カテゴリ:江戸の花と木( 55 )
右衛門桜 (桜16 江戸の花と木)
今日は、江戸の一本桜の最後、「右衛門桜」です。

 「右衛門桜」は 北新宿の円照寺にあります。
 円照寺の住所は、新宿区北新宿3-23-2 です。 
 JR大久保駅から約8分、東中野駅からは約7分です。住宅地の中にあります。

 【江戸名所図会の書く右衛門桜】 
c0187004_16593172.jpg 円照寺の由緒書き等がありませんでしたが、「江戸名所図会」に詳細に書かれています。
 それを要約すると次のようになります。 
 『瑠璃光院と号す。柏木村にあり。真言宗にて田端の与楽寺に属す。
 本尊薬師如来の像は行基の作といわれていたもの。 天慶3年(940)、藤原秀郷が威を関東に振るう平将門を討とうと中野にきたところ、ひじが痛んだため、本尊薬師如来にお祈りするとたちまち直った。 あわせて、将門征伐のお願いをしたところ、無事征伐できたので、凱旋後、円照寺を建立した。
 その後、兵火に何度かあったが、江戸時代になって、寛永18年に春日局が修復をした。』




 「右衛門桜」は、本堂の脇、地蔵堂の前にありました。
c0187004_16582434.jpg 意外と若木のヤエベニシダレでした。「右衛門桜」などの説明板も一切ないのが少し残念でした。

 【江戸名所花暦の書く右衛門桜】 
 「右衛門桜」について、江戸名所花暦では次のように書かれています。
 柏木の右衛門桜と名付けたる説は、武田右衛門という浪人あり。すぐれてこの花を愛す。老木にて幹木の枝枯れたり。右衛門歎きて、あらたに若枝をつぐ。継木の妙手を得たる人なれば、枝葉栄えて花もむかしの色香をなせり、右衛門が継木の桜なれば、いつともなく右衛門桜という。所を柏木村といへば、源氏の柏木右衛門に因み手名高き木とはなれり。
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by wheatbaku | 2011-04-18 05:42 | 江戸の花と木 | Trackback
白山旗桜(桜15 江戸の花と木)
 今日は、江戸の一本桜のうち、白山神社の  「旗桜」  をご紹介します。

 白山神社はあじさいで有名ですが、「白山旗桜」という品種の桜があります。
 ここの桜も、今を盛りと満開でした。
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【白山神社の由緒】 
 白山神社は、東京十社の一社となっています。
 明治時代には准勅祭社・府社とされていました。
 東京十社をめぐる巡礼がありますが、その「東京十社めぐり」の案内には次のように由緒が書かれています。
c0187004_12564283.jpg 『天暦2年加賀一宮白山神社を現本郷元町に奉勧請す。
 建武4年足利尊氏公により国家平安御祈願所に命ぜらる。
 元和2年徳川秀忠公の命に依り巣鴨原へ遷座、慶安4年徳川家綱公の用地と相成り明暦元年現社地に移奉す。
 後に5代将軍綱吉公と生母桂昌院の信仰を受け小石川の鎮守となる。 』

 つまり、天暦年間(947-57)に本郷本町(現本郷一丁目)に創立されたといわれている神社です。
 江戸時代になって、元和年間(1615-1624)2代将軍秀忠のとき、現在の小石川植物園内に移されました。
 そして、そこの地が徳川家綱の用地となった後、後に5代将軍となる徳川綱吉の白山御殿が造営されたので、明暦元年(1655)現在地に再び移築されました。そのために、5代将軍綱吉とその生母桂昌院の厚い信仰を受けたということです。

 江戸名所図会では白山神社について次のように書かれています。
c0187004_1314377.jpg 『当社は元和3年(1617)の勧請なりといへり。当社旧(いにしえ)白山御殿の地にありて、氷川明神・女体の宮とともに並びてありしかども、かしこに御殿営作せられし頃、いまの地へ遷座なし奉となり。』

 
 白山神社の主祭神は菊理姫命で、加賀国石川郡の白山比咩(しらやまひめ)神社のご祭神と同じです。
 白山御殿の地名は元白山神社社地であることにより、小石川の地名は、加賀国石川郡から白山神社が勧請されたことによると白山神社の由緒書にかかれています。


【白山旗桜はご神木】 
 この白山神社の境内に、八幡神社があります。
 そのご神木になっているのが「白山旗桜」です。下の写真がそれです。
c0187004_1317484.jpg  
 永承6年(1051)八幡太郎義家が奥州平定の途中、この社に寄り、義家が旗を立てて祈願せられた時の桜と言われています。
 原木は昭和10年に国の天然記念物に指定されましたが、枯死してしまったため、昭和13年に解除されてしまいました。
 現在の旗桜は、その後継種です。
 正常は花弁のほかに、旗弁(きべん)と呼ばれる花弁があるので「旗桜」とよばれるそうです。
 旗桜は、八幡神社の脇のほか、白山神社の水屋の脇にもあります。
 最上段の写真は、水屋の脇のものです。
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by wheatbaku | 2011-04-15 12:36 | 江戸の花と木 | Trackback
金王桜(桜14 江戸の花と木)
 今日からは、江戸時代に有名であった一本桜についてご案内します。
 渋谷の金王八幡宮「金王桜」、新宿柏木の円照寺「右衛門桜」、白山神社の「白山旗桜」は江戸時代に有名で、現在も後継樹が花を咲かせていますので、順にご案内します。

 まず、最初は、 渋谷の金王(こんのう)八幡宮にある金王(こんのう)桜 です。
 下の写真が、その金王桜です。今を盛りと一杯の花を咲かせています。
 奥の工事の仮囲いが「ちょっと・・・」です。
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【金王八幡宮は、人の名前から付けられたもの】  
 金王八幡宮は、源義家が、後三年役の勝利は河崎基家(渋谷の祖)の崇拝する八幡神の加護なりと渋谷城内に寛治6年(1092)に勧請したのがはじまりと由緒に書かれています。
 また、基家の子、重家は堀河天皇から渋谷の姓を賜り、これが渋谷の地名の発祥とされているそうです。
c0187004_14462031.jpg 重家には子がなく夫婦で金王八幡宮に祈願を続けていると、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢をみて立派な男子を授かりました。
 そこで、その子に明王の上下二文字から「金王丸」と名付けました。
 金王丸が17歳の時、源義朝に従って保元の乱(1156)で大功を立てました。
 その義朝は平治の乱(1159)で敗れた尾張国野間で最期を遂げました。
 金王丸は、京に上り常磐御前にこのことを報じた後、渋谷で剃髪、土佐坊昌俊と称して義朝の霊を弔いました。
 そして、頼朝が挙兵した時には、金王八幡宮に参籠して平家追討の祈願をしました。
 壇ノ浦の戦いの後、頼朝は義経に謀反の疑いをかけ、これを討つよう昌俊(金王丸)に命じました。
 昌俊は断ることもできず、京都に上り、義経の館に討ち入り、立派な最期を遂げました。
 金王八幡宮は、古くは単に八幡宮又は渋谷八幡宮と称してそうですが、渋谷金王丸の名声により、金王八幡宮と称されるようになったそうです。

【金王桜も、人の名前から付けられたもの】  
 金王桜は、、頼朝が金王丸の忠誠をしのんで名付けて植えたとされています。
c0187004_1445435.jpg 文治5年(1189)7月7日 源頼朝が、金王八幡宮に太刀を奉納した際、父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節を偲び、金王丸の名を後世に残すべしと厳命し、鎌倉亀ヶ谷の館にあった憂忘桜をこの地に移植させ、金王桜と名付けたとされています。
 金王桜は、チョウシュウヒザクラ(長州緋桜)という種類で、雄しべが花弁化したものも交じり、一枝に一重と八重が入り混じって咲く珍しい桜です。
 現物をみて、最初は八重がよくわからなかったので社務所で聞いたら、宮司の奥様が丁寧におしえてくれました。
 確かによく見ると八重(といっても6~7枚程度の花弁のもの)が一杯ありました。
 写真の桜は花弁が6枚のものですが、わかりますでしょうか!
 奥様の話では、今年の桜は、例年より白いそうです。確かに緋桜というには白すぎる色でした。
金王桜は、現在に至るまで代々実生より育て植え継がれているそうで、次代のものも近くに植えられていました。

c0187004_14453654.jpg 【江戸名所花暦と芭蕉句碑】 
 金王桜について、しばしば引用する江戸名所花暦では
 『渋谷八幡宮境内にあり。別当 東福寺。久寿(1154~1156)年中、源義朝、鎌倉亀ヶ谷の館に植えられし憂妄(ゆうもう)桜を金王丸にたまふ。領知渋谷にもて来たり、鎮守八幡のみづがきのほとりに植えるとあり』
と書かれています。

 金王桜の下に、松尾芭蕉の句碑も建立されていました。
 左の写真がそれです。
 しばらくは 花のうえなる 月夜かな

【社殿・神門は春日局が寄進】  
 社殿及び神門は、慶長17年(西暦1612)の建立です。
 3代将軍が家光と決まる以前、家光の乳母春日局と教育役であった青山伯耆守忠俊は大変心配して、この八幡宮に祈願を重ねましたc0187004_1447938.jpg
 家光が無事将軍となったことを神明の加護と喜んで、春日局と青山忠俊は金百両、材木多数を奉納して、社殿が造営されました。
 それが現在の社殿と神門です。
 江戸時代初期の建築様式を現在にとどめる、都内でも代表的な建物の一つとして、渋谷区指定文化財とされています。
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by wheatbaku | 2011-04-14 06:13 | 江戸の花と木 | Trackback
江戸の桜の名所:飛鳥山 (桜13 江戸の花と木)
 江戸の桜の名所の3番目は、「飛鳥山」です。
 
 飛鳥山は、江戸庶民のお花見場所として、すごく人気がありました。
 飛鳥山は、江戸市中からは2里(約8キロ)と少し距離がありますので、江戸っ子はちょっとした遠足という気分でお花見に出かけました。
 日曜日は桜満開で大勢の人が花見をしていました。
c0187004_9501665.jpg
 上の写真は、多目的広場から飛鳥山碑方向を撮ったものです。 下の写真は、JR王子駅のホームから撮った飛鳥山です。

【飛鳥山は吉宗の発案】 
 飛鳥山に、本格的に桜が植えたのは、8代将軍徳川吉宗です。
 享保5年(1720)の徳川吉宗による鷹狩復活にともない、将軍の御膳所となる王子・金輪寺の周囲に桜270本が植樹されました。
 翌年の享保6年(1721)には、吉宗の意向により、江戸の人々の遊園とするため、飛鳥山全山に1000本の桜が植えられました。
c0187004_9511173.jpg
 やがて、元文2年(1737)3月、土地も旗本の野間氏領から王子権現の所領へと移され、飛鳥山は老若男女・貴賤を問わず訪れることができる桜の名所として広く開放されました。
 上野の山は、将軍家の菩提寺である寛永寺の中ですので、音曲が禁止されていましたので、「飲めや歌え」の花見ができませんでした。
 しかし、飛鳥山はそれができました。
 元文3年には、水茶屋54軒、揚弓場3ヶ所が許可され、音無川にも水茶屋が9軒許可されました。
 こうしたことから、庶民が大いに花見が楽しめる場所となり、江戸っ子の人気を集めました。

 江戸名所花暦にも
「八重一重の桜数千株を植えさせられ、花盛りのころは、木の間に仮の茶店をしつらいて群集す。遥かに東北をながむれば、足立郡の広地、眼下に見えて、荒川のながれ白布を引くごとく、佳景いふばかりなし」 と書かれています。


【難解な飛鳥山碑】 
 吉宗は、飛鳥山が旗本野間氏領から王子権現の所領になった元文2年(1737)3月11日に、自らの事業の成果を確認するかのように、飛鳥山で酒宴を催しました。c0187004_9513717.jpg また、同年閏11月には、吉宗の事蹟を顕彰するための「飛鳥山碑」が建てられました。
 成島道筑(なるしまどうちく)による碑文には、紀州・熊野につながる飛鳥山の由緒や桜植樹と所領替えの事績について刻まれており、紀州出身の将軍・吉宗の威徳を広く示す意味をもっていました。
 碑に使われた石は、江戸城吹上庭園にあった紀州産の青石です。
 この石碑は現在も残っておりますが、江戸時代には飛鳥山のランドマークともなり、浮世絵などで芝山に桜と石碑を描けば飛鳥山を示しました。
 この飛鳥山碑は難解な碑文であり、
  「飛鳥山 何と読んだか 拝むなり」
  「この花を 折るなだろうと 石碑みる」
 
 と川柳に読まれたほど、江戸時代から難解な碑文として知られていました。

【桜賦の碑】 
c0187004_952233.jpg また、近くに、佐久間象山作の桜賦(ふ)の石碑があります。
 この賦で象山は、桜の花が陽春のうららかな野山に爛漫と光り輝き人々の心を動かし、日本の全土に壮観を呈しその名声は印度、中国にまで響き、清く美しいさまは他に比類がないと云い、当時象山は門弟吉田松陰の密出国の企てに連座し、松代に蟄居(ちっきょ)中であったので、深山幽閉中で訪れ来る人もないが自ら愛国の志は堅く、この名華の薫香のように遠くに聞こえると結んでいるそうです。
 この賦は象山が50歳の万延元年(1860)の作と云われています。
 桜賦の石碑は、勝海舟らによって、建てられたものです。


c0187004_2256466.jpg 【飛鳥山北の眺望】 
 右は、歌川広重が描いた名所江戸百景の「飛鳥山 北の眺望」です。

 飛鳥山の東方に広がった眺望は見事でした。眼下に広がる三河島田圃から関東平野が見渡すことができした。
 さらに遠くには右の男体と左の女体の二つの頂をもつ筑波山が見えました。
 この絵はちょうどお花見時です。
 散策しながら花見をする人、毛せんを敷いて宴会をする人たち、山の端からかわらけ投げをする人たちなどが描かれています。

 最後に、飛鳥山の名前の由来ですが、ここに飛鳥明神が祀られていたために名付けられたとのことです。
 飛鳥明神とはどのような神様なのかご存知の方がいたら教えてください。
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by wheatbaku | 2011-04-13 06:05 | 江戸の花と木 | Trackback
秋色桜(桜13  江戸の花と木)
 昨日の上野の桜の続きで、今日は「秋色(しゅうしき)桜」について書きます。

【秋色桜】  
 江戸時代に上野で桜といえば、必ず名前があがったのが、「秋色(しゅうしき)桜」です。
 現在も清水観音堂のそばにあります。
 「秋色(しゅうしき)」というのは、人の名前(正しくは俳号)です。しかも女性です。
 元禄の頃、日本橋小網町の菓子屋の娘お秋が、花見客で賑わう井戸端の様子を詠んだ次の句によって名所になりました。
 「井戸端(ばた)の桜あぶなし酒の酔」  
 桜の枝に結ばれたこの句は、寛永寺の住職である輪王寺宮に誉められ、一躍江戸中の大評判となりました。
 お秋は、9歳で宝井其角の門に入り、俳号を菊号亭秋色と号しました。この俳句を詠んだ当時、お秋は13歳だったと伝えられています。
 以来この桜は「秋色桜」と呼ばれています。
c0187004_9464842.jpg
 現在植えられている「秋色桜」はヤエノベニシダレです。
 秋色桜は清水観音堂の東南にあります。
 しかし、清水観音堂と秋色桜ですが、秋色がこの俳句を詠んだ江戸時代はじめ頃には擂鉢山の上にあったそうです。
 清水観音堂は、擂鉢山から現在地に移され、それと同時に井戸と桜も移されたようです。

 清水観音堂や西郷さんの銅像がある場所は、桜ヶ丘や山王台と呼ばれます。 
 ここは、寛永7年に、林羅山が幕府から屋敷を拝領した場所といわれています。 c0187004_9345269.jpg 
 林羅山は自分の屋敷に桜を植えて、塾に「桜峯塾」と名づけたそうです。そうしたころから桜ヶ丘という別名で呼ばれるようになりました。
 また、ここにあった孔子病が元禄4年に湯島に移転し、しばらくした後に山王社が建立されました。
 山王社があったところから山王台とも呼ばれるようになりました。

 秋色桜を大勢の人が眺めたり写真をとったりしていました。写真の右側が清水観音堂です。
 
 この秋色が生まれた和菓子屋が現在も三田で和菓子屋さんをしています。「秋色最中」を売っている 「大阪屋」さんです。
 以前お邪魔して「秋色最中 大坂家 (江戸からの和菓子14)」 に書きましたのでご覧ください。
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by wheatbaku | 2011-04-12 06:39 | 江戸の花と木 | Trackback
上野の花見(桜12、江戸の花と木)
 昨日は、桜を探して、新宿柏木の円照寺「右衛門桜」、上野「秋色桜(しゅしきざくら)」、白山神社「白山旗桜」を見てきました。そして、ブロ友ヒナさんの案内で「千住散歩」し老舗「尾花」で鰻を味わってきました。
 これらは、順次、記事にしていきますが、今日は、「上野」のお話です。

【寛永寺の桜は天海が植えた】  
上野は、江戸時代のはじめには、「忍岡」と呼ばれて、津藩藤堂家などの下屋敷がありました。
c0187004_9301799.jpg  ここに、寛永2年(1625)に寛永寺が建立されました。
 天海大僧正の進言によるものといわれています。
 天海は、比叡山を模して寛永寺を建立しました。それは、お寺の名称にあらわれています。
 比叡山に対して「東叡山」、「延暦」は建立時の年号ですので、それにならって「寛永寺」と名づけられました。
 この上野の地に桜を植えたのは天海大僧正であると言われています。
 吉野山から移植したと言われています。 つまり、現在植えられているソメイヨシノと異なりヤマザクラが植えられました。

【江戸時代は音曲禁止】  
 c0187004_13383671.jpg上野が花の名所として市民に愛され、行楽として花見に出かけるようになったのは寛文の頃からといわれています。
 そして、元禄期になると「花の雲、鐘は上野か浅草か」と芭蕉の句に詠まれたように上野は桜の名所となりました。
 上野の山に花見では、羽織小袖などを木陰に掛け並べて幕として利用し、この小袖幕を張りめぐらせて毛氈を敷き、その上に座って酒を飲んだりご馳走を食べたりしながら花見を楽しみました。
 元禄時代に活躍した戸田茂睡という歌人が書いた「紫の一本(ひともと)」という本に
 『幕の多きは300余あり。少なき時は200あまりあり。このほかにつれだちたる女房の上着の小袖、男の羽織を、弁当かかげたる細引きにとほして桜の気にゆひつけて、かりの幕にして、毛氈・花むしろしきて酒のむなり。鳴物はならず。小唄・浄瑠璃・踊り・仕舞はとがむることなし」  と書かれています。

 しかし、寛永寺は、将軍家の菩提寺であったため、花見の様子は、今とは少し違ったようです。
 江戸時代のはじめの頃は、音曲も許されていたようですが、天和((1681~1684)を過ぎる頃には、音曲は禁止されたようです。
  さらに、暮六つになると、門が閉められ、山内にいた人たちは、山同心という寛永寺お抱えのガードマンに退去させらてしまいました。
 そこで、 「千金の時分 追い出す花の山」 という川柳もあります。

 上野は江戸の桜の名所として、「東都歳時記」や「江戸名所花暦」にも書かれています。
 「東都歳時記」には、
 『当山の桜は、その昔、台命(将軍の命令)によりて、吉野の苗をうえさせられし所とぞ、盛りのころは貴賎雅俗ここに群り、花下に遊宴して、夕照の斜なるを惜しむ」 と書かれています。
「江戸名所花暦」には
 『東都第一の花の名所にて、彼岸桜より咲き出でて一重八重追々咲き続き、弥生の末まで花のたゆることなし』 と書かれています。
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 上野のお山は大勢の花見客でにぎわっていました。
 上の写真は桜並木の様子です。奥に見えるのが「国立博物館」です。 
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by wheatbaku | 2011-04-11 05:50 | 江戸の花と木 | Trackback
江戸の桜の名所:墨堤(桜11 江戸の花と木)
 江戸の桜の名所は、隅田川の堤防(いわゆる墨堤)、上野、飛鳥山、御殿山でした。
 これらの紹介を順に行っていきます。

 まず最初は、墨堤です。
 墨堤の桜の歴史は「墨堤植桜之碑」に書かれていますので、そこに書かれている歴史を概略書いていきます。

c0187004_21344252.jpg 墨堤の桜は、4代将軍家綱が、常陸国(現在の茨城県)の桜川の桜を移植したのがはじまりです。
 その後、8代将軍吉宗が、 100本の桜を墨堤に植えて地元の名主に管理させたようです。
 100本というと少なく思われると思いますが、当時の花見は、いわゆる桜並木をみるものではなく、屋敷に咲いている1本桜をみるのが主流だったようです。
 そうした時代に、100本もの桜が1箇所に植えられてことは、当時としては画期的なことだったそうです。
 それ以降、地元の人々を中心に桜が植えられ、「東都歳時記」に「是なん江都游賞の第一とぞいうべかりける」と書かれるように江戸第一の桜の名所となりました。
 そして、現在も下の写真のように大勢の人で賑わっています。
c0187004_2131680.jpg
 墨堤の桜は、最初は上流に植えられていて、それが徐徐に下流にうえられるようになってきたそうです。
 現在の墨田公園は、江戸時代には、水戸家の下屋敷でしたが、その周辺に桜が植えられたのは、明治になってからだそうです。
 江戸時代から手をかけられていた墨堤の桜も明治の中ごろには荒れ果てきたので、大倉財閥の創業者大倉喜八郎や成島柳北などが中心になって桜を植えて現在に続く墨堤となっています。
 現在の墨堤の桜は、大部分ソメイヨシノですが、明治まではヤマザクラが植えられていたようです。

 さて、隅田公園は、江戸時代には水戸徳川家の下屋敷がありました。 
 水戸徳川家の上屋敷は、有名な小石川後楽園、中屋敷は、本郷の東大農学部にありました。
c0187004_21314279.jpg そして下屋敷が隅田川沿いにありました。
 この下屋敷は、江戸時代初期の元禄6年に幕府より拝領したものです。
 幕末の時の面積は2万3千坪という広大なものでした。そして、水戸徳川家では主に蔵屋敷として利用していました。
 明治維新後は、この下屋敷が水戸徳川家の本邸となりました。
 そして、関東大震災で全壊するまでは、代々の当主がここに住んで小梅邸と呼ばれていました。徳川慶喜も水戸家出身ですので、よく小梅邸を訪問したそうです。
 しかし、関東大震災で建物がすべて焼失してしまい、水戸徳川家は、ここを売却することにしました。
 その後にできたのが隅田公園です。
上の写真は、牛島神社の脇の隅田公園に咲いていた八重咲きの枝垂れ桜、品種名「ヤエベニシダレ」です
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by wheatbaku | 2011-04-09 21:38 | 江戸の花と木 | Trackback
クローンと桜前線(桜⑩ 江戸の花と木)
 今日はソメイヨシノはクローン植物というお話をします。


【ソメイヨシノの遺伝子はすべて同じ】 
 ソメイヨシノは種子では増えません。全国にあるソメイヨシノはすべて人の手で接木(つぎき)などで増やしたものです。
c0187004_902413.jpg いまの言葉で言うとソメイヨシノは、クローン植物なのです。
 クローンという言葉は、あまり良い印象がありませんが、科学技術庁の説明では、次のように書かれています。
 「クローンという言葉の語源は、ギリシャ語で「K l on =小枝」ですが、現在で は「遺伝的に同一である個体や細胞(の集合)」を指す生物学の用語として使わ れています。クローン羊やクローン牛とは、お互いに全く同じ遺伝子組成を持 った複数の羊や牛を指します。」
 つまり、まったく同じ遺伝子を持っている生物をクローンといいます。
 そして、つい最近の平成23年3月8日には森林総合研究所が国立遺伝学研究所と共同で、「もっとも有名な栽培品種の染井吉野は、従来から単一クローンが通説となっていましたが、各地から収集されていたものが同一クローンであることが確認されました」と発表しました。
 つまり、全国にある総てのソメイヨシノの遺伝子が同じである ということが学術的に立証されたわけです。
 これは、別の言葉でいえば、全国のソメイヨシノは一本の原木から、次々と挿し木などによって、増やされたものとも言えるということだと思います。
 ソメイヨシノと同様にヤエベニシダレとミクルマガエシも単一クローンだそうです。

c0187004_11315467.jpg
     皇居内堀に咲く桜  奥の建物は武道館

【桜前線とは】 
 このソメイヨシノがクローンであることを利用したのが桜前線です。
 c0187004_904383.jpg桜前線は、桜の開花予想日をつないだものです。本州では、桜はソメイヨシノが対象となります。
  ソメイヨシノはクローン植物であるため、遺伝子が同じですので、一定の気象条件のもとでは、ソメイヨシノ全てがほぼ一斉に開花します。
 この性質を利用して、開花の予想することが可能となり桜前線が発表されています。
 平成21年までは、気象庁が発表していましたが、平成22年からは、日本気象協会、ウェザーニューズ、ウェザーマップの民間3社がそれぞれ独自に発表しています。
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by wheatbaku | 2011-04-08 11:56 | 江戸の花と木 | Trackback
コマツオトメ(桜⑨ 江戸の花と木)
 今日は、ソメイヨシノの親といわれる コマツオトメ についてのお話です。

【コマツオトメはソメイヨシノの親】 
 ソメイヨシノは、オオシマザクラとエドヒガンの交配で作出された品種とされています。
 ソメイヨシノの親となったのは、エドヒガン系の中でも、「コマツオトメ」と考えられています。
c0187004_8353921.jpg 上野公園の原木に咲く「コマツオトメ」が右の写真です。
  元東京都公園課の西田尚道氏が、小松宮の銅像の脇にあり、花がかわいらしく美しいので「コマツオトメ」と名づけたそうです。
 コマツオトメの原木(下の写真)は、名前の由来となった小松宮彰仁親王の銅像の脇に1本だけ生えています。そのコマツオトメは、写真のように上野公園では満開でした。
c0187004_836352.jpg


【桜に囲まれた小松宮銅像】 
 小松宮銅像は、JR上野駅の公園口を出て、上野動物園に向かって歩き、桜並木を過ぎた場所にあります。
 小松宮銅像の周りには、コマツオトメ、ソメイヨシノ、イチヨウ、カンザンなどの桜が植えられています。
 下の写真は、桜の花越しに撮った小松宮の銅像です。手前の桜は「コマツオトメ」でなく「ソメイヨシノ」です。
 ところで、小松宮がどんな人なのか調べてみましたので、写真の下を読んでください。
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 小松宮彰仁親王は伏見宮邦家親王の第8王子として生まれ、京都の仁和寺に入って純仁法親王と称しましたが、慶応3年(1867)、還俗し、東伏見宮嘉彰親王と改称しました。
 鳥羽・伏見の戦・戊辰戦争に従軍し、その後、佐賀の乱や西南戦争の鎮圧にあたりました。
c0187004_901310.jpg 明治15年10月、それまでの旧名である東伏見宮を小松宮に改名します。
 明治24年12月近衛師団長、明治28年1月から31年1月まで参謀総長、陸軍元帥となります。
 また、日本赤十字社の総裁として赤十字活動の発展に貢献しました。
 明治36年になくなり、銅像は明治45年建てられました。
 当地に建てた理由について、『下谷区史』は寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川官能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察しているそうです。
 北白川家との関係では、さらに、小松宮彰仁親王の継嗣として、北白川官能久親王の第4王子輝久王が臣籍降下し、明治43年に小松侯爵家を創設したという関係もあります。

赤が小松宮銅像青が上野動物園正門です。上野動物園の正門の手前にあります。

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by wheatbaku | 2011-04-07 06:03 | 江戸の花と木 | Trackback
ソメイヨシノ(桜⑧ 江戸の花と木)
 今日は桜の中で、最も有名なソメイヨシノについて書いていきます。
 現在では、桜といえばソメイヨシノのことを指すほど、全国で植えられている桜の大部分がソメイヨシノとなっています。

【ソメイヨシノ】 
c0187004_14125730.jpg ソメイヨシノ(右写真)の花弁は5枚で、葉が出る前に、木全体を覆うように淡紅白色の花をつけます。花色は咲き始めは淡紅色だが、満開になると白色に近づいていきます。
  葉より先に花が咲いて、華やかに見えることや若木から花を咲かすため、全国各地に植えられていています。

 しかし、ソメイヨシノの歴史は浅く、幕末から明治初期に、江戸の染井村から「吉野桜」の名で売り出されたものといわれています。
 しかし、「吉野桜」では、吉野山の桜(つまりヤマザクラ)と混同されることから、植物学者の藤野寄命(ふじの よりなが)が「染井吉野(ソメイヨシノ)」と名づけました。明治33年のことでした。
 
【ソメイヨシノの出自】 
 ソメイヨシノの出自については、三つの説があります。
c0187004_14201318.jpg (1)江戸時代に染井村(現在の東京都巣鴨)で人工交配してつくられたという説
(2)伊豆半島に自生していた自然交配種だという説。
 オオシマザクラとエドヒガンが自然に交配したものだという説です。
 この説をとる場合、エドヒガンが房総半島に自生していないため、オオシマザクラとエドヒガンがともに自然分布する伊豆半島付近で発生したとされました。
 しかし、伊豆半島のオオシマザクラには、ソメイヨシノにつながる特徴がなかったため、自然交配の可能性は否定的だそうです。
(3)韓国済州島に自生している王桜がという説
 戦前に植物学者の小泉源一が韓国の済州島に自生する「王桜」がソメイヨシノの起源とする説を唱えました。 しかし、その後これら2種は全くの別種である事が確認されたそうです。
 が、韓国では現在も王桜がソメイヨシノの起源と主張している人もあるそうです。

 これらの3説がありますが、現在は、染井村で育成されたとする説が有力です。

【ソメイヨシノの親】 
c0187004_14151721.jpg それでは、ソメイヨシノの親はどれかということです。
 大正5年にアメリカン人植物学者のウィルソンが、ソメイヨシノの起源はエドヒガンザクラとオオシマザクラ(中の写真)の交配によって、生まれたものと推測しました。
 その後、国立遺伝学研究所の竹中要の交配実験によって、そのことが実証されています。
 現在では、ソメイヨシノは伊豆地方を中心に自生するオオシマザクラと東京の上野公園にあるコマツオトメとの交配で生み出されたという説が有力です。
 コマツオトメ(下写真)は上野公園の小松宮彰仁親王の銅像の東北脇に原木があります。
 
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by wheatbaku | 2011-04-06 12:30 | 江戸の花と木 | Trackback
  

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