カテゴリ:『幕末』( 138 )
京都見廻組暗殺説 (龍馬暗殺犯は誰⑤)
 今日からは、龍馬暗殺の実行犯は誰で、黒幕は誰かという幕末の最大のミステリーについての諸説の紹介をしていきます。

 現在での最も有力な説は 「京都見廻組」 が実行したという説ですので、この説について紹介します。
 当初、龍馬暗殺は、近藤勇が率いる新撰組が実行したと思われていました。
 しかし、元京都見廻組の今井信郎(いまいのぶお)が龍馬暗殺を自供しました。


【今井信郎が自供する】 
 今井信郎は、函館戦争で敗れ明治3年2月に東京に送られてきました。
 この今井信郎が、取調べの中で龍馬暗殺を自供したのでした。
 今井信郎の自供によると、近江屋に向かったのは、京都見廻組組頭の佐々木只三郎、そして部下の今井信郎ら合計7名でした。
 襲撃メンバーのほとんどは鳥羽・伏見に始まる戊辰戦争で死んでしまいました。
 しかし、箱館で降伏した今井信郎が兵部省および刑部省の取調べで自供し、ようやく真相が明らかとなったのでした。

【今井信郎の自供内容】 
 その今井信郎の自供は、佐々木只三郎が率いる京都見廻組が近江屋に赴き龍馬と中岡を斬ったというものでした。
 明治3年の供述では、
 佐々木只三郎は十津川郷士の名刺を渡し、階段で待機した。
 2階に上がって暗殺を「実行」したのは、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助の3名で、今井信郎、土肥仲蔵、桜井大三郎の3名は表口、裏口および住人脅迫の見張り役だった。
というものです。
 つまり今井信郎の役割は実際に龍馬を殺害したというものではありませんでした。
 自供を受けて今井信郎に課せられた刑は、静岡藩預かりの禁錮という軽いものでした。しかも明治5年には恩赦によって赦免されています。
 こうした軽い刑に対しては疑問がだされています。

 しかし、後には、今井信郎も2階に上がって、渡辺吉太郎、桂隼之助とともに龍馬を斬ったという風に変わりました。
 
 証言の変化がありますが、今井の自供内容はとても詳細であるため、「京都見廻組」の説が現在では最も有力視されています。しかし、関係者の証言とも食い違いがあることから確実なことは分からず、現在でもいろいろな説があります。
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by wheatbaku | 2010-11-08 05:33 | 『幕末』 | Trackback
天満屋事件 (龍馬暗殺犯は誰 ④)
 今日は、龍馬暗殺の4回目です。
 今日は、龍馬暗殺についての岩倉具視、松平春嶽のコメントと天満屋事件について書いてみます。

【龍馬、霊山に埋葬される】  
 龍馬ら3人の葬儀は11月18日に行われたという記録があるそうですが、実際は17日の夜に行われたようです。
 葬儀は近江屋で行われ、葬列には海援隊・陸援隊、土佐藩士、薩摩藩士らが参列し、霊山に埋葬されました。

c0187004_2031076.jpg【岩倉・春嶽のコメント】 
 龍馬が暗殺されるという報を聞いて、岩倉具視は、「臣(岩倉)も実に遺憾切歯之至リ、何卒真先ニ復讐致シ度キものニ候」と薩摩の大久保利通に書いているそうです。
 また、松平春嶽(右写真、国立国会図書館蔵)は、国許の藩主茂昭に次のような手紙を書いています。
 「昨15日夜、土藩才谷梅太郎(坂本龍馬の変名)他一人(中岡慎太郎)殺害されたり。殺人者分り居り候趣ながら藤次(福岡孝弟)も聞きもうさず候。段々藤次の咄承り候処、此度土藩尽力により芋藩(薩摩藩)の姦策已(すで)に破れたる形勢なり」
 文面を読むと春嶽は龍馬暗殺は薩摩藩の仕業ではないかと考えているようです。

【天満屋事件】 
 龍馬と中岡を殺された海援隊と陸援隊の隊員は、暗殺者は「新撰組」であり、その黒幕は紀州藩の用人三浦休太郎だと考えます。
c0187004_20312541.jpg それは、いろは丸事件で、紀州藩は8万両もの賠償金を払うことになったため、その恨みを晴らすために龍馬を暗殺したと考えました。 
 そして12月7日夜、三浦休太郎が泊まっていた油小路花屋町下ルにある「天満屋」を襲撃します。
 襲撃に参加したのは16名です。
 正面組は陸奥陽之助ら7名、側面からは沢村惣之丞ら7名、裏口は3名として襲う計画でした。
 陸奥陽之助は、後の外務大臣陸奥宗光です。(左写真、国立国会図書館蔵)
 しかし、不穏な動きを察知していた紀州藩は、会津藩を通して新選組に三浦休太郎の警護を依頼していました。
 そのため、待ち受けていた斉藤一以下の10数名の新撰組隊士と斬りあいになり、中井庄五郎が討ち死に、竹中与三郎が重傷、竹野寅太が軽傷を負いました。
 一方新撰組では、宮川信吉が即死、舟津釜太郎が死亡、梅戸勝之進が重傷を負いました。即死した宮川信吉は近藤勇の従弟です。

 しかし、三浦休太郎は軽傷ですみました。
 明治維新後、三浦休太郎は明治政府に出仕し、元老院議官、貴族院議員を経て、第13代の東京府知事となったそうです。
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by wheatbaku | 2010-11-06 21:41 | 『幕末』 | Trackback
同志駆けつける (龍馬暗殺犯は誰③)
 龍馬が襲撃されるとの報を聞いて同志が集まります。今日は、衝撃後の動きについて書いていきます。

【龍馬絶命、中岡重傷】 
 龍馬襲撃を土佐藩邸に告げたのは、近江屋の主人新助でした。
 新助は、2階の物音に土佐藩邸に異変を告げようとして表に飛び出しますが、表に見張りがいたため、裏に回り、土佐藩邸に駆け込みました。
 土佐藩邸からは、横目付の嶋田庄作が近江屋に向かいました。
 近江屋に到着すると軍鶏を買ってきた峰吉が帰ってきたので、家の中に入りました。
c0187004_15541342.jpg 2階では、6畳間に藤吉が倒れており、8畳間には龍馬がうつぶせに倒れており、中岡慎太郎は北隣の道具商井筒屋の屋根に横たわっていたそうです。
 その時には、龍馬は絶命していました。

【谷干城(たにたてき)・田中光顕ら駆けつける】 
 やがて、急を聞いた谷干城(右写真「国立国会図書館蔵」)や田中光顕が駆けつけてきました。

 中岡の意識はしっかりしていて、谷干城たち同志に事件の模様を語りました。
 近江屋の表に訪問者がきて、藤吉が応対した。十津川の郷士といったので、取次ぎの藤吉が名刺をもってきた。
 床を背にした龍馬と入口近くに座っていた中岡が名刺を見ようと行灯の灯りに向いたところ、2人の暗殺者が「こなくそ!」といって斬りかかってきた。はっと思った瞬間、龍馬が床の刀に手を伸ばしたところまで覚えているが、その後は、自分の応戦で精一杯で覚えていない。中岡は、左右の手足を斬られ、深手を負い気絶した。暗殺者は「もうよい。もうよい」といって引き上げた。
 これが中岡の言うあらましだったそうです。
 そして、「手馴れた戦いぶりは新撰組だろう。刺客の言った言葉に「こなくそ!」という言葉は四国の者のよくいう言葉である。だから刺客は四国のものに違いない」と言ったそうです。
 
 田中光顕は白川の陸援隊にいましたが、峰吉が急を告げたので、すぐに飛び出し、途中で二本松の薩摩藩邸により、吉井幸輔に知らせて、近江屋に駆けつけました。 
 田中光顕は「井上聞太を見よ、あれほどの大疵さえ生きた。貴様は決して案ずることはない」と中岡に声をかけたといいます。
 
 しかし、翌日には、藤吉が息を引き取り、翌々日には中岡慎太郎も息を引き取りました。
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by wheatbaku | 2010-11-05 21:46 | 『幕末』 | Trackback
龍馬襲撃 (龍馬暗殺犯は誰②) 
 大河ドラマ「龍馬伝」では、「龍馬暗殺」は、最終回の11月28日の「龍の魂」で放映される予定です。
 それより早く「龍馬暗殺」について書いていきますが、今日は、龍馬暗殺の2回目で、坂本龍馬襲撃の様子を書いていきます。

【風邪のため母屋2階に移る】 
 坂本龍馬は、近江屋で中庭にある土蔵に身を潜めていましたが、暗殺される2日ほど前から風邪気味の龍馬は、土蔵から母屋2階の奥座敷に移っていました。
 
 近江屋の2階には、4つの部屋がありました。階段を上がった部屋が6畳、左つまり東側で河原町通りに面した部屋が8畳、右(つまり西側)が仏間の6畳、その奥が床の間の8畳でした。
 坂本龍馬は、その奥の8畳間にいました。
龍馬と中岡が暗殺された部屋の古写真が 京都大学電子図書館内の維新資料画像データベース「坂本竜馬、中岡慎太郎横死ノ間」で見られます。

【龍馬と中岡が残る】 
c0187004_22403892.jpg 午後6時ごろ、その龍馬を中岡慎太郎(左写真)が訪ねてきました。
 午後7時ごろには、土佐藩同志岡本健三郎が来訪し、さらに中岡がかつて下宿していた「菊屋」の息子の峰吉がやってきて、火鉢を囲んで談笑しました。
 午後8時ごろ、龍馬は、腹が減ったので、峰吉に軍鶏(しゃも)を買いに行かせました。
 ちなみに、龍馬は軍鶏鍋が大好きだったそうです。
 そのとき、岡本健三郎も、他に用事があるため、買い物に出かける峰吉とともに、近江屋を出ました。
 この時点で、近江屋にいた人は、2階の奥の間に坂本龍馬と中岡慎太郎、階下にかつて「雲井龍」の四股名で相撲をとっていた山田藤吉、そして1階に近江屋の主人一家がいました。
c0187004_2035321.jpg☆右写真は軍鶏鍋です。
 霊山護国神社で毎年開かれる龍馬際では軍鶏鍋がふらまわれるそうです。

【暗殺者は7名】 
 岡本と峰吉が出かけた直後、暗殺犯たちが近江屋を訪れます。
 応対に出た藤吉に十津川郷士の名が書かれた名刺を渡します。それを持って藤吉は龍馬たちに取次に2階にあがります。
 その間に暗殺犯たちは、配置につきます。 暗殺犯は7人というのが有力説です。
 7人説によると、この7人は、階段を上がった所に指揮者が1人、2階の龍馬たちがいる8畳間の隣の仏間に実行犯3人、1階の奥の部屋に主人一家の抑え役1人、入口に見張り役1人、外に伝令役1人という配置だったそうです。

 3人が取次ぎをした藤吉のあとをつけて2階に上がりました。そして、藤吉が部屋を出たところを待ち構えて襲いかかりました。(取り次ぐ前に斬りかかったという説もあります。)
 その藤吉が斬られる物音を聞いた龍馬は、藤吉がふざけていると勘違いして、「ほたえなや(騒ぐな)」と声をかけたといいます。これにより、龍馬がいることを暗殺者たちに知らせてしまいます。

【龍馬 絶命】 
 その部屋に暗殺犯が襲いかかりました。
 暗殺犯の一太刀目は、龍馬の額を切り裂きました。この一太刀目で龍馬は致命傷を負います。
 さらに、床の間の刀を取ろうと振り向いた龍馬は背後から斬りつけられました。そして、三太刀目は鞘のまま受け止めましたが、この時にまた額を傷つけられます。
 中岡慎太郎も、最初に後頭部を斬られた後、小刀で応戦しますが、十数か所の傷を受けて倒れてしまいます。
 暗殺者たちは、「もうよい、もうよい」と言葉を残して立ち去りました。
 瀕死の龍馬は、傷の具合を見て、「脳をやられたからもうダメだ」と言って事切れたと言われています。
 中岡慎太郎も痛みに耐えて家人を呼びますが応答はなく、物干し台から隣の屋根にはいだしますが、ついに意識を失ってしまいました。

 これの後については、明日書きます。
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by wheatbaku | 2010-11-04 22:49 | 『幕末』 | Trackback
龍馬暗殺犯は誰①
 大河ドラマ「龍馬伝」も佳境に入ってきて、身を乗り出してみてしまいます。
 最近は、毎回、最後に「龍馬暗殺まで何ヶ月のことであった」というナレーションが入っています。
 その龍馬が暗殺された日は慶応3年11月15日です。それはいみじくも龍馬33回目の誕生日でした。
 月でいえば今月の出来事ですので、今日から、 「龍馬暗殺」 について書いきたいと思います。

c0187004_21213360.jpg 坂本龍馬が暗殺されたのは、醤油屋の近江屋の2階でした。
 龍馬暗殺は、幕末最大のミステリーの一つとされています。
 特に、誰が暗殺者で誰が黒幕かということが話題になっています。 

【近江屋は土佐藩邸の真向かいにあり】  
 大政奉還を実現させた龍馬を狙う人は多くいたため、龍馬は「才谷梅太郎」などの変名を使い、姿を変え、宿を変えていました。 
 宿は木屋町にある材木商「酢屋」にいましたが、暗殺される1カ月ほど前に「近江屋」に変えていました。
 近江屋は京都河原通り蛸薬師下ルにある土佐藩の御用商人で真向かいは土佐藩邸でした。
いざという時には、土佐藩邸に逃げ込むことができました。
 そして、近江屋は中庭に土蔵があり、裏側は「称名寺」というお寺で、襲われた時には境内を抜けて脱出することも可能でした。
 龍馬は、薩摩藩邸や土佐藩邸に入ることもできましたが、それらには入らず近江屋を隠れ家としていました。
 それについて龍馬は「二本松(薩摩藩邸)ニ身をひろめ候ハ、実にいやみで候バ、万一の時もこれあり候時ハ、主従共ニ此処ニ一戦の上、屋舗(土佐藩邸)に引取申すべしと決心仕りおり申し候」と書いています。

 c0187004_20383062.jpg 【龍馬のピストル】 
 さらにピストルで武装していました。
 高杉晋作から贈られたというピストル(写真の上、スミス&ウエッソン社製の32口径6連式ピストル)は寺田屋で襲撃された時に紛失していまいました。
 そして次に薩摩藩から贈られたというスミス&ウエッソン社製の22口径5連式ピストル(写真下)で武装していました。

 龍馬には周囲から身の危険をつげる情報がいろいろ入っていたそうです。
 襲撃される前には、元新撰組の伊東甲子太郎から忠告があったと言います。しかし、龍馬はその忠告に従わず、伊東甲子太郎は残念がったそうです。
 また、襲撃の前日の11月14日には、寺田屋の女将のお登世も噂を聞きつけて、龍馬に危険を知らせました。しかし、やはり龍馬は動きませんでした。

 さて明日は、龍馬襲撃の様子を書きます。
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by wheatbaku | 2010-11-03 21:25 | 『幕末』 | Trackback
謹慎生活(徳川慶喜⑥ 江戸検定今年のお題『幕末』)
 連続して書いて来た「徳川慶喜」ですが、今日で一区切りにしたいと思います。
 今日は、慶喜の謹慎生活  について書いてみたいと思います。 

 主戦論の高まりの中で、幕府軍は、慶応4年1月2日、京都に向け進発します。
 そして、鳥羽・伏見の戦いで、幕府軍は、官軍に敗北します。
 慶喜は、戦うポーズをとりながら、こっそり大阪城を抜け出して、幕府軍艦「開陽丸」で、老中板倉勝静・会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬などを連れて、江戸に戻ってきます。
c0187004_22524129.jpg
 徳川慶喜が「開陽丸」から、下船したのが、旧浜離宮恩賜庭園の「将軍お上り場」です。
 ここで、勝海舟が、慶喜を出迎えたそうです。
 旧浜離宮から慶喜は馬に乗って江戸城に戻ります。
 右の写真は、旧浜離宮恩賜庭園の「将軍お上り場」です。
 なお、14代将軍家茂の亡骸もここから上陸しています。

【大慈院での謹慎生活】 
 そして、その後は謹慎生活に入ります。
 2月12日、寛永寺の子院大慈院に入り謹慎しました。
 なぜ、寛永寺でしかも大慈院で謹慎したかについて、寛永寺の浦井執事長が書かれているので、要約します。
 可能性の高い増上寺が選ばれなかったのは
  ①増上寺では官軍が攻めてくる方向に近寄ることになるので、それを避けた
  ②謹慎中の慶喜を警護するのが難しい地勢にあること
 これに対して寛永寺は、
  ①江戸を離れる場合、まず第一に考えられるのは水戸であり、ついで日光や奥州です。
   上野は、そのいずれにも近いところにある。
  ②上野は、山であり、警護しやすい場所であった。
 以上のことから寛永寺が選択されたと考えています。
 次いで、なぜ本坊選ばなかったかは、勤皇の志の高い慶喜が、公現法親王に迷惑がかかるのか避けたのではないかと浦井執事長は推測しています。
c0187004_22521011.jpg  また、なぜ大慈院が選ばれたかですが、それは人間関係によると、大慈院は5代将軍綱吉と8代将軍吉宗の別当寺であり、慶喜が時の住職常達と深い面識があったことから選んだと考えています。
 さらに、大慈院は、一般の人の立ち入りが禁止された地域にあり、大慈院の門前は見晴らしがよく、広場の向かい側には多くの学僧が起居している勧学講院がありました。
 こうした条件から部外者が大慈院に近づくのは非常に困難でした。
 さらに、ここからは、千住も近く万一の場合に千住に立ち退くのに便利でした。
 こうした諸条件を検討して、大慈院になったのだと考えています。
 慶喜が謹慎した大慈院の地には、現在、寛永寺の根本中堂(上の写真)が建っています。根本中堂は、明治12年に川越喜多院の本地堂を移築し再建したものです。
 慶喜が謹慎した葵の間は非公開とされています。

【その後の慶喜】 
 慶喜は、慶応4年4月11日まで、大慈院で謹慎し、11日早朝に水戸に立ち退き、水戸では弘道館で謹慎を続けます。
c0187004_2351113.jpg さらに、駿府に転居し、静岡で謹慎しました。1年後に謹慎がとかれましたが、慶喜は東京には戻りませんでした。
 明治11年に明治天皇が静岡を訪問した時にも出迎えるよう求められた時も、病気を理由に断っています。
 その慶喜が東京に戻ったのは明治30年11月です。そして、皇居に参内して明治天皇との会見が実現したのは、明治31年3月2日でした。
 明治35年には公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、貴族院議員にもなりました。

 そして、大正2年11月22日、小日向第六天の自宅において死去しました。
 享年77歳。徳川歴代将軍の中でも最長命でした。
 右の写真は「慶喜終焉の地」の石碑です。
 慶喜の屋敷跡は、現在、「国際仏教学大学院大学」となっています。その正門にあります。
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by wheatbaku | 2010-10-26 05:25 | 『幕末』 | Trackback
薩摩藩邸焼き討ち事件(徳川慶喜⑥ 江戸検定今年のお題「幕末」
 昨日の小学生対象の史跡ツァーも無事終了しました。子供たちも熱心に説明を聞いてくれて楽しい史跡ツァーでした。
 今日は、王政復古クーデターから薩摩藩邸焼き討ち事件まで書きます。

【王政復古のクーデター】 
 慶応3年(1867)10月14日の将軍慶喜の大政奉還により、武力討幕派は倒幕の名目を失くします。
 そこで、武力討幕は「王政復古のクーデター」を実行しました。
 12月9日朝、薩摩・安芸・越前・尾張・土佐の藩兵が宮中に入り、それまで宮門の警備に就いていた会津・桑名の兵に変わって各要所を固めました。
 五藩の兵に守られた宮中の学問所において、明治天皇が「王政復古の大号令」を下しました。
c0187004_17491047.jpg  摂政、関白、幕府が廃止され、さらに国事御用掛、議奏、武家伝奏の廃止ならびに京都守護職、所司代の廃止されました。
 これにより、将軍だけなく摂政・関白を含め旧体制をすべて廃止したことになります。
 そして、新たに、「総裁・議定・参与」の三職がおかれました。
 しかし、どこにも徳川慶喜の名前はありませんでした
 でも、将軍職は廃止されても、慶喜は内大臣でした。
 そこで、 同日夜、小御所(右上の写真)において初めて開かれた三職会議において、岩倉具視と大久保利通は徳川慶喜の辞官納地を主張し、反対する山内容堂、松平春嶽と対立し、会議は紛糾して深夜におよびましたが、慶喜に辞官納地を命ずることが決定されました。

【薩摩藩邸焼き討ち事件】 
 これに対して、慶喜は大阪城に移り、まきかえしをはかります。
 こうした状況下で江戸で「薩摩藩邸焼き討ち事件」が起きます。
c0187004_17573523.jpg 幕府側と交戦する大義名分を欲する薩摩藩は、三田の薩摩藩邸に倒幕・尊皇攘夷論者の浪士を全国から多数集めました。
 ☆左の写真は、旧薩摩藩邸跡(現在、NEC本社)に建つ「薩摩屋敷跡」の碑
 彼らは薩摩藩士伊牟田尚平や益満休之助に指導を受け、「御用盗」と称してお金を強奪するほか、放火や掠奪・暴行などを繰り返して幕府を挑発しました。
 これには、江戸に騒乱状況をつくりだし、民衆の幕府の衰退を印象付け、最後には幕府を挑発し薩摩討伐に踏み切らせ戦争に巻き込むという薩摩藩のねらいがありました。
 
 12月23日午前6時ごろ江戸城二の丸大奥長局から出火し2千坪の建物がすべて焼失しました。
 天璋院は吹上の滝見茶屋に避難し、午前10時すぎに鎮火してから西の丸に入りました。この火災の時には、定火消し2組と町火消し12組が出動しました。
 また、同じ日の夜、庄内藩の屯所に鉄砲が撃ち込まれ使用人が一人死にました。

 ここに至り、老中稲葉正邦はついに武力討伐を決意し、12月24日に、庄内藩に加え、上山藩、鯖江藩、岩槻藩の三藩と、庄内藩の支藩である出羽松山藩が参加することになりました。
 12月25日未明、これらの藩は薩摩藩邸を包囲し、討ち入りを決行しました。
 薩摩藩邸や浪士も迎え撃ち奮戦しますが、多勢に無勢であり戦闘開始から幕府側の砲撃や浪士らの放火によって薩摩藩邸はいたるところで炎上し、
 当初より脱出を指示されていた浪士達は、火災に紛れて藩邸を飛び出し、一部は、薩摩藩の翔鳳丸にのって上方に逃れました。
 焼き討ち事件は、12月28日に、対薩強硬派として知られる大目付滝川具挙と勘定奉行小野広胖によって大阪城に伝えられます。
 大阪城内は喝采と興奮がうずまき、主戦論が一気にわきあがります。
 そして、徳川慶喜は沸きあがる薩摩討つべしとの声を抑えることができず、薩摩藩のねらいどおり幕府は討薩への意思を固めることになります。。
 幕府側は朝廷へと討薩を上表し、慶応4年(1868)1月京都に向けて進軍を開始しました。
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by wheatbaku | 2010-10-24 20:29 | 『幕末』 | Trackback
大政奉還 (徳川慶喜⑤ 江戸検定今年のお題『幕末』)
 これから、史跡ツァーが連続してあるので、忙しい日々が続きます。
 明日23日は、主に小学生を対象にした史跡ツァーが、地元で開催され、ガイドをします。
 歴史の授業を受けたことのない低学年の子供もいるので、わかりやすい案内が必要だろうと苦心しています。
 来週土曜日の10月30日は、千代田区観光協会主催の「江戸城ツァー」のガイドの予定です。
 その翌日は、江戸検1級2期会の定例会で、「千住ツァー」が予定されています。
  
 
 来週日曜日は、もう江戸文化歴史検定の試験日です。
 受験される皆さんは、最後の追い込みにがんばっていると思います。
 受験される皆さんがんばってください。 心から応援しています


 今日は、大政奉還の経緯について書いていきます。

c0187004_13514880.jpg 大政奉還の中心となったのは土佐藩の後藤象二郎で、そのアイデアを出したのは坂本龍馬です。
 後藤象二郎は、慶応3年(1867年)坂本龍馬から大政奉還論を聞いて感銘を受けます。
 さらに、慶応3年6月15日、長崎から京都に向かう途中に「夕顔丸」の船中で明らかにされた坂龍馬の「船中八策」にも影響され、在京土佐藩幹部に大政奉還論の採用を主張し同意を得ます。 

【薩土盟約】 
 これを薩摩藩に打ち明け、薩摩藩の小松清廉・西郷隆盛・大久保利通も同意し、6月22日薩土盟約を締結しました。この席には、坂本龍馬、中岡慎太郎も同席していました。
 これは慶喜に大政奉還を建白し、慶喜が拒否した場合には武力による圧迫で政変を起こすというものでした。
 武力倒幕をめざす薩摩藩が、この内容に同意したのは、大政奉還に慶喜は応じず、慶喜が拒否すれば、武力倒幕の名目がたつという読みがありました。
 後藤はすぐに帰国して山内容堂の同意を得ることができました。
 しかし、土佐藩兵を引率して上洛することについては、山内容堂の反対により、それは実現しませんでした。
 そのため、9月7日には薩土盟約は解消されました。

【大政奉還建白書提出】 
 そこで、土佐藩は単独で10月3日に大政奉還の建白書を山内豊範を通じ将軍慶喜に提出しました。
 建白書の提出は幕府側からの要請もあったようです、9月20日に若年寄永井尚志から、後藤象二郎に対して提出の依頼があり、その後、10月2日に改めて永井から建白書提出について督促があったそうです。

【慶喜すばやく決断】 
 建白書の提出を受け、10月12日に慶喜は大政奉還の決断をし、すぐに老中などを二条城に招集し大政奉還する旨を伝えます。
c0187004_13533687.jpg 翌10月13日、慶喜は二条城に在京諸藩の重臣を招集し、大政奉還について諮問します。
 反対意見はなかったため、10月14日に「大政奉還上表」を朝廷に提出すると共に、上表の受理を強く求めました。摂政二条斉敬ら朝廷の上層部はこれを受け入れるつもりはありませんでしたが、薩摩藩の小松清廉、土佐の後藤象二郎らの強い働きかけにより、翌15日に慶喜を加えて朝議が開催された勅許が決定しました。
 天皇が慶喜に大政奉還勅許の沙汰書を授け、大政奉還が成立しました。

 これにより、討幕の名分がなくなりました。そのため、大政奉還を申し出たのと同じ日の10月14日に下ったという「討幕の密勅」が10月21日停止されることになりました。
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by wheatbaku | 2010-10-21 17:18 | 『幕末』 | Trackback
将軍就任 (徳川慶喜④ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 徳川慶喜の4回目です。
 慶応2年(1866)の第二次長州征伐最中の7月20日、将軍家茂が大坂城でなくなります。
 
c0187004_1754196.jpg【将軍職4ヶ月空位】 
 14代将軍家茂の後は、慶喜が15代将軍となっていますので、慶喜がすぐに将軍になったように考えられがちですが、慶喜は、すぐには将軍になりませんでした。
 12月5日に将軍宣下を受けていますので、4ヶ月以上将軍がいなかったことになります。

【慶喜の将軍就任に対する反対意見あり】 
 家茂がなくなった後、すんなり慶喜が将軍になったように思われていますが、慶喜の将軍就任については意外にも反対意見がかなりありました。
 まず、慶喜の出身藩である水戸藩はかなり強烈に反対していました。
 そして、幕府内においては、天璋院をはじめとした大奥は強く田安亀之助を推していました。その他、多くの幕臣が反対していました。
 こうしたこともあってか、松平春嶽が将軍就任を要請しても慶喜はこれを固辞します。
 そして、何度かの要請をうけた後、徳川宗家の相続だけは受諾します。しかし、その際にも将軍就任は断固拒否しています。

【慶喜の将軍就任拒否の理由】 
 慶喜が就任を拒否したのは諸侯の推薦によって将軍職につくことによって、将軍の権威を高め難局を乗り切ろうとした「政略」によると言われてきました。
 しかし、これを証拠だてるものもなく、また否定するものないというのが現状だそうです。
 そして、ついに慶喜は、12月5日に将軍に就任します。
 慶喜が将軍に就いていた期間は慶応2年12月5日から、大政奉還した慶応3年10月14日(勅許は翌日)まで 1年間たらずです。
 15代将軍の中で、将軍在位期間はもっとも短いのです。

 さて大政奉還については次回書きたいと思います。
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by wheatbaku | 2010-10-21 05:37 | 『幕末』 | Trackback
禁裏御守衛総督(徳川慶喜③ 江戸検定今年のお題『幕末』)
 今日は徳川慶喜の3回目です。
 主な出来事とともに、 「新門辰五郎」や「天狗党」 との関係も書いていきます。
 徳川慶喜は、上洛後、孝明天皇の石清水行幸に将軍家茂が同行するのを防ぐなど、将軍家茂を助けて活動しますが、一旦、文久3年(1863)5月に江戸に帰りました。
 
 そして、「八月十八日の政変」で長州藩を中心とする尊皇攘夷派が排斥されると、11月に再び上洛します。
  この後、慶応4年(1868)正月の鳥羽伏見での戦いに敗れて江戸に帰るまで、足かけ6年間、京都に留まり、江戸に帰ることはありませんでした。

【新門辰五郎】 
 この間、徳川慶喜の警護の役をになったのが、新門辰五郎です。
c0187004_22163496.jpg 辰五郎は下谷に生まれ、大きくなって、浅草十番組「を組」の頭の娘と結婚し、「を組」の頭を継ぎました。
 新門辰五郎と呼ばれるようになったのは、浅草寺伝法院の西側に新しい通用門を作った際に、新門の番を任されからです。
 辰五郎は、200人の手下を連れて京都に上ったといわれています。
 辰五郎の娘お芳も京都まで行って、慶喜の身の回りの世話をしています。(多くの本が側室でなく「妾」と書いています。)
 慶喜が大阪城から江戸に逃げ帰った際に、大阪城に忘れてきた大金扇の馬印を取りにいき、江戸までも担いで戻ったのも辰五郎でした。
 上の写真は浅草寺の伝法院です。

【参与会議と禁裏御守衛総督】 
 文久3年の12月に徳川慶喜は、参与会議のメンバーに選ばれます。
 このメンバーは、松平春嶽、松平容保、伊達宗城、山内豊信、島津久光です。
 しかし、参与会議は、参与間の意見対立も激しくなり、慶喜は積極的に参与会議を3ヶ月で解体させてしまいます。慶喜は泥酔したふりをして皆を罵倒することまでしています。

 元治元年(1864)3月、将軍後見職を辞職して、朝廷から禁裏御守衛総督に任じられます。
 そして、守護職会津藩主松平容保、所司代桑名藩主松平定敬と共に勤王の志士や公家の取り締まりにあたります。
 これが、いわゆる「一会桑体制」と呼ばれるものです。
 元治元年(1864)7月の禁門の変では会津薩摩両藩を中心とする部隊を指揮し長州軍を攻撃しました。

【天狗党】
 この間、慶喜を悩ましたのが「天狗党」の人たちです。
 元治元年(1864)3月,水戸藩尊攘派のなかでも過激派であった「天狗党」が筑波山(下写真)で挙兵しました。
c0187004_143804.jpg 幕府は天狗党に対する取り締まりを周辺の諸藩に命じました。
 10月,天狗党は幕府追討軍に敗れ,11月に800人あまりが京都の一橋慶喜を頼って西上を始めます。武田耕雲斎を総裁として幕府や諸藩の追討軍と戦いながら京都をめざします。
 天狗党は、斉昭の遺志を継いで攘夷に立ち上がった至情を慶喜が理解してくれると考えました。
 しかし、慶喜の立場は異なり、幕府から天狗党と気脈を通じているということを怖れ天狗党を切り捨てました。
 天狗党追討を自ら朝廷に申し出て、12月3日出陣します。そして、武田耕雲斎から提出された嘆願書も受け取りを拒否します。
 こうして、慶喜が歎願を受けいれる気持ちのないことをしった天狗党は12月17日,越前国新保で金沢藩に降伏し,翌年敦賀において主だったもの350人余りが斬罪に処されました。
 慶喜の天狗党に対する対応について批判的に評価する意見が多くあります。
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by wheatbaku | 2010-10-20 06:19 | 『幕末』 | Trackback
  

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