カテゴリ:『幕末』( 206 )
大倉喜八郎(幕末・維新を乗り切った商人たち⑥)

大倉喜八郎(幕末・維新を乗り切った商人たち⑥)

 幕末・維新を乗り切った商人たちの第6回は、大倉喜八郎です。

 大倉喜八郎は、お題テキスト「「疾走!幕末・維新」では取り上げられていませんが、戊辰戦争と大きく関わりがあり、戊辰戦争の中で、商売に成功し、後に大倉財閥を作り上げましたので、取り上げておきます。

大倉喜八郎は、天保8年(1837)新潟県新発田の代々の大名主で苗字帯刀を許された家の三男として生まれました。

安政元年(1855)、江戸に出て、麻布の鰹節店に商売見習いとして3年間住み込み修行し、主人から養子になるように望まれましたが、独立して、下谷の摩利支天横町(現在のアメ横)に乾物店を開業しました。

乾物店を経営しながらも、新しい商売を見つけるため、喜八郎は横浜に向かいました。

大倉喜八郎は、横浜で黒船をみて、天下が一変することを予想し、その時に、「必ず戦争が始まり、戦が始まれば武器が必要になる」と考え、乾物屋をたたみ、八丁堀にあった小泉屋鉄砲店で鉄砲のことを修行した後、神田和泉橋通に「大倉銃砲店」を開業しました。慶応32月のことです。

戊辰戦争を目前に控えた時期で、洋式兵器の注文が、幕府や諸藩から大量に舞い込みました。

新政府軍が上野の山に立てこもった彰義隊を攻撃する前夜に大倉喜八郎は突然、彰義隊に連行され、新政府軍に鉄砲を売っていることを詰問されますが、それに対し「官軍は現金払いなので売ったまでです」と説明し、窮地を脱しました。

 また、箱館戦争の際に、弘前藩から、鉄砲の依頼がありました。ただし、代金はお米で払うとう申出でした。この時、大倉喜八郎は、「弘前藩」からの依頼に対して、「運試しにひとつやってみる。もしこれが失敗するようなことなら、自分に運がないのだと諦めるより以外にない」と考えいさぎよく引き受けました。

そして、自分の財産を残らず売り払って金にし、これで小銃2500挺と弾薬を整え、ドイツの帆船を雇って、それに鉄砲弾薬一切を積みこみ、自分もその船に乗り込んで青森にむけて出帆しました。

しかし、青森を目の前にして、風の方角がかわり、箱館に寄港せざるをえなくなりましたが、箱館は、当時、旧幕府軍が占領しており、発見されれば、武器を押収され、大倉喜八郎の命も危なくなるという危機に瀕しました。しかし、運よく、この危難も脱し、やっと青森に入港し、鉄砲を渡し米を受け取ることができました。

維新後は、明治5年に民間人としては初の欧米経済事情の視察に出発し、欧州滞在中に岩倉使節団と交流しています。帰国後の明治6年、大倉組商会を設立して海外貿易事業に乗り出しました。

 また、大倉喜八郎は、新橋駅建設工事の一部を請け負い、明治5年には銀座煉瓦街の建設工事の一部を請け負い、土木建築事業にも進出しています。

 その後、大倉喜八郎は、明治政府の御用達商人となり、台湾出兵、西南戦争、日清戦争、日露戦争の軍需物資調達で巨利を得ました。

この間、大倉組商会は合名会社大倉組に改組され、大正期には大倉商事、大倉鉱業、大倉土木の3社を事業の中核とする大倉財閥の体制を確立していきました。

なお、ホテルオークラは、大倉喜八郎の自宅に喜八郎死後に建てられたもので、隣接する大倉集古館も大倉喜八郎が設立したものです。

大倉喜八郎は、昭和3年に大腸がんのためなくなり、護国寺に眠っています。

下記写真が大倉喜八郎のお墓です。

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by wheatbaku | 2017-10-28 20:11 | 『幕末』 | Trackback
鴻池善右衛門幸富(幕末・維新を乗り切った商人たち⑤)

鴻池善右衛門幸富(幕末・維新を乗り切った商人たち⑤)

鴻池家の始祖は、戦国大名の尼子氏の忠臣であった山中鹿之助幸盛の長男新六直文であると言われています。

 新六は、慶長年間に摂津国鴻池村(現在の宝塚市)で酒造業を始めました。

鴻池村を本拠としたことから鴻池と名のったと言われています。

新六が改良したとされる酒は「諸白(もろはく)」と言われる清酒ですが、これは、新六の店の手代が叱責された腹いせに灰を投げ込んだことで、はじめてその製法が発見されたものであるとの言い伝えもあります。

やがて、新六は大坂市内の久宝寺町に店舗を設けて醸造・販売を営むようになりました。その後、海運業や両替商にも進出しました。

そして、鴻池村の本家と醸造事業は、新六の七男の新右衛門元英が継ぎました。

また、大坂の醸造・海運事業は、八男の善右衛門正成が引き継ぎ、それ以降代々の当主は善右衛門を名のりました。
 3代目善右衛門宗利の時に、醸造業や海運業から手を引き、両替商に重点を移しています。

幕末・維新期の鴻池の当主は10代目の鴻池善右衛門幸富です。

鴻池善右衛門幸富は、天保12(1841)、鴻池一族の山中又七郎家の長男に生まれ、弘化3(1846)、本家鴻池善右衛門家の養子となりますが、9代善右衛門幸実が早く没したため、嘉永4(1851)11歳で家督相続しました。

当時、鴻池家は、幕末維新の動乱期で、大名への貸付金の回収がままならないうえ、幕府からの御用金の要請が多額となるなど、経営困難に直面していました。

その中で、鴻池善右衛門幸富は、家業の維持に懸命に努力しました。

そうした中で、文久3年に結成された新選組を財政面で支えたのが鴻池であるとも言われています。

「新選組全史」(中村彰彦著)によれば、制服を作る金のなかった新選組は、文久374日 に、芹沢鴨らが鴻池善右衛門幸富を訪ね200両の借用を申し入れ無理やり借りてきました。この際に鴻池善右衛門幸富みずからが応待して200両を用立てたともいいます。
 この話を聞いた会津藩は芹沢鴨を呼びつけ、すぐに借金を返すよう命じたため、この借金は、すぐに鴻池に返済されました。
 (なお、お題テキスト「疾走!幕末・維新」には500両を鴻池から借りたと書いてあります。)
 この件が縁になって、鴻池と新選組は親しくなり、元治元年(1864)
正月、鴻池の屋敷に賊が押し入った際に、近藤勇の指示により土方歳三らが駆けつけ、その謝礼に近藤勇が銘刀・虎徹を鴻池から贈られたという話もあるそうです。(もっとも近藤勇の虎徹については諸説がありますので、これが事実かどうかは不確かのようです。)

 それからも鴻池と新選組の友好関係は続きます。
 箱館戦争で戦死した土方歳三の供養碑が函館市内の称名寺に供養碑を建立されていいますが、この供養碑は、鴻池の箱館支店の手代大和屋友次郎が中心となって建立されたとされています。
 この供養碑は、称名寺が明治になって3回の大火にあっているため、当時のものはありませんが、昭和48年に再建されたものが、箱館山中腹の称名寺現存して、8月に函館に行った際に訪ねてきました。(下写真参照)

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明治になると、大名貸の破綻により、鴻池は一気に経営危機に陥ります。しかし、鴻池善右衛門幸富は、外部から優秀な人物を招へいするなどして、経営危機を脱します。
 そして、第十三国立銀行の設立、日本生命の設立に参加する
など、家業の再生に努めました。

鴻池善右衛門が設立した第十三国立銀行は、鴻池銀行となり、さらに、鴻池銀行・三十四銀行・山口銀行の3行が合併し、三和銀行が創立されました。三和銀行は、UFJ銀行を経て、現在は三菱東京UFJ銀行となっています。



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by wheatbaku | 2017-10-27 23:49 | 『幕末』 | Trackback
浜口梧陵(幕末・維新を乗り切った商人たち④)

浜口梧陵(幕末・維新を乗り切った商人たち④)

 幕末・維新を乗り切った商人たちの第4回は、浜口梧陵です。

 浜口梧陵といえば、戦前の国定教科書にものった「稲むらの火」の主人公として有名です。

 昨年の江戸検のお題「天下大変、江戸の災害と復興」でも取り上げられたので、昨年江戸検を受検された方は覚えていると思います。

 この浜口梧陵が、今年のお題テキスト「疾走!幕末・維新」でも取り上げられています。


 浜口梧陵は、安政南海地震をきっかけとした災害復興や防災事業が大変有名ですが、そのほか、政治活動や公益事業にも力を注ぎ、近代日本の発展に大きな足跡を残しています。

浜口梧陵は、いまも続く銚子の醤油メーカーヤマサ醤油の7代目浜口儀兵衛のことです。

 浜口梧陵は、文政3年(1820)に紀伊国広村(現在の広川町)で浜口家の分家浜口七右衛門の長男、そして5代目浜口儀兵衛の孫として生まれました。

12歳の時、本家の養子となり、はじめて江戸を経て銚子に行き、家業に就きました。

22歳の時に、銚子で開業した蘭学医三宅艮斎と出会いました。
 この出会いにより、浜口梧陵の目は世界に向けられました。

三宅艮斎は、最初江戸で開業しようとしましたが、当時江戸では開業できなかったので、仕方なく、銚子へ下り開業し、そこで浜口梧陵と出会ったのです。

蘭学医と云えば、しばらく後の万延元年(1860)のことになりますが、佐藤泰然の佐倉順天堂で学び銚子で開業していた関寛斎が長崎に遊学しポンぺに学べるように支援したのも浜口梧陵です。

 31歳 の頃には、佐久間象山の門に出入りし西洋砲術を学んだといいます。この時に勝海舟と出会っています。

嘉永6年(1853)には、家督を相続し、7代浜口儀兵衛を襲名し家業に邁進しました。

この年の6月、日本を揺るがすペリー来航がありましたが、浜口梧陵は積極開国策を主張し、海外視察を願い出たともいいます。

翌安政元年(1854)11月、梧陵が広村に帰郷していた時、安政南海地震が起きました。この時、大津波が来ることを予知した浜口梧陵が、村民を避難させるため、田圃に積んであった収穫された稲束(稲むら)に火を投じて急を知らせ、村民の命を救いました。これが、「稲むらの火」に書かれた話です。

その後も、私財を投じて、故郷の復興のため、尽力しました。

安政5年、伊東玄朴らにより、江戸のお玉が池に種痘館が創立されましたが、半年後に種痘館が火災となり焼失しました。
 この時、浜口梧陵は種痘館再興のために3百両を寄付しています。種痘所の再建支援は、三宅艮斎からの要請によるものです。

翌年の安政6年、日米修好通商条約の批准書交換のための遣米使節の随行し、咸臨丸がアメリカに渡りましたが、この時、浜口梧陵は勝海舟から咸臨丸に乗船しアメリカにとこするよう誘われますが、安政2年から、銀94貫を費やして、築造を始めた堤防が築造途中であるなど広村の復興事業が途上であることを理由に断念しています。

 文久元年には、西洋医学所と改称された種痘館に、図書及び機械類の購入費のため更に400両を寄付しています。

明治になると、和歌山藩の勘定奉行などを経て、大久保利通の命を受けて中央政府にも招かれ、初代駅逓頭(えきていのかみ)にもなっています。駅逓は近代的な郵便制度を担当する部署でした。浜口梧陵は、近代的な郵便制度の確立に尽力し、口梧陵の後任の前島密により近代的郵便制度が創設されました。

明治12年には和歌山県議会初代議長に選任されました。

そして、明治18年、浜口梧陵の長年の願いであった欧米への視察途中、ニューヨークにて永眠しました。

浜口梧陵は、佐久間象山、勝海舟、福沢諭吉など多くの幕末・維新の有名人とも広い交流を持ちました。浜口梧陵の死後に建てられた顕彰碑「梧陵濱口君碑」の篆額と撰文は勝海舟の手によるものです。


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by wheatbaku | 2017-10-26 19:02 | 『幕末』 | Trackback
三野村利左衛門(幕末・維新を乗り切った商人たち③)

三野村利左衛門(幕末・維新を乗り切った商人たち③)

幕末・維新を乗り切った商人たちの3回目は、三野村利左衛門です。

三野村利左衛門を知っている人は少ないかもしれません。

私は、小栗上野介忠順の遺族を保護した人物として、小栗上野介忠順の事績をたどるなかで知りました。

 三井財閥の基礎を固め、三井中興の祖とも呼ばれる三野村利左衛門は、旧庄内藩士・関口正右衛門の孫で、鶴岡が出生地と伝えられています。

7歳のとき父松三郎が、浪人生活に入り、諸国を流浪した後、天保10年(1939)、19歳で江戸に出て、深川の干鰯(ほしか)問屋丸屋へ住み込み奉公をし、丸屋のつてで駿河台の旗本小栗家の中間として雇われました。

ここで、後に幕府勘定奉行となる小栗忠順と知り合います。

このころ、小栗忠順は10代でしたが、6歳年上の三野村利左衛門とは年が近いこともあって親しい主従となりました。これが三野村利左衛門の人生に大きな好影響を及ぼすことになります。

やがて、三野村利左衛門の仕事ぶりが注目され、神田三河町で油・砂糖などを商っている紀ノ国屋美野川利八に見込まれ、弘化2年(1845)に利八の娘なかの婿養子になり、利八を襲名します。

紀ノ国屋は零細な商家で苦労の連続でしたが、金平糖の行商をしながらお金を蓄え、三野村利左衛門が32歳の安政2年(1855)に小さな両替商を開業しました。

両替商となった利八は、雇い主である勘定奉行小栗上野介忠順の屋敷で、天保小判1両を万延小判3両1歩2朱(3倍強)と換価する旨の布令が出ることを耳にしました。

これは洋銀との交換比率を是正するための措置ですが、天保小判を持っていれば3倍の万延小判に換価できるため、天保小判を大量に買い集め、大きな利益を得ました。

こうした機敏な三野村利左衛門の行動が、付き合いのあった両替店の関係で、三井両替店の主席番頭斎藤専蔵に認められ、三井両替店に出入りするようになりました。

 その頃、三井には、幕府から多額の御用金の要請がありました。

 しかし、三井の内情は厳しく、越後屋の不振とともに両替店は長期不良貸し金の累積などで資金繰りが圧迫されて瀕死の状態にありました。
 そこで、最後の手段は勘定奉行の小栗上野介の力にすがり、御用金の減額を頼むほかないとなり、三野村利左衛門を通じて依頼することになりました。

 この時、三野村利左衛門は、小栗上野介に三井の窮状を力説し、御用金50万両のうち18万両を分納、残額を免除してもらうことに成功しました。しかもその後、三井家には幕府から御用金は一切なかったそうです。

三野村利左衛門は三井の危機を救ったことから、慶応2年、三井に「通勤支配格」(役員待遇)という破格の条件で雇われることになりました。

三井では、幼い時から丁稚奉公をして徐々に出世していく慣習があり、40代の男がいきなり役員待遇で抜擢されるというの異例中の異例でした。 

この時に名前も「三野村利左衛門」と改めた。「三野村」という姓は三井の三と、紀ノ国屋の姓である美野川の野、父の養家の姓である木村の村をとったものといわれています。

 王政復古後、三井が一早く新政府に多額の資金を融通するようになったのは、三野村利左衛門の進言によるものと言われています。

 明治になってからは、三井家の家制と家業の改革に着手し、呉服業(現在の三越)を分離し、三井銀行と三井物産会社の創設するなど三井の「大番頭」として、その本領を発揮し、明治から昭和に至る三井財閥の基礎を作り上げました。

 三野村利左衛門は、いち早く新政府に肩入れする一方で、恩を受けた小栗上野介忠順への恩義も忘れてはいませんでした。

小栗上野介忠順が勘定奉行を罷免され領地の上野国権田村に引きこもろうとした際には、亡命資金の準備をしたうえでアメリカ亡命を勧めたと言われています。ただし、小栗上野介忠順はこの話を断っています。

 また、小栗上野介忠順の遺族である道子と国子を深川の屋敷に引き取り、その保護および養育にも力を注ぎました。

 

 このように恩義にも厚い三野村利左衛門は、明治10年、胃がんのため病死しますが、その功績から「三井中興の祖」と呼ばれています。



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by wheatbaku | 2017-10-25 16:06 | 『幕末』 | Trackback
北風正造(幕末・維新を乗り切った商人たち②)

 北風正造(幕末・維新を乗り切った商人たち②)

 「幕末・維新を乗り切った商人たち」の2回目は、北風正造です。

北風家は兵庫の豪商であり兵庫津の名主でもあり、「兵庫の北風か、北風の兵庫か」と言われるほどでした。

 北風正造は、山城国の郷士長谷川家に生まれ、九条関白家に仕えた後、嘉永5年(1852),北風家に養子に入り、安政2年(1855)に家督を相続し、荘右衛門貞忠と改名しました。

 北風正造は、家業に専念し、安政5年箱館産物会所の用達兼生産捌方取締にも任命され家業を発展させていきました。

 そうした中で、文久3年に八月十八日の政変の政変が起こり、三条実美たち七卿が長州にくだり再起を期すことになりました。

 この「七卿落ち」の際に、北風正造は七卿を兵庫から船に乗せ長州へ渡る手はずを整えました。

 北風正造は、母親が有栖川宮家の老女であり、自身が九条関白家に仕えていたことから尊王精神を強く持っていたため、七卿落ちを支援したと言われています。

 北風正造は、七卿落ちの際の援助だけでなく、禁門の変の際に上京する長州藩にも資金援助し、西郷隆盛をはじめ多くの勤皇の志士とまじわり資金援助したと言われています。

 一方で、小栗忠順が、兵庫を開港するに際し、外国商人に対抗する現在の株式会社組織の「兵庫商社」の設立を計画した際には、北風正造は、その世話人の一人に選ばれています。

また、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れた後、姫路藩主酒井忠惇は朝敵となりました。

そのため、姫路藩は岡山藩などの追討を受けました。その際に北風正造が仲裁に入り、軍需金15万両と引き替えに姫路藩を攻撃するのをやめるという和解案で追討を解決しました。

姫路藩には、15万両もの資金はありませんでしたので、その資金は北風正造が用立てしたともいいます。

慶応4年に、兵庫鎮台に東久世通禧が任命されました。東久世通禧は、七卿落ちの際に北風正造が援助した七卿の一人でした。
 また初代の兵庫県知事は伊藤博文でした。

こうした北風正造と縁の深い人が兵庫に着任したことから、北風正造は、会計官商法司判事、県出納掛,通商為替会社頭取などの公職を歴任します。

ちなみに、明治2年会計官商法司判事となった際に、北風荘右衛門から正造と改名しています。

明治6年公職を辞してからも兵庫新川開削事業や米商会社,七十三国立銀行,商法会議所などの創立に尽力しました。

しかし家業は衰退に向かい、ついに北風家は明治18年に破産し、北風正造は明治28125日になくなり、正造が亡くなるとともに北風家は断絶してしまいました。



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by wheatbaku | 2017-10-24 19:27 | 『幕末』 | Trackback
伊達宗城の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人④)

伊達宗城の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人④)

 谷中霊園に眠る幕末有名人の4回目は伊達宗城です。

伊達宗城の墓所には鍵がかけられていた中に入ることはできません。しかしお墓は非常に大きなお墓で、柵の外からも表面に「従四位下勲一等伊達宗城侯之墓」と刻まれているのがわかります。

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伊達宗城は、宇和島藩主で、松平春嶽、島津斉彬、山内容堂とともに幕末四賢侯の一人に数えられています。

宇和島藩は、伊達政宗の長子で秀吉の養子となった秀宗を藩祖とする家柄です。

伊達宗城は旗本山口直勝の子として江戸に生まれ、宇和島藩主伊達宗紀(むねただ)の養子となりました。

山口直勝の父山口直清は宇和島藩5代藩主伊達村候の次男で山口家に養子に入りました。

従って、宗城は父の従兄弟である7代宗紀の養子となりました。

天保15年(1844年)に家督を継ぐと藩政改革に努めて殖産興業に力を注ぎました。

また蛮社の獄で捕えられ小伝馬町牢屋敷に入獄していたもの脱獄して幕府から追われていた高野長英を招聘し蘭書の翻訳や蘭学教授を託しました。

また、長州出身の村田蔵六(後の大村益次郎)を招いて洋式軍備の充実を図りました。

しかし、将軍継嗣問題で、松平春嶽や島津斉彬らとともに一橋慶喜を推したため、井伊直弼から睨まれ安政の大獄が吹き荒れるなかで病気を理由に隠居しました。

その後、文久312月に、一橋慶喜、松平慶永、松平容保、山内豊信らとともに参与に任命され、参与会議が開催されるようになり、中央で活躍するようになりました。

慶応3年5月に設置された四侯会議のメンバーにも選ばれましたが、四侯会議が瓦解してしまいました。

慶応3年の王政復古後、新政府の議定に就任し、明治新政府では外国事務総督などを勤め新政府発足当初の外交責任者を務めました。

[10月19日追記]
 宇和島にはシーボルトの娘楠本いねも縁があります。
 楠本いねは、シーボルトと長崎円山の遊女屋其扇との間に生まれました。
 シーボルトが国外追放された時に、その養育はシーボルトの弟子で宇和島出身の二宮敬作に託されました。
 そのため、いねは宇和島で育ちました。
 楠本いねは、最初は、シーボルトを日本語になぞらえて失本(しいもと)と名乗っていましたが、伊達宗城が「失本では、本を失うとなり縁起が悪い。先祖は誰か」と聞くと、いねが「楠本正成です」と答えました。そこで伊達宗城が「それでは楠本となのりなさい」と改名させたそうです。
『シリーズ藩物語 宇和島藩』宇神幸男著に書いてあります。



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by wheatbaku | 2017-10-18 09:45 | 『幕末』 | Trackback
渋沢栄一の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人③)

渋沢栄一の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人③)

 谷中霊園に眠る幕末有名人の3回目は渋沢栄一のお墓です。

渋沢栄一お墓は、松平斉民のお墓の近くにありますが、大きな墓域の中にあります。

渋沢栄一のお墓は、周囲を塀に囲まれていて、墓域の中には入れませんでしたが、数年前から下写真のように塀もなくなって誰でもお参りできるようになりました。

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近代日本経済の父と呼ばれる渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市の豪農の家に生まれ、昭和6年91歳で亡くなりました。「青淵」と号していましたが、墓碑の上部に「青淵」と刻まれています。

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渋沢栄一は、若い頃は、攘夷思想の持ち主で、文久3年24歳の時には、従兄の尾高淳忠や渋沢成一郎とともに高崎城乗っ取り・横浜焼討を実行しようとしましたが、最終的には、その計画を断念しました。

その後、嫌疑をかけられた幕府の追及から逃れるため、一橋家に仕え、歩兵隊の創設や領地の財政改革などの仕事をしていました。

渋沢栄一とともに一橋家に仕えたのが、のちに彰義隊頭取となる従兄の渋沢成一郎です。

慶応2年に一橋慶喜が将軍を継ぐとともに、渋沢栄一は幕臣となりました。

 幕府の行く末に不安を感じていた渋沢栄一は慶喜が将軍となるについては反対していたようです。

 幕臣を辞めようと考えていた渋沢栄一に人生の転機が訪れました。

慶応3年徳川慶喜の弟徳川昭武に随行してパリ万博に行くこととなりました。

渋沢栄一は、庶務会計掛ととして、パリに滞在し、各所を視察するとともにヨーロッパ各国を巡る徳川昭武一行に同行し、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど各国を見てまわりました。

この時の渋沢栄一の経験が、のちの近代日本経済の勃興に大きな役割をはたしました。

幕府崩壊に伴い帰国した渋沢栄一は、徳川家と共に静岡に移住しました。

その後、明治2年新政府の大隈重信から要請をうけて大蔵省に入り,井上馨と共に財政制度確立に努めましたが、当時の大蔵卿大久保利通と意見が合わないこともあり大蔵省を辞職しました。

辞職と同時に第一国立銀行を創業に関与し頭取に就任しました。

それ以後財界のリーダーとして、王子製紙、大阪紡績、東京海上、日本郵船、日本鉄道などを多くの企業の創立に関与しました。

 また東京商法会議所(東京商工会議所の前身)などを設立するなど財界活動にも熱心でした。

 また渋沢栄一は社会福祉事業や国際親善にも熱心で、明治7年に身寄りのない子供や老人を養う施設の「東京市養育院」の院長となり亡くなるまで院長を勤めました。

こうした永年の功績により、三井三菱のなどの財閥当主が男爵に留まるなかで、大正9年には、子爵を授けられました。

また、昭和に入って、日米関係が悪化するなかで、人形による日米友好を図るために努力しました。

こうして、渋沢栄一は、天寿を全うし、昭和6年91歳で亡くなりました。


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by wheatbaku | 2017-10-11 13:00 | 『幕末』 | Trackback
松平斉民の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人②)

 松平斉民の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人②)

谷中霊園に眠る幕末有名人の2回目は松平斉民のお墓です。

 松平斉民といっても御存知の方は少ないと思います。それこそ「知る人ぞ知る」という人物かもしれません。

松平斉民は現在の岡山県にあった津山藩藩主です。号は確堂といいます。

明治維新期には、徳川宗家16代徳川家達の後見人を勤めた重要人物で、彰義隊を公認した人物として有名です。

 松平斉民のお墓は、徳川慶喜の墓所のすぐ近くにあります。

 周りを圧するほどの大きな墓碑が非常に目立ちます。

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 津山藩は結城秀康を藩祖とする越前松平家の宗家筋の家柄で、譜代の名門です。

徳川家康の次男結城秀康は越前で67万石を領していました。しかし、2代目忠直が乱行したため改易となり、忠直の弟の松平忠昌が藩主となりました。忠直の長男光長が越後高田藩26万石となりました。しかし、松平光長も、5代将軍綱吉の代の越後騒動のため改易となり配流されました。

その後、光長は許され、結城秀康の曾孫である武蔵川越藩の松平宣富が養子となり、宣富が津山を領することになり、名門松平家が津山藩10万石藩主として復活しました。

これが津山藩松平家です。

ちなみに松平春嶽(慶永)が越前福井藩主として有名ですが、松平春嶽(慶永)が継いだ福井松平家は、忠直改易後に福井に入封した忠昌の子孫です。

 松平斉民の墓碑には「文定院殿成譽寂然確堂大居士」と刻まれていて、号の「確堂」が法名の中に入っています。下段写真参照

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松平斉民は11代将軍徳川家斉の16男として生まれ、文化14年(1817)津山藩7代藩主松平斉孝の養子となり、天保2年(1831)に藩主となり、藩政改革に力を入れました。

嘉永6年(1853)のペリー来航時の際には、明確な開国論の意見上申しているとのことで、大変注目していいと思います。

しかし、斉民は、安政2(1855)に、「勝手向き不如意」を理由に先代藩主の四男慶倫に家督を譲って隠居し、確堂と号しました。

その後も家斉の子供であるということとその人柄から徳川家では重きをなしていました。

そうしたことも大きな理由だと思われますが、松平確堂は、江戸城無血開城後の53日に新政府より、徳川宗家を相続した亀之助(家達)の後見人を命じられました。

また、加来耕三「上野彰義隊」によれば、彰義隊の渋沢成一郎を謁見し公認したのは松平確堂であると次のように書かれています。

松平確堂は、若年寄川勝広運(ひろかず)の名前で彰義隊の渋沢成一郎を呼出します。

渋沢成一郎は100人程の彰義隊士を率いてと江戸城に登城し川勝広運と面会します。その席に、松平確堂が現れ謁見し「あっぱれな武士である」と述べたそうです。

その後、渋沢成一郎に「奥右筆格渋沢成一郎 彰義隊頭取仰付られる。席高之儀は之迄之通り、相心得えるべし」とされ、彰義隊は徳川家の公認団体となりました。

これにより、彰義隊が江戸市中取締をおおっぴらにできるようになりました。



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by wheatbaku | 2017-10-09 11:41 | 『幕末』 | Trackback
徳川慶喜の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人①)

徳川慶喜の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人①)

 今日からは、谷中霊園に眠る幕末の有名人のお墓をご案内します。

 最初は、多くの人が訪ね、霊園の中でも案内板の整備されている徳川慶喜のお墓からご案内します。

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 谷中霊園は都立の霊園で、寛永寺の墓地とは異なりますので、徳川慶喜のお墓は、正式には寛永寺の墓地内にあります。

徳川慶喜のお墓は神式のお墓です。

正面中央の二つの墓のうち、左側が徳川慶喜のもので、右側は正室の徳川美賀子のお墓です。

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徳川慶喜は、大正21122日に亡くなりました。77歳でした。

幕末・維新の重要人物の中で最後に亡くなったといってもよく、 徳川慶喜が亡くなった時には、既に、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視など、徳川慶喜の人生を大きく変えた人たちはなく、勝海舟や明治天皇さえも亡くなっていました。

 徳川慶喜は、寛永寺大慈院で謹慎したあと、江戸城開城の日に水戸に移り、さらに、水戸から駿府に移り謹慎しました。

明治29月に謹慎が解除されましたが、その後も静岡に住み続けました。

そして、ようやく明治30年に東京に転居し、翌年31年(1898)に明治天皇に拝謁し 明治35年には公爵となりました。

そして大正2年に77歳でなくなりました。

徳川慶喜が、何と思って静岡に留まり、徳川慶喜を朝敵にした新政府の重要人物の死を聞いて何を思ったのだろうとふと感じることがあります。

慶喜のお墓の後ろに側室(中根幸、新村信)のお墓もあります。

徳川慶喜は十男十一女の子沢山ですが、多くの子供の母親が新村信と中根幸の二人です。

中根幸は、中根芳三郎の娘として生まれ、成田信十郎の養女となって側室となりました。

新村信は、旗本松平勘十郎の娘に生まれ、新村猛雄の養女となって側室となりました。広辞苑の編者新村出は、新村信の義理の弟になります。

二人とも多くの子供たちを生んでいますが、生前の役職は側女中で、子供を生んだからといっても、女中以上の扱いを受けることはなく、子供たちからも「幸」とか「信」とか呼び捨てにされたといいます。

 さて、最近のニュースですが、2017年9月25日に徳川慶喜の曾孫である徳川慶朝さんが亡くなられました。徳川慶朝さんは写真家として活躍されていましたが、独身で、養子もとらなかったと言われています。徳川慶喜家が今後どうなるのか気になるところです。

徳川慶喜の墓の手前には、勝精(くわし)夫妻のお墓もあります。
 勝精は、徳川慶喜の十男で母親は新村信です。勝海舟は長男小鹿が若くして亡くなったため、徳川慶喜にお願いして、十男の精を養子にもらいました。そして小鹿の子供つまり勝海舟からすれば孫娘となる伊代子と結婚させました。

勝海舟のお墓は洗足池近くにありますので、勝精は、養父のそばでなく、実父母のそばに眠っていることになります。

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by wheatbaku | 2017-10-06 11:28 | 『幕末』 | Trackback
五稜郭開城(箱館戦争史跡めぐり⑭)

五稜郭開城(箱館戦争史跡めぐり⑭)

慶応4年5月11日の新政府軍の旧幕府軍への総攻撃により、旧幕府軍の劣勢が明らかにとなり、残るは、五稜郭、千代ヶ岡陣地、弁天台場だけとなりました。

 5月12日、新政府軍から降伏勧告の使者が箱館病院にやってきました。

 箱館病院長の高松陵雲は、新政府軍の意向を受けて、五稜郭にいる榎本武揚と松平太郎に手紙を書きました。

 これに対して榎本武揚は、降伏はしない旨の回答を高松陵雲に返してきました。

 それとともに、榎本武揚がオランダに留学した際に入手した「海律全書」2冊を、将来に役立つ書物であり戦火で灰にするのは惜しまれるからと言って、黒田清隆に届けるよう伝えてきました。

 「海律全書」とは、万国公法であると言われています。

幕末で「万国公法」と言う場合は、坂本龍馬も学んでいて「いろは丸」事件の際にの利用し、慶応4年には西周が発行した「万国公法」を指すことが多いようです。

この場合の「万国公法」は北京にいた米国人宣教師マーチンがアメリカの国際法学者ホイートンの「Element of International Low(エレメンツ・オブ・インターナショナル・ロウ)」(江戸検のお題テキストでは「国際法入門」となっている)を1864年に中国語訳し「万国公法」の名で刊行したものを指してします。

 「海律全書」も『万国公法』とよく言われるので、ホイートンの「Element of International Low(エレメンツ・オブ・インターナショナル・ロウ)」を原著とするのかどうか調べました。

 すると大山柏著「戊辰役戦史」には、「海律とは、仏国オルトーンン著「海上万国公法」のことである」と書いてあるので、「海律全書」と「万国公法」は別の本のようです。

 日本の将来を考えて「海律全書」を戦火に焼失させまいとする榎本武揚に感激した黒田清隆は、酒五樽を届け感謝の意を表しました。

 黒田清隆が贈りかえしたものは、酒五樽とまぐろ5本と書いてある本もあります。

 法律書のお礼に贈ったものが酒というのが薩摩出身の黒田清隆らしいといえば黒田清隆らしいと思いました(余談ながら・・)

 贈られてきた酒を前にして榎本武揚側は、毒入りではないかと疑い、手を出しかねていましたが、額兵隊の星恂太郎が無造作に柄杓ですくって呑み始めたのにつられて他の人たちも呑み始めたそうです。

 

 12日に続いて新政府軍側からの降伏勧告は続きます。

13日には弁天台場へ新政府軍から榎本武揚への取次依頼があり、さらに翌14日には再び弁天台場へ新政府軍軍監田島圭蔵がやってきて榎本武揚への取次を依頼したため、榎本武揚は田島と千代ヶ岡陣地付近で会い、榎本武揚は降伏を拒否しました。

15日には千代ヶ岡陣地の中島三郎助へ降伏勧告がされましたが、中島三郎助はそれを拒否しました。

こうした連日にわたり新政府軍からの降伏の勧告が行なわれる中で、ついに15日には、弁天台場にこもる永井尚志や新選組が降伏しました。

しかし、16日には、あくまでも降伏を拒否した千代ヶ岡陣地の中島三郎助が二人の子供とともに戦死しました。

いよいよ五稜郭だけが残ることとなり、五稜郭から脱走する兵士も続出する状態となりました。

榎本武揚は自分が責任をとって自決する覚悟を固め、秘かに自室で切腹しようとしますが、部下に止められ、ついに榎本武揚自信が軍門に下り、残る将兵の助命を嘆願することを決意します。

そこで、17日には、総裁榎本武揚、副総裁松平太郎が、五稜郭近くの亀田八幡宮まで出向いて、新政府側の黒田清隆らと降伏交渉が行なわれました。

 会談では降伏条件が決められた後、酒盛りが行なわれるほど和やかな交渉でした。

 交渉が行なわれた亀田八幡宮の拝殿は、現在も残されています。

 交渉は、当時の本殿で行われたそうですが、新しい本殿が建築され、旧拝殿  として残されています。拝殿の羽目板には当時の銃弾の跡も残されています。

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 旧拝殿の前には、「箱館戦争降伏式之地」記念碑が有志によって建立されています。題字は榎本武揚の曾孫・榎本隆充氏の揮毫です。上の写真の手前の記念碑です。

 こうして、降伏条件が決定し、翌5月18日、総裁榎本武揚、副総裁松平太郎、陸軍奉行大鳥圭介、海軍奉行荒井郁之介が新政府軍の軍門に下り、五稜郭は開城しました。

 以上で、箱館戦争ゆかりの史跡めぐりは終了させていただきます。
 
 




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by wheatbaku | 2017-10-03 12:07 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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