カテゴリ:十社巡り( 10 )
芝大神宮  (十社巡り 10)
 十社巡りの最後は、「芝大神宮」 です。

 芝大神宮は、JR「浜松町」から5分です。
 ちょうど11日から21日まで例大祭いわゆる  「だらだら祭り」  が開かれています。
 門のまわりは、祭り提灯で囲まれていました。

c0187004_22282422.jpg 芝大神宮は、もともとは、単に「神明」あるいは「神明宮」と称していたが、日比谷に鎮座していたことから「日比谷神明」と、また飯倉御厨に鎮座していたことから、「飯倉神明」と、さらに「芝神明(芝神明宮)」とも称されていました。
また、ご祭神が、伊勢神宮内宮の主祭神である天照皇大御神と伊勢神宮外宮の主祭神である 豊受大御神をお祀りすることから、関東における伊勢信仰の中心となり、「関東のお伊勢様」とも尊称されていました。現在の神社名の「芝大神宮」としたのは明治5年からだそうです。

c0187004_22182616.jpg 芝大神宮は、社伝によれば、一条天皇の御代、寛弘2年、伊勢の内外両宮を勧請して創建したといい、源頼朝は2度に亘って神領を寄進したといいます。戦国時代には太田道灌の崇敬を受け、豊臣秀吉も天正18年に、奥羽平定のために江戸を進発するに際して戦捷を祈願し、徳川家康も同年、江戸入府に際して社参したそうです。
 慶長3年(1598年)、増上寺が当神社の旧鎮座地(芝公園)へ移転することとなったため、現在地へ移り、翌々5年、家康は関ヶ原出陣に際し、社参して戦捷祈願をし、同19年から20年にかけての大坂の役では、徳川方の戦捷祈願をするべく、将軍秀忠の正室お江与の方(崇源院)の代参として、家光の乳母である春日局が社参をしているとのことです。

c0187004_22345624.jpg 以後、歴代将軍家・幕府の庇護を受け、大名による参詣等諸侯からも崇敬を受けました。
 また、江戸時代にはお蔭参りといわれる伊勢神宮への参拝が数多く見られますが、伊勢神宮にお参りする代わりに伊勢神宮の祭神を祀っている「関東のお伊勢様」である芝大神宮への参詣者が増えていったと考えられています。
 現在の本殿は昭和39年には再建されたものです。
 平成17年の例大祭では、鎮座1000年を祝う「芝大神宮壱千年祭」を行ったそうです。 鎮座1000年ですからすごいですね。

【生姜祭り】 
c0187004_22223579.jpg 例大祭は、9月11日から21日まで、神輿渡御などの各種神事が行われますが、それが長期間「だらだら」と続くために、昔から「だらだら祭り」とも言われています。

 また期間中に生姜を授与しているところから、別名「生姜祭り」ともいいます。  
 江戸時代には、小伝馬町の「べったら市」とともに江戸の風物詩になっていました。

 本殿には、高知県園芸農業協同組合から、生姜が奉納されていました。生姜の一部を神主さんからお授けいただきました。

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【神明生姜】 
 神明生姜も売れていました。一束800円でした。
 神明生姜は、芝大神宮の創建の頃、周辺には生姜畑が繁茂していたため、これを神前に供えたといい、その撤下を食すと風邪に罹りにくくなるとの評判が生じ、それ以来、例祭期間中に生姜を授与するようになったといわれています。


【め組の半鐘】 c0187004_22304539.jpg
 本殿に、「め組の半鐘」がかざられていました。
 め組の喧嘩(めぐみの けんか)は、文化2年(1805年)に起きた町火消し「め組」の鳶職と江戸相撲の力士たちの乱闘事件で、講談や芝居の題材にされましたが、歌舞伎では、「神明恵和合取組(かみの めぐみ わごうの とりくみ)」として上演されます。
 現在でも、主演俳優が参拝するならわしがあるそうです。
 
 喧嘩」の時に、この半鐘を鳴らしたため騒ぎが大きくなったといわれ、半鐘は三宅島に遠島処分になりました。その半鐘は、明治時代になってに戻ってきました。
 本殿に飾られていたのは、その半鐘だそうです。
 
 【千木筥】 
c0187004_22324566.jpg これが千木筥(ちぎばこ)です。
 名前の由来は、神社の千木の用材でつくったことに起源を持つとか、餅を盛った器(餅器「もちき」)の「も」を略して千器といったとかの諸説があります。
  現在は千木が「千着」に通じることから、女性の衣服が増えるとして、女性がたんすに収める習慣があります。また千木筥の中には豆が入っており、部屋に吊るしておくと、雷除けになるともいわれています。

 芝大神宮の皆さまの対応は大変親切でした。21日まで例大祭が続きます。一度お出かけになられてはどうでしょうか!
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by wheatbaku | 2009-09-12 10:21 | 十社巡り | Trackback
品川神社 (十社巡り 9)
 十社巡りの9回目  「品川神社」 です。

 c0187004_21271311.jpg 品川神社は、鎌倉時代の初め、文治3年(1187年)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神を勧請して、品川大明神と称しました。
 天正19年(1591)には、徳川家康から南品川の荏原神社とあわせて5石の社料の朱印を受けています。
 北品川の鎮守で北の天王様として人々に親しまれ、江戸時代には北品川稲荷社、品川大明神、天王社と呼ばれていました。
 現在は社名を品川神社と改めています。
 また、現在の社殿は昭和39年に、新築されたものです。

 c0187004_21273725.jpg 品川は、目黒川を挟んで北品川と南品川に分かれますが、北の天王社が品川神社、南の天王社が荏原神社になります。
 現在、荏原神社は目黒川の北にありますが、河川改修される前は、目黒川が神社の北側を流れていたそうです。
 江戸名所図会には、牛頭天王社として説明されています。州崎明神が品川神社、貴船が荏原神社のことです。
 『江戸名勝志に、牛頭天王社は、永享年中、太田道真(道灌の父)、品川の城に勧請するところなり。洲崎明神あるいは品川明神ともいふ』とあり、祭礼は例歳6月7日に修行す。南品川の産土神は貴船なり。祭礼の日には、両社の神輿、南北駅中 橋の上に行き逢ひ、また、左右へ立ちわかれまいらすゆえに、この橋を行合の橋と号(なづ)く。』

【堀田正盛が寄進した鳥居・水盤】  
 品川神社には、3代将軍徳川家光の側近堀田正盛が、慶安元年(1648)に寄進した鳥居・水盤があります。
c0187004_212843.jpg 堀田正盛は、下総国佐倉藩の初代藩主で老中です。
 母は稲葉正成が先妻との間に儲けた女子です。稲葉正成の2度目の妻が春日局であるため、正盛は春日局の義理の孫にあたります。
 正盛は、春日局が乳母を務めた徳川家光が将軍となると、その近習に取り立てられ、寛永10年(1633年)に松平信綱らと共に六人衆(後の若年寄)に取り立てられ、その後も家光に深く寵愛され、老中にまで出世します。そして、慶安4年(1651年)、家光がなくなった際に殉死します。
 正盛の出世には、継祖母が春日局であったことが大きな理由ですが、それ以上に家光と正盛は男色関係にあったからだという説が有力で、そのために、殉死したと言われています

c0187004_212843100.jpg【富士塚】 
 正面入り口の急な階段の左手の小山が富士塚で、品川富士とも呼ばれています。
 富士塚は富士山を信仰する富士講という団体の人々が、富士山を遥拝する場所として造った人造の山で、江戸時代には各地につくられました。
 ここの富士塚は、明治2年に作られたものだそうです。
 頂上からの見晴らしはかなりのものです。





c0187004_2130313.jpg【品川ネギとカブ】  
 JA東京中央会の建てた「品川ネギとカブ」の説明板があり、次のように書かれていました。

 『江戸にネギが入ったのは天正年間(1573~92)に大阪方面からの入植者によって、砂村(現在の江東区)で栽培されたのが始まりですが、品川も同じで、入植者が持ち込んだネギの栽培は品川宿の周辺から広がり「品川ネギ」として産地化しました。
 また、文化元年(1804)に著された『成形図説』には越冬用漬物として栽培された長カブ「品川カブ」が記され、天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」によると、品川ネギ、大井ニンジン、戸越のタケノコが名産として記されています。 』

 江戸時代には、品川は、江戸への野菜の供給地帯だったことがわかります。
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by wheatbaku | 2009-09-11 06:21 | 十社巡り | Trackback
根津神社 (十社巡り 8)
 十社巡りの8回目は  「根津神社」  です。 

 根津神社は、東京メトロ「根津」駅より、歩いて5分のところにあります。
 c0187004_21165739.jpg根津神社は、神社の御由緒に「根津神社は今から千九百年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には太田道灌が社殿を奉建している」と書かれている歴史の古い神社です。
 そして、この地にあった徳川綱重の屋敷に生まれた徳川綱豊(のちの家宣)が、5代将軍綱吉の継嗣となった時に、将軍徳川綱吉によって社殿が建立され、千駄木の旧社地より遷座した神社です。

 斎藤月岑(げっしん)が書いた江戸名所図会には、次のように書かれています。
 『上野より5町ばかり隔てて乾(北西)の方にあり。
 当社境内、始めは甲府公(徳川綱重)御館の地なりしが、根津権現は大樹(徳川家宣)御産土神(うぶすな)にて、御宮参りまでありけるゆえ、のちに右の御館の地を賜り、宝永年中新たに当社を御造営ありて結構賜る。随身門に掛くる「根津大権現」の額は、大明院宮公弁法親王の真蹟なり。旧地は千駄木坂の上、元根津といへるところにあり。』

c0187004_212252.jpg 宝永2年(1705)、5代将軍綱吉は兄綱重の子である甲府宰相綱豊(のちの6代将軍家宣)を養嗣子に定めると、氏神根津神社にその屋敷地を献納して、世に天下普請と言われる大造営を行ないました。
 この本殿は、宝永3年(1706)完成した総漆塗りの華麗な権現造建築で江戸の神社建築としては最大の規模を誇る大きな建物で、国の重要文化財に指定されています。 参拝した日は、本殿の一部が工事中でした。
 その他、唐門、透塀、楼門等の当時の建物が全て現存していて、国の重要文化財に指定されています。

【駒込稲荷神社】
c0187004_22192866.jpg 駒込稲荷神社は、本殿の西側に鎮座しています。もとは徳川綱重の邸内社つまり綱重のお屋敷に鎮座していた神社だそうです。

c0187004_22142319.jpg 社殿前の手水舎の屋根に、三葉葵の紋が残っているところが、徳川将軍家に関係する神社であることを物語っていて素晴らしいと思います。
 

 【胞衣(えな)塚と産湯井戸】 
c0187004_22151977.jpg 根津神社の境内地は、元々、6代将軍家宣の父徳川綱重の下屋敷でした。そして6代将軍家宣も、この地でうまれました。
 そのため、家宣の胞衣(えな)塚や産湯井戸があります。
 胞衣塚は本殿西側の乙女稲荷神社の参道の脇にあり、文京区の区指定文化財の説明板もあります。
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 産湯井戸は、社殿の東側の社務所の庭にありますが、非公開ですので見られません。
 右の産湯井戸の写真は根津神社様のご厚意で転載させてもらいました。


c0187004_22161921.jpg 【青銅灯篭】 
 社殿前に一対に青銅灯篭が並んでいます。宝永7年(1710)に藤堂和泉守高敏が奉納したもので、国指定重要文化財となっています。藤堂和泉守高敏は、伊勢国津藩の第5代藩主です。寄進の由来はよくわかりませんが、一族の伊勢久居藩藩主の藤堂高堅(たかかた)が社殿建築にかかわっていたことと関係があるのかもしれません。
 
 根津神社は、この他、楼門、唐門、透かし塀等 重要文化財が数多くあります。
 機会を見て、また、改めてご紹介します。 それは、有名なつつじまつりの頃かもしれませんが・・


 【つつじ】 
c0187004_212338100.jpg 根津神社と言えば、つつじまつりのイメージが浮かぶ人もいるくらいつつじが有名です。
 根津神社の境内となる前から、徳川綱重が屋敷の庭につつじを植えたことに始まっているとのことです。
 江戸名所図会にも『当社境内は、仮山(つきやま)・泉水等をかまへ、草木の花四季を逐(お)ふて絶えず、実(まこと)に遊観の地なり。』紹介されています。
 現在も花の時期(4月中旬から下旬ごろ)には約50種3000株が咲き乱れ、文京つつじまつりが開かれます。
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by wheatbaku | 2009-09-10 05:38 | 十社巡り | Trackback
富岡八幡宮  (十社巡り 7)
 十社巡りの第7回目は  「富岡八幡宮」 です。

 富岡八幡宮は、東京メトロ「門前仲町」から歩いて3分です。
c0187004_22502573.jpg 富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在の地に創建されました。
 「深川の八幡様」と呼ばれる、江戸最大の八幡宮です。
 
 江戸名所図会には次のように書かれています。
 『寛永年間、長盛法印 霊示によりて感得す。よって、この地に当社を創建すといへども、いまだ華構の飾りに及ばす、ただ茅茨(ばうし)の営みをなすのみ。・・・・寛文4年の頃霊夢を感じ、宮社を経営す。日ならずして落成し、結構備わる。しかありしより以降、神光日々に新たして、河東第一の宮居となれり』
 社号は、貞享2年(1685)に聖徳太子が夢に現れて、富賀岡と名づけよと告げたことによるという話もあります。

c0187004_2250457.jpg 江戸時代には、徳川将軍の手厚い保護を受け、享保12年には、将軍世子の家重が参拝したこともあります。
 安政元年に落成した社殿は朱塗彩色の豪華なものでしたが、関東大震災で焼失しました。

 富岡八幡宮の祭りは、江戸三大祭りの一つにも数えられる盛大なお祭りです。
 本社の一の宮神輿は日本最大の神輿として有名であり、神輿倉に展示されていますが、あまりに大きいため、平成3年に初渡御が行われただけで、展示品としての扱いであり、実際に担がれることはないそうです。

 【歴代横綱の碑】 
 富岡八幡宮は、江戸勧進相撲の発祥の地としても知られ、貞享元年(1684)に勧進相撲を興行したのが始まりです。
 その後、天明元年(1781)から、本所回向院でも興行し、片場所は回向院、片場所は回向院以外の神社となり、文政10年(1827)からは回向院のみとなりました。c0187004_22512625.jpg
 富岡八幡宮では、しばしば境内で本場所も開催されたことから、相撲にまつわる数々の石碑が建ち、現在も新横綱誕生のおりの奉納土俵入りなどの式典が執り行われています。
 右は、横綱力士碑です。歴代の横綱力士を顕彰しています。
 明治33年(1900年)に完成したもので、縦3メートル50センチ、厚さ1メートル、重さ20トンの白御影石でできています。
 新横綱誕生時には相撲協会立会いのもと刻名式がおこなわれ、新横綱の土俵入りが奉納されます。
 また、表参道大鳥居をくぐってすぐ右手には、 歴代大関を顕彰するために建立された 「大関力士碑」があります。

 【伊能忠敬の銅像】 
c0187004_2251455.jpg 神社入口の大鳥居の横に、伊能忠敬の銅像が建立されています。これは、平成13年10月20日に建立されたものです。
 伊能忠敬は深川黒江町(現・門前仲町1丁目)に住み、寛政12年4月19日(1800年6月11日)の早朝に富岡八幡宮に参拝して暇夷地測量の旅に出かけ、その後も測量旅行出発にあたっては、必ず富岡八幡宮を参拝していたことから、ゆかりの地である富岡八幡宮に銅像が建てられました。
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by wheatbaku | 2009-09-09 06:16 | 十社巡り | Trackback
亀戸天神社 (十社巡り 6)
 秋の七草の連載が一区切りつきましたので、10社巡りを再開します。
 10社巡りの第6回は、「亀戸天神社」 です。

c0187004_2131869.jpg 亀戸天神社は、俗に亀戸天神と呼ばれますが、由緒書きには、
 『古くはご本社にあたります九州太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」と称されておりましたが、明治6年に東京府社となってより亀戸神社と号し、昭和11年に現在の亀戸天神社と正称いたしました。』
と書かれています。
江戸名所図会にも「宰府天満宮」のタイトルとなっており、「亀戸にあり。ゆえに亀戸天満宮とも唱ふ」と書かれています。

c0187004_23265135.jpg 亀戸天神社は、正保3年(1646)九州太宰府天満宮の神官だった菅原大鳥居信祐(道真の末裔・亀戸天神社初代別当)が、神のお告げにより、道真ゆかりの飛び梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもって、諸国を巡り歩き 、江戸の本所亀戸村にたどり着き、村に元々あった天神 の小さなほこらに神像をお祀りしたのが最初です。
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 徳川幕府は、本所の町を、江戸の大半を焼き尽くした明暦大火の被害による復興開発事業の土地とさだめ、天神様を篤く信仰していた四代将軍家綱はその鎮守の神様としてお祀りするように現在の社地を寄進しました。
 そして、寛文2年(1662)に太宰府にならい、社殿、回廊、心字池、太鼓橋などを営み、以来約350年後の今日まで東国天満宮の宗社として崇敬されています

【鷽(うそ)】
c0187004_2135498.jpg  例年1月24日~25日に、縁起物である木彫りの鷽(ウソ)が授与されます。「去年の悪(あ)しきはうそ(鷽)となり、まことの吉にとり(鳥)替えん」との言い伝えによるそうです。
 木彫りの鷽は、高さ5~22cmくらい、白木の円柱に上部3分の1位が荒削りされ、頭部と腹部となり、背後は削り掛けの手法で尾羽が切り込まれ、彩色は頭が黒、胸は朱、背の羽は緑と黒とのことです。
 境内に、鷽の像が置かれてます。

【神牛(しんぎゅう)】 c0187004_21401625.jpg 菅原道真と牛との縁は大変深いものです。
 まず、菅原道真は承和12年(845年)の丑年生まれです。
 また、葬送中、遺体を乗せた車を引く黒牛が動かなくなり、その場所を墓所と定め、その後、その場所に社殿を建立し、霊を祀ったことが太宰府天満宮の起源であり、その年も丑年でした。
 さらに、道真が京都から大宰府へ下向中、白牛によって難から逃れることができたという故事が伝えられています。
 こうしたことから、牛は天神の神使(みつかわしめ)として信仰されています。
 神牛(しんぎゅう)座像は、昭和36年、鎮座三百年祭時に社殿の復興とともに奉納されたものです。
 この神牛に触ることにより病気を治し、知恵を得るといわれています。

【花祭り】
c0187004_15192482.jpg 亀戸天神は、梅の花、藤の花で有名です。
 梅まつりは、2月第2日曜日~3月第1日曜日に開催されます。
c0187004_15193742.jpg 梅の木は約200本(紅梅 50本 白梅 150本)があるそうです。

 初夏の藤は、早春の梅とともに亀戸天神社を代表する花です。
 4月下旬から黄金週間にかけて藤まつりが開かれます。
 こちらも大勢の人で賑わいます。

 さらに、10月第4日曜~11月下旬には、本殿の正面を取り囲むように菊が展示されるとのことです。
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by wheatbaku | 2009-09-08 06:03 | 十社巡り | Trackback
王子神社  (十社巡り 5)
 王子神社 はJR王子駅から徒歩3分です。王子駅の南側の高台は、飛鳥山ですが、その北西方向の高台にあります。

c0187004_22211755.jpg  王子神社は、この一帯の「王子」という地名の由来となっています。

 王子神社の創建ははっきりしませんが、源義家の奥州征伐の折、王子神社で霊祈願を行い、甲冑を納めた故事も伝えられ、古くから聖地として崇められていたと思われます。
 その後、元亨2年(1322年)、豊島氏が熊野権現を勧請して、改めて「若一王子宮」としてお祀りしました。それから、このあたりの地名が、王子という地名となりました。

c0187004_22215235.jpg 戦国時代の小田原北条氏も篤く敬い、朱印状を与えて社領を安堵しています。
 江戸時代に入ると、徳川家康は天正19年(1591年)、朱印地200石を寄進し、将軍家祈願所と定めました。  
 3代家光は寛永11年(1634年)、新たに社殿を造営、林羅山に命じて縁起絵巻「若一王子縁起」3巻を作らせて当社に寄進しました。その後も5代綱吉が元禄16年(1703年)、10代家治が天明2年(1782年)、11代家斉が文政3年(1820年)と造営修繕するなど、代々将軍の崇敬篤く、「王子権現」の名称で江戸名所の1つとなりました。

 特に8代吉宗は紀州徳川家の出身で、この地に紀州ゆかりの神社があることを喜んで、元文2年(1737年)に飛鳥山を寄進したそうです。そして、飛鳥山に桜を多く植えて江戸庶民遊楽の地としました。
 その飛鳥山は、神社の東側の高台ですが、現在も桜の季節には多くの花見客で賑わっています

【関神社】
c0187004_22221995.jpg 境内に「関神社」があります。御祭神は 蝉丸とその姉逆髪姫、そして侍女の古屋美女 です。
 蝉丸は、百人一首の「これやこの行くも帰るも別れても知るも知らぬも逢坂の関」で有名ですが、延喜天皇の第4皇子という説もあり、和歌が上手なうえに琵琶の名手としても知られました。
 蝉丸は、髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉のために侍女の古屋美女に命じて「かもじ(かつら)」を考案し髪を整える工夫をしたことから「音曲諸芸道の神」並びに「髪の祖神」と崇敬され、「関蝉丸神社」として、滋賀県大津の逢坂山に祀られています。
 江戸時代に「かもじ業者」を中心とした人々により、王子神社境内に祀られていましたが、昭和20年の戦災により社殿焼失した後、昭和34年に再建されたのが、この社殿です。

【大イチョウ】
c0187004_2223013.jpg 王子神社から音無親水公園へと降りる階段の途中に、大イチョウがあります。
 豊島区教育委員会の説明板には次のように書かれています。

 『荒川に落ちる支流、音無川の左岸高台に王子権現(王子神社)がある。
 かなり遠方からでもこのイチョウは見え、付近と異なる風致地区を形成している。
 大正13年の実測によると、目通り幹囲は6.36メートル、高さは19.69メートルであったという。枝はあまり多くないが、うっそうとしており、樹相はきわめて立派である。
 当社は豊島氏の旧跡であり、このイチョウも、その当時植えられたものであると伝えられている。』

 【音無川親水公園】 
c0187004_22234564.jpg 王子神社の境内の下を流れる石神井川は、江戸時代は滝野川と言われるくらい滝が多かったそうですが、現在は、「音無川親水公園」となって、静かに流れています。
c0187004_22232341.jpg 






 こちらは、親水公園に流れ落ちる小さな人工の滝です。
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by wheatbaku | 2009-08-26 10:50 | 十社巡り | Trackback
氷川神社 (十社巡り 4)
 赤坂氷川神社は、東京メトロの「赤坂」駅または「六本木一丁目」駅が最寄駅になります。

c0187004_21453154.jpg 赤坂氷川神社は、平安時代中期の天暦5年(951年)に赤坂一ツ木台地(俗称…古呂故ヶ岡)に祀られました。
 江戸時代、紀州徳川家の赤坂の屋敷の産土神の由縁から、8代将軍徳川吉宗が享保元年(1716年)将軍職を継いだ際に、享保14年(1729年)に老中水野忠之に命じ、現在地(赤坂今井台)に現社殿を造営、翌15年(1730年)4月26日に、一ツ木台地から現在地への遷宮が行われました。
 そして4月28日には吉宗の直々の参拝があったそうです。
 その後も幕府の保護は篤く、8代から14代家茂まで歴代の朱印状が残っているそうです。

c0187004_21511461.jpg 本殿は、東京都の重要文化財ですが、残念ながら漆の塗り替え工事中でした。
 氷川神社の本社は埼玉県の大宮に鎮座する武蔵国一ノ宮の氷川神社で、ここから分霊し、各地に氷川神社が祀られました。
 出雲の氏族であった武蔵氏が武蔵国造(くにのみやつこ)となって移住した時期、氷川の信仰が広く祀られたといわれています。
 「氷川」の名は、出雲の簸川(ひかわ・現在の斐伊川)の名に因むものといわれ、農業用水として大きな恩恵を受ける一方、水害にも悩まされた荒川を簸川に見立て、畏敬の念をもって信仰していたと考えられています。

 河川に沿って分布している関東の神社としては、他に香取神社・久伊豆神社があります。 それぞれ利根川・元荒川という大河川に沿って、お互いに境界を侵すことなく祀られています。
 氷川神社が祀られた村々はその成立が比較的古く、多くは関東ローム層の丘陵地帯に位置し、森林を開墾し谷の湿地を水田とした農村であり、久伊豆神社は元荒川、香取神社は利根川に沿って分布しますが、この地域は十世紀以降開拓された米作地帯で、度々洪水にみまわれた低湿地であると推定されているようです。

【南部坂】c0187004_21463728.jpg 
 現在社殿のある場所は、忠臣蔵の浅野内匠頭の夫人瑤泉院の実家である浅野土佐守邸跡で、大石内蔵助が討ち入り前に訪れて別れを告げたといわれています。c0187004_21471095.jpg   そして、神社の近くには「南部坂雪の別れ」で有名な『南部坂』があります。

 
 南部坂は、六本木側に下る坂で、左の写真は坂の上から見たところです。右は、六本木一丁目側の坂の下にある石標です。

【天然記念物の大イチョウ】
c0187004_21473355.jpg 境内に大きなイチョウの木があります。地上1.5mの高さ部分の幹の太さが約2.4m、樹齢400年の巨樹です。
 氷川神社が現在地に建立された享保15年(1730年)には、すでに100年を越える樹齢を有していたこととなり、それ以前からこの地で成育していたと考えられます。
 港区内にあるイチョウでは、最大のものは善福寺「逆さイチョウ」(国指定天然記念物)ですが、それに次ぐ大きさと樹齢を誇る大イチョウです。
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by wheatbaku | 2009-08-25 06:15 | 十社巡り | Trackback
白山神社 (十社巡り 3)
 十社巡りの3回目は、 「白山神社」 です。

 c0187004_14522290.jpg白山神社は、都営地下鉄三田線「白山」駅から徒歩3分、また、白山通りから少し入った所にあります。
 このように、白山神社の周辺には、白山の地名がかなりあります。白山神社自体の住所も、文京区白山5-31-26です。
 実は、この周辺の白山の地名のもとに、白山神社がなっているからなのです。
 白山神社が白山の地名のもとになるとともに、小石川も、加賀国石川郡に倣ったという説もあり、「小石川の地名は始め加賀国石川郡より奉勧請当社鎮座の旧地に倣えるが故なり」と白山神社の説明書に書かれています。

c0187004_14533037.jpg 白山神社の創建は古く、平安時代中期の天暦2年(948)に加賀一宮白山神社を現在の本郷一丁目の地に勧請したと伝えられています。
 その後、元和2年(1616)に2代将軍秀忠の命で、巣鴨原(現在の小石川植物園内)に移りました。しかし、慶安4年(1651)徳川家綱の用地となったので  (と神社の由緒書に書かれていますが、徳川綱吉の間違いではないかと思います) 、明暦元年(1655)現在地に移りました。

 本殿のまえに、旗桜と呼ばれている桜があります。この桜は、八幡太郎義家が、御旗を立てて祈願したと伝えられています。古木は枯れてしまい、若木を育てたものだそうです。旗桜はサトザクラの栽培品種で、5枚の花弁のほかに旗弁(きべん)という花弁があるので「旗桜」と呼ばれるそうです。
 今年の1回目にお参りしたのは、桜の季節の前でしたので、写真を撮りませんでした。旗桜の花はまだ見ていないので、一度は観てみたいと思っています。

 現在の白山神社は、あじさいの神社として有名です。 6月には3千株のあじさいが群れ咲き、「文京あじさいまつり」が開かれて大勢の人でにぎわいます。
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 白山神社の本殿の裏側に富士塚があり、その頂上には、浅間神社がお祀りされています。
 この富士塚は、通常は入ることができませんが、あじさい祭りの間だけ開放されます。
 富士塚には、あじさいが一杯植えられています。そのため、浅間神社はあじさいに囲まれていました。
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by wheatbaku | 2009-08-24 06:16 | 十社巡り | Trackback
日枝神社 (十社巡り 2)
 十社巡りの2回目は、 「日枝神社」 です。
 日枝神社は、明治元年以来、日枝神社と呼ばれていますが、江戸時代には「日吉山王社」「山王権現」等といわれ、「山王さま」の名で親しまれてきました。

c0187004_2384950.jpg 御祭神は、大山咋神(おほやまくひのかみ)と言い、比叡山の神様です。
 比叡山の王ということで、「山王」と呼ばれるようになりました。

 現在は、赤坂に鎮座していますが、もともとは江戸城内に鎮座していました。
 日枝神社は、鎌倉時代初期に、江戸氏が山王宮を祀り、さらに文明10年(1478)太田道灌が江戸城をに築城する際に、鎮護の神として川越山王社を勧請しました。その頃の社地は現在の梅林坂あたりだったと江戸名所図会は書いています。

c0187004_22334216.jpg 天正18年(1590)徳川家康が江戸城に入城した後は江戸城内の紅葉山にありました。
 そして、2代将軍秀忠の時、城内紅葉山より新たに社地を江戸城外の貝塚(今の隼町国立劇場附近)に定め、社殿を遷しました。
 その後、明暦3年(1657)の大火により焼失すると、4代将軍家綱は赤坂の溜池を望む地に権現造の社殿を造営しました。 これが、現在の日枝神社のある場所です。


c0187004_23102594.jpg 日枝神社は、標高28メートルの山王台の突端の地にあります。そのことは、左の写真の山王男坂(さんのうおとこざか)の急坂ぐあいや外堀通りからも急階段を登るようになっていることによってよくわかります。山王男坂の階段は52段あり、下から見ると、見上げるようです。

c0187004_2310029.jpg 男坂口、外堀通りに面した山王橋口(左の写真)など日枝神社の入口には、 「山王鳥居」  があります。
 鳥居は神社の象徴であり、その語源は「通り入る」また鶏の止まり木の「鶏居」であるといわれています。   「山王鳥居」は鳥居の笠木の部分の上端に合掌のように破風を付したもので、合掌鳥居ともいわれ、大山咋神を祀った神社に用いられる特徴的な鳥居です


c0187004_2311292.jpg 日枝神社のお使いは「猿」です。本殿の前の両脇に、「神猿像」があります。夫婦の猿で、女猿には愛児をだかせて三猿円満の教えを象徴しているそうです。
 お使いの「猿」は神門にも夫婦の猿の像が安置されています。

 神田祭とともに、天下祭りと言われる山王祭りは、、元和元年より、神田祭と隔年に行われることになり、子(ね)、寅(とら)、辰(たつ)、午(うま)、申(さる)、戌(いぬ)の年に行われました。
 申年(さるどし)には、やはり山王祭りですね。
 寛永12年に3代将軍家光が、江戸城内に入った御神輿を上覧して以来、歴代の将軍が上覧拝礼する「天下祭り」 として盛大行われるようになりました。
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by wheatbaku | 2009-08-21 06:15 | 十社巡り | Trackback
神田神社 (十社巡り 1)
 東京十社と呼ばれる神社があります。明治元年に准勅祭神社とされた神社を言います。
 東京十社は歴史のある神社で、当然江戸時代にも崇敬された超有名神社です。
 この十社をめぐるのが十社巡りです。順に十社を巡っていきます。

第1回は、「神田明神 正式名称・神田神社」 です。

c0187004_22554949.jpg  神田明神は、東京の中心である神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内、旧神田市場、築地魚市場など108町会の総氏神様です。「明神さま」の名で親しまれています。

 神田明神が、現在の場所に鎮座するようになったのは、2代将軍秀忠の時代の元和2年(1616)です。
 それまでは、武蔵国豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)にありました。
 神田明神は、社伝によると、天平2年(730)に創建されました。
 天平年間というのは、奈良時代の聖武天皇の時代ですので、本当に古い神社です。

c0187004_2220508.jpg その後、天慶の乱で平将門がなくなった後は、神社の近くの将門塚周辺で天変地異が頻発し、それが平将門によるものとして人々を恐れさせたため、時宗の真教上人が手厚く霊を慰めて、鎌倉時代後期の延慶2年(1309)に一緒にお祀りしました。

 江戸幕府が開かれると、幕府の尊崇する神社となり、江戸城の鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。
 以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府から江戸庶民にいたるまで、「神田明神」として、篤く崇敬されてきました。
 そして、明治に入り、社名が神田明神から神田神社に改称されました。

 現在、お祀りしてある神様は次の3人の神様です。
  一之宮は、大己貴命(おおなむちのみこと) だいこく様のこと。天平2年(730)鎮座。
         別名は大国主命(おおくにぬしのみこと)
  二之宮 少彦名命(すくなひこなのみこと) えびす様 商売繁昌の神様。
  三之宮 平将門命(たいらのまさかどのみこと) まさかど様 延慶2年(1309)に奉祀。
 
 境内に大きなだいこく様の石像とえびす様の像がありますが、神田明神の祭神だからですね。

 しかし、江戸時代は、だいこく様と まさかど様だけでした。現に、江戸名所図会には、2神のみ書かれています。 えびす様は明治になって祀られたものです。

c0187004_22561329.jpg 神田祭りは、天下祭りと称され、天和元年(1681)以後、山王祭りと隔年で行われるようになったため、丑(うし)、卯(う)、巳(み)、未(ひつじ)、酉(とり)、亥(い)の年に行われました。
 神田祭りは、現在は5月に行われますが、江戸時代には9月15日に行われました。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの時、徳川家康が神田明神で戦勝祈願を行ない出陣しました。すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し、これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられたことによるものと言われています。


-上の写真は隨神門です。
 昭和50年に昭和天皇御即位50年の記念として建立されました。
 外回りには四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)が、内側には「因幡の白兎」といった大貴己命の神話をモチーフにした彫刻が飾られています。
 また二層目に「繋馬」の彫刻が飾られているそうですが、この繋馬は平将門の家紋に由来しています。
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by wheatbaku | 2009-08-20 06:20 | 十社巡り | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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