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高杉晋作、そして久坂玄瑞の辞世(『幕末』)

高杉晋作、そして久坂玄瑞の辞世  

 鳥羽伏見の戦い関係の記事は、一段落したので、今日は、高杉晋作と久坂玄瑞の辞世について書きます。

 高杉晋作の辞世として有名なのが次の句です。

「面白きこともなき世を面白く 住みなすものは心なりけり」

しかも、高杉晋作が「面白きこともなき世を面白く」と詠んだが、その後が続かないので、そばにいた野村望東尼が、「住みなすものは心なりけり」と続けたと言われています。

司馬遼太郎の「世に棲む日日」では、次のように描かれています。

晋作はずっと昏睡状態にあったが、夜がまだ明けぬころ、不意に瞼をあげてあたりを見た。意識が濁っていないことが、たれの目にもわかった。晋作は、筆を要求した。枕頭にいた野村望東尼が紙を晋作の顔のそぼにもってゆき、筆をもたせた。晋作は辞世の歌を書くつもりであった。ちょっと考え、やがてみみずが這うような力のない文字で、書きはじめた。

おもしろき こともなき世をおもしろく

 とまで書いたが、力が尽き、筆をおとしてしまった。晋作にすれば本来おもしろからぬ世の中をずいぶん面白くすごしてきた、もはやなんの悔いもない、というつもりであったろうが、望東尼は、晋作のこの尻きれとんぼの辞世に下の句をつけてやらねばならないとおもい、

「すみなすものは 心なりけり」

 と書き、晋作の顔の上にかざした。望東尼の下の句は変に道歌めいていて晋作の好みらしくはなかった。しかし晋作はいま一度目をひらいて、しかし晋作はいま一度目をひらいて、

「……面白いのう」

 と微笑し、ふたたび昏睡状態に入り、ほどなく脈が絶えた。

 高杉晋作の辞世は江戸検1級でも出題されています。
 第2回の第90問は次のような問題です。

90】慶応3年(1867414日、29歳で下関に没した幕末の志士、高杉晋作の辞世の句は、次のうちどれでしょう? ただし、下の句は死の直前まで看病にあたっていた野村望東尼の作といわれています。

い)身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも とどめ置かまし 大和魂

ろ)おもしろき こともなき世をおもしろく すみなすものは 心なりけり

は)世の人は われを何とも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞ知る

に)君が為め 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄みわたる空

 しかし、高杉晋作についての評伝を読むと、この「おもしろき こともなき世をおもしろく」の句は、臨終の際に詠まれたものではないという説がかなり強く主張されています。

 例えば、人物叢書『高杉晋作』梅溪昇著P302には次のように書かれています。

 晋作の辞世の句として、「面白キ事モナキ世ニヲモシロク 住ナスモノハコヽロナリケリ」が人口に謄灸しているが、一坂太郎の指摘したように、その歌は「丙寅(慶応二年)未定稿五十首国歌十首」と題されたなかにまとめられているもので、臨終の際に作られたものとはいえない。


 また、ミネルヴァ日本評伝『高杉晋作』海原徹著P248には次のように書かれています。

辞世の歌として人口に謄炎した作品、晋作がまず、「面白き事もなき世におもしろく」と上の句を綴り、これに望東尼が、「住みなすものは心なりけり」と続けて完成した歌は、二、三の先行研究が言うように、同居が始まった慶応二年暮頃の作らしく、臨終の席で慌しく作られたものではない。


『高杉晋作のすべて』(新人物往来社刊)に載っている「高杉雅子の回想」では、晋作の妻雅子は次のように語っています。

井上さんや福田さんに向っていつも『ここまでやったのだからこれからが大事じゃ。しっかりやって呉れろ。しっかりやって呉れろ。』と言い続けて亡くなりました。いいえ家族のものには別に遺言というものはありませんでした。『しっかりやって呉れろ』というのが遺言といえば遺言でございましょう。

これらを読むと、高杉晋作の辞世と言われてきた「面白きこともなき世を面白く 住みなすものは心なりけり」は慶応2年に詠まれたもので、高杉晋作が亡くなったのは慶応3年4月14日であり、亡くなる際に詠まれたものでないということのようです。
 こうしたことから、辞世を臨終の際に詠んだものと定義すれば、「面白きこともなき世を面白く」は、辞世ではないということになります。

このことが分かりましたので、同じようなことが久坂玄瑞の辞世にも言えるのではないかと思います。

久坂玄瑞の辞世の句についてインターネットで検索すると

「ほととぎす ちになくこえはありあけの つきよりほかに しるひとぞなき」

が辞世の句として出てきます。

しかし、久坂玄瑞全集で、この句を調べると、この句が出てくるのが『萬延辛酉初春文久 江月斎日乗』という久坂玄瑞の日記の中の12月晦日の中に記されています。
 辛酉の年は、萬延2年(途中で改元されて文久元年となりました)ですので、この句は、
文久元年(1861)の12月30日に詠まれた句だと思われます。
 ちなみに江月斎というのは久坂玄瑞の号です。

久坂玄瑞は、元治元年(1864)7月19日の禁門の変の際に、鷹司邸で自刃して亡くなっています。

つまりインターネットで辞世の句と言われている句は、亡くなる2年半も前に詠まれた句です。

なくなる2年半も前に詠んだ句が辞世の句となるのか疑問に思いましたので、以前、久坂玄瑞の辞世の句について問い合わせたことのある萩博物館に確認させていただきました。

その回答は、「『ほととぎす ちになくこえはありあけの つきよりほかにしるひとぞなき』の句は、文久元年に詠まれているので、久坂玄瑞の辞世の句ではありません」という単純明快な回答でした。

「新たな発見!」です。




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by wheatbaku | 2017-06-06 21:00 | 『幕末』 | Trackback
第4回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験.

第4回「幕末・維新これは覚えてね!」模擬試験

 今日は、第4回「幕末・維新これは 覚えてね!」模擬試験を出題します。

 今回は、元治2年(慶応元年)と慶応2年に起きた事件 についての問題を出題します。

 慶応元年は大事件が少ない年でしたが、慶応2年は薩長同盟締結や第2次長州征伐という大事件が起きた年ですので、模試もこの2つの事件に関する問題が中心となります。 

 正解は、来週半ばに発表します。

1、高杉晋作が、功山寺挙兵で、俗論派の藩政府を打倒し、桂小五郎も潜伏先から帰藩して、長州藩は藩政改革に取り組みます。

この時、第2次長州征伐に備えて長州藩の軍制改革に取り組んだ人は次のうち誰でしょう?

 元々周防の村医の子供として生まれ、咸宜園や適塾で学んだことがある人物です。

①広沢真臣  ②井上聞多  ③前原一誠  ④村田蔵六

2、下の絵は、私が牢獄から妻に送ったもので私自身を描いた自画像です。

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 文久3年に投獄された後、慶応元年閏5月に前藩主に切腹を命じられ、壮絶な最期を遂げました。さて、私は誰でしょう?

 ①岡田以蔵  ②武市瑞山  ③吉田東洋  ④吉村寅太郎

3、朝敵となった長州藩は、武器の購入が困難となりました。そこで、薩摩藩名義で武器を購入し、その武器を長州が受け取る仕組みを考えました。それを薩摩藩の西郷隆盛に提案し西郷隆盛の承諾を得た人物は次のうち誰でしょう?

 ①坂本龍馬  ②中岡慎太郎  ③高杉晋作  ④桂小五郎 

4、坂本龍馬とともに薩長同盟の締結に尽力したのが中岡慎太郎であることは良く知らています。中岡慎太郎は、土佐の安芸郡の大庄屋の家に生まれ、文久元年土佐勤王党にくわわり、文久3年脱藩してしまいます。それでは、慶応2年の薩長同盟締結直前はどのような立場だったでしょう? 

 ①坂本龍馬と協力して海援隊で活動していた。

 ②土佐藩より脱藩の罪を許され陸援隊の隊長に任命されていた。

 ③長州藩に行き、忠勇隊の幹部となっていた。

 ④筑前で、三条実美たちの護衛をしていた。 

5、「表に御記被成候六条は小、西両氏および老兄、龍等も御同席にて談論せし所にて、毛も相違無之候。後来といへども決して変わり候事無之は、神明の知る所に御座候。丙寅二月五日 坂本龍」

この文書は薩摩藩と長州藩で合意した6つの条項について、坂本龍馬が間違いないと朱書きで確認した文書です。それではこの文書の中に書かれている「老兄」とはだれでしょう 

①小松帯刀  ②西郷隆盛  ③桂小五郎  ④高杉晋作

6、寺田屋に投宿中、坂本龍馬は伏見奉行所の捕吏に囲まれますが、お龍の通報をうけ、ピストルで応戦した後、難を逃れたと言われています。

それでは、そのピストルはどのように入手したのでしょうか? 

 ①高杉晋作からもらった。

 ②グラバーから購入した。

 ③中岡慎太郎から借りていた。

 ④西郷隆盛から譲りうけた。

7、坂本龍馬は寺田屋で伏見奉行所の捕吏に襲撃されて怪我をしますが、その治療を兼ねて、お龍と一緒に旅行しました。これが日本初の新婚旅行と言われています。この時に、二人が行った温泉は次のうちどこでしょう?

 ①別府温泉  ②有馬温泉  ③指宿温泉  ④塩浸温泉  

8、第2次長州征伐は、長州側では四境戦争と呼んでいました。

 主に四方面の長州藩境で幕府軍との戦いが行われたため、そう呼ばれました。

 四境の一つは、小倉口と呼ばれる関門海峡方面です。

それでは四境に入らない方面は次のうちどれでしょう?

 ①芸州口  ②萩口、 ③大島口  ④石州口

9、第2次長州征伐では、長州藩は、近代兵器を駆使して、幕府軍に対して攻勢をかけ、長州藩外に攻め込みました。その結果、浜田藩は、浜田城に火をかけ、城を撤退しました。浜田城のほかに、第2次長州征伐の際に焼失した城がありますが、次のうちどれでしょう? 

 ①広島城  ②岩国城  ③津和野城  ④小倉城

10、第2次長州征伐の休戦協定は、厳島の大願寺で締結されました。その交渉の際の幕府側代表は誰でしょうか? 

 ①板倉勝清  ②小笠原長行  ③勝海舟  ④小栗忠順


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by wheatbaku | 2017-06-02 23:14 | 『幕末』 | Trackback
「楠葉台場」と「高浜砲台」(鳥羽伏見の戦い⑦ 『幕末』)

「樟葉台場」と「高浜砲台」(鳥羽伏見の戦い⑦) 

 淀城への入城を拒否された旧幕府軍は、淀城下を燃やし、淀小橋と淀大橋を焼き落として、橋本方面へ撤退していきました。

橋本は男山の山頂に鎮座する石清水八幡宮の門前町で、江戸時代は、京都と大坂と結ぶ京街道における淀宿と枚方宿の間に位置する「間の宿(あいのしゅく)」でした。

 旧幕府軍は、橋本を拠点に反撃を試みました。ここでの旧幕府軍は、見廻組と遊撃隊が主力で、新政府軍との闘いは激戦となりました。

 この戦闘で、見廻組の佐々木只三郎が銃撃を受けて重傷を負いました。

 佐々木只三郎は、浪士組の清河八郎を麻布一の橋で殺害し、坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺も佐々木只三郎が指揮したといわれているほどの剣の達人ですが、鉄砲には適わなかったようです。

 

京坂本線橋本駅の南側に「樟葉台場跡」という史跡があります。

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橋本駅から徒歩15分ほどで行けますが、3月に訪れた時には、周辺は区画整理やスーパーの新築工事の真最中で、道路がわかりにくくなっていました。

しかし、たどりついた「樟葉台場跡」自体は史跡公園としてきれいに整備されていました。下写真は、史跡公園となっている樟葉砲台跡です。

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「樟葉台場」は、慶応元年(1865)、淀川左岸に江戸幕府が造営した台場です。

京都守護職松平容保の建言に基づき、外国の脅威や尊皇攘夷派の活動から京都を防衛するために築かれたと言われています。台場の設計は勝海舟が行ないました。

下写真は、樟葉台場跡の説明板ですが、写真正面に見える山が天王山です。

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大坂と京都を結ぶ京街道が台場の中を通過するようになっていて、実際は、大坂から京都に入ろうとする尊攘派の人々を防ごうという意図があったと言われています。

京都に入ろうとする敵を防ぐ目的で築造されたため、北側からの攻撃にたいする防御は弱く、鳥羽伏見の戦いにおいて「樟葉砲台」で頑強な抵抗が行なわれたという記録は、私が見た限りではありませんでした。

淀城への入城を拒否されて、やむをえず橋本まで退却して新政府軍と戦っていた旧幕府軍は、またもや、予想だにしなかった攻撃を受けることになりました。

橋本の対岸にある山崎関門に布陣していた津藩藤堂家から砲撃を受けたのです。

藤堂家は、藩祖藤堂高虎の功績により、徳川幕府が軍勢を整え出陣する際には、名誉ある先鋒を勤めることとなっていた家柄です。

つまり、将軍家が最も信頼している家柄の一つであったわけです。

それにもかかわらず、津藩藤堂家から砲撃され、旧幕府軍は一気に戦意を喪失してしまい、大阪城に撤退していき、これ以後は旧幕府軍の組織的な反撃はなくなりました。

この津藩藤堂家の裏切りは、新政府軍から藤堂家に勅使が派遣されたことによるものです。その事情は、「岩倉公実紀」に書かれています。

それによれば次の通りです。

正月5日の朝議で、公卿を一人派遣して津藩を説得させようとなりましたが、誰も行こうとしませんでした。その時に四条隆平は自分が行くと申し出たので、山崎関門に向かわせました。その夜、四条隆平は山崎関門を守る津藩藤堂家の重臣藤堂采女に面会し、新政府軍に味方しないことを責め、勅書を渡し、官軍を助けるよう諭ました。これを受けて津藩藤堂家は、正月6日より、八幡や橋本の陣営する旧幕府軍に対する砲撃を開始しました。

このように「岩倉公実記」に書かれています。

津藩藤堂家が旧幕府軍を砲撃した砲台は、「高浜砲台」です。

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「高浜砲台」は、淀川を利用して京都に入ろうとする賊を防御するために前述した「樟葉台場」とともに築造された砲台で、慶応2年(1866)に完成しました。

その高浜砲台跡は、阪急京都線「水無瀬駅」から徒歩10分程度の淀川沿いにあります。

史蹟碑は、薬師堂の前に設置されていました。(下写真参照)

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説明板には、「実際の高浜砲台は高浜砲台跡の場所でなく、淀川河川敷にあり、高さ八尺(約2.4m)、周囲100間(約180m)の規模であったされています。」と書かれていました。

下写真は、淀川堤防上から、男山を見た写真です。

写真中央部分が淀川の河川敷ですが、この辺りに高浜砲台があったものと思われます。

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なお、「樟葉台場跡」と「高浜砲台跡」は直線距離にすると大した距離ではありませんが、下記地図のように間を淀川が流れていて、近道もありませんのでご注意ください。 

私は二つの砲台跡を別々の日に訪ねました。

 下記地図の赤印が「樟葉台場跡」です。現在も多分工事中っだと思いますので、行かれる時には、事前によく調べていったほうがよいと思います。青印が「高浜砲台跡碑」です。



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by wheatbaku | 2017-05-31 18:37 | 『幕末』 | Trackback
千両松での戦い(鳥羽伏見の戦い⑥)

千両松での戦い(鳥羽伏見の戦い⑥)

伏見方面から京阪淀駅に入る手前の左手に競馬場が広がっています。

これが京都競馬場です。春の天皇賞や菊花賞が開催される競馬場ですので、競馬ファンはもちろんのこと競馬ファン以外にもなじみのある競馬場です。

 京都競馬場の北側を通る道路脇に「戊辰役東軍西軍激戦之地」と書かれた史跡があります。(下写真参照)

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中央に戊辰役東軍戦死者埋骨地と刻まれた石塔が立てられていて、左の石碑の裏面には次のように刻まれています。

 慶応4年戊辰正月、伏見鳥羽の戦いに敗れ、ここ淀堤千両松に布陣し、薩摩長州の西軍と激戦を交し、非命に斃れた会津・桑名の藩士、及び新選組、並びに京都所司代見廻組の隊士に捧ぐ。
 下写真の左手の石碑の裏面に上記文言が刻まされています。

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 鳥羽伏見の戦い当時、伏見から淀への道は宇治川沿いの狭い堤防上の道路で「淀堤」と呼ばれていました。

 この淀堤には、「千両松」と名付けられた場所があります。
 千両松とは、豊臣秀吉が植えたと言われる松で、あまりの見事さにその名が付いたとされます。

正月3日から4日にかけて敗北した旧幕府軍は、伏見街道方面では、この千両松で新政府軍を向かい討ち、ここで、旧幕府軍と新政府軍との間で激しい戦いが行われました。

 千両松がある堤防の南側は宇治川が流れ、北側には横大路沼という沼があり、湿地帯が広がっていました。

 そのため、ここでは大軍勢を展開することができませんでした。

 伏見で初戦に敗れた旧幕府軍は淀に撤退していましたが、ここで、新政府軍を食い止めるため、淀小橋から千両松近くに兵を展開しました。

 千両松の狭い道を通過してくる新政府軍を向かい討つため、芦原にも兵を散開させていました。

 旧幕府軍の中心となったのは会津藩別選組と新選組でした。

別選組と新選組は剣術に優れた剣士揃いでしたので、新政府軍が千両松を抜けた時点で斬りこみ攻撃をしました。

これにより新政府軍は、多くの死傷者を出したため、一旦、千両松の並木奥に兵を引いた後、体制を整え、一斉射撃を行いました。

これにより、新選組では、結成当時からのメンバーで当時六番隊組長であった井上源三郎が戦死しました。また、副長助勤の山崎丞も重傷をおい、新選組隊士14名が死亡しました。(中公新書「新選組」による)

淀堤で敗北した旧幕府軍は、淀城下に撤退し、しかも淀城への入城拒否され、さらに、橋本方面へ退却していきました。
 
 下記地図のの赤印が「戊辰役東軍西軍激戦之地」です。青印が前に紹介した淀小橋跡の石柱がある地点です。






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by wheatbaku | 2017-05-29 14:41 | 『幕末』 | Trackback
錦の御旗、戦場に翻る(鳥羽伏見の戦い⑤ 『幕末』)

錦の御旗、戦場に翻る(鳥羽伏見の戦い⑤) 

 今日は、錦の御旗の2回目です。

長州に帰った品川は、故郷萩の生地近くに住んでいた有職家の岡吉春という人物を呼出して、錦の御旗の製作を命じました。

岡吉春が記した『錦旗調製一件』なる文書が現存していて、それには次のように書かれているとのことです。

「吉春其調製の命を承け、弟子鬼童丸重助一人を倶し山口に到り、諸隊会議所の楼上に於て他人の出入を禁じ、励精調製に従ひ、約三十日間にして完成せり。而して之を調製するに方り其製式の拠るべき所なきに苦心せしが、終に大江匡房の『皇旗考』(毛利の蔵書にして世に公刊せられたるものにあらず)に拠り考究の末、其式を按出し正副二度を製作せり」

つまり、平安後期の貴族で儀式典礼に通じた大江匡房の『皇旗考』を参考に、山口にある諸隊会議所(奇兵隊その他各隊からの常置委員の詰所)の土蔵の二階で、他人の出入りを禁止し、30日間をかけて完成したと書いてあります。

現在、山口市一の坂川の「一つ橋(ひとつばし)」のたもとに、「錦の御旗製作所跡」の石碑が立っているそうです。

出来上がった錦旗は、その半分を山口に保管し、半分を京都相国寺林光院の薩摩藩邸内に密蔵し、12月9日、王政復古の大号令の際、岩倉具視の手を経て朝廷に納められました。

この錦の御旗が、慶応4年の正月4日に、鳥羽伏見の戦場に翻ります。

征討大将軍仁和寺宮嘉彰親王は寒風に日月の錦旗二旅を翻して出陣、本営の東寺に入り、5日、仁和寺宮は最前線近くまで錦旗を進めて淀の激戦を巡視しました。下記写真は東寺の五重塔です。

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 錦の御旗を見た新政府軍は奮い立ち、旧幕府軍は青天の下にあがった錦旗を遠望し闘う気力を失い敗走を開始したといいいます。

 岩倉公実紀には次のように書いてあります。

 「4日仁和寺宮嘉彰親王をして征討大将軍となし錦旗節刀を授く。参与四條隆語と参与助役五條為栄を錦旗奉行となし薩摩長門安芸三藩の兵をして之に衛従せしむ。午後親王陛辞して出づ東寺に次す。5日、官軍、鳥羽宇治二道より淀城を進撃す。賊軍峻拒し官軍戦闘頗る苦しむ。親王即ち巡視す。諸隊錦旗を望見し鋭気頓に倍す。賊軍支ふる能ずして走る。」

 また『東伏見宮家記』には次のように書かれているそうです。

 「淀堤辺御巡濯のところ、先刻苦戦の官軍、淀川づつみ上に在って、大将軍並びに錦旗を拝し、踊躍喜悦の声、天にひびき地にとどろく。官軍の勝利、未曽聞のところなり」

 錦の御旗の威力は絶大のものがあったようです。

 考案した岩倉具視のこれまでの威力があるとは予想しなかっただろうと書いてある本もあります。


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by wheatbaku | 2017-05-27 11:20 | 『幕末』 | Trackback
錦の御旗の作成は極秘に行われた(鳥羽伏見の戦い④ 『幕末』)

錦の御旗の作成は極秘に行われた(鳥羽伏見の戦い④)

鳥羽伏見の戦いで、戦いの勝敗に決定的ともいえる重要な役割を果たしたのが「錦の御旗」です。

 そこで、今日から2回にわたり、「錦の御旗」について書いてみます。

 錦の御旗は、朝敵を征伐する官軍であることをあらわす旗です。

錦の御旗が最初に使用されたのは、承久3年(1221)に起きた承久の乱の際に、後鳥羽上皇が賜ったのが最初とされています。

次に使用されたのが、鎌倉時代末期で、後醍醐天皇が、鎌倉幕府を討とうとして兵を挙げた時には使用され、南北朝時代には、しばしば使用されたようです。

それ以降、室町時代になると、朝敵追討の際には、必ず将軍から奏請して官軍の大将に錦の御旗を賜ったようで、永享10年(1438)6代将軍足利義教が鎌倉公方足利持氏を討伐した際、康正元年(1455)足利成氏討伐の際などに錦の御旗が押し立てられています。

その後、江戸時代の長い平和の中で、錦の御旗が使用されることはありませんでした。

それが、鳥羽伏見の戦いで、突然、戦場に翻ることになり、新政府軍側の戦意を高め、旧幕府軍側の戦意をくじくことになりました。

この錦の御旗の利用を考え出したのは、岩倉具視です。そして、それを準備したのが大久保利通、品川弥二郎です。

この錦の御旗がどのように製作されたかを「大久保利通日記」や「岩倉公実紀」などを引用しながら書いていきます。

慶応3年10月6日に、洛北岩倉村の謹慎していた岩倉具視を大久保利通と品川弥二郎が訪ねます。

ここで、錦の御旗の制作が二人に岩倉から託されます。

『大久保利通日記』の慶応3年10月6日の条には次のように書かれています。

原文は候文ですので、私なりにわかりやすく書き替えておきました。

品川(弥二郎)を同道して、岩倉具視公の別荘に参上。岩倉具視公と中御門経之公に拝謁し薩摩藩と長州藩の国情を申上げた。その際、秘中の話を伺った。

このなかの「秘中の話」とだけ書いてあることが錦の御旗の事ですが、これでは、何が話されたのか全くわかりません。

しかし、『岩倉公実記』を読むと次のように具体的に書かれています。

なお、原文はカタカナ書きですが、少し読みやすくするため、ひらがなに変えてあります。

(岩倉)具硯また玉松操が作る所の錦旗の図をー蔵(大久保利通)弥二郎(品川弥二郎)に示し之を製作せんことを託す。一蔵、その寓居に帰るに及んで大和錦ならびに紅白の緞子(どんす)若干巻を購買す。弥二郎、之を携帯して長門に還り。諸隊会議所において日月章に錦旗を各2旒、菊花章の紅自旗各10旒を製作す。その半分を山口城に密蔵し、その半分を京師の薩摩藩邸に密蔵す。人敢て之を知る者なし

私なりに現代語訳すると次のようになります。

つまり、岩倉具視は、腹心の玉松操が作成した錦旗の図を大久保利通と品川弥二郎に見せて、これを製作するよう指示しました。大久保利通は、自分の住まいに帰り、大和錦と紅白の緞子(どんす)をいくつか購入しました。品川弥二郎はこれを長州に持ち帰り、諸隊会議所で、日輪と月輪の錦の御旗をそれぞれ2本ずつ、菊花章の紅白の旗を各10本製作しました。そして、半分は山口城に保管し、残りの半分は京都の薩摩藩邸に隠しておきました。このことを知る人はいませんでした。

 大久保利通の住まいは、当時、京都御所の東にある石薬師御門の東に住んでいました。
 現在は、普通の住宅となっていますが、「大久保利通旧邸」と刻まれた旧居を示す石柱が立てられています

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大久保利通に頼まれて、錦の御旗の生地を購入したのは、大久保利通の妾のおゆうさんんです。中公文庫『大久保利通』(佐々木克編)には次のように書かれています。

おゆうさんは一力亭の娘さんでした。よほど注意して買わないといけないというので、おゆうさんはなんだかんだを作るのだと言って買いにゆかれたのだそうです。買った生地は、おゆうさんが品川弥二郎が潜んでいる住まいに持っていったそうです。


 生地を受け取った品川弥二郎は、それを長州に持ち帰り、錦の御旗に作り上げました。




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by wheatbaku | 2017-05-25 09:01 | 『幕末』 | Trackback
淀城(鳥羽伏見の戦い③ 『幕末』)

 淀城(鳥羽伏見の戦い③)

今日は、鳥羽伏見の戦いに関連して淀城のお話します。

鳥羽で敗北し伏見でも敗北した旧幕府軍は、1月5日、本営を淀城に入れて、其処を拠点にして、新政府軍に反撃しようと考えました。


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しかし、旧幕府軍にとって、思いがけないことに、入城を拒否されます。

淀藩の当時の藩主は稲葉正邦で幕府老中でした。(ただし、稲葉正邦は、当時は江戸にいましたが・・。)これには、旧幕府軍も驚いたことだろうと思います。

なぜ、淀藩が入城を拒否したかは後で書くことにして、淀城について書きます。

淀城は、京坂本線淀駅の西南の方向にあります。淀駅から線路沿いに約3分歩くと淀城の表門になります。駅からあっという間です。下は淀駅前にあった案内図を撮影したものですが、右下の緑の部分が淀城です。駅からすぐそばだということがわかると思います。ちなみに右が南、下が西です。

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淀城は、伏見城の廃城に伴い、元和9年(1623)、2代将軍徳川秀忠が、松平定綱に築城を命じ、寛永2年(1625)に完成しました。

淀城は伏見城が廃城とされた後、京都を守護するために築かれました。

淀は桂川・宇治川・木津川が合流する水陸の要所でもあったので、この地が選ばれたのだと思います。

淀城が築かれた場所は、桂川・宇治川と木津川に挟まれた川中島でした。

城内に立てられた説明板の地図をみると、淀城と城下町の様子がわかります。ちょっと見にくい写真で申し訳ありませんが、まさに水に囲まれていた城であることがわかると思います。

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淀城は、川中島に造られた城ですので、周囲は川に囲まれていました。

城の北側を流れる宇治川にかかる橋が淀小橋で北岸の納所と繋がっていました。

城の南側には木津川が流れ、淀大橋が架けられていました。

城の東側に大手門があり、城下町は東側に広がり、城下町を京街道が貫通していました。

淀城は、初代の松平定綱以降、城主は譜代大名が続きました、

そして、享保8年(1723)稲葉正知が城主となり、それ以降、幕末まで稲葉家が続いていました。

稲葉家は、初代が稲葉正成で、正成の奥さんが有名な春日局です。

稲葉家が長いこと淀城主であった縁で、現在も城跡には、稲葉家初代の稲葉正成を祭神とする稲葉神社が鎮座しています。(下写真)

c0187004_22460161.jpg

このような要衝にあり、鳥羽伏見の戦いの際には、現職老中が城主ですので、旧幕府軍が、淀城を拠点にして反撃しようとするのは当然です。

しかし、淀城は旧幕府軍の入場を拒否しました。

実は、1月4日、尾張徳川家の徳川慶勝から「中立を守るように」という意向が伝えられます。また、三条実美からの出頭命令もあったようです。

このように新政府軍からの圧力があり、ついに入城を拒むという決断をしました。

当時、藩主の稲葉正邦は、江戸にいましたので、国許の家老が決断をしたことになります。

 入城を断られて旧幕府軍は、淀小橋や淀大橋を焼いて、新政府軍の進軍を防ぎました。
 淀城の城下町にも火が放されました。その日は西風が強かったたため、城下町は、武家屋敷も町家の多くが焼失しました。
 追撃する新政府軍は、淀小橋が焼け落ちているため、船に分乗して、淀城に押し寄せました。
 淀城側では、すんなり入城を認めたので、薩摩藩側では逆に何か策略があるのではないかと疑ったほどだったそうです。

 下写真は、淀城の西南方向から見た淀城の石垣です。以前に訪ねた時のものです。

c0187004_22530693.jpg

 





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by wheatbaku | 2017-05-19 22:05 | 『幕末』 | Trackback
伏見の戦い(鳥羽伏見の戦い② 『幕末』)

伏見の戦い(鳥羽伏見の戦い②)
 

 今日は、鳥羽伏見の戦いの2回目ですが、伏見での戦いについて書きます。

 淀を本営とした旧幕府軍は、正月3日、鳥羽街道と伏見街道とに分かれて入京しようとしました。

 京坂淀駅を降りて、線路に沿って南に行くと淀城が見えてきます。

線路を背にして西に向かうと納所交差点があります。

この交差点近くに淀小橋跡の石柱があります。(下写真)c0187004_19361999.jpg

江戸時代の淀城は、淀川の中洲に築かれた城です。そのため、淀城には、北側に淀小橋が架けられていました。ちなみに南にある橋が淀大橋でした。

 淀小橋を淀城側から渡り、真っ直ぐ進むと鳥羽街道です。淀小橋を渡って右折し北上すると伏見にいきます。


 旧幕府軍は、会津藩を先鋒として、伏見に向かいました。
c0187004_19404395.jpg


 旧幕府軍の拠点は、伏見奉行所でした。ここには、土方歳三が指揮する新選組も駐屯していました。

 伏見奉行所は、北側には道路を隔てて御香宮があり、南は堀川の水路を経て宇治川に接しています。

正面は西側にあり、北向きに大きな門が、東側に裏門がついていたようです。


c0187004_19440612.jpg

 現在は、京都市営桃陵(とうりょう) 団地となっていて、面影はまったく残っていません。
 団地入り口に石柱が立てられているだけです。
 しかし、西南角の石垣をみると江戸時代の奉行所の名残りかなという印象をもちました。



 旧幕府軍に対して、新政府軍は御香宮を拠点としていました。

御香宮は、平安時代に、この境内から「香」の良い水が湧き出たので、清和天皇よりその奇瑞によって「御香宮」の名を賜ったという歴史をもつ古い神社ですが、伏見奉行所とは、わずかな門前町を挟んで北側にありました。

c0187004_19534746.jpg

 右写真は、御香宮神社の山門です。

新政府軍は薩摩藩兵を主力として、南の伏見奉行所に向けて砲列を並べていました。
こう書いておくと、非常に平面的ですが、実際に現地を訪ねてみると、御香宮のほうが高くなっているのがわかります。

 この高低差は、薩摩藩側からは、駆け降りることになり、大砲を撃ちおろすことになりますから実戦の際に、薩摩藩側に有利に働いたと思います。

 

 旧幕府軍は指揮者は竹中重固(しげかた)です。竹中のご先祖は、かの有名な竹中半兵衛でした。この時、竹中重固は陸軍奉行でした。

 新政府軍は、伏見街道に急増の竹矢来の軍門を敷いて、旧幕府軍の進軍を妨げていました。

 これに対して、旧幕府軍は、嘆願のため京に向かっているので、通してほしいと要求しましたが、新政府軍は、朝廷の許可がないということで、通過されませんでした。

 新政府軍はのらりくらりの対応に業をにやしていた時、鳥羽方面から砲声が聞こえてきました。「鳥羽の一発の砲声」です。

 これをきっかけに、旧幕府軍は、奉行所の門を開いて押し出します。これに対して、薩摩藩の大砲と鉄砲が一気に火を放ちます。

 銃火器で劣る旧幕府軍は、劣勢を強いられます。

 新選組の隊士たちも剣技を発揮できずに押し戻されてしまいます。

 激しい砲撃と銃撃が続くなかで、銃をもたない新選組は、その実力を発揮できませんでした。

 そうした中、土方歳三の決断で、永倉新八に斬りこみを命じます。

永倉新八以下の新選組が、奉行所の塀を乗り越えて、薩摩側に攻撃しますが、銃撃にあい、奉行所内に引き返さざるをえませんでした。

 

 会津藩は、伏見の東本願寺にも陣を構えました。

c0187004_19560906.jpg

 右写真は、現在の東本願寺です。
 こちらに対峙した新政府軍は長州藩でした。
 会津藩軍勢は、佐川官兵衛が率いました。勇猛な佐川官兵衛が会津藩別選隊を率いて突撃しますが、こちらでも長州藩の銃火の前に死傷者を重ねるばかりでした。

 伏見での戦いは午後5時ごろに始まりましたが、夜半になり、薩摩藩の砲撃が、奉行所の弾薬庫に命中し、大爆発を起します。


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 こうして各所から火の手があがった伏見奉行所に新政府軍が突撃し、ついに真夜中には、旧幕府軍は、伏見奉行所を放棄して、淀方面に撤退していきました。
 

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 鳥羽伏見の戦いの際に残されて弾痕が、伏見の有名料亭「魚三楼(うおさぶろう)」の玄関脇の格子に残されています。

 右上写真が、魚三楼(うおさぶろう)」全体の写真で、右写真が弾痕です。
 はっきり残っていてびっくりしました。





 


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by wheatbaku | 2017-05-17 19:30 | 『幕末』 | Trackback
小枝橋(鳥羽伏見の戦い① 『幕末』)

小枝橋(鳥羽伏見の戦い①)

 今日は、鳥羽伏見の戦いについて書きますが、戦いが勃発した小枝橋の戦いを中心に書いていきます。


 慶応3年12月25日に起きた江戸の薩摩藩邸焼討事件の報は、軍艦に乗って上坂してきた大目付滝川具挙によってもたらされました。


c0187004_12043042.jpg
その報告を聞いた大坂城内の旧幕府軍は強硬論が沸騰します。

 ここが、歴史の転換点でした。
 いままで公議政体派が進めていたように軽装で上洛し議定に任命されるのを待つ平和雄路線か、それとも大勢の軍勢をもって上京するかの決断が徳川慶喜は求められました。

 徳川慶喜は、強硬論に押され、ついに、正月元旦、多くの軍勢による上京を触れだします。

 そして、次のような薩摩を弾劾する「討薩の表」が、元旦に準備されました。

 臣慶喜、謹んで去月(慶応3年12月)9日以来の御事体を恐察たてまつり僕えば、一々朝廷の御真意にこれなく、全く松平修理大夫(島津茂久)奸臣ども陰謀より出で候は、天下の共に知るところ、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨及び劫盗侯儀も、全く同家家来の唱道により、東西響応し、皇国を乱り侯所業別紙の通りにて、天人共に憎むところに御座侯あいだ、前文の奸臣どもお引渡し下されたく、万一御採用相成らず候わば、止むを得ず洙戮を加え申すべく候。

 内容は「12月9日の王政復古の大号令以来の薩摩藩の振舞いは、朝廷の真意とは考えられず、島津家の奸臣どもの陰謀だということは天下の知るところである。特に浪人どもを集め江戸で押込み強盗を働くことも島津家の家来が引き起こしたもので、天も人も共に憎むところであるから奸臣の引渡しを要求する。万一朝廷からその御沙汰かなかったらやむ得ず洙戮を加える」というものですで、別紙には具体的な罪状を列挙していました。

 徳川慶喜は「君側の奸を除く」という名目で薩摩藩と戦う意思を表明したのです。

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 そして、2日には1万5千人の旧幕府軍が京をめざして行動を開始します。

老中格の大多喜藩主大河内正質(おおこうちまさただ)を総督とし、淀に本営を置き、そこで宿営しました。

翌3日、旧幕府軍は、淀からの進軍ルートは二つに分れました。

一方は、淀小橋を渡り左折して鳥羽街道を北上しました。率いるのは大目付滝川具挙でした。もう一方は、伏見に向かいました。

鳥羽伏見の戦いは、鳥羽街道の小枝橋で勃発しました。

小枝橋は、鳥羽街道が、鴨川を越えるための橋ですが、現在の小枝橋は、江戸時代の小枝橋より少し北側に移動しています。(右2段目の写真)

江戸時代に小枝橋が架かっていたたもと近くに「鳥羽伏見の戦い 勃発の地」の石碑と説明板が設置されています。(最上段の写真)


c0187004_12044926.jpg

 薩摩藩を主力とする新政府軍は、小枝橋の東側に主力が布陣します。

江戸時代の小枝橋の300mほど東側に城南宮(右写真)がありますが、城南宮の説明板には、城南宮が本営となり、参道に大砲が布陣されたと書いてあります。

鳥羽街道を守護する薩摩藩兵に対して、大目付の滝川具挙が「通せ」と要求しますが、薩摩藩側は「通せない」と拒否し、押し問答が続きました。

薩摩藩側は、「朝廷に問い合わせている」と答えたようですが、もともと通すつもりがありませんので、らちがいきません。


c0187004_12044339.jpg

 しびれをきらした旧幕府軍は、ついに3日夕方には、強行突破する態勢をとりました。

これに対して、薩摩藩は、砲口を開き、旧幕府軍に向け発砲し、ついに戦端が開かれました。

 大目付滝川具挙が乗っていた馬が大砲に驚き、鳥羽街道を淀に向かった走りさっていきました。

 大目付が逃げ去るようではいかがなものなんでしょうね。

 右上写真は、勃発の地の碑がある場所から南の鳥羽街道を写した写真です。

道幅は昔をあまり変わってないのだろうと思います。

 この鳥羽街道を旧幕府軍は、2列縦隊で進んでいました。


c0187004_12045889.jpg

 この軍勢を横から攻撃できるように薩摩藩側は、鳥羽街道脇の田畑の中に竹の茂った岡にも大砲を構えていました。

 勃発の地の碑の近くに「鳥羽離宮跡公園」がありますが、その公園の中の秋の山という小高い岡の上に「鳥羽伏見戦跡碑」の石碑がたっています。(右写真)
 この場所に大砲も敷かれていたのではないかと思われます。




c0187004_12050234.jpg

   真横から大砲を撃ちだされては、旧幕府軍もひとたまりもなかったと思います。

岡の麓にはライオンズクラブの立てた「鳥羽伏見の戦い勃発の地 小枝橋」の碑(右写真)がありました。

 こうして、旧幕府軍は敗北することになりますが、 鳥羽での砲声が鳴り響いたのを聞いた西郷隆盛は「鳥羽一発の砲声は、百万の味方を得たるより嬉しかりけり」と喜んだとと言います。




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by wheatbaku | 2017-05-13 11:53 | 『幕末』 | Trackback
公議政体派の巻き返し(『幕末』)

公議政体派の巻き返し(『幕末』) 


 今日は、王政復古の大号令が発せられた以降の公議政体派の巻き返しについて書いていきます。

 12月9日の王政復古の大号令つまり討幕派の宮中クーデターが成功したからといって、岩倉具視や大久保利通ら討幕派の思惑どおりに進んだわけではありません。

 当然、旧幕府側には、大いなる不満がありました。

 たびたび引用している『京都守護職始末』によれば、「会津藩士や桑名藩士らも旗下(はたもと)連と和同して、おのおの切歯扼腕し、機会を待ち構えている有様であった」と書いています。

 こうした状況を危惧して、12月12日に、徳川慶勝、松平春嶽が二条城にやってきて、速やかに旗下連や会津・桑名勢を大坂城にうつし、禍を未然に防ぐことを勧めたので、徳川慶喜も、これに同意して、大坂城に移りました。

 一方、公卿側ですが、クーデターの中心人物の岩倉具視は、孤立し始めていました。

 そもそも岩倉具視以外の公卿の議定・参与たとえば中山忠能などは、小御所会議の決定に心から納得していたわけではなかったようです。

 また、山内容堂、徳川慶勝、松平春嶽たちは、武力倒幕には断固反対で、徳川慶喜擁護の工作を進めていました。

こうした状況下で、公卿の間でも諸藩の間でも、岩倉や大久保・西郷らの孤立が深まり、岩倉具視も動揺し始め、13日には大久保利通に次の二つの策を示して意見を聞きました。

①土佐と芸州の動向如何にかかわらず、薩長の兵をもって天皇を守り、勅命に従わない  者を討伐し、勝敗を天に任せるか。

②徳川慶勝・松平春嶽のあっせんによって、徳川慶喜がもし辞官・納地を受諾すれば、これを議定に補し、他の公武合体派の公卿・諸侯もまた議定・参与に登用し、既往をとがめず、「氷炭相容レ正邪相合シテ皇国ヲ維持」するか。

 大久保利通は西郷隆盛らと相談し、当分は尾張・越前のあっせんのなりゆきを見て、それが成功しないなら断然第一策にでようと答えたといいます。

 16日には、徳川慶喜は、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ・プロシア・イタリア6か国の公使を引見しました。

これは、外交権が徳川家にあることを承認させることが目的でしたが、その席で各国は徳川家の正統性を承認しました。

 こうした外交面での勝利は、朝廷に対する重要な勝利でした。

 18日になると、山内容堂と松平春嶽は、徳川慶喜に、軽装で上洛し、辞官・納地の願を出すように勧めます。

 これに対して、21日に徳川慶喜は、軽装上洛はよいが、辞官・納地は部下の反対をおさえられないから朝廷から呼ばれたかたちにして欲しいと要望します。

これについて松平春嶽・山内容堂は、徳川慶喜の希望を了承し、23日の三職会議でもそれを認めさせました。

 また、辞官・納地についても、松平春嶽や山内容堂の尽力により、徳川家も他の諸藩と同列に、政府経費を献上することに決定しました。

徳川慶喜は、このことを喜び、老中たちと相談のうえ、上洛することを決定し、28日に朝廷への請け書をだました。

これにより、慶喜が上京参内して辞官の命令を受諾することを正式に回答し、そして、「朝廷経費を石高に応じて全国諸藩に割り当てて欲しい、そうすれば徳川慶喜もよろこんでその割当て額をさしだしたい」と願い出て、朝廷はその願いをいれるとともに、慶喜を議定に任命するということになるはずでした。

そうすれば、朝幕間の全面的な和解が成立し、山内容堂たちが主張する公議政体の名のもとに、天皇を名目的な最高君主とし、その下で慶喜が実権をにぎる体制ができるはずでした。

 しかし、歴史はそうなりませんでした。

 江戸で、薩摩藩邸の焼討事件がおきたのです。

 この報告が28日大坂城に届くと、大阪城内は強硬論で沸騰します。

 それに押されて、ついに徳川慶喜も大軍を京都に送り出すことを了承することになりました。

 これにより、鳥羽伏見の戦いが始まることになります。
 鳥羽伏見の戦いは次回書きます。



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by wheatbaku | 2017-05-10 21:13 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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