カテゴリ:『幕末』( 129 )
西応寺と長応寺 (幕末の公使館⑥ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 一級2期会の8月例会の報告のため中断していた「幕末の公使館」を再開します。
 今日は、オランダ公使館となった 「西応寺」と「長応寺」 です。

【最初のオランダ公使館となった西応寺】
c0187004_16444030.jpg 西応寺は、JR田町駅から歩いて13分ほどの住宅地の中にあります。
 「西応寺」に行くのには、少し苦労しました。
 田町駅前から、日比谷通りを行き、中央三井信託銀行本店横の交差点を右折するところまでは簡単です。
 そこから、道を東に向かいます。そして250メートルほど行ったら北に向かいます。そしてその道を100メートルほどいき、西側の住宅街のなか路地の先に西応寺があります。
 現在は、西応寺が経営する幼稚園になっておいて、少しみたところでは、お寺にみえません。
 境内が幼稚園の園庭を兼ねているため、通常は門が閉められています。
 最初のオランダ公使宿館跡の石碑も園庭内に建てられています。

【日英修好通商条約を締結・西応寺】
 この西応寺は、最初のオランダ公使館であるとともに、イギリス使節の最初の宿舎となりイギリスと日英修好通商条約を締結した場所でもあります。
c0187004_1645092.jpg  安政5(1578)年7月8日、イギリス使節エルギン卿一行は江戸に上陸し、西応寺に滞在して幕府との交渉に当たりました。
日米修好通商条約をモデルとしたため交渉は順調にすすみ、同年7月18日には締結されています。
 その後、西応寺は最初のオランダ公使宿館となりました。
 安政6年9月1日に公使宿館が設置され、初代公使クルチウスらが駐在しました。
 当時の建物は慶応3(1867)年12月25日に起きた幕府側の庄内藩による薩摩藩邸焼き討ち事件の際に類焼しました。その後再建されましたが、太平洋戦争で焼失しました。
 現在の本堂は、瀟洒な造りになっています。

【次の公使館となった長応寺】
c0187004_16453241.jpg  慶應3年(1867)12月の薩摩屋敷焼き打ち事件のときに西応寺が全焼したため、伊皿子の長応寺が公使館となりました。
 現在、長応寺はなくなっていて、秀和高輪レジデンスというマンションにかわっていて、当時の面影はまったくありません。
長応寺は伊皿子坂に面した高台にあって参道には石段があったようです。現在もマンションは高台にあり、そこにいく道路が坂になっていて地形は大きな変化はないようです。
 写真は、マンションの敷地入り口からマンションを撮ったものです。
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by wheatbaku | 2010-08-25 06:23 | 『幕末』 | Trackback
真福寺 (幕末の公使館⑤ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 幕末に公使館が設置される前、各国の代表使節の宿泊施設を幕府は準備しました。
 アメリカのハリスの宿泊施設は蕃所調所、イギリスに対しては西応寺、そしてオランダ、ロシア、フランスの宿泊施設としたのが今日紹介する真福寺です。

 真福寺は、真言宗智山派の東京別院です。東京メトロ「虎ノ門」駅1番出口から歩いて8分、「神谷町」駅3番出口からも8分です。
 このお寺は、ご本尊が薬師如来で「愛宕の薬師様」と呼ばれていますが、幕末にオランダ、ロシア、フランスの使節が宿泊しました。

【江戸城に最も近いので選ばれた】 
  安政5年6月に日米修交通商条約を結んだ後、幕府は同様の条約を7月中にイギリス・オランダ・ロシアとそして9月にフランスと結びました。
c0187004_211367.jpg  真福寺は、オランダ、ロシア、フランス三国の使節を順に宿泊させました。
 こうした外国使節の宿泊場所として真福寺が選ばれたのは、港に近い上に、真福寺が江戸城に最も近い寺院であるということのようです。真福寺と江戸城の間には確かにお寺はありません。

 オランダとは、江戸時代初期から、貿易をおこなっており、長崎のオランダ商館長が参府した際には、日本橋の長崎屋にとまっていました。
 これは、オランダから幕府に貿易のお礼を言上しかつ貿易の継続をお願いするための参府でした。
 日蘭修交通商条約締結の際のオランダ側当事者は長崎の商館長クルチウスでした。従来のやり方ですと長崎屋ということになりますが、通称条約を締結するための使節であることから、従来の長崎屋は適当ではないと判断し、真福寺を宿泊施設とすることとしたようです。
 クルチウスは3月10日から6月4日までの約3ヶ月間真福寺に滞在しました。
 ロシアの使節はプチャーチンでした。
 プチャーチンは7月4日に真福寺に入りました。
 フランス代表はグルーでした。グルーは8月20日に真福寺に入りました。そして日仏修交通商条約は9月3日に調印されました。


【勝軍地蔵菩薩像】
 真福寺は愛宕神社と関係が深かったため、庭内に愛宕神社に祀られていた将軍地蔵菩薩像が銅像で復元されています。
 珍しい地蔵菩薩様ですので紹介します。
c0187004_1111399.jpg  勝軍地蔵菩薩とは、地蔵菩薩の一つで、これに念ずれば、戦いに勝つといわれ、鎌倉時代以降特に戦国時代に武家に信仰されたお地蔵様です。
 真福寺にあったとされる勝軍地蔵菩薩像は、天正10年(1582)徳川家康の伊賀越えの際、近江信楽の多羅尾四郎右衛門から献上され、その霊験によって無事に三河へ帰還できた
という仏像でした。
 徳川幕府が開かれた後、愛宕神社の別当寺円福寺に安置されていましたが、円福寺が廃寺となり真福寺で像をおまつりしました。その像が関東大震災で焼失してしまったので、この銅像をたてたそうです。
 勝軍地蔵菩薩は、甲冑をつけ、左手に宝珠を持ち、馬に乗る姿で現されることが多く、この像もその形となっています。
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by wheatbaku | 2010-08-22 10:23 | 『幕末』 | Trackback
東禅寺 (幕末の外国公使館④ 江戸検定今年のお題「幕末」)
今日の「幕末の外国公使館」はイギリスの公使館が置かれた東禅寺です。

 東禅寺は、JR品川駅から田町方面へ第一京浜を歩いて7分のところにあります。 門前には「最初のイギリス公使宿館跡」という石碑が立っています。

c0187004_1414620.jpg【東禅寺の旧地は霊南坂】 
 東禅寺は慶長14年(1609)日向国飫肥藩の2代藩主伊東祐慶(すけのり)が嶺南崇六(れいなん・すうろく)を開山に招聘して、現在の東京都港区赤坂溜池付近の邸宅をもとにして創建しました。
 現在アメリカ大使館からホテルオークラまで伸びる坂を霊南坂と呼びますが、その坂名は東禅寺を開山した嶺南和尚に由来したものです。
 溜池の土地がのちに幕府用地となったため、寛永13年(1636)現在地に移転しました。

【オールコック、東禅寺を気に入る】 
 安政6年(1859年)6月4日にイギリス初代総領事ラザフォード・オールコックが駐在し、日本初のイギリス領事館が東禅寺に置かれました。11月にオールコックは公使に昇格しました。
 オールコックはその自著「大君の都」で「江戸にある最大かつ最良の寺のひとつ」「これほど美しい草庵を選べたことは幸いだ」と絶賛するほど東禅寺を気に入っていました。

【東禅寺事件】  
 しかし、オールコックが気に入った東禅寺は、攘夷派の襲撃を受けることになります。c0187004_1425226.jpg 文久元年(1861)、攘夷派の水戸藩浪士によって寺が襲撃される(第一次東禅寺事件がおきます。
 オールコックは難を逃れましたが、書記官らが負傷し、水戸藩浪士、警備兵の双方に死傷者が出ました。
 また、翌文久2年(1862)には護衛役の信濃松本藩藩士によって再び襲撃され、イギリス人水兵2名が殺害された第二次東禅寺事件が起きています。
こうした襲撃事件が起きたため、オールコックは一旦安全な横浜に移ります。その後、泉岳寺前に建設された高輪接遇所に公使館を移します。

 そんな事件があったとは思えない程、東禅寺の境内は緑豊かで、東京とは思えない静寂な雰囲気があります。
 イギリス公使館として使用された奥書院は現在も保存されているそうですが未公開のため拝見することはできませんでした。
 また、東禅寺は伊東祐慶をはじめ岡山藩池田家、鳥取藩池田家、宇和島藩伊達家など諸大名の墓があるそうですが、これらも未公開とのことでした。

【東禅寺の今昔】 
c0187004_144116.jpg こちらはベアトが幕末から明治にかけて撮った東禅寺の山門です。
 かなり立派な寺院であったことがわかります。
 参道を写真の手前に戻ってくると、そこは東海道で、その先はもう海だったそうです。
 この写真は長崎大学付属図書館所蔵です


c0187004_1432387.jpg こちらは現在の山門で仁王様が鎮座しています。
 この山門を入った両側はうっそうとした樹木が茂っています。

 最後にオールコックの話題を一つ。
 オールコックは、初めて富士山に登った外国人です。
 万延元年(1860)7月のことでした。オールコック一行の富士登山は耳目を集め、一行が通過する東海道筋では見物制止命令が出されるほどだったそうです。
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by wheatbaku | 2010-08-19 21:17 | 『幕末』 | Trackback
光林寺とヒュースケン(幕末の公使館③江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、ハリスとともに来日し、通訳兼書記を勤めた ヒュースケン についても書いておきたいと思います。

【ヒュースケンはオランダ人】 
 ヒュースケンは、アメリカ人と思われがちですが、1832年1月20日アムステルダムに生まれたオランダ人です。
 アムステルダムに生まれた後に家族とともに米国に渡り帰化したのでアメリカ人で間違いとはいえませんが・・・
c0187004_14535659.jpg 当時、日本人はほとんど英語は理解しませんでしたので、オランダ語と英語が話せる通訳を求めていたハリスに雇われて、ペナンでと合流した後、安政3年(1856)8月下田に着任しました。
 そしてハリスの片腕として困難な日米間の折衝に活躍し、ハリスが重病で倒れたときは彼の代理として幕府側と直接交渉も行い、日米修好通商条約締結に貢献しました。
 麻布善福寺に公使館が開設されると善福寺に移りました。
 そして、オランダ語、英語、フランス語に加えて日本語を修得していたことから、各国の使節の幕府との交渉に協力し、プロシアの交渉には通訳として協力しました。
 右上の写真は光林寺の山門です。

c0187004_14575345.jpg 【中之橋で襲われる】 
 そして、万延元年(1861)12月4日にプロシア使節の宿舎であった赤羽接遇所から、宿舎の善福寺へ帰える途中、古川の「中之橋」付近で攘夷派の薩摩藩士、伊牟田尚平(いむたしょうへい)らに襲われ、翌日死去しました。28歳という若さでした。
 なお伊牟田尚平は清川八郎が中心となって結成した虎尾の会のメンバーでした。
 この事件により、清河八郎も幕府から監視されることになります。
 詳しくは 回天の魁士清河八郎 をご覧ください。
 幕府はヒュースケンの母に1万ドルの弔慰金を支払って事件を決着させました。

c0187004_14581280.jpg【ヒュースケンは光林寺にねむる】 
 ヒュースケンの墓のある光林寺は臨済宗のお寺で、延宝6年(1678)に麻布市兵衛町に建立され、元禄7年(1694)に現在地に移転しました。
 善福寺は土葬が禁じられていたため、キリスト教徒のヒュースケンは、土葬が可能な光林寺に埋葬されました。
 葬儀は12月8日に行われました。その葬列は、幕府の外国奉行・5ヶ国の弔旗・アメリカの国旗で被われたヒュースケンの柩、各国の公使領事、プロシアの軍楽隊・護衛の海兵隊などからなり、アメリカ公使館であった善福寺から光林寺までの沿道は大勢の群衆であふれたといいます。
 光林寺へは東京メトロ「広尾」駅1番出口から歩いて約10分です。

【赤羽接遇所】 
c0187004_1455982.jpg 赤羽接遇所は、安政6年(1859)8月に講武所付属調練所であった場所に、外国人宿泊施設として造られました。敷地面積は2856坪ありました。
 プロシアの使節オイレンブルグは万延元年(1860)7月に来日直後ここを宿舎としました。
 そして万延元年(1861)12月14日に日普修交通商条約が調印されたのも赤羽接遇所でした。
 ここには再来日したシーボルトが、文久元年(1861)に長男のアレクサンダーとともに滞在したこともあります。
 現在は「飯倉公園」となっています。
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by wheatbaku | 2010-08-18 21:25 | 『幕末』 | Trackback
米国初代公使ハリス(幕末の公使館② 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日はアメリカの初代公使タウンゼント・ハリスのお話です。

【ハリス記念碑】  
c0187004_1694176.jpg 善福寺の境内には、ハリス記念碑が建てられています。
 これは昭和11年に三井物産社長の益田孝が発起人となって建立したものです。
 ハリスは、安政3年(1856)8月、下田総領事として日本に着任し、通商条約の調印交渉を行い、安政5年(1858)に日米修交通商条約を締結しました。
 そして、翌年正月に初代公使に任命され、6月より善福寺を公使館として利用しました。
 その後、善福寺は明治8年まで公使館として利用されました。

【ハリスは元々は経済人】 
 ハリスは、1804年にニューヨーク州に生まれました。
 成人し1846年にはニューヨーク市の教育局長となり、1847年に学費無料の高等教育機関「フリーアカデミー」(ニューヨーク市立大学の前身)を創設し貧困家庭の子女の教育向上に尽くしました。
 しかし、陶磁器業の経営が悪化したため、ハリスは1849年にはサンフランシスコで貿易業を開始し、アジアで商売をしていました。
 1853年のペリーの日本再渡航の際には、上海にいたハリスはペリーに対して日本への渡航を望みましたが、許可されませんでした。
 その後、ハリスは政府に運動し、1854年4月には中国の寧波の領事に任命されました。
 さらに、ハリスは、日本領事への就任を望み、ピアース大統領に運動して、1855年に初代駐日総領事に任命され、日本との通商条約締結のための全権委任を与えられました。

【修交通商条約締結に努力】 
 ハリスは通訳兼書記としてオランダ人のヘンリー・ヒュースケンを雇い、1856年(安政3年)に出発。ヨーロッパからインドを経由し、さらに香港経由で安政3年8月に日本へ到着し、伊豆の下田へ入港しました。c0187004_16115583.jpg 
 日本では最初下田上陸を拒否されたものの交渉の結果下田の玉泉寺に領事館を構えました。
 ハリスは度々江戸出府を要請し続けていましたが、幕府は引き伸ばしていました。しかし、同年7月にアメリカの砲艦ポーツマスが下田へ入港すると、幕府は江戸へ直接回航されることを恐れてハリスの江戸出府、将軍との謁見を許可します。
 ハリス、ヒュースケンらの一行は安政4年(1857年)10月に下田を出発し、江戸に入りました。
 江戸では蕃書調所に滞在した後、12月に江戸城に登城し、13代将軍徳川家定に謁見しました。
 安政5年(1858)にアメリカの汽船ミシシィピ号からアロー号事件の情報を聞いたハリスが早期締結を強く交渉したため、大老井伊直弼が朝廷の勅許無しで通商条約締結に踏み切り、日米修好通商条約が締結されました。
 右写真は『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』

【ハリスは日本人びいき】 
 ハリスは、翌年そのまま初代駐日公使となり、下田の領事館を閉鎖して江戸の麻布善福寺に公使館を置きました。
 その後も日本に留まり、文久2年(1862)には病気を理由に辞任しました。
 ハリスは、修交通商条約締結時に厳しく交渉したというイメージが強いのですが、彼の日記には、日本人について「喜望峰以東の最も優れた民族」と書かれているそうで、日本には好意的であったようです。
 また、ヒュースケンが殺害された際、イギリス・フランス・オランダ・プロシアの公使・領事や代表は横浜に退去してしまいましたが、ハリスだけは幕府への信頼をくずさず善福寺にとどまっていました。
 こうしたことから、ハリスが公使辞任を申し出た時に、幕府はハリスの留任を嘆願する文書をアメリカ側に送ったそうです。
 しかし、ハリスは文久2年(1862)4月に5年9か月の滞在を終えて帰国しました。
 帰国後は特に公職には就かず、1876年には保養地のフロリダ州に移住し、74歳で死去しました。ハリスは生涯独身でした。
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by wheatbaku | 2010-08-17 21:48 | 『幕末』 | Trackback
善福寺 【幕末の公使館① 江戸検定今年のお題(幕末)】
 今日からは、新しいシリーズで 「幕末の外国公使館」  について書いていきます。
 江戸幕府は、アメリカと日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を安政5年(1858)6月19日に結びました。そして、その後、幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結びました。これを総称して安政五ヶ国条約と言います。
 これらの条約締結後、江戸には外国の公使館が設置されました。
 
 これらの公使館の多くは現在の港区内の寺院に設置され、現在もその面影を残しています。
 今日からは、その 「幕末の外国公使館」 について書いていきます。
 
 最初はアメリカ公使館が設置された麻布善福寺です。善福寺は、東京メトロ「麻布十番」駅から5分の距離にあります。
c0187004_92983.jpg
【最初のアメリカ公使館跡】 
 安政6年(1859)に善福寺はアメリカ合衆国公使館となり、初代公使タウンゼント・ハリス以下の館員が駐在しました。そして、明治8年12月まで公使館として利用されました。
 そこで、参堂入り口には 「最初のアメリカ公使宿館跡」の碑が建てられています。
 善福寺は、浄土真宗本願寺派の寺院で、山号は麻布山(あざぶさん)と言います。
 天長元年(824)に弘法大師空海によって開山されたと伝えられていて都内では金竜山浅草寺につぐ最古の寺院です。。
 当初は真言宗の寺院でしたが、その後鎌倉時代になって越後国に配流になっていた親鸞が善福寺を訪れた際に、浄土真宗に改宗したとされます。
 戦国時代に石山本願寺が織田信長と戦った時には、善福寺は籠城する僧に援軍を送ったこともあるそうです。

c0187004_20173830.jpg 【本堂は明和年間建立のものを移築】 
 江戸時代には、幕府の保護を受け、特に三代将軍徳川家光は甲良豊後守に命じ当時の建築の粋を集めて本堂を建立し寄進しました。
 善福寺は、昭和20年5月の空襲で伽藍を焼失してしまいました。
 現在の本堂は、慶長年間に創建された家康が東本願寺八尾別院大信寺の本堂を昭和36年移築し再建したものです。
 元々明和4年(1767)に建立されたもので、京都天明の大火の後、約10年間、東本願寺の御影堂の役も勤めた由緒ある建物です。

c0187004_2019501.jpg 【逆さイチョウ】 
 境内には、「逆さイチョウ 」と呼ばれるイチョウの古木があります。
 名の由来は、枝が下のほうに伸びて逆さになっているように見えることからきています。
 このいちょうは、親鸞のついた杖から生えてきたという伝説のある古木です。
 そこから「杖イチョウ」の別名もあります。
 幹回りは10.4メートルあり都内で最大のイチョウです。樹齢750年以上で国の天然記念物に指定されています。
 再来日したシーボルトは文久元年(1861)の江戸滞在中にこの「逆さイチョウ」を見ているそうです。

c0187004_20202357.jpg【柳の井戸】 
善福寺の参道にある地下から湧き出ている清水です。弘法大師空海が柳の木の下で鹿島の神様に祈りを込めて錫杖を突き立てたところ、湧き出してきたという伝説があります。
 関東大震災や東京大空襲の際には貴重な飲み水を提供したそうです。現在でもかなりの量の水が湧き出ています。


【善福寺の今昔】 
c0187004_21212044.jpg この写真はベアトが来日直後の文久3年(1863)に撮影した善福寺です。
 山門と本堂が映っています。左側に見える木陰が「逆さイチョウ」ではないかと思います。
 この年、善福寺は水戸浪士の放火で書院などが焼失しました。
 この写真は長崎大学付属図書館所蔵です。

c0187004_20205588.jpg 上の写真と同じように参堂から現在の善福寺の勅使門を撮りました。
 背景には、近代的なマンションがそびえたっています。
 古寺と近代的なマンション、これがかつての江戸の現代の姿でもあります。
 でも、勅使門の左にある「逆さイチョウ」が昔の面影を伝えているように思います。
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by wheatbaku | 2010-08-16 22:04 | 『幕末』 | Trackback
大政奉還論 (松平春嶽⑩ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 松平春嶽は、政治総裁職の頃から大政奉還の考えをもっていました。
 今日は、その大政奉還論について書いていきます。

c0187004_17265565.jpg【大政奉還論は文久の改革のころから】 
 春嶽が政治総裁職に任命された時、幕臣として春嶽をささえたたのは大久保忠寛(一翁)でした。
 その大久保忠寛が大政奉還を最初に主張したのだと言われています。
 攘夷実行督促の勅使を迎えて大久保忠寛は、天皇への攘夷の約束は果たせないと正直に申し上げて許しがなければ大政奉還し駿河・遠江・三河三国の大名に戻ろうという案でした。
 春嶽はこの案を理解しました。
 この文久2年の段階での大政奉還論はできない攘夷約束を繰り返すのを止めようとというところに力点がありました。
 これに対して、一橋慶喜はその発想を受け付けませんでした。
 慶喜は当時将軍後見職にありました。後見職としては自分の責任で将軍位を失わせることになる大政奉還論に同意するわけにいかないという事情があったものと言われています。
 春嶽と慶喜は対立し、将軍後見職慶喜が攘夷奉承で押し切りました。大政奉還論を唱えた大久保忠寛は御側御用取次の地位を追われ、隠居に追い込まれました。
☆右の大久保忠寛の写真は国立図書館蔵です。

【長州再征停戦の際にも建言】 
 政治総裁職を辞職した春嶽は福井へ帰ります。
 福井に戻った春嶽は京都の動向に注目しますが機会はなかなかありませんでした。
 そうした中、文久3年に参預会議が設置され、春嶽、徳川慶喜、山内豊信、宇和島藩前藩主伊達宗城、松平容保、島津久光が任命され上京します。
 しかし、慶喜が中川宮の前で、春嶽・久光・宗城を名指して「天下の愚物・奸物」と罵倒したことにより参預会議が崩壊します。
 その後2年間、春嶽は福井で過ごし、慶応2年6月に長州再征の際上京します。
 そして、長州再征を諦められた慶喜が春嶽に協力を求めました。
 その際に、春嶽は、「天下之大政一切朝廷へ返上相成候事」と書いて政権を返上するよう慶喜に建言します。
 慶喜はこの案を了承し春嶽の協力を得ます。そして春嶽の助言により勝海舟を起用し長州との停戦交渉にあたらせます。
 海舟は慶喜が政治を一新するという見通しを長州に伝え停戦交渉をまとめあげました。
 しかし、慶喜は約束を守りませんでした。
 そのため、慶喜に利用された考えた春嶽は福井へ引き上げました。そして勝も江戸に帰りました。

c0187004_17242797.jpg【慶応3年の大政奉還】 
 大政奉還に消極的であった慶喜が慶応3年10月に大政奉還をします。
 大政奉還については、良く知られているように、坂本龍馬の船中八策に影響をうけた後藤象二郎の建策を山内容堂(左の写真は国立図書館蔵)が採用しました。
 そして土佐藩は10月3日に老中板倉勝静に建白書を提出しました。
 この建白書を受けた徳川慶喜が政権返上を決断し、10月14日に大政奉還しました。

 慶応2年8月には春嶽の提案を受け入れるふりをして実際は拒否した慶喜が、翌年10月の土佐藩の提案はそのまま受け入れました。
 越前藩と土佐藩を差別したわけではなく幕府を取り巻く情勢が大きく変化したのでした。

 大政奉還というとまず山内容堂の手柄と思いますが、それ以前に春嶽や大久保忠寛・勝海舟ら大政奉還論を唱えた人たちがいたことに注目したいものです。
 しかし、春嶽は、大政奉還の建白書が提出され、老中板倉勝静から意見を求められた時に、警戒感を表していて、その後の政局を積極的にリードしきれませんでした。
 そのため、春嶽の大政奉還論は知名度が低いのかもしれません。

 
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by wheatbaku | 2010-08-15 22:56 | 『幕末』 | Trackback
文久の改革 (松平春嶽⑨ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 政治総裁職の松平春嶽と将軍後見職の一橋慶喜が行った政治は、「文久の改革」  と呼ばれています。
 というより、文久の改革とは春嶽と慶喜の行った政治だということを今回知りました。
 今日は、その「文久の改革」について書いていきます。

 政治総裁職となった春嶽を中心として幕府改革の政策が実行されていきます。
 春嶽と慶喜の連立政権は、譜代大名出身の幕閣の成しえない空前の改革を次々に断行しました。

c0187004_15295469.jpg1、参勤交代の緩和 
 それまで隔年交代制であった大名の参勤交代を三年に一度に改め、江戸在留期間も100日としました。
 また人質として江戸に置かれていた大名の妻子についても帰国を許可することとなりました。
 これは、幕府にとって、重要な大名統制策を変えることになり、大きな政策変更でした。 
☆この緩和策は第一次長州征伐後の慶応元年(1865)正月に元に戻されました。
2、京都守護職の設置 
 文久2年閏8月に京都守護職の制度が設けられ、会津藩の松平容保が任命されました。
 京都守護職は、京都所司代の上に位置し、無法地帯となっている京都の治安と警備を強化するためです。
 春嶽は松平容保を適任者として、再三の要請により就任を決意させたのです。
 要請を受けた松平容保が何回も固辞した後悲壮な決意をもって就任したことはすでに書いていますので、こちらの「京都守護職」をご覧ください。
3、軍制の改革 
 陸軍については、軍制改革を行い、歩兵、騎兵、砲兵の三兵を置くことにしました。
 陸軍の役職も整えられ、歩兵・砲兵・騎兵の三兵の奉行がおかれ、それを統括する役職として陸軍奉行が設置されました。
 されにその上位に陸軍総裁が設置され、阿波藩主の蜂須賀斉裕(はちすかなりひろ)が任命されました。
 陸軍奉行は下野黒羽藩大関増裕が任命され、歩兵奉行は小栗忠順が初代奉行となりました。
4、朝廷政策の変更 
 その他、朝廷に関することでは、関白・大臣などの任命前に幕府の同意を求めることをやめました。さらに武家伝奏を任用する際に、誓詞を幕府に提出するのもやめました。

 このような改革を行った松平春嶽政権について「従来松平春嶽・一橋慶喜を中心とする新政権について、朝廷や薩摩藩によって成立を強要されたもので、幕府内の隠然たる反発が強くさしたる成果もあげられなかったとされてきた。しかし、幕政を転換させるうえでこの政権が果たした役割を過小評価することはできない」と大妻女子短期大学の高木不二教授は「横井小楠と松平春嶽」のなかで書いています。

 文久の改革を主導していた春嶽は、文久3年(1863)2月には、将軍上洛に先立ち京都に入り公武合体運動を推進しました。
 しかし朝廷からは攘夷期日の決定を迫られるなどして、三月9日に総裁職の辞表を提出し、無断で帰国しました。
 その後、3月25日になって政治総裁職を罷免され、逼塞に処せられました。
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by wheatbaku | 2010-08-13 15:37 | 『幕末』 | Trackback
政治総裁職就任 (松平春嶽⑧ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は春嶽の話に戻ります。 
 約5年間謹慎していた松平春嶽が活躍する場がまたできました。
 政治総裁職に就任したのでした。

 【久光、春嶽の大老就任要請】 
 安政の大獄を行った井伊大老は、安政7年3月3日に桜田門外の変で暗殺されます。
c0187004_1619786.jpg その後にできた久世広周と安藤信正による公武合体政策が進められていきます。しかし、その中心であった安藤信正が坂下門外の変で失脚します。
 そうした頃、薩摩の島津久光が、1000人の藩兵と率いて上京します。そして、改革趣意書9箇条を朝廷に提出し、松平春嶽の政治総裁就任、一橋慶喜の将軍後見職を含む朝廷による一連の幕政改革を建議したのです。
 久光は、基本的には公武合体的思想の持ち主で、兄斉彬の遺志を承継して、雄藩連合で幕府を動かすのが妥当と考え、朝廷を利用してその方向に幕府政治を動かそうと考えて動き出したのです。したがって、幕府そのものを倒そうなどとは考えていませんでした。
右の島津久光の写真は国立国会図書館所蔵です。

【御威勢大老職よりも超越せり】 
 朝廷では大原重徳(しげとみ)を勅使に任命し、久光にその警護を命じました。そのため、島津久光も勅使とともに東海道を下りました。
 勅使大原と島津久光は6月7日に江戸に到着し、10日に将軍家茂に面会し、①将軍の上洛、②一橋慶喜を将軍後継職に、松平春嶽を大老に、それぞれ就任させることなどを求めました。 幕府側には反発はあったものの受け入れざるをえず、、7月6日に一橋慶喜に改めて一橋家を相続させた上で将軍家後見職としました。 そして、翌7月9日に春嶽は政治総裁職に就任します。
 春嶽が大老にならず、新たに政治総裁という職を作ったのは、大老という職は井伊家など家臣の家柄の者が就任する役職であり、春嶽は将軍家の一門であったため大老職に就くのは不都合がああたため、政治総裁職というポストを新たに創り、それに就任することにしました。
 春嶽のあつかいは格別でした。
 「御登城往来は是までの通り、御玄関にて殿中御徒目付御先払い、御城内および見付け見付け惣下座往来留にて御威勢大老職よりも超越せり」と中根雪江が書いています。
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by wheatbaku | 2010-08-12 16:15 | 『幕末』 | Trackback
西郷が尊敬した左内(松平春嶽⑦ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 松平春嶽の話をするとどうしても橋本左内の話が必要になるので、2回ほど左内について書き、昨日は安政の大獄で死刑に処せられたことを書きました。

 橋本左内について調べていて、西郷隆盛が大変尊敬していたということが書かれていましたので、今日はそのことを紹介します。

【西郷隆盛が尊敬した橋本左内】】 
 明治10年9月24日、西郷隆盛は郷里鹿児島の城山で、その一生を終わりました。
c0187004_17183612.jpg その直後、官軍が捜索すると西郷がいつも携帯していた軍用鞄の中に、一通の手紙が入っていました。
それは、左内と西郷が「将軍継嗣問題」に奔走していた時期の安政4年12月14日付に左内から西郷に宛てられたものでした。
☆吉川弘文館「西郷隆盛」によると文書は「一橋公行状記」とのこと (22.8.18追記)
 西郷は、20年前の左内の手紙を亡くなるその瞬間まで肌身離さず持っていたのです。
 西郷にとって橋本左内という人物は、一生忘れることの出来ない同志であり、永遠の友人でもあったのです。
 また、西郷は、奄美大島に島流しになっている時に、大久保利通が諸藩で信頼できる人物を問い合わせた返事として安政6年正月2日付けの手紙の中で、水戸の武田耕雲斎・安島帯刀、越前の橋本左内・中根雪江、長州の益田右衛門介、肥後の長岡監物などをあげているそうです。
 ほとんどが家老級の人物です。その中の一人として橋本左内をあげているのです。
 そして、諸藩はそれぞれ勝手に行動せず、お互いに必ず十分打ち合わせて動くことが大事であり、事前に越前に連絡をとりその指図を受けるのが重要だとも書いているそうです。
 この越前とは橋本左内を指しているとのことです。
 これらの話は、講談社学術文庫「啓発録」に載っている金沢工業大学平泉洸教授の講演によるものです。

【「景岳橋本君碑」に見る左内の偉大さ】  
 小塚原の回向院の橋本左内の墓の前に「景岳橋本君碑」があります。
 「景岳」とは、橋本左内の号です。
  碑は非常に大きなもので、石が割れているのか金属で補強されています。
c0187004_21171573.jpg  碑文は非常に長文ですし一部が欠けたりしています。
 そこで、中公文庫「啓発録」の金沢工業大学平泉洸教授の講演の中で要約されていますので、それに基づいて書いてみます。
 それによると、当時の偉人傑物が左内を高く評価していることがわかります。 
 ①西郷隆盛は、「若い頃江戸で四方の賢人豪傑と交わったが、常に曰く、吾れ先輩においては藤田東湖に服し、同輩においては橋本景岳を推す。この両人は、我輩がまねようとしても、まねられるものではない。」と言って感嘆していた。
 ②川路聖謨は、「昨夜橋本に初めてあったが、その議論は実に深刻切実であって、自分は半身は斬りとられたような感じがした。一生の間、多くの人にあったが、これほど卓越した人物は未だ見たことがない」と舌を巻いて語った。
 ③武田耕雲斎は、「一見して百年の知己にあったように喜び、東湖は死んでしまったが、第二の東湖が生きていた」と言った。
 
 以上の撰文は重野安繹博士が書いています。
 重野安繹は西郷隆盛と同じ時期に奄美大島で島流しになっています。そうしたことから左内の話を西郷から直接聞いたことがあります。ですから重野博士の撰文は西郷から直接聞いたことを元に出来たものであると今泉洸教授は語っています。

 なお、藤田東湖に、春嶽の側近の鈴木主税(側向頭取)が「福井には人物がいなにので困ります」と言ったところ、東湖は「何をおっしゃる橋本左内がいるではありませんか」と言われ、驚いた鈴木主税が中根雪江と相談して左内を御書院番に推挙したそうです。
 藤田東湖からも、そして西郷隆盛からも若くして「人物」と認められて橋本左内は相当の人物だったのだろうと思います。
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by wheatbaku | 2010-08-10 15:00 | 『幕末』 | Trackback
  

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