カテゴリ:『幕末』( 138 )
謹慎・将軍後見職(徳川慶喜② 江戸検定今年のお題『幕末』)
 今日は、徳川慶喜の2回目です。

 13代将軍家慶の世子家祥(後の家定)は病弱であったため、将軍継嗣問題は、早い段階から話題になっていました。
【家慶も継嗣として期待(?)】  
 当の家慶も、家祥について懸念していたようで、慶喜が一橋家に入ってからは、毎年少なくとも1回は一橋邸を訪ね、鹿狩りなどにも同伴して出かけました。
c0187004_23402436.jpg 嘉永5年(1852)には、「鶴の羽合わせ」に同伴するつもりであったが、阿部正弘から時期尚早といわれ見合わせたといいます。
 その家慶が、嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中、継嗣についての意思を明確に表示しないまま病死したため、第13代将軍家定の継嗣問題が浮上します。

 慶喜を推すのは、実父の斉昭や阿部正弘、越前藩主松平春嶽、薩摩藩主島津斉彬などです。
 一方、紀州藩主徳川慶福を推すのは彦根藩主井伊直弼や家定の生母の本寿院を初めとする大奥の南紀派でした。
 井伊直弼が安政5年(1858年)に大老となると、一橋派は勢いを失い、将軍継嗣は徳川慶福)と決しました。

【意地により極端な謹慎生活】 
 また、同じ時期、井伊直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約を調印します。
 慶喜は斉昭、福井藩主松平慶永らと共に登城し直弼を詰問しますが、翌年の安政6年(1859年)8月に隠居謹慎処分となりました。
 この日は三卿の将軍面会日であり、斉昭や松平慶永と違って不時登城ではないので、当時から不当は処罰という説もあるほど、罪状は不明のままの処分でした。
 このため、慶喜は、一橋邸で謹慎します。慶喜の謹慎中の生活は次のようなものでした。
 慶喜の髪は長髪とするが、近臣はその必要がない。
 将軍に対するご機嫌伺いは無用。 徳川宗家・一橋歴代の霊に対する参詣は無用。
 普請は禁止。表門と裏門は締め切り、裏門の潜り戸をあけて目立たないように出入りする。
 慶喜はこれらの処分に対して、自分には落ち度がないことから「血気盛りの意地」から、極端な謹慎生活を送ることで抵抗したのだと後になって言っています。

 その後、しばらく謹慎する日々がつづきますが、桜田門外の変で大老井伊直弼がなくなったことを受け、万延元年(1860年)9月に謹慎を解除されます。

c0187004_859132.jpg【将軍後見職となる】 
 文久2年(1862)6月、島津久光率いる薩摩藩兵に護衛されて勅使大原重徳が江戸に入り、徳川慶喜と松平春嶽の登用を強く迫った結果、 7月6日慶喜を将軍後見職、7月8日春嶽(左写真  「国立国会図書館蔵」)を政事総裁職に任命しました。
 慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行ないました。
 文久3年(1863年)12月、翌年2月に予定されている将軍家茂の上洛に先立って京都に上り、攘夷を迫る朝廷と厳しい交渉を行うことになります。
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by wheatbaku | 2010-10-19 08:19 | 『幕末』 | Trackback
一橋家の養子(徳川慶喜① 江戸検定今年のお題『幕末』)
 幕末の人物をこれまで何人も書いてきていますが、徳川慶喜は書かないのですかという声をいただきましたので、今日から、数回に分けて 徳川慶喜 について書いていきます。

【小石川藩邸で生まれる】
 徳川慶喜は天保8年(1837)9月29日、江戸小石川の水戸藩上屋敷で9代藩主徳川斉昭の七男として生まれました。母親は、有栖川宮から嫁いだ正室の登美宮吉子です。
c0187004_2115160.jpg  徳川斉昭は、非常に子供が多く、22男14女の子供がいます。
 そして、男の子たちには、長男こそ鶴千代(後の10代藩主慶篤)と名づけましたが、その後は、生まれた順に番号をつけるのごとき名前をつけました。二郎麿、三郎麿、十を超えると余一麿、余二郎麿、そして、二十麿(はたちまろ)、二十一麿(はたちいちまろ)と名づけられました。
 慶喜は、七男なので、七郎麿と名づけられました。
 右写真は、小石川後楽園正門です。

【水戸で厳しく育てられる】 
 水戸徳川家は、水戸で厳しくしつける家風であったことを踏まえた斉昭の教育方針により、慶喜は生後7ヶ月で水戸に移されました。
c0187004_2133403.jpg
 その後、天保11年、斉昭も、藩政改革の陣頭指揮をとるため、水戸に下ってきました。
 このため、慶喜は、4歳から8歳まで、斉昭のもとで、厳しい教育を受けつつ成長していくことになりました。
 天保12年に藩校弘道館が開校すると、弘道館で学びました。
 慶喜は,幼少から英明のうわさが広く流布していたそうです。
 当初は斉昭も他家へ養子には出さず、長男・慶篤の控えとして手許に残そうと考えていました。
 上の写真は、水戸弘道館です。

【一橋家の養子となる】 
 しかし、老中の阿部正弘から一橋家の養子の話が持ち込まれます。
 この話は、将軍家慶の意思として水戸家に内々に伝えられましたが、実は、斉昭の歓心を買おうとした阿部正弘の考えによるとの説もあります。
 そして、当時11歳の慶喜は、8月15日に水戸を出発し、18日に駒込の屋敷に入り、9月1日に一橋家相続の命を伝えられます。
 12月1日に江戸城に登城し、将軍家慶と世子家祥(のちの家定)に謁見し、家慶の「慶」をもらい「慶喜」と名のることとし、刑部卿に叙任されました。
 
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by wheatbaku | 2010-10-17 23:29 | 『幕末』 | Trackback
シーボルト胸像 (築地の幕末史跡)
  聖路加国際病院の近くのあかつき公園の東の広場脇にシーボルトの胸像がありました。そこで、今日はシーボルトについて書いていきます。
 
 シーボルト自身は築地に住んだことはありません。しかし、娘いねが築地に産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が設けられていたことから、ここに彼の胸像を建てた(説明板の解説から)そうです。
 あかつき公園は、東京メトロ日比谷線「築地」駅4蕃出口より徒歩6分です。
 
【シーボルトはドイツの名門出身】 
 シーボルトは、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトといい、1796年、 南ドイツのバイエルン州の名門医者の子として生まれました。
c0187004_1533067.jpg  成長した彼はオランダ領東インド陸軍の外科少佐に任命され、さらには、日本の長崎出島にあるオランダ商館の医師に任命されました。
 シーボルトは、文政6年7月6日(1823年8月11日)、長崎に着きました。
 その後、シーボルトは、出島の外で活動することを長崎奉行所から許され、文政7年(1824年)、長崎郊外の鳴滝にあった民家を手に入れ、シーボルトは、日本の調査・研究を進めるとともに、日本人に医学の講義を行ないました。これが有名な鳴滝塾です。

 やがて、日本人女性の滝と結ばれ、文政10年(1827年)には娘いねが生まれました。

【シーボルト事件で追放】 
 シーボルトは、5年の任期を終えて文政11年(1828年)に帰国することとなりました。
 同年8月彼が乗船することになっていた船が、長崎を襲った暴風雨により、長崎港内の稲佐の海岸に乗り上げてしまいました。
 そして、その積荷の中から、日本地図など禁制の物が見つかり、シーボルトは、文政12年9月(1829年10月)、国外追放を申し渡された。
 また、日本地図を送った高橋景保は処罰を受けました。これがいわゆる「シーボルト事件」です。
 オランダに帰り着いたシーボルトは、日本から持ち帰った数多くの資料を整理して、日本に関する論文をつぎつぎに発表しました。
 また、博物館を開設して集めた資料を公開しました。
【幕末に再来日】 
 時が30年程たち、シーボルトは、オランダ商館長ドンケル・クルチウスの願い出により国外追放を解かれました。
c0187004_154850.jpg シーボルトは、安政6年(1859年)、オランダの貿易会社の顧問の肩書きで、長男アレクサンダーを連れて、来日しました。
 このとき、シーボルトは63歳でした。
 長崎に着いたシーボルトは、滝やいね、そしてかつての門弟たちと再会を果たしました。
 そして、シーボルトは、文久元年(1861年)、幕府に呼ばれて江戸へ行き幕府の顧問となりました。
 この時滞在したのが、以前幕末の公使館シリーズで紹介した 「赤羽接遇所」 です。
 江戸では、自然科学の講義をしたり、幕府に外交上の進言をしたりしましたが、4ヵ月で職を解かれ、シーボルトは、在日イギリス公使館の通訳となった長男を残し、文久2年(1862年)に日本を離れました。
 わずか2年7ヵ月ほどの日本滞在でした。
 シーボルトは、ドイツに帰り、帰国の4年後、明治維新直前の慶応2年(1866)にミュンヘンで亡くなりました。 69歳でした。















 
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by wheatbaku | 2010-10-06 06:02 | 『幕末』 | Trackback
「慶応義塾発祥の地碑」② (築地の幕末史跡)
 昨日に続いて福沢諭吉について書いていきます。遣米使節の旅から帰国してから明治維新の頃までについて書いていきます。

【『桜田門外の変』を言い当てる】 
 大沢たかお主演の「桜田門外の変」が、16日から公開されるので、今「桜田門外の変」が話題になっていて、それのゆかりの地をめぐるツアーも開催されています。
 その「桜門外の変」の起きたことを福沢諭吉はアメリカから帰国早々言い当てています。

c0187004_15413877.jpg それについて、「福翁自伝」で諭吉は次のように書いています。
 諭吉は、日本への帰国早々、浦賀の海岸で出迎えに来た木村摂津守の家来の島安太郎に、「時に何か日本に変わったことはないか」と尋ねたところが、島安太郎が顔色を変えて、「イヤあったともあったとも大変なことが日本にあった」というその時、福澤は「ちょっと島さん待ってくれ言うてくれるな、私があてて見せよう、大変といえば何でもこれは水戸の浪人が掃部様(大老井伊直弼)の屋敷に暴れこんだというようなことではないか」というと、島はさらに驚き、「どうしてお前さんはそんなことを知っている。どこで誰に聞いた」「聞いたって聞かなくたってわかるじゃないか、私はマア雲気を考えてみるにそんなことではないかと思う」「イヤこれはどうも驚いた。屋敷にあばれこんだどこではない、こうこういう訳だ」といって桜田騒動の話をした。」
 時に福沢諭吉25歳ですよ。へぇ、福沢諭吉はするどい人だっただと改めて感じました。
 右写真は「国立国会図書館所蔵」です。

【勝海舟とは仲がよくない】 
 ところで、咸臨丸の艦長は勝海舟でした。福澤諭吉と勝海舟は渡航中からあまり仲が良くなかったようです。晩年までぎこちない関係が続いています。これは、木村摂津守と勝海舟が、必ずしも仲がよくなかったことが影響しているのかもしれません。
 
【再び海外へ渡航】 
 その後、諭吉は文久2年(1862)には幕府の竹内下野守を正使とする文久遣欧使節の翻訳方としてこれに同行してヨーロッパ6カ国を歴訪しました。
 文久2年1月1日(1862年1月30日)に出発し、香港、シンガポール、インド洋、紅海、スエズの地峡を汽車で越えカイロに至り、地中海を渡りマルセイユに上陸し、フランス、イギリス、オランダ、ドイツ、ロシア、スぺイン、ポルトガルを歴訪し12月11日帰国しました

 そして、元治元年(1864)に木村摂津守の推薦で中津藩に籍を置いたまま幕府外国方に出仕することになりました。幕臣となったのです。

【新銭座の慶応義塾の跡】 
 その後、芝の新銭座に屋敷を買い、鉄砲洲の蘭学塾を移転します。
c0187004_1782486.jpg 新銭座の屋敷は、元は、久留米藩有馬家中屋敷で、その屋敷を355両で買い取りました。
 買った日は、慶應3年(1867)12月25日で、ちょうど庄内藩が薩摩藩上屋敷を焼き討ちした当日でした。
 翌慶應4年3月に塾は鉄砲洲中屋敷からこの新銭座に引っ越し、4月に慶應義塾と命名された。
 福翁自伝』によれば、「鉄砲洲の塾を芝新銭座に移したのは明治元年すなわち慶応4年であった、明治改元前しゆえ、塾の名を年号に取って慶応義塾と名づけた」のです。
 上野戦争のさなかに彼が経済学の講義をしていたエピソードは有名ですが、これも「福翁自伝」では
 「上野と新銭座は2里も離れており鉄砲のとんでくる気遣いはないというので、丁度あの時、私は英語で経済学の講義をしていました」というふうに書かれています。
 慶應義塾は、明治4年(1871)3月の三田島原藩中屋敷への移転まで新銭座にありました。
 新銭座の土地を攻玉社の塾長・近藤真琴に譲り、跡地は攻玉社が取得し、現在は「港区立エコプラザ」になっています。
 そのため、 エコプラザの東側玄関前に「「福沢・近藤両翁学塾跡」の碑(上の写真)が建っています。
 「福沢・近藤両翁」となっていて福沢諭吉だけでないのは、慶応義塾の後に、近藤真琴の攻玉社が開設されたからです。
 「港区立エコプラザ」はJR浜松町駅北口から3分程度です。


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by wheatbaku | 2010-10-05 06:08 | 『幕末』 | Trackback
「慶應義塾発祥の地記念碑」 (築地の幕末史跡)
 今日は 「慶應義塾発祥の地記念碑」 について書いていきます。

【慶応義塾も築地が発祥の地】 
 「蘭学事始の地」碑のすぐそばに「慶應義塾発祥の地記念碑」があります。
c0187004_166091.jpg  慶應義塾の創設者は、ご存知福沢諭吉です。福沢諭吉も、豊前中津藩の出身で、慶応義塾も、前野良沢たちが翻訳に取り組んだ豊前中津藩奥平家中屋敷内に開設されたのでした。
 ですから、同じ場所に隣あって、二つの碑があるのです。
 「慶應義塾発祥の地記念碑」は、中津藩中屋敷跡にある聖路加国際病院の近くの交差点内の小広場に、昭和33年(1958)4月23日、義塾創立百年記念事業の一つとして建てられました。

 福沢諭吉は、中津藩福沢百助の次男として大阪に生まれました。
 その後中津に戻りそこで育ち、数え年21歳の年、長崎に遊学し1年間オランダ語を学んだのち、大阪にでて、緒方洪庵の適塾に入塾しました。そして、24歳で塾頭となりました。
 その塾頭をしている安政5年(1858)10月25歳の時に、諭吉に江戸藩邸から江戸にでてくるように手紙が届きます。

【『福翁自伝』による出府の経緯】 
 その経緯は、『福翁自伝』に書かれています。
c0187004_1614329.jpg  「同年江戸の奥平の屋敷から、ご用があるから来いといって、私を呼びに来た。それは江戸の屋敷に岡見彦曹(ひこぞう)という蘭学好きの人があって、この人はりっぱな身分のある上士族で、どうかして江戸の藩邸に蘭学の塾を開きたいというので、さまざまに周旋して、書生を集めて原書を読む世話をしていた。ところで奥平家が私をその教師に使うので、その前、松木弘安(まつきこうあん、のちの寺島宗則)、杉亨二(すぎこうじ、勝海舟塾頭)というような学者を雇うていたようなわけで、私が大阪にいるということがわかったものだから、他国の者を雇うことはない、藩中にある福沢を呼べということになって、ソレでわたしを呼びに来たのです」
 福沢諭吉はこれに応じて出府し、安政5年(1858)の秋上記の場所で蘭学の教授をはじめるようになったのでした。
 これが後の慶応義塾となります。

 江戸に出てくるそうそう、諭吉は一大ショックを受けます。それは、ある日横浜の見物に出かけた時、今まで学んできたオランダ語が全く通じず看板の文字すら読めず、そこでは専ら英語が用いられていたのです。
 それ以降、諭吉は英語の勉強を始めました。

 また、安政7年(1860)には、遣米使節に随行していった咸臨丸に乗ってアメリカに行く機会を得ます。
諭吉は、軍艦奉行木村摂津守の従者としてアメリカに渡りました。
 それは、諭吉は軍艦操練の経験もなく、通訳としての能力もないため、軍艦奉行木村摂津守の従者としてしか同行することができなっかったためです。
 諭吉はこの渡米により大いに見聞を広めて帰国します。
 帰国以後のことは、明日に書くことにします。

 「慶應義塾発祥の地記念碑」 は下の地図の赤い印の場所にあります。

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by wheatbaku | 2010-10-04 06:05 | 『幕末』 | Trackback
「蘭学事始の地」碑 (築地の幕末史跡)
 築地の史跡ですが、今日は聖路加国際病院にある  「蘭学事始の地」  について書いてみます。

【聖路加国際病院は中津藩中屋敷跡】 
 東京メトロの築地駅4番出口から徒歩5分の所に、聖路加国際病院(下の写真)があります。
c0187004_15132361.jpg ここには、江戸後期には、豊前中津藩奥平家の中屋敷がありました。前野良沢は中津藩の藩医でした。
 ここで、オランダの解剖書「ターヘル・アナトミヤ」の翻訳が、前野良沢、杉田玄白を中心に行われました。この翻訳書が、有名な「解体新書」です。
 この時期の中津藩藩主は、奥平昌鹿(まさか)で、良沢を保護し蘭学を奨励しました。良沢の別号「蘭化」は、昌鹿が良沢を「蘭学の化け物」と呼んだことに由来していると言われています。

 前野良沢は筑前藩士の子として江戸牛込矢来(うしごめやらい)に生まれましたが、幼い時、父を亡くし母に去られ孤児となり、淀(よど)藩医で伯父の宮田全沢に育てられました。
良沢はやがて中津藩医の前野東元の養子となり、吉益東洞(よしますとうどう)流医学を修めました。
 69年(明和6)には、青木昆陽にオランダ語の指導を受け、翌年長崎へ赴きオランダ通詞ついてオランダ語学び、江戸に帰りました。

【蘭学事始の地】 
 明和8年(1771)3月4日、千住小塚原での死刑囚の腑分(ふわ)けを杉田玄白・中川淳庵(じゅんあん)らと見学し、ヨーロッパの解剖書の図の正確さを認め翻訳を決意します。
c0187004_15161249.jpg そして、翌日から築地の中津藩邸内の前野良沢の役宅で開始します。
 年齢が高く、オランダ語の知識が豊富な良沢が中心となって翻訳を進めました。
 杉田玄白は、オランダ語はほとんどわからなかったといいます。
 大いに苦労した後に、安永3年(1774)8月『解体新書』5巻を公刊しました。
 この間の苦労は、杉田玄白の「蘭学事始」に詳しく書かれています。
 「解体新書」公刊にあたって、翻訳が満足のいくものでなかったためか、前野良沢は自分の名を出すことを拒否しました。
 その後、良沢は、よりよい翻訳をするよう、弟子の大槻玄沢に託し、大槻玄沢は、後に、訳し直し、『重訂解体新書』を文政9年(1826)に刊行しています。

 聖路加国際病院前の「聖路加病院前」交差点の中の小広場に「蘭学事始の地」の碑(上の写真、下の赤印)が設置されています。

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by wheatbaku | 2010-10-01 06:13 | 『幕末』 | Trackback
軍艦操練所 (築地の幕末史跡)
 先日のJTBのツアーで築地にある幕末関連史跡を車窓からご案内をしましたので、ブログでも、築地の幕末史跡をご紹介していきます。
 今日は、軍艦操練所についてご紹介します。

c0187004_1426973.jpg【築地中央卸売市場駐車場】 
 軍艦操練所跡の説明板が、築地6丁目交差点の信号のそばに設置されています。
 東京メトロ日比谷線の「築地」駅1番出口から徒歩5分のところで、築地中央卸売市場の勝鬨門駐車場の前になります。
 ☆右写真の通り、勝鬨門駐車場は大きなビルです。

【長崎海軍伝習所卒業生が指導者となる】 
 軍艦操練所は、安政4年(1857)、講武所内に軍艦教授所として開設されました。
 それ以前、黒船来航後に海軍の強化に乗り出した江戸幕府は、最初の本格的な海軍教育機関として、安政2年(1855)に長崎に海軍伝習所を設置しました。
 そして、安政4(1857)年、長崎海軍伝習所の第一期の伝習が終わると、永井尚志(ながい なおゆき)以下の長崎海軍伝習所の第一期伝習生と軍艦「観光丸」を江戸に移動し、軍艦教授所が開設したのでした。
 この時、勝海舟だけが、長崎海軍伝習所に残され、第二期の伝習生の指導にあたりました。

c0187004_14244692.jpg【勝海舟が教授方頭取】 
 その後、軍艦教授所から軍艦操練所に名前が改称されました。
 当初は幕臣だけに限定されていましたが、その後、諸藩からの学生も受け入れるようになりました。
 軍艦操練所の教授陣は長崎海軍伝習所の卒業生が中心でした。
 長崎から帰った勝海舟も教授方頭取となって指導しました。また、ジョン万次郎も軍艦操練所の教授を務めた時期があります。

 安政7年(1860)にわが国初の太平洋横断を実行した咸臨丸の乗組員も、この軍艦操練所からボートにのり、品川沖に停泊していた咸臨丸に乗り込んだそうでうす。

 軍艦操練所は、その後2度、付近で発生した火災に類焼して、施設の大半を失い、慶応3年(1867)に築地から浜御殿へと移転しました。
 その後、跡地には築地ホテルが建設されました。

 説明板は上の写真を参照してください。説明板の前面の道路は晴海通りです。
 

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by wheatbaku | 2010-09-30 06:06 | 『幕末』 | Trackback
済海寺 (幕末の公使館 江戸検定今年のお題「幕末」)
 「幕末の公使館」シリーズももう8回となりました。
 今日はフランスの最初の公使館となった済海寺(さいかいじ)について書いていきます。

c0187004_2123152.jpg【ロッシュがここを拠点として活動】 
 済海寺は、JR田町駅から徒歩11分の聖坂を登った東側にあります。
 本堂・庫裡は平成9年に改築され、近代的な建物となっています。江戸三十三観音札所でもあります。
済海寺は、浄土宗の寺院で本尊は阿弥陀如来です。
 安政5年(1858)9月に日仏修好通商条約が締結され、安政6年(1859)8月に初代フランス駐日総領事ド・ベルクールが江戸に到着し、領事館が済海寺に設置されることになりました。
 文久元年(1861)には公使館となって明治3年4月に公使館が引き払われるまで、書院、庫裡が宿館として使用されました。
 文久3年に着任した公使ロッシュがここを拠点にして活発に幕府支援の外交を展開しました。


【牧野家、久松松平家の菩提寺】 
c0187004_2115460.jpg  元和7年(1621)念無上人を開山として創建されました。開基は越後長岡藩2代目藩主牧野忠成で、以降牧野家の菩提寺となりまりました。
  寛文2年(1662年)伊予松山藩第2代藩主松平定頼が江戸藩邸三田中屋敷で落馬しなくなりました。遺骸は済海寺で荼毘に付され、遺骨は松山古町大林寺、分骨が高野山に葬られました。これ以降、松山藩松平家(久松家15万石)の菩提寺ともなりました。
 なお、ご住職の奥さまのお話では、開基牧野家の墓所は、昭和58年の墓地改修工事に伴って、長岡に移転したそうです。

【亀塚】   
 聖坂を上がって済海寺に隣接する亀塚公園に古くから古墳として知られる亀塚があります。
c0187004_212582.jpg  港区教育委員会等の学術調査が行われ、古墳時代以降に築造されたものとわかったそうですが、内部の構造が確認できていないため、古墳であるとは断定できていません。しかし、その可能性は高いと言われています。
 
 また、ここは平安時代中期に書かれた「更級日記」の竹芝寺伝説の地とも伝えられています。
 江戸時代にこの地を下屋敷としていた上野沼田藩第2代藩主・土岐頼煕(よりおき)が、寛延3年(1750年)に建てた「亀山碑」(上の写真)が亀塚の頂上にあります。
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by wheatbaku | 2010-08-27 08:02 | 『幕末』 | Trackback
高輪接遇所(幕末の公使館⑦ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 
 幕末の公使館の7回目で、今日は、イギリスの公使館となった 「高輪接遇所」を案内します。

 高輪接遇所は、泉岳寺の門前にありました。現在は、泉岳寺前児童遊園となっています。
 有名な泉岳寺は多くの人が御存知だと思いますが、その門前に幕末から明治にかけてイギリス公使館があったと知っている人はほとんどいないのではないのでしょうか。

【英国公使館は東禅寺・御殿山と襲撃が続く】 
c0187004_14421569.jpg イギリスの最初の公使館は、以前書いたように東禅寺でした。
 しかし、東禅寺は、第一次東禅寺事件、第二次東禅寺事件と連続して、攘夷派に襲撃されました。そこで、イギリス公使館は危険をさけるため一旦横浜に退去します。
 さらに、御殿山に建設中であった公使館も文久2年(1863)12月12日に、高杉晋作、久坂玄随、伊藤博文、井上聞多などにより襲撃され炎上してしまいます。
 
 右上の写真が、高輪接遇所のあった現在の「泉岳寺前児童遊園」です。

【泉岳寺を希望】 
 そこで、慶応元年(1865)2月イギリスの代理公使ウィンチェスターは高輪泉岳寺を公使館とするよう幕府に要求しました。
c0187004_14424517.jpg そして、慶応元年(1865)閏5月に着任した公使パークスは、泉岳寺中門前の敷地に公使館を建設するよう要求しました。
 この要求に応じて幕府は泉岳寺門前に高輪接遇所を建設し、イギリス大使館としました。
 攘夷派の襲撃をさけるために、イギリス公使館とよばず「高輪接遇所」と呼んだようです。
 敷地は2659坪で、ここに平屋建て2棟の公使館が建築され、1棟がパークス用、もう1棟が公使館員用にあてられました。
 また、泉岳寺には外国人を警護する別手組の屯所が設けられました。.
 
【パークスは江戸城無血開城の裏の立役者】 
 パークスは、オールコックの後を受けて、慶応元年(1865)に駐日公使となりました。
 幕末から明治にかけて、幕府や明治新政府に大きな影響をあたえました。特筆されることは、江戸城総攻撃の際、東征軍の東海道鎮撫総督参謀木梨精一郎を通じて西郷隆盛に圧力をかけ、江戸城無血開城の道を開いたことです。
 なお、イギリスは横浜にも慶応3年(1867)に公使館を建設しており、江戸と横浜の両方に公使館がありました。 パークスと木梨精一郎との会談は慶応4年3月13日に横浜で行われています。
 パークスは、明治16年まで日本に駐在しました。
 
【江戸の名所となる】 
c0187004_14431296.jpg 泉岳寺は赤穂義士の墓がある寺として、江戸時代から名所となっていましたが、明治以後は門前のイギリス公使館も新たな名所となり、錦絵にも描かれています。
 イギリス公使館としての役割を終えた後は、新政府の外国人接遇所として外国使節との交渉などに使用されました。
 
【岡本綺堂にも関係あり】 
 岡本綺堂といえば「半七捕物帳」で有名ですが、この岡本綺堂の父親岡本敬之助は明治2年から高輪のイギリス公使館に雇われました。
 そして綺堂は、明治5年に泉岳寺近くの高輪北町で生まれました。
 
 右写真は泉岳寺にある大石内蔵助の銅像です。高輪接遇所の目の前ですので撮ってきました。
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by wheatbaku | 2010-08-26 06:39 | 『幕末』 | Trackback
西応寺と長応寺 (幕末の公使館⑥ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 一級2期会の8月例会の報告のため中断していた「幕末の公使館」を再開します。
 今日は、オランダ公使館となった 「西応寺」と「長応寺」 です。

【最初のオランダ公使館となった西応寺】
c0187004_16444030.jpg 西応寺は、JR田町駅から歩いて13分ほどの住宅地の中にあります。
 「西応寺」に行くのには、少し苦労しました。
 田町駅前から、日比谷通りを行き、中央三井信託銀行本店横の交差点を右折するところまでは簡単です。
 そこから、道を東に向かいます。そして250メートルほど行ったら北に向かいます。そしてその道を100メートルほどいき、西側の住宅街のなか路地の先に西応寺があります。
 現在は、西応寺が経営する幼稚園になっておいて、少しみたところでは、お寺にみえません。
 境内が幼稚園の園庭を兼ねているため、通常は門が閉められています。
 最初のオランダ公使宿館跡の石碑も園庭内に建てられています。

【日英修好通商条約を締結・西応寺】
 この西応寺は、最初のオランダ公使館であるとともに、イギリス使節の最初の宿舎となりイギリスと日英修好通商条約を締結した場所でもあります。
c0187004_1645092.jpg  安政5(1578)年7月8日、イギリス使節エルギン卿一行は江戸に上陸し、西応寺に滞在して幕府との交渉に当たりました。
日米修好通商条約をモデルとしたため交渉は順調にすすみ、同年7月18日には締結されています。
 その後、西応寺は最初のオランダ公使宿館となりました。
 安政6年9月1日に公使宿館が設置され、初代公使クルチウスらが駐在しました。
 当時の建物は慶応3(1867)年12月25日に起きた幕府側の庄内藩による薩摩藩邸焼き討ち事件の際に類焼しました。その後再建されましたが、太平洋戦争で焼失しました。
 現在の本堂は、瀟洒な造りになっています。

【次の公使館となった長応寺】
c0187004_16453241.jpg  慶應3年(1867)12月の薩摩屋敷焼き打ち事件のときに西応寺が全焼したため、伊皿子の長応寺が公使館となりました。
 現在、長応寺はなくなっていて、秀和高輪レジデンスというマンションにかわっていて、当時の面影はまったくありません。
長応寺は伊皿子坂に面した高台にあって参道には石段があったようです。現在もマンションは高台にあり、そこにいく道路が坂になっていて地形は大きな変化はないようです。
 写真は、マンションの敷地入り口からマンションを撮ったものです。
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by wheatbaku | 2010-08-25 06:23 | 『幕末』 | Trackback
  

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