カテゴリ:『幕末』( 170 )
第3回「幕末・維新 これは覚えてね!」模試正解

第3回「幕末・維新 これは覚えてね!」模試正解


 今日は、第3回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験の正解をアップします。

 今回10問だと思っていましたら、第5問が重複しているとメールでご指摘をうけました。どれかカットしようとも思いましたが、カットすべき問題もなかったので、11問のままにしておきました。

1、①天狗党 

 天狗党の乱は、水戸藩の尊王攘夷派のうちの劇派(急進派)が起こした事件です。

天狗党という名前は天保の頃から水戸藩改革派の武士が天狗とよばれたことに由来します。

文久4年3月に藤田東湖の子藤田小四郎らが筑波山に挙兵しました。これに農民ら約1000人が加わり、下野、下総、常陸各地で戦闘が行われました。水戸藩や幕府の追討を受けた天狗党は武田耕雲斎をリーダーとして中山道を西上しましたが、ついには、加賀藩に降伏し、翌年、多くの人が斬罪となりました。

参照:『オールカラーでわかりやすい幕末・明治維新』P105、
    『カラー版徹底図解 幕末・維新』P84

 

2、②近藤は斬り込んだが土方は現場にいなかった

尊王攘夷派が京都を焼き討ちするという情報をつかんだ新選組は、不逞浪士の探索を始めようとするものの、浪士たちがどこにいるかはわかりませんでした。

そこで、祇園会所に集まった新撰組は、祇園周辺をしらみつぶしで探していくことにし、近藤勇をリーダーとする組と土方歳三をリーダーとする組に分け、近藤組は鴨川の西側を探索しながら北上し、土方歳三の組は鴨川の東側を探索していきました。

池田屋に尊攘派志士が集合しているのを探知したのは近藤組でした。近藤勇は、土方歳三の組を待つ選択肢もありましたが、集合している志士たちがいなくなるのをおそれ、近藤は土方をまたずに単独で池田屋に斬りこみました。

参照:『オールカラーでわかりやすい幕末・明治維新』P106、
   『カラー版徹底図解 幕末・維新』P86

3、④池田屋に行ったが早すぎたので対馬藩邸に行った。

桂小五郎は、『逃げの小五郎』と呼ばれていました。その代表例として語られるのが、池田屋事件で難を逃れたことです。

 池田屋事件では、桂小五郎は、池田屋に行ったものの早すぎたので近くの対馬藩邸にいったので難を逃れたと言われていますが、これは桂小五郎の回想録『桂小五郎京都変動ノ際動静』に書かれているようです。

 翻刻されているものがないか探しましたが、翻刻されたものはなさそうですので、『カラー版徹底図解 幕末・維新』P86でご確認ください。

 なお、中公新書『幕末史』(佐々木克著)P149に、木戸は屋根伝いに逃げて難を逃れたと書いてありますが、これは当時の長州藩京都留守居役乃美織江の藩への報告書に基づいた説だと思われます。

4、②宮部鼎三(ていぞう)

宮部鼎三は、山鹿流兵法を学んだ肥後藩兵法師範で、江戸で吉田松陰と知り合い松陰の東北周遊にも同行しました。肥後勤王党の中心人物で、京都で活動し、八月十八日の政変で長州へ退去した後、京都に潜入して活動する中で、池田屋事件に遭遇しました。

選択肢①吉田稔麿(としまろ)は松下村塾の塾生で松門四天王の一人です。    

③望月亀弥太は土佐藩脱藩浪士、④北添佶磨(きつま)は土佐出身者、二人とも坂本龍馬の仲間です。

参照:『カラー版徹底図解 幕末・維新』P86

5、④高杉晋作は慎重論で久坂玄瑞が進発論 

 禁門の変の経緯について今週のブログに書き、本件についても触れましたので、ブログを読まれた方は、正解がお分かりだと思います。

久坂玄瑞は、上京すべきだという進発論でしたが、高杉晋作は、一貫して慎重論でした。

参照:中公文庫『開国と攘夷』(小西四郎著)P363、
    中公新書『幕末の長州』(田中彰著)P120


5、③天龍寺

これもブログに書きましたので正解はお分かりだと思います。

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 ブログには書きませんでしたが、天龍寺には多くの塔頭があり、その中の一つ弘源寺には、禁門の変の際に駐在した長州藩士が傷つけた刀傷があちこちの柱に残されているそうです。

3月に訪ねた時には、残念ながら非公開でしたので、山門だけ写真に撮ってきました。(右上写真)
参照:『オールカラーでわかりやすい幕末・明治維新』P112、
  『カラー版徹底図解 幕末・維新』P113



6②鷹司家 

これもブログに書いた通りです。

堺町御門から乱入しようとした久坂玄瑞は、越前兵に阻まれ、右に折れて、鷹司邸の裏門から屋敷に入り、参内しようとする前関白鷹司輔煕に嘆願の儀があるので参内のお供にとお願いしたが叶わず、敵との砲撃が始まる中で、銃撃で左膝を負傷し、鷹司邸で自刃をした様子が『花冠の志士』(古川薫著)にビビットに描かれています。

 参照:『オールカラーでわかりやすい幕末・明治維新』P112

7、④西郷隆盛

 これはもう基礎知識中の基礎知識です。西郷隆盛は、沖永良部島への流罪を許されて鹿児島に戻るとすぐに上京し薩摩藩の京都派遣軍司令官ともいうべき軍賦役を命じられ、禁門の変では、薩摩藩兵を指揮し、長州藩追討に大きな働きをしました。その働きを認められて参謀に任命されたものだと思われます。

参照:『カラー版徹底図解 幕末・維新』P98

8、①英米仏蘭 

四か国連合艦隊の下関砲撃は基礎的な知識でもあり、重要事項でもあります。

 しかし、四か国とはどこかと問われると答えられなく困ることがありませんか。

 そういうこともありはしないかと考えて出題しました。

 答えられなかった方は、これは基礎知識ですので、しっかり覚えておいてください。ロシアが含まれていないということがポイントです。

参照:『カラー版徹底図解 幕末・維新』P96 

9、③魔王のようだ

 直接の典拠とした『カラー版徹底図解 幕末・維新』P96に、問題文と同様に書いてあります。さらに、講談社文庫『高杉晋作』(池波彰一郎著)や人物文庫『高杉晋作』(三好徹著)を見ると『魔王のように傲然としていた』と書いてありますので、選択肢は「魔王のようだ」としました。

 しかし、岩波文庫『一外交官が見た明治維新』では、「使者は艦上に足を踏み入れた時には悪魔のように傲然としていた」と書いてあり、微妙にニュアンスが違っていることを付記しておきます。

10、①功山寺

長州藩は、一貫して討幕派であったような印象を持っている人もいると思いますが、長州藩の藩論が一貫して倒幕論であったわけではありません。

 特に、第一次長州征伐と四か国連合艦隊の攻撃を受けた時には、藩政は俗に「俗論派」と呼ばれる幕府に恭順を示す人たちが主導権を握っていました。

 これに対して、高杉晋作は、俗論派から藩政を奪還するため、約50人の少数で決起しました。これが「功山寺挙兵」と呼ばれます。

当時、功山寺には長州に下っていた五卿が潜居していました。

現在の功山寺境内には馬上姿の晋作の銅像があるそうです。

選択肢②了円寺は、功山寺で決起した高杉晋作たちが、新地会所襲撃後にたてこもった寺です。③桜山神社は、高杉晋作の発議により創建された殉国の志士の神霊を祀る招魂場です。④東行庵には、高杉晋作の墓があります。

参照:『オールカラーでわかりやすい幕末・明治維新』P119、
    『カラー版徹底図解 幕末・維新』P98


以 上








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by wheatbaku | 2017-04-28 22:40 | 『幕末』 | Trackback
禁門の変②(『幕末』)

 今日は、禁門の変の2回目です。

 

 伏見、山崎、天龍寺に陣を敷いた長州藩兵は、京都を南から西にかけて包囲する態勢をしきました。

 これに対して、反長州の陣営では、会津藩兵が約1500名、一橋慶喜配下の兵が約800名、薩摩藩が約500名で、その他の藩は当初は様子見でした。

京都守護職松平容保は、一貫して、長州討つべしという強硬論でしたが、薩摩藩は、当初、会津藩と長州藩の私闘だとして、禁裏守衛総督の一橋慶喜からの要請を拒否していました。現実的は軍勢を保有していませんでしたので、要請を受けようもなかったという理由もあったかもしれません。しかし、小松帯刀と西郷隆盛は、情勢の展開では朝廷は討伐を命じるかもしれないと考え、急遽、国許へ藩兵を送るよう要請しました。

一橋慶喜は、諸藩の態度がはっきりしないことから、明確な討伐方針を出しかねていました。

7月16日に小松帯刀・西郷隆盛が要請していた薩摩藩兵450名が京都に到着しました。

 また、有力諸藩が会合し、長州征討の方向で、一橋慶喜や朝廷に働きかけました。

これにより、7月17日、朝議は、長州勢の退去と、もしその勧告に従わなければ追討すると決定されます。しかし、長州藩はこの朝議に従おうとしませんでした。

 以上は『幕末政治と薩摩藩』(佐々木克著)を基に書きましたが、禁門の変当日の7月18日の動きについては『京都の歴史』(京都市編)が詳しいので、以下は、それに基づいて書いていきます。

幕府側では、開戦体制を整え、主力部隊は伏見方面に大垣・彦根藩兵を配置し、山崎・八幡方面には、宮津・津藩兵など起用して戦線をつくり、天竜寺方面の配備には薩摩・膳所・福井・小田原の各藩をつかせ、山崎・天竜寺間の間隙部分には小浜藩兵を置いて、扇形陣をしいたのである。

肝心の御所には中立売門に筑前藩、蛤御門に会津藩、台所門前に桑名藩、堺町御門に福井藩、乾門に薩摩藩という強兵を配置しました。

この洛中洛外に配備した諸藩兵の総数は、正確な数は不明のようですが、6万とも7万ともいわれます。

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 これに対して長州側の兵力は2千ともいわれていて、数の上では圧倒的に不利であるため、長州側では、7月17日、急濾軍議を男山で開きました。
 右写真は、男山の石清水八幡宮です。

久坂玄瑞は、世子毛利元徳が3000の兵を率いてくるので、それを待つため一旦大坂までしりぞくことを主張したといわれていますが、真木和泉・来島又兵衛は、断固決戦を主張し、無暴な進撃論を主張した為、軍議はついに強硬論に押し切られ進撃と決まりました。

この間の軍議の様子は、古川薫著『花冠の志士』では、来島と久坂が激論をかわし、最後には来島が「我々だけでも戦う」といって席をけり帰って行く気勢に引きずられて進撃やむなしとなる様子が書かれています。

 7月19日早暁、戦端は福原越後の指揮する長州勢と伏見方面で開かれました。禁門の変の開始です。

伏見を出発した福原越後の軍は、藤森のあたりで大垣藩兵と衝突しました。

福原軍は、待ち構えていた大垣藩兵に猛烈な銃撃をあび、軍勢は総崩れとなって、四散してしまい、福原越後も負傷し、ようやく山崎に逃げました。

福原勢は、一旦は体制をたて直し、竹田街道から入京しようとしたが果たさず退却し、伏見方面の戦いはあっけなく終わりました。

 しかし、天竜寺に駐屯していた国司信濃隊は精兵700人といわれ、巧みに警備陣をすり抜け、間道を通って一条戻橋に達し、そこから中立売・蛤・下立売の諸門に向かって進撃し、午前7時頃、御所に達しました。右下写真が蛤御門です。

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 中立売門に達した一隊は、そこを守備していた筑前兵を襲い、これを四散させました。
 中立売門が破られたため、蛤御門・下立売門を守衛していた会津・桑名の藩兵も支えきれず、しだいに後退していき、長州勢は中立売門内より進入して宜秋門に迫ろうとしていました。 まさに危機一発の時、乾門を守備していた薩摩兵の援軍が到着、猛烈な激戦となりました。更に天竜寺に向かおうとしていた薩摩隊も烏丸通に引っ返して、砲四門の一斉射撃を浴せながら、長州勢に立ち向かいました。

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 それに対して、長州勢も砲撃を行ない、蛤御門付近は修羅場と化しました。蛤御門には当時の激戦を物語る弾痕が無数に残されています。右写真はその一部です。

 この戦闘の中で、来島又兵衛は銃撃により戦死しました。

現在も京都御所の蛤御門を100mほど入ると大きな椋(むく)の木があります。

この付近で来島又兵衛が戦死したと説明板に書かれています。右写真が椋の木です。

来島又兵衛の戦死により、さしもの長州勢も強勢が弱まり、ついに烏丸通より退却していきました。

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 蛤御門の戦いが終わりかけた頃、益田右衛門介・久坂玄瑞の山崎隊が松原通から柳馬場通を通って北上してきて、堺町御門(右写真)を目指しました。
 しかし、ここを守る越前福井藩の兵たちは堅固で突破できませんでした。

 そこで長州兵は堺町御門近くにある鷹司邸に入り込んで立てこもり応戦しはじめました。越前藩側もまた大砲による直接射撃によって砲撃戦をかわし、ついには白兵戦となり、鷹司邸は打ち破られてしまいました。

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 鷹司邸はこのとき火を発し、ことごとく焼亡してしまいました。
 右写真が鷹司邸跡です。大きなシイの木が目印です。

 この戦いで久坂玄瑞・入江九一・寺島忠三郎も戦死しました。

 久坂玄瑞は、高杉晋作とともに松門の龍虎と呼ばれ、入江九一は、松門の四天王の一人に数えられた俊逸でした。

久坂玄瑞は鷹司邸での戦いで銃撃を受け負傷したため、潔く自刃しました。この時、入江九一も一緒に自刃すると言いましたが、久坂玄瑞の逃げろという説得に応じ鷹司邸を脱出をしましたが、屋敷の外で、会津藩兵との闘いで亡くなりしました。この後、寺島忠三郎も鷹司邸で久坂玄瑞と一緒に自刃しました。

 鷹司邸を脱出した真木和泉は、天王山に退いたが、21日、新選組を先頭に会津兵が追撃するなかで、同志16人とともに自刃しました。



 



 


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by wheatbaku | 2017-04-27 09:40 | 『幕末』 | Trackback
禁門の変①(『幕末』)

 八月十八日の政変で、京都を追われた長州藩は失地回復して京都へ再進出を果たそうとします。その中で起きるのが禁門の変です。
 今日から数回にわたり禁門の変について書いていきます。

 元治元年になると、天皇を再び手中にするため、京都に進出しようという進発論が強くなりました。

 この時、強く京都進出を主張したのは、久坂玄瑞、遊撃軍総督来島又兵衛、久留米水天宮神官真木和泉らです。

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 遊撃軍は、奇兵隊につづいて結成された諸隊九隊の一つで、三田尻で三条実美らの警護にあたっていました。

 進発論の主唱者は、三条実美に従った浪士のリーダーである真木和泉で、真木和泉は「出師三策」を書いて、世子毛利定広が軍勢を率いて上京すべきであると主張しました。

 しかし、京都進出については、桂小五郎(後の木戸孝允)は反対し、周布政之助や高杉晋作は、慎重論で、長州藩内でも意見対立があり、藩論は一致しませんでした。


 

元治元年正月24日、高杉晋作は、頑強な進発論を唱える来島又兵衛の説得を命じられましたが、来島は納得しませんでした。

説得に失敗し高杉晋作は、京都に脱走してしまい、帰国すると3月29日に野山獄入りを命じられます。

5月には、高杉晋作が入獄していた野山獄に泥酔した周布政之助が馬で乗り付け抜刀して叫び声をあげて去っていくという事件もありました。


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 こうした中で、6月5日の池田屋事件で多くの尊攘派の志士が新選組に藩士を殺されたとの情報が伝わりました。

 6月12日、事件の第一報が山口に届きます。この情報を聞いて、進発論者は激高し、即時進発を声高に叫ぶ状況となりました。

慎重派の周布政之助、高杉晋作の影響力が弱まるなか、福原越後、益田右衛門介、国司信濃の三家老らに率いられた長州藩兵が次々と進発していきます。


福原越後(50)は長州藩の支藩徳山藩の藩主毛利広鎮の六男として生まれ、藩命で永代家老福原家の家督を継ぎ、国家老として、藩主毛利敬親の補佐役を務めていました。

益田右衛門介(32)は、永代家老の益田家に生まれ、安政4年に家老となりました。

国司信濃は、上級家臣団の寄組高州元忠の次男でしたが、寄組国司家を継ぎ、文久3年家老となりました。寄組の国司家は、当人の能力次第で一代家老ともなる家格で、若くして実力で家老職に就き、当時23歳の若さでした。

禁門の変後、この三人は、第一次長州征伐が実施される中で、禁門の変の責任を負い切腹することになります。

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 まず、6月15日、来島又兵衛に率いられた遊撃軍が京都に向かいました。
翌16日には、福原越後に率いられた藩兵と久坂玄瑞や真木和泉に率いられた諸隊が三田尻を出発し24日に伏見に入りました。

6月26日には、国司信濃が山口を出発し、7月6日は益田右衛門介が山口を出発しました。

京に入った長州藩は、三方から京都を包囲しました。

伏見の長州藩藩邸には福原越後が6月24日に兵を率いて入り、6月26日には潜伏していた100名以上の志士たちが嵯峨天龍寺に入り、27日には来島又兵衛の部隊が天龍寺に入り、その後7月には国司信濃も天龍寺に入りました。山崎には久坂玄瑞や真木和泉、前田右衛門介が陣を敷きました。

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長州藩が、兵を率いて上京してきている中で、伏見や山崎に陣を敷いて、さらに天龍寺まで兵を進めることがちょっと不思議に思っていましたが、こうした陣を構えられた理由を中公文庫「開国・維新」(松本健一著)が書いてくれていますので、紹介しておきます。

真木和泉が率いた部隊は「清側義軍」と称しました。福原越後は、清側義軍は、三条実美に近い尊攘激派の集団で藩主の冤罪を晴らすため過激な行動にでるかもしれないので、伏見にいて鎮撫にあたると説明しました。また、天龍寺には、八月十八日の政変後も京都に残った尊攘派の志士たちが天龍寺にたてこもっているから、これを鎮撫すると称して、来島又兵衛の遊撃隊を天竜寺に送り込みました。こうして、京都を三方から包囲する態勢が整いました。

右上の写真最上段が伏見の長州藩邸跡、二段目及び三段目写真が天龍寺と有名な曹源池です。天龍寺はユネスコの世界文化遺産に登録されています。四段目の写真が阪急大山崎の駅から見た天王山です。





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by wheatbaku | 2017-04-25 10:44 | 『幕末』 | Trackback
第3回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験

第3回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験

今日は、第3回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験を出題します。

 今回は、文久4年(元治元年)に起きた事件についての問題を出題します。

 元治元年は、寺田屋事件、禁門の変、第一次長州征伐など、大事件が次々と起きています。


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 現在、禁門の変までの経緯を書いていますが、今後もあと数回続ける予定です。

これらの記事を読んでいくと、正解がわかる問題もあります。

右写真は、禁門の変の現場、蛤御門です。

正解は、今週末にアップします。

1、文久4年3月、水戸藩の尊皇攘夷派が筑波山で挙兵しました。幕府の追撃をうけると、一橋慶喜に助けを求めるため京都をめざして行軍を開始しました。しかし、慶喜が追討軍を差し向けたことを知ると12月に加賀藩に投降しました。

 この尊攘派グループは何とよばれたでしょう?

①天狗党  ②天誅組  ③精忠組  ④赤報隊

2、池田屋事件は、祇園祭の宵宮の日に、新撰組が、尊王攘夷派の志士が集まっていた池田屋を襲撃し、多数の志士を殺傷した事件です。池田屋襲撃の際の新選組局長近藤勇と副長土方歳三の行動で正しいのはどれでしょう? 

 ①近藤は表から、土方は裏から斬り込んだ。  

②近藤は斬り込んだが土方は現場にいなかった。

 ③近藤・土方が一緒に表から斬り込んだ。  

④土方だけが斬りこみ近藤は現場にいなかった。

3、池田屋事件の際に、桂小五郎は自分自身がどう行動したと書いているでしょう?

ちなみに桂小五郎は、江戸三大道場の一つ練兵館の塾頭を勤めたことがある剣豪です。

 ①長州藩邸にとどまり池田屋にいかなかった。   

②斬りこまれたら屋根を伝って対馬藩の屋敷に逃げた。  

③近藤勇と斬り合ったのち逃げ延びた。

④池田屋に行ったが早すぎたので対馬藩邸に行った。

4、池田屋に集合した尊王攘夷派のリーダー格だった人物は誰でしょう? 肥後藩士で吉田松陰の親友でした。

①吉田稔麿(としまろ)  ②宮部鼎三(ていぞう)  

③望月亀弥太       ④北添佶磨(きつま)

5、禁門の変を前に、長州藩が上京すべきか留まるべきか藩論が割れました。高杉晋作と久坂玄瑞の意見はどうでしたか?

①二人とも上京に積極的な進発論  

②二人とも上京に対して慎重論  

③高杉晋作進発論で久坂玄瑞は慎重論 

④高杉晋作は慎重論で久坂玄瑞が進発論 

5、禁門の変は別名蛤御門の変と呼ばれます。それは蛤御門で長州藩と会津藩の激闘がくりひろげたからです。長州藩は洛西の有名なお寺を拠点として京都市内を通り抜けて蛤御門を攻めかかりました。それでは、蛤御門を攻撃した長州藩が拠点としたお寺はどこでしょう?ユネスコ世界文化遺産に登録されている有名なお寺です。

 ①龍安寺  ②仁和寺  ③天龍寺  ④西芳寺(苔寺)

6、禁門の変で、長州藩の敗北が明らかになり、久坂玄瑞が自刃した屋敷はどこでしょうか? 五摂家の一つです。

 ①近衛家  ②鷹司家  ③九条家  ④一条家

7、禁門の変により、長州藩は朝敵となります。幕府はこれを機会に長州追討する征長軍を組織します。征長軍の総督は尾張藩の徳川慶勝がなりました。それでは参謀にはだれがなったでしょう?

 ①一橋慶喜  ②松平容保  ③勝海舟  ④西郷隆盛

8、攘夷を決行した長州藩への報復として、下関を砲撃した四か国連合艦隊の四か国とはどこでしょうか? 

①英米仏蘭  ②英米仏露  ③米露英蘭  ④米露仏蘭 

9、高杉晋作は、下関戦争の講和交渉の際、白装束に陣羽織、黒い烏帽子といういでたちで交渉に臨みました。

この様子をみて、イギリス側の通訳として交渉に臨んだアーネストサトウはどのような感想を述べているでしょう?

①閻魔のようだ。 ②仁王のようだ。 
③魔王のようだ。 ④鬼のようだ。

10、高杉晋作が決起した事件は、集合場所になった場所の名前から「〇〇〇挙兵」と呼ばれますが、〇〇〇に入る名前は次のどれでしょう?

①功山寺   ②了円寺   ③桜山神社   ④東行庵

以 上



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by wheatbaku | 2017-04-23 12:58 | 『幕末』 | Trackback
八月十八日の政変③(『幕末』)

今日は、八月十八日の政変の3回目ですが、八月十八日の政変の当日の動きを書いていきます。

八月十八日の政変について、いろいろ本で調べましたが、『京都守護職日誌』(菊地明編、新人物往来社刊)が一番詳しそうなので、それを中心に、18日の動きを書いていきます。

8月16日に、中川宮が参内し、孝明天皇に言上しますが、この時、孝明天皇は同意しませんでした。

しかし、その夜、孝明天皇から密使が遣わされ、政変も致し方ないので、会津藩に申付けるようにとの旨が届けられ、中川宮から松平容保に伝えらえます。

翌日17日深夜遅く(11時30分頃)、中川宮が御所に参内します。

そして、二条斉敬(なりゆき)右大臣、近衛忠煕前関白、徳大寺実則(さねつね)内大臣、近衛忠煕左大将、さらに松平容保に参内するよう11時50分頃に通知が発せられます。

 松平容保は兵を率いてすぐに参内します。

 この時、京都所司代(稲葉正邦)も参内したようです。

その直後に、米沢藩上杉弾正大弼、岡山藩松平備前守等へ兵があるものは兵を率いて即時参内するよう命令が出て、諸藩主は続々と参内します。

 会津藩は多数の軍勢を保持していましたので、その兵力と薩摩藩の兵を合せて、御所の各門が閉じられました。

 全ての門が閉じられた後、8月18日の夜明けに合図の砲声が会津藩の準備していた大砲から響きました。

会津藩と薩摩藩により御所の警備が行なわれている中で、参内した諸大名に対して「大和行幸」の延期(実際には中止)が発表されました。

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また、三条実美ら長州系公卿の参内・外出・他人との面会禁止の勅命が発せられました。さらに、国事参政・寄人を廃止し、長州藩の堺町門警備(右写真)も解かれました。


政変に気が付いた長州藩士たちは、堺町門に駆けつけ押し問答となりましたが、警備罷免の勅命が出されていたため、一旦、長州藩邸に集まりました。

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その後、長州藩邸に駆けつけた東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)らとともに、長州藩士は、関白鷹司忠熙の邸に移りました。

関白鷹司忠熙は、お召があって参内し、その後、鷹司邸に、三条実美と沢宣嘉が合流し、長州系公卿7名が揃いました。

鷹司邸に長州藩士と公卿が集まっているとの情報が御所に伝わり、三条実美等に解散の命令が出されました。

これにより、ついに七卿と長州藩は退去することを決め、妙法院へ入りました。妙法院は、2月の文化財特別公開で、拝観してきましたので、次回は、妙法院について紹介します。

この八月十八日の政変の時に、新選組も会津藩の命令を受けて御所に出動しています。夜明けの頃に出動しました。

『島田魁日記』には「8月18日、長州人引揚の節、当組南門を守る。その節、伝奏より新選組の隊名下さる」と書いてありますが、『京都守護職日誌』の解説では、「現実に彼らが新選組と称したのは後日のことであり、その節の功によりと解釈すべきである」と書いてあります。これによると、新選組と名のるのは、八月十八日の政変当日ではなく、その後(日は特定できず)のことのようです。

 


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by wheatbaku | 2017-04-12 09:20 | 『幕末』 | Trackback
八月十八日の政変②(『幕末』)

八月十八日の政変の2回目です。

八月十八日の政変は、前回書いたように、薩摩藩が会津藩に働きかけて、事がスタートしました。

薩摩藩から働きかけられた会津藩がどう動いたのかがわかる本があります。

 それが『京都守護職始末』ですc0187004_00003832.jpg

 今日は、『京都守護職始末』に基づいて、八月十八日の政変の直前の状況を書いていきます。

 8月13日、薩摩藩士の高崎佐太郎(後の正風)が。会津藩の秋月悌次郎の住居を訪れ

「近来叡旨として発表せられたものの多くは偽勅で、奸臣どもの所為から出たことは、兄らも知るところのごとくである。聖上もこのことを御気づかれ、しばしば中川宮に謀り賜うても、兵力をもった武臣で君側を清める任に当るものがないことを嘆いていられると聞く。わか輩、これをきいて、袖手傍観しているにしのびない。思ふに、この任に当れるのは会津と薩摩の二藩のほかにはない。願わくば、ともに当路の奸臣を除いて、叡慮を安じたいものである」 と語りました。

「その意気昂然たるものがあった」と書いてありますから、高崎佐太郎の語る勢いは非常に盛んだったようです。

秋月悌次郎たちも、その気持はもともと持っていましたが、藩主松平容保の了解もえずに勝手に協力を承諾するわけにいかないので、すぐに会津藩本陣のある黒谷に急いで、そのことを松平容保に報告しました。

 松平容保も同じ考えなので、薩摩藩と提携し尊攘派を排除する計画を準備することを許し、まず秋月悌次郎と高崎佐太郎に中川宮をたずねさせて、事の経緯を説明させました。

すると中川宮は大変喜んで、自分の身をなげうって孝明天皇が安心するようにしようと約束してくれました。

c0187004_23311147.jpg これほどの大事を決行するには、さらに、同じ考えの人の協力をえる必要があるので、天皇の信任が深い近衛前関白親子(近衛忠煕前関白と近衛忠房)と二条斉敬右大臣の賛同が必要なので、薩藩藩が近衛親子を説得することを約束し、二条右大臣の方を会津藩が説得することに手はずをきめました。

 会津藩では、大野重英を二条邸につかわしいろいろ説得した結果、二条右大臣も賛同しました。そして、近衛親子は薩摩藩が説得し賛同を得ました。

 こうした宮中工作の一方で、会津藩は軍勢の準備も怠りなくおこないました。

 会津藩の在京部隊は1千人規模でした。そして、8月はちょうど会津藩の在京部隊の交代時期にあたっていました。

 そこで、京都勤務が終わり帰国途上の部隊を引き留めることにより、在京部隊の数を通常の2倍の2千名にしようとしました。

 そこで、8月13日に大和行幸の警備強化を名目として、帰国途中の会津藩兵を呼び戻したのでした。

ちょうど8月12日に新選組の芹沢鴨が大和屋を焼討していて政情が騒然としていたので、この命令が本当はクーデターのための召喚命令だと気が付く人はいなかったようです。

この召喚により武力が2倍となりクーデターの実施が容易になりました。

 このことについても『京都守護職始末』に書かれています。

わが公の上京以来、旗下の守衛兵(藩ではこれを本隊と言っている)半数のほか、薄制で一陣を在府常備の兵員と決めてあった。一陣の将は、家老がこれに当って、陣将と称んでいるが、一陣は四隊が集まったものである。各隊にはそれぞれ隊長があって、それを番頭とよぶ。毎年八月を交代の時期とし、会津からくる新しい一陣は、八日に京師に着く。国へかえる一陣は、十一日に京師を出発する。

 親征の勅が下ったので、使いを走らせて、帰りはじめたものを途中から呼び返したので、その兵が京師に着くと、わが兵は二陣、すなわち八隊という多数になる。

「天皇の側近の協力も得られた」「軍勢も揃えた」「さぁ、いよいよ、クーデターの実行だ」となります。

8月17日の夜に中川宮が動いてクーデターが始まります。それについては次回書きます。





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by wheatbaku | 2017-04-10 07:50 | 『幕末』 | Trackback
姉小路公知暗殺(『幕末』)

姉小路公知暗殺


 今日からは、八月十八日の変から禁門の変までを中心に書いていきます。

 今日は、姉小路公知の暗殺事件から書いていきます。

文久3年5月20日の夜、尊王攘夷を唱える過激派公家として知られた姉小路公知が暗殺されました。


 暗殺された場所から、朔平門外の変とも猿ヶ辻の変とも呼ばれています。
 朔平門は京都御所の北側にある門です。(右下写真)

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 姉小路公知は、三条実美とともに、当時の朝廷を牛耳った公卿で、尊王攘夷派の代表格でした。

二人とも小柄ですが、三条実美は色白で柔弱なタイプであるのに、姉小路公知の方は対照的に色黒で精悍だったため、三条実美は白小豆、姉小路公知が赤小豆と言われていたようです。

 

 平凡社東洋文庫『京都守護職始末』には次のように書かれています。

姉小路少将は少壮で、頭がよく、弁舌か立ち、学習院に出る堂上は数人あったが、彼におよぶものは少なかった。集・てくる浮浪の徒も多く。三条実美卿に次いで、名声曖々としていた

また、『京都守護職始末』には襲撃の様子は次のように書いてあります。

5月20日の夜、御所の宣秋門を出て、御所の北側にある朔平門外にさしかかったところ、突然三人の賊があらわれて、姉小路公知を刺した。

 そして、襲った賊は刀と下駄をのこして去ったが、その刀をしらべると、薩摩の鍛冶がきたえたものであり、刀装も薩摩藩士が多く佩用するもので、柄頭(つかがしら)に藤原の二字と、縁(ふち)に鎮英の一に子が金で嵌め込んであった。下駄もまた、薩摩藩士が好んではくものであった。

 探索した結果、薩摩藩の田中新兵衛が容疑者として逮捕されました。
 田中新兵衛は薩摩藩士。もともとは船頭の子ともいわれています。安政の大獄に協力した島田左近を暗殺したとも言われる俗に「人斬り」と呼ばれる一人です。

 その田中新兵衛は町奉行所で、尋問中に自刃してしまいました。

 その様子は、『京都守護職日誌(第一巻)』では、次のように書かれています。

奉行所では田中新兵衛を尋問するにあたって、定法どおりに刀を預かろうとしたが拒絶され、なおも役人が申し入れると、脇差を抜いて自刃してしまった

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 田中新兵衛はどうして自刃したのかについては二つの説があるようです。

 田中新兵衛が持っていた刀が現場に残されていたことが決定的な証拠となるので、それを突き付けられて覚悟の死を遂げたという解釈もなりたちます。

その一方で、明治になってからなの史談会における田中新兵衛は刀を盗まれたと言っていたという証言もあるので、田中新兵衛は刀を盗まれたことを恥じて自刃したということも考えれらるようです。
 しかし、田中新兵衛が自刃してしまったので、姉小路公知暗殺の真犯人は結果的にわかりませんでした。

ところで、尊攘激派の姉小路公知が暗殺されたことについて、『京都守護職日誌(第一巻)』に、束久世通禧は明治28年に史談会の席でが次のように語った書いてあります。

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 将軍が軍艦で巡見すると云ふことで、姉小路少将は大樹(将軍)に随従して和田岬の方に検分に参ったのであります。其時勝麟太郎、今の勝安芳氏は無謀の攘夷は出来ぬと云ふ事で、姉小路に説いたと見えて、其の時帰って来てから鋭峰が挫けた都合で、轟武兵衛な   り武市半平太などは、姉小路様は幕府に寵絡されたとか云ひましたが、(中略)其れから鋭鋒が鈍った。

これによると、姉小路公知は、勝海舟の説得により、攘夷論の舌鋒が鈍ったので、武市瑞山たちは幕府に籠絡されたと怒っていたということのようです。

こうしたことから、姉小路公知が開国論に転向したと疑われたので襲撃されたのだという説もあると『京都守護職日誌(第一巻)』に書かれています。

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姉小路公知が襲われたところは、猿が辻とも言われています。

猿が辻は、京都御所の東北部分にあります。

京都御所の東北角は鬼門とされ、鬼門除けのため、築地塀の角が欠かれています。(右2段目。3段目の写真参照)
 そして欠いた部分に日吉山王社の神のお使いの猿を祀られています。

この猿が夜な夜なぬけだしては通行人にいたずらするため、金網で封じ込めたと伝えられています。


なかなか写真にとりにくいのですが、猿がいるのがわかりますでしょうか。


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暗殺された姉小路公知のお墓は、京都御所の東にある清浄華院にあります。

 清浄華院は、知恩院や知恩寺、金戒光明寺とならぶ浄土宗京都四カ本山の一つとして、長い歴史と格式を誇っています





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by wheatbaku | 2017-04-05 22:29 | 『幕末』 | Trackback
第2回「幕末・維新 これは覚えてね!」模試正解

第2回「幕末・維新 これは覚えてね!」模試正解

 土曜日に出題した模擬試験の正解を発表します。

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 今回は、文久3年に起きた出来事についての問題を出題しました。

 文久3年は、新選組の結成・下関砲撃事件・薩英戦争があり、とくに八月十八日の政変により幕末政局が大きく変わった重要な年ですので、しっかり勉強してください。

 なお、幕末について苦手な人は、読みやすい『幕末・明治維新』(西東社刊)と『幕末・維新』(新星出版社刊)を参考にするとよいと思います。


1②新選組は、壬生浪士組時代から局長の近藤勇が統率していた。


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新選組は、浪士組の一部が京都に残留し結成され、会津藩が預かることになり、壬生浪士組と呼ばれました。

当初は、芹沢鴨と近藤勇が局長として隊を統率しました。(新見錦も局長とする説もあります)ので、選択肢②は間違っています。

また、新選組を名のったのは、八月十八日の変の後からです。

そして、隊旗の「誠」が「言」と「成」からなっているということは『江戸時代年表』(山本博文監修)P243に書いてあります。


2②下鴨神社と上加茂神社 

 上洛した将軍家茂が孝明天皇に供奉して下鴨・上加茂神社で攘夷祈願をしたことは 基礎的参考図書の『幕末・明治維新』(西東社刊)と『幕末・維新』(新星出版社刊)には書いてありませんでしたが、重要なことですので、覚えてほしと思い出題しました。

 文久3年3月4日に上洛して二条城に入った家茂は、3月11日、下鴨神社と上加茂神社に攘夷祈願のための行幸へ供奉しました。

「幕末史」(佐々木克)のP96,97、「開国と攘夷」(小西四郎)P298などを参照してください。

 なお、孝明天皇は、攘夷祈願のため石清水八幡にも参拝していますが、この時、家茂は体調不良を理由に供奉しませんでした。(「開国と攘夷」(小西四郎)P298参照)

 

3①往きは東海道、帰りは海路 

  家茂が上洛するルートとしては、当初は幕府軍艦に乗っていく海路が予定されていましたが、生麦事件の賠償問題が緊迫したため、東海道をとることになりました(「開国と攘夷」(小西四郎)P296参照)。そして2月13日に江戸を出発し2月4日二条城に入りました。

短期間で江戸に帰る予定でしたが、尊王攘夷派の妨害もあり江戸帰城が大幅に遅れました。

家茂が京都を離れたのは6月9日であり、大坂に下り軍艦に乗り6月16日江戸に帰ってきました。「開国と攘夷」(小西四郎)P301を参照してください。

4 ④白石正一郎 

 奇兵隊は、基礎的な用語ですので、よく御存じだと思います。高杉晋作の提唱により、結成されますが、資金援助するなど白石正一郎が支援しています。

 白石正一郎は下関の豪商で、尊王攘夷の考えをもち、高杉晋作、平野国臣、真木和泉などとの交流もありました。

 奇兵隊の結成は問題文の通り白石正一郎の屋敷で行なわれ、白石正一郎自身も奇兵隊に入隊しています。(「江戸時代人名控1000」参照)

 また、『幕末・維新』(井上勝生著)P96、『幕末史』(半藤一利著)P170も参照してください。

5③イギリスの軍艦には、最新鋭のアームストロング砲も積んでいたので、被害はほとんどなかった。

 薩英戦争は、生麦事件の賠償と犯人の処罰を要求するイギリスに対して、薩摩側が満足する回答を拒否したため、砲撃が開始されました。ちょうど台風の中で砲撃が始まったこととイギリス側の油断もあって、イギリス艦隊の旗艦ユーリアス号は薩摩藩の砲撃をうけ、艦長ジョスリング大佐と副長ウィルモット中佐が即死するなど死傷者60人余りの被害を受けました。『幕末・明治維新』(西東社刊)P96を参照してください。

 アーネスト・サトウは日本着任早々に遭遇した事件でしたが、「ニール大佐(*)から私に至るまで公使館の全員が軍艦に乗りこむことに決まり、(中略)私はアーガス号に搭乗した」と『一外交官の見た明治維新』(岩波新書)P105に書いています。

(*ニール大佐とはイギリスの代理公使ニールのこと)

6④天誅組

天誅組の変も基礎的用語ですので、覚えておいてください。

天誅組は、孝明天皇の大和行幸を機に倒幕をはかるために結成された尊攘派の組織です。817日に五条の代官所を襲撃しますが、八月十八日の政変が起き、孤立無援となり、諸藩の軍勢に鎮圧されました。中山忠光は中山忠能の七男です。姉の中山慶子(よしこ)は明治天皇の生母です。

(『幕末・明治維新』(西東社刊)P104、『幕末・維新』(新星出版社刊)P84参照)

7②生野の変  

生野の変は、天誅組の変に呼応して但馬で起きた事件で、これも基礎的な用語です。平野国臣は長州に下り、沢宣嘉を説得し主将に迎えました。この時に、長州藩の奇兵隊士たちも同行しました。

生野で農兵を募集した後、生野代官所を襲撃しましたが、諸藩の攻撃をうけ、壊滅しました。

(『幕末・明治維新』(西東社刊)P104や『幕末・維新』(新星出版社刊)P84参照)

8③薩摩藩  

八月十八日の政変は幕末の中で重大事件ですので、この政変がどういうもので、どのように起き、どのような結果となったかは、よく勉強しておいてください。

文久2年前半、朝廷を牛耳っていた長州藩を中心とした尊攘過激派の暴走に危機感を頂いたのは薩摩藩でした。そこで、薩摩藩の高崎佐太郎が会津藩の秋月悌次郎に提携の話を持ちかけました。秋月から報告を受けた松平容保も同意し薩摩藩と会津藩の提携がなりました。さらに両藩は中川宮に働きかけ中川宮の賛成を得て8月18日の政変が成功することになりました。

『幕末・明治維新』(西東社刊)P102、『幕末・維新』(新星出版社刊)P82を読んでください。

なお、八月十八日の政変は、過激な尊王攘夷派を嫌っていた孝明天皇の意思を薩摩藩が報じて行動したとも書いてある本もあります。『幕末・維新』(井上勝生著)P119、「幕末史」(佐々木克)のP108以降を参照してください。

9、 ②妙法院  

これは3月に私のブログに書きましたので、多くの方がわかったと思います。

妙法院は、京都国立博物館の東側にある天台宗三大門跡の一つに数えられる由緒あるお寺です。七卿と長州藩兵は八月十八日の政変後、妙法院に集まり協議した結果、長州にくだることを決定しました。

(『幕末・明治維新』(西東社刊)P103参照)

「幕末史」(佐々木克)のP120、「開国と攘夷」(小西四郎)P337なども参照してください。

10①参予  

 「参予会議」については、基礎的参考図書の『幕末・明治維新』(西東社刊)や『幕末・維新』(新星出版社刊)にも全く触れられていませんし、少し勉強した人も見落としがちなテーマですので、この問題は、少し難しかったかもしれません。

従来、朝廷の会議は公卿だけがメンバーで武家は参加していませんでした。そこで、朝議に武家が参加できるように松平春嶽が交渉し許可されたのが、「参予」です。

1230日に参予に任じられたのが、問題文に載せた5人ですが、翌年113日には島津久光が任じられました。

『幕末・維新』(井上勝生著)P122や「幕末史」(佐々木克著)のP135を参照してください。



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by wheatbaku | 2017-04-03 09:04 | 『幕末』 | Trackback
第2回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験

第2回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験

新選組に関する記事は、前回でとりあえず一区切りをつけて、今日は第2回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験問題をアップします。

第2回は、文久3年に起きた出来事に関する模擬試験を出題します。

新選組結成は文久3年ですので、いよいよ試験範囲からの出題です。

正解は、来週初めにアップします。

1、新選組は浪士組の一員として上洛した人たちのうち、京に残留すると主張した人たちで発足しました。それでは新選組について書いた文で間違っているものはどれでしょう?

①新選組は、発足当初は壬生浪士組と呼ばれ、新選組を名のったのは8月18日の政変の後からである。  

②新選組は、壬生浪士組時代から局長近藤勇が統率していた。

③新選組を預ったのは会津藩であった。

④隊旗の「誠」は「言」と「成」からなっていて言行一致を意味した。

2、将軍家茂が孝明天皇に供奉して参拝した神社はどこでしょう? 

①下鴨神社  

②下鴨神社と上加茂神社 

③下鴨神社と上加茂神社と石清水八幡宮

④下鴨神社と上加茂神社と石清水八幡宮と春日大社

3、将軍家茂は、3代将軍家光以来229年ぶりに上洛しました。

それでは、家茂の江戸京都間の往復経路で正しいものは次のうちのどれでしょう?

①往きは東海道、帰りは海路  ②往きは東海道、帰りも東海道 

③往きは海路、帰りも海路   ④往きは海路、帰りは東海道

4、長州は、5月10日に下関海峡を通過したアメリカ商船を砲撃したのを皮切りに、フランス軍艦、オランダ軍艦と砲撃しました。これに対してフランスは軍艦を派遣し、砲台を破壊しました。この時の戦いで藩兵はあまり役に立たなかったことから、長州藩では高杉晋作が奇兵隊を創設しました。この奇兵隊に対して多大な支援をした下関の豪商の名前をなんというでしょう?この豪商宅で奇兵隊が創設されました。

①銭屋五兵衛  ②小野善助  ③中居屋重兵衛  ④白石正一郎 

5、薩英戦争について書いた次の文で間違えったことが書かれているのはどれでしょう?

①イギリス艦隊には、通訳のアーネスト・サトウも同乗していた。

②イギリス艦隊からの砲撃により、薩摩藩が誇る集成館も大きな被害をうけた。

③イギリスの軍艦には、最新鋭のアームストロング砲も積んでいたので、被害はほとんどなかった。

④戦争が開始した時の天候は嵐であった。

6、土佐の吉村寅太郎たちが公卿中山忠光を擁して大和に挙兵した尊攘派のグループをなんというでしょう?

この時に盟主に担がれた中山忠光は明治天皇の叔父にあたる人です。

 ①新選組  ②新徴組  ③見廻組  ④天誅組

7、七卿落ちの一人沢宣嘉を擁して平野国臣らの尊攘派が挙兵して代官所を占拠した事件はなんというでしょう?

この事件には9名の長州の奇兵隊士も参加しています。

 ①禁門の変  ②生野の変  ③天狗党の乱  ④功山寺挙兵

8、八月十八日の政変は、急進的な尊攘派公卿と長州藩が権力を失ったクーデターですが、この政変で中心になったのは会津藩ですが、この会津藩にクーデターの実施を提案した藩は次のうちどれしょう?

①長州藩  ②水戸藩  ③薩摩藩  ④尾張藩

9、8月18日の政変によって、三条実美ら長州藩寄りの7人の公卿も朝廷から追放され、雨の中、京都を去って行きました。これがいわゆる「七卿落ち」です。それでは、この時に追放された公卿が長州に下ることを決めた寺院はどこでしょう?

①知恩院  ②妙法院  ③智積院  ④三十三間堂

10、文久3年12月30日に、公武合体派の一橋慶喜・松平容保・松平春嶽・山内豊信・伊達宗城の諸侯が朝廷から任じられた役職は次のうちどれでしょう? 

①参予  ②参議  ③議定  ④国事御用掛


以 上


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by wheatbaku | 2017-03-31 09:48 | 『幕末』 | Trackback
池田屋事件(「幕末」)

 今日は、有名な「池田屋事件」について書きます。

 池田屋事件は有名なわりには、インターネットには、詳しく書かれたものが少なくて、少し驚きました。そこで、池田屋事件について少し詳しく書いてみます。

池田屋事件は、新選組の名前を一気に高めた事件であるとともに新選組が最も華々しく輝いた事件でもあったと思います。また、この事件に憤激した長州藩兵が上京し禁門の変が起きていることから政治史の上でも非常に重要な事件です。

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 まず、事件の起きた「池田屋」は、三条小橋の西側にあります。 三条小橋は、三条大橋の西側にあり高瀬川に架かる橋です。

その三条小橋から20~30メートル程西に行った所に「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑があります。

 これが池田屋の跡です。ちなみに、池田屋事件は池田屋騒動とも呼ばれます。

池田屋は、当時、旅籠をやっていました。長州藩の定宿だったという説もあります。

 『血録 新選組』によれば、高瀬川から西に向かって通りの北側に「亀屋」「中屋」があり、次いで「池田屋」がありました。さらに南側にも旅籠が並んでいて、池田屋の間口は3件半(6.9m)という入口の狭い旅籠でした。

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 現在は、石碑がある場所で居酒屋チェーン「はなの舞」が「池田屋 はなの舞」という名前で商売をしています。右写真をご覧ください。

 2月末から3月にかけての京都旅行で、「はなの舞」に入りランチ「土方歳三」を食べてきました。

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 料理は、「はなの舞」のどの店舗にでもあるごく普通のメニューでした。
 しかし、店内の装飾は、やはり池田屋事件を意識したものでした。(右下写真)

 

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 この池田屋で、元治元年65日に新撰組が尊皇攘夷派の浪士を襲撃した事件が『池田屋事件」です。

 文久3年8月、会津藩と薩摩藩による宮中クーデターである八月十八日の政変により、尊王攘夷派の公卿や長州藩は失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていました。

 尊王攘夷派は勢力挽回の機会をうかがっていました。これを阻止すべく新撰組は市中警戒を強めていていました。

月5日、新撰組は、四条小橋西側で薪炭商を営む枡屋に踏み込み、主人喜右衛門を逮捕します。

 喜右衛門の本名は古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)といいました。

古高俊太郎は、近江国栗太郡古高村で生まれ、枡屋を営む湯浅喜右衛門の養子となり、枡屋(湯浅)喜右衛門を継承しました。 
「池田屋事件の研究』(中村武生著)によると枡屋は福岡藩黒田家の御用達で、古高は7代目にあたるそうです。また、古高が逮捕されたのは、8月18日の政変以降疎遠になりつつあった親長州派の有栖川宮と毛利家を結ぶエージェントの役割をはたしていたことが重要だろうと書いてあります。

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 四条通りの一本北側の小路に、古高俊太郎寓居之跡の碑がありました。これが枡屋のあった場所です。

「しる幸」というお店の玄関脇にありました。(左写真)

 枡屋喜右衛門を壬生の屯所に連行し、厳しく追及しました。しかし、名前が「古高俊太郎」とだけ白状しました。

 しかし、それ以外は口をわりませんでした。そこで、土方歳三が拷問により古高を自白させました。

 土方歳三が行なった厳しい拷問は、古高俊太郎を縛り上げ梁に逆さに吊るし足の裏に五寸釘を打ち込み、火をつけた百目蝋燭から蝋を流すという拷問だったと永倉新八の「新選組始末記」にかかれています。

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 新選組が古高俊太郎を拷問したのは前川邸の土蔵といわれていて、その土蔵は現存しています。(右写真)

 古高俊太郎の自供した内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って京都御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」というものでした。

 驚いた近藤勇は、すぐに京都守護職、会津藩、京都所司代に連絡し、協議しました。

 その結果、新撰組と諸藩兵士で協同で探索をすることになり、八坂神社前の祇園会所で落ち合うことにしました。

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 会所というのは町役人の詰め所で、祇園会所は、八坂神社の石段下で現在の東大路と四条通りがT字形に交差している三叉路の南西部にありました。(右写真)

 決められた時刻になっても、会津藩は来ませんでした。

 この時期、新撰組の隊員の減少が続き、全員で40名程度だったといわれています。

 このうち池田屋事件に参加した隊員は34名であり、祇園会所にも34名が動員されたものと思われます。

 この人数では、市中探索を行うには、十分とはいえませんでしたが、事態は一刻を争うと見た局長の近藤勇は単独行動に踏み切りました。

 近藤隊と土方隊の二手に分け、土方隊は24名で鴨川東側を北上しつつ縄手通を探索することにし、近藤勇は、沖田総司、永倉新八・藤堂平助ら9名を率いて10名で鴨川西側の木屋町通りを北上しつつ捜索を開始しました。(『図解雑学新選組』(菊地明編)による)

 近藤隊は、木屋町通りを探索しつつ北上していきました。そして、午後10時半ごろに、池田屋にいたり、池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見しました。

 

 池田屋で尊王攘夷派の志士たちが会合しているのに気がついたキッカケについては、いろいろな本にさまざまに書かれています。事前に情報があったとか、池田屋に長州藩の紋がある提灯が下げられていたからとか、夜遅い時間に灯りがもれていたからとか書かれています。

 近藤は、玄関先と裏側に数人づつ配置し、池田屋には、近藤勇は、沖田総司、永倉新八・藤堂平助らと踏み込みました。

池田屋に踏み込んだところ、池田屋の主人が2階に向かう階段付近で、2階にあわてて大声をかけました。

 近藤勇と沖田総司が、2階に駆け上がると、20数名の尊攘派志士がいたそうです。

 近藤たちと志士たちとの間で激しい戦いが始まりました。

 戦いの途中で、沖田総司は、結核のため戦えなくなり、戦線を離脱します。また藤堂平助も負傷しますが、新撰組は戦い続けます。

 戦っている途中、土方隊も到着し、戦いに参加し、新撰組は一気に優位にたちます。

 さらに、出動の遅れた会津藩の軍勢も到着し、周辺をかためました。

 2時間にわたる戦いにより、大勢の尊王攘夷の志士たちが殺されたり逮捕されました。

 正確な数はわかりませんが、近藤勇が養父近藤周斎にあてた手紙では、死者7名、負傷者4名、逮捕者23名と書かれています。

 死者の中には、肥後の宮部鼎蔵(みやべていぞう)、長州の吉田稔麿(よしだとしまろ)、土佐の北添佶麿(きたぞえよしまろ)・望月亀弥太らがいて、この事件により、倒幕が一年遅れたといわれるほどの大きな影響を与えました。

 この戦いに勝った、新撰組は、幕府から多くの恩賞が与えられました。

全員に一律十両が与えられさらに別段金が与えられ、別段金に差がありました。近藤勇には別段金20両、土方歳三は別段金13両でした。

また、新選組は一躍全国にその名を知られようになりました。



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by wheatbaku | 2017-03-29 11:05 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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