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小千谷会談(北越戦争レポート⑦)

小千谷会談(北越戦争レポート⑦)

今日から、いよいよ北越戦争について書いていきます。

 河井継之助(つぎのすけ)は、軍制改革を行い軍備の充実を図ってきました。しかし、これは新政府軍と戦うためではなく、中立を維持するためだったと言われています。

 しかし、5月2日に行われた河井継之助(つぎのすけ)と岩村精一郎との会談(これが小千谷会談と呼ばれています)が決裂したことにより、長岡藩は、新政府軍に抗戦せざるをえないこととなります。

 今日は、この有名な小千谷会談について書いていきます。

 下写真は、河井継之助(つぎのすけ)と岩村精一郎の会談が行われた小千谷慈眼寺の会見の間です。

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 新政府軍では、北陸道鎮撫総督兼鎮撫使に任じられた高倉永砧が、閏4月25日、薩長に加賀・富山・長府の諸藩兵を加えて海路を越後高田に向かい、5月8日に高田に到着しました。総督軍には、薩摩の黒田清隆と長州の山県有朋が参謀として参加していました。

また、北関東から越後に入った旧幕府軍の衝鉾隊を追撃してきた土佐藩の岩村精一郎が率いる尾張・信濃の兵も、越後高田周辺に集合しました。

 

慶応4年3月15日、北陸道鎮撫総督は、越後11藩の重臣を高田に集合させました。

その際に長岡藩に対して会津攻めに出兵するか3万両の軍用金を献納するよう求めました。

長岡藩の藩論は新政府への恭順か抗戦かで二分されました。

しかし、長岡藩はいまだ新政府側、列藩同盟側のいずれにつくのか、態度を明らかにしませんでした。

河井継之助(つぎのすけ)は自分の立場は明らかにしないで、一方では恭順派の重臣を退け、一方で主戦派の暴発を抑えていました。
 下写真は、慈眼寺の会見の間に掲げられていた河井継之助(つぎのすけ)の肖像画です。

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閏4月19日、高田に集結した新政府軍は、柏崎から新潟をめざして海岸線を進む海道軍と十日町から小千谷をめざす山道軍に分れ進攻を開始しました。この山道軍を率いていた軍監が土佐藩士の岩村精一郎でした。

閏4月26日に河井継之助(つぎのすけ)が軍事総督に任命されました、

閏4月27日、山道軍は、当時、会津藩の飛び地であった小千谷を占領しました。

 慶応4年5月2日の早朝、河井継之助(つぎのすけ)は、軍目付の二見虎三郎と従僕2人を従え、小千谷にある北陸道鎮撫総督の本営に向かいました。

 この時、越後に駐留していた会津藩は、長岡藩が新政府へ恭順することを恐れ、会談の妨害を図って新政府軍を攻撃しました。

この時、長岡藩も一緒に攻撃していると見せるため長岡藩旗を戦場に持ちこみ、長岡藩が作戦に参加しているかのように見せかけたともいわれています。

戦いが間近に迫る殺伐とした状況の中で、小千谷に到着した継之助は、本営近くの慈眼寺に案内されました。

下写真が、慈眼寺の本堂です。

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現在も小千谷の慈眼寺の本堂には、会見の間が残されています。それが冒頭の写真です。しかし、ここは中越地震で壊滅的な被害を受けました。それが多くの善意により復興されたそうです。その感謝をこめて、本堂の会見の間は拝観料をとらずに公開しているそうです。

会談場所の本堂の会見の間には、継之助ひとりが通されました。

 新政府側で会談に臨んだのは、土佐藩の軍監岩村精一郎です。

 下写真は、会見の間に掲げられていた岩村精一郎の写真です。

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この岩村精一郎に同席したのが薩摩藩の淵辺直右衛門、さらに長州藩の杉山荘一郎と白井小助です。

  まず継之助は、出兵・献金の求めに従わなかったことを謝罪し、藩論が割れていることや会津・桑名・米沢など列藩同盟の諸藩が長岡城下にきてに新政府へ抵抗すべきであると迫っていて戦争になる恐れがある。しかししばらく猶予をもらえれば、会津等の諸藩を説得できる。だから進軍は見合わせて欲しい」と訴えました。

そして、藩主名の嘆願書を提示し、大総督府への取り次ぎを懇願しました。

 しかし、岩村精一郎はまったく取り合おうとしませんでした。

河井継之助は、繰り返し嘆願をしましたが、岩村精一郎は、河井継之助(つぎのすけ)の申し出を拒否し、わずか30分ほどで席を蹴ってしまいました。

小千谷会談の時、河井継之助(つぎのすけ)は42歳でした。それに対して軍監岩村精一郎は、親子ほども年齢の離れた、血気にはやる24歳の青年でした。
 経験の浅い岩村精一郎の対応がよくなかったといわれています。

 のちに岩村精一郎は、河井継之助(つぎのすけ)を「よくいる門閥出身の馬鹿家老の一人が戦争停止を嘆願するために来たと思いこんで、ほとんど頭ごなしに河井継之助(つぎのすけ)の要望をとりあわなかった」と回想しています。

 また、品川弥二郎は「会談に岩村のような小僧を出さずに、北越政府軍参謀であった黒田清隆か山県有朋を河井と合せたら戦争をせずに済んだかもしれぬ」と言っています。

 新政府軍側でも、悔いののこる会談結果だったのでしょう。



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by wheatbaku | 2017-07-09 11:46 | 『幕末』 | Trackback
河井継之助の藩政改革(北越戦争レポート⑥)

河井継之助の藩政改革(主に禄高改正)(北越戦争レポート⑥)

長岡レポートの6回目は、河井継之助(つぎのすけ)が行なった藩政改革について書きます。

 河井継之助(つぎのすけ)が行なった藩政改革のうち、私が一番注目したのが、禄高改正です。詳しくは後で述べますが、これは画期的なことだと思っていました。そうしましたら、思いがけず江戸検お題のテキスト『疾走!幕末・維新』に河井継之助(つぎのすけ)の行った藩政改革のなかでこのことが取り上げられています。

 そこで、禄高改正を中心に藩政改革について、取り上げることにします。

河井継之助(つぎのすけ)がどのように藩政改革を進めたのかについて具体的に紹介した資料は見当たらないと『決定版河井継之助』の中で稲川館長さんは書いています。

そこで、河井継之助(つぎのすけ)記念館には河井継之助(つぎのすけ)が行なった藩政改革についてまとめた資料が展示されていましたので、それに基づいて説明します。

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その展示資料では河井継之助(つぎのすけ)が行なった藩政改革を8つにまとめていました。

つまり、①軍制改革と禄高改を行う。②賄賂の慣習をやめさせる。③贅沢を一掃する。④免税制度の不正をやめさせる。⑤河税を廃止する。⑥造士寮を創設する。⑦賭博を禁止する。⑧遊郭を廃止する。の8項目です。

 河井継之助(つぎのすけ)は慶応元年10月に郡奉行となっています。

 この時代に行った藩政改革は、②賄賂の慣習をやめさせる。(慶応元年10月実施)、③贅沢を一掃する。(慶応元年10月実施)④免税制度の不正をやめさせる。(時期は不明)だと思われます。

そして河井継之助(つぎのすけ)は、慶応2年11月に町奉行を兼務することになりました。

その時代に実施された主に民政面での改革が、⑤河税を廃止する。(慶応3年12月実施)、⑥造士寮(人材育成機関)を創設する。(慶応310月実施)、⑦賭博を禁止する。(時期不明)、⑧遊郭を廃止する。〈慶応3年12月実施〉です。

 こうした藩政改革を踏まえて、大政奉還から王政復古の大号令そして鳥羽伏見の戦いでの旧幕府軍の敗北という激動する時代に対処するために行われたのが、①軍制改革と禄高改正です。

 このうちの禄高改正は、慶応4年3月1日に発表されています。

 禄高改正と軍制改革については、それについて詳しく書いてある『河井継之助の真実』(外川淳著)を参考に書いていきます。

禄高の改正は大改革でした。藩士の禄高を百石前後に統一しようというものです。

河井継之助(つぎのすけ)は長岡藩の軍制を根本から変えるために、まず藩士の禄高の百石に統一しようと考えました。

 江戸時代の武士は、禄高を主君から与えられる見返りとして、軍役にもとづいて平時には家臣を扶養し、戦時には一定数の家臣を連れて合戦に出陣する義務を負っていました。ところが、泰平の時代が続き、武士が実際に軍役を負担することがなくなり、さらに生活が困窮するにつれて、軍役の負担は形骸化していきます。

河井継之助(つぎのすけ)は、軍役が形骸化している以上、上級家臣に必要以上の禄高を与えることは無駄と判断し、藩士の基本給を百石に統一しようとしました。

また、戦国時代までは、上級武士は家来を引き連れて戦いましたが、近代的軍隊では、上級武士も一兵卒として戦わねばならません。

そこで、河井継之助(つぎのすけ)は、「上級武士でも戦場では一兵卒として戦う」という意識を一人一人に植えつけるため、藩士の禄高を百石に統一しようとしたとも考えられています。

しかし、百石への統一という改革は急激な改革であり、藩内の反発も予想されるため、実際の慶応4年3月1日の禄高改正では、2千石の稲垣家は5百石、20石の下級武士は50石というふうに柔軟に対応しています。

「疾走!幕末・維新」では、藩主への権力を集中するために行ったと書いています。

その通りですが、私は、さらに進んで、武士の役割をも否定し封建体制を崩壊させてしまうという側面もある画期的な改革だと思います。

 続いて河井継之助(つぎのすけ)が実施した軍制改革について書きます。

 河井継之助(つぎのすけ)は、身分別に士分を銃士隊、足軽以下を銃率隊という定員36名とする小隊を基礎単位としました。そして8小隊で1大隊を構成しようとしました。河井継之助(つぎのすけ)は小隊を32個編成しようとしましたので、総数で4大隊・総定員約1100名の軍隊を編成しようとしたことになります。 

 しかし、実際の軍勢は千名ぐらいと言われているようです。

また、兵器では、ミニエー銃(前装式のライフル銃)を各小隊に配備しました。

すでに、日本には後装式ライフル銃や連発銃も輸入されていましたので、最新鋭ではありませんでしたが、当時としては一定の評価ができる軍備といえると思います。

戊辰戦争当時の東北諸藩の中には、戦国時代さながらの軍装で出陣した藩もあるなかで、たとえ千名であっても、新政府軍に対抗できる小銃を保有し、近代戦の訓練を受けた兵士でしたので、長岡藩はかなりの戦力を保持していたということになります。



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by wheatbaku | 2017-07-06 08:47 | 『幕末』 | Trackback
ガトリング砲(北越戦争レポート⑤)

ガトリング砲(北越戦争レポート⑤)

 河井継之助記念館を入ると、まず目に入ってくるのが、ガトリング砲です。ガトリング砲といえば即座に河井継之助の名前があがるほど河井継之助とガトリング砲は大変有名です。そこで、今日はガトリング砲について書きます。

ガトリング砲とは、複数の銃身を束ねた連発砲です。のちの機関銃の原型と言われています。

 記念館に展示されているガトリング砲は、中心軸を中心に6本の銃身を束ねてあり、右脇にあるハンドルをまわして銃身を旋回させると弾丸が連続発射する仕組みです。下写真は河井継之助記念館に展示されていたガトリング砲です。

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下写真がハンドル部分の拡大写真です。黒いハンドルを回すと銃身が回転し弾丸を発射する仕組みになっています。


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1861型では1分間に最大200発の発射が可能でした。そのため、宣伝文句で「一挺で一個連隊に匹敵する」と言われました

ガトリング砲は、1862年にアメリカの医師リチャード・ジョーダン・ガトリングによって開発された兵器です。

アメリカでは、南北戦争の最中でした。南北戦争は1865年に終了し、アメリカでの販売が難しくなります。

そこで、日本への売り込みが行われました。日本ではちょうど衣臭くなってきた時期でした。

日本には3台のガトリング砲が、ファーブルブラント商会によって輸入されました。そのうち2台を河井継之助は購入しました。

ガトリング砲は大変高価でして、河井継之助はこれを1台3千両(河井継之助記念館の説明によります。ほかの書物には5千両と書いてあるものもあります)で購入しました。

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 河井継之助は、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、長岡藩兵を率いて江戸に急いで戻りました。

 そして、藩士のほとんどを長岡に帰した後、長岡藩の江戸藩邸および備品等を処分します。

 こうして工面した資金をもとに横浜で武器を購入しました。

それを、河井継之助は、横浜で船に積み込み、新潟港まで輸送し、長岡城に運び込みました。

このガトリング砲が威力を発揮したのが、慶応4年5月19日に新政府軍により長岡城が攻撃された時です。

この時、ガトリング砲を河井継之助は自身で操作して、慶応4年5月19日の長岡城攻防戦で使用し、新政府軍を苦しめました。

 こうした河井継之助とガトリング砲の活躍にもかかわらず、多勢に無勢で、長岡城は落城という憂き目にあっています。

 ガトリング砲は当時、日本には3門しかなかったと言われています。

 そのうち、2門が河井継之助が購入しましたので、残り1門がどうしたかということが疑問として残ります。

 これについて司馬遼太郎は「峠」で次のように、薩摩藩が購入し藩軍艦尾「春日」に載せたと書いています。

この砲は、継之助かスネルから買ったガットリング砲で、日本に三門しかないというもので、いわば世界的にまだめずらしい新兵器であった。日本に三門しかないうちの二門を継之助はおさえたが、あとの一門は薩摩藩に買われてしまった。薩摩藩はそれを藩冪艦の春日の艦尾にのせた。その艦尾砲の主任士官が東郷平八郎という青年であり、宮古湾海戦でこの砲が威力を発揮したが、むろん、この場合の継之助とはなんのかかわりもない。「機関砲」という名は、継之助がつけた。

なお、新政府軍の軍艦「甲鉄」にもガトリング砲が載せられていたようですが、このガトリング砲は『図説幕末維新の銃砲大全』によれば1685型という型式で、これは河井継之助が購入したものとは型式が違っているようです。

 


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by wheatbaku | 2017-07-03 23:17 | 『幕末』 | Trackback
河井継之助記念館(北越戦争レポート④)

河井継之助記念館(北越戦争レポート④)

長岡についての記事、今日は、「河井継之助記念館」について書いていきます。

 河井継之助記念館は、長岡駅から徒歩9分の場所にあり、長岡駅から歩いていきました。

 河井継之助記念は、平成18年に長岡市制100周年記念の一環として、河井継之助が住んでいた屋敷跡に開設されました。

 外観は記念館風ではなく、個人の住宅の雰囲気です。これは、記念館は、河井継之助屋敷跡にあった個人のお宅をそのまま利用して開設したそうですから、その見えるのですね。

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 河井継之助記念館は、河井継之助に関する資料が展示されていて、河井継之助の一生や北越戦争の動きなどが、わかりやすく解説されています。

 河井継之助を知るには、まずここを訪ねるのがよいと思います。

 館内の展示は、一部の物を除いては撮影禁止ですが、河井継之助の銅像はOKとのことでしたので、写真を撮らせていただきました。
銅像は「風雲 蒼龍窟 河井継之助像」と名付けられていて長岡在住の彫刻家峰村哲也氏が制作したものです。

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 河井継之助記念館は、河井継之助ゆかりの地を知る上で欠かせない場所ですので、ここを訪ねましたが、訪問の目的はもう一つありました。

 それは、記念館の館長の稲川明雄様にお会いするためです。

 稲川館長さんは、このブログの記事を書く上でお世話になっている『長岡藩』の著者ですし、河井継之助に関する著書も多数あります。

 そこで、河井継之助に関して、いろいろご教示いただこうと思ってお邪魔させていただきました。

入館早々に稲川館長さんにお会いしたい旨お願いしましたら、来客中とのことで、用事が済まされた後にお会いすることができ、まず持参した著書「決定版河井継之助」にサインをしていただきました。

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 稲川館長さんからは、いろいろご教示いただきましたが、話題の中心は、河井継之助の名前の呼び方です。

 河井継之助は、多くの場合、「つぐのすけ」と呼ばれます。しかし、「つぎのすけ」とも呼ぶ場合もあります。

 そこで、その点をお尋ねしました。稲川館長さんのお答えは明快でした。一言で「『つぎのすけ』です」とのことでした。

 稲川館長さんのお話では、元々は『つぎのすけ』ですが、越後弁では、『ぎ』という語尾が上がる発音が明確にならず、『ぐ』という語尾の下がる発音に似た発音になりやすいそうです。そのため『つぎのすけ』が誤って『つぐのすけ』と聞きとられたのだろうとのことでした。

 

 河井継之助を一気に全国区の有名人に押し上げたのは司馬遼太郎の「峠」でしょう。

 その司馬遼太郎のエピソードを稲川館長さんがしてくださいました。

「司馬さんは、『峠』を書く前に『英雄児』という短編で河井継之助について書いています。その短編の原稿には『つぐのすけ』とフリガナが振られていました。しかし、『峠』では、印刷された本では、最初だけ「つぎのすけ」とフリガナがふられているだけですが、残された原稿を見ると、原稿ではすべての『継之助』に『つぎのすけ』とフリガナが振られています。すべてに『つぎのすけ』とフリガナがふられていることに司馬さんの思いが込められているように思います」

 稲川館長さんのおっしゃられたことは、司馬遼太郎は初期の『英雄児』を書く時、河井継之助という人物の正しい名前も知らなかったことに対する悔い(もしくは申し訳なさ)が、『峠』を書く時にはそうさせたのではないかということだと思います。

 そうだとすれば、司馬遼太郎もすごい人だと思いました。

 稲川館長さんには事前の予約なしにお邪魔したにもかかわらず長時間に亘り貴重なお話を伺うことができました。稲川館長さんは、毎日出勤されているわけではないとのことで、お会いできて大変幸運でした。

 稲川館長さんに、写真を一枚とお願いしましたら、快く承諾してくださいました。

 稲川館長さん、本当にありがとうございました。心よりお礼申し上げます。

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 河井継之助の呼び名について、稲川館長さんのお話を裏付ける展示が河井継之助記念館にありました。

河井継之助は、慶応元年から藩政改革を行いましたが、その一環として慶応2年もしくは3年に遊郭を廃止しました。

 その際に、つぎのような狂歌が長岡に流行ったそうです。

「河井(可愛い)河井(可愛い)と今朝までおもひても 今では愛想も継(尽き)之助」

 この最後の句にご注意ください。

 「愛想が継(尽き)之助」となっています。これは「愛想がつく」と「つぎのすけ」とをかけた言葉です。

 もし、「つぐのすけ」であれば、掛け言葉になりません。

 やはり、長岡の人たちは「つぎのすけ」と当時から呼んでいたのに違いありません。

 なお、江戸検お題参考図書「幕末・維新」P176に前述の狂歌が書かれていますので、江戸検を受検される皆さんはご確認ください。

 その後も、長岡市内の観光案内や史跡説明板で、河井継之助のフリガナを意識して見てみると、長岡では、すべて「つぎのすけ」でした。

また、家に帰り、早速、司馬遼太郎の『峠』も確認しました。確かに最初に「つぎのすけ」とフリガナが振ってありました。

 これからは「つぐのすけ」ではなく「つぎのすけ」と呼ぶことにします

 


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by wheatbaku | 2017-07-01 21:49 | 『幕末』 | Trackback
長岡藩主牧野氏(北越戦争レポート③)

長岡藩主牧野氏(北越戦争レポート③)

長岡藩の藩主は、牧野氏です。今日は、牧野氏について書いていきます。

 牧野氏が長岡藩主になったのは、元和4年(1618)のことで、牧野忠成が長岡藩初代藩主として入封しました。それ以降廃藩置県まで、約250年間、牧野氏は長岡藩を統治しました。

 250年間にわたって、同じ領地を治めていた大名は、御三家や外様大名はともかく譜代大名ではあまりいないのではないでしょうか。すぐに思い当たるところでは、彦根藩井伊家ぐらいでしょうか。

 

 牧野氏は、元々は三河国牛久保城を拠点とした家系です。

 牧野氏は、東三河の有力豪族で、戦国時代には、西三河の松平氏と競いあうほどでした。

 しかし、桶狭間の戦いの後、徳川家康が台頭するようになり、徳川家康の家来となり、天下統一に貢献します。

 そのため、長岡藩では初代牧野忠成の父牧野康成を家康17神将の一人としています。

 牧野康成は、家康の関東入封に際に上州大胡城主となり、その子牧野忠成が、元和4年(1618)越後国長峰から長岡に入封しました。それ以降、13代にわたって長岡を治めました。下写真は、牧野家の家紋「丸に三つ柏」です。

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 大名となった牧野氏は幕末には五家ありました。

長岡藩7万4千石、笠間藩8万石、丹後田辺藩3万5千石、小諸藩1万5千石、三根山藩1万1千石です。

 この五家の本家が長岡藩牧野氏でした。

 笠間藩初代牧野成貞は、忠成の甥にあたります。牧野成貞は5代将軍綱吉の側用人として有名です。

 丹後田辺藩は忠成の従弟の牧野親成が藩祖です。小諸藩は忠成の次男康成、三根山藩は忠成の四男定成を藩祖とします。

一族で大名が五家もある家はあまり多くありません。それだけ牧野氏一族が栄えたということになります。

 長岡藩牧野氏には、暗君はいなかったようですが、3代忠辰(ただとき)は、特に名君として尊敬されています。

 5代将軍綱吉の代に、越後国高田藩松平光長が取り潰されました。その際の高田城受取の大役を無事に果たしています。

 この忠辰は、華美な風を否定、質素倹約の藩政を行いました。それを象徴するのが「十分杯(じゅうぶんはい)」です。

「十分杯」とは八分目までなら普通に使えますが、並々注ぐと底の穴から1滴残らず流れ出てしまう酒器です。

「物事は八分目くらいの余裕をもって行動すれば万事うまくいくもの」と説いて自らを戒め、家来をも戒めたと伝えられています。

 この十分杯は、長岡市郷土史料館に展示されています(下記写真)。なお、郷土史料館は、写真撮影OKでした。

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 牧野氏は、江戸時代中期までは、幕閣となった藩主はいませんが、江戸時代後期になると、3代にわたり幕府の老中を輩出します。

 9代藩主の牧野忠精が享和元年(1801)、10代藩主の牧野忠雅は天保14年(1843)、11代藩主牧野忠恭は、文久3年に老中に就任しました。

10代藩主牧野忠雅は、ペリー来航した時には、海防掛の老中でしたので、開国問題で苦労したことだと思いますが、阿部正弘のほうがクローズアップされていますね。

河井継之助が仕えたのが11代藩主牧野忠恭です。というより河井継之助を抜擢したのが牧野忠恭です。

牧野忠恭は、文久2年(1862)に京都所司代を勤めています。天誅の嵐が吹きまくる中での京都所司代でしたので、苦労したと思います。河井継之助は、この時、忠恭に京都所司代を辞任するよう進言しました。そうしたら、忠恭は、文久3年に老中に栄転となってしまいました。そこで、河井継之助は、老中の辞任も、進言しています。その進言に従って、牧野忠恭は慶応3年に老中を辞任しています。

長岡藩牧野家の菩提寺は、江戸では三田の斉海寺です。斉海寺には、これまで何回もお邪魔したことがありますが、長岡藩牧野家のお墓は長岡に改葬されていますということで、機会があったら長岡でお参りしたいと思っていました。

その斉海寺から改葬された牧野家の墓碑に、長岡市郷土史料館のある悠久山公園にある蒼柴神社(下写真)でお目にかかることができました。 

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蒼柴神社は、9代藩主牧野忠精が、天明元年(1781)、現在地に蒼柴神社を建立し、蒼柴神社一帯の地を悠久山と名づけたそうです。

蒼柴神社は、そもそも、3代藩主牧野忠辰が、神道を深く信じため、没後、京都の吉田家から蒼柴明神の神号を贈られました。そこで、忠辰と忠辰が崇拝した事代主命(ことしろのぬしのみこと)を、城内に社を建てて祀ったのが始まりだそうです。

 時代が下がり、忠精が、忠辰(ただとき)の50回忌の際に、現在地に蒼柴神社を移し、日光東照宮を模して権現造りの社殿を完成させたものです。現在の社殿は、その当時の社殿が残されています。

 社殿に向かって右側に、長岡藩主牧野氏歴代の墓碑群があり、2代藩主忠成から11代藩主忠恭までの間の17基の墓碑(下写真)が建っています。この墓碑群は、昭和58年に移されました。

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蒼柴神社の宮司さんのお話では、神社にお墓があるのは違和感があるかもしれませんが、蒼柴神社の御祭神は3代藩主牧野忠辰公で、牧野家と縁が深いので安置してあります。三田の斉海寺から改葬されたお殿様のお遺骨は菩提寺の栄凉寺に埋葬されています」というお話でした。

そこで、長岡駅近くの栄凉寺にお参りしました。(ちなみに栄凉寺には河井継之助のお墓もあります。)下記写真が歴代藩主の墓碑ですが、合祀墓となっていますが、改葬された歴代藩主のお遺骨は、合祀墓の下に埋葬されているそうです。

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最後に、現在の牧野家御当主は17代目の牧野忠昌様ですが、牧野忠昌様は、ご自宅を東京から長岡に移され、現在、長岡にお住まいだそうです。
 


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by wheatbaku | 2017-06-29 10:41 | 『幕末』 | Trackback
長岡城(北越戦争レポート②)

長岡城(北越戦争レポート②)

河井継之助ゆかりの地長岡について今日から詳しく書いていきますが、最初は、長岡城について書きます。

 新幹線で長岡駅に降り立って、長岡市内を歩いても、天守はもちろん、石垣や堀もまったくありません。そのため、現在の姿からは長岡が城下町だったということは想像できません。

 しかし、よく見ると長岡駅大手口を出た駅前広場には、「長岡城本丸跡」という石柱が建てられています。(下写真)長岡駅そのものが長岡城の本丸なんですね。

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さらに長岡駅から歩いて3分ほどの距離にあるアオーレ長岡の敷地内には と刻まれた 「長岡城址」と刻まれた石碑があり、「長岡城二の丸跡」と刻まれた石柱もあり、駅前が二の丸であったことがわかります。(下写真)

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現在の姿からは想像できませんが、長岡駅周辺には、確かに長岡藩7万4千石のシンボル長岡城があったのです。 

 長岡には、江戸時代初めには城はありませんでした。

長岡に城を築いたのは堀直寄でした。

その築城にあたって、一匹の白狐が大きな役割を果たしたそうです。

『長岡藩』(稲川明雄著)には次のように書かれています。

長岡城建設責任者の普請奉行が、ある早春の朝、雪におおわれていた築城予定の平潟原に行くと、一匹の白狐があらわれ、一本の長い苧をくわえ、やがて、その苧を引きずりながら、はねまわっていました、普請奉行が、その苧のあとをたどってみると、それは城の縄張りになっていたそうです。そこで、普請奉行は、これをもとに設計図を描き、城の築城工事にかかったそうです。

長岡城は別名苧引形兜城といいますが、この名前は、そのときの白狐の啓示に感謝したものだと伝えられているそうです。

この時の白狐を祀った城内稲荷神社が、二の丸跡を示す石碑の脇に鎮座しています。

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長岡城には、本丸、二の丸、三の丸、曲輪、詰の丸があり、城は1キロメートル四方の広さがあり、石高に似あわず規模の大きな城でした

長岡城は、本丸の西側に二ノ丸があり、さらにその西側に大手門がありました。この大手門のさらに西を信濃川が流れていました。

天守はありませんでしたが、それに替わる「三階櫓」がそびえたっていました。「御三階櫓」は、本丸の西北角にあり、八方正面と呼ばれ、どこからみても正面にみえる櫓でした。下写真は「牧野家史料館」に展示されていた復元模型です。

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 現在、長岡城の面影がないのは、『長岡藩』(稲川明雄著)によれば、戊辰戦争の影響のようです。 

北越戊辰戦争の際に、新政府軍の攻撃により落城し、それを長岡藩側が奪還し、さらに新政府軍により落城するという、三度にわたる戦いでほとんどの建物が焼失してしまいました。

そして、焼け残った二つの隅櫓と二つの城門は近郊の豪農に売り払われているそうです。

戊辰戦争後、長岡藩士とその家族が食べるものがなく、長岡城の城跡は、開墾され、田畑に変えりました。また一部は学校や役所の用地となりました。

このように農地などに利用されていた城跡に、明治31年、北越鉄道が横断することになり、本丸跡に長岡駅ができて、それを中心に市街地が形成されることになりました。

 なるほど、だから、長岡には城下町の面影がないんですね。


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by wheatbaku | 2017-06-27 11:07 | 『幕末』 | Trackback
河井継之助ゆかりの地長岡に行ってきました(北越戦争レポート①)

河井継之助ゆかりの地長岡に行ってきました(北越戦争レポート①)

 先週木曜日と金曜日、河井継之助ゆかりの地長岡を旅行してきました。

 河井継之助と北越戦争を中心に訪ねてきましたが、大変収穫の多い旅行でした。そこで、これからはしばらく長岡のお話を書いていきたいと思います。

 今日はとり急ぎ主な訪問地について概略レポートします。下の写真は、慈眼寺会見の間に飾られていた河井継之助の肖像画です。

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 長岡には新幹線で行きました。長岡駅は長岡城の本丸があった場所に建設されたものですが、三尺玉のモニュメントがお出迎えしてくれました。

 長岡の花火は全国的に有名で100万人以上の人が観に来るそうです。長岡は昭和20年8月1日の空襲で多くの人が亡くなりました。
 その人たちを慰霊するために花火が打ち上げられるそうです。
 そのため、打ち上げ日は毎年8月2日3日と決まっているそうです。

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 河井継之助を知るためにまず訪ねたのが河井継之助記念館です。
 河井継之助が住んでいた屋敷跡に建てられたもので、長岡駅から徒歩5分程度で交通も至便です。河井継之助の功績をしるのに役立つ展示がされていまて、ガトリング砲は大変精巧に復元されていました。

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 長岡郷土史料館は、長岡駅からバスで15分程の悠久山公園の中にあります。

 悠久山公園は広大な公園で、史料館は奥まったところにあり、バス亭からですと20分弱かかります。自然豊かな登り坂を登っていくのでちょっとしたハイキング気分でした。最も近い駐車場からも登り坂で10分です。

 史料館の建物は城を模した立派な建物です。長岡の偉人の展示や最上階からの見晴らしがすばらしいです。ハイキング気分で歩く価値があります。

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 河井継之助ゆかりの地で絶対はずすことができないのが小千谷の慈眼寺です。慈眼寺には河井継之助と新政府軍軍監の岩村精一郎との会談いわゆる小千谷会談が行われた会見の間が残されています。中越地震で甚大な被害を受けたそうですが、見事に復元されていました。

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 小千谷会談は、新政府軍から30分で切り上げられてしまいました。しかし、なんとしても戦いを避けたい河井継之助は、慈眼寺の近くの料亭「東忠」に留まり、なんとか再会談できるよう試みました。
 その「東忠」は現在も営業をしています。小千谷会談の後、河井継之助が留まって
いたという部屋も残されています。「東忠」は食事もできますので、ここでお昼ご飯を食べました。

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 河井継之助の戦争回避のための努力も空しく終り、河井継之助と長岡藩には戦いの道しか残されていませんでした。

 会談が決裂したため、長岡摂田屋の光福寺に戻った河井継之助は新政府軍との闘いを宣言しました。光福寺は、その後、長岡軍の本営となりました。

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 長岡藩と新政府軍の最初の戦いが起きたのが榎峠でした。
 榎峠は、小千谷と長岡藩領の境にある峠です。
 小千谷側に陣取っている新政府軍の進入を防ぐためには絶対抑えなければならない要衝の地です。ここを河井継之助はまず攻撃し占領しました。
 この榎峠の麓の国道脇に「榎峠古戦場パーク」と名付けられた史跡が造られています。現在は榎峠の麓を国道が通っていて、車があっといまに通り過ぎていきますが、江戸時代、三国街道は山の中を通り、榎峠は険阻な峠道だったそうです。

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 信濃川にかかる「越の大橋」の西のたもと(つまり榎峠の対岸)に河井継之助の名を一気に高めた司馬遼太郎の「峠」の碑があります。
 碑文を読んで後ろを振り返ると激戦地榎峠や朝日山が見渡せました。

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 榎峠や朝日山の戦いで敗北した新政府軍は、榎峠からの長岡藩領への進入を断念します。
 それに代わって計画されたのが、信濃川を渡河して直接長岡城を攻めるという奇襲作戦です。
 河井継之助は、まさか信濃川を渡河してくるとは考えていなかったため、信濃川の防衛に兵力を割きませんでした(割けなかったというのが本当でしょう)。
 そのため、信濃川を渡河してきた新政府軍に長岡城を攻め落とされました。
 新政府軍が渡河した際に、城下に危機到来を知らせた西福寺の鐘が「維新の晩鐘」と名付けられて残されていました。

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 長岡城から退却した河井継之助は何度か反撃を試みます。そしてついに7月25日に長岡城を奪還します。

 その際の河井継之助の作戦は、長岡城の北東に大きく広がる「八丁沖」という大湿地帯を強行突破するという奇襲作戦でした。

 長岡藩兵は見事にこの難行をやりとげ、新政府軍から長岡城を奪い返しました。

 長岡藩勢が上陸した場所は、八丁沖古戦場パークと名付けられ、記念碑がたてられています。

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 河井継之助は長岡城を奪還した後、新政府軍の反攻状況を視察中に銃撃により負傷し戦場で指揮をとることができなくなりました。そのため、物量で勝る新政府軍からの攻撃を長く支えることができず、7月29日に長岡城は再度新政府軍の手に渡ります。

 そして、負傷した河井継之助は、怪我の治療を拒否し、ついに会津への逃避行の途中、只見でなくなります。
 継之助の遺骨は一旦会津若松に埋葬され、翌年、長岡の菩提寺「栄凉寺」に埋葬されました。
 下記写真が、河井継之助のお墓ですが、生き生きしたお
花が供えられているのが印象的でした。

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 次回から、河井継之助ゆかりの地長岡について詳しくレポートします。




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by wheatbaku | 2017-06-25 11:29 | 『幕末』 | Trackback
墨染の難

近藤勇、狙撃される(墨染の難)

油小路の変で、伊東甲子太郎を暗殺し高台寺党の3人を殺害した新選組ですが、逆に高台寺党の生き残りメンバーから、局長の近藤勇が、狙撃されるという事件がおきました。

 今日は、その近藤勇が狙撃された「墨染の難」について書きます。

 油小路での新選組の襲撃を逃れた高台寺党の鈴木三樹三郎たちは、京都烏丸の薩摩藩邸に保護され、11月21日に伏見の薩摩藩邸に移りました。

 12月9日の王政復古の大号令により、辞官納地を命じられた徳川慶喜は、幕臣や会津藩の強い怒りにより戦いが起こることを懸念し、12月12日に大坂に下ることにしました。

 その時に、新選組も、京都を離れることになりました。

 本来であれば、大坂まで下るところですが、伏見奉行所に駐屯を命じられました。

 以後、伏見奉行所が新選組の屯所となりました。

そして18日、近藤勇は若年寄永井尚志らと軍議のため二条城に入りました。

軍議を終えて二条城を出た近藤勇は十数人の隊士を連れて屯所に向かいました。

その途中、伏見街道を馬に乗って南下していた近藤勇一行が、現在の墨染(すみぞめ)付近にさしかかったところ、突然、空家の中から狙撃されました。

 時刻は午後4時ごろとも7時ともいわれています。

 近藤勇が狙撃されたと言われている場所近くに藤森神社があります。(下写真)

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狙撃したのは、高台寺党の生き残りの富山弥兵衛でした。

近藤勇は右肩を撃たれましたが、なんとか、馬からの転落を食い止めました。

そして、高台寺党の3人が、新選組に斬りこみをかけたので、近藤の馬のそばにいた隊士が、馬の尻をたたき、近藤を避難させました。

近藤の乗った馬は、少し離れた伏見奉行所に飛び込みました。こうして、近藤は命拾いをしました。

 襲撃した高台寺党は、少人数でしたが、無事に逃げ切り、薩摩藩邸に逃げ込みました。

 近藤勇は、命は助かったものの、傷の治療のため、大坂に下ることになり、以後の新選組の指揮は土方歳三がとりました。

 そのため、近藤勇は鳥羽伏見の戦いでは戦っておらず、新選組は土方歳三の指揮下で戦いました。

近藤勇が襲撃されたのは、伊東甲子太郎の暗殺からちょうどひと月たった日でした。

伏見の薩摩藩邸に身を寄せて復讐の機会をじっとうかがっていた高台寺党の残党の執念の前に、さすがの近藤勇も痛い目にあうことになりました。



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by wheatbaku | 2017-06-21 21:18 | 『幕末』 | Trackback
油小路の変(『幕末』)

油小路の変


 伊東甲子太郎の暗殺は、油小路の変と言われます。

しかし、油小路の変の変は、これで終わりではありませんでした。
 伊東甲子太郎の暗殺は油小路の変の第一幕でした。
 この後、第二幕がありました。

近藤勇は伊東甲子太郎を暗殺するだけでなく、伊東甲子太郎の死体を油小路七条に放置し、高台寺党の面々をおびきだし、殲滅しようとしました。

そこで、近藤勇は、死体を駕龍で油小路七条の辻に運んで路上に放置し、町役人に命じてその遺体が油小路七条の辻にあることを月真院に急報させました。
 下写真が、現在の油小路七条の交差点です。
 縦が南北に通る油小路です。道幅がまり広くないことがわかると思います。多くの車が通行しているのが七条通りです。

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一方で、沖田総司、永倉新八、原田左之助に20人程の隊士を率いて待ち伏せるよう指示しました。

伊東甲子太郎が殺害されたという連絡は、月真院の高台寺党に町役人によってもたらされました。

 土佐浪士と口論の末に、斬られ、遺骸は七条油小路に放置されたままであるから、引き取りに来て欲しいという内容でした。

 この時月真院にいた高台寺党の隊士は7人だけでした。

 藤堂平助、そして伊東甲子太郎の弟の鈴木三樹三郎、篠原泰之進、服部武雄、加納鵬雄、富山弥兵衛、毛内有之進の7人です。

 7人は、ただちに、油小路に飛んで行きました。ところが、あたりには人影はなく、伊東甲子太郎の死体だけが放置されていました。
 高台寺党の面々は、駕籠に収容しようとした時に、20人と超える新選組隊士から一斉に襲撃されました。

 新選組は、鎖帷子で万全に防護していました。それに対して、高台寺党側は、普段の服装でした。
 多勢に無勢。しかも、新選組は、完全武装。高台寺党に勝ち目はありませんでした。


 乱戦のなかで討ち死にした者は、藤堂平助、服部武雄、毛内有之進の3人。

 残る鈴木三樹三郎、加納道之助、富山弥兵衛、篠原泰之進の4人はからくも脱出しました。

 そして、新選組は、襲撃は土佐藩士のしわざとみせて、残りの高台寺党の人々をおびき出すために死骸を4日間そのまま放置しておきました。

 しかし、ついに残りのメンバーが現れなかったため、5日目に収容して光縁寺に葬りました。その後、伊東甲子太郎たちの遺骨は泉涌寺塔頭戒光寺に改葬されました。





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by wheatbaku | 2017-06-17 20:21 | 『幕末』 | Trackback
伊東甲子太郎暗殺(『幕末』)

伊東甲子太郎暗殺

 慶応3年11月15日、宿泊先の近江屋で襲撃された坂本龍馬は即死し、中岡慎太郎は重傷を負いましたが、翌々日17日に亡くなりました。

 二人の葬儀は、海援隊士、陸援隊士、土佐藩士、薩摩藩士等が大勢参列し18日に行われ、二人は京都東山霊山に埋葬されたといわれています。下記写真は、霊山の坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓です。

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 当初、二人の暗殺者と強く疑われたのは新選組ですが、坂本龍馬と中岡慎太郎の葬儀が行われた18日に、かつての同志伊東甲子太郎を暗殺しています。

伊東甲子太郎は、元治元年、同じ北辰一刀流の藤堂平助の仲介で新選組に加盟しましたが、慶応3年3月19日に、孝明天皇陵の御陵衛士を拝命し新選組から独立しました。伊東甲子太郎は、仲間と共に高台寺月真院に拠点を移し高台寺党と呼ばれていました。下記写真は御陵衛士が屯所を置いた高台寺月真院です。門前に御陵衛士屯所跡と石碑に刻まれています。

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この伊東甲子太郎を11月18日、近藤勇は資金の用立て・国事の相談があるとの口実で七条の醒ヶ井木津屋橋上るの妾宅に伊東を招きました。

そこで、近藤勇のほか、土方歳三たちもいて、一緒になって宴会が開かれました。

酒好きの伊東甲子太郎はついつい酒を呑んでいきます。

そして、午後10時過ぎに、近藤勇の妾宅を出て、木津屋橋を東に入った通りで、新選組隊士の大石鍬次郎が待ち伏せて槍を突き出して伊東甲子太郎を刺しましました。

伊東甲子太郎は深手を負いましたが、よろよろと近くの尼寺本光寺までたどりつきましたが、本光寺前で絶命したといいます。

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本光寺は、京都駅からそれほど遠くないところにあります。

以前訪ねた時には、本光寺は無住のお寺となっていて、近くの床屋さんがカギを管理されていて、お願いしたら、中に入れてくださいました。

山門を入るとすぐに右手に「南妙法蓮華経」と刻まれた石碑があります。

伊東甲子太郎は、新選組に襲われ致命傷を負った際に、この石碑に腰かけたと言われています。

この石碑は、当時は、門前にありましたが、その後、お寺の敷地を拡げたので門の内側に置かれることになったようです。

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この伊東甲子太郎ですが、中村彰彦氏は『新選組全史 戊辰箱館編』で、坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃される前の11月13日に、坂本龍馬と中岡慎太郎を藤堂平助とともにわざわざ近江屋を訪ねて「新選組と見廻組がおふたりをねらっているらしい。このような町屋にいては危険きわまりないから、至急土佐藩邸に移って身を守ってくだされ」と言ったが、中岡慎太郎は「親切な注意はありがたい」といったものの坂本りょうまは何も言わなかったと書いています。

大変興味を覚えましたので付記しておきます。

赤印が、本光寺です。




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by wheatbaku | 2017-06-15 11:34 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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