カテゴリ:お寺めぐり( 16 )
川越喜多院に初詣 (喜多院①)
 昨日2日に川越の喜多院に行ってきました。
 例年、初詣は、地元の八幡神社と喜多院としています。
 あいかわらず、喜多院境内は初詣の人々で混み合っていて行列をつくり参拝をしていました。
c0187004_2352272.jpg 右の写真をご覧ください。大勢の人出でした。
 本堂に上がり初護摩をお願いし家族一同の健康と安全を祈ってきました。
 初護摩のお客様も大勢で、内陣は座る場所がないほどの込み具合でした。

喜多院は、大変古いお寺で江戸時代には天海大僧正が住職をしていたお寺でもあります。
 そこで、今日は喜多院についてご案内します。

【喜多院、元は北院】  
 喜多院は、正式には星野山無量寿寺喜多院といいいます。
 喜多院というのは、天海大僧正が住職となってからの名前です。
 それまで、無量寿寺というお寺にあった北院、中院、南院のうちの一つの子院でした。
 無量寿寺は、平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立しました。
 無量寿寺には北院、中院、南院という3つの子院がありました。
 3院はそれぞれ仏蔵院、仏地院、他聞院と称していました。
 そのうちの北院の住職となった天海大僧正が、慶長17年(1612)、仏蔵院北院を喜多院と改めました。

【本堂は慈恵堂】  
 右の写真は、 喜多院の本堂にあたる慈恵堂です。平日に写したものです。
c0187004_85092.jpg 慈恵堂は、比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源いわゆる元三大師をまつる堂です。
 喜多院は寛永15年(1638)、大火により現存の山門を残し、すべての堂宇が焼失してしまいました。
 慈恵堂は川越大火の翌年、寛永16年(1639)10月に大火以後、いち早く再建されました。

 慈恵堂は 大師堂または潮音殿とも呼ばれています。
 大師堂と呼ばれるのは慈恵大師を祀ったお堂だからです。
 またこのお堂に座り耳を澄ますと、何処からともなく波の音が聞こえるという言い伝えから「潮音殿」とも呼ばれるそうです。
 慈恵堂の内陣中央に慈恵大師が祀られています。そして、左右に不動明王がお祀りされて、毎日不動護摩修行が行われます。
 初護摩はいつでも本堂内陣が一杯になってしまいます。その中で護摩修行が厳粛に行われました。
 
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by wheatbaku | 2011-01-03 08:54 | お寺めぐり | Trackback
浅草寺の由来② (浅草寺③ お寺めぐり)
 昨日に続いて、浅草寺の歴史について書いていきます。

【源氏の帰依】
 平安時代末期の頃、源義朝が浅草寺に帰依し、承暦3年(1079)観音堂が炎上した折、ご本尊が自ら火焔を逃れ、近くの榎の梢に避難されたとの故事を聞き、その榎で観音像を刻み奉納しました。
 この像が現在「温座秘法陀羅尼会(おんざひほうだらにえ)」の本尊として拝まれているそうです。

c0187004_15394645.jpg 源頼朝は治承4年(1180)伊豆で兵をあげます。しかし、敗れて安房に逃れ、千葉常胤らの協力を得て隅田川を渡り、待乳山あたりに本陣をかまえて兵団を編成しました。
 浅草は、多くの軍兵で満ち、やがて頼朝は平氏討滅を浅草寺に祈願し、大軍を引きいて西へ進発していきました。

【「吾妻鏡」に初めて出る】
 鎌倉幕府が開設された後、治承5年(1181)に鶴岡八幡宮造営のため浅草の宮大工を召し出したと「吾妻鏡」にあるのが文献上確認できる浅草寺の記述だそうです。
 また建久3年(1192)には、後白河法皇の49日法要を鎌倉で営むにあたり、浅草寺の高僧3人を招いたと記されているそうです。

 室町時代には、足利尊氏が寺領を安堵し、足利持氏が経蔵を建立、応永五年(1398)には定済上人(じょうさいしょうにん)が広く勧進して観音堂を再建されました。
 戦国時代の天文8年(1539)には、小田原城主北条氏綱(ほうじょううじつな)によって堂塔が再建されています。

【徳川幕府が保護】
 そして、天正18年(1590)徳川家康が江戸に入府すると、天海大僧正(慈眼大師)の進言もあって浅草寺を祈願所に定め、寺領五百石が与えられました。
 慶長5年(1600)関ケ原の戦いの出陣に際し、家康が武運を観音堂において祈念し、勝利を得たのでした。
 c0187004_15365923.jpgそこで、徳川家康は、浅草寺を徳川家の祈願所と定め厚く保護しました。
 家康死去の年の元和2年(1616)には持仏の聖観音像が浅草寺に寄進されています。
 2代将軍秀忠は元和4年に浅草寺境内に東照宮を建立しました。
 今の影向堂あたりで、池にかかる石橋は日光東照宮の神橋になぞらえて、浅野長晟が寄進したものです。
 右の写真が石橋です。

 c0187004_15372851.jpg浅草寺は、寛永8年(1631)、同19年(1642)に相次いで焼失しましたが、3代将軍徳川家光の援助により、慶安元年(1648)に五重塔、同2年(1649)に本堂が再建されました。
いく度もの火災を逃れることのできた本堂と五重塔も昭和20年の戦災で焼け落ちてしまい、現在の本堂は昭和33年に五重塔は昭和48年に再建されました。


 浅草神社(上記写真)も慶安2年に、家光によって再建されました。
 現存する本殿、弊殿、拝殿は、家光が再建したもので、国の指定重要文化財に指定されています。

 以上が江戸時代までの浅草寺の歴史のあらましです。
 こうした歴史を見てみると浅草寺のすごさを改めて感じさせられます。
 
 一番上の写真は、幕末・明治期の浅草寺の写真でベアトが撮ったものです。現在の五重塔は宝蔵門の西側にありますが、幕末期には、五重塔がが仁王門の東側にあるのがよくわかります。
 この写真は、「長崎大学附属図書館所蔵」の写真です。
 長崎大学付属図書館のご厚意により「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」から画像を転載させていただいています。
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by wheatbaku | 2010-03-24 05:53 | お寺めぐり | Trackback
浅草寺の由来① (浅草寺② お寺めぐり)
 3月18日の浅草寺「金龍の舞」は浅草寺の縁起に由来しているということでしたので、浅草寺の歴史を見ていきたいと思います。

 浅草寺は約1400年の歴史があるという大変古いお寺です。

c0187004_18195379.jpg【本尊の示現は628年】
 浅草寺の起源は、飛鳥時代の推古天皇36年(628)と言われています。
 この年の3月18日の朝、檜前(ひのくま)浜成・武成(はまなり・たけなり)兄弟が隅田川で漁をしていると、投げ網の中に小さな仏像がかかりました。
 「これは尊い物に違いない」と兄弟は漁をやめて、陸へ上がりました。その地点が、今の駒形です。
 ここで郷司(村長)の土師中知(はじのなかとも)と出会います。土師中知は、仏像を一見して観世音菩薩像であることを知り、直ちに岸辺に安置して拝みました。
 駒形堂(上写真は現在のもの)はこの縁起により建立されたものです。雷門も最初のころは、駒形あたりにありました。
 その後、土師中知は自宅を寺に改造して、観音像をまつって礼拝供養の生涯を送ったそうです。

c0187004_18205256.jpg【浅草神社は浜成・武成・中知を祀る】
 浅草寺の隣に建つ浅草神社の祭神は、観音像を拾い上げた檜前浜成・武成兄弟とそれを最初に祀った土師中知の三者です。
 三社祭は、昔は観音が示現した3月18日でしたが、明治5年から5月に変更されました。

 大化元年(645)に巡錫中の勝海上人が観音堂を大きく建て替えて、夢告により本尊を秘仏と定めました。
 大化元年という年は、中大兄皇子らによって蘇我入鹿が滅ぼされ、大化の改新が行われた年です。すごい歴史がありますね。

c0187004_1822433.jpg【慈覚大師が中興開山】 
 平安時代初期には、慈覚大師円仁が浅草に来山し、秘仏のご本尊を模して、お前立(まえだち)のご本尊をつくりました。
 お前立ちとは秘仏の代わりに人々が拝むための像のことを言います。

 慈覚大師は3世比叡山天台座主で、浅草寺では中興開山とされています。なお、浅草寺の開基は勝海上人です。

【伽藍を整備したのは平公雅】
 浅草寺の伽藍を再建したのは天慶5年(942)、平公雅(たいらのきんまさ)と言われています。
 天慶5年といえば、平将門の「天慶の乱」が終息した2年後です。
 平氏の一族の平公雅は、乱の当時は安房守でしたが、将門の側につかず、政府軍に与して将門撃滅に功がありました。これにより藤原秀郷の後に武蔵守に昇進しました。
 平公雅は、かねて浅草寺に参詣し、「われ、武蔵の太守となりければ、本堂および宝塔、鐘楼、楼門、経蔵ことごとく建立し、田園数百町を寄進して長く聖観音を崇拝するだろうと祈願していたそうです。
 それが成就したので伽藍を再建しました。
 ところで、平公雅(たいらのきんまさ)ですが、日本史ではあまり有名ではないかもしれません。平将門の従兄弟になります。

 これ以降の歴史は明日書きます。
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by wheatbaku | 2010-03-23 06:09 | お寺めぐり | Trackback
金龍の舞 (浅草寺 お寺めぐり)
 3月18日は浅草寺のご本尊「聖観世音菩薩」さまが示現した日です。
 この日に、浅草寺においては 「金龍の舞」が演じられます。
 ホテルニューオータニさんの「花の大江戸散歩『江戸のお花見名所めぐり~墨堤・浅草』」のがイドが4月4日に控えているので、浅草寺で「金龍の舞」を観て来ました。

c0187004_15164973.jpg【観音さま示現にちなむ舞】
 「金龍の舞」は、昭和33年(1958)、本堂再建を記念して創始奉納されたものです。
 浅草寺の山号「金龍山」から名をとったこの舞は、『浅草寺縁起』に、観音示現の時「寺辺に天空から「金龍」が舞い降り、一夜にして千株の松林ができた(現世利益ともなる五穀豊穣の象徴)」とあることから創作されたものだそうです。
  当日は、午前11時、午後2時、午後3時と三回演じられました。
  午後2時の部では、「金龍」は、伝法院で出番を待っていました。
  午後1時40分に、伝法院前を出発し境内を練ります。

c0187004_15131813.jpg【貫首(かんす)の練り行列】
 「金龍」に先立ち、伝法院から参道の仲見世を通り本堂まで、浅草寺の貫首(かんす)をはじめ一山住職総出による練行列が行われます。
 傘の下を歩いていらっしゃるのが、浅草寺の清水谷 孝尚(しみずたに こうしょう)貫首です。
 威厳のあるなかにも優しさが感じられるお姿でした。


c0187004_15151715.jpg【仲見世を練り歩く金龍】
 伝法院を出て、仲見世を「金龍」が練り歩きます。
 「金龍」は長さ約18メートル、重さ約88キロあるそうです。
 これを8人が操るそうですので、一人あたり11キロになります。
 この重さの龍を練るのは大変だと思います。


c0187004_15153339.jpg【宝蔵門を抜ける金龍】
 宝蔵門の真ん中を、金龍が通っていきます。
 宝蔵門には、いつもは「小舟町(こぶなちょう)」寄進の大提燈が掲げられていますが、今日は、半分ほどたたまれていて、その下を「金龍」が通り抜けていきます。


c0187004_15155161.jpg【本堂前での2匹の龍の競演】 
 現在、本堂(観音堂)は修復中です。
 本堂にかかる囲いシートには、山本寛斎がプロデュースした大きな龍の絵が描かれています。
 その前を「金龍」が練り歩きました。
 2匹の龍の競演です。


c0187004_15161652.jpg【五重塔の前で金龍の舞】
 境内を練り歩いた後に、五重塔の前で、「金龍の舞」が披露されます。
 午後2時にちょうど始まりました。
 浅草組合花組のお囃子の中、勇壮華麗な舞が行われます。
 大勢の人が観ていました。
  日本人だけでなく、アメリカ人、オーストリア人、中国人、韓国の人など外国の人も「金龍の舞」を観ていました。
 浅草が国際的な観光地であることを実感しました。

c0187004_23165319.jpg【浅草組合花組のお姐さん方】
 「金龍の舞」のお囃子をするのは浅草芸者の浅草組合花組のお姐さん方です。
 「金龍」の後ろを山車に乗って移動します。
 この写真は、宝蔵門を通っているところを撮りました。
 「金龍の舞」の時も、この山車の上でお囃子を奏でていました。
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by wheatbaku | 2010-03-21 02:30 | お寺めぐり | Trackback
勝興寺と浅右衛門屋敷 (山田浅右衛門の寺 ④)
 
 今日も山田浅右衛門に関係するお話で、6代目山田浅右衛門山田浅右衛門屋敷跡について書いてみます。

【6代目山田浅右衛門】
c0187004_2258217.jpg 勝興寺の7代目山田浅右衛門吉利の墓は、実は、6代目山田朝右衛門吉昌と同じお墓に合葬されています。
 6代目山田朝右衛門吉昌は、元は遠藤次郎兵衛という下級幕臣の子で、奥州湯長谷藩藩士の三輪源八の養子となりました。5代目山田浅右衛門吉睦(よしむつ)は三輪源八の次男ですので、5代目吉睦からは義理の弟にあたります。
 5代目を継ぐ人はなかなか適当な人がなく、ついに山田浅右衛門の門人で、試し切りの修行を積んでいた吉昌が継ぐことになりました。
 跡を継いだ6代目は朝右衛門を名乗りました。
 なぜ浅でなく朝なのかはハッキリしません。

 勝興寺には、 6代目山田朝右衛門吉昌が、62歳の誕生日に剃髪した際に寄進した天水桶が本堂の階段の両脇にあります。(上の写真)
 
 天水桶には「天明七丁未年七月十八日 山田朝右衛門吉昌 出生
         嘉永元戊申年七月十八日 誕生日剃髪改 山田松翁」
 と書かれていました。

【山田浅右衛門屋敷跡】
 さて、山田浅右衛門の屋敷は、平河町にあったということでしたので、こちらの屋敷跡も見ておきました。
 c0187004_12185074.jpg
  嘉永3年の江戸切絵図で、半蔵門から西に延びる甲州道中の2本南の通り沿いで平川丁(町ではなく、丁と書かれています)の一画に、確かに「山田浅右エ門」と書かれています。

 そこで、平河町に行きました。
 東京メトロ半蔵門線の「半蔵門」駅の1番出口を出て、約80メートル西側に向かった道路の南側一帯が屋敷跡と云われています。

 今は写真のように某大手生命保険会社の近代的な大きなビルになっていて、ここに「胆(キモ)蔵」もあったと言われる山田浅右衛門の屋敷があったなどとは夢にも思えない状況です。
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by wheatbaku | 2009-10-12 10:25 | お寺めぐり | Trackback
勝興寺 (山田浅右衛門の寺 ③)
 
 7代目山田朝右衛門吉利は、安政の大獄の際に、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎の首を斬った人として名が知られています。
 
 その山田 朝右衛門吉利は、四谷の 勝興寺 に眠っています。

c0187004_22575063.jpg 勝興寺は、先日書いた戒行寺、西応寺、本性寺などがある四谷の南寺町の一画にあります。

 l山田朝右衛門吉利は、幕末に公儀御様御用(こうぎおためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めました。
 
 吉利は備中新見藩の藩士後藤五左衛門の次男で、後藤五三郎と言いました。
 父の五左衛門も山田家の門人で、五三郎自身も山田家の門人でした。
 6代目山田朝右衛門の養子となり、朝右衛門と改名しました。

 吉利は試し斬り以外にも刀剣鑑定に優れ、公儀腰物拝見役を拝命しました。
 公儀腰物拝見役は、徳川幕府開幕以来本阿弥家のみが専任する役でした。
 本阿弥家以外の人が拝命することは、当時としては極めて珍しいことでした。
 これは歴代の山田朝右衛門にはなかったことで、吉利は「源姓山田家系譜」の中に「先祖に先例なき特典なり」と割り注を入れているそうです。

c0187004_22555065.jpg 吉利は明治17年になくりました。
 勝興寺のお墓には「明治十七年十二月二十九日、天寿院慶心和水居士、第七世山田浅右衛門吉年、行年七十有二歳」とあります
 7代山田浅右衛門は、朝右衛門と書かれることが多いのですが、お墓には浅右衛門と書かれています。
 また、「吉利」は勝興寺のお墓には「吉年」とあります。
 これらが、なぜそうなっているのかご住職に聞いてもわかりませんでした。

 吉利の墓は勝興寺のほか正源寺(港区白金2丁目7番地19号)にあるとのことです。
 これは吉利が養子であり、遺言で葬式は勝興寺、遺体は正源寺としたためだそうです。
 正源寺は実家の後藤家の菩提寺です。
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by wheatbaku | 2009-10-10 11:32 | お寺めぐり | Trackback
祥雲寺 (山田浅右衛門の寺 ②)
 c0187004_167535.jpg今日は、祥雲寺にある歴代の山田浅右衛門について刻した 「浅右衛門之碑」のお話です。

 まず山田浅右衛門とはどういう人物かです。
 山田浅右衛門は、江戸時代に御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めていた山田家の当主が代々名乗った名です。
 山田浅右衛門は、死刑執行人も兼ね、首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とも呼ばれました。

 歴代の山田浅右衛門は次の通りです。
  初代 山田浅右衛門貞武    2代 山田浅右衛門吉時
  3代 山田浅右衛門吉継    4代 山田浅右衛門吉寛
  5代 山田浅右衛門吉睦    6代 山田朝右衛門吉昌  
  7代 山田朝右衛門吉利    8代 山田浅右衛門吉豊

c0187004_1674886.jpg 山田浅右衛門家は多くの弟子を取り、当主が役目を果たせない時には弟子が代行しました。
 また、当主に跡取りとなる男子が存在しない時には、弟子の中から跡継ぎを選びました。
 4代までは直系ですが、5代、6代、7代はそれぞれ養子です。8代は7代の子供です。

 アサ右衛門の字も、「浅右衛門」を書く代が多いのですが、「朝右衛門」と書く代もあります。

 「浅右衛門之碑」は、本堂の西側の脇にあります。
 ご住職の奥様が親切にご案内してくれましたので、すぐわかりました。

c0187004_1692044.jpg 右の写真をよく見ていただくと『浅右衛門之碑』と書かれているのがわかると思いますがどうでしょうか? 
 碑の表には、山田浅右衛門の事蹟が簡潔に書かれています。
 碑の裏には、初代から8代までの、法名が刻まれています。
 そして、3代からは、辞世の句も刻まれていますが、句を読みとるのはなかなか難しかったですね。


 記念碑の碑文を書き取ってきましたので、紹介します。
 難しい言葉を使用して刻まれていますので、読みにくいかもしれませんが、時間がありましたら最後までお読みください。

  『山田氏の先は 六孫王源経基に出づ 
  始祖貞武 資性倜儻(てきとう)不羈(ふき)武を好み山野氏に従て刀術を修め其妙を極む 
  江戸平河に住し浅右衛門と称す 
  子孫 之を其家号となる 
  2世吉時 徳川家の御腰物御様御用を勤め 傍ら首打同心の役を兼ぬ
  後世 職となり 3世吉継 4世吉寛 相承け
  5世吉睦 山田流据物刀法を大成し又刀剣鑑定家として名声 籍甚(せきじん)なり
  6世吉昌 7世吉利 8世吉豊 皆能く其裘(きゅうぐ)の業を紹恢し 敢て家声を堕ず
  以て明治維新に至
  今や継嗣絶え 墳墓亦殆ど壊滅に帰せり仍(よっ)て同志胥謀り
  世系事蹟を石にし 祥雲寺の境内に建て
  且つ 髻(もとどり)塚を修造し以て後に貼すと云爾 
     昭和13年10月9日 鴇田恵吉』

    倜儻(てきとう):才気が衆人にかけはなれてすぐれているさま。
              物事に拘束されないさま。
    籍甚(せきじん):名声が世に広まること。評判の高いこと。
    裘(きゅうぐ):毛皮で作った衣。かわぎぬ。
    勒(ろく)す:彫る。刻む。

 最後までお読みいただきありがとうございました。
 
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by wheatbaku | 2009-10-09 06:12 | お寺めぐり | Trackback
祥雲寺  (山田浅右衛門の寺 ①)
 
 吉田松陰は小伝馬町牢屋敷に2回入獄していましたので、日本橋散策ツァーでは、吉田松陰の話をしました。
 吉田松陰の処刑を行ったのが、俗に「首切り浅右衛門」と呼ばれる7代目の「山田浅右衛門」でした。 

 6代目と7代目山田浅右衛門が眠る四谷の勝興寺、8代目山田浅右衛門が眠る池袋の祥雲寺(しょううんじ)に、日本橋散策ツァーの下調べに行ってきてありますので、今日から、山田浅右衛門について書いていきます。

 祥雲寺(しょううんじ)には、歴代の山田浅右衛門の系譜を書いた 「浅右衛門之碑」  がありますので、祥雲寺のほうから案内します。
 
 祥雲寺は、池袋にある由緒あるお寺です。 東京メトロ「要町」駅の5番出口からは歩いて2分です。

c0187004_15472893.jpg 祥雲寺は、室町幕府第12代将軍足利義晴の時代の天文元年(1532年)に、小田原北条氏の重臣で江戸城主の遠山景久によって、江戸城和田倉門内に駒込吉祥寺の末寺として創建された寺です。
 駒込の吉祥寺の2代目であった安充和尚を招いて開山としました。
 当初は遠山景久とその妻の法号を取り、この寺を瑞鳳山浄光院と称しました。
 徳川家康が江戸に入城し、城郭を拡張修繕するにあたって、神田台(駿河台)に移転を命ぜられ、その後、小日向金杉への移転しました。
 さらに、寛永13年(1636年)戸崎台(現在の文京区白山2丁目)へ移転することになりました。

c0187004_15475462.jpg そして、5代将軍綱吉が亡くなり、御台所である鷹司信子は出家して、浄光院殿と呼ばれるようになったことにより、お寺の名前が鷹司信子の法号と同じであることに遠慮し、浄光院を改めて祥雲寺と称するようになったそうです。
 池袋へは明治36年から移転を開始、大正4年(1915年)に移転が完成したそうです。

 祥雲寺には、8代目山田浅右衛門吉豊の墓のほか、信州松本藩戸田家代々の墓や最近の人では漫画家の石ノ森称章太郎の墓もあります。

 明日は「浅右衛門之碑」について書きます。


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by wheatbaku | 2009-10-08 06:01 | お寺めぐり | Trackback
豪徳寺② (世田谷の寺社②)
 昨日に続いて、豪徳寺についてのご紹介です。
 ところで、豪徳寺へは、小田急線「豪徳寺」駅から歩いて12分かかります。歩くのが大変でしたら、豪徳寺駅から、豪徳寺駅の傍にある世田谷線「山下」駅で世田谷線に乗り換えて「宮の坂」駅から歩くと3分で到着します。

 c0187004_21402142.jpg豪徳寺は、招き猫発祥の地と言われます。それは、井伊直孝が猫により門内に招き入れられ、雷雨を避けることができたことを大いに喜んだことによると言われています。
 豪徳寺では「招福猫児(まねぎねこ)」と称し、招猫観音(招福観世音菩薩、招福猫児はその眷属)を祀る「招猫殿」が仏殿の西側にあります。
 招猫殿の横には、願が成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されていました。
 右手を挙げている猫は金運を招き、左手を挙げている猫は人(客)を招くとされています。

 ゆるきゃらで有名な「ひこにゃん」のモデルは、ここの招き猫です。

 c0187004_2144543.jpg「招猫殿」の前を通り、さらに西に向かうと、井伊家墓所になります。
 彦根藩井伊家の2代藩主直孝はじめ6代直恒、9代直禔、10代直幸、13代直弼、14代直憲の6代の墓所があります。
 
 墓所の入り口には、大きな説明板と墓所の地図が設置されています。
 なお、初代彦根藩主、井伊直政の墓所は彦根清涼寺にあります

 13代藩主の井伊直弼は、万延元年(1860)の桜田門外の変で暗殺されました。
 直弼も、豪徳寺に葬られています。(下の写真は墓碑の脇にある説明板です)

 桜田門外の変については、かなり知られていますが、桜田門外の変以後のあまり知られていない話題を三つご紹介します。

 c0187004_21443413.jpg1、桜田門外の変の起きたのは、3月3日ですが、井伊家の家名存続と井伊家と水戸家の騒乱が激化することを防ぐため、直弼の死亡はしばらく伏せていたそうです。そのため、井伊直弼の墓にも命日は、閏3月28日となっているそうです。
 直弼の墓は墓所修理中で詳しくは墓碑をみることはできませんでした。

2、井伊家墓所には、桜田門外の変で殉難した八士を奉る桜田殉難八士之碑が建っているとのことです(参拝の当日は、墓所が修理中だったため、実物は確認できませんでした)
 この人たちは、桜田門外の変で死亡した人たちですが、生き残った人たちには、厳しい処置が下されました。
 重傷者は減知のうえ、藩領だった下野の佐野に流され揚屋に幽閉されました。
 軽傷者は全員切腹が命じられました。
 無疵の者は全員が斬首され、家名断絶となりました。

3、直弼の失政を理由に彦根藩は石高が35万石から25万石に減らされてしまいました。

 桜田門外の変は、日本の政治だけでなく、彦根藩井伊家の人たちにも大きな影響を与えたことがわかります。

 豪徳寺は、広い境内で、多くの建物が建っています。
c0187004_22402729.jpg こちらが、豪徳寺の本堂です。仏殿の北側にあります。昭和42年に建立されました。
c0187004_22405055.jpg 







 山門から仏殿に向かう参道の左手に、真新しい三重の塔 がありました。
 平成18年5月に完成しました。
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by wheatbaku | 2009-09-26 09:32 | お寺めぐり | Trackback
豪徳寺 (世田谷の寺社 ①)
 ホテルニューオータニさんの日本橋散策ツァーも無事終了しました。
 19名の方にご参加いただき、楽しい時間を過ごすことができました。
 ご参加いただいた皆さんありがとうございました。
 
 日本橋散策ツァーの見所は、パートナーを務めてくれた月猫さんが書いてくれますので、そちらにお任せして、いつもどおりブログを書いていきます。

 日本橋散策ツァーに際して、案内場所は当然下見をしましたが、それに関連する場所も下見をしました。
 その一環で豪徳寺や松蔭神社なども訪問しましたので、今日から紹介していきたいと思います。

 今日は井伊家の菩提寺や招き猫発祥の地として有名な 豪徳寺 の紹介です。

c0187004_21195520.jpg 豪徳寺は、元々「弘徳院」と言われました。
 文明12年(1480年)吉良政忠が伯母である弘徳院のために庵を結んだのが最初です。
 寛永10年(1633年)彦根藩2代藩主井の伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備しました。
 寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」によります。

 豪徳寺は、小田急線の駅名にもなっているので、前々からなじみのある名前でしたが、お寺の名前が井伊直孝の法名に由来するというのは、今回のお参りで初めて知りました。新しい発見でした。 
 なお、世田谷を領した吉良氏は、吉良上野介義央で有名な三河吉良氏と同族ながら系統の異なる奥州吉良氏の系統です。
 江戸時代には、家格の高さから、高家として取り立てられますが、三河吉良氏との関係から、蒔田氏として称しています。そして、赤穂事件によって三河吉良氏が断絶した後は、「吉良」に復姓しています。

c0187004_2120226.jpg  山門から入るとまず明に入るのは正面にある仏殿(上の写真は正面から、右の写真は脇からとったものです)です。仏殿は、寛文から延宝年間にかけて行われた大造営事業の中心的建造物です。

c0187004_8202933.jpg  この事業を進めたのは、井伊直孝の妻春光院とその娘掃雲院のふたりだそうです。
 仏殿は、掃雲院が3代藩主直澄の菩提を弔うために延宝4年(1676)に建設に着手し、翌延宝五年(1677)に完成しました。
当寺流行した黄檗様式が随所に取り入れられているとのことです。
 仏殿前の石灯篭(左上の写真)も、仏殿と同じ時期に建立されたものとのことです。



c0187004_21212027.jpg  山門から仏殿へ向かうと東側に鐘楼があります。
 この梵鐘は、延宝7年に完成しています。製作者は、藤原正次という江戸の鋳物師とのことです。
 高さは約148センチあります。

 招き猫の話や井伊家の墓所については明日書きます。
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by wheatbaku | 2009-09-25 06:30 | お寺めぐり | Trackback
  

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