カテゴリ:『幕末』( 213 )
三野村利左衛門(幕末・維新を乗り切った商人たち③)

三野村利左衛門(幕末・維新を乗り切った商人たち③)

幕末・維新を乗り切った商人たちの3回目は、三野村利左衛門です。

三野村利左衛門を知っている人は少ないかもしれません。

私は、小栗上野介忠順の遺族を保護した人物として、小栗上野介忠順の事績をたどるなかで知りました。

 三井財閥の基礎を固め、三井中興の祖とも呼ばれる三野村利左衛門は、旧庄内藩士・関口正右衛門の孫で、鶴岡が出生地と伝えられています。

7歳のとき父松三郎が、浪人生活に入り、諸国を流浪した後、天保10年(1939)、19歳で江戸に出て、深川の干鰯(ほしか)問屋丸屋へ住み込み奉公をし、丸屋のつてで駿河台の旗本小栗家の中間として雇われました。

ここで、後に幕府勘定奉行となる小栗忠順と知り合います。

このころ、小栗忠順は10代でしたが、6歳年上の三野村利左衛門とは年が近いこともあって親しい主従となりました。これが三野村利左衛門の人生に大きな好影響を及ぼすことになります。

やがて、三野村利左衛門の仕事ぶりが注目され、神田三河町で油・砂糖などを商っている紀ノ国屋美野川利八に見込まれ、弘化2年(1845)に利八の娘なかの婿養子になり、利八を襲名します。

紀ノ国屋は零細な商家で苦労の連続でしたが、金平糖の行商をしながらお金を蓄え、三野村利左衛門が32歳の安政2年(1855)に小さな両替商を開業しました。

両替商となった利八は、雇い主である勘定奉行小栗上野介忠順の屋敷で、天保小判1両を万延小判3両1歩2朱(3倍強)と換価する旨の布令が出ることを耳にしました。

これは洋銀との交換比率を是正するための措置ですが、天保小判を持っていれば3倍の万延小判に換価できるため、天保小判を大量に買い集め、大きな利益を得ました。

こうした機敏な三野村利左衛門の行動が、付き合いのあった両替店の関係で、三井両替店の主席番頭斎藤専蔵に認められ、三井両替店に出入りするようになりました。

 その頃、三井には、幕府から多額の御用金の要請がありました。

 しかし、三井の内情は厳しく、越後屋の不振とともに両替店は長期不良貸し金の累積などで資金繰りが圧迫されて瀕死の状態にありました。
 そこで、最後の手段は勘定奉行の小栗上野介の力にすがり、御用金の減額を頼むほかないとなり、三野村利左衛門を通じて依頼することになりました。

 この時、三野村利左衛門は、小栗上野介に三井の窮状を力説し、御用金50万両のうち18万両を分納、残額を免除してもらうことに成功しました。しかもその後、三井家には幕府から御用金は一切なかったそうです。

三野村利左衛門は三井の危機を救ったことから、慶応2年、三井に「通勤支配格」(役員待遇)という破格の条件で雇われることになりました。

三井では、幼い時から丁稚奉公をして徐々に出世していく慣習があり、40代の男がいきなり役員待遇で抜擢されるというの異例中の異例でした。 

この時に名前も「三野村利左衛門」と改めた。「三野村」という姓は三井の三と、紀ノ国屋の姓である美野川の野、父の養家の姓である木村の村をとったものといわれています。

 王政復古後、三井が一早く新政府に多額の資金を融通するようになったのは、三野村利左衛門の進言によるものと言われています。

 明治になってからは、三井家の家制と家業の改革に着手し、呉服業(現在の三越)を分離し、三井銀行と三井物産会社の創設するなど三井の「大番頭」として、その本領を発揮し、明治から昭和に至る三井財閥の基礎を作り上げました。

 三野村利左衛門は、いち早く新政府に肩入れする一方で、恩を受けた小栗上野介忠順への恩義も忘れてはいませんでした。

小栗上野介忠順が勘定奉行を罷免され領地の上野国権田村に引きこもろうとした際には、亡命資金の準備をしたうえでアメリカ亡命を勧めたと言われています。ただし、小栗上野介忠順はこの話を断っています。

 また、小栗上野介忠順の遺族である道子と国子を深川の屋敷に引き取り、その保護および養育にも力を注ぎました。

 

 このように恩義にも厚い三野村利左衛門は、明治10年、胃がんのため病死しますが、その功績から「三井中興の祖」と呼ばれています。



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by wheatbaku | 2017-10-25 16:06 | 『幕末』 | Trackback
北風正造(幕末・維新を乗り切った商人たち②)

 北風正造(幕末・維新を乗り切った商人たち②)

 「幕末・維新を乗り切った商人たち」の2回目は、北風正造です。

北風家は兵庫の豪商であり兵庫津の名主でもあり、「兵庫の北風か、北風の兵庫か」と言われるほどでした。

 北風正造は、山城国の郷士長谷川家に生まれ、九条関白家に仕えた後、嘉永5年(1852),北風家に養子に入り、安政2年(1855)に家督を相続し、荘右衛門貞忠と改名しました。

 北風正造は、家業に専念し、安政5年箱館産物会所の用達兼生産捌方取締にも任命され家業を発展させていきました。

 そうした中で、文久3年に八月十八日の政変の政変が起こり、三条実美たち七卿が長州にくだり再起を期すことになりました。

 この「七卿落ち」の際に、北風正造は七卿を兵庫から船に乗せ長州へ渡る手はずを整えました。

 北風正造は、母親が有栖川宮家の老女であり、自身が九条関白家に仕えていたことから尊王精神を強く持っていたため、七卿落ちを支援したと言われています。

 北風正造は、七卿落ちの際の援助だけでなく、禁門の変の際に上京する長州藩にも資金援助し、西郷隆盛をはじめ多くの勤皇の志士とまじわり資金援助したと言われています。

 一方で、小栗忠順が、兵庫を開港するに際し、外国商人に対抗する現在の株式会社組織の「兵庫商社」の設立を計画した際には、北風正造は、その世話人の一人に選ばれています。

また、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れた後、姫路藩主酒井忠惇は朝敵となりました。

そのため、姫路藩は岡山藩などの追討を受けました。その際に北風正造が仲裁に入り、軍需金15万両と引き替えに姫路藩を攻撃するのをやめるという和解案で追討を解決しました。

姫路藩には、15万両もの資金はありませんでしたので、その資金は北風正造が用立てしたともいいます。

慶応4年に、兵庫鎮台に東久世通禧が任命されました。東久世通禧は、七卿落ちの際に北風正造が援助した七卿の一人でした。
 また初代の兵庫県知事は伊藤博文でした。

こうした北風正造と縁の深い人が兵庫に着任したことから、北風正造は、会計官商法司判事、県出納掛,通商為替会社頭取などの公職を歴任します。

ちなみに、明治2年会計官商法司判事となった際に、北風荘右衛門から正造と改名しています。

明治6年公職を辞してからも兵庫新川開削事業や米商会社,七十三国立銀行,商法会議所などの創立に尽力しました。

しかし家業は衰退に向かい、ついに北風家は明治18年に破産し、北風正造は明治28125日になくなり、正造が亡くなるとともに北風家は断絶してしまいました。



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by wheatbaku | 2017-10-24 19:27 | 『幕末』 | Trackback
伊達宗城の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人④)

伊達宗城の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人④)

 谷中霊園に眠る幕末有名人の4回目は伊達宗城です。

伊達宗城の墓所には鍵がかけられていた中に入ることはできません。しかしお墓は非常に大きなお墓で、柵の外からも表面に「従四位下勲一等伊達宗城侯之墓」と刻まれているのがわかります。

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伊達宗城は、宇和島藩主で、松平春嶽、島津斉彬、山内容堂とともに幕末四賢侯の一人に数えられています。

宇和島藩は、伊達政宗の長子で秀吉の養子となった秀宗を藩祖とする家柄です。

伊達宗城は旗本山口直勝の子として江戸に生まれ、宇和島藩主伊達宗紀(むねただ)の養子となりました。

山口直勝の父山口直清は宇和島藩5代藩主伊達村候の次男で山口家に養子に入りました。

従って、宗城は父の従兄弟である7代宗紀の養子となりました。

天保15年(1844年)に家督を継ぐと藩政改革に努めて殖産興業に力を注ぎました。

また蛮社の獄で捕えられ小伝馬町牢屋敷に入獄していたもの脱獄して幕府から追われていた高野長英を招聘し蘭書の翻訳や蘭学教授を託しました。

また、長州出身の村田蔵六(後の大村益次郎)を招いて洋式軍備の充実を図りました。

しかし、将軍継嗣問題で、松平春嶽や島津斉彬らとともに一橋慶喜を推したため、井伊直弼から睨まれ安政の大獄が吹き荒れるなかで病気を理由に隠居しました。

その後、文久312月に、一橋慶喜、松平慶永、松平容保、山内豊信らとともに参与に任命され、参与会議が開催されるようになり、中央で活躍するようになりました。

慶応3年5月に設置された四侯会議のメンバーにも選ばれましたが、四侯会議が瓦解してしまいました。

慶応3年の王政復古後、新政府の議定に就任し、明治新政府では外国事務総督などを勤め新政府発足当初の外交責任者を務めました。

[10月19日追記]
 宇和島にはシーボルトの娘楠本いねも縁があります。
 楠本いねは、シーボルトと長崎円山の遊女屋其扇との間に生まれました。
 シーボルトが国外追放された時に、その養育はシーボルトの弟子で宇和島出身の二宮敬作に託されました。
 そのため、いねは宇和島で育ちました。
 楠本いねは、最初は、シーボルトを日本語になぞらえて失本(しいもと)と名乗っていましたが、伊達宗城が「失本では、本を失うとなり縁起が悪い。先祖は誰か」と聞くと、いねが「楠本正成です」と答えました。そこで伊達宗城が「それでは楠本となのりなさい」と改名させたそうです。
『シリーズ藩物語 宇和島藩』宇神幸男著に書いてあります。



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by wheatbaku | 2017-10-18 09:45 | 『幕末』 | Trackback
渋沢栄一の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人③)

渋沢栄一の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人③)

 谷中霊園に眠る幕末有名人の3回目は渋沢栄一のお墓です。

渋沢栄一お墓は、松平斉民のお墓の近くにありますが、大きな墓域の中にあります。

渋沢栄一のお墓は、周囲を塀に囲まれていて、墓域の中には入れませんでしたが、数年前から下写真のように塀もなくなって誰でもお参りできるようになりました。

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近代日本経済の父と呼ばれる渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市の豪農の家に生まれ、昭和6年91歳で亡くなりました。「青淵」と号していましたが、墓碑の上部に「青淵」と刻まれています。

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渋沢栄一は、若い頃は、攘夷思想の持ち主で、文久3年24歳の時には、従兄の尾高淳忠や渋沢成一郎とともに高崎城乗っ取り・横浜焼討を実行しようとしましたが、最終的には、その計画を断念しました。

その後、嫌疑をかけられた幕府の追及から逃れるため、一橋家に仕え、歩兵隊の創設や領地の財政改革などの仕事をしていました。

渋沢栄一とともに一橋家に仕えたのが、のちに彰義隊頭取となる従兄の渋沢成一郎です。

慶応2年に一橋慶喜が将軍を継ぐとともに、渋沢栄一は幕臣となりました。

 幕府の行く末に不安を感じていた渋沢栄一は慶喜が将軍となるについては反対していたようです。

 幕臣を辞めようと考えていた渋沢栄一に人生の転機が訪れました。

慶応3年徳川慶喜の弟徳川昭武に随行してパリ万博に行くこととなりました。

渋沢栄一は、庶務会計掛ととして、パリに滞在し、各所を視察するとともにヨーロッパ各国を巡る徳川昭武一行に同行し、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど各国を見てまわりました。

この時の渋沢栄一の経験が、のちの近代日本経済の勃興に大きな役割をはたしました。

幕府崩壊に伴い帰国した渋沢栄一は、徳川家と共に静岡に移住しました。

その後、明治2年新政府の大隈重信から要請をうけて大蔵省に入り,井上馨と共に財政制度確立に努めましたが、当時の大蔵卿大久保利通と意見が合わないこともあり大蔵省を辞職しました。

辞職と同時に第一国立銀行を創業に関与し頭取に就任しました。

それ以後財界のリーダーとして、王子製紙、大阪紡績、東京海上、日本郵船、日本鉄道などを多くの企業の創立に関与しました。

 また東京商法会議所(東京商工会議所の前身)などを設立するなど財界活動にも熱心でした。

 また渋沢栄一は社会福祉事業や国際親善にも熱心で、明治7年に身寄りのない子供や老人を養う施設の「東京市養育院」の院長となり亡くなるまで院長を勤めました。

こうした永年の功績により、三井三菱のなどの財閥当主が男爵に留まるなかで、大正9年には、子爵を授けられました。

また、昭和に入って、日米関係が悪化するなかで、人形による日米友好を図るために努力しました。

こうして、渋沢栄一は、天寿を全うし、昭和6年91歳で亡くなりました。


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by wheatbaku | 2017-10-11 13:00 | 『幕末』 | Trackback
松平斉民の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人②)

 松平斉民の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人②)

谷中霊園に眠る幕末有名人の2回目は松平斉民のお墓です。

 松平斉民といっても御存知の方は少ないと思います。それこそ「知る人ぞ知る」という人物かもしれません。

松平斉民は現在の岡山県にあった津山藩藩主です。号は確堂といいます。

明治維新期には、徳川宗家16代徳川家達の後見人を勤めた重要人物で、彰義隊を公認した人物として有名です。

 松平斉民のお墓は、徳川慶喜の墓所のすぐ近くにあります。

 周りを圧するほどの大きな墓碑が非常に目立ちます。

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 津山藩は結城秀康を藩祖とする越前松平家の宗家筋の家柄で、譜代の名門です。

徳川家康の次男結城秀康は越前で67万石を領していました。しかし、2代目忠直が乱行したため改易となり、忠直の弟の松平忠昌が藩主となりました。忠直の長男光長が越後高田藩26万石となりました。しかし、松平光長も、5代将軍綱吉の代の越後騒動のため改易となり配流されました。

その後、光長は許され、結城秀康の曾孫である武蔵川越藩の松平宣富が養子となり、宣富が津山を領することになり、名門松平家が津山藩10万石藩主として復活しました。

これが津山藩松平家です。

ちなみに松平春嶽(慶永)が越前福井藩主として有名ですが、松平春嶽(慶永)が継いだ福井松平家は、忠直改易後に福井に入封した忠昌の子孫です。

 松平斉民の墓碑には「文定院殿成譽寂然確堂大居士」と刻まれていて、号の「確堂」が法名の中に入っています。下段写真参照

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松平斉民は11代将軍徳川家斉の16男として生まれ、文化14年(1817)津山藩7代藩主松平斉孝の養子となり、天保2年(1831)に藩主となり、藩政改革に力を入れました。

嘉永6年(1853)のペリー来航時の際には、明確な開国論の意見上申しているとのことで、大変注目していいと思います。

しかし、斉民は、安政2(1855)に、「勝手向き不如意」を理由に先代藩主の四男慶倫に家督を譲って隠居し、確堂と号しました。

その後も家斉の子供であるということとその人柄から徳川家では重きをなしていました。

そうしたことも大きな理由だと思われますが、松平確堂は、江戸城無血開城後の53日に新政府より、徳川宗家を相続した亀之助(家達)の後見人を命じられました。

また、加来耕三「上野彰義隊」によれば、彰義隊の渋沢成一郎を謁見し公認したのは松平確堂であると次のように書かれています。

松平確堂は、若年寄川勝広運(ひろかず)の名前で彰義隊の渋沢成一郎を呼出します。

渋沢成一郎は100人程の彰義隊士を率いてと江戸城に登城し川勝広運と面会します。その席に、松平確堂が現れ謁見し「あっぱれな武士である」と述べたそうです。

その後、渋沢成一郎に「奥右筆格渋沢成一郎 彰義隊頭取仰付られる。席高之儀は之迄之通り、相心得えるべし」とされ、彰義隊は徳川家の公認団体となりました。

これにより、彰義隊が江戸市中取締をおおっぴらにできるようになりました。



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by wheatbaku | 2017-10-09 11:41 | 『幕末』 | Trackback
徳川慶喜の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人①)

徳川慶喜の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人①)

 今日からは、谷中霊園に眠る幕末の有名人のお墓をご案内します。

 最初は、多くの人が訪ね、霊園の中でも案内板の整備されている徳川慶喜のお墓からご案内します。

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 谷中霊園は都立の霊園で、寛永寺の墓地とは異なりますので、徳川慶喜のお墓は、正式には寛永寺の墓地内にあります。

徳川慶喜のお墓は神式のお墓です。

正面中央の二つの墓のうち、左側が徳川慶喜のもので、右側は正室の徳川美賀子のお墓です。

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徳川慶喜は、大正21122日に亡くなりました。77歳でした。

幕末・維新の重要人物の中で最後に亡くなったといってもよく、 徳川慶喜が亡くなった時には、既に、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視など、徳川慶喜の人生を大きく変えた人たちはなく、勝海舟や明治天皇さえも亡くなっていました。

 徳川慶喜は、寛永寺大慈院で謹慎したあと、江戸城開城の日に水戸に移り、さらに、水戸から駿府に移り謹慎しました。

明治29月に謹慎が解除されましたが、その後も静岡に住み続けました。

そして、ようやく明治30年に東京に転居し、翌年31年(1898)に明治天皇に拝謁し 明治35年には公爵となりました。

そして大正2年に77歳でなくなりました。

徳川慶喜が、何と思って静岡に留まり、徳川慶喜を朝敵にした新政府の重要人物の死を聞いて何を思ったのだろうとふと感じることがあります。

慶喜のお墓の後ろに側室(中根幸、新村信)のお墓もあります。

徳川慶喜は十男十一女の子沢山ですが、多くの子供の母親が新村信と中根幸の二人です。

中根幸は、中根芳三郎の娘として生まれ、成田信十郎の養女となって側室となりました。

新村信は、旗本松平勘十郎の娘に生まれ、新村猛雄の養女となって側室となりました。広辞苑の編者新村出は、新村信の義理の弟になります。

二人とも多くの子供たちを生んでいますが、生前の役職は側女中で、子供を生んだからといっても、女中以上の扱いを受けることはなく、子供たちからも「幸」とか「信」とか呼び捨てにされたといいます。

 さて、最近のニュースですが、2017年9月25日に徳川慶喜の曾孫である徳川慶朝さんが亡くなられました。徳川慶朝さんは写真家として活躍されていましたが、独身で、養子もとらなかったと言われています。徳川慶喜家が今後どうなるのか気になるところです。

徳川慶喜の墓の手前には、勝精(くわし)夫妻のお墓もあります。
 勝精は、徳川慶喜の十男で母親は新村信です。勝海舟は長男小鹿が若くして亡くなったため、徳川慶喜にお願いして、十男の精を養子にもらいました。そして小鹿の子供つまり勝海舟からすれば孫娘となる伊代子と結婚させました。

勝海舟のお墓は洗足池近くにありますので、勝精は、養父のそばでなく、実父母のそばに眠っていることになります。

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by wheatbaku | 2017-10-06 11:28 | 『幕末』 | Trackback
五稜郭開城(箱館戦争史跡めぐり⑭)

五稜郭開城(箱館戦争史跡めぐり⑭)

慶応4年5月11日の新政府軍の旧幕府軍への総攻撃により、旧幕府軍の劣勢が明らかにとなり、残るは、五稜郭、千代ヶ岡陣地、弁天台場だけとなりました。

 5月12日、新政府軍から降伏勧告の使者が箱館病院にやってきました。

 箱館病院長の高松陵雲は、新政府軍の意向を受けて、五稜郭にいる榎本武揚と松平太郎に手紙を書きました。

 これに対して榎本武揚は、降伏はしない旨の回答を高松陵雲に返してきました。

 それとともに、榎本武揚がオランダに留学した際に入手した「海律全書」2冊を、将来に役立つ書物であり戦火で灰にするのは惜しまれるからと言って、黒田清隆に届けるよう伝えてきました。

 「海律全書」とは、万国公法であると言われています。

幕末で「万国公法」と言う場合は、坂本龍馬も学んでいて「いろは丸」事件の際にの利用し、慶応4年には西周が発行した「万国公法」を指すことが多いようです。

この場合の「万国公法」は北京にいた米国人宣教師マーチンがアメリカの国際法学者ホイートンの「Element of International Low(エレメンツ・オブ・インターナショナル・ロウ)」(江戸検のお題テキストでは「国際法入門」となっている)を1864年に中国語訳し「万国公法」の名で刊行したものを指してします。

 「海律全書」も『万国公法』とよく言われるので、ホイートンの「Element of International Low(エレメンツ・オブ・インターナショナル・ロウ)」を原著とするのかどうか調べました。

 すると大山柏著「戊辰役戦史」には、「海律とは、仏国オルトーンン著「海上万国公法」のことである」と書いてあるので、「海律全書」と「万国公法」は別の本のようです。

 日本の将来を考えて「海律全書」を戦火に焼失させまいとする榎本武揚に感激した黒田清隆は、酒五樽を届け感謝の意を表しました。

 黒田清隆が贈りかえしたものは、酒五樽とまぐろ5本と書いてある本もあります。

 法律書のお礼に贈ったものが酒というのが薩摩出身の黒田清隆らしいといえば黒田清隆らしいと思いました(余談ながら・・)

 贈られてきた酒を前にして榎本武揚側は、毒入りではないかと疑い、手を出しかねていましたが、額兵隊の星恂太郎が無造作に柄杓ですくって呑み始めたのにつられて他の人たちも呑み始めたそうです。

 

 12日に続いて新政府軍側からの降伏勧告は続きます。

13日には弁天台場へ新政府軍から榎本武揚への取次依頼があり、さらに翌14日には再び弁天台場へ新政府軍軍監田島圭蔵がやってきて榎本武揚への取次を依頼したため、榎本武揚は田島と千代ヶ岡陣地付近で会い、榎本武揚は降伏を拒否しました。

15日には千代ヶ岡陣地の中島三郎助へ降伏勧告がされましたが、中島三郎助はそれを拒否しました。

こうした連日にわたり新政府軍からの降伏の勧告が行なわれる中で、ついに15日には、弁天台場にこもる永井尚志や新選組が降伏しました。

しかし、16日には、あくまでも降伏を拒否した千代ヶ岡陣地の中島三郎助が二人の子供とともに戦死しました。

いよいよ五稜郭だけが残ることとなり、五稜郭から脱走する兵士も続出する状態となりました。

榎本武揚は自分が責任をとって自決する覚悟を固め、秘かに自室で切腹しようとしますが、部下に止められ、ついに榎本武揚自信が軍門に下り、残る将兵の助命を嘆願することを決意します。

そこで、17日には、総裁榎本武揚、副総裁松平太郎が、五稜郭近くの亀田八幡宮まで出向いて、新政府側の黒田清隆らと降伏交渉が行なわれました。

 会談では降伏条件が決められた後、酒盛りが行なわれるほど和やかな交渉でした。

 交渉が行なわれた亀田八幡宮の拝殿は、現在も残されています。

 交渉は、当時の本殿で行われたそうですが、新しい本殿が建築され、旧拝殿  として残されています。拝殿の羽目板には当時の銃弾の跡も残されています。

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 旧拝殿の前には、「箱館戦争降伏式之地」記念碑が有志によって建立されています。題字は榎本武揚の曾孫・榎本隆充氏の揮毫です。上の写真の手前の記念碑です。

 こうして、降伏条件が決定し、翌5月18日、総裁榎本武揚、副総裁松平太郎、陸軍奉行大鳥圭介、海軍奉行荒井郁之介が新政府軍の軍門に下り、五稜郭は開城しました。

 以上で、箱館戦争ゆかりの史跡めぐりは終了させていただきます。
 
 




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by wheatbaku | 2017-10-03 12:07 | 『幕末』 | Trackback
土方歳三の最期(箱館戦争史跡めぐり⑬)

土方歳三の最期(箱館戦争史跡めぐり⑬)

今日は、土方歳三の死について書いていきます。

5月11日の新政府軍の総攻撃のなか、土方歳三は死去します。

土方歳三は、4月29日、二股口から五稜郭に引き上げました。

その後、5月1日は、弁天台場に行き、新選組の面々と再会しました。

5月11日に新政府軍の総攻撃が始まると、黒田清隆に指揮された新政府軍の奇襲部隊は、箱館市内の各所を抑え、新選組が守る弁天台場は孤立しました。

 そこで、土方歳三は、箱館市内を奪還し、弁天台場を救出するために、額兵隊、三国隊、伝習隊など500名の兵を率いて、五稜郭を出撃しました。

 そして、千代が岡陣地と弁天台場の中間付近にあった一本木関門で新政府軍と戦いが始まりました。

 その戦いの最中、土方歳三は、腰に銃弾をうけ落馬し命を落としました。

 一本木関門があったと言われる場所近くの函館市総合福祉センターの敷地内に、土方歳三最期之地の碑が建っています。

 その碑の奥には、一本木関門の模型も造られています。(下写真参照)

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 一方土方歳三は異国橋付近でなくなったという説もあります。

新選組隊士の中島登の記録には、土方歳三は、一本木関門を抜けて、箱館市内の異国橋あたりに至って、馬上で指揮しているところ銃弾にあたり落命したと書かれています。

 異国橋は、現在の市電の十字街電停近くにあった橋でした。

現在は川が埋立られてしまい、異国橋は残されていません。

 電停近くの十字街派出所が目印となります。(下参照、写真正面の建物が派出所です。)

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by wheatbaku | 2017-09-27 15:26 | 『幕末』 | Trackback
新政府軍総攻撃開始(箱館戦争史跡めぐり⑫)

新政府軍総攻撃開始(箱館戦争史跡めぐり⑫)

 新政府軍に木古内の戦いと矢不来の戦いで敗北し、土方歳三が守っていた二股口を放棄した旧幕府軍にとって、残された場所は五稜郭を中心とした箱館だけとなりました。

 その箱館を、明治2年5月11日、新政府軍は総攻撃します。

 旧幕府軍は、市街を流れる亀田川に沿って、南北5キロに亘る防御線を構築していました。

五稜郭を中心として 南は弁天台場から、一本木関門、千代ヶ岡陣屋と続き、五稜郭の北の権現台場、さらにその北に急造した台場四稜郭を北限としていました。

これに対して、新政府軍は、陸軍を二手に分けて攻撃する作戦をとりました。

箱館西方の七重浜から攻撃する部隊を主力として、北の四稜郭と権現台場、さらに千代ヶ岡陣地を攻撃しました。

このほかに、奇襲部隊を組織し、箱館山の裏側に上陸し、箱館山をよじ登り、山頂から駈け下り、箱館市内に突入しました。

海軍は、陸軍の攻撃を、艦砲射撃で援護しました。

新政府軍主力の攻撃は、夜明け前から開始され、旧幕府軍の額兵隊など圧倒していきました。

奇襲部隊は、参謀の黒田清隆が指揮し、午前4時頃、箱館山の裏側の寒川あたりに上陸し箱館山をよじ登りました。

箱館山山頂をまもる旧幕府軍軍勢は数が少なく、新政府軍はなんなく山頂を占領しました。そして一気呵成に箱館山を駈け下り箱館市内へ突入し市内を占領するとともに弁天台場に攻撃をしかけました。

しかし弁天台場では新選組を中心とした部隊が反撃し、新政府軍の占領を阻みました。

この日、海では、旧幕府軍の蟠龍が、新政府軍の朝陽を砲撃し沈没させるという成果を挙げました。

 しかし、陸では、各所を新政府軍により打破られ、旧幕府軍は、五稜郭、千代ヶ岡陣地、弁天台場だけを残すこととなりました。



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by wheatbaku | 2017-09-25 13:09 | 『幕末』 | Trackback
二股口での土方歳三の奮戦(箱館戦争史跡めぐり⑪)

二股口での土方歳三の奮戦(箱館戦争史跡めぐり⑪)

 文京学院大学の講座が9月9日にあり、その1週間後ノ17日に江戸楽アカデミーでの講座あったため、この間、箱館戦争史跡めぐりのレポートが中断していましたが、その続きを書いていきます。

 前回は4月9日に新政府軍の第一陣が乙部に上陸し、第二陣・第三陣も上陸したというところまで書きました。
 今日は、二股口での土方歳三の奮戦について書きます。

 乙部に上陸した新政府軍は江差へ向かう部隊と二股口に向かう部隊の二手に分かれました。

 江差へ向かった部隊は江差を制圧したあと、新たな部隊を編成し、木古内へも向かいました。

松前に向かった新政府軍は、17日には、海上からの艦砲射撃に援護されて、松前城の奪還を果たしました。

木古内口では、大鳥圭介率いる精鋭と新政府軍が激闘、20日までの戦いでは大鳥軍が優勢でしたが、長引けば形勢不利とみた大鳥圭介が、21日、木古内口から撤退し、矢不来に布陣しました。

 海岸線最後の要害である矢不来では、、約500人を大鳥圭介の部隊が敵の来襲を待ちうけましたが、新政府側も1500の兵で攻撃を仕かけ、海からの艦砲射撃の援護もあり、旧幕府軍を圧倒し、その日のうちに矢不来の戦いは終わりました。

 木古内と矢不来の戦いで、旧幕府軍が敗北するなかで、奮戦したのが、二股口です。

 二股口を守ったのは土方歳三の率いる衝鉾隊・伝習歩兵隊等でした。

二股口でも激しい銃撃戦が展開されましたが、土方歳三軍は優勢に戦いました。

二股口は、海から遠く、軍艦からの艦砲射撃はありません。

4月13日の戦いは、雨中の激戦でしたが、日没後も戦いは続き、土方軍は弾薬箱

を上着で覆い、雷管を懐で温めて射撃、翌朝までに3万5000発の弾薬を費やしたといいます。

 23日の戦いでも、土方歳三軍は兵力を増強した新政府軍を斥けました。

しかし、矢不来が突破されたことで、退路を遮断されることを恐れた土方歳三は退却を決断し、29日の夜、土方歳三軍は五稜郭へ帰陣しました。

c0187004_07484851.jpg

土方歳三の二股口での奮戦する様子は、五稜郭タワーの歴史回廊の中で、ジオラマで描かれていました。上の写真をご覧ください。




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by wheatbaku | 2017-09-22 07:46 | 『幕末』 | Trackback
  

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