カテゴリ:『幕末』( 129 )
安政大獄における橋本左内  (松平春嶽⑦  江戸検定今年のお題「幕末」)
 井伊直弼は、安政5年7月5日の松平春嶽や御三家に対する処罰を皮切りに、一橋派や水戸家へに対する弾圧をはじめました。いわゆる安政の大獄です。
 この中で、橋本左内も逮捕され最後は斬首されました。
 今日は、この経緯について書いていきたいと思います。
 
 一橋慶喜擁立運動を熱心に行いましたが、幕府に対して反逆の意思のまったくなかった橋本左内に対しても、幕府の追及が行われました。
 井伊大老は、一橋派が井伊大老に対抗する有力な勢力であり、その中心に松平春嶽がいたため、そのブレーンたる橋本左内を見逃すわけにはいかなかったのです。

【逮捕尋問は意外・心外】 
 安政5年10月22日に北町奉行の捕吏が、常盤橋の越前藩上屋敷の左内邸に来て書類を押収しました。
c0187004_21245948.jpg そして、翌日左内は江戸町奉行石谷穆清(いしがや あつきよ)の尋問を受け屋敷内の滝勘蔵方にお預け謹慎となりました。

 この日の突然の逮捕は左内にとってはもちろんのこと越前藩にとっても意外で心外なことでした。
 左内の逮捕の理由や糾問の内容についても納得がいきませんでした。
 しかし、それが京都に周旋したことにかかわったものだろうということは推測されたようです。そのため、そのことであれば左内は懸念することはなく春嶽の免罪に好都合だと考えていたようです。
 従って、左内の逮捕について、左内自身も周囲も憂慮することなく、横井小楠は5月下旬になっても「是は遠からず無事に相成り申すべく候」と書いているように大事になることはないと楽観していました。
 左内は10月22日、11月8日、11月10日と町奉行所で取調べをうけ、翌6年正月8日、2月13日、3月4日、7月3日、9月10日と評定所に呼び出されて尋問をうけました。
 この間は左内は屋敷内の滝勘蔵にお預けのまま謹慎していました。 
 そして、左内はほとんど事実そのままを役人に申し立てて、役人を感心させたほどでした。
 左内は数回の尋問にも自分の行動が公明正大であることを主張しました。

【死刑は予想もしなかった】 
c0187004_20562590.jpg 左内自身も藩関係者も問題をさして重要視していなかったと考えられ、まして死刑に処されようとは思っていませんでした。
 しかし、安政6年10月2日に最後の尋問を受けた後、突然小伝馬町牢屋敷に入獄が命じられました。
 橋本左内も10月3日揚屋入りを命じられて大変驚いていると手紙にかいています。
  
  ☆右写真は小伝馬町牢屋敷跡に建つ「大安楽寺」です。

 左内は南紀派とははげしく対立しましたが、幕藩秩序を破壊する考えはなく、この点では倒幕を考えていた梅田雲浜たちや老中間部詮勝暗殺を計画していた吉田松陰とは全く異なる立場でした。
 左内の真意が反幕府の立場でなかったものの、左内が軽輩の身でありながら将軍継嗣推挙という重大事にかかわり、本来は主君をいさめるべきところ、それをせずに、主君の命ずるままに朝廷・公卿を説得しようとしたことは許すべきことではないと幕府は考えたのです。 

 また左内は自分の行動はすべて主命から出たもので、私心からでたものではないことを明言していました。
 水戸藩士たちの多くが藩主をかばって何事も自分の意思でおこなったものと罪をひきうけようとした態度に対して、左内の態度は罪を藩主にかぶせようとしていると思われ評定所で悪い印象を持たれたようです。

【10月7日に処刑される】 
 10月2日に最後の尋問ご行われた後、小伝馬町朗屋敷への入牢が命じられ、そして5日後の10月7日には断罪の申し渡しが行われました。 c0187004_1012826.jpg
 7日朝揚屋から引き出される左内に対して、牢名主は
 「貴様は若年と申し秀才惜しき事」と涙をぬぐい「貴殿の一命に代わり候事出来候はば代わり度もの也」と言ったそうです。 
 牢屋敷から評定所に向かう途中、常盤橋にある上屋敷を通過する際に、左内は駕籠の中で平伏して別れを告げたといいます。
 そして、評定所での申し渡しの後、小伝馬町牢屋敷で同じ日の午前11時に斬首されました。
 享年26歳という若さでした。
  右写真は小塚原回向院にある橋本左内の墓です。りっぱな套堂(さやどう)がつくられていて、その中にお墓があります。

【同獄の吉田松陰と交流】 
 左内が入獄した時に、吉田松陰も小伝馬町牢屋敷に入獄していました。松陰は西奥の揚屋に入牢しており、左内は東奥の揚屋に入牢したため、面談は叶いませんでした。
 左内は、松陰が入牢していることを知り、松陰に漢詩を2つ贈っています。
 松陰は、その遺書の「留魂録」の中で、「左内と半面なきを嘆ず」と会って話が出来なかったことを嘆いています。
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by wheatbaku | 2010-08-09 22:07 | 『幕末』 | Trackback
春嶽の隠居 (松平春嶽 ⑥ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、不時登城後の一橋派に下された処罰についてです。

 井伊直弼が、安政5年(1858)6月25日に紀州藩の慶福の将軍継嗣決定を発表した後、6月24日に不時登城をした松平春嶽たち一橋派の大名に対する厳しい処罰をが7月5日に突然課されました。

【処罰の内容】  
 春嶽に下された処罰は、「隠居・急度慎(きっとつつしみ)」という厳しい処断でした。
c0187004_20543481.jpg 水戸の徳川斉昭には、江戸駒込屋敷に謹慎でした。
 尾張藩主徳川慶恕には隠居が命じられました。
 そして、水戸藩主慶篤と一橋慶喜には当分の間登城禁止が申し渡たされました。
 右写真は、越前藩常盤橋上屋敷があった場所で、現在はNTTコミュニケーションズとなっています。

【親戚大名を呼び出し通知】 
 越前藩では、7月5日に、親戚の熊本藩主徳川斉護(なりもり)、福山藩主阿部正教(まさのり)、支藩の糸魚川藩主松平直廉(なおきよ)、越前松平家の一族の出雲広瀬藩主松平直諒(なおよし)を登城させた上で、7月6日早朝に細川斉護・阿部正教と大目付山口直信が越前半上屋敷に来邸し、まず中根雪江が呼び出され内話があった後、家老狛山城が申し渡し書を受け取りました。
 大名への処罰は、事前に親戚大名を呼び出して知らせているんですね。

【隠居後の藩主は糸魚川藩主直廉(なおきよ)】 
 隠居とは、江戸時代に武家と公家に課せられる刑罰で、官職を退き家督の座を親族に譲ることで、大名の場合には、藩主の座を去ることであり、切腹に次ぐ重い刑罰でした。
 春嶽は、この時まだ31歳でまだこれからという時に藩主の座を追われることになりました。
 慶永隠居後の藩主には、越前松平家の支藩越後糸魚川藩主(一万石)の松平直廉が、幕命によって17代藩主に就任し、茂昭と改名しました。
 この頃は、春嶽にはまだ実子がいませんでした。

【謹んで受ける春嶽】 
 これに対して、春嶽は、終始一貫して幕府につくした以上は、今回の処罰を厭うところではないと明言し、越前藩は家門であるという重みを説いて、家臣の動揺を抑えました。
 また、側近の中根雪江や橋本左内は、責任をとって自決を考えましたが、春嶽の「愕然の余り 卒爾(そつじ= 自決を意味する)の義 これあるに於いては我を見捨て候也」との言葉によりようやく自決を思いとどまりました。

 春嶽はこれ以後表向きの活動はできなくなり、霊巌島の中屋敷で文久2年(1862)4月まで4年にわたり、一切の政治活動を封殺された謹慎幽閉の生活を送ることとなりました。
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by wheatbaku | 2010-08-08 21:27 | 『幕末』 | Trackback
不時登城 (松平春嶽⑤ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は違勅調印に対する 松平春嶽たちの不時登城 のお話です。

 安政5年6月19日、直弼は勅許を経ぬまま日米修好通商条約の調印を強行し、そのことを宿次奉書で朝廷に報告しました。
 そして、21日には老中堀田正睦・松平忠固を罷免、代わって間部詮勝、太田資始、松平乗全を新しく老中に任命しました。この幕閣改造は、違勅調印の責任を堀田正睦に、宿次奉書による朝廷への報告の責任を松平忠固に負わせたものです。しかしそれだけでなく、内実は一橋派に理解を示す正睦と忠固を追放し、幕権擁護派によって老中の体制を固めたものでした。

【慶喜、直弼を面詰】 
 この無断調印に怒った一橋慶喜は、6月23日、登城し直弼と初めて面談し、違勅調印と宿次奉書について直弼を責め立てました。
 これに対して直弼は柔軟な態度で「恐れ入りました」とひたすら平身低頭を繰り返して、慶喜の追及を老獪にはずしました。
 直弼が将軍継嗣について、紀伊の慶福に内定したといったのに対して、慶喜はフフンとすげない返答をして会談は終わりました。

【春嶽は、井伊邸で直弼を面詰】 
 24日朝に春嶽は井伊邸を訪問し直弼と面談しました。春嶽が遺勅と宿次奉書について詰問すると、直弼はいずれ自分が上京して朝廷に対して弁疎する旨を答えました。
c0187004_1023370.jpg また、将軍継嗣問題については平行線でした。直弼は将軍継嗣のことはすでに朝廷にはお伺い済みで、明日25日に発表の予定であるといいました。
 春嶽は、継嗣の発表を何としてでも延期させようとして、京都に名指ししてお伺いしてないのであれば、慶福の継嗣の発表は意外に思うし無断調印が問題になっているこの時期に継嗣の発表を同時に行えば朝廷の意向に背くことになる。条約の件が決着をしたところで、継嗣の発表を行うべきであると詰め寄りました。
 これに対して直弼は既に明日発表すると決定しているのでいまさら変更できないと反論します。
 そして、もう登城の時刻なので今日はこれまでと断って座をたとうとするので、春嶽は直弼の袴の裾をつかんで、登城の時刻といっても今話したことは明日に迫ったことであるので、自分も登城して、お城で討論したいと言ったところ直弼はそれはご自由にどうぞ、今は議論できないといって振り払って部屋を出ていってしましました。
 右上の写真は、憲政記念館脇の庭にある「この地の由来」碑です。

【斉昭・慶篤・慶恕は、不時登城で直弼を面詰】 
 同じ日、水戸の徳川斉昭・慶篤親子は、水戸邸に斉昭を訪ねてきた尾張藩主徳川慶恕と共に押しかけ登城しました。なお、春嶽は井伊邸での面談のあと登城しました。
c0187004_9271754.jpg   本来の登城日でもないのに登城することは当時は異例のことでした。これを当時の言葉で「不時登城」といいました。
斉昭たちは5時間も待たされ昼食も提供されませんでした。
 この間、御三家は大廊下下の部屋で、「今日は直弼に腹を切らさなくては退出しない」と大声でののしっていました。
 間部詮勝が自分たち老中が斉昭らに面会するので井伊直弼はお会いなさらないようにといったが、直弼は大老の重責にあるものが責任を回避するわけにはいかないととして自ら進んで老中たちと面接しました。
 直弼は周到に準備して無断調印せざるをえない事情を説明し斉昭たちの批判を受け入れませんでした。
 これに対して斉昭は春嶽を同席するよう要求しますが、直弼は越前家の格式をたてに同席を拒否します。
 上の春嶽の写真は国立国会図書館蔵です。

 こうして松平春嶽、徳川斉昭、徳川慶恕、徳川慶篤らの不時登城は、直弼等の老獪な応対の前に何の成果も得られませんでした。
 そして、翌6月25日、直弼は一橋派の機先を制して、紀伊慶福の将軍継嗣決定を発表しました。
 6年間にわたる春嶽の将軍継嗣への慶喜擁立運動は水泡に帰してしまいました。

 その後、まもなく、定例日以外の日に突如登城し、大老や老中を面詰して江戸城内を騒がせた不始末を問われる結果を招くことになります。
 そのお話は次回です。
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by wheatbaku | 2010-08-06 06:28 | 『幕末』 | Trackback(1)
橋本左内登場 (松平春嶽④ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、松平春嶽を助けて、一橋慶喜擁立に尽力した後、若くして安政の大獄で斬首された 橋本左内 について書いていきます。

【左内は最適の補佐役】 
 春嶽は、継嗣問題を好転させるために橋本左内を越前から急いで出府させました。
 橋本左内は、先祖代々25石5人扶持の藩医の長男として生まれ、名は綱紀(つなのり)、号は景岳、黎園(れいえん)と言います。左内は通称です。
c0187004_15595178.jpg 18歳の時に、大阪に遊学し緒方洪庵に蘭学・西洋医学を学びました。
 安政元年江戸に赴いて英語・ドイツ語のほか物理・化学の知識も吸収しています。
 この時に藤田東湖や西郷隆盛らとも交際し内外情勢への識見を深めています。
 安政2年には藩医を免じられて御書院番に登用され、藩校明道館学監に任じられて洋学習学所を設置するなどの成果を挙げていました。
 その橋本左内が、春嶽を補佐するもっとも適任者とされたのでした。

 そこで、同年江戸に呼ばれて藩主松平慶永の侍読兼内用掛となり、一橋慶喜を擁する将軍継嗣運動に携わりました。
 右の橋本左内の写真は国立国会図書館蔵です。

【左内は春嶽のブレーン】 
 橋本左内の重要なことは、一橋慶喜擁立についての理論構築を担ったことでした。
 橋本左内は、名目上の将軍のもと、一部の譜代大名出身の老中が独占する古い政治を大きく変えて、これまで圏外に置かれていた親藩・外様の名君たちを中央の政治に参加させて、英知を結集して外圧の危機に対応するとともに、開国後の日本の針路を定めようと考えました。
 そして、その改革を行う前提として、新体制の頂点に万機を親裁できる将軍を位置づけることが不可欠であり、そこに英明の慶喜を将軍継嗣として座ることにより、徳川の天下を再強化することを通しながら現状打開の道をさぐろうと考えました。
 また、積極的に開国してロシアと攻守同盟を結び、外国貿易を盛んにして富国強兵を実現しようとも考えていました。この時代に、ロシアとの同盟を考えるなど非常に先進的な考えを持っていました

【左内は京都でも活躍】 
 この頃、条約勅許問題も重大な局面を迎えていました。
 アメリカ領事ハリスとの通商交渉に対応していた堀田正睦は、将軍に謁見したハリスとの会談により通商条約締結を決意し、諸大名に諮問を行うとともに、通商条約の勅許によって諸大名の反対を抑えようとしました。 正睦は上洛し条約勅許を得ようとしますが、朝廷の態度は固く、勅許は得られず、事態は暗礁に乗り上げてしまいました。
 そうした時期に、春嶽は橋本左内を上京させました。その任務は、堀田正睦を側面から援助するとともに朝廷側に慶喜継嗣の急務を説いて、慶喜を望む旨の天皇の内勅を幕府に下させるようにすることにありました。

 そして、京都における活動の結果、慶喜を名指しした内勅が降下されるような状況までこぎつけました。
 しかし、長野主膳の運動により、最終的には、慶喜の名前もなく、さらに「英傑・人望・年長」の三要件も削除された勅書になってしまいました。
 ここに、春嶽・左内の目的は完敗という結果に終わってしまいます。

 さらに、井伊直弼の大老就任により、一橋派が破れ、慶喜擁立に関わった人たちが安政の大獄で処罰されるなかで、橋本左内も安政5年に捕らえられ、翌年10月7日小伝馬町牢屋敷で斬首されることになります。
 その話は後日改めて書いてみたいと思います。
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by wheatbaku | 2010-08-05 06:05 | 『幕末』 | Trackback
将軍継嗣問題 (松平春嶽③ 江戸検定今年のお題「幕末」)
  今日は、松平春嶽の3回目ですが、将軍継嗣問題で、春嶽自らが積極的に一橋慶喜擁立を実行したことについて書いていきます。

 松平春嶽は、将軍継嗣問題において、一橋派の中心人物というより総帥として、一橋慶喜擁立運動を主導して推進し、幕府内や有志大名の間、さらには朝廷に対して強力な働きかけを行いました。 

【将軍継嗣問題の解決は自分の使命と考えた】 
 13代将軍家定は、虚弱で凡庸で癇癖が強く、政務遂行能力がなく、子供もいなかったことから、家定が嘉永6年に将軍になるや、早くも世継ぎ選定の議が幕府内外に起こりました。
  越前家はご家門として、事あれば徳川将軍家の支持・擁護に全力を尽くす立場にありました。 
 御三家・御三卿の当主は、将軍継嗣の候補の当事者であるため、擁立工作に加わることは好ましくありません。
 そのため、御三家・御三卿を除いて、将軍家にもっとも近い家門第一の名門越前松平家の当主すなわち春嶽が、将軍継嗣問題を解決すべき使命があると春嶽は考えていました。
 
【御三家・御三卿の状況】 
 将軍家定の継嗣は、当然御三家・御三卿から求めなければなりません。
 安政4年の御三家・御三卿の藩主・当主を見てみると次のような状況でした。
①尾張家は尾張藩の支藩高須家生まれの慶恕(よしくみ)が入って藩主となりましたが、将軍家とは血脈が遠く、年齢も34歳で将軍家定と同じ年齢でした。 
②紀伊藩主の慶福は、将軍家定と従兄弟で血縁は一番近いのですが、年齢は8歳でした。
③水戸藩主慶篤は人格・才幹についてとかくの批判がありました。
④田安家の当主慶頼にも政治家として問題がありました。
⑤清水家には当主がいません。
⑥一橋家当主の慶喜は水戸家出身ですが、英明の誉れが高く人望がありました。

【一橋慶喜擁立に動く】 
 こうして比較すると、一橋慶喜が将軍継嗣として最もふさわしいということになります。
c0187004_9243223.jpg  また、春嶽の生家田安家と一橋家との間には数代にわたっての緊密な関係がありました。
 そこで、春嶽は、嘉永6年に、老中阿部正弘に対して働きかけを始めています。
 また、薩摩藩主島津斉彬とも相談しており、島津斉彬は春嶽と同じ立場でした。
 安政3年(1856)11月に篤姫が第13代将軍・徳川家定の正室となったのは将軍継嗣問題で慶喜擁立を家定に直接働きかけるねらいがあったということは有名な話しです。
 そして、春嶽は安政4年初秋には、老中久世広周・堀田正睦・松平忠固に対して所信をのべて協力を求め、安政4年10月には、蜂須賀斉祐と連署して慶喜擁立の建議書を提出しています。
 右の徳川慶喜の写真は国立国会図書館蔵です。

  一橋慶喜擁立の総帥は春嶽です。そして阿部正弘、島津斉彬、山内容堂、伊達宗城らの雄藩連合派の大名が支持しました。また、幕府の役人では、川路聖謨( としあきら)、土岐頼旨、永井尚志(なおむね)、鵜殿長鋭(ながとし)、岩瀬忠震(ただなり)、堀利煕(としひろ)、水野忠篤らの開明的な俊秀が賛同しました。
 
 このように、春嶽は、一橋慶喜擁立のために誰からか働きかけられたわけではなく、自ら一橋派の中心となって動いています。 
 しかしながら、同志の阿部正弘や島津斉彬がなくなり、守旧的な幕府内部の雰囲気や大奥の水戸嫌いの空気が強い中で、なかなか思うとおりに進みませんでした。
  そうした中で、春嶽を支えたのが、橋本左内です。
  明日は、橋本左内について書いていきます。
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by wheatbaku | 2010-08-04 06:21 | 『幕末』 | Trackback
越前松平家 (松平春嶽 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、春嶽が継いだ、越前松平家について書いていきます。

【藩祖は結城秀康】 
 越前松平家の藩祖は、結城秀康です。
 秀康は家康の次男で、2代将軍となった秀忠の兄ですが、はじめ豊臣秀吉の養子となって徳川家を離れ、のちに結城氏を継いでいたこともあって、徳川家の家督および将軍職を継ぐことはできませんでした。
 慶長6年(1601)に関ヶ原の戦いの後、秀康は越前一国68万石を与えられ、柴田勝家の築いた北ノ庄城を修復し居城としました。
 福井城本丸跡・南西側
福井城本丸跡・南西側 posted by (C)ふるさと福井ビデオレター
 
【多難な歴史を持つ越前藩】 
 しかし、秀康の長男の2代藩主忠直は、不行跡の理由で、元和9年(1623)に豊後に配流されました。
 そして、翌年の寛永元年(1624)、忠直の嫡男松平光長は越後高田藩26万石に移されます。この系統が、津山松平家になります。
 入れ替わりに越後高田藩で25万9千石を与えられていた秀康の次男の松平忠昌が50万石で越前藩領を継承します。
 しかし、貞享3年(1686)第6代藩主綱昌は発狂を理由に領地没収され、前藩主昌親が領地が25万石に半減された上で越前藩領の継承が認められました。
 以後、10代藩主宗矩まで忠昌の子孫が続きましたが、11代重昌が一橋家から迎えられようやく32万石となります。それ以降14代まで、一橋家からの養子の系統がつづきました。
 そして、春嶽の養父となった15代藩主斉善(なりさわ)は、将軍家斉の二十二男で、将軍家から越前松平家に養子として入っていたのです。
 そして、斉善にも嗣子がいなかったため、春嶽が養子となったのです。

 【越前松平家は八家ある】 
 越前松平家は分家が多く、越前松平家系の大名は秀康の子供6人のうち、早世した4男吉松丸を除く5人の子供が、それぞれ津山松平家、福井松平家、松江松平家、前橋松平家、明石松平家を起こしています。
 さらに福井藩から糸魚川藩が別れ、松江藩からは広瀬藩・母里藩が分かれ、合計で八家となります。
 この8家を総称して越前松平家といわれます。

 越前松平家を個別に書くと次のようになります。
 ①津山松平家(津山藩10万石)  …  秀康の長男松平忠直の子孫
 ②福井松平家(福井藩32万石)  …  秀康の次男松平忠昌の子孫
 ③松江松平家(松江藩18.6万石) …  秀康の三男松平直政の子孫
 ④前橋松平家(前橋藩17万石)  …  秀康の五男松平直基の子孫
 ⑤明石松平家(明石藩6万石)   …  秀康の六男松平直良の子孫
 ⑥糸井川松平家(糸魚川藩1万石)  … 福井藩の支藩。秀康の曾孫・松平直堅が起こした藩。
 ⑦広瀬松平家(出雲広瀬藩3万石)  … 松江藩の支藩。松江藩初代藩主・直政の2男・近栄が立藩
 ⑧母里(もり)松平家(出雲母里藩1万石) … 松江藩の支藩。松江藩の初代藩主・松平直政の3男・隆政が立藩
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by wheatbaku | 2010-08-03 06:14 | 『幕末』 | Trackback
松平春嶽  (江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日から、 松平春嶽(慶永) について、書いていきます。
 松平春嶽(慶永)は、文政11(1828) 御三卿田安家に生まれました。
 春嶽は号で、慶永(よしなが)が本名です。他に礫川、鴎渚などの号を用いたそうですが、生涯通して春嶽の号を最も愛用しました。

 【春嶽は田安家出身】 
c0187004_8202629.jpg 春嶽は、田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男です。
 田安家は、8代将軍吉宗の次男宗武が起こした家です。
 初代が宗武で、2代治察が病弱で早世しました。このとき、治察の弟定信は既に白河藩の久松松平家への養子行きが決められており、3代目を相続することが認められなかったため、田安家は、しばらく当主がいませんでした。
 そこで、天明7年(1787)に、一橋家から一橋徳川家2代当主徳川治済の五男の徳川斉匡が入り3代当主となりました。徳川斉匡は11代将軍家斉の弟になります。
 右写真は国立国会図書館蔵です。

 【将軍家慶は従兄弟】 
 この斉匡が春嶽の父です。従って、春嶽からみて11代将軍家斉は叔父になり、12代将軍家慶は従兄弟になります。
 春嶽の男の兄弟は10人いましたが、主な兄弟としては、一橋徳川家の5代当主となった四男の斉位(なりくら)、一橋徳川家の7代当主となった五男慶壽(よしひさ)、田安徳川家の第5代当主である慶頼(よしより)は9男、尾張藩第13代藩主となった慶臧(よしつぐ)が十男でした。
 松平春嶽は10歳の天保9年(1838)に越前藩15代藩主松平斉喜(なりさわ)の養嗣子となります。そして翌年11歳の時に、斉喜の死去によって16代藩主に就任しました。

 【中根雪江が補佐役】 
 そして、当時、大名は17歳まで帰国を許されない決まりでしたが、春嶽は16歳で帰国し、藩政の改革に取り組みました。
 春嶽の補佐には有名な中根雪江(せっこう)がつきました。
 中根家は代々700石を知行する上級藩士の家です。中根雪江は通称は靱負(ゆきえ)と言います。靱負を雪江とも書き、さらに「せっこう」と音読みしました。
 雪江は平田篤胤から国学を学んでいました。天保9年(1838年)に春嶽が藩主に就任すると側用人見習いとなり、春嶽に近侍しました。

 【名君との交わり】 
 春嶽が人間形成の上で大きな影響を受けたのが、徳川斉昭、阿部正弘、島津斉彬です。
 また、大変親しい友人に山内容堂がいます。
 徳川斉昭には、福井入国する前に、小石川藩邸を訪れて、初対面の挨拶したのち、藩主としての心得9か条の質問書を出して教えを請うています。
 28歳年長のため、初めは師父として教えをこい、その後は同士として藩政改革と海防に協力しました。
 阿部正弘は春嶽より9歳年長で、正室も越前家出身であり親戚関係にありました。
 春嶽が攘夷不可能を知り積極開国論に転向したのは阿部正弘の影響によるものです。
 島津斉彬との交流は、斉彬37歳、春嶽18歳の時に始まります。春嶽は斉彬を師父と仰ぎ、もっとも懇意であったと書いています。また、斉彬も、久光への遺言として、諸侯中穏健誠実の第一の人物は春嶽であるから国事周旋にはその協力を仰ぐよう言い残しています。
 山内容堂は盟友ともいうべき関係です。春嶽は容堂を常に熟友といっていました。容堂は春嶽より一歳年下で肝胆相照らし切磋琢磨する仲で、幕府崩壊まで公武合体の主流としてともに活動しました。



 
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by wheatbaku | 2010-08-02 06:22 | 『幕末』 | Trackback
鳥羽伏見の戦い (松平容保⑧ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日まで8回にわたり松平容保について書いてきましたが、今日でとりあえず最後とします。
 今日は、鳥羽伏見の戦いで敗れて江戸に帰ってくるまでを書きます。 
 それまで、会津藩は京都で非常に苦労してきましたが、江戸帰還後、更なる苦労が降りかかることとなりますが、そのことは、別の機会に書くこととしたいと思います。

 【大政奉還】  
 慶応2年12月(1867年1月)に、公武合体派の孝明天皇が崩御すると、薩摩藩、長州藩を中心とした倒幕の動きが急速に進みます。
c0187004_16175562.jpg こうした中で土佐藩から提出された大政奉還の建白書を受けた徳川慶喜は、慶応3年(1867)10月14日、二条城(右写真)にて大政奉還をおこないました。
 この時期、岩倉具視らの動きにより討幕の密勅が下されようとしていた時でした。慶喜は彼らの先手を打って大政を奉還することで、討幕の口実を失わせることとなりました。

 【王政復古】  
 大政奉還により、倒幕の口実を失ったものの、あくまでも倒幕をめざす岩倉具視や薩摩・長州藩は、慶応3年12月9日に倒幕のためのクーデターを起こし、「王政復古の大号令」を発令しました。
 その内容は、 「幕府および.摂政・関白を廃止し、.新たに総裁、議定、参与の三職をおく。 」というものでした。
 これにより京都守護職や京都所司代も廃止されました。
 これに対して、5年にわたる長い間京都守護職として苦労してきた会津藩や容保の弟松平定敬が京都所司代として任命されていた桑名藩は激怒し、薩摩・長州と戦うべしという主戦論が強まります。
c0187004_16181827.jpg そこで、慶喜は、それらの意見を押さえるため、二条城から大坂城に入り、戦争を回避しました。
 しかし、江戸の薩摩藩邸焼き討ちに触発された幕府軍は、翌年1月3日に、巻き返しを図るため京都に進軍を開始し、鳥羽・伏見の戦いが始まります。
 鳥羽伏見の戦いでは、会津藩は、伏見街道で幕府軍の先鋒として戦いますが、幕府側は新政府軍に敗北します。

 【江戸に脱出】  
 敗北の報が伝わると、大阪城にいた慶喜は、反攻を宣言しながら、夜間に大阪城を抜け出し、幕府軍艦開陽丸に乗って江戸に脱出してしまいます。
 慶喜に従ったものは、松平容保、松平定敬、老中の板倉勝静、酒井忠惇など数名でした。
 この経緯について、慶喜は、明治になって、「昔夢会筆記」に
 「大坂を出る時に会津藩の松平容保と桑名藩の松平定敬を一緒に連れて帰ったのは、彼らを大坂に残しておけば、戦争が始まるからである」と述べています。
 会津や桑名の主戦派により鳥羽伏見の戦いが始まったことを悔いた慶喜は、神保修理の「速やかに東帰して前後の策をめぐらすべし」という建言にもとづき江戸に帰ることを決意したといいます。
 なお、神保修理は会津藩家老神保内蔵助の子で当時軍事奉行添役で、若手の俊英といわれていました。

 結果的に、会津藩兵を見捨てる形となった容保は、彼らからの非難を受けて、 「公(将軍慶喜)に随行して東下すれば、臣下に義を失い、臣下に対して義をたてんとすれば、公に義を失う」。両立することはできないので、「遂に公に従って密かに発航した」と苦しい心情を吐露しているそうです。
 そして、東帰を進言したといわれる神保修理に切腹を命ずるとともに、容保自身も家督を養子の慶徳に譲って隠居することにしました。
 こうして恭順の意を表しますが、時すでにおそく容保は新政府の追討の対象となり、悲劇の戦争に突入することになるのです。
 
 戊辰戦争における会津の戦いは、またの機会に書くこととして、ひとまず松平容保についての記事は一区切りつけたいと思います。
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by wheatbaku | 2010-07-16 05:40 | 『幕末』 | Trackback
孝明天皇崩御(松平容保⑦ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 孝明天皇は、松平容保を深く信頼して、容保も孝明天皇を大変敬愛していました。
その孝明天皇が、突然、崩御されました。今日の松平容保は、この孝明天皇崩御について書いていきます。

 【公武合体派の天皇は倒幕に反対】 
 孝明天皇は、攘夷主義者でしたが、朝廷と幕府がともに協力しあうべきであるとする公武合体論の立場から、深く幕府を信頼し、倒幕の考えはまったくありませんでした。
c0187004_864451.jpg しかし、朝廷では、第2次長州征伐が幕府軍の敗北に終わったのをきっかけに、尊攘派公家を朝廷に復帰させるべきであるという声が大きくなってきました。
 こうした中で、追放されている公家の復帰・朝政の改革など国事につき建言するため、大原重徳を中心とした公家22名が朝廷に押しかける騒擾事件である廷臣二十二卿列参事件(ていしんにじゅうにきょう れっさんじけん)が発生します。
 しかし、天皇はこれを退け、逆に22名に対して謹慎等の処分を下し、変わらぬ信頼を幕府に寄せました。

【孝明天皇崩御】 
 こうした中で、孝明天皇が、突然、慶応2年(1867)12月25日、在位21年にして崩御されました。
 享年35歳でした。死因は天然痘と診断されました。
c0187004_872386.jpg 慶応2年(1867)12月11日、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、翌12日に発熱し、投薬したが、翌日になっても病状が好転しませんでした。
 12月16日、改めて診察した結果、天皇が痘瘡(天然痘)にかかっている可能性が高くなりました。
 松平容保は、すぐ御所にかけつけお見舞いを申し上げました。
 17日には武家伝奏などへ天皇が痘瘡に罹ったことを正式に発表しました。
 それ以後、24時間体制での治療により、順調に回復しているかに見えました。
 しかし、12月25日になって、天皇が痰がひどくなり、医師たちも御所に昼夜詰めきりでしたが、25日午後11時過ぎに崩御されました。
 天皇の崩御が公にされたのは29日になってからのことでした。
 右の写真は、 「長崎大学附属図書館所蔵」の幕末もしくは明治の京都御所です。

【会津藩の悲運】 
 孝明天皇崩御により、容保は頼るべきところを失い、茫然自失となり、10日ほど床につきました。
 慶応3年 正月27日、孝明天皇の大葬が執り行われ、容保は、病をおして参列しました。
 大葬が終わり、容保は虚脱状態になりました。
 容保は、今度こそ辞職すると、辞意を重ねて表明しました。
 ここで辞意が認められれば、戊辰戦争の会津藩の悲劇はなかったかもしれません。
 それに対して、今回も、引きとめ工作が盛んにおこなわれました。
 だが、容保の辞意は固く、今度こそ帰るという意思でした。
 しかし、朝廷からの参議昇任の沙汰や「幼帝の意思」が伝えられました。そして、最後は、慶喜から「宗家とともに盛衰をともにし、留まってほしい」といわれ京都に留まることとなります。
 容保と会津藩は、またも藩祖保科正之の遺訓に立ち戻ることとなったのでした。
 会津藩の悲運は、この時に決まったことになるかもしれません。
 容保と会津藩士は複雑な思いをもって、京都に留まることになります。

【孝明天皇暗殺説】 
 孝明天皇は、大変壮健でした。その天皇が35歳の若さであえなく崩御してしまったことから、崩御直後からその死因に対する疑問がだされ、暗殺説が消えていません。
 佐伯理一郎やねずまさしによるヒ素による毒殺説が有力です。両氏は岩倉具視首謀・堀河紀子(岩倉具視の妹)実行説を唱えています。
 しかし、これに反対する原口清氏の病死説もかなり有力のようです。
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by wheatbaku | 2010-07-14 06:07 | 『幕末』 | Trackback
禁門の変 (松平容保⑥ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、 「禁門の変」 について書いていきます。
 八月十八日の政変で京都を追放された長州藩では、尊皇攘夷派の多くは長州に帰国しました。

【長州藩、進発論強まる】 
  しかし、元治元年(1864)に入ると、孝明天皇を再び長州藩の手中にとりもどすため、京都に乗り込もうとする進発論が盛んになりました。
 この時、進発論を積極的に説いたのが、来島又兵衛、久坂玄瑞でした。一方桂小五郎は反対し、高杉晋作は慎重派でした。
 来島や久坂は、古い攘夷論のままでしたが、桂や高杉は、小攘夷を捨てて、長州藩の富国強兵をはかり、対外貿易も行おうと考えるようになっていました。

【長州勢、京都に滞陣】  
 そうした、長州藩情勢の中で、6月5日の池田屋事件が起こりました。
c0187004_22322360.jpg 池田屋で新選組に藩士が殺されたという変報が長州にもたらされると、福原越後や益田右衛門介、国司信濃の三家老等の積極派は、慎重派の周布政之助・高杉晋作を振り切って上京しました。
 真木和泉や久坂玄随らも京都に向けて出発しました。
 益田、久坂玄瑞らは山崎天王山に、国司、来島又兵衛らは嵯峨天龍寺(右写真)に、福原越後は伏見長州屋敷に兵を集めて陣営を構えました。
 この動きに対して、孝明天皇は都を守護するため、禁裏守衛総督の一橋慶喜と容保に長州軍の上京を阻止する権限を与えました。
 その時、容保は、病気のため床にふせっていましたが、病を押して参内し、厳戒態勢を取りました。

 【禁門の変】  
 幕府や朝廷からの再三の撤兵勧告もかかわらず、長州藩は兵を増強しつづけ、ついに7月18日に禁門の変が始まりました。
c0187004_822561.jpg 長州藩の攻撃目標は会津藩でした。「国賊肥後守を討ち取る」といって進軍しました。
 この時、会津藩は2陣8隊1500人の戦力でした。1陣4隊が竹田街道に布陣し、残り1陣のうち3隊が御所、1隊が黒谷を守りました。
 各地で戦闘が始まる中、容保は病気を押して参内し孝明天皇の傍に控え、宮中の動揺を抑えるよう努力しました。
 会津藩が守る蛤御門付近で長州藩兵と会津藩兵とが衝突し、一時、会津藩が厳しい状況に陥りましたが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して、長州勢は敗退しました。
 禁裏内で来島又兵衛は戦死し、久坂玄瑞は自刃しました。

 この後、幕府は、長州藩兵が内裏や禁裏に向けて発砲した事等を理由に長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行うこととなります。

 蛤御門は、正式には新在家門といわれ、常に閉ざされていました。
 天明8年(1788)に起きた天明の大火の際、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、「焼けて口開く蛤」にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになったといわれています。
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by wheatbaku | 2010-07-13 05:45 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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