カテゴリ:三十六見附( 71 )
「世に棲む日日」を読む
  江戸検が11月2日に終了し、毎日文化センターの「気ままに江戸散歩」も11月第四土曜日の新宿御苑散歩を最後に、今年の散歩は終了しました。
 12月は、今週土曜日の「江戸検受検者交流の集い」はありますが、その他の大きなイベントがないので、今は、時代小説を中心に読みながらのんびりと「江戸」を楽しんでいます。
 現在、主に読んでいるのは、「吉田松陰」が関係する時代小説です。

 来年のNHKの大河ドラマ「花燃ゆ」は、吉田松陰の妹の「文(ふみ)」が主人公です。
 そして、来年の前半の「気ままに江戸散歩」は、「吉田松陰ゆかりの地を歩く」というテーマで、江戸を散歩します。
 そうしたこともあって、現在は吉田松陰関連の小説を読んでいるわけです

 吉田松陰について書いた本として、最も有名なものは、司馬遼太郎の「世に棲(す)む日日」でしょう。
 この本は、ずっと以前に読みました。
 前編部分は吉田松陰を中心に描かれていて、後編部分は高杉晋作を中心に描かれています。
c0187004_9212731.jpg
 司馬遼太郎は、冒頭部分で次のようにいっています。
 長州藩が、幕末の最大の革命勢力となり、ついに幕府をたおし、新しい時代をまねきよせる主導勢力となったのは、吉田松陰が、長州藩を変えたからである。
しかし、吉田松陰は、藩の行政者でもなく、藩主の相談役でもなく、ないどころから、松下村塾の当時の吉田  松陰は、27・8歳の書生に過ぎず、しかも藩の罪人であり、実家に禁固されており、外出の自由すらなかった。
 こういう若者が地上に存在したということ自体が奇跡に類する不思議さというよりほかない。
 その不思議な若者の不思議さを、筆者はこの小説で考えてゆこうとするのだが、主人公はあるいはこの寅次郎だけではすまないかもしれない。むしろ彼が愛した高杉晋作という九つ下の若者が主人公であるほうが望ましいかもしれず、その気持ちがいまは筆者のなかで日ごとに濃厚になっており、いまとなってはその気持ちのまま書く。

 こうしたことから司馬遼太郎は、「世に棲む日日」の主人公を吉田松陰と高杉晋作としているようです。
 吉田松陰と高杉晋作について書いた小説として、「世に棲む日日」は大変おもしろい小説でしたが、私個人にとっては、特に印象深い小説でもあります。

 江戸文化歴史検定の一級試験が行われたのは、2007年に実施された第2回江戸文化歴史検定でした。
 その一級の問題に次のような問題がありました。

 慶応3年4月14日、29歳で下関に没した幕末の志士、高杉晋作の辞世の句は次のうちどれでしょうか?
 (い)身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも、どどめ置かまし 大和魂
 (ろ)おもしろき こともないき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり
 (は)世の人は われをなにとも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞ知る
 (に)君が為め 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄みわたる空

 この答えは、おわかりになりますか?
 高杉晋作の辞世の句(短歌)は、
  おもしろき こともないき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり
 です。

 私は、この問題の正解は、すぐにわかりました。
 というのは、「世に棲む日日」を読んでいて、その最終場面が、ちょうど高杉晋作の臨終場面で、そこに辞世の句を読む場面がでてきますが、そのことをよく覚えていたので、答えがすぐにわかったのです。
 こうしたことから、「世に棲む日日」は、私にとって非常に記憶に残る小説の一つとなっています。
 私が読んだのは、単行本でしたが、現在は文庫のみ出版されているようです。
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by wheatbaku | 2014-12-08 13:31 | 三十六見附 | Trackback
中雀門 (三十六見附)
 今日は、本丸御殿登城の際に最後の門になる 「中雀門」 について書きます。

 中の門を入り大番所前を左に折れて進むと、坂道になります。
 その坂道をまっすぐ進むと正面に大形の石材で積まれた石垣に突き当たりますので、また右折します。
 この右折したところに中雀門がありました。

【中雀門も右折枡形門】 
中雀門は、本丸御殿への最後の門で、玄関門とも御書院門とも呼ばれました。
c0187004_11365354.jpg 中雀門は、右折枡形門で、中の門から坂を登ってくると、石垣に突き当たり右折する所に、高麗門がありました。今はアサファルト舗装されていますが、江戸時代は高麗門の前後は石段でした。そして、高麗門を入り石段上の枡形平地をまた右折すると正面に渡櫓門があります。渡櫓門も石段を登って通過したようです。
 中雀門を抜けると、現在は広々とした広場となっていますが、かつてはここに広大な本丸御殿が広がっていて、目の前に、本丸御殿の玄関があり、左手には高貴な人だけが通行を許される堀重門がありました。


【中雀門の名前は四神思想から】 
c0187004_2119694.jpg 中雀門の名前は、四神思想に基づき、御殿の南にあるので、南の守護神である朱雀から名づけれられたとも言われています。
 ちなみに、本丸の東には東の守護神青竜にちなむ竜の口、西には西の守護神白虎にちなむ虎ノ門があります。
 この門の警護は、御書院番が担当し、与力10騎、同心20人で警護しました。
 渡櫓門を通過した右手には御書院与力番所がありました。


c0187004_922798.jpg【火災のすさまじさが残る石垣】 
 中雀門は、文久3年(1863)11月の火災で本丸御殿が焼けた時に類焼したため、上の写真のように石垣の表面は、熱によりボロボロになっています。
 この石垣により、本丸御殿全焼の火災が非常に激しかったことがよくわかります。
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by wheatbaku | 2010-09-06 08:59 | 三十六見附 | Trackback
中の門 (三十六見附)
 今日は、百人蕃所の前にある「中の門」 です。
  「中の門」は、本丸への正門になります。別名「二の門」とも呼ばれました。

【巨石を積み上げた最大級の石垣】 
c0187004_841356.jpg 「中の 門」の両側の石垣は巨石をそろえたもので威圧感があります。
 白い花崗岩は瀬戸内海産の石であり、黒い石は東伊豆産の安山岩だそうです。
 平成17年から20年に行われた石垣の修復の際に、「宝永元年甲申四月 因幡伯耆両国主 松平右衛門督吉明築之」と刻まれた石が見つかったことから、宝永元年に因州鳥取藩3代藩主池田吉明(のち吉泰)が築造したものと考えられています。

【御三家もここで駕籠から降りた】 
 この写真は「中の門」の内側から東側を撮ったものです。正面に見えるのが百人蕃所です。
c0187004_2141380.jpg 「大手三の門」を駕籠に乗って通ることのできた御三家も、「中の門」の外で駕籠を降りなければなりませんでした。
 ここからは、すべての大名・旗本が徒歩で本丸に登城しました。
 登城する際に連れていく供侍も、御三家を含めた四品・10万石以上の大名と国持大名の嫡子は4人、1万石から10万石の大名は3人になりました。

 ここで減らされた供は、百人番所の西側に隣接していた「供侍」という長屋で本丸から下城してくる大名・旗本を待ちました。 

【門柱の穴が残る】 
c0187004_207770.jpg 「中の門」は、枡形ではなく、渡櫓門があるのみでした。
 石垣と石垣の間には、江戸時代のままの石畳である「磚(せん)」が敷かれており、両脇には4つの門柱の穴が開いています。
 左の写真では、奥が石垣で、手前の少し黒い四角い石が敷かれている部分が石畳になります。
 両方の境目に丸い穴があるのがわかりますか? 丸い穴が門柱の穴です。


【門の警備は持組が担当】 
 「中の門」の警護は、持弓組と持筒組の与力・同心が担当し、鉄砲25丁、弓25張が常備されていました。
c0187004_21425610.jpg  持弓組と持筒組は、将軍の弓や鉄砲を管理し持参する部隊で、持筒組と持弓組を総称して持組と呼ばれました。
 元和9年(11623)に設置され、寛永9年(1632)には持筒組4組、持弓組3組となりました。
 持組1組には与力10騎、同心50人が属していました。

 「中の門」の内側には大番所があり、説明板には、「他の番所より高い位の与力・同心によって警護されていました」と書かれていますがよく意味がわかりません。
 「徳川幕府辞典」によれば、持組の与力は現米80石高で百人組も全く同じ、持組の同心は30俵3人扶持で百人組は30俵2人扶持でほぼ同じです。
 持組の与力・同心のほうが位が高いようには思えませんが、別の事情があるのでしょうか?
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by wheatbaku | 2010-09-03 06:05 | 三十六見附 | Trackback
百人番所と百人組 (大手三の門② 三十六見附)
 大手中の門の枡形を通り過ぎると左手に 百人番所 と呼ばれる建物が見えます。
 これが大手三の門の警備を担当していた鉄砲百人組の番所です。
 今日は、この鉄砲百人組について書いていきます。

【百人番所は三の門を警備】 
 大手三の門の警備は鉄砲百人組が受け持っていました。
c0187004_20445182.jpg 百人番所は長さ約50メートルの大きな建物です。ここに、甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の4組の鉄砲百人組が昼夜交替で詰めていました。
 各組には各20騎の与力と100人の同心が配置されてました。
 百人蕃所は「中の門」の目の前にあるので、「中の門」の警備のためにあるように見えますが、「中の門」の警備は持弓組と持筒組が担当していました。

 鉄砲百人組は、二十五騎組、伊賀組、根来組、甲賀組の四組からなり、二十五騎組の与力が25騎で、他の三組は 与力が20騎で、鉄砲同心は各組に百人ずつ配属されました。
 そのため、百人組と呼ばれました。
 その人員も編成当初は組名の通り、伊賀・甲賀・根来衆といった鉄砲の扱いに優れた者を召抱えました。
 鉄砲百人組は平時は主に江戸城大手三の門に詰めていましたが、将軍が寛永寺や増上寺に参拝する際は山門前を警備しました。

【百人組は甲州街道沿いに配備】 
 この鉄砲百人組の組屋敷は、それぞれ伊賀組は大久保に、甲賀組は青山、根来組は市谷、二十五騎組は内藤新宿にありました。このように鉄砲百人組の組屋敷は、すべて甲州街道沿いにありました。
c0187004_20411229.jpg 切絵図を見ると、「千駄ヶ谷・鮫ヶ橋・四谷」の切絵図の中に「百人組 俗に二十五キト云」、「市谷・牛込」の切絵図の中に「根来百人組」、「東都青山」の中に「百人町ト云」、「牛込市谷大久保」の中に「百人組」と書かれています。
 そうしたことから、かつては百人組に由来を持つ青山百人町(青山)、根来百人町(市ヶ谷)、百人町(大久保)の地名がありました。
 その中で、大久保の百人町は現在も新宿区で百人町として地名が残っています。
 その名残りで現在も新宿区を中心に「江戸幕府 鉄砲組百人隊」が活動しています。
 そのHPによれば、今年は次の日程で演武がおこなわれるようです。
   『“大新宿まつり”  ふれあいフェスタ2010 出陣!』
    日時: 平成22年10月17日(日) 午前10時開会
    場所: 都立戸山公園 (東京メトロ副都心線「西早稲田駅」下車6分)
 お出かけになってはどうでしょうか!

【百人組は内職でも有名】  
c0187004_20414017.jpg 大久保の百人町は、江戸時代にはつつじで有名でした。
 これは鉄砲百人組が、元来この地に自生していた「つつじ」を宝暦年間(1751~64)から、内職として栽培を始めたそうです。
 大久保以外の百人町でも、内職が盛んに行われました。
 青山百人町の傘と春慶塗と傘張り、根来百人町の提灯張りが有名です。
 また、鉄砲百人組ではありませんが、御家人の内職として有名なものに下谷御徒町の朝顔栽培があります。
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by wheatbaku | 2010-09-01 20:54 | 三十六見附 | Trackback
大手三の門 (三十六見附)
 大手門を入り、渡櫓門を抜けて左に曲がると正面に 「大手三の門」 があります。
 今日は、この「大手三の門」のご案内です。

 大手三の門は三の丸から二の丸に入る正門で、寛永6年に酒井忠世など8名の大名により築かれました。

【ここで下乗したので別名下乗門】 
 大手三の門も枡形門で、門前は、江戸時代には、二の丸と三の丸を別ける濠がありました。
 その濠が大正8年に埋め立てられたため、現在は濠も橋もなくなっています。c0187004_202917.jpg 江戸時代には、その濠に架かった橋の外側には「下乗」と書かれた札がありました。
 ここで、大手門の「下馬」でも駕籠を降りる必要のなかった「乗輿」以上の格の大名・旗本も、御三家と日光門主など以外は、全員、駕籠をおりなければなりませんでした。
 このため、大手三の門は、別名下乗門とも呼ばれます。
 また、大名とともに城内に入れる供連れの人数もさらに減らされました。
 御三家は10人、四品・10万石以上の大名や国持大名の嫡子で5人、1万石から10万石の大名は4人になってしまいました。
 
【三の門の由来(私見)】 
 なぜ三の門と呼ばれるのか明確に書かれたものがありません。
 あえて推測で言えば、本丸御殿の前の「中雀門」が一の門、次の「中の門」が二の門、そして、その次にあるので、三の門と呼ばれたのではないかということも考えられます。

【同心蕃所】 
c0187004_20293338.jpg 枡形の中には同心番所があります。
 これは元々は門外の濠の外にあったようです。
 説明板には
「番所は、警備の詰所のこと 百人番所、大番所、同心番所の3つが残っている。同心番所には同心が詰め、おもに登城する大名の供の監視に当たっていた。」
と書かれています。
 三の門の警護は、鉄砲組が担当していましたので、この同心番所の同心が監視していたのは、大名や旗本が登城した後に残されたお供の人たちのようです。


【供はどこで待っていたのか】 
 ところで、下乗門で入場を制限された供連れはお殿様が下城してくるまでどこで待っていたのでしょうか。
 最後の殿さまと呼ばれた浅野長勲の話では、「供の者は登城している間、下乗門の外で待っているので、随分難儀なものです」と言っているので、下乗門の外で待っていたようです。
 一方、小川恭一氏の「江戸城のトイレ、将軍のおまる」によると「残された従者は大手橋前の広場で乗物とともに待ちます」と書かれています。これによると供も駕籠も大手門外で待っていたことになります。
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by wheatbaku | 2010-08-31 23:46 | 三十六見附 | Trackback
下馬(げば) (大手門② 三十六見附)
 大手門の門前には、江戸時代には 「下馬(げば)」 という札が立てれていました。
 今日はその「下馬」についてのお話です。

【大手門は大下馬と呼ばれた】
 大名や旗本が江戸城へ登城する時には、本丸に登城する場合には大手門、内桜田門、西の丸に登城するには西の丸大手門を利用しました。
c0187004_22333377.jpg これらの門前は「下馬」と呼ばれ、特に大手門前は「大下馬」と呼ばれました。
 右の写真は現在の大手門交差点すなわち「大下馬」の様子です。遠くに大手門が見えます。
 大手門の前の橋の外側に「下馬」と書かれた立て札が立てられていました。
 これは文字通り、ここで馬を下りることを意味していました。ここから先は、大名や役高500石以上の役人・高家・交代寄合など「乗輿(じょうよ)以上」の格をもつ者以外は、馬や駕籠から降りなければなりませんでした。
 下馬から先に連れていける共連れの人数は、三家や四品・10万石以上の大名や国持大名の嫡子は13人、1万石から10万石の大名は10人~11人に制限されました。
 「下馬」という文字は足利将軍以来の伝統筆法で記されたもので、はじめは曾我尚佑が任じられました。そして、これの伝法には時の将軍の認可が必要だったそうです。

【下馬評の由来】
  通常の時は大手門、内桜田門、西の丸大手門が下馬でしたが、登城人数が多くなる式日には、大手門より外側の鍛冶橋、呉服橋、常磐橋が下馬となります。
 (なお、和田倉門、馬場先門、外桜田門が人数が多い日は下馬となると書いてある本〔田村栄太郎著「江戸城」など〕もあります。)
 多くの大名は、下馬までは多数の家臣と共に登城しますが、家臣の多くは下馬先で待たざるをえませんでした。
c0187004_1763659.jpg  ここで、家臣たちは、大名が下乗してくるまでの時間を幕府内での出世話や人の評判・噂話をしてつぶすことが多くなりました。
 このことから「第三者が興味本位にする噂や評判」を意味する『下馬評』という言葉が生まれました。

 大手門前には、大名が下城するのを待つ人や大名の登城風景の見物客が大勢集まっているので、自然と彼らを相手にした商売が行われたとも言います。いなり寿司やそばや甘酒などの飲食物をうる屋台が多く出たという話もあります。

【大手門の警備は最高に厳重】
 大手門の警固は、十万石以上の譜代大名が受け持ち、江戸城にある城門のうちで最高位にありました。
c0187004_177315.jpg 『徳川盛世録巻之二』によると、鉄砲30丁、弓10張、持弓2組、持筒2丁、長柄槍20筋が常備されていました。
 そして大手門は将軍の出入りする門でしたので次のように警備方法も厳重でした。
「御規式御成ノ節ハ其番所の詰番大名衣服 熨斗目半袴着、通御ノ節不残人払当主面番所中程土間へ、盛砂致シ左ノ場所ヘ平伏、枡形ニ家老壱人、御門扉際ニ留守居役壱人蹲踞罷有候事」
 大手門の開閉時間は、享保6年(1721)の定めによると「卯の刻(午前6時ころ)から酉の刻(午後6時ころ)まで」と決められていました。
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by wheatbaku | 2010-08-30 22:27 | 三十六見附 | Trackback
大手門 (「三十六見附」)
 今日から、また、「三十六見附」を始めたいと思います。
 今日からは大手門から江戸城に入って、天守台まで紹介していきたいと思います。
 まず今日は 「大手門」  です。
 
 大手門は、大手町交差点から土橋をわたったところにあります。
 JR東京駅の丸の内北口から歩いて10分です。

【大手門は江戸城正門】
 大手門は江戸城の正門になります。大名や旗本が本丸に登城する際には、主に大手門と内桜田門から登城しました。
c0187004_22193027.jpg  かつて門前には大手門橋がかけられていましたが、大正年間に埋め立てられて、現在は土橋となっています。
 「慶長図」という慶長年間の古地図には大橋と書かれていて、また「寛永図」には元大橋口とあるそうで当初から正門だったと思われます。
 大手門は慶長年間に藤堂高虎が縄張りし、その後元和年間に築いたのは伊達政宗で延べ42万3千人余の人力と大判2千600枚あまりの黄金を費やして築いたといわれています。
 この伊達政宗が築いた大手門は明暦3年(1657)の明暦の大火で焼失したので、万治2年(1659)に再建されました。
 
【大手門は外桝形門】
 第一の門は高麗門です。これを入ると、四角に囲われた桝形と呼ばれる広場があり、右奥に重厚な渡櫓門がある右折枡形門です。
c0187004_22201478.jpg 桝形とは、広場が正方形で枡の形をしているからそう呼ばれると言います。
 また、城から討って出る軍勢の数をこの広場を利用して、枡でもの計るように計算することができるので桝形と呼ばれるようになったという説もあります。
 桝形には、城の内側に構えた内桝形と外側に構えた外桝形があり、大手門は外枡形です。
 右の写真は大手門をパレスホテル方向から撮ったものですが、大手門の部分が出張っている形になっています。

【鯱は明暦3年の作】
c0187004_22204289.jpg 枡形の中には、鯱が置いてあります。
 この鯱は、渡櫓門の屋根に飾られていたもので、「明暦三丁酉」と刻まれていますので、明暦3年(16577)に起きた明暦の大火の後に渡櫓門が再建された時に製作されたものと推定されています。
  渡櫓門は、関東大震災で倒壊し、戦災で焼失しましたが、昭和43年に再建されました。
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by wheatbaku | 2010-08-29 22:50 | 三十六見附 | Trackback
北桔橋門 (「三十六見附」)
 平川門の北側の見附は、「竹橋門」ですが、こちらは、すでにご案内してありますので、今日は、竹橋の隣の 「北桔橋門(きたはねばしもん)」 を紹介します。

【橋をはねあげていたので桔橋門】 
c0187004_10115826.jpg 北桔橋門の辺りは、大田道灌時代、城の大手であったという話もあります。
 江戸時代、北桔橋門は本丸から外部に直接通じる門であったため、橋を桔(は)ねあげて遮断していました。
 そのため、「桔橋門」の名前があります。
 また、同様な「桔橋門」が本丸と吹上方面をつなぐ場所にあり西桔橋門と呼ばれています。
 こちらは、本丸の北側にあるため、「北桔橋門」と呼ばれます。
 かつては、渡櫓門もある枡形門でしたが、現在は高麗門だけとなっています。

【雄大な石垣】 
北桔橋門付近は本丸のすぐ近くにあるため、防備を厳重にしました。
 そこで、石垣を高くし、濠も広く深くしてあります。江戸城のなかで最も堅固で雄大な箇所となっています。
 そのため、この付近の石垣は見ごたえがあります。
c0187004_10121766.jpg 上写真は、平川濠側の石垣。
 下の写真は乾濠側の石垣です。
 それぞれ、北桔橋門の前から撮っています。 
 西側の乾濠側の水位は高く、東側の平川濠の水位は非常に低くなっています。
 また、東側の平川濠に面する石垣は水面から役21メートルもあり、日本の高石垣では五指に入る高さだそうです。
c0187004_10125219.jpg 
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by wheatbaku | 2010-07-30 06:16 | 三十六見附 | Trackback
平川門 (「三十六見附」)
 今日は、大手門を飛ばして平川門にいきたいと思います。

【別名は「お局門」または「不浄門」】 
 平川門は三の丸の正門になります。
 平川門は、太田道灌のころからここに門が作られていて、当時、門の前には上平川村や下平川村などがあったためその名まえがあります。
c0187004_1730168.jpg 平川門は、奥女中の通用門でもあったため、「お局(つぼね)門」とも呼ばれました。
 奥女中との関係で有名なお話は、春日局が門限に遅れ入門することができなかった話です。
 このときの門番は小栗又一郎という旗本でした。春日局は実力者、その春日局を締め出したのですからお叱りを覚悟したと思いますが、逆に役目を守ったとしてお褒めにあずかり500石の加増を受けたそうです。
 この人は、幕末の動乱期に、勘定奉行等を歴任しその後官軍によって斬罪となった小栗上野介の先祖に当たる人物です。

【木橋は江戸城に二つ】 
c0187004_1723531.jpg また、平川門は不浄門といわれ、元禄14年 (1701)の松の廊下で刃傷事件をおこした浅野内匠頭や正徳 4 年(1714)に大奥女中の絵島が送り出された歴史もあります。
 門前の橋は木橋となっていて平川橋と呼ばれています。江戸城の木橋としては、現在は、平川橋と和田倉橋だけとなっています。
 木橋には擬宝珠(ぎぼし)があり、江戸のおもかげを残してくれています。


c0187004_8362560.jpg【帯曲輪門】 
  ここは大手門・北桔橋門(きたはねばしもん)とともに皇居東御苑の出入口になっていますので、橋を渡って門を入ることもできます。
 橋を渡ると右手に高麗門があります。高麗門を入ると、枡形になっていて左に渡櫓門がある左折枡形門となっています。
 その渡櫓の右端に帯曲輪門(おびくるわもん)という小さな門があります。
 近づけないので詳しいこともわかりませんが、帯曲輪につながっているとのことです。

c0187004_17242379.jpg【帯曲輪】  
 帯曲輪はここから平川濠を細長く渡り廊下のように竹橋まで続いています。
 ここが本丸に近く、最も防備を要する地点であるため、二重三重に堀をめぐらせたものといわれています。
 雉子橋門にはすぐ竹橋門を配置し、一ツ橋には平川門を配し、わずかな距離に二重に堀をめぐらし、さらに帯曲輪で堀を三重にしています。
 このようにな至近距離に三重に堀をめぐらしているのはここだけです。
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by wheatbaku | 2010-07-29 06:19 | 三十六見附 | Trackback
内桜田門 (「三十六見附」)
今日は、坂下門の東にある内桜田門について書いてみます。

 内桜田門は、桜田郷にあり、外桜田門に対して内桜田門と称しています。

【たくさんの呼び名のある内桜田門】 
 c0187004_1625177.jpg内桜田門は桜田大手門とも言います。大手門の名のつくのは、「大手門」「西の丸大手門」「桜田大手門」の三つがあります。
 この三つの門は、御三番所といい、門番の頭を番頭と書いて、他の門番の頭は伴頭と書いたそうです。やはり格が違っていたのでしょう。
 その他、たくさんの名前をもっています。太田道潅が築城した頃、海水がこの門まで打ち寄せていたので「泊船門」と呼ばれたり、門の瓦に太田家の桔梗の門をつけたので「桔梗門」と呼ばれたり、桔梗ではなく「吉慶門」だとか、「吉祥寺の旧地だから「吉祥門」だとかいろいろな呼び名があります。
内桜田門は、三の丸と西の丸下を結ぶ門で慶長6・7年ごろは枡形はなかったようですが、慶長12・3年の図では枡形になっているそうです。
 土橋の正面には高麗門があり、それを入って右の渡櫓門からなる枡形形式となっています。ここも関東大震災で大破しましたが復元されました。
 この門も警備が厳重で通常は入門できませんが、新年と天皇誕生日の一般参賀の退出門です。そして、皇居参観の時の集合場所で、ここで受付が終わると、内桜田門から入城するようです。

【桜田巽櫓】 
c0187004_16253169.jpg 桔梗濠の東南隅にたっている櫓は、桜田巽櫓と言います。
 巽櫓というのは、本丸の東南すなわち辰巳の方向にあるからつけられた名前です。
 また、二重櫓ですので、桜田二重櫓とも呼ばれています。 二重櫓としては日本で最大級のものです。
 三の丸には、櫓は、この櫓しかなったそうです。たった一つの櫓が現在まで残っているのですから貴重だと思います。
 江戸城には19の二重櫓・三重櫓があったそうですが、現在は三つしか残っていません。つまりこの桜田巽櫓と伏見櫓そして富士見櫓です。
 
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by wheatbaku | 2010-07-28 05:26 | 三十六見附 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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