カテゴリ:『幕末』( 170 )
千両松での戦い(鳥羽伏見の戦い⑥)

千両松での戦い(鳥羽伏見の戦い⑥)

伏見方面から京阪淀駅に入る手前の左手に競馬場が広がっています。

これが京都競馬場です。春の天皇賞や菊花賞が開催される競馬場ですので、競馬ファンはもちろんのこと競馬ファン以外にもなじみのある競馬場です。

 京都競馬場の北側を通る道路脇に「戊辰役東軍西軍激戦之地」と書かれた史跡があります。(下写真参照)

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中央に戊辰役東軍戦死者埋骨地と刻まれた石塔が立てられていて、左の石碑の裏面には次のように刻まれています。

 慶応4年戊辰正月、伏見鳥羽の戦いに敗れ、ここ淀堤千両松に布陣し、薩摩長州の西軍と激戦を交し、非命に斃れた会津・桑名の藩士、及び新選組、並びに京都所司代見廻組の隊士に捧ぐ。
 下写真の左手の石碑の裏面に上記文言が刻まされています。

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 鳥羽伏見の戦い当時、伏見から淀への道は宇治川沿いの狭い堤防上の道路で「淀堤」と呼ばれていました。

 この淀堤には、「千両松」と名付けられた場所があります。
 千両松とは、豊臣秀吉が植えたと言われる松で、あまりの見事さにその名が付いたとされます。

正月3日から4日にかけて敗北した旧幕府軍は、伏見街道方面では、この千両松で新政府軍を向かい討ち、ここで、旧幕府軍と新政府軍との間で激しい戦いが行われました。

 千両松がある堤防の南側は宇治川が流れ、北側には横大路沼という沼があり、湿地帯が広がっていました。

 そのため、ここでは大軍勢を展開することができませんでした。

 伏見で初戦に敗れた旧幕府軍は淀に撤退していましたが、ここで、新政府軍を食い止めるため、淀小橋から千両松近くに兵を展開しました。

 千両松の狭い道を通過してくる新政府軍を向かい討つため、芦原にも兵を散開させていました。

 旧幕府軍の中心となったのは会津藩別選組と新選組でした。

別選組と新選組は剣術に優れた剣士揃いでしたので、新政府軍が千両松を抜けた時点で斬りこみ攻撃をしました。

これにより新政府軍は、多くの死傷者を出したため、一旦、千両松の並木奥に兵を引いた後、体制を整え、一斉射撃を行いました。

これにより、新選組では、結成当時からのメンバーで当時六番隊組長であった井上源三郎が戦死しました。また、副長助勤の山崎丞も重傷をおい、新選組隊士14名が死亡しました。(中公新書「新選組」による)

淀堤で敗北した旧幕府軍は、淀城下に撤退し、しかも淀城への入城拒否され、さらに、橋本方面へ退却していきました。
 
 下記地図のの赤印が「戊辰役東軍西軍激戦之地」です。青印が前に紹介した淀小橋跡の石柱がある地点です。






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by wheatbaku | 2017-05-29 14:41 | 『幕末』 | Trackback
錦の御旗、戦場に翻る(鳥羽伏見の戦い⑤ 『幕末』)

錦の御旗、戦場に翻る(鳥羽伏見の戦い⑤) 

 今日は、錦の御旗の2回目です。

長州に帰った品川は、故郷萩の生地近くに住んでいた有職家の岡吉春という人物を呼出して、錦の御旗の製作を命じました。

岡吉春が記した『錦旗調製一件』なる文書が現存していて、それには次のように書かれているとのことです。

「吉春其調製の命を承け、弟子鬼童丸重助一人を倶し山口に到り、諸隊会議所の楼上に於て他人の出入を禁じ、励精調製に従ひ、約三十日間にして完成せり。而して之を調製するに方り其製式の拠るべき所なきに苦心せしが、終に大江匡房の『皇旗考』(毛利の蔵書にして世に公刊せられたるものにあらず)に拠り考究の末、其式を按出し正副二度を製作せり」

つまり、平安後期の貴族で儀式典礼に通じた大江匡房の『皇旗考』を参考に、山口にある諸隊会議所(奇兵隊その他各隊からの常置委員の詰所)の土蔵の二階で、他人の出入りを禁止し、30日間をかけて完成したと書いてあります。

現在、山口市一の坂川の「一つ橋(ひとつばし)」のたもとに、「錦の御旗製作所跡」の石碑が立っているそうです。

出来上がった錦旗は、その半分を山口に保管し、半分を京都相国寺林光院の薩摩藩邸内に密蔵し、12月9日、王政復古の大号令の際、岩倉具視の手を経て朝廷に納められました。

この錦の御旗が、慶応4年の正月4日に、鳥羽伏見の戦場に翻ります。

征討大将軍仁和寺宮嘉彰親王は寒風に日月の錦旗二旅を翻して出陣、本営の東寺に入り、5日、仁和寺宮は最前線近くまで錦旗を進めて淀の激戦を巡視しました。下記写真は東寺の五重塔です。

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 錦の御旗を見た新政府軍は奮い立ち、旧幕府軍は青天の下にあがった錦旗を遠望し闘う気力を失い敗走を開始したといいいます。

 岩倉公実紀には次のように書いてあります。

 「4日仁和寺宮嘉彰親王をして征討大将軍となし錦旗節刀を授く。参与四條隆語と参与助役五條為栄を錦旗奉行となし薩摩長門安芸三藩の兵をして之に衛従せしむ。午後親王陛辞して出づ東寺に次す。5日、官軍、鳥羽宇治二道より淀城を進撃す。賊軍峻拒し官軍戦闘頗る苦しむ。親王即ち巡視す。諸隊錦旗を望見し鋭気頓に倍す。賊軍支ふる能ずして走る。」

 また『東伏見宮家記』には次のように書かれているそうです。

 「淀堤辺御巡濯のところ、先刻苦戦の官軍、淀川づつみ上に在って、大将軍並びに錦旗を拝し、踊躍喜悦の声、天にひびき地にとどろく。官軍の勝利、未曽聞のところなり」

 錦の御旗の威力は絶大のものがあったようです。

 考案した岩倉具視のこれまでの威力があるとは予想しなかっただろうと書いてある本もあります。


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by wheatbaku | 2017-05-27 11:20 | 『幕末』 | Trackback
錦の御旗の作成は極秘に行われた(鳥羽伏見の戦い④ 『幕末』)

錦の御旗の作成は極秘に行われた(鳥羽伏見の戦い④)

鳥羽伏見の戦いで、戦いの勝敗に決定的ともいえる重要な役割を果たしたのが「錦の御旗」です。

 そこで、今日から2回にわたり、「錦の御旗」について書いてみます。

 錦の御旗は、朝敵を征伐する官軍であることをあらわす旗です。

錦の御旗が最初に使用されたのは、承久3年(1221)に起きた承久の乱の際に、後鳥羽上皇が賜ったのが最初とされています。

次に使用されたのが、鎌倉時代末期で、後醍醐天皇が、鎌倉幕府を討とうとして兵を挙げた時には使用され、南北朝時代には、しばしば使用されたようです。

それ以降、室町時代になると、朝敵追討の際には、必ず将軍から奏請して官軍の大将に錦の御旗を賜ったようで、永享10年(1438)6代将軍足利義教が鎌倉公方足利持氏を討伐した際、康正元年(1455)足利成氏討伐の際などに錦の御旗が押し立てられています。

その後、江戸時代の長い平和の中で、錦の御旗が使用されることはありませんでした。

それが、鳥羽伏見の戦いで、突然、戦場に翻ることになり、新政府軍側の戦意を高め、旧幕府軍側の戦意をくじくことになりました。

この錦の御旗の利用を考え出したのは、岩倉具視です。そして、それを準備したのが大久保利通、品川弥二郎です。

この錦の御旗がどのように製作されたかを「大久保利通日記」や「岩倉公実紀」などを引用しながら書いていきます。

慶応3年10月6日に、洛北岩倉村の謹慎していた岩倉具視を大久保利通と品川弥二郎が訪ねます。

ここで、錦の御旗の制作が二人に岩倉から託されます。

『大久保利通日記』の慶応3年10月6日の条には次のように書かれています。

原文は候文ですので、私なりにわかりやすく書き替えておきました。

品川(弥二郎)を同道して、岩倉具視公の別荘に参上。岩倉具視公と中御門経之公に拝謁し薩摩藩と長州藩の国情を申上げた。その際、秘中の話を伺った。

このなかの「秘中の話」とだけ書いてあることが錦の御旗の事ですが、これでは、何が話されたのか全くわかりません。

しかし、『岩倉公実記』を読むと次のように具体的に書かれています。

なお、原文はカタカナ書きですが、少し読みやすくするため、ひらがなに変えてあります。

(岩倉)具硯また玉松操が作る所の錦旗の図をー蔵(大久保利通)弥二郎(品川弥二郎)に示し之を製作せんことを託す。一蔵、その寓居に帰るに及んで大和錦ならびに紅白の緞子(どんす)若干巻を購買す。弥二郎、之を携帯して長門に還り。諸隊会議所において日月章に錦旗を各2旒、菊花章の紅自旗各10旒を製作す。その半分を山口城に密蔵し、その半分を京師の薩摩藩邸に密蔵す。人敢て之を知る者なし

私なりに現代語訳すると次のようになります。

つまり、岩倉具視は、腹心の玉松操が作成した錦旗の図を大久保利通と品川弥二郎に見せて、これを製作するよう指示しました。大久保利通は、自分の住まいに帰り、大和錦と紅白の緞子(どんす)をいくつか購入しました。品川弥二郎はこれを長州に持ち帰り、諸隊会議所で、日輪と月輪の錦の御旗をそれぞれ2本ずつ、菊花章の紅白の旗を各10本製作しました。そして、半分は山口城に保管し、残りの半分は京都の薩摩藩邸に隠しておきました。このことを知る人はいませんでした。

 大久保利通の住まいは、当時、京都御所の東にある石薬師御門の東に住んでいました。
 現在は、普通の住宅となっていますが、「大久保利通旧邸」と刻まれた旧居を示す石柱が立てられています

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大久保利通に頼まれて、錦の御旗の生地を購入したのは、大久保利通の妾のおゆうさんんです。中公文庫『大久保利通』(佐々木克編)には次のように書かれています。

おゆうさんは一力亭の娘さんでした。よほど注意して買わないといけないというので、おゆうさんはなんだかんだを作るのだと言って買いにゆかれたのだそうです。買った生地は、おゆうさんが品川弥二郎が潜んでいる住まいに持っていったそうです。


 生地を受け取った品川弥二郎は、それを長州に持ち帰り、錦の御旗に作り上げました。




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by wheatbaku | 2017-05-25 09:01 | 『幕末』 | Trackback
淀城(鳥羽伏見の戦い③ 『幕末』)

 淀城(鳥羽伏見の戦い③)

今日は、鳥羽伏見の戦いに関連して淀城のお話します。

鳥羽で敗北し伏見でも敗北した旧幕府軍は、1月5日、本営を淀城に入れて、其処を拠点にして、新政府軍に反撃しようと考えました。


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しかし、旧幕府軍にとって、思いがけないことに、入城を拒否されます。

淀藩の当時の藩主は稲葉正邦で幕府老中でした。(ただし、稲葉正邦は、当時は江戸にいましたが・・。)これには、旧幕府軍も驚いたことだろうと思います。

なぜ、淀藩が入城を拒否したかは後で書くことにして、淀城について書きます。

淀城は、京坂本線淀駅の西南の方向にあります。淀駅から線路沿いに約3分歩くと淀城の表門になります。駅からあっという間です。下は淀駅前にあった案内図を撮影したものですが、右下の緑の部分が淀城です。駅からすぐそばだということがわかると思います。ちなみに右が南、下が西です。

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淀城は、伏見城の廃城に伴い、元和9年(1623)、2代将軍徳川秀忠が、松平定綱に築城を命じ、寛永2年(1625)に完成しました。

淀城は伏見城が廃城とされた後、京都を守護するために築かれました。

淀は桂川・宇治川・木津川が合流する水陸の要所でもあったので、この地が選ばれたのだと思います。

淀城が築かれた場所は、桂川・宇治川と木津川に挟まれた川中島でした。

城内に立てられた説明板の地図をみると、淀城と城下町の様子がわかります。ちょっと見にくい写真で申し訳ありませんが、まさに水に囲まれていた城であることがわかると思います。

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淀城は、川中島に造られた城ですので、周囲は川に囲まれていました。

城の北側を流れる宇治川にかかる橋が淀小橋で北岸の納所と繋がっていました。

城の南側には木津川が流れ、淀大橋が架けられていました。

城の東側に大手門があり、城下町は東側に広がり、城下町を京街道が貫通していました。

淀城は、初代の松平定綱以降、城主は譜代大名が続きました、

そして、享保8年(1723)稲葉正知が城主となり、それ以降、幕末まで稲葉家が続いていました。

稲葉家は、初代が稲葉正成で、正成の奥さんが有名な春日局です。

稲葉家が長いこと淀城主であった縁で、現在も城跡には、稲葉家初代の稲葉正成を祭神とする稲葉神社が鎮座しています。(下写真)

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このような要衝にあり、鳥羽伏見の戦いの際には、現職老中が城主ですので、旧幕府軍が、淀城を拠点にして反撃しようとするのは当然です。

しかし、淀城は旧幕府軍の入場を拒否しました。

実は、1月4日、尾張徳川家の徳川慶勝から「中立を守るように」という意向が伝えられます。また、三条実美からの出頭命令もあったようです。

このように新政府軍からの圧力があり、ついに入城を拒むという決断をしました。

当時、藩主の稲葉正邦は、江戸にいましたので、国許の家老が決断をしたことになります。

 入城を断られて旧幕府軍は、淀小橋や淀大橋を焼いて、新政府軍の進軍を防ぎました。
 淀城の城下町にも火が放されました。その日は西風が強かったたため、城下町は、武家屋敷も町家の多くが焼失しました。
 追撃する新政府軍は、淀小橋が焼け落ちているため、船に分乗して、淀城に押し寄せました。
 淀城側では、すんなり入城を認めたので、薩摩藩側では逆に何か策略があるのではないかと疑ったほどだったそうです。

 下写真は、淀城の西南方向から見た淀城の石垣です。以前に訪ねた時のものです。

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by wheatbaku | 2017-05-19 22:05 | 『幕末』 | Trackback
伏見の戦い(鳥羽伏見の戦い② 『幕末』)

伏見の戦い(鳥羽伏見の戦い②)
 

 今日は、鳥羽伏見の戦いの2回目ですが、伏見での戦いについて書きます。

 淀を本営とした旧幕府軍は、正月3日、鳥羽街道と伏見街道とに分かれて入京しようとしました。

 京坂淀駅を降りて、線路に沿って南に行くと淀城が見えてきます。

線路を背にして西に向かうと納所交差点があります。

この交差点近くに淀小橋跡の石柱があります。(下写真)c0187004_19361999.jpg

江戸時代の淀城は、淀川の中洲に築かれた城です。そのため、淀城には、北側に淀小橋が架けられていました。ちなみに南にある橋が淀大橋でした。

 淀小橋を淀城側から渡り、真っ直ぐ進むと鳥羽街道です。淀小橋を渡って右折し北上すると伏見にいきます。


 旧幕府軍は、会津藩を先鋒として、伏見に向かいました。
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 旧幕府軍の拠点は、伏見奉行所でした。ここには、土方歳三が指揮する新選組も駐屯していました。

 伏見奉行所は、北側には道路を隔てて御香宮があり、南は堀川の水路を経て宇治川に接しています。

正面は西側にあり、北向きに大きな門が、東側に裏門がついていたようです。


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 現在は、京都市営桃陵(とうりょう) 団地となっていて、面影はまったく残っていません。
 団地入り口に石柱が立てられているだけです。
 しかし、西南角の石垣をみると江戸時代の奉行所の名残りかなという印象をもちました。



 旧幕府軍に対して、新政府軍は御香宮を拠点としていました。

御香宮は、平安時代に、この境内から「香」の良い水が湧き出たので、清和天皇よりその奇瑞によって「御香宮」の名を賜ったという歴史をもつ古い神社ですが、伏見奉行所とは、わずかな門前町を挟んで北側にありました。

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 右写真は、御香宮神社の山門です。

新政府軍は薩摩藩兵を主力として、南の伏見奉行所に向けて砲列を並べていました。
こう書いておくと、非常に平面的ですが、実際に現地を訪ねてみると、御香宮のほうが高くなっているのがわかります。

 この高低差は、薩摩藩側からは、駆け降りることになり、大砲を撃ちおろすことになりますから実戦の際に、薩摩藩側に有利に働いたと思います。

 

 旧幕府軍は指揮者は竹中重固(しげかた)です。竹中のご先祖は、かの有名な竹中半兵衛でした。この時、竹中重固は陸軍奉行でした。

 新政府軍は、伏見街道に急増の竹矢来の軍門を敷いて、旧幕府軍の進軍を妨げていました。

 これに対して、旧幕府軍は、嘆願のため京に向かっているので、通してほしいと要求しましたが、新政府軍は、朝廷の許可がないということで、通過されませんでした。

 新政府軍はのらりくらりの対応に業をにやしていた時、鳥羽方面から砲声が聞こえてきました。「鳥羽の一発の砲声」です。

 これをきっかけに、旧幕府軍は、奉行所の門を開いて押し出します。これに対して、薩摩藩の大砲と鉄砲が一気に火を放ちます。

 銃火器で劣る旧幕府軍は、劣勢を強いられます。

 新選組の隊士たちも剣技を発揮できずに押し戻されてしまいます。

 激しい砲撃と銃撃が続くなかで、銃をもたない新選組は、その実力を発揮できませんでした。

 そうした中、土方歳三の決断で、永倉新八に斬りこみを命じます。

永倉新八以下の新選組が、奉行所の塀を乗り越えて、薩摩側に攻撃しますが、銃撃にあい、奉行所内に引き返さざるをえませんでした。

 

 会津藩は、伏見の東本願寺にも陣を構えました。

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 右写真は、現在の東本願寺です。
 こちらに対峙した新政府軍は長州藩でした。
 会津藩軍勢は、佐川官兵衛が率いました。勇猛な佐川官兵衛が会津藩別選隊を率いて突撃しますが、こちらでも長州藩の銃火の前に死傷者を重ねるばかりでした。

 伏見での戦いは午後5時ごろに始まりましたが、夜半になり、薩摩藩の砲撃が、奉行所の弾薬庫に命中し、大爆発を起します。


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 こうして各所から火の手があがった伏見奉行所に新政府軍が突撃し、ついに真夜中には、旧幕府軍は、伏見奉行所を放棄して、淀方面に撤退していきました。
 

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 鳥羽伏見の戦いの際に残されて弾痕が、伏見の有名料亭「魚三楼(うおさぶろう)」の玄関脇の格子に残されています。

 右上写真が、魚三楼(うおさぶろう)」全体の写真で、右写真が弾痕です。
 はっきり残っていてびっくりしました。





 


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by wheatbaku | 2017-05-17 19:30 | 『幕末』 | Trackback
小枝橋(鳥羽伏見の戦い① 『幕末』)

小枝橋(鳥羽伏見の戦い①)

 今日は、鳥羽伏見の戦いについて書きますが、戦いが勃発した小枝橋の戦いを中心に書いていきます。


 慶応3年12月25日に起きた江戸の薩摩藩邸焼討事件の報は、軍艦に乗って上坂してきた大目付滝川具挙によってもたらされました。


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その報告を聞いた大坂城内の旧幕府軍は強硬論が沸騰します。

 ここが、歴史の転換点でした。
 いままで公議政体派が進めていたように軽装で上洛し議定に任命されるのを待つ平和雄路線か、それとも大勢の軍勢をもって上京するかの決断が徳川慶喜は求められました。

 徳川慶喜は、強硬論に押され、ついに、正月元旦、多くの軍勢による上京を触れだします。

 そして、次のような薩摩を弾劾する「討薩の表」が、元旦に準備されました。

 臣慶喜、謹んで去月(慶応3年12月)9日以来の御事体を恐察たてまつり僕えば、一々朝廷の御真意にこれなく、全く松平修理大夫(島津茂久)奸臣ども陰謀より出で候は、天下の共に知るところ、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨及び劫盗侯儀も、全く同家家来の唱道により、東西響応し、皇国を乱り侯所業別紙の通りにて、天人共に憎むところに御座侯あいだ、前文の奸臣どもお引渡し下されたく、万一御採用相成らず候わば、止むを得ず洙戮を加え申すべく候。

 内容は「12月9日の王政復古の大号令以来の薩摩藩の振舞いは、朝廷の真意とは考えられず、島津家の奸臣どもの陰謀だということは天下の知るところである。特に浪人どもを集め江戸で押込み強盗を働くことも島津家の家来が引き起こしたもので、天も人も共に憎むところであるから奸臣の引渡しを要求する。万一朝廷からその御沙汰かなかったらやむ得ず洙戮を加える」というものですで、別紙には具体的な罪状を列挙していました。

 徳川慶喜は「君側の奸を除く」という名目で薩摩藩と戦う意思を表明したのです。

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 そして、2日には1万5千人の旧幕府軍が京をめざして行動を開始します。

老中格の大多喜藩主大河内正質(おおこうちまさただ)を総督とし、淀に本営を置き、そこで宿営しました。

翌3日、旧幕府軍は、淀からの進軍ルートは二つに分れました。

一方は、淀小橋を渡り左折して鳥羽街道を北上しました。率いるのは大目付滝川具挙でした。もう一方は、伏見に向かいました。

鳥羽伏見の戦いは、鳥羽街道の小枝橋で勃発しました。

小枝橋は、鳥羽街道が、鴨川を越えるための橋ですが、現在の小枝橋は、江戸時代の小枝橋より少し北側に移動しています。(右2段目の写真)

江戸時代に小枝橋が架かっていたたもと近くに「鳥羽伏見の戦い 勃発の地」の石碑と説明板が設置されています。(最上段の写真)


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 薩摩藩を主力とする新政府軍は、小枝橋の東側に主力が布陣します。

江戸時代の小枝橋の300mほど東側に城南宮(右写真)がありますが、城南宮の説明板には、城南宮が本営となり、参道に大砲が布陣されたと書いてあります。

鳥羽街道を守護する薩摩藩兵に対して、大目付の滝川具挙が「通せ」と要求しますが、薩摩藩側は「通せない」と拒否し、押し問答が続きました。

薩摩藩側は、「朝廷に問い合わせている」と答えたようですが、もともと通すつもりがありませんので、らちがいきません。


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 しびれをきらした旧幕府軍は、ついに3日夕方には、強行突破する態勢をとりました。

これに対して、薩摩藩は、砲口を開き、旧幕府軍に向け発砲し、ついに戦端が開かれました。

 大目付滝川具挙が乗っていた馬が大砲に驚き、鳥羽街道を淀に向かった走りさっていきました。

 大目付が逃げ去るようではいかがなものなんでしょうね。

 右上写真は、勃発の地の碑がある場所から南の鳥羽街道を写した写真です。

道幅は昔をあまり変わってないのだろうと思います。

 この鳥羽街道を旧幕府軍は、2列縦隊で進んでいました。


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 この軍勢を横から攻撃できるように薩摩藩側は、鳥羽街道脇の田畑の中に竹の茂った岡にも大砲を構えていました。

 勃発の地の碑の近くに「鳥羽離宮跡公園」がありますが、その公園の中の秋の山という小高い岡の上に「鳥羽伏見戦跡碑」の石碑がたっています。(右写真)
 この場所に大砲も敷かれていたのではないかと思われます。




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   真横から大砲を撃ちだされては、旧幕府軍もひとたまりもなかったと思います。

岡の麓にはライオンズクラブの立てた「鳥羽伏見の戦い勃発の地 小枝橋」の碑(右写真)がありました。

 こうして、旧幕府軍は敗北することになりますが、 鳥羽での砲声が鳴り響いたのを聞いた西郷隆盛は「鳥羽一発の砲声は、百万の味方を得たるより嬉しかりけり」と喜んだとと言います。




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by wheatbaku | 2017-05-13 11:53 | 『幕末』 | Trackback
公議政体派の巻き返し(『幕末』)

公議政体派の巻き返し(『幕末』) 


 今日は、王政復古の大号令が発せられた以降の公議政体派の巻き返しについて書いていきます。

 12月9日の王政復古の大号令つまり討幕派の宮中クーデターが成功したからといって、岩倉具視や大久保利通ら討幕派の思惑どおりに進んだわけではありません。

 当然、旧幕府側には、大いなる不満がありました。

 たびたび引用している『京都守護職始末』によれば、「会津藩士や桑名藩士らも旗下(はたもと)連と和同して、おのおの切歯扼腕し、機会を待ち構えている有様であった」と書いています。

 こうした状況を危惧して、12月12日に、徳川慶勝、松平春嶽が二条城にやってきて、速やかに旗下連や会津・桑名勢を大坂城にうつし、禍を未然に防ぐことを勧めたので、徳川慶喜も、これに同意して、大坂城に移りました。

 一方、公卿側ですが、クーデターの中心人物の岩倉具視は、孤立し始めていました。

 そもそも岩倉具視以外の公卿の議定・参与たとえば中山忠能などは、小御所会議の決定に心から納得していたわけではなかったようです。

 また、山内容堂、徳川慶勝、松平春嶽たちは、武力倒幕には断固反対で、徳川慶喜擁護の工作を進めていました。

こうした状況下で、公卿の間でも諸藩の間でも、岩倉や大久保・西郷らの孤立が深まり、岩倉具視も動揺し始め、13日には大久保利通に次の二つの策を示して意見を聞きました。

①土佐と芸州の動向如何にかかわらず、薩長の兵をもって天皇を守り、勅命に従わない  者を討伐し、勝敗を天に任せるか。

②徳川慶勝・松平春嶽のあっせんによって、徳川慶喜がもし辞官・納地を受諾すれば、これを議定に補し、他の公武合体派の公卿・諸侯もまた議定・参与に登用し、既往をとがめず、「氷炭相容レ正邪相合シテ皇国ヲ維持」するか。

 大久保利通は西郷隆盛らと相談し、当分は尾張・越前のあっせんのなりゆきを見て、それが成功しないなら断然第一策にでようと答えたといいます。

 16日には、徳川慶喜は、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ・プロシア・イタリア6か国の公使を引見しました。

これは、外交権が徳川家にあることを承認させることが目的でしたが、その席で各国は徳川家の正統性を承認しました。

 こうした外交面での勝利は、朝廷に対する重要な勝利でした。

 18日になると、山内容堂と松平春嶽は、徳川慶喜に、軽装で上洛し、辞官・納地の願を出すように勧めます。

 これに対して、21日に徳川慶喜は、軽装上洛はよいが、辞官・納地は部下の反対をおさえられないから朝廷から呼ばれたかたちにして欲しいと要望します。

これについて松平春嶽・山内容堂は、徳川慶喜の希望を了承し、23日の三職会議でもそれを認めさせました。

 また、辞官・納地についても、松平春嶽や山内容堂の尽力により、徳川家も他の諸藩と同列に、政府経費を献上することに決定しました。

徳川慶喜は、このことを喜び、老中たちと相談のうえ、上洛することを決定し、28日に朝廷への請け書をだました。

これにより、慶喜が上京参内して辞官の命令を受諾することを正式に回答し、そして、「朝廷経費を石高に応じて全国諸藩に割り当てて欲しい、そうすれば徳川慶喜もよろこんでその割当て額をさしだしたい」と願い出て、朝廷はその願いをいれるとともに、慶喜を議定に任命するということになるはずでした。

そうすれば、朝幕間の全面的な和解が成立し、山内容堂たちが主張する公議政体の名のもとに、天皇を名目的な最高君主とし、その下で慶喜が実権をにぎる体制ができるはずでした。

 しかし、歴史はそうなりませんでした。

 江戸で、薩摩藩邸の焼討事件がおきたのです。

 この報告が28日大坂城に届くと、大阪城内は強硬論で沸騰します。

 それに押されて、ついに徳川慶喜も大軍を京都に送り出すことを了承することになりました。

 これにより、鳥羽伏見の戦いが始まることになります。
 鳥羽伏見の戦いは次回書きます。



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by wheatbaku | 2017-05-10 21:13 | 『幕末』 | Trackback
王政復古の大号令と小御所会議(『幕末』)

今日からは、京都に残る鳥羽伏見の戦いの史跡を訪ねていきますが、今日は、鳥羽伏見の戦いの前段階ともいうべき王政復古の大号令について書いていきます。

王政復古の大号令は、慶応3年12月9日に発せられました。

これは討幕派の仕かけた宮廷内クーデターです。

これを考えたのは岩倉具視と大久保利通、さらに西郷隆盛だと言われています。

大久保らは当初、12月8日に決行する予定でした。しかし事前に計画を打ち明けていた土佐の後藤象二郎から山内容堂が上京中なので、10日に延期してほしいと要請され、やむなく1日延期して9日に決行することとしました。

その前夜、岩倉具視は自邸に薩摩・土佐・安芸・尾張・越前5藩の重臣を招いて、王政復古の断行を告げて協力を求めました。

こうして五藩兵は御所各門の警備にあたりました。

 12月8日夕方から開催された朝議は、夜を徹して翌朝にかけて行われ、長州藩主毛利敬親・定広父子の官位を元に戻し入京を許可すること、岩倉具視や前関白九条尚忠らの蟄居を解くことと還俗が命じられ、九州にある三条実美ら五卿の官位の復位と入京を許すことなどが決められました。

 こうして8日から夜を徹して行われた朝議が終わった後、薩摩藩兵3千人はじめ諸藩が御所の各門を固めました。そして、参内を許された者以外の参内が禁止されました。二条摂政や中川宮は参内禁止されました。

 そうした中、赦免されたばかりの岩倉具視が参内して王政復古の断行を上奏しました。

 その後、王政復古の大号令が発せられました。

 その内容は次のとおりです。

1、将軍職辞職を勅許。

2、摂政・関白の廃止。

3、幕府の廃止。

4、総裁・議定・参与の新設。

5、京都守護職・京都所司代の廃止。

任命された人々は次の人々です。

総裁:有栖川宮熾仁親王

議定:公卿から仁和寺宮嘉彰親王・山階宮晃親王・中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之、大名から松平春嶽・徳川慶勝・浅野茂勲・山内容堂・島津忠義

参与:公卿から岩倉具視・大原重徳・万里小路博房・長谷信篤・橋本実梁、

武家からは、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通ら3名、土佐藩の後藤象二郎・福岡孝弟ら3名、さらに越前藩と尾張藩と芸州藩の藩士3名

 王政復古の大号令が出された場所ですが。中公文庫『開国・攘夷』(小西四郎著)、中公新書『幕末史』(佐々木克著)、岩波新書『西郷隆盛』(猪飼隆明著)では、「小御所」と書かれています。
 しかし、中公文庫『明治維新』(井上清著)では、「学問所」と書かれています。
 京都御所では、王政復古の大号令は、「学問所(がくもんじょ)」で発せられたとしています。

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「学問所」は、京都御所で小御所の北側にあります。(右写真参照) 

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「学問所」の前にある説明板(右下写真)では、ここで王政復古の大号令が発せられたと次のように書かれています。

 慶長18年に清涼殿から独立した御殿で、御読書始や和歌の会などの学芸のほか、対面にも用いられた。慶応3年、ここで明治天皇が親王・諸臣を引見され勅諭を下して王政復古の大号令を発せられた。上段・中断・下段を含む6室からなる総疂式の建物である。

 


王政復古の大号令が発せられた129日の午後6時頃から、小御所で新政府最初の会議である三職会議が開かれました。

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 小御所会議が開かれた当時の小御所は、昭和29年鴨川の花火によって焼失してしまい。昭和33年に再建されたものです。
 小御所は、江戸時代は武家との対面や儀式の場と使用された建物です。
 内部は、上段・中段・下段の3室があり、そのまわりに広い板敷(廂)がついていました。

 小御所会議の様子については、中公文庫『明治維新』(井上清著)に詳しく書かれています


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 小御所は、上段・中段・下段の3室に分かれていて、上段の間には明治天皇がすわり、中段の間の東最上位に有栖川宮親王が座り、以下に議定と参予の公卿たちが座り、中段の間の西側に5人の義定の大名が座りました。

さらに下段には薩摩藩の大久保利通・岩下方平、土佐藩の後藤象二郎ら参予に任命される予定の五藩の藩士たちが座りました。なお、この会議には西郷隆盛は参加していませんでした。

 この会議の場で、山内容堂は、徳川慶喜の出席が許されていないことを非難しました。山内容堂は少し酒気を帯びていたと書いてあるものもあります。

これに対し岩倉具視が反論し激論が交わされました。

この議論の最中、山内容堂が「二、三の公卿が幼沖なる天子を擁して権力を私するものではないか」と発言し、すかさず、岩倉具視が「今日のことはすべて天皇の意思から出ていることで、幼い天子とは不敬であろう」と失言を責めたといわれています。

この会議での議題は徳川慶喜の辞官納地でした。

辞官納地とは、徳川慶喜が内大臣を辞任し徳川家の400万石の領地を朝廷に返納することです。

山内容堂や松平春嶽は、辞官納地に強く反対し、両者譲らず、大激論が続いたため、遂に中山忠能が休憩を宣言しました。

この休憩中に、薩摩藩の岩下方平は、会議に参加していなかった西郷隆盛に相談しました。

すると、西郷隆盛は、「短刀一本あれば片がつくことではないか、このことを岩倉具視と大久保利通に伝えてくれ」といいました。これは「いざとなれば、山内容堂を刺せ!」という意味でした。

その旨、岩倉具視に伝えると、岩倉具視は、まだ山内容堂が反対するのであれば刺し殺す覚悟を固めます。

この岩倉の覚悟は芸州の浅野茂勲を介して土佐藩の後藤象二郎に伝えられ、さらに山内容堂にまで伝えられました。

再開された会議では山内容堂は反対論を控えたため反対する者がなく、徳川慶喜に辞官納地を命じることが決定されました。

翌10日、徳川慶勝と松平春嶽が二条城に向かい、小御所会議の決定を徳川慶喜に伝えました。

徳川慶喜は、決定をすべて承諾しましたが、二条城内の旗本や会津藩の強硬派は激昂して全員が今にも討って出そうな勢いでした。

このままでは、戦闘が開始されることを危惧した徳川慶喜は。12日に旧幕府軍を引き連れて大坂城に下りました。



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by wheatbaku | 2017-05-08 14:10 | 『幕末』 | Trackback
蛤御門の旧名を知っていますか?(『幕末』)

 禁門の変での激戦地は蛤御門です。
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 そのため禁門の変は蛤御門の変とも呼ばれます。

 この蛤御門は、江戸時代初期には、蛤御門とは呼ばれていませんでした。

 京都御苑の蛤御門を訪ねてみると、蛤御門の近くに説明板が立っていて次のように書かれています。

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 「この門は新在家門といわれていましたが、江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、『焼けて口開く蛤にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになったと言われています』

 つまり、蛤御門は、もともとは『新在家門』と呼ばれていました。

 それでは、新在家とは何かと調べました。新在家とは、本来は一般名称のようです。つまり、古くからある集落に対して、新しくできた集落をさす言葉のようです。

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 しかし、ここでは、地名と思われますので、新在家という地名があるか調べました。しかし、蛤御門周辺にありませんでした。そこで、京都市歴史資料館に問い合わせました。そ資料館の答では、新在家とは、蛤御門周辺にあった地名で、現在は地名としては残っていないとのことでした。

 つまり、蛤御門の旧名「新在家門」とは新在家にある門という名前だったようです。

 新在家という地名が京都御所の蛤御門周辺の地名だということがわかったうえで、『京都守護職始末』を読んでみると、蛤御門での戦いで、長州藩がどのように攻めたのかがよくわかります。『京都守護職始末』では、次のように書いてあります。

「さて、嵯峨兵の一部の児玉、来島の率いる賊兵は、烏丸通蛤門と下立売門との問に集合して、公卿の八条邸の南の塀柵を破って乱入し、新在家を北にのぼり、わが蛤門の守備の兵に砲撃を加えた。わが隊長一瀬伝五郎らは士卒を督して、これと戦った。」

ここの部分を下記の内裏図を見ながら説明します。

 図の中央にあるのが蛤御門です。右端近くに「八条殿」と書かれた屋敷があります。これが上記の八条邸ですが、その右側に道路があります。この道路には、多少の柵が設けられていたと思われますが、その柵を乗り越えた来島又兵衛の一隊が御所内に入りこみ。八条邸の前を通って蛤御門に向かいました。

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 このように長州藩兵は南から攻めてきたため、会津藩の大砲が西に向かっていたので、大慌てで、会津藩の大砲は、急遽南に向けられて、長州藩兵を砲撃した様子が『京都守護職始末』に次のように書かれています。

 はじめ、わが衛兵たちは、敵が門外から来るものと予想して、大砲二門を門の外に引き出し、烏丸通を東に向って蛤門を攻める敵を待ってぃたが、賊兵が新在家から攻めてきたので、いそいで大砲を門内に引き入れ、南に向って砲撃を開始した。

賊兵は、遂に敵することができないで公卿の石山邸に入っで、そこからわが兵を砲撃した(石山邸には、前夜から賊兵か潜伏していたということである)。わが兵はこれと戦って、死傷者が数多く出た。来島らは、必死に兵を鼓舞して奮励せしめたが、勢いが振るわない。そのうち、桑名の兵士もわが軍に加わって、共に進み、遂に来島を仆(たお)した。賊衆は瓦解して敗走した。

長州藩兵は、石山邸(上の地図で、八条邸の左に石山殿とある屋敷)に入り込み、反撃を試みました。しかし、会津藩には、桑名藩の応援も加わり、ついに来島又兵衛は倒れされて、長州藩兵は、敗退することになります。

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来島又兵衛が亡くなった場所の目印として、「清水谷家の椋」(右写真)が残されています。

その根元にある説明板には、次のように書かれています。(右下写真)

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この大きなムクの木は、このあたりが清水谷家という公家の邸であったことから「清水谷家の椋」と呼ばれています。樹齢約300年といわれ。苑内でも数少ないムクの大木です。元治元年の禁門の変の時、長州藩士で遊撃隊総督だった来島又兵衛がこの付近で討死したとも伝えられています。

上の御所の地図を見ると蛤御門の右上に「清水谷殿」と書かれた屋敷があります。

来島又兵衛は、この清水谷家の近くで銃撃され倒れたようですね。

最後の蛤御門の話題を二つ書いておきます。

上の地図に書かれている蛤御門の絵をよく見てください。

蛤御門が左を向いています。左は南側です。現在の蛤御門は西を向いていますが、江戸時代には南を向いていたことがわかります。

それと、蛤御門が門を開いた火事ですが、諸説あるようですが、宝永の大火の際に門を開けたという説が有力です。

蛤御門が開けられたのは天明の大火だというふうに書いてあるものもありますが、天明の大火以前に、蛤御門と書かれた史料もあるので、天明の大火以前から蛤御門と呼ばれていたと考えるのが至当というのが京都市立歴史資料館の説明でした。


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by wheatbaku | 2017-05-04 15:30 | 『幕末』 | Trackback
禁門の変③(『幕末』)

 

 禁門の変で最も活躍したのは会津藩です。

 しかし、前回までは、会津藩にはあまり触れていませんでした。そこで、今日は、『京都守護職始末』に基づき、会津藩の動きを追ってみます。

 『京都守護職始末』は詳しく書かれていますが、ここでは要約して書いていきます。

 

 長州の福原越後たちが6月24日に伏見藩邸に入ったことから、会津藩は九条河原に軍を敷きました。
 当時、松平容保は病床にありましたが、6月27日、兵を率いて病気を押して参内します。孝明天皇は大変喜んで、天皇の近くで守護するようにとの詔があって、御所近くの凝華洞(ぎょうかどう)を兵営とするようにとお言葉がありました。

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凝華洞は、江戸時代に後西天皇が退位後の仙洞御所とした場所と伝えられています。元仙洞御所であった場所を仮の宿舎としたのですから、孝明天皇は病気の松平容保を気づかうとともに大変信頼していたことということだと思います。

現在、京都御苑には、凝華洞があった場所が小高い丘となっており、そこに凝華洞跡を示す標柱と説明板が建てられています。
 下写真の右の大きな松が目印です。松の根本付近に右上の説明板があります。しかし、どれだけの人が気が付くことでしょうか。

下写真の左手奥に写っているのが、京都御所の建礼門です。

 

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月6日、禁裏守衛総督の一橋慶喜は諸藩の人々を集めて対応を協議したものの、一橋慶喜の態度もはっきりせす、断固追討すべしと主張したのは、会津藩と桑名藩だけという状況でした。

しかし、7月11日になり、薩摩藩兵数百人、京都に到着したのを受けて、西郷隆盛は、諸藩の重臣を集めて、「諸藩が長州に対して寛大な処分に賛成するのであれば、わが薩摩藩はたとえ一藩であっても、長州にあたる」と意気軒高に述べたので、諸藩も長州追討に同意しました。

こうした状況でも一橋慶喜は長州藩京都留守居役乃実織江に撤兵するよう諭しました。7月18日のことでした。

しかし、長州藩は、君側の奸松平容保を討つとの文書を提出してきました。

当時、京都に駐留していた会津藩の軍勢は1500人ほどでした。その半分を伏見の長州勢に備えて、竹田街道の九条河原に配置しました。

残りの軍勢の半分で蛤御門を守らせました。

蛤御門を守っていた会津藩は、長州藩が蛤御門の外から攻撃してくるものと考え大砲を門外に出して備えていました。しかし、長州勢は、蛤御門の南にある公卿の邸の塀を乗り越え、北側に向かって攻めてきました。

そこで、会津藩は急遽大砲を南に向けて砲撃を開始しました。

長州勢からの砲撃も激しく多くの死傷者がでました。

しかし、桑名藩も加わり攻撃したため、来島又兵衛を倒された長州勢は瓦解し敗走しました。
 実は、この蛤御門での戦いに薩摩藩から応援があったことは『京都守護職始末』にはふれられていません。

 長州藩の久坂玄瑞たちが鷹司邸を固守していました。そこで、会津藩が凝華洞に持っていた15ドエム砲で鷹司邸の塀を打ち崩し、鷹司邸へ攻め込みました。
 ここで、久坂玄瑞、寺島忠三郎は、自刃したが、邸内にいた真木和泉は負傷しながらも残兵を率いて逃れ出ました。






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by wheatbaku | 2017-05-01 20:40 | 『幕末』 | Trackback
  

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