗し、自首し逮捕された後、国許に送還され野山獄に入獄するまで について書きます。
 吉田松陰は、ペリー提督に海外渡航を拒否され、ボートにより浜に送り返された後、黒船に乗る込むために利用した小舟が流されてしまったため、乗り捨てた小舟から密航のことがわかるだろうと考え柿崎村の名主に自首します。

【小伝馬町牢屋敷に入る】 
 そして下田番所で取調べを受けた後、小伝馬町の牢屋敷に送られました。
 小伝馬町では、吉田松陰は、揚屋に入り、金子は無宿牢に入れられました。
 この密航事件に連座して師匠の佐久間象山も捕らえられました。
 佐久間象山は東奥揚屋、松蔭は東口揚屋に入ったというから壁一つ隔てた隣り合わせの牢に入ったことになります。
 入牢後6ヶ月経った9月になって、帰国して蟄居するむねの判決が出ました。
 佐久間象山も松代藩に引き渡して蟄居という判決でした。

c0187004_1704012.jpg【野山獄に入る】 
 松陰は安政元年12月、萩に戻され松蔭は野山獄、金子重輔は岩倉獄に投獄されました。
 野山獄は士分を収容する牢で、岩倉獄は百姓を収容する牢で、野山獄から道を隔てた向かい側にありました。
 金子重輔は、小伝馬町の牢で病気になり、牢でも、帰国途中でも看護らしい看護は一切なく、岩倉獄に入獄した後、約3か月後に獄死します。
 幕府の判決は、国許在所で蟄居となっていましたが、幕府への遠慮から長州藩は松蔭と金子を入獄させたようです。 
 
 上の写真は、現在の野山獄跡です。

【野山獄の日々】 
 松陰が野山獄に入った時、すでに11人の囚人がいました。
 松蔭は野山獄には約1年2ヶ月投獄されていましたが、獄中では、読書と著作の日々でした。
 「野山獄読書記」によれば、安政元年(1854)10月24日から翌年の12月15日まで618冊の本を読んだそうです。毎月44冊のペースで、倫理哲学、歴史伝記、地理紀行、兵学、詩文など様々な分野の本を読んでいるそうです。
 また、同じ獄に投獄されている他の人に呼びかけ、俳句や漢詩、書道などそれぞれの得意分野を皆に教える勉強会を開きました。
 松陰もまた、皆に論語や孟子などを教えました。そういった勉強会を開くうち投獄されていた他の人も生きる希望を見出し獄の中は次第に明るい雰囲気になっていったそうです。
 そして、松陰は、在獄中から獄に入っている人たちの釈放運動に積極的に取り組んでいます。
 その活動により、松蔭を入れた在獄中12名のうち7名が出獄したそうです。

c0187004_14434390.jpg そうした人たちの中に富永有隣もいます。
 富永有隣は松蔭出獄1年後の安政4年(1859年)に出獄し、出獄後は松陰の松下村塾で講師を務めました。
 この富永有隣が国木田独歩の小説「富岡先生」の主人公のモデルです。
 松陰の唯一の女性との交流といわれる高洲久子との交流は、この野山獄時代の出来事です。
 松陰と久子については、 「『おうち』と『ほととぎす』 (吉田松陰の恋)」で書いてありますので、ご覧ください。

 上の写真は、松下村塾の隣にある松陰の幽囚室がある杉家の旧宅です。
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by wheatbaku | 2010-04-19 05:54 | 『幕末』 | Trackback
東北遊学(松陰② 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日も吉田松陰について書いてみます。今日は東北遊学から海外密航実施直前までの期間について書いてみます。

【江戸へ遊学】 
 嘉永4年(1851) 松陰が22歳の時、九州遊学の旅から帰り、わずか3ヶ月後に藩主の参勤交代に同行して江戸に遊学しました。c0187004_13393089.jpg 
 九州遊学のなかで、情報を得るには江戸が一番ということを知ったためです。 
 江戸では、儒学を安積艮斎から学び、兵学を山鹿素水から学びました。
 そして、その後松陰の生き方に大きな影響を与えた佐久間象山にも入門しました。
 また、松陰は天下の有志と盛んに交流を持ちました。
 なお、松陰は友人たちと名所旧跡も訪ねていて、向島百花園、両国、神田まつり、泉岳寺、目黒不動、池上本門寺などに出かけていたようです。
  ※右の吉田松陰の写真は「国立国会図書館蔵」

【脱藩までして東北巡歴】 
 その過程で熊本藩の宮部鼎蔵と「水戸学」や「海防」などの勉強を目的とした東北の旅を計画しました。
 松陰の希望は藩で認められましたが、運悪く藩主が江戸不在で、過書(他国を旅行する時に必要な手形、身分証明書)を得ることが出来ませんでした。
 しかし、12月の約束の出発日が来ると、約束を違えるのは恥と考え、松陰は過書を持たないままに出発してしまいました。
 過書もなく無断で旅立つことはすなわち脱藩ということになります。
 脱藩した松陰は、宮部鼎蔵らと水戸、会津を訪ね佐渡にも渡り、その後弘前、盛岡、仙台などを訪れ見聞を広めています。
 そして前年12月に出発してからの140日間の大旅行を終えて嘉永5年4月に江戸に戻ります。

【脱藩により処分を受ける】 
 東北巡歴から江戸に戻った松陰は、萩藩邸に自首しました。
 その結果、脱藩の罪により、松陰は萩に送還されることとなり、藩士の身分を失い、父の杉百合之助の保護下におかれることとなりました。
 しかし、松陰の才を惜しんだ藩主から10年間の国内遊学の許可が出ます。
 そして、嘉永6年(1853年)正月に2度目の江戸遊学へ出発し、また佐久間象山に師事します。

【ペリー来航の影響で海外渡航を決意】 
 江戸での遊学中の嘉永6年6月、ペリー提督率いるアメリカの東インド艦隊が浦賀に来航します。
 浦賀に出かけ黒船を観察した松陰は大きな衝撃を受け、幕府の国防に対する不備を強く認識するとともに、多くの志士たちが感じたように危機感を覚えます。
 こうした中で佐久間象山の外国と世界を熟知するために有能な人材が海外に渡航することが最高の対策という考えに大きな影響を受けます。
 それにより、松蔭みずからの海外渡航を決心しました。

 c0187004_2136337.jpgペリーが去ってから1ヶ月後の嘉永6年7月に、プチャーチン率いるロシア艦隊4隻が長崎に入港したという知らせが届き、松陰はロシア船に乗り込む密航計画を立て長崎に向かいました。
 しかし、松蔭が江戸を出発したのは、ロシア軍艦が長崎に来航してから2ヵ月後であったし、京都で梁川星厳をたずねたりしていたため、長崎に着いた10月27日は、艦隊は出航した3日後でした。

 落胆した松蔭は再び江戸にもどってきますが、松陰はそれでも密航をあきらめません。
 ちょうど、嘉永7年(1854年)1月、ペリーが再来航し、密航計画を知り松陰に強く願い出た長州藩足軽・金子重之助とともに3月28日に密航を再度企てることになりました。

 松陰の海外渡航の計画を「下田踏海」といいます。
 「下田踏海」については、既に書きましたので、こちら⇒「吉田松陰密航」をお読みください。
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by wheatbaku | 2010-04-16 05:40 | 『幕末』 | Trackback
松蔭の生い立ち (松陰① 江戸検定今年のお題「幕末」)
 しばらく、幕末関連記事から遠ざかったので、ひさしぶりに幕末関連記事を書きます。
 4月は、幕末の重大事件は起きていないようですので、3月の吉田松陰の下田踏海の関連で、吉田松陰について、数回にわたり書いていきたいと思います。
 今日は、生い立ちから九州遊学までについて書きます。

【萩東郊の松本村生まれ】 
 吉田松陰は、天保元年(1830)萩藩士杉百合之助の次男として長門の萩城の東の郊外に位置する松本村(現山口県萩市)に誕生しました。 虎之助は7人兄妹の次男でした。

c0187004_16462993.jpg 同じ年に大久保利通が生まれています。
 ついでに言うと、西郷隆盛は、3年前に生まれています。桂小五郎のちの木戸孝允は3年後、今話題の坂本龍馬は5年後に生まれています。
 名は矩方、幼名は、庚寅(かのえとら)にちなんで虎之助。その後寅次郎などと改めます。
 杉家は家禄26石の貧しい半農半士の下級武士でしたが、学問に熱心な家風でした。

 右の写真は、吉田松陰の誕生地です。江戸時代には団子岩という地名でよばれていました。

【玉木文之進のスパルタ教育を受ける】 
 父の杉百合之助の弟の大助は、萩藩の山鹿流兵学師範を代々務める吉田家に養子に入っていました。
 松蔭が 6歳の時、その叔父吉田大助が亡くなると、その養子として吉田家の家督を継ぎ、以後吉田大次郎と名乗ります。
c0187004_16472095.jpg 父の杉百合之助の末弟は玉木家を継いでいて玉木文之進といいました。
 松陰の兵学教育にあたったのが、山鹿流免許皆伝であった玉木文之進でした。
 玉木文之進による教育は、兵学師範となるために苛烈なもので、後に、松蔭自身が、よく死なずにすんだものだと振り返るほどでした。

 なお、吉田松陰といえば松下村塾というように、松下村塾は、吉田松陰の私塾のように思われていますが、もともとは、叔父の玉木文之進が、天保13年(1842)に私塾を開き、松下村塾と名付けたのが最初です。

 上の写真は、王木文之進の旧宅です。

【萩の秀才、若い頃から藩主も注目】 c0187004_22285538.jpg  
 10歳の時から藩校明倫館に出仕し、天保11年(1834)11歳の時、藩主毛利敬親の前で「武教全書」戦法編の講義を行い、藩主毛利敬親を感服させる出気前でした。
 19歳で独立の師範となり、引き続いて22歳まで明倫館で山鹿流兵学を教授しました。
 弘化4年(1847)18歳で林真人より大星目録の免許返伝を受け、嘉永4年(151)22歳の時には三重極秘の印可返伝という山鹿流兵学でもっとも高い免許を受けます。
 右の写真は、藩校明倫館の有備館です。有備館は、剣術や槍術の練習をおこなったところです。 坂本龍馬が、文久2年(1862)に萩を訪れた時、 ここで剣術の試合をしたといわれています。

【九州遊学】 
 21歳の時、藩に九州遊学の希望を申し出、遊学が許可された松陰は、嘉永3年(1850年)8月、松陰は見聞を広め自分を高めるべく九州遊学の旅に出ました。
  平戸、長崎、熊本と旅を続けますが、九州それも特に平戸を選んだのは、兵学の師林真人の強い勧めで葉山左内を知ったことと平戸には山鹿流兵学の宗家があるためでした。
 そのため、平戸では儒学者で平戸藩家老の葉山佐内、山鹿流兵学宗家の山鹿万助に教えを受けています。
 そして、熊本で宮部鼎蔵(みやべていぞう)と出会います。宮部鼎蔵は山鹿流兵学を学び藩師範役に任じられたばかりでした。彼とは、国の防衛などについて意気投合します。
 宮部鼎蔵は、松陰より10歳以上年上でしたが、後に、江戸遊学時に再会し、東北旅行も一緒に同行するなどし、生涯の親友となりました。
 なお、宮部鼎蔵は、後に勤皇の大物志士として京都で活躍し、池田屋事件では新撰組に急襲され自刃しました。
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by wheatbaku | 2010-04-15 06:13 | 『幕末』 | Trackback
吉田松陰密航② (江戸検定今年のお題「幕末」)
今日も吉田松陰の密航の話の続きです。
今日は、「ペリー艦隊日本遠征記」に残されている吉田松陰の話を紹介します。

c0187004_1651688.jpg  吉田松陰の密航については、アメリカ側でもしっかり記録をとってあります。
 「ペリー艦隊日本遠征記」に記載されているのです。
 「ペリー艦隊日本遠征記」には次のように記載されています。

【ミシシッピ号の対応】 
 午前2時ごろ蒸気艦ミシシッピ号の艦上で夜間当直をしていた士官は、舷側について小舟から聞こえてくる人声に呼び起こされた。舷門に行ってみると、2人の日本人がすでに舷側の梯子を登ったところだった。話しかけると、乗艦させてほしいと身振りで示した。c0187004_13201235.jpg
 彼らはなんとしても艦上にとどまることを許可してほしいと願っているらしく乗ってきた小舟を惜しげもなく放棄する意思を表して、海岸には戻らないとの決意をはっきり示した。ミシシッピ号の艦長が旗艦に行くように指示すると彼らは小舟で引き返して、すぐさま旗艦に漕いでいった。

 港内の波が高かったため、いくぶん苦労しながら旗艦に達し、梯子にすがって舷門を登るやいなや、故意か偶然か、小舟は舷側を離れて漂い去った。甲板に着くと、士官が提督に2人の日本人が現われたことを報告した。

c0187004_13204328.jpg【ペリー提督が拒絶】 
 提督は通訳を送り、2人と話し合い、不意の訪問の目的を聞き出させた。彼らは素直に自分たちの目的は合衆国に連れていってもらうことであり、そこで世界を旅して、見聞したいという願望をはたしたいのだと打ち明けた。・・・ 舟を漕いできたため、2人ともひどく疲れているようだった。
 彼らが立派な地位にある日本の紳士であることは明らかだったが、その衣服はくたびれていた。
 2人とも二本の刀を帯びる資格があり、ひとりはまだ一本をさしていたが、残りの3本はすべて小舟の中においてきたので、舟とともに流されてしまっていた。
 彼らは教養のある人物であり、中国語を流暢かつ端麗に書き、物腰も丁重で非常に洗練されていた。
 提督は彼らの来艦の目的を知ると、自分としても何人かの日本人をアメリカに連れていきたいのはやまやまだが、残念ながら2人を迎え入れることはできないと答えさせた。
 提督の回答に二人は大変動揺して、陸に戻れば首を斬られることになると断言し、とどまることを許してもらいたいと熱心に懇願した。・・・・ この願いはきっぱりと、しかし思いやりを込めて拒絶された。長い話し合いが続いた。
 結局、一艘のボートが降ろされ、送り帰されることになった。

以上が、「ペリー艦隊日本遠征記」の記載です。
 ポーハタンに乗り込んだ吉田松陰の様子が非常にリアルに描かれています。
 なお、ペリーの肖像画とポーハタンの図は、下田の「了仙寺」が所蔵しているものです。
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by wheatbaku | 2010-04-02 06:22 | 『幕末』 | Trackback
吉田松陰密航① (江戸検定今年のお題「幕末」)
 いよいよ吉田松陰の密航について書いていきます。
 吉田松陰が密航を企てたのは、嘉永7年(1854)3月28日のことでした。旗艦ポーハタンに乗り込むことができましたが、結局は、ペリーに拒絶され、密航は失敗に終わります。

【3月5日に江戸を出発】
 ペリーが再来航したのは1月16日ですが、吉田松陰が密航のため、江戸をたったのは、再来航後しばらくたった3月5日です。
 この日、京橋の酒楼で、宮部鼎蔵(ていぞう)たち仲間に密航の計画を打ち明けます。
 仲間は最初反対しますが、松陰の覚悟を聞いて最後は賛成してくれます。
 松陰は、同行の金子重輔とは赤羽根橋で待ちあわせ、江戸を出発します。
 そして、保土ヶ谷まで行き、しばらく保土ヶ谷や横浜で、黒船に乗れる機会をさぐっています。
 そうこうするうちに、3月13日に黒船は下田に向かって離れていったため、保土ヶ谷を出発します。そして3月18日に下田に到着しています。
c0187004_15521332.jpg 
 3月25日には、舟を盗んで沖へ漕ぎ出しましたが、この日は波が荒く、漕いでも漕いでも黒船に近づくことができず遂にあきらめて引き返します。
 そして、柿崎弁天島に上陸し弁天社で一夜を過ごします。
 翌日朝、お参りに来た村人に驚き、山越えで反対側の海岸に避難します。そして、夜遅く戻ってきました。

 3月27日には、柿崎海岸で、アメリカ人にあい、国禁を犯してまでも外国で学びたいという旨を書いた「投夷書」を手渡します。

【3月28日に密航】
 そして3月28日の午前2時ごろに漁船を見つけて乗り込みます。
 しかし、櫓を固定する杭がなく、ふんどしで櫓を縛り付けて漕ぎ出します。
 しかし、ふんどしではすぐゆるんだため、次に帯を解き櫓に縛り付けて漕いでいきました。
 最初に漕ぎついた船は、ミシシッピでした。
 ミシシッピには日本語はもちろんのこと漢文も読める人がいないので、旗艦のポーハタンに行くよう言われてやむなく100メートルほど離れたポーハタンに行きました。

【密航を拒絶される】
 荒波に翻弄されながらポーハタンにたどり着くことができましたが、その際に接舷を拒否する水兵と争いながら身一つで飛び移ったため、乗ってきた舟が流されてしまいました。
 刀や荷物などすべての所持品を残したままであり、これが後に動かぬ証拠となりました。
 ポーハタンの中には、中国語通訳のウィリアムスがいたため筆談しながら何とか通じたようです。
 松蔭らの考えに一応の理解は示しましたがアメリカ行きははっきりと拒絶されました。
 国交を結んだ相手国の法律を破ってまで密航者をアメリカに連れていくわけにはいかないことやペリー艦隊は3ヶ月間は滞在する予定であるからその間に許可をとるべきであるといったことが拒絶の理由であったようです。

 そして、結局、二人はボートで送り返されます。
 送り返された二人は所持品一切を乗せた船を捜しますが見つからず、最終的に柿崎村の名主に自首しました。

 上の吉田松陰の写真は「国立国会図書館蔵」です。
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by wheatbaku | 2010-04-01 06:15 | 『幕末』 | Trackback
日米文化交流 (日米和親条約 ③ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 日米和親条約の調印に至る間、日米間の交渉は、単に政治交渉だけが行われた訳ではありませんでした。
 文化交流も行われました。饗応や贈り物を通じた文化交流もかなり盛んに行われました。
 今日は、日米の饗応の様子を書いてみます。

【アメリカ側の饗応】 
 アメリカ側では、3月27日に交渉団を旗艦ポーハタン号の上でパーティーを開催し接待しました。
 牛肉、羊肉、鶏肉の料理が準備され、スープやシチューが用意され、ハムも出され、お酒はワイン、シャンパン、リキュールなどが出されたようです。

 「ペリー艦隊日本遠征記」には次のように書かれています。
 また、右の写真のように日本側を招待しての黒船艦上での接待の図も掲載されています。(下田「了仙寺」蔵)
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 甲板の日本人一行は、各艦船から集まった大勢の士官に歓待され、シャンペン酒、マディラ酒、パンチを浴びるほど振舞われて、すっかりにぎやかになった。彼らはこれらの酒が大いに気に入ったようだった。日本人たちは率先して健康を祝う乾杯の音頭をとり、斗酒なお辞せず飲み干した。彼らの張り上げる声のかたたましさたるや、勇壮で軽快な曲を奏で続けて宴を盛り上げている軍楽隊の音楽もかき消してしまうほどだった。要するに、それはいぎやかな歓楽の光景であり、お客に大いに楽しんでもらえたということだ。

 非常ににぎやかに宴会が進み、交渉団が大いに楽しんだ様子がよくわかります。
 どうやらドンチャン騒ぎになったような気もします。 
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 最後には、日本人はご馳走の残り物をふところにいれて持って帰り、酔っ払ってペリーに抱きついた人もいたことも記録されています。

【日本側の饗応】 
 これに対して、日本側は、刺身、焼き魚、野菜の煮物、ご飯、吸い物といった純和風料理で接待したそうで、そのレベルは、将軍が食べる料理のレベルだったようです。
 それを今忠実に再現すると一人当たり30万円以上はかかるような御馳走だったそうです。

 右写真は、天狗のような容貌から「天狗ペリー」と呼ばれているペリー像です。(下田「了仙寺」蔵)
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by wheatbaku | 2010-03-30 05:49 | 『幕末』 | Trackback
日米和親条約② (江戸検定今年のお題「幕末」)
 日米和親条約について今日も書いていきたいと思います。
 ペリーと日本全権交渉団の交渉が1ヶ月間にわたり行われた後、日米和親条約は嘉永7年(1854)3月3日に調印されました。

【和親条約の内容】  
c0187004_816368.jpg 日米和親条約は、全体で12条からなっています。
 その主な内容は
 ①下田と函館への寄港を認める。
 ②船員と漂流民を保護する。
 ③下田に領事の駐在を認める。
 ④治外法権を認める。
 ⑤最恵国待遇を認める 
というもので、不平等条約でした。
 
 右写真は、ペリー艦隊の旗艦ポーハタン号です。「下田了仙寺蔵」


【日米和親条約は、4ヶ国語で書かれている】 
c0187004_8162333.jpg 日米和親条約の原本は日本では焼失してしまっていますが、アメリカ側の原本は、ワシントンの国立公文書館に残っているそうです。
 それによると、条約文書は、日本語、英語、オランダ語、中国語で書かれている4種類のものがあるそうです。
 そして、英語の文書には、ペリーだけのサインで、林大学頭の署名はなく、日本語の文書には、林大学頭の署名だけで、ペリーのサインはないそうです。
 それは、林大学頭が、外国語で書かれたものには署名できないと頑強に主張したため英語の文書に林大学頭の署名はないんだそうです。

 このことについて、ペリー艦隊日本遠征記においても、次のように書かれています。
 1854年3月31日、金曜日、提督はいつもの随員を伴って条約館に赴き、到着するやさっそく英語で書かれた条約の写し3通に署名し、それを合衆国の通訳ウィリアムズ氏とポートマン氏が認証したオランダ語、中国語の訳文の写し3通とともに、委員たちに手交した。同時に日本委員は、同国政府を代表して、それぞれ日本語、中国語、オランダ語で書いた条約の写し3通を提督に手交した。そこには皇帝がそのためにとくに選んだ4人の委員の署名が入っていた。
 (日本側が署名をして渡した条約の写しに英語のものが入っていないとことに注目してください)
 上の写真は西郷隆盛に似ているところから「西郷ペリー」と呼ばれているペリー像です。「下田了仙寺蔵」

 【和親条約の全条文】 
 さて、最後に、江戸文化歴史検定1級を受験しようとしている人など関心のある方のために、日米和親条約の全条文を、万来舎の「ペリー艦隊日本遠征記」から記載しておきます。
 時間のある時にお読みください。
 
 次にあげるのが承認された条約である。
 アメリカ合衆国と日本帝国とは、両国民間に確固として永続する誠実な親睦を確立することを願い、条約または一般的な和親協約をもって、今後両国が交際する際に相互に守るべき規定を明確に定めることを決定した。このきわめて望ましい目的のため、合衆国大統領は、その委員として遣日特命大使マシュー・カルブレイス・ペリーに全権を与え、日本の偉大なる君主は、その委員として林大学頭、井戸対馬守、伊沢美作守、鵜殿民部少輔に同じく全権を与えた。
 また、上記の委員らは、その全権を取り交わし、適切に前述の諸事項を考究したのち、次の諸事項を取り決めた。

第1条 アメリカ合衆国と日本帝国、および両国民の間には、人格または場所の例外なく、完全かつ永久なる普遍的平和と誠実かつ懇篤なる和親とが存するものとする。
第2条 伊豆国の下田港と松前領の箱館港は、アメリカ船舶の受け入れ港として、日本人に許容されるものとする。この2港においては、日本人がそれを有する限り、薪水、食料、石炭、その他の必要な物資の供給を受けることができる。下田港は本条約調印のうえ即時開港し、箱館港は日本暦の明年同日以後、即時開かれるものとする。
ただし、提供すべき物品の値段表は日本役人から渡され、その支払いは金貨または銀貨をもって行われるものとする。
第3条 合衆国の船舶が日本の沿岸において座礁または難破した場合、日本船はその船舶を救援し、その乗組員を下田または箱館に護送し、身柄の受け取りに任じられた同国人に引き渡すものとする。同様に避難者の所有する物品はすべて返還されるものとし、両国いずれかの海岸に打ち上げられたアメリカ人および日本人の救助と扶養の際に生じた出費は弁済するには及ばない。
第4条 合衆国の遭難者およびその他の市民は、他の国におけると同様自由であり、監禁されてはならないが、公正な法律には従うものとする。
第5条 下田および箱館に一時的に居留する合衆国の遭難者および他の市民は、長崎におけるオランダ人および中国人のように拘束および監禁に服することなく、ここに添付された付図に描かれている、下田港内の一小島より日本里程で7マイル(里)の範囲内では、随意の場所に赴く自由を有するものとする。同様に箱館においても、合衆国艦隊が同地を訪問したのちに定められる範囲内では、随意の場所に赴く自由を有するものとする。
第6条 ほかに必要とする物品、または取り決めを要するなんらかの業務があれば、その事項を決定するため、両当事国間で慎重に審議するものとする。
第7条 開港された港に寄港する合衆国の船舶は、金、銀貨および物品と他の物品との交換を、日本政府がこの目的のために暫定的に定めた規則に従い行うことができる。ただし、合衆国の船舶は、日本人が交換を欲しない物品はすべて持ち帰ることができるものとする。
第8条 薪水、食料、石炭および必要な物品は、この目的のために任命された日本役人の周旋によってのみ調達することとし、他の方法によってはならない。
第9条 他日、日本政府がこの条約において合衆国およびその市民に許容していない特権と便益を、他の一国民または諸国民に許容する場合には、なんらの協議も遅滞もなく、合衆国およびその市民にも同じ特権および便益を許容することを取り決める。
第10条 遭難した場合、または荒天に強いられた場合を除き、合衆国の船舶が下田および箱館以外の日本の港に渡来することを許可しないこととする。
第11条 もし両国政府のいずれかが、その取り決めを必要とみなす場合には、本条約調印の日より18ヶ月を経たのちに、合衆国政府はいつでも下田に駐在する領事または代理官を任命することができる。
第12条 この約定を取り決め、しかるべく調印されたうえは、アメリカ合衆国および日本、ならびに両国の市民および臣民は義務として、忠実にそれを遵守するものとする。また上院の協議と同意を得たうえは、合衆国大統領によって批准認可され、また日本の尊厳なる主権者によって批准認可されるものとする。その批准は調印の日より18ヶ月以内、または可能ならばさらに早期に交換されるものとする。

 主イエス・キリストの1854年3月31日、嘉永7年3月3日、神奈川にて。
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by wheatbaku | 2010-03-29 06:20 | 『幕末』 | Trackback
日米和親条約 (江戸検定今年のお題「幕末」)
 嘉永7年(1754)3月28日に、吉田松陰が密航しようと黒船に乗り込んだものの失敗した事件が起きました。
 そこで、この話を中心に幕末の記事について書きますが、吉田松陰の密航事件のまえに、嘉永7年(1854)3月3日に日米和親条約が締結されましたので、日米和親条約の話を先にします。
 嘉永7年(1854)1月16日に再来航したペリーとは、約1ヵ月後の安政元年2月10日に条約交渉が始まりました。
c0187004_153736.jpg【交渉団のメンバー】
 日本側の委員は、林大学頭(林復斎)が交渉団の筆頭、そして北町奉行の井戸対馬守(井戸覚弘いどさとひろ)、浦賀奉行の伊沢美作守(伊沢政義)、目付の鵜殿民部小輔(鵜殿長鋭うどのながとし)、そして儒者の松崎満太郎でした。
 そして通訳として森山栄之助、堀達之助というオランダ通詞が参加しました。
 アメリカ側の交渉団は、ペリー提督が全権 アダムズ参謀長、中国語通訳のウィリアムス、オランダ語通訳のポートマン、さらに秘書でペリー提督の息子のO・H・ぺりーでした。
左の写真はペリー艦隊の従軍画家ハイネによるペリーの肖像画です。最も本物に近いペリー像と言われているそうです。下田の了仙寺さんの所蔵です。


【「ペリー艦隊日本遠征記」に書かれた人物像】
 日本側の委員たちについて、「ペリー艦隊日本遠征記」には次のように書かれています。
c0187004_21583233.jpg 
 林大学頭が首席委員であることは間違いなかった。重要事項はすべて彼に委託されたからである。この人物は55歳くらいで、立派な風采をそなえ、やさしげな容貌ときわめて丁重な物腰とは裏腹に顔の表情は重々しくむしろむっつりしていた。

 井戸対馬守はおよそ50歳くらいの、太った背の高い人物だった。彼は年長者の林にくらべれば、多少は快活な表情をしていた。

 三番目のいちばん若い諸侯が伊沢美作守で、40歳さほど超えていないようで、3人のうちでとびぬけて美男だった。彼はまったく陽気な人物で、冗談やお祭り騒ぎが好きで、道楽者との評判だった。

 鵜殿は、(中略)背が高くまずますの容貌だが、顔立ちがきわめて特徴的で、いかにもモンゴル系らしかった。
 松崎満太郎についても書かれてありますが略します。

【複雑な通訳手順】
 この交渉団では、日本語から英語、英語から日本語に通訳できる人は一人もいませんでした。
 そのため、ペリーの要求は、英語からオランダ語に訳され、ポートマンが日本側に伝えます。
 それを聞いた日本側のオランダ通詞が日本語に約して、林大学頭に伝えます。
 そして、林大学頭の回答は、また逆の手順を通ってペリーに伝えられるという非常に厄介な手順をとらざるを得ませんでした。

【ジョン万次郎交渉団に参加できず】
  実は、日本には英語が理解できる人がいました。有名なジョン万次郎です。ジョン万次郎が通訳に参加していれば、こんな複雑な手順は不要でした。
 しかし、水戸斉昭が、万次郎はアメリカから恩を受けているので寝返る可能性があるから交渉団に参加させないほうがよいと言う意見を具申したため、ジョン万次郎は交渉団に参加できませんでした。
 万次郎にとっては大変残念だたのではないでしょうか!
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by wheatbaku | 2010-03-26 06:16 | 『幕末』 | Trackback
井伊直弼の評価 (桜田門外の変 江戸検定今年のお題「幕末」)

 「井伊直弼と桜田門外の変」の最後に、井伊直弼ついての評価が書かれた文を紹介して、このシリーズを終わります。
 本からの紹介ですので、ちょっと読むのが大変かもしれませんがお付き合いください。

 まず、最初は、江戸文化・風俗の研究家として有名な三田村鳶魚の「井伊大老の家族」の中から紹介します。
c0187004_14333498.jpg これは中公文庫の「鳶魚江戸文庫16 大名生活の内秘」の中に載っています。

【水戸・彦根両側からみる必要がある】
 「(井伊直弼については)今日でも、水戸の天狗連の系統に属する文書を資料として、薩長諸家の主張を解説にする。それと反対の資料、反対の解説を聴いたら、何となる。また、両端を叩けばどんな音がするか、何人も考慮したほうがよい

 と書いて、後段に次のようなエピソードを紹介しています。

「質素な生活を忘れられない中将(井伊直弼)は、顕栄な地位につかれての後も、手ずから柚子味噌を拵(こしら)えることがあった。それへ『御礼之儀は申上置候』という書付を添えて、度々臣下に与えられた。
 いささかの物でも、君公からの拝領といえば、家来の栄誉でもあり、主従の礼として、一々お礼言上に出なければならない。ここを察して、御礼済の書付を添えて下さる。それで別段お礼に出なくても済んだ。
 一通(側近の三井孫太夫のこと)はお手製の柚子味噌を頂戴することから思い付いて、八月朔日の式日出仕に、自分の畑の大カボチャを、縄からげで奥へ提(ささ)げ込み、手作りのカボチャというので献上した。
 中将はすぐに『八朔や もろたかぼちゃの 礼をさき』と書いて与えられた。式日の御礼口上よりも先へ、この方からカボチャの礼をいうぞ、という心持ちで、親しくもあり、いかにも気軽な様子がよく現われている。
 こうしたこぼれ話によって、大老在職中、忙しく険しい間にも、豪も鋭いところがなかったのが知れよう。」


 最後に、東京大学名誉教授小西四郎氏の井伊直弼評を書いておきます。
 小西四郎氏は、中公文庫「日本の歴史19  開国と攘夷」の中で、次のように述べています。

c0187004_15371636.jpg 【吉田松陰斬首が悪評の原因】
 「井伊直弼を、外国に屈して違勅調印をおこない、安政の大獄を起こして勤皇の志士を殺した悪逆無道の人間であるというような批判攻撃はどうであろうか。

 あるいはそれほど強い表現ではないにしても、井伊直弼に対する非難の声は高い。
 しかし、わたくしは、そうは思わない。当時の志士は、たしかに井伊を悪逆無道の人間と考えたであろう。だが現在のわたくしたちは、もっと客観的に人物を観てゆかなければならないのではなかろうか。

 遺勅調印にしても、天皇の意思を絶対視する考えのうえからの発想であり、王政復古史観・皇国史観の立場からいえば、そのような批判も生まれてくるであろう。勤皇志士の弾圧も同様である。
 とくに吉田松陰を殺したことが、井伊直弼批判の声を大きくさせていると思う。
 その教育を受けたものが、明治天皇制下の元勲となり、長州藩閥が形成されたとき、恩師松陰を殺した井伊直弼は、極悪人ときめつけられ、それに対する反論は封ぜられた。

 わたくしをして言わしむれば、吉田松蔭を殺したことで、直弼はどんなに損をしたかしれない、遠島ぐらいにしておけば、それほど非難はされなかったのではないだろうかと。

 最後までお読みいいただきありがとうございました。
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by wheatbaku | 2010-03-17 06:19 | 『幕末』 | Trackback
直弼の覚悟(桜田門外の変④ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 12回にわたり、「井伊直弼」および「桜田門外の変」について書いてきましたが、 今日は、「井伊直弼は襲撃されることを事前に承知していて、襲われることを覚悟していた」という話をしたいと思います。

c0187004_21211977.jpg【友人の忠告を無視】 
 井伊直弼は、桜田門外で非業の死を遂げましたが、意外に知られていませんが、その死は直弼自身があらかじめ覚悟していたものだったとも考えられています。
 井伊直弼は。事件の数日前、友人の矢田藩主松平信和(のぶやす)を始めとした何人かから忠告を受けていたのです。
 信和(のぶやす)の意見は、水戸を脱藩した浪士たちの不穏な動きを警戒しなければならない。事態が落ち着くまで大老を辞してはどうかというものでした。
c0187004_2114155.jpg  これに対して直弼は、国家の危機の一身の保全を図る事などできないとし、その友情に感謝の意を示しつつ申し出を断っています。
 それでもなお彼の身を案じる信和は身辺の警護を厚くするように強く薦めました。
 しかし直弼はこの進言すら受け入れなかったそうです。
 諸侯の従士の数は幕府により定められているもので、大老の自分がそれを破ることはできないというのです。
直弼は自分の身よりもあくまでも幕府の権威を再度確立させることを第一に考えていたからです。

 左上の写真は、井伊家の菩提寺である世田谷豪徳寺の山門です。ここに直弼もねむっています。


c0187004_2194410.jpg【襲撃の投げ文も無視】 
  3月3日の事件当日、直弼が屋敷を出た直後に、側役の宇津木左近が直弼の部屋で封の切られた書を発見しています。
 この日の早朝に何者かが投じたもので、密かに覗き見ると、水戸浪士に注意するよう忠告した封書でした。
 直弼は書を読み自らの危険を知りながら誰にも知らせることなく出発した後でした。
 宇津木はびっくり仰天し同僚に告げ、対策を講じようとした矢先に飛び込んできたのが直弼遭難の知らせでした。
 井伊直弼は、投げ込まれた投書を確実に見ていたに違いありませんが、側近にも告げず、屋敷を出発したのでした。
 井伊直弼、覚悟のうえでの遭難であったのだろうと言われています。

  以上のことは余り知られていませんが、これが事実であれば、井伊直弼に対する見方も変わっていいように思います。

 右上の写真は井伊家上屋敷表門外西にあった「桜の井」の跡です。井伊直弼もこの脇を通り登城していました。
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by wheatbaku | 2010-03-16 06:17 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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