カテゴリ:江戸の史跡( 8 )
二つの大森貝塚碑 (大森③ 江戸の史跡)
 
 大森といえば、大森貝塚がすぐ浮かびます。
 大森貝塚は江戸のものではないのですが、あまりにも有名です。
 また、大森貝塚の碑が二つあります。そこで、今日はその大森貝塚のお話です。

c0187004_11204810.jpg 大森貝塚を発見したのは、アメリカ人の動物学者エドワード・モースです。
 明治10年に、横浜駅から新橋駅へ向かう汽車の窓から、貝塚を発見し発掘調査を行いました。
 大森貝塚の発掘調査は、日本の近代的考古学の出発となるもので、このことから大森貝塚は「日本考古学発祥の地」と呼ばれています。

【大森貝墟碑】 
 実は、大森貝塚の碑は2つあります。品川区と大田区にあるのです。 一つは、NTTデータ大森山王ビルの敷地内に「大森貝墟」という碑があります。こちらは、大田区にあります。大森駅から 3分です。 
 貝墟碑は昭和5年に建てられたものです。

c0187004_1120667.jpg【大森貝塚遺跡公園】 
 品川区のものは、大森貝塚遺跡庭園の中に「大森貝塚」という碑があります。
 大森貝塚遺跡庭園は遺跡一帯を整備して作られた公園です。
 公園の中には、「大森貝塚」の碑や貝層の見本などがあります。
 こちらも最寄駅は大森駅で北口で下車し徒歩10分ですが、住所は品川区になります。
  

c0187004_11202798.jpg 【大森貝塚碑】 
 左の写真が、「大森貝塚碑」で、大田区側のものより1年早い昭和4年に建てられたものです。

 当初の発掘地点について長い間、品川区説と大田区説の2つが存在したのは、モースが論文に発掘場所の詳細を書かず、所在地が荏原郡大森村と記述されたことによるものだそうです。
 そのため、品川区と大田区にそれぞれ別に碑が建てられたとのことです。

【大森貝塚は品川区側説が有力】 
 しかし、発掘調査について土地の所有者が承諾した文書が見つかったので品川区側が有力との説明を同行のH氏がしてくれました。
 帰って調べると、昭和52年に大森貝塚発掘時の「発掘補償金」に関する文書が、東京都公文書館で発見されていて、その住所は大森貝塚遺跡公園近辺であるということがわかりました。

c0187004_11211776.jpg また、その後の再発掘で、貝塚碑周辺では貝層が確認されたものの、貝墟碑周辺では見つからなかったそうです
 右の写真は、大森貝塚遺跡公園の中にある貝層の見本です。確かにしっかりと貝層が見えます。

 こうした理由で、現在ではモースが調査したのは品川区側であったといわれています。
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by wheatbaku | 2010-02-19 06:07 | 江戸の史跡 | Trackback
大井の地名の由来地 (大森② 江戸の史跡)
 今日は大森散策の2回目ですが、「大井」の名前の由来の源となった光福寺の案内です。

 光福寺は大森駅から16~17分の住宅地の中にあります。住所は大田区ではなく品川区大井6-9-17になります。
 このお寺の境内にある泉が大井の地名の由来になっています。

c0187004_13183955.jpg【大井の地名の由来】 
 光福寺は麻布善福寺の中興の祖である了海上人が誕生した地でもあるそうです。
 了海上人が誕生した際に、泉が湧き出し、その泉の名前を「大井」と呼び、それが「大井」の地名にもなっています。
 その泉は光福寺の本堂の裏にある墓地の中に現存しています。
 この泉は、横穴があり、そこから湧き出ていたそうです。説明板には、現在も湧き出ていると書いてありますが、冬のせいか水が湧き出ているようには見えませんでした。
 案内人のOさんによれば、元々は「横」の字を使って「横井(おうい)」と書いたのが、いつしか「大井」になったのではないかということです。
 なるほど説得力のある説だと思って聞きました。

c0187004_131855100.jpg【大イチョウ】 
 本堂の前には、品川区の天然記念物となっている大イチョウがありました。
 幹の回り6.4メートル、高さ約40メートルで、推定の樹齢は約800年とのことです。
 麻布善福寺の「さかさイチョウ」と兄弟との説もあるようです。
 真冬ですので、葉はまったく茂っていません。
 しかし、写真でははっきりしませんが、古木であること示す乳根(にゅうこん)がよくみえました。

 今日は短めの記事でごめんなさい。
 明日は大森貝塚について書きます。
 ピンクが光福寺青が大森駅です。


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by wheatbaku | 2010-02-18 06:25 | 江戸の史跡 | Trackback
磐井神社・鈴ヶ森刑場跡 (大森① 江戸の史跡)

 大森散策はJR大森駅からスタートしました。主な見所を順にご紹介します。
 今日は、磐井神社と鈴ヶ森の刑場跡です。

c0187004_15373861.jpg【磐井神社】
 大森海岸駅からの方が近く3分のところに磐井神社があります。私たちは大森駅から歩いて行きましたが10分程度です。
 磐井神社は、社伝によれば、敏達天皇の2年8月の創祀と伝え、貞観元年官社に列した延喜式内社という古い神社です。
 磐井神社の社名は、「磐井の井戸」と呼ばれる霊水があったことによるものだそうです。


c0187004_1538865.jpg【磐井の井戸】
 その磐井の井戸は、神社の前の、第一京浜国道の歩道に残されています。 
 もとは神社境内にあったそうですが、第一京浜国道の拡幅で境内の一部が削り取られ、今は境内から外れて歩道の端に取り残されることになったそうです。
 この井戸の水は、心正しい人には清水だが、邪心のある人には塩水となるという伝説があるそうです。


c0187004_15382863.jpg【鈴石】
 鈴石(すずいし)は神功皇后ゆかりの石で、これを打つと鈴の音がするというので江戸初期の頃に有名になったそうです。 磐井神社は、別名「鈴ヶ森八幡」と呼ばれていたそうですが、鈴ヶ森の名は鈴石の名に因んだものだと伝えられています。
 社殿右側にある鈴石等の説明板によると、鈴石は屋内(社殿の中という意味か?)に保管されているそうで見ることはできませんでした。


c0187004_15384746.jpg【鈴ヶ森刑場跡】
 こちらが名高い鈴ヶ森の刑場跡です。慶安4年(1651)に開設されています。
 ここでの最初の処刑者は慶安事件の丸橋忠弥であるとされています。
 東海道に面していて、元禄8年(1695)には間口が40間(約74メートル)奥行9間(約16メートル)の規模で、東海道に面している方が広かったようです。
 このように人通りの多い東海道に面して設置したのは、刑罰を公開しすることにより犯罪を抑えようという幕府の考えによるものです。千住の小塚原の刑場が奥州街道近くに設置されていたのも同じ理由です。
 鈴ヶ森の刑場は、明治4年に廃止されています。
 現在は、両脇を道路が通っている狭い場所に案内板等が設置されて、わずかに面影が残っています。
 写真の右側の道路が旧東海道です。
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by wheatbaku | 2010-02-17 05:55 | 江戸の史跡 | Trackback
青山善光寺  (高野長英の史跡 ⑥)
 東京に残る高野長英の史跡めぐりも今日で最後です。
 今日は、高野長英の最後の地(青山百人町)の近くにある 青山善光寺にある「高野長英の碑」 を紹介します。

 その前に、昨日の記事に追加です。高野長英を捕らえたのは、南町奉行所の与力・同心ですが、これを指揮した南町奉行は遠山左衛門尉景元すなわち「遠山の金さん」 でした。

c0187004_22254838.jpg【青山善光寺】 
 青山善光寺は、東京メトロ「表参道」駅から3分のところにあります。
 信州善光寺の東京別院です。
 慶長6年(1601)徳川家により谷中に信州善光寺の別院として設けられましたが、火事で焼失したため、現在の青山に移されました。
 高野長英の最期の地である「青山スパイラル」からは約400メートル、歩いて5分で到着します。
 
【高野長英の碑】 
 高野長英の名誉が回復されたのは没後48年たった明治31年のことで、正四位が授与され、北青山の善光寺には勝海舟の撰文による顕彰碑がつくられました。
c0187004_2226199.jpg その碑は、戦災で破損したため、現在の碑は、元の碑の一部を活用し新たに造られたものです。
 善光寺の山門を入り、本堂に向かって左手の築山のなかに建っています。

 撰文をした勝海舟は、高野長英と会ったことがあるという話も伝えられています。
 「長英逃亡」の中にも、高野長英と勝海舟が会う場面が取り入れられています。
  
【碑文】  碑には次のように書かれています。
高野長英先生
 c0187004_22264156.jpg先生は岩手県水沢に生れ長崎でオランダ語と医学をおさめ西洋の科学と文化の進歩しておることを知り発奮してこれらの学術を我国に早く広めようと貧苦の中に学徳を積んだ開国の先覚者である 
 その間に多くの門人を教え又訳書や著書八十余を作ったが「夢物語」で幕府の疑いを受け遂に禁獄の身となり四十七才で不幸な最後をとげた 最後の処は今の青山南町六丁目四三の隠れ家で遺体の行方もわからなかったが明治参壱年先生に正四位が贈られたので同郷人等が発起してこの寺に勝海舟の文の碑を建てた処昭和戦災で大部分こわれた
 よってここに残った元の碑の一部を保存し再建する
 昭和三十九年十月
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by wheatbaku | 2009-10-21 05:38 | 江戸の史跡 | Trackback
「長英逃亡」 (高野長英の史跡 ④)
 今日は、高野長英の史跡ではありませんが、高野長英が脱獄した後、どう逃亡したかを紹介したいと思います。

 吉村昭氏の書いた 「長英逃亡」 という小説があります。

  小伝馬町牢屋敷を脱獄し、諸国に隠れ、最後は青山百人町で奉行所に襲われるまでを書いた小説です。

c0187004_2210283.jpg 小説ですから、当然のことながら、経路などが史実とは違うところもあると思いますが、あいかわらず、詳細な調査に基づいた小気味良い文調の小説で、長英がどのように苦労しながら逃亡したがよくわかる小説です。

 この吉村昭氏の「長英逃亡」に従って、弘化元年(1844)に水村玄洞宅を出た後の高野長英の逃亡経路を、書いていきます。

 「長英逃亡」によると、隠れ住んでいた所だけでも、江戸のほか、現在の埼玉県、群馬県、新潟県、福島県、山形県、神奈川県、愛媛県、広島県、愛知県と諸国にわたることになります。
 当然、通過した都府県はさらにふえますので、約5年間の逃亡期間、高野長英は、多くの人の支援を受けながら、いろいろな所に隠れていたことになります。

c0187004_13353344.jpg  【長英の逃亡経路】 
浦和   高野隆仙(医者)
大宮   小島平兵衛(土呂村名主)
中之条  高橋景作 (門人)
       町田明七 (百姓惣代)
      柳田禎蔵 (大地主)
草津    湯本俊斎 (赤岩村漢方医)
直江津  小林百哺 (和算家)
      福永七兵衛 (大肝煎)
前沢(水沢の南)
      雪の中で母に再会

福島   油屋藤兵衛(薬種商)
米沢   堀内忠亮(医師)
      伊東昇迪(しょうてき 医師)
      高橋嘉膳(医師)


江戸   麻布六本木の宮野信四郎(高弟内田弥太郎の甥)宅に潜む。
      その後、麻布宮下町で妻子と一緒に住む
足柄上郡山田村  江川英龍の支配地に潜む。
江戸    麻布宮下町の自宅に戻る。
宇和島  伊達宗城に呼ばれ兵書翻訳を行うが、 幕府に探知され脱出
卯之町   二宮敬作(鳴滝塾同門)
広島    後藤松軒(広島藩医)
卯之町   二宮敬作
名古屋  山崎玄庵(医師)
      秋田岱玄(医師)

 そして、 嘉永2年(1849)8月に、名古屋を離れ江戸に戻り、妻子と一緒にくらすようになりました。

  高野長英の逃走については、不明な部分もあり、佐藤昌介氏(東北大学名誉教授)は、岩波親書「高野長英」では、脱獄した後、上州・越後を経由せず、直接、水沢に向かったという説を述べています。
 このように、吉村昭氏の描く逃走の経緯がすべて史実という訳ではないとは思いますが、「長英逃亡」は高野長英の逃走の経路や生活・苦労が手に取るようにわかる小説です。

 ※上記の高野長英の肖像画写真は、岩手県奥州市にある高野長英記念館が所蔵している「高野長英画像」です。 渡辺崋山の弟子で、文人画で有名な椿椿山(つばきちんざん)が描いたもので、重要文化財となっています。 この写真は、高野長英記念館の使用許可をいただき掲載しています。
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by wheatbaku | 2009-10-19 06:03 | 江戸の史跡 | Trackback
水村玄洞宅跡 (高野長英の史跡 ③)
 高野長英は、弘化元年(1844年)6月、牢屋敷の火災に乗じて脱獄します。
 この火災は、長英が牢で働いていた下男栄蔵に11両で放火させたと言われています。

【切り放し】  
 江戸時代、小伝馬町牢屋敷から脱獄することはほとんど不可能だったそうです。
 脱獄の唯一ともいえる機会が、火災による切り放しの時です。
 切り放しは、明暦の大火のときに、牢屋奉行の石出帯刀が行ったのが最初ですが、火災が牢に近づいた時に、3日後の集合場所を指定して、戻れば罪一等を減じ、戻らなければ重罪に処すと言って、囚人を牢から出すことを言います。
 切り放しは、江戸時代、12回行われたと言います。
 その切り放しを利用して、高野長英は、弘化元年6月に脱獄し逃亡しました。

【旧水村玄桐宅】
 脱獄後の1ケ月は幕府の厳しい探索にも拘わらず消息不明でしたが、7月下旬のある夜、板橋の医師水村玄洞宅を訪れました。水村玄洞は高野長英の門人でした。
c0187004_2048334.jpg  「旧水村玄洞宅」の史跡説明板は、最寄駅の東京メトロ「板橋区役所前」から歩いて約5分の旧中仙道脇にあります。 現在は、石神医院となっているお家の入口にあります。 

 水村玄洞について、吉村昭著の「長英逃亡」のなかでは、次のように書かれています。
 「水村家は、代々の医家で、玄洞は、板橋で医業を開業していた。蘭学に強い関心をいいだいて長英に師事し、長英も水村の家に泊り、こわれた詩を書きあたえたこともある。水村は長英が投獄されたことを嘆き悲しみ、前年の正月には、牛込の漢方医加藤宗俊がおしすすめていた長英の減刑赦免運動にもくわわり、熱心にうごきまわった。」

【板橋宿本陣跡】
c0187004_20483882.jpg   旧水村玄洞宅の史跡説明板のちょうど向い側に、板橋宿本陣跡の碑が立っています。
 碑は民家の入口にひっそりと建っていて、説明板も設置されていないので、見過ごされてしまいそうです。
c0187004_21151884.jpg










 現在、スーパーマーケット「ライフ」になっているところが、板橋宿本陣だったそうです。
  この写真は「ライフ」を北側から撮ったものです。本陣跡の碑は、「ライフ」の南側の民家の入口に建っています。

 「旧水村玄洞宅」の説明板と「板橋宿本陣跡」の碑の位置関係は向かい合う形になっています。
 ということは、水村玄洞は本陣の目の前の屋敷に高野長英をかくまったということになります。
 高野長英・水村玄洞両人の大胆さに驚きます。

 そして、水村玄洞は身の危険を知りながら、一両日高野長英を奥座敷にかくまい、7月晦日の深夜には北足立郡大間木村(現さいたま市)に住む実兄の医師高野隆仙宅に向けて長英を逃れさせました。
 
赤印が「旧水村玄洞宅(現在石神医院)」、緑印が「板橋宿本陣跡の碑」青印が「板橋宿本陣跡(現在ライフ)」です。
 旧水村玄洞の家が、本陣の目の前であることがわかると思います。

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by wheatbaku | 2009-10-17 09:56 | 江戸の史跡 | Trackback
小伝馬町牢屋敷 (高野長英の史跡 ②)
 高野長英は、渡辺崋山の住む半蔵門外の田原藩邸に近かった関係で、崋山から依頼されたオランダの書物の翻訳を行い、崋山や江川英龍らと尚歯(しょうし)会に参加して交流を深めました。
 天保9年(1838)には「戊戌(ぼじゅつ)夢物語」を書き、幕府の異国船打ち払い策を批判します。
 そして、翌年の天保10年(1839)に、蘭学の研究会であった尚歯会に参加していた人たちに加えられた弾圧事件「蛮社(ばんしゃ)の獄」で、永牢(えいろう)の判決を受け、小伝馬町牢屋敷に入牢します。

【小伝馬町牢屋敷】 c0187004_2257725.jpg  高野長英が入れられた小伝馬町牢屋敷は、現在は、十思公園や十思スクエアになっています。
  十思公園に、「伝馬町牢屋敷跡」と書かれた説明板があります。

 牢屋敷には、大名・500石以上の旗本以外の身分の人が入ります。
 町人は大牢、無宿人は二間牢、女性は女牢、武士や僧侶、神官は、揚屋(あがりや)や揚座敷に入れられます。
 高野長英は、町人扱いとして大牢に入れられました。

【牢名主】 c0187004_21214817.jpg 牢内での自治組織として牢内役人制度があり、牢名主、添役、角役や2番役~5番役などの牢内役人ががいます。
 牢内役人の筆頭が牢名主です。
 牢名主は10枚から12枚の畳を重ねた上に座っていたそうです。
 高野長英は、医者であったことや親分肌であったうえに、前の牢名主が、11代将軍家斉死去に伴う恩赦により出獄したことから牢名主になりました。

 上の写真は、元の十思小学校(現在の十思スクエア)の資料室にある小伝馬町牢屋敷の模型です。
 牢屋敷を表門(西側)からみた模型ですが、左側が牢(屋根の部分を取り外した状態)、右が牢屋奉行の自宅部分になります。
 なお、牢屋敷の模型は、日頃は鍵のかかった資料室にあります。わざわざ開けていただいた校友会のS会長お世話になりました。ありがとうございました。

 高野長英は、約5年間、牢に入っていた後、弘化元年(1844年)6月晦日脱獄します。
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by wheatbaku | 2009-10-16 05:54 | 江戸の史跡 | Trackback
大觀堂学塾跡 (高野長英の史跡 ①)
 高野長英は、日本史の中で出てくる人物ですので、名前はご存じだと思います。 
 その高野長英のゆかりの地が、東京に残されていますので、順に紹介します。
 今日は、麹町の貝坂にある、 「大觀堂学塾跡」 を紹介します。

 c0187004_15213023.jpg高野長英は、文化元年、奥州水沢(現岩手県奥州市)に生まれました。
仙台藩主伊達家の一門留守家の家臣後藤実慶(さねのぶ)の三男として生まれました。
 9歳のとき父実慶が死亡し、母方の伯父である医者の高野玄斎(母は高野玄斎の妹美代)の養子となります。
 17歳で兄堪斎(たんさい)に同行して江戸に遊学し、杉田拍元(はくげん)(玄白の養子)の門に入ります。
 この時に、夜は按摩をして学費を稼いだという話もあります。
 やがて、吉田長叔(ちょうしゅく)の内弟子となり、蘭方医学を修めました。
 19歳の文政5年(1822)に長淑から長の字をもらい長英と改めます。
 文政8年(1825)長崎に赴き、シーボルトの鳴滝塾に入り、本格的に蘭学を学びました。
 文政11年(1828)シーボルト事件が起こると長崎を離れ、肥後、日田、尾道、京都などを訪ねています。
 そして、天保元年(1830)江戸に戻り、麹町(こうじまち)貝坂で、医者を開業し、蘭学塾「大觀堂学塾」を開き、診療や門人育成を行ないました。

 【麹町貝坂大觀堂学塾】 
c0187004_17292589.jpg 麹町貝坂は、東京メトロ麹町駅1番出口から2分の距離にあります。
 しかし、私は、山田浅右衛門屋敷跡から向かいました。浅右衛門屋敷跡からも約2分です。
 貝坂は甲州街道(新宿通り)からは南に下る坂になります。
 貝坂の上にある千代田区の説明板には、
 「『江戸名所図会』には「この地は昔より甲州街道にして、その路傍にありし一里塚を土人・甲斐坂と呼びならわせしとなり。或る説に貝塚法印というが墓なりともいいてさだかならず」と書かれていますが、貝塚があったというのが定説となっています。」 と書かれています。

c0187004_17295871.jpg この説明板の向かい側の建物の壁に、 「麹町貝坂 高野長英 大觀堂学塾跡」 と彫られた石製のプレートが埋め込まれたような形で取り付けられています。
写真の左側の白い建物に黒いプレートの説明板が埋め込まれているのがわかりますか。
c0187004_17302931.jpg 

 

 現在は、貝坂通りという名前がついています。この標識は、平河町の交差点に建てられていたものです。
 平河町の交差点から北に向かう通りが貝坂通りです。


 最上段の高野長英の肖像画写真は、岩手県奥州市にある高野長英記念館が所蔵している「高野長英画像」です。
 渡辺崋山の弟子で、文人画で有名な椿椿山(つばきちんざん)が描いたもので、重要文化財となっています。
 この写真は、高野長英記念館の使用許可をいただき掲載しています。
 掲載の許可取得にあたっては、担当の I さんに大変お世話になりました。ありがとうございました

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by wheatbaku | 2009-10-15 06:09 | 江戸の史跡 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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